小説 『牛氏』 第一部
43:左平(仮名)2003/05/05(月) 21:24AAS
「そなたがこの話を信じぬのは、漢人の文字を重く見て羌族の口伝を軽んじるからであろう。まぁ、それならばそれで良い。しかしな、それならばなぜ『羌』と『姜』の字の類似をも軽んじる?」
「それは…」
そう言われると、何とも言い様がない。
「まぁ、どこまで事実かは分からぬがな。だが…」
董卓の表情が、また変わった。その顔には、紛れもない哀しみの色が浮かんでいた。

「羌族は、古くから我ら中華の民と関わってきた族だ。何しろ、太古の帝王・舜の御世から、既にその名が記されているくらいだからな。もとは中原にもいたらしいが、故地を追われ、西に逃れたという…」
羌族が、もとは中原にいた?牛輔にとっては、初耳である。しかし、「舜」の名が出てきたという事は、経書のどこかにその様な事が書かれているはず。義父が羌族から聞いたというこれらの話は、まんざら嘘でもないという事なのか。
「しかし、今の羌族には、その様な面影はありませんが」
「いや、ない事はない」
「そうですか?」
「彼らは、昔のままに羊を飼って暮らす『穏やかな』民である」
「えっ?あんなに強悍な者達のどこが穏やかだというのですか!」
「嘘ではない。そなたの母上も、我が妻も、羊を飼い、静かに暮らしていたのだ。これは、わしやそなたの父上も見ておる。間違いない」
「では、なぜあの様な精強な騎兵達が…」
「そこなのだ。なぜ、羌族が戦うのか。そこにこそ、わしが誄を読む理由がある」

夜風が頬を撫でる中、董卓の話は続く。話していくうちに、その声が、また一段と哀調を帯びてきた。この人の中に、これほどの感情の動きがあるのか。人間というものの奥深さの一端が垣間見える瞬間である。

「考えてみると、羌族として生きるとは哀しいものである」
「哀しい?なぜですか?」
「そうではないか。あいつらが今生きているのは、いずれにしても異郷。故地を追われ、一族とは引き離され、生まれ落ちたその時から漢人には蔑まれ、苛酷な賦役を課せられ…」
「…そうして、生きる事に何の喜びも見出せぬまま死んでいく…」
「…」
中華に叛く蛮夷の一生とはそういうものではないか。そう言いかけた。しかし、言葉が出なかった。いや、出せなかった。

董卓の妻は羌族の女。当然、その子である姜は羌族の血を引いている。自分もまた、羌族の女を母に持つのであるから、羌族の血を引いている。
(数ヵ月後には生まれるであろう我が子は、間違いなく羌族の血を引く子…)
その事を思うと、羌族を単なる蛮夷と言い切る事はできないのである。

しかし、まだ分からない事がある。
羌族の血を引くわけでもない義父が、なにゆえこうも羌族に思いを馳せるのであろうか。
また、それほど羌族の事を思いながら、なぜあれほど激しく戦いうるのか。

雲が流れ、月が顔を見せた。月光が大地に降り注ぐ中、董卓の目に微かな光が生じ、それが流れ落ちていくのが見える。
(義父上が…涙を流されている?)
世間から勇将と呼ばれる義父が、いかに娘婿の前であるとはいえ、涙を見せるとは…。牛輔は、戸惑いを隠せなかった。
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