小説 『牛氏』 第一部
93:2003/10/26(日) 23:35AAS
(我らは、知らぬ間に窪地に入っているではないか!)
そして、ふと見上げると、羌族の騎兵の姿が映った。それも、一騎、二騎ではない。
(我らは包囲されたのか!)
こうなると、形勢は完全に逆転してしまう。

周囲は、崖とは言わないまでも駆け上るにはやや苦しい坂になっている。ここで包囲されたりしたら、いかに数にまさるとはいえ、勝てるという保証はない。急いで脱出せねばならないが、ここを抜けるには、前進か後退しかない。しかし、もうあたりは薄暗くなっている。このままではまずいが、かといって、前後の状況が分からないのでは手の打ち様がない。
(我らがいるのは囲地【いち:狭隘な道のみで外界とつながっている様な地形】か死地【しち:囲地に加え、大敵がいる様な状況】か…。どうする?どうすればいい?)
初めて立つ苦境に、牛輔は、しばし言葉を失った。

(このままでは…我が方は敗れる。そうなれば、私も含めて多数の死傷者が出る…)
これまで何度も戦ってきたが、自身の事はともかくとして、『敗戦』という言葉が頭をよぎったのはこれが初めてである。しかも、厄介な事に、ひとたびそういう思いが頭をよぎると、どんどん悲観的になっていく。自分でも、それではいけないと分かっているのに、どうしてもそういう方向にしか思考ができなくなってしまうのである。
(多くの兵を失ってしまえば…長年にわたって培ってきた董氏の威勢は損なわれる…義父上の望みも叶わなくなってしまう…)
(私は…牛氏の、また董氏の名誉を損ねてしまうのか…)
父の、義父の、そして姜の顔が、脳裏に浮かんでは消える。自分の僅かな判断の誤りによって、いとしい者達を悲しませてしまうのか。そう思うとやり切れなくなる。
それだけは何としても避けたい。たとえ自分が死んだとしても。しかし、その為の方策はさっぱり思いつかない。
(あれだけ兵書を読んできたというのに、肝心な時に出てこないなんて…)
自分自身の無能が、呪わしく感じられた。そうしているうちに、日は落ち、あたりは次第に暗くなっていった。あたかも、彼の心の中の様に。

「殿」
すっかり日も暮れ、皆その場に座り込んだ中、二人の男が牛輔に近づいてきた。盈と賈ク【言+羽】である。
「おお、盈に文和か。どうした?」
そう言う牛輔の声は、まだ二十代の青年とは思えぬほど張りがなかった。この時、精神的にすっかり参ってしまっていたのである。
「はい。この状況をみて、文和殿が一つ申し上げたい事があるとの事です」
「言いたい事?いったい何だ?」
牛輔には、賈ク【言+羽】が何を考えているかもさっぱり分からなかった。
「一言で申し上げます。いま、我が方は不利に陥っていますね?」
「むっ…。残念ながら、その通りだ。どうやら周囲を羌族に包囲されているらしい。まだ兵達はこの事に気付いていない様ではあるが…」
「明朝になれば、兵達も気付く事でしょう。盈殿の報告には間違いないですから、兵力自体は現在も我が方が上回っているはずです。にしても、この様子では、兵達は恐慌をきたし士気が続かないでしょう。士気が続かなければ…」
「明日には、我が方は敗れる…」
「となれば、一刻も早く手を打たねばなりません。兵書にも『囲地ならば即ち謀り、死地ならば即ち戦う』とあるではございませんか」
「私にも、それは分かっておるのだ。しかし、あたりの様子が分からぬ事にはな。この状況の打開策が思いつかない」
「それなのですが…私に、一つ策がございます」
「策?いかなる策だ?」
「はい。それは…」
賈ク【言+羽】は牛輔の耳元に口を寄せ、何事かをささやいた。
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