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小説 『牛氏』 第一部
71:左平(仮名) 2003/08/10(日) 21:12 いったい、他に何を聞けというのであろうか。時々義父は、思いがけない問いを発する。 「分からんか。他の者達が全て殺されたというのに、どうして文和一人が助かったのか。そなた、不思議だとは思わんのか?」 「はぁ…」 確かに、そうだ。そう言われると、急に気になってくる。 「…その事には、全く思いが及んでおりませんでした」 ここで嘘をついたところで何にもならない。素直に認め、教えを乞うた方が自分の為である。 「そうか。気がつかなんだか」 「はい…。義父上に指摘されるまで、全く。我ながら、情けない事です」 「そう気にするな」 こうも素直に反省されると、怒る気にはならない。 「いかに万巻の書を読んだところで、最初から全ての物事を理解できるものではない。大切なのは、その成否を問わず、経験からいかに学ぶかという事だ。聖人ですら、初めから何もかも上手くいくものではないのだからな」 「はぁ…。そのお言葉、しかと心に留めます」 「実はな。そなたがその事に気付かなかったという一点を除けば、今回は言う事なしだったよ」 「まことですか!」 「あぁ。こんな事で嘘を言ってどうなる。兵の統制はとれていたし、賊を壊滅させ、なおかつこちらの犠牲は殆どなかった。完勝ではないか。将として十分過ぎるほどの働きだぞ」 「えぇ。ですが…」 「もっと早く攻撃を開始していれば、あの者達は死なずに済んだのではないか。そう考えておるのか?」 「はい」 「ふむ。そういう事も考えておったか。それでこそ我が娘婿よ」 「果たして、私の判断はこれで良かったのでしょうか?」 「良かったに決まっておろう!」 董卓は急に大声を出した。怒声というわけではなかったが、あたりは一瞬びくっとなった。 「将たる者が、自らの下した判断を顧みるのは良い。だがな、ひとたび決断したなら、わずかでも揺らいではならぬのだ。ましてや、今回のそなたの判断は実に見事なものであった。そんな時にまで思い悩んでどうするのだ!それでは身が保たんぞ!」 「…」 「そなたの判断は全く正しかったのだ。もっと自信を持て。…実はな。そなたと文和があの場を離れた後、わしも殺された者達の屍を確認したのだ」 「それで、何か分かったのですか?」 「屍をみたところ、死斑が浮き出ておった」 「死斑?」 「そうだ。死斑があったという事は、殺されてからしばらく経っておるという事だ。それに、屍は硬かったであろう?」 「確かに、関節等は動かせなかったですね」 「なぜかはよく分からんが、生き物は死ぬと硬くなる。その程度から、いつ死んだかという事がある程度分かるのだ。わしの見立てでは…少なくとも、昨日の朝までには殺されていたな」 「昨日の朝…」 「となれば、そなたが攻撃を急いだところで間に合わなかったというわけだ。文和にしても、気がついたのは昨日になってからだというしな。あれも、他の者達を救う事は不可能であったというわけだ」 「では…」 「そうだ。そなたにも文和にも、何もやましいところはない。将としては、何事にも疑いを持ってかかる必要はあるが、変に気を惑わせる様な問いを発する必要もない。ゆえに、そなたが文和に問わなかったというのは、正しかったのだ。よいな」 「はい!」 牛輔は、また一つ、何かを得た様な気がした。
72:左平(仮名) 2003/08/18(月) 00:01 三十六、 帰還後、董卓の転任と戦勝祝い、それに賈ク【言+羽】の歓迎を兼ねた宴が催された。 めでたい事が二つも三つも重なったのである。皆、上機嫌であった。ただ一人、歓迎される立場である賈ク【言+羽】を除いては。 (伯扶殿には何も言われなかった。しかし…) 人一倍鋭敏な感覚を持つ彼には、周囲の目というものがひどく気になり、素直に歓待を喜ぶという事はできなかったのである。 この涼州の地では、男は、知識よりも腕力が問われる。若くして孝廉に推挙されたという点は他の面々に比べまさっているものの、ろくに抵抗もできぬまま賊に捕われ、ほうぼうの体で解放されたなど、情けない事この上ない。この事は、生涯の負い目となるであろう。 (これから、俺はどうすれば良いのであろうか…) 漢朝に失望したとはいえ、確たる見通しがあって官を辞したというわけではない。しかし、中央とは縁を切った以上は、否応無く、この地で生きるしかないのである。 とはいえ、体も細く、非力である自分にいったい何ができるのであろうか。 (かつて閻氏【閻忠】は、俺の事を留侯【張良。漢高祖の謀臣】・献侯【陳平。同じく、漢高祖の謀臣】の如き奇才があるなどと言ってくれたが…どうなんだか) 今まで自分を支えてくれたこの言葉さえ、空しく感じられる。 「どうした、文和。酒が進んでおらんが。…そなた、ひょっとして下戸か?」 賈ク【言+羽】の様子に気付いた董卓が、そう尋ねた。 「えっ?文和が下戸? とんでもない。こいつ、飲もうと思えば相当飲めますぜ。…おい、なに遠慮してんだよ。今日の主役はおまえだぜ。しっかり飲めよ」 「あっ、ああ…」 「ささっ。ぐい−っと飲み干せよ」 張済にそう勧められ、賈ク【言+羽】は杯の酒をくっと飲み干した。いつもなら旨いと感じられるのであるが、一杯くらいでは、どうもそういう気にならない。 「おぉ。飲めるではないか。なら、もう一杯いけ」 「はぁ…では…」 勧められるまま、さらに何杯も何杯も酒をあおった。酔っ払って、せめて一時だけでも憂さを晴らしたかったのである。だが、酔いは感じたものの、いつもの様な心地良さは感じられない。 そんな彼の思いにはお構いなしに宴は盛り上がり、そして終わった。殆どの者が酔いつぶれ、ぐうぐういびきをかいて寝てしまった為、自動的にお開きになったのである。 賈ク【言+羽】も酔っ払い、横になった。だが、どうにも眠りが浅い。しばらく、夢うつつの中にいた。 (ん…。朝か…) ふと薄目を開けると、もう日が昇り始めていた。まだ特に急ぐ用事もないとはいえ、ここは自宅ではない。そろそろ起きた方が良さそうである。 (起きるか…) そう思い、起きようとして頭を上げると、軽い痛みが走った。まだ酔いが残っている様だ。 (参ったなぁ。ちと飲みすぎた) 心の中でそうぼやきつつ、ふらふらと起き上がった。 あたりを見ると、董卓も、李カク【イ+鶴−鳥】も郭レも、張済も、まだ寝入ったままだ。 (やれやれ。俺が一番早起きか) 董氏はともかく、自宅でもないのに、まったく呑気なもんだ。そう思いはするが、一方で、今の自分はどうかと省みると、偉そうに言う事もできない。 (ま、まだ早いし…もう少し横になるか) そう思い、腰を下ろしたところで、ふっと気がついた。 (あれっ? 伯扶殿は?) 確かに、自分が横になるまでは董氏の横にいたのであるが、姿が見当たらない。それに、あたりも、昨晩に比べ幾分片付いている様な。
73:左平(仮名) 2003/08/18(月) 00:03 「おっ、文和。目が覚めたか」 後ろから、牛輔の声が聞こえた。ふと気付くと、あたりを家人達が忙しく動き回っている。どうやら宴の後片付けをしている様だ。 「こら。物音を立てるな。皆が目覚めてしまうであろう」 「へいっ!」 「大声も出すな」 「あっ、はい…」 「伯扶殿、お早いですね」 「まぁ、ここは我が屋敷だしな。主が客を気遣うのは当然の事だ。気にせずともよい。そなた、まだ寝ていてもいいのだぞ」 「いえ。せっかくですから…私も何か手伝いましょう」 「そうか。では、そちらの指示を頼もうか」 「はい」 他の者を起こしてはならないので、賈ク【言+羽】は小声で返事をした。 彼の指示は、なかなかのものであった。何年もつきあいがあるのかというくらい、家人の体格・性格などを的確に把握し、指図をする。 この事は、戦にも通じるであろう。 (ほう…。この男、他の三人とはちと毛色が違う様だな) 牛輔は、そんな賈ク【言+羽】に興味を覚えた。彼ほど痩せてはいないとはいえ、自分も、姜を娶り董卓の娘婿となるまでは、この様に非力な青年に過ぎなかったのだ。 そう思うと、どこか親近感さえ感じられる。 それは、賈ク【言+羽】も同じだった。自分に似て、非力そうに見えるこの人物が、どうして董氏の信頼を得ているのであろうか。単に娘婿だからというだけではない、何かがある。そう思えてならないのである。 (いい機会だ。このお方の人となりをじっくりと拝見しよう) 牛家の家人に指示を出しながら、そんな事を考えていた。
74:左平(仮名) 2003/08/24(日) 21:52 三十七、 もともとさして大規模な宴ではなかったから、しばらくするとあらかた片付いた。 その頃には、もう日もだいぶ高くなっていたから、眠りこけていた董卓、李カク【イ+鶴−鳥】、郭レ、張済も目を覚ましており、あたりの様子に気付いた。 「んっ? 何だ、ずいぶん片付いておるな」 「そうですね」 「俺達が眠っちまった時には、だいぶ散らかってたはずですけど」 「いつの間に?」 四人は、一様に首をかしげた。 「義父上、お目覚めですか」 「おぅ、伯扶。いつの間に片付けたのだ?」 「えっ?いけなかったですか?」 「いや、いかんという事はない。ただ、目が覚めたら片付いておるから不思議に思っただけだ」 「いつの間にって。義父上や皆の者が眠っている間にですよ」 「それは分かる。しかし、気付かなんだぞ。いったいどう片付けたのだ?」 「どうっておっしゃられても…。あぁ、そうそう、実は文和に手伝ってもらったんですよ」 「なに? 文和に?」 「はい。いや、あの者、なかなかやりますな。わが家人を実によくみて使っておりましたよ」 「ほぅ、そうなのか」 「えぇ。いかがなさいましたか?」 「うむ。ちょっとな」 「あれっ?皆様お目覚めですか?」 「おお、文和か。ちょっとこっちに来い」 「はい…」 一体、何であろうか。昨日合流したばかりで、叱責されたり称揚されたりする様な覚えもないが。 「そなた、急ぎの用はないか?」 「は? …昨日帰ったばかりですよ。そんな用事はありませんが…」 「なら話は早い。そなた、しばらくここに留まれ」 「?」 「分からんか。しばらくここに住み込めと言うておるのだ」 「はっ、はぁ…。私は構いませんが…。ただ、伯扶殿は…」 「義父上がそうおっしゃるのだ、私の方は構わんよ」 「…そうですか。分かりました」 軍団の長の命令である。否応のあろうはずもない。 翌日、董卓は任地に向かっていった。それと同時に、李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、それぞれの役目を与えられ、各部所に配置された。 ただ、賈ク【言+羽】のみはまだ無任所のままであった。 (義父上は、文和の配置については何もおっしゃらなかった…。これはどういう事なのであろうか…) (私が見る限りでは、文和は使える。ただ、あの者の事は何も知らんからなぁ…。どうやってその才智のほどを量ればよいものか…) 自室で書を読みつつも、その事で頭が一杯になっていた。 (とにかく、じっくりと話をせねばな) そう思っていた、その時である。
75:左平(仮名) 2003/08/24(日) 21:59 「殿。お話があるのですが」 気がつくと、賈ク【言+羽】が牛輔の前に座っていた。 「あれっ? そなた、いつの間に?」 「いつの間にって…。何度も咳払いを致しましたよ。それに、目も合ったではありませんか」 「そうだったか?」 さっぱり気付かなかった。考え事にすっかり気を取られていた様だ。 「それはすまんかったな。で、話とは何だ?」 「はい。実は、一つお願いがあるのです。いささか身勝手な願いではあるのですが…」 「構わん。話してくれ。ただし、辞めたいとかいうのは困るぞ」 「辞めるなど…。そんな事、つゆほども考えておりませんよ。実はですね…」 別にやましい話というわけでもないのに、なぜか彼の声は小さくなった。 「なにっ? 私と立ち合いたい?」 「はい」 「それは構わんが…なにゆえ私なのだ?立ち合うなら、他にいるではないか?家人では不満か?」 「いえ、家人の方々に不満がとかいうのではありません。ただ、どうしても殿と立ち合わせていただきたいのです」 「どうしても、か」 「はい」 「ふむ…」 牛輔は、自分の技量のほどはよく承知している。武術の腕前については、自分より上の者は掃いて捨てるほどいるからだ。となれば、家人では物足りないからというわけではない。 (いったい、何のつもりだ?) 少しいぶかしく思うが、賈ク【言+羽】のたっての望みである。彼の事を知る、よい機会ではないか。 「分かった。立ち合おう」 「ありがとうございます」 「で、いつ立ち合う?」 「殿のご都合がよろしければ、今すぐにでも」 「そうか。では、庭に出よう。誰かおるか!」 「はっ!殿、いかがなさいましたか」 「おお、盈か。適当な長さの棒を二本持ってきてくれ。文和と武術の立ち合いをする」 「はい」 「文和。棒を使うぞ。よいな」 「はい」 「殿。こんなものでよろしいでしょうか」 「おぉ、そうだな。それでよかろう」
76:左平(仮名) 2003/08/31(日) 20:14 三十八、 二人は、二丈(当時の一丈は約2,3m)ほど離れて向かい合った。 盈が持ってきた棒は、二本とも、おおよそ十尺(当時の一尺は約23p)ほどである。戟・戈など、当時の武器の大きさを考えると、もう少しくらい長くても良いのではあるが、これは実戦ではなく、あくまで立ち合いである。まあこんなものであろう。 実は、二人とも武術には疎い。その構え一つとっても、いっぱしの武人から見れば実に心もとない。傍目には、武術の立ち合いというより、何かの踊りみたいである。 だが、当の二人にとっては、真剣勝負であった。特に、自分から申し出た賈ク【言+羽】にとっては。この立ち合いは、彼には二つの意味があったのである。 一つは、自らの長である、牛輔という人物を知る事である。 (一見したところ、伯扶殿はさして腕が立つ様には見えない。この涼州という地にあっては、それは男としては致命的な欠陥であるはず。しかし、董氏には篤く信頼されている様だ。単に娘婿だからか?いや、それ以外の何かがある。そう思えてならぬ…) それは、恐らく幾多の言葉を費やしても容易に分かる事ではあるまい。となれば、実際に体ごとぶつかって確かめるしかない。『彼れを知り己を知らば百戦して殆うからず』という。その『知る』という事は、何も敵に対してだけのものではない。 もう一つは、自らの中にあるもやもやを少しでも晴らす事である。 ろくに抵抗もできぬまま賊に捕らえられたというのは、いかにも情けなく、自分の力の無さをつくづく思い知らされる事であった。張済ならば、そういう時、賊を斬り血路を開く事ができたはず。それが、涼州の男というものであろう。 だが、眼前にいる牛輔はどうであろうか。部下の身でありながらこんな事を考えるのは甚だ失礼ではあろうが、『この方になら勝てるのではないか』。そう思える。ならば、この立ち合いで勝ち、少しでも憂さを晴らしておきたい。そうでもしないと、この先ずっと卑屈に生きるしか無い様に思えてならない。 そんな事を考えるほど、彼は、精神的に滅入っていたのである。 もちろん、そんな賈ク【言+羽】の胸中は、牛輔には知りようもない。ただ、受けて立つのみである。 「では!」 「おう、いつでもよいぞ!」 二人の声とともに、立ち合いが開始された。 「やぁ−っ!!」 賈ク【言+羽】は、足を踏み出すと同時に、棒を思いっきり持ち上げ、いわゆる上段の構えをとった。戈を振り下ろす要領である。頭に食らえば、相当の衝撃があるから、一撃で決着がつく。 「それ−っ!!」 全身の力を込めて振り下ろす。これが当たれば、自分の勝ちだ。 「おっとぉ!」 牛輔は、それをさっとかわした。彼の方は、まだ棒を振る態勢にさえ入っていなかった。よけるしかない。 (文和め、なかなか素早いな) 賈ク【言+羽】の攻撃をよけながらも、牛輔は感心していた。長身の割には、彼の動きは敏捷である。それは、他の面々と比べても決して劣ってはおらず、むしろ優っているくらいであろう。単なる文弱の徒というわけでもなさそうだ。さすがに、涼州の男である。 だが、その彼の攻撃を、自分はかわす事ができた。日頃の修練が、少しは効いたのであろうか。 「おりゃ−っ!!」 (おっと、感心してる場合じゃないな。こいつ、もう次の態勢に入っている) 棒を握る手に、思わず力が入る。自分だって、負けたくはない。 (さて、どう攻めたものか。棒を振る速さは、あいつの方が上だし…。ん!) しばらく攻撃をかわしているうちに、ある事に気付いた。
77:左平(仮名) 2003/08/31(日) 20:15 (よし!勝てるぞ!) しばらく様子を見ているうちに、武術における、賈ク【言+羽】の弱点が見えてきた。それは、彼が非力である事だ。 (棒を構え、振り下ろす態勢に入るまでは実に素早い。だが、非力ゆえ振り下ろすのは遅い。…なるほど、だから私でもよけられたのか) よく見ると、袖口からちらりと見える彼の腕は細い。力を入れている為に浮き出ている血管等がなければ、女のそれと見紛うほどである。 (あの腕が義父上ほどであれば…。ただの棒でも、私の頭は砕かれていたかな) まだ攻められっぱなしなのに、そんな事を考える余裕さえ出てきた。 (となれば、だ。あいつが棒を振り上げた時こそ勝機!) そう思った牛輔は、棒を短く持ち直した。 「やぁ−っ!!」 再び、賈ク【言+羽】が振り下ろす構えに入った。 「今だ!!」 そう叫ぶとともに、牛輔は賈ク【言+羽】の懐に入り、その腕をしたたかに打った。 「ぐっ!!」 短いうめき声とともに、賈ク【言+羽】の手から棒が離れ、地面に落ちた。乾いた音がした。 「殿!お見事ですぞ!」 一部始終を見届けていた盈が声をかける。ともかく、長としての威厳は保たれたというところか。軽くうなづく牛輔の額には、汗が滲んでいた。 一方、賈ク【言+羽】は、うずくまったまま押し黙っていた。
78:左平(仮名) 2003/09/07(日) 23:32 三十九、 「…」 賈ク【言+羽】の顔は、心なしか蒼ざめていた。 「文和、どうした。腕を打たれたくらいでそんなに痛いか」 「いえ…痛いのは痛いですが、それは大した事ではございません…」 「ならば、そなたの顔が蒼ざめているのはなぜだ」 「…今は立ち合いでしたから腕が痛む程度で済みました…。しかし、これが戦であったなら…私ごときは、真っ先にやられていたでありましょう…。それを思うと…」 「真っ先にというのは言い過ぎであろう。そなたでそれなら私はどうなる?」 決して冗談ではない。少しでもうっかりしておれば、倒されていたのはこちらであったのだから。 「殿は私よりお強いではございませんか…。それに、将たるお方が真っ先に倒されるなどあり得ません…」 「そなた、何が言いたいのだ?」 「…これでは、お仕えしていても何の役にも立てますまい…。私ごとき…」 そんな、自嘲的な言葉まで出てくる有様である。 (このままではまずいな。こいつ、豊かな才智があるというのに、すっかりくさってしまっている。どうしたものだろうか…) 『この男は使える』。義父にそう言った以上、この有様ではこちらも困るのである。何とかしなければ。 (そうだ。文和には、賊に捕らえられたという負い目があるんだったな) 考えるうち、ふと、その事に気がついた。 (そうか。それで、立ち合いたいなどと言い出したのか。自分は決して弱くはないぞという事を示したいが為に…) 自分になら勝てると思ったのか。そう考えると少し不快ではあるが、まぁ、これは事実であるからおいておこう。それより、何と言えば良いのか。 (弱いはずの私が勝った以上、「そなたは弱くないぞ」とは言いにくいしな…) いずれにせよ、何とかして励ますしかない。とはいえ、なまじ頭が切れるだけに、下手な励ましは禁物である。客観的な事実を挙げつつ、その才智を褒め上げてやろう。 「文和よ」 牛輔は、できるだけ重々しい声で語りかけた。よく義父が使うやり方である。 「はい」 その声調の変化に気付いたのか、賈ク【言+羽】の姿勢も少し改まった。少しはこちらの話に聞く耳を持った様だ。 「そなた、自分には何のとりえもないと思っておるのか?」 「私に何かあると?」 「そなた、私と立ち合っていて気付いた事はないのか?結果は結果として、そなたの全てが私に劣っていたというわけではないのだぞ」 「はぁ…」 「そなたの動作は実に機敏であった。…それは、勇将たる我が義父上にも劣らぬほどである」 「まことですか!」 信じられぬという様子であった。まぁ、無理もなかろう。だが、事実である。 「あぁ。私は間近で義父上の戦い振りを見たのだ。嘘ではないぞ。…ただし、そなたの腕は女と見紛うほどに細く、非力である。それで重い棒を振り回そうとしても、力負けするのがおちだ」 「確かに…。勝ちにこだわるあまり、いささか逸っておりましたな…」 「私がそなたに勝てたのは、この立ち合いが長く重い棒を使ったものだからだ。それ以外のものであればどうだったか。…そなたの頭であれば、勝つ方法くらいいくらでも考えつくであろう」 「そうでしょうか?」 「まぁ、今日明日にも戦があるというわけではない。ゆっくりと考えるとよかろう」 「はい。そうします」 しばし時間が経ったからであろうか。ようやく落ち着きを取り戻した様である。
79:左平(仮名) 2003/09/07(日) 23:32 数日後、賈ク【言+羽】の配属が決まった。 輜重(武器や食糧)の管理及び各種報告の整理作成というのが、彼に与えられた任務である。孝廉ともなれば、小難しい文書の扱いにはうってつけであろう。 「やはり、私はお役に立たんとおっしゃるのですか?」 その事を告げたとたん、賈ク【言+羽】はさっそく不満をもらした。先日の事をまだ引きずっている様だ。 「誰がそんな事を申した?私は、そなたが役に立たんなどとは言ってもないし、思ってもおらんぞ」 役立たずとみなした?牛輔にとっては心外である。自分は、賈ク【言+羽】の事を相当高く評価しているというのに、何が不満なのであろうか。 「誰も申してはおりませんが、そうではないのですか。役に立つ者であれば、どうして後方なぞに配置しましょうか?」 (そういう事か。非力ゆえに前線に出られない事が、かくも不満なのか) 何とかなだめるしかない。 「どうして後方配置が役に立たんなどと申す?そなた、いやしくも孝廉であろう。相国(蕭何。前出の張良と並ぶ漢建国の功臣)の事くらい知っておるであろう?」 「それは、まぁ…」 「相国の功績とはいかなるものであるか。申してみよ」 「相国は…高祖が項羽と戦っていた際、本拠の関中にあり…丞相として全ての政務をこなすと共に、漢の法制を定め…前線への補給を途絶えさせる事無く続け、兵達を飢えさせる事はなく…」 「そうだ。そして、高祖は相国の功を第一とした。輜重とは、かくも重要なものだ。それを任せるというのに、役に立たんなどという事はなかろう」 「はぁ…」 確かに、その通りである。 「それに、時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良いのだぞ」 「好きな様に、ですか?」 「あぁ。わが家人と立ち合いをするのもよいし、遠駆けをしてもよい」 「そっ、その様な…」 相国の故事を持ち出したり、空き時間を好きに使って良いなどとは、新入りの自分には過ぎた厚遇ではないか。そう思った。しかし、かくも自分の事を気遣ってくれるとは。何よりも、その事が嬉しかった。 「私は、そなたの才は相当なものと見ておる。しっかりと務めてくれよ」 「はい!」 こうして、軍団に一人の智嚢(知恵袋)が誕生した。とはいえ、それが明らかになるのは、後の事である。
80:左平(仮名) 2003/09/14(日) 22:19 四十、 それから数ヶ月が経った。 さすがに孝廉に推挙されたというだけの事はある。数人の属官を与えられ、輜重の管理及び各種報告の整理作成に励む賈ク【言+羽】の仕事ぶりは、並外れたものがあった。 「ふむふむ…」 しばし木簡に目を通したかと思うと、おもむろに筆をとり、何事かを書き込んでいく。内容を確認した旨の署名と、属官への指示である。 (この当時、印章というものは既に存在していた。ならば、押印一つで決裁となってもよさそうであるが、そうもいかない。印章はあっても、使用方法は現在とは異なるからである。当時、印章は文書の機密性を守る『封泥』を行う為に用いられていた。現在の様に、押印によって目を通した事・決裁した事を示すという性質を持つのは、紙が普及してからの事である)。 「よし!この件はここに記した様にせよ!次!」 「はい!こちらを!」 すぐさま属官が新たな木簡を差し出す。 「うむ。…むっ?ここに間違いが一箇所あるぞ。『二』ではなく『三』であろう。それに、文面にも問題があるぞ。やり直し!」 「は、はいっ!」 確かに書き間違いである。これには、反論のしようもない。 「ぐずぐずするな!明るいうちに全て終わらせるぞ!次!」 「はい!こ、こちらを!」 実にてきぱきとしたものである。遠目にも、山の様に積もった木簡の束が次々と片付いていくのが分かる。身分も時代も全く異なるが、その姿は、かつての始皇帝にも似たものがある(もちろん、属官達がその様な故事を知っているとは思えないが)。 その仕事振りは、何かに憑かれた様でもあった。 属官達も、うかうかとはしておれない。新たな上司である賈ク【言+羽】は、単に文面を見ているだけではなく、そこに書かれた数字の一つ一つに至るまで厳しく確認しているのである。 孝廉に推挙される基準は、その字面のとおり、「孝行」でありかつ「清廉」である事と言える。その基礎となるのは、言うまでもなく儒の教えである。しかし、彼はそれ以外の学問にも深く通じている様で、文言の誤りや細かい数字の矛盾点も的確に指摘する。そこに、ごまかしや馴れ合いの入る余地は一切ない。 「またえらい方が任に就かれたもんだ…」 皆、一様に驚き呆れた。この様な上官は初めてである。 董卓は、この様な事には概して鷹揚に構えていた。露骨な不正があれば厳しい処罰があったが、ささいな誤りについては、特に咎めるという事もなかったのである。今まではそれでよかったし、特に問題があったというわけでもない。 だが、塵も積もれば山となる、という。それらの累積の結果は、こうしてみると、存外ばかにならないものがあった。 (随分と無駄があったもんだな…) 賈ク【言+羽】の報告を聞きつつ、牛輔もまた、驚きを隠せなかった。と同時に、彼の様な優秀な人材を得られた事を大いに喜んだ。 とはいえ、彼もまた、賈ク【言+羽】の事をよく理解しているというわけではなかった。 地位こそあれど、どこか陰鬱としたものを感じずにはいられなかった都に比べ、ここは、雰囲気が良いし、与えられた仕事も悪くない。この環境には、おおむね満足している。 しかし、「あの事」は、今もまだ心に引っかかっている。それを解消するにはどうしたら良いのか。 (とにかく、この非力なのを何とかせねばな) あの立ち合いから数ヶ月の間、賈ク【言+羽】はよく食べ、また、武術の修練に励んだ。少しでも肉をつけ、力をつけようと思ったのである。しかし、思う様には肉はつかない。 彼が痩身なのは、修練が足りないからではなく、そういう体質だったからなのである。 (これでは、どうやっても強くなれないではないか。俺は、ずっと弱いままなのか) その事を改めて思い知った彼は、またしばし落ち込んだ。仕事振りは並外れていても、このあたりは、まだまだ二十代の若者である。
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