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小説 『牛氏』 第一部
34:左平(仮名) 2003/04/13(日) 20:09 十七、 出立の日が来た。 真新しい戎衣(軍服)に身を包んだ牛輔の姿は、多少のぎこちなさを残してはいたものの、それなりに凛々しいものであった。 「あなた、行ってらっしゃい」 「あぁ。行って来るよ」 ちょっとどこかに外出するかの様な、何の変哲もないやりとりである。聞いただけでは、これから戦場に赴くとは思えない。 (何としても、生きて帰るぞ。子供の顔を見るまでは死ねない。これが永久の別れになってたまるか) いよいよ、戦いである。「今回の戦の相手は、羌族である。さして大規模なものではない」義父からはそう聞いてはいるものの、何が起こるか分からないのが戦場である。油断はならない。 「うむ。思っていたよりは似合うな」 董卓は、娘婿の姿をそう評した。今回は、さして難しい戦ではない。そんな思いが、こういう軽口になって出てくる。 (とにかく、伯扶に実戦を経験させておかんとな。あれには、いずれ、勝【董卓の嫡子。実際の名は不明】も補佐してもらう事になるのだからな) 今は、牛輔(及び牛氏の保有する兵力)を戦力としては見ていない。だが、羌族との戦はこれからも続く。次の世代を担う者を育てねばならぬのである。 もっとも、董卓がそこまで考えている事などは、牛輔には分かろうはずもない。 「義父上。『思っていたよりは』とはどういう事ですか」 つい、そんな不満が漏れる。 「いや、すまんすまん。細身のそなたの事だから、『衣に勝(た)えざるが如く』見えるのではないかと思ってしまってな。許せよ」 「私とて、少しは鍛えております。お気遣いは無用ですぞ」 「そうか。どうやら、揃った様だな。では、出発するぞ!」 「お−っ!!」 兵達から、喚声があがる。士気は、十分だ。 二人は、馬首を揃えて進んだ。戦場に着くまでは、強いて語る事もない。皆、無駄口をたたく事もなく、無言のまま行軍する。 戎衣を身にまとい、愛馬・赤兎馬にまたがった董卓には、何ともいえない威厳が漂っている。 (果たして、私は義父上の様になれるだろうか) 年齢・経験はともかく、体格・武勇、どれ一つとっても自分は義父には遠く及ばない。その冷厳な現実を、あらためて見せ付けられるのは辛い。 (いや、今は、眼前の戦いに集中する事だ) さまざまな思いが頭をよぎるが、牛輔もまた、無言のまま進む。 戦場が近付きつつある。董卓は、数騎を偵察に放つ事にした。 偵察に向かう者達が董卓の前に呼ばれた。彼らを見ると、実にさまざまである。 精悍な面構えをした、いかにも強そうな者もいれば、ひょろりとして、自分よりも弱そうな者もいる。騎馬の者もいれば、徒歩の者もいる。経験を積んだ老兵もいれば、若い新兵もいる。 「義父…、いえ、郎中殿」 牛輔は、「義父上」と言いかけて、慌てて言い直した。これから、戦である。私情を挟むのは禁物だ。 「これは一体…?」 「どうした?敵の様子を探るのは、戦いにおいては必須であろう?」 「いえ、偵察する事については全く異存はございませんが…。なぜこの様な者達を集められたのですか?」
35:左平(仮名) 2003/04/13(日) 20:12 「こいつらは、目が良い。それに、一人で戦うほど無謀ではないし、逃げ出すほどの腰抜けではない。それではいかんか?」 「いえ、そうではなくて…。彼らは、体格といい、経験といい、てんでばらばらではございませんか。それでは、報告にぶれが生じるのではありませんか?」 「ふむ。そなたの言う事にも、一理ある。だが、わしにはわしの理がある」 「そうですね。よろしかったら、教えて下さいませんか?」 「そうだな。後学の為にも、話しておこうか」 「そなた、『孫子』は読んだ事があるか?」 「はい。まだ、十分に理解したとまでは言えませんが…」 「まずは、読んでおれば良い。読んでおるのならば、『彼を知り己を知らば百戦して殆うからず』という言葉は知っておろう?」 「はい。存じております。ですが、その言葉がいかがしたのですか?」 「人とは、不思議なものよ」 董卓は、静かにそう言った。そう言う彼の姿は、普段の豪放な姿とはまた違うものがある。 (義父上に、この様な一面があるのか…) 武勇の人・董卓にこの様な思慮深さがあるとは、正直、意外であった。だが、郎中ともなれば、それ相当の修練を積んでいるもの。別段、不思議な事ではない。 「他人の事については、凡人でもそれなりに批評できるというもの。近頃、汝南の方にそういう輩がいるらしいな。確か、許子将(許劭。子将は字)とかいったか。まだ、ほんの若造だというのにな。…だが、こと自分の事になると、なかなかそうもいかぬ」 「確かに」 「たとえば、こいつをどう見る?」 そう言って董卓が指差したのは、精悍な面構えをした青年である。 「私には、逞しい男だと思われますが…」 「そなたにはそう見えるか。だが、わしには、まだまだひよっ子に見える」 「それはそうでしょう。郎中殿より逞しい男は、そうはおりませぬから」 お世辞ではない。事実、董卓の体格・膂力は、誰から見ても並外れたものであった。 「そこなのだ。同じものを見ても、見る者によってこうも違ってくる。…事実というものは、確かに一つしかない。しかし、一人が見たものは、あくまでも『その者が見た事実』に過ぎぬのだ。…何を言いたいか、分かるか?」 「はい。まだおぼろげにですが、郎中殿のおっしゃる事が分かってきました。様々な視点から物事を見る事で、『本当の』事実に近付こうというわけですね」 「そうだ。わしがこいつらを偵察に遣るのは、そういう意図からだ」 「そして、彼らの知らせを、将たる郎中殿が分析し、判断なさると」 「そういう事だ。もちろん、わしが的確な判断を下せるという前提があってこそなのだがな」 「そうですね」 「恐らく、ここ涼州までは来ぬであろうが…鮮卑にも注意せねばな。我らの兵力では、檀石槐には勝てぬ。まぁ、わしにとって怖いのはそれくらいだ。だが、気をつけぬとな。そなたに万一の事があったりすれば、姜に怒られてしまう」 「それは…」 こんなところで妻の名を出されるとは。何とも気恥ずかしい。 「では、行けっ!」 「はっ!」 董卓の号令のもと、数名が偵察に放たれた。
36:左平(仮名) 2003/04/20(日) 20:27 十八、 部隊は、戦いの地に近付きつつあった。既に、吹く風は冷たくなりつつある。冬が近いのである。 果てしなく広がる平原にあるのは、ただ、僅かな灌木と枯草ばかり。いかにも、荒涼とした風景である。 (なにゆえ、羌族の叛乱は止まぬのか) よくは分からないが、この風景に、その答えがある様に思われる。 董卓のもとに、鮮卑についての知らせが届いた。今のところ、これといった動きはないらしいので、直ちに涼州が脅威にさらされるという事はない。あとは、やがて眼前に見えるであろう、羌族のみである。 やがて、偵察に出ていた者達が帰ってきた。 「千は越えているかと思われます。なにぶん遠くからでしたのでよくは分かりませんが…。砂埃の立ちようからして、そう考えられます」 「いや、せいぜい五、六百といったところです。私は、確かにこの目で敵兵を見ました。間違いございません」 「多くは騎兵でした。かなりの精鋭かと思われます」 「将らしき者は見当たりませんでした。個々の敵は精鋭でも、まとまりは悪いはずです」 「この先には、なだらかな丘がある程度です」 予想通り、彼らの報告は、実に多種多様なものであった。一部、相反するものもある。 「ふむ。そうなると…」 董卓は、顔を上げ、天を仰いだ。天を見つめながら、彼は、報告を分析し、然るべき判断を下すのである。 しばらくその状態が続き、しばし目を閉じた後、かっと目を見開き、大声で叫んだ。 「皆の者! 戦いはすぐそこだぞ!」 兵達に、一斉に緊張が走る。董卓の脇にいた牛輔も、思わず体がびくっとした。 「敵はこの先数里! 数は数百!」 「隊列を整えよ! 小高い丘を目印に進め! 長兵、最前列へ! 弩兵はその後ろにつけ! 騎兵は後列につくのだ!」 ひとたび動き始めたかと思うと、次々と指示が下される。兵達の動きが、慌しくなった。だが、その動きに目立った乱れは見られない。皆、将の指示に従い的確に動いているのである。 その動作の見事さに、牛輔はしばしみとれていた。将たる者は、かくありたいものである。 やがて、小高い丘が見えた。ここを少し過ぎ、丘を背にする形で布陣を進めていく。陣形が整う頃、徐々にではあるが、敵の姿が見え始めた。 ほぼ、報告のとおりである。その数、数百といったところであろうか。こちらは千数百というところであるから、数の上では優勢である。その一方で、個々の武勇という点では羌族の方が上回るであろうから、あとは、戦い方次第である。 幸い、こちらの方が位置的には高みを占めている。突撃するにせよ、陣を構築するにせよ、見上げて戦うよりも見下ろして戦う方が何かとやり易いし、力学的にも有利である(例えばボ−ルを投げ下ろすのと投げ上げるのと、どちらがより速いだろうか?) 平原に、双方が対峙する形となった。双方の距離が百歩(一歩=約1,4m)余りまで詰まったその時、喚声とともに、羌族の騎兵が一斉に突撃を開始した。
37:左平(仮名) 2003/04/20(日) 20:30 乾燥したこの地では、少し動いただけでも砂埃が上がる。彼らの突撃を見ていると、なるほど、数百の敵が千以上に見えたのもうなづける。馬術ひとつとっても、遊牧の民である彼らの方が上である。 「長兵! 構え−っ! 弩兵! 矢をつがえよ!」 董卓の号令のもと、各々の兵士が動く。ほどなく、両者が激突した。 前列に並んだ長兵が、突進する敵に向かって一斉に戈を振り下ろした。単純な攻撃ではあるが、首筋に刃が突き刺されば直ちに致命傷となるし、これだけの重量物が頭に直撃したなら、死にはしなくても気絶する。これによって少なからぬ敵が打ち倒された。だが、多くはそれをかいくぐり、兵を蹴散らしていく。 騎兵と歩兵とでは、明らかに歩兵の方が分が悪い。騎兵の方が速いし、何より、練度が違うからである。 当時、鐙はまだ発明されていない。その為、馬を使う騎兵は、必ずそれ相当の訓練を積んでいる。それに対し、歩兵は、一般から集められた戦の素人である。こちらの歩兵が一度戈を振り下ろす間に、敵の騎兵は突撃をかけ何回も戟を振り回せるのである。 「郎中殿!このままでは!」 実戦は初めての牛輔にも、緊迫しているのが分かる。 「分かっておる! 撃て−っ!!」 直ちに、弩から次々に矢が放たれた。それは、単に敵を倒すだけではない。雨あられの様に矢を射掛ける事で敵と長兵との距離を開け、長兵による再度の攻撃を容易にするのである。敵の突進によって一度は乱れた長兵が、これにより、やや落ち着きを取り戻した。 一方で、長兵が最前列に立つ事で、弩兵が矢をつがえる為の時間を稼ぐ。長兵に多少の犠牲を強いるとはいえ、実に理に叶った配置といえる。 (さすがは義父上。これならば、勝利は確実だ…) 少し余裕を覚えた牛輔は、ふとある事に気付いた。風が、こちらから敵方に向かって吹いているのである。 (これは! あたりは平原だし、火をかければ…) 楽勝であろう。それに、こちらの犠牲者も少なくてすむはずである。 「郎中殿! 火を用いましょう! 今なら風向きもよろしいかと!」 「火か…。ならぬ!」 「えっ!? なぜでございますか?」 さっきの話しぶりからして、董卓は十分に兵法を心得ている。今こそ、火計を仕掛けるのに絶好の機会のはずである。 (なぜ、義父上は火計をなさらないのか?) 牛輔は、困惑した。
38:左平(仮名) 2003/04/27(日) 20:49 十九、 「郎中殿! いま火を用いればわが方はもっと楽に勝てますぞ! なにゆえ…」 「黙れ! その事は口にするでない!」 「しかし! このまま普通に戦い続けていては、勝利しても犠牲者が多く出ます!」 「分かっておる! だがな、火を用いるわけにはいかんのだ!」 「なっ、なぜ…」 「くどいぞ、伯扶! それについては、後でゆっくり話す!」 董卓は、頑ななまでに火を用いようとはしない。なぜか?今の状況では、火をかけるべきではないというのだろうか? (いや、そんなはずはない。この時期、急に風向きが変わる事はないし、第一、弩の攻撃によって双方の兵は離れている。まかり間違っても、こちらが火に巻かれる事はないはずだ) 戦術的に見れば、火を用いない理由が見あたらない。となれば、董卓が火計を仕掛けないのには、それとは別の理由があるというのか。 牛輔がそう考えているうち、徐々に勝敗の行方が見えてきた。 長兵と弩兵による複合攻撃に、羌族の騎兵は翻弄された。いかに精鋭であるとはいえ、長時間にわたって駆け回った為、人馬ともに疲れの色は隠せない。その様子を董卓は見逃さなかった。 「今だ! 者ども、行け−っ!」 号令のもと、周りにいた騎兵が一斉に丘を駆け降っていった。個々の武勇という点においては、漢人の兵は羌族のそれに劣るが、組織的に動くという点では優っている。 羌族の騎兵に疲れが見える今なら、彼らと十分に戦えるであろう。先の報告を聞く限りでは、敵に援軍はいないらしい。眼前の敵を撃破すれば、まずはこちらの勝ちだ。 (これで、この戦は終わる…) 牛輔は、心底ほっとした。と、思ったその矢先。 「伯扶、何をしておる!」 董卓の声に、思わずはっとした。見ると、自分以外は皆丘を駆け下り、敵の追撃に入っているではないか。しかも、将の董卓が、いつの間にかその先頭に立っている! 「もっ、申し訳ありません!」 牛輔も、直ちに馬を駆り、追撃に入った。戟を握る手に、力が入る。 (いかん。ぼんやりしてた) 一人出遅れてしまった。後でお目玉を喰らいそうである。懸命に追いつき、彼なりに戦った。結局、一人も討ち取る事はできなかったが。 凄まじい掃討戦となった。董卓の武勇は、既に羌族の間にあまねく知れ渡っており、我こそはという羌族の勇者達が、何人かうちかかって来た。あれほどの激戦を戦ってきたというのに、彼らはまだそれほどの力を残しているというのか。牛輔には、正直信じられなかった。遊牧の民の力を見せつけられる思いがした。 「郎中殿! 危のうございますぞ!」 「なに、心配は無用ぞ!」 董卓は、馬上から巧みに矢を放ち、戟を振りかざしつつ、向かってくる敵を蹴散らしていった。彼の通るところ、次々と敵兵が斃れていく。鐙のないこの時代において、漢人で、これほど騎射に長けた者は、そうはおるまい。 (義父上、凄いな…) ただただ感心するばかりであった。噂通りの、いや、それ以上の武勇である。 日が暮れる前に、戦は終わった。 数百の敵を討ち取るとともに、敵の所持していた牛馬を押収した。こちらにも少なからぬ犠牲は出たが、死傷者一つ比べてみても、こちらの勝利である事は間違いない。
39:左平(仮名) 2003/04/27(日) 20:51 「深追いは無用! 今宵は、この辺りに宿営するぞ!」 その言葉を待っていたかの様に、兵達は得物を手から離し、食事の支度を始めた。表情にはまだ十分に精気があるものの、長時間の激闘を経て、肉体の疲労は相当のものがあろう。確かに、ここらで休ませた方が良さそうである。 数人の兵が、敵の逆襲に備えて偵察に向かうと共に、交替で見張りに立つ。ここは、まだ戦場である。気を緩めきってはならない。 しばらくして、食事の支度が整った。日はもう暮れつつある。 「皆の者、今日はご苦労であった。恩賞については、おって沙汰を致す。身はまだ戦場にある故、存分にとはいかぬが、少しばかり酒を携えておる。飲むが良い」 杯を手にした董卓がそう言うと、わっと喚声があがった。その多くが庶民である兵達にとって、酒などそうそう飲めるものではない。ましてや、生きるか死ぬかの戦いを終えたばかり。喜ぶのも無理は無い。 「郎中殿!」 「ん? 伯扶よ、どうかしたか?」 「ここは戦場ですぞ。いくら戦いに勝利したとはいえ、凱旋もせずに酒を振る舞うというのはいかがなものかと…」 たとえ祝杯であっても、戦場で飲酒とは何たる事か!これが初陣である牛輔にとってみれば、気が気ではない。義父は、歴史を知らないのであろうか。 春秋時代のなかば、晋と楚が、中華の覇権をかけてエン【焉β】陵の地で戦った時の事である。一日の激戦の後、楚の司馬・子反(公子側)は、疲れをおして軍を督励し、懸命に態勢を立て直したが、ひと段落ついたところで、つい酒を口にしてしまったのである。彼は酒好きであった為、一度飲み始めると止まらず、ついに酔っ払ってしまった。たまたまその時、王(共王)からの諮問があったのだが、酔っ払っていた為に答えられないと知った王は激怒し、戦場を離脱してしまったのである。 結局、王が戦場を離れた為、軍は撤退し、楚の覇権は失われた。司馬・子反はその失態を苦にし、遂に自殺して果てた。 また王も、一時の怒りの為に臣下を死に追いやった事を恥じ、自らの諡を悪い意味のものにせよと遺言したという(彼自身は、楚の歴代の王の中でもなかなかの名君だった)。 「あぁ、敵の逆襲が気になるという事か?」 牛輔の苛立ちとは対照的に、董卓の返事は暢気なものであった。その落差が、ますます彼を苛立たせる。いつもなら、目上の者に対して声を荒げる事はないのだが、今回ばかりはそうもいかない。 「当たり前です!」 「心配するな。偵察の者を遣っておるし、きちんと見張りも立てておる。第一、酔っ払うほどの量の酒は携えておらぬわ」 「そうはおっしゃいますが…」 「ふふっ。わしが何も知らぬとでも思ったか。戦場で酒を過ごして失敗した者がいた事くらい、知っておるよ」 「えっ?」 「わしとて、『左伝(春秋左氏伝)』くらいは読んでおるという事よ。そなた、楚の司馬・子反の故事を言いたいのであろう?」 「あっ、はぁ…」
40:左平(仮名) 2003/05/04(日) 02:15 二十、 考えてみれば、そうであろう。この時代の人士で、『孫子』を読んでいて『左伝』を読んでいないという様な者はまずおるまい。 そう言われると、自分の知識の浅薄さが、急に恥ずかしくなった。 義父は、経験と学問を積む事で、その人物・思考に確かな厚みを持っている。それに比べ、自分は…。牛輔は、黙りこくったまま、うなだれるしかなかった。 「そんなに気にするな。そなたの諌言が、我らの気の緩みを引き締めてくれたのは確かなのだからな。周りをよく見よ」 確かに、酒が入っているにも関わらず、騒ぐ兵はいない。しかし、その言葉を額面通りに受け取る事はできなかった。 (確かに、私の言葉が少しは役に立ったのかも知れない。だが…) 董卓といい、兵達といい、幾度も戦場を駆け巡り、死線をかいくぐって来た者達である。そんな彼らに、新参の自分如きが口をはさんでも、恥を晒しただけではなかったか。恥ずかしいやら情けないやら。 「おい、どうだ。そなたも一杯」 「はっ、はぁ…。では、頂きます」 杯を渡された牛輔は、一気にその中の酒を飲み干した。ここが戦場である事は承知しているが、あれこれ考えていると、何だか酔っ払ってしまいたくなった。 「おいおい、そんなに急いで飲まずとも良かろうに」 「えぇ。ですが…何だか、飲みたくなってきました」 「そうか。では、もう一杯いくか」 「では」 酔っ払おうかと思ったものの、そんなには飲めなかった。すぐに眠たくなったからである。そのまま横になると、たちまちのうちに眠りに落ちた。 しばらくして目が覚めた。あたりはまだ暗く、兵達も、見張りに立つ者を除いては、皆熟睡している。 やはり、この時期に野外で眠るのは、ちと寒い。眠っている者を見ると、適当な枯草やら中身を出した嚢やらを夜具の代わりにしている。中には、戦死した仲間の上着を頂戴している輩もいる。 (はぁ…。味気ないな。いつもなら、姜を抱いてるところなんだが) そんな事がすぐに思い浮かぶあたり、やはり新婚である。 朝までには、まだ時間があろう。もう少し眠っておきたいところであるが、このままでは寒い。何か夜具の代わりになるものはないか。牛輔は、半ば寝ぼけつつ、あたりを物色した。 「案外、ないもんだな。かといって、火をおこすわけにもいかないし」 そうつぶやきつつ、陣中をうろうろしていた。 ふと見ると、こんな時間に一人立っている者がいる。暗いので、はっきりとは見えないが、巨躯の男であるらしい。 (あれ? あれは…誰だっけ?) いつもなら、そんな人影に近付くはずもないのであるが、眠気で頭が鈍っていたせいか、ふらふらとそちらに向かっていった。 「そんな所で何してるんだ?」 そう、何の気なしに声をかけた。
41:左平(仮名) 2003/05/04(日) 02:19 「ん? なんだ、伯扶か」 そっ、その声は! 「ち、義父上ではありませんか! こんな夜更けに何をしておられるのですか!」 「あぁ、ちょっとな」 そういう董卓の顔は、いつもとは少し違って見えた。そこはかとなく厳粛さが感じられるのである。これから凱旋する将には見えない。 「明日も早いではありませんか。もう休みましょう」 「分かっておる。だがな、もう少しこうしておりたいのだ」 何か思うところがあるのか、自分が何か言うくらいでは、動きそうにはない。まぁ、明日は凱旋だ。もう一日くらいは、体ももってくれるであろう。そう思うと、がぜん興味が湧いてきた。 「義父上がおられるのでしたら、私もお付き合い致しましょう。…それにしても、何をしておられたのですか?教えてはいただけないでしょうか」 「そうだな。そなたにも、話しておいた方が良さそうだな。…実はな、こいつらに誄(るい:しのびごと。死を悼む言葉・文章)を読んでやろうと思ってな」 「誄、ですか…」 彼の口からそういう言葉が出るとは、正直、意外ではあった。だが、兵の死に思いをはせ、それを無駄にしないのが良将というものである。 (義父上は、紛れも無く良将であらせられる) それが分かったというだけでも、この戦いに従軍した意味があった。この方の娘婿になって良かった。心底そう思えた。 「もちろん、そんな大層なものはできん。わしは哀公(孔子が亡くなった当時の魯公)ではないし、こいつらも孔子ではないからな。まとめて、簡単なものを読む程度だが」 「確かに、我が方の勝利とはいえ、少なからぬ戦死者を出しましたからな」 「そうだ。だが、それだけではない」 「えっ?」 牛輔が一瞬きょとんとするのを尻目に、董卓はある塊に近付き、黙祷した。兵の屍である。 だが、何か様子が違う。頭のあたりに付いている飾りなどを見ると、漢人のものではない。まさか! 「義父上、その屍は敵のものではありませんか!」 これには驚いた。義父は、間違って黙祷しているのではないか。だが、その返事は意外なものであった。 「そうだ。分かっておる」 「えっ? では、義父上は敵に対しても誄を読まれるのですか…。しかし、なぜ…」 「なぜかって? そなた、母が羌族の娘であったという割には、羌族の事を知らぬ様だな。…まぁ、仕方あるまい。牛氏と羌族とは、長く敵対しておるゆえ、接触する事自体少ないからな」 「ですが…」 「いい機会だ。そなたに話してやろう。わしが我が義父(琳・瑠姉妹の父)から聞いた事や、羌族の連中から直に聞いた話をな」
42:左平(仮名) 2003/05/05(月) 21:21 二十一、 話?一体、どの様な話があるというのだろうか。羌族は文字を持たぬはず。口伝で何かしらの説話があるにせよ、これといった話があるとは考えにくいが…。 「そなた、羌族とはいかなるものだと思う?」 えっ?いかなるものか? 牛輔には、その問いの意味が分からなかった。 「いかなるものと急におっしゃられても…。我ら漢人にとっては、しばしば叛乱を起こす厄介な存在としか思えませんが…」 「そう思うか」 「それ以外、どうとらえればよろしいのでしょうか? 私には分かりかねます」 「分からぬか。ならば聞こう。『羌』という字はどの様な字だ?」 字の事を聞いてどうしようというのだろうか? ますますわけが分からない。 「えぇっと…。確か、『羊』と『人』が組み合わさった感じの字ですね」 「そうだ。では、我が娘にして、そなたの妻の名は何という?」 「『姜』です。しかし、それがどうかしたのですか?」 「何か気付かぬか?」 「えっ?」 「まだ気付かぬか。『羌』と『姜』という字は似ておるであろう」 「そういえば、確かに」 「いや、もともと同じ起源を持つ字かも知れぬな。…『姜』姓といえば、有名な人物がいるであろう」 「太公望、ですね」 太公望呂尚−。多少なりとも経書・史書を読んでいる者であれば、その名は必ず知っているであろう有名人である。周の文王に見出された彼は、殷周革命の立役者の一人として活躍した(あとの二人は、周公旦と召公セキ【大の左右の脇に百】)。兵法にも秀でていたとされ、漢の高祖・劉邦の謀臣として活躍した張良が黄石公なる人物から授かったという兵書の著者に擬せられている。 「そうだ。そして、彼を始祖とする国が斉(西周・春秋期。戦国期の斉は田氏の国)だ。それは、そなたも知っておろう」 「はい。春秋五覇の一人・桓公を生んだ斉ですね」 「そればかりではないぞ」 董卓の話はなおも続く。 「その太公望が仕えた周の始祖の名は后稷というが、その母の名は姜ゲン【女+原】といって、姜姓の女なのだ。また、武王の正婦にして成王の母である邑姜もまた、姜姓の女だ」 「となると…。周をはじめとする姫姓の国と斉には、姜姓の血が流れていると…」 「その姜姓と羌族が、字と同様、もとは同じ起源を持つとしたらどうだ?」 「えっ!」 信じ難い事である。義父は、あの太公望と羌族が同族だというのであろうか。牛輔には、字以外、両者のつながりなどこれっぽっちも見出だせないのであるが。 「驚くのも無理はないな。わしも、聞いた当初は信じられなかったからな」 「では、義父上は、今はこの様な話を信じておられるというのですか!」 「そうだ」 「そんな! その様な戯言を信じられて…」 「なぜ戯言と言える?」 そう言う董卓の顔には、凄みがあった。その顔は、戦いの時とはまた違う様だ。何がどう違うのかはよく分からないのだが。
43:左平(仮名) 2003/05/05(月) 21:24 「そなたがこの話を信じぬのは、漢人の文字を重く見て羌族の口伝を軽んじるからであろう。まぁ、それならばそれで良い。しかしな、それならばなぜ『羌』と『姜』の字の類似をも軽んじる?」 「それは…」 そう言われると、何とも言い様がない。 「まぁ、どこまで事実かは分からぬがな。だが…」 董卓の表情が、また変わった。その顔には、紛れもない哀しみの色が浮かんでいた。 「羌族は、古くから我ら中華の民と関わってきた族だ。何しろ、太古の帝王・舜の御世から、既にその名が記されているくらいだからな。もとは中原にもいたらしいが、故地を追われ、西に逃れたという…」 羌族が、もとは中原にいた?牛輔にとっては、初耳である。しかし、「舜」の名が出てきたという事は、経書のどこかにその様な事が書かれているはず。義父が羌族から聞いたというこれらの話は、まんざら嘘でもないという事なのか。 「しかし、今の羌族には、その様な面影はありませんが」 「いや、ない事はない」 「そうですか?」 「彼らは、昔のままに羊を飼って暮らす『穏やかな』民である」 「えっ?あんなに強悍な者達のどこが穏やかだというのですか!」 「嘘ではない。そなたの母上も、我が妻も、羊を飼い、静かに暮らしていたのだ。これは、わしやそなたの父上も見ておる。間違いない」 「では、なぜあの様な精強な騎兵達が…」 「そこなのだ。なぜ、羌族が戦うのか。そこにこそ、わしが誄を読む理由がある」 夜風が頬を撫でる中、董卓の話は続く。話していくうちに、その声が、また一段と哀調を帯びてきた。この人の中に、これほどの感情の動きがあるのか。人間というものの奥深さの一端が垣間見える瞬間である。 「考えてみると、羌族として生きるとは哀しいものである」 「哀しい?なぜですか?」 「そうではないか。あいつらが今生きているのは、いずれにしても異郷。故地を追われ、一族とは引き離され、生まれ落ちたその時から漢人には蔑まれ、苛酷な賦役を課せられ…」 「…そうして、生きる事に何の喜びも見出せぬまま死んでいく…」 「…」 中華に叛く蛮夷の一生とはそういうものではないか。そう言いかけた。しかし、言葉が出なかった。いや、出せなかった。 董卓の妻は羌族の女。当然、その子である姜は羌族の血を引いている。自分もまた、羌族の女を母に持つのであるから、羌族の血を引いている。 (数ヵ月後には生まれるであろう我が子は、間違いなく羌族の血を引く子…) その事を思うと、羌族を単なる蛮夷と言い切る事はできないのである。 しかし、まだ分からない事がある。 羌族の血を引くわけでもない義父が、なにゆえこうも羌族に思いを馳せるのであろうか。 また、それほど羌族の事を思いながら、なぜあれほど激しく戦いうるのか。 雲が流れ、月が顔を見せた。月光が大地に降り注ぐ中、董卓の目に微かな光が生じ、それが流れ落ちていくのが見える。 (義父上が…涙を流されている?) 世間から勇将と呼ばれる義父が、いかに娘婿の前であるとはいえ、涙を見せるとは…。牛輔は、戸惑いを隠せなかった。
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