小説 『牛氏』 第一部
90:左平(仮名)2003/10/19(日) 23:47AAS
四十五、

「あなた」
ふと気づくと、後ろに姜が立っていた。いつも明るい彼女であるが、今日はまた一段と機嫌がいい様である。
「ああ、姜か。どうした?何かいい事でもあったか?」
「分かりますか?」
「そりゃそうだよ。私はそなたの夫だぞ。いつもより表情が明るいのだからな、すぐ分かるよ」
「まぁ」
そう微笑む彼女を見ていると、心の底から安らかになる。その笑顔が、どれほど自分を助けてくれているか。今まで考え事をしていただけに、そう、強く感じる。
「実はですね…また授かったのですよ」
「授かった?何を?」
見当はついているが、わざととぼけてみせると、姜はすねた様に軽く体をよじらせてみせた。その仕草がまた愛らしい。
「分かってらっしゃるくせに。赤子が授かったのですよ」
「おお、そうだったか」
軽く微笑みながら、そう返事をする。先の初産の時とは異なり、二人とも落ち着いたものである。
「はい。産まれるのはもう半年余り先だそうです」
「ともかく、元気で良い子が産まれて欲しいものだな」
既に牛輔夫婦には蓋という男子がいるので、今度の子が男であろうと女であろうとどちらでも良い。現に、蓋の次の子は女であったが、牛輔も、董卓も、相当な喜び様であった。今回も、同じである。
「ええ。ただ、何となくなのですが…今度の子は、きっと男の子です。そうに違いありません」
女の勘というものであろうか。こういうのは、案外当たるものである。
「そうか。そなたがそう思うのであれば、この子は男だな。となると、蓋に劣らぬ名を考えてやらんと」
事実、それからしばらくの間、牛輔は盛んに書を読み漁った。なにしろ、蓋の名の由来は「天蓋」である。いい加減な名をつけるわけにはいかない。


見上げる空が、ひときわ青い。
「今年もまた、羌族が暴れるのであろうか…」
涼州の人々は、憂いを持ってそう語り合っていた。先に『幽州、并州に比べると、ここ涼州は比較的平穏』と書いたが、それはあくまでも相対的に平穏という程度のものである。確かに大規模な叛乱こそないものの、全く何もなかったというわけではない。収穫物を狙った小規模の寇略は時々あったのである。ただ、自分の評価が下がるのを恐れた官僚達はこの事を中央に報告したがらなかった為、よほどのものでない限り史書には記載されず、あたかもなかったかの如くなっているが。
『天高く馬肥ゆる秋』という言葉がある。我々日本人にとっては、酷暑が過ぎてしのぎやすい季節であると共に収穫を祝うという安らかな季節である秋だが、この地の人々にとっては、羌族をはじめとする騎馬遊牧民の寇略が待っているという、呪わしい言葉であった。

「盈よ。羌族に新たな動きは?」
牛輔は偵察から戻ってきた盈にそう問いかけた。名門・牛氏の一人として、いま彼が背負っている責任は重い。この地の安寧の為にも、一度たりとも敗北は許されないのであるから、無理もない。
彼は決して非凡な将帥ではない。自身、その事はよく認識している。それゆえ、決して奇想に走る事はなく、堅実な戦を心がけている。十分に偵察を行い、常に敵を上回る様に兵を配備する。敵が寡兵であろうと侮らず、全力をもって戦う。今までに、もう何度戦ってきたことであろうか。今のところ、それはうまくいっている。
「まだはっきりとはしませんが…近いうちに動くでしょう。ここ数年、羌族は強壮な戦士を多く失っております故、力は弱っているのではあるのでしょうが…」
盈の口調は、どうもはっきりしなかった。何か予感するところがあったのかも知れない。しかし、この時の牛輔は、その予感に気づく事はなかった。そして、その事が思いがけない事態を招く事になった。
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