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袁紹はナゼ過小評価される!?
12:★ぐっこ 2003/06/14(土) 18:39 ダメっすかねと言われましても(^_^;) 設定を活かしてグイグイ時代をリードする袁紹像というのも、 相当に真新しいものとなるでしょう。一話一話のストーリーさえ 下手でなければ、けっこうな話題になるかも。 わたし個人の趣味ですが、巷に溢れている「オリジナル妄想全開」の072作品 は(三国志モノでなくても)萎えてしまいます。 完全オリジナルならばまだしも、二次作品ならば元の設定を尊重しろよと眉を 顰めるタイプですので…。 三国志モノに関して言えば、昔正史厨だった頃の習性か、あきらかに演義「だけ」 がベースの二次作品は、問答無用でダウト。 あ、「イロモノ系」はその限りでないんですが… >史実考察 楽しいですよ? 最近面倒なのでとんとやってませんが、やみつきになると 何万円の資料を平気でポンポン買えたりします。 まして袁紹は青年時代のエピソードが非常に楽しいので、後漢後期の、袁紹の祖父殿 あたりから掘り下げてゆけば、どんどん新しい発見にぶつかること請け合い! 反董卓連合の内部事情とかも、当時の状況見ながら分析すると、何か色んな連中の 思惑が入り乱れてて楽しげ。このへんの考察に関してはニセクロさまのとこが白眉。 これらを取り入れた上で、気合いバリバリの袁紹漫画などを描かれたら、上田様のお名前は 三戦ネット界に遍く知れ渡るようになるかと。傑作の予感!
13:左平(仮名) 2003/06/15(日) 20:57 数万円の資料は難しいにしても、最近はインタ−ネットのサイトも充実してますし、文庫・新書本でも結構専門的なものもありますから、それなりのものはできますよ。 それに、ここに書き込めば、ぐっこさん、玉川さん、もすさんといった詳しい方々がおられますから、どんどん質問なさってもいいわけですし。 長編になるのが難しいとお考えでしたら、時期を絞って短編集の様な形にされては?
14:上田散人 2003/06/21(土) 20:00 親切なアドバイスと温かい励ましの言葉に感謝します。 >わたし個人の趣味ですが、巷に溢れている「オリジナル妄想全開」の072作品 は(三国志モノでなくても)萎えてしまいます。 完全オリジナルならばまだしも、二次作品ならば元の設定を尊重しろよと眉を 顰めるタイプですので…。 三国志モノに関して言えば、昔正史厨だった頃の習性か、あきらかに演義「だけ」 がベースの二次作品は、問答無用でダウト。 あ、「イロモノ系」はその限りでないんですが… なるほど、正史派でイロモノは例外………。「学園三国志」を見ていればよくわかります。 私は世にあふれる三国志モノに対して、正史準拠・演義準拠の別には一切こだわらないのですが、 やはり自分が作品を書く段にあっては、 いかに正史に沿いつつ新解釈(と言う名のウソ)を盛り込めるかをテーマにしております。 それが実際の歴史に舞台を借りる創作の醍醐味だと思ってますんで。 ニセクロさんのサイトは以前から知っていました。 ニセクロさんはすごいですよね、あれこそ正に“史料の行間を読む”考察だと思います。 文献紹介にズラ〜〜っと並んだ本に触発されて、 真に「三国志」を理解するには三国志のミイちゃんハアちゃん的ファンのままでいてはダメだ! と「急がば回れ」で直接的には三国志に関係のない思想、歴史、文学の本に食指を伸ばしています。 つーかさぁ、「演義」の面白いところでもあり問題なところってのはさぁ、個人劇化しすぎ? 登場人物の行動を全部本人の性格や器量の問題にして説明しちゃうの。 おかげさんで袁紹や劉表は一挙一動優柔不断優柔不断と無能を強調されてばっか! そんな「演義的世界観」に毒されたフィルターがかかってるから、 たとえ正史に触れても個人劇として読んでしまうってわけ。 だから「演義」の呪縛を破る!なんて吹かす正史準拠の三国志モノも大抵、 劉備がどうした孔明がどうしたばっかの「演義的個人劇」の呪縛の内、お釈迦様の手のひらの上に終わってるってーの。 かかる演義の呪縛を真の意味でブチ破るなら、後漢末・三国時代の史料を読み漁るだけでなく、 有史以来の中国社会そのものへの深い見識を有し、広く当時の文化的、制度的、思想的、地理的背景を理解し、 そこまで踏まえて「物語」を構築してみせてこそ、 やっと凡庸でありきたりで演義に引きずられていない「三国志」モノができるんだっつーの! ……なんて触発された時点で、もうこんな偉そうな事ばかり考える私……。 とっとと読め!とっとと書け!
15:★ぐっこ 2003/06/21(土) 20:32 確かにご説ごもっともでございます。個人ベースのものならともかく、 立派に本屋に売られてる三国志作品や他の歴史小説などの中にも、明らかに 作家の勉強不足が伺えるものが散見できますね…。 特に三国志作品の場合、ハッキリ分かってしまうぶんツッコミどころ満載。 前回の書き込みでは言葉不足でしたが、私は別に演義嫌いとかではありません。 というかむしろ好きです。ただ、基本的に「二次作品の二次作品」というモノが 苦手なんだと思います。 >「演義的個人劇」の呪縛の内、お釈迦様の手のひらの上に終わってるってーの。 コレに関しては、意見が分かれるところでしょうね…。小説である以上、人間が 活躍してなんぼ。史料の解釈で許される範囲ならば、むしろキャラクターとしての 特性(能力含む)を出すのは、私は問題ないと思います。それこそ袁紹一党とか。 ついでに歴史上の出来事や戦の勝敗は、自動的に発生する訳では無論なく、あくまで 人間が基ですからね…。 バックボーンや時代背景だけで物語が動いてしまっては、それは小説ではなく歴史解説書 ですし。 >有史以来の中国社会そのものへの深い見識を有し、広く当時の文化的、制度的、思想的、 >地理的背景を理解し、そこまで踏まえて「物語」を構築してみせてこそ、 >凡庸でありきたりで演義に引きずられていない「三国志」モノができるんだっつーの! はっはっは。明らかにうちとこのコンテンツ選に漏れますな。 私も多少は中国史とか風俗史とかを勉強しましたけど、とてもここまで断言できるほどの 知識はありません。一生かかっても、きっとたどり着けないでしょう。 「演義の呪縛」…は、容易には解けないと思います。そもそも三国迷の大半は、「演義」 スタートですから、何とか面白い三国志小説を、と熱中する事自体が、既に羅貫中の術中 と思えなくもなく。思えば、ここまで完成されたノベライズってのは、世界中探しても、 そう見つからないかも。
16:★ぐっこ 2003/06/21(土) 20:40 …と、話題が変な方向へ行ってしまいますね(^_^;) あくまでスレタイは袁紹はなぜ過小評価されるかでしたな。 >つーかさぁ、「演義」の面白いところでもあり問題なところってのはさぁ、個人劇化しすぎ? >登場人物の行動を全部本人の性格や器量の問題にして説明しちゃうの。 >おかげさんで袁紹や劉表は一挙一動優柔不断優柔不断と無能を強調されてばっか! 答え出てますね(^_^;) 私もなんかこう、考えがもやっと胸の中につっかえてましたが、 この一文読んで納得! 劉表にしても袁紹にしても色々家中や領地に問題を抱え、その行動全てが自分の本意で 行ったわけでは無いのに、羅貫中はすべて個人の怠惰・怯懦に帰して描く。 上田様は、まさしくこのへんのしがらみを洗い出し、如何に袁紹が滅んでいったかという 過程を描きたいと思われているのでは? 私、こういう敗者側の解題は大好き! 大いに期待いたします!
17:上田散人 2003/06/22(日) 03:01 >>「演義的個人劇」の呪縛の内、お釈迦様の手のひらの上に終わってるってーの。 >コレに関しては、意見が分かれるところでしょうね…。小説である以上、人間が 活躍してなんぼ。史料の解釈で許される範囲ならば、むしろキャラクターとしての 特性(能力含む)を出すのは、私は問題ないと思います。それこそ袁紹一党とか。 ついでに歴史上の出来事や戦の勝敗は、自動的に発生する訳では無論なく、あくまで 人間が基ですからね…。 バックボーンや時代背景だけで物語が動いてしまっては、それは小説ではなく歴史解説書 ですし。 嗚呼…、その通りです。いつも走り過ぎてしまい地雷を踏む私。 言い直しましょう。「演義」には多くの背景や状況の切り捨てがあるにせよ、 確固として人間ドラマに焦点が当てられており、それゆえに時代を超えた普遍性を持っている。 演義を越える、演義の虚妄を打ち破る、などと言っても「人のドラマ」を描くのである以上、 それはすでに演義と焦点を同じにしているのだ。 だからこそいくら新たなる「三国志の物語」が後に続こうとも、演義は決して色褪せる事無く、また絶える事もないだろう。 ………とまぁ、一応フォローをしておいて上のレスで言いたかった事を付け足すと、 個々人の資質のみならず背景や状況に目配りしないと 肝心の「人間ドラマ」そのものにも深みが生まれないよ、という事なんです。 暗君、仁君、忠臣、逆臣、勇将、ザコ将、 しばしば演義の登場人物が類型的で、平板な印象を免れないのはそういう問題にあると思います。 類型的なのがイコール問題、と言ってしまえば言い過ぎですが (では、そもそも人格のオリジナリティとは何だ? なんて話には首を突っ込みたくない)、 背景、状況、環境、情勢、その他もろもろの要因を切り捨てる事によって、 膨大な登場人物が時として薄っぺらなパターンに見えてしまうのはやっぱ残念ッスよぉ、なんて。 この個人劇に特化する事によって個人劇として厚みを失う事のジレンマ。 そんな事を言わんと走り過ぎて、あたかも歴史ドラマの人間主体を否定するかのように言ってしまった、という話で。
18:上田散人 2003/06/22(日) 03:15 それにこれはただの「自戒」です。 もうすでに明白(バレバレ)ですが、私はただの暴走的キャラ萌え野郎です。 大言壮語(口先ばかりと言う)に実を伴わせる為にこそ、必死でエトセトラ勉強中です。
19:上田散人 2003/06/22(日) 03:37 ぐっこさんの言う通りテーマからズレてきたので本題に戻りましょう。ついでに >あえて声をあげるほど、袁紹解釈に不満がある本はやはり昔のものが中心です。 その具体的な不満については次のレスで。 と言ったきりにもなっていたので今回は(ようやく)その具体例を。 取り上げる作品はズバリ「秘本三国志」。 厳密に言えば袁紹の過小評価は、魏王朝=曹操を正統とする「正史」から始まっているのであって、 「演義」の影響を脱した正史準拠である本作にしても、袁紹が「演義」まんまの月並みな描写であるとかは、 この際槍玉に挙げるべきではないとは思う。 しかし、しかしだ。それを差し引いても個人的に私が引っかかったのは章末尾の「作者曰く」なのだ。 「敗因はすべて寝返りなので、袁紹の人柄に帰すべきであろう」(第四巻・黄河を渡るべきか) ……………じゃあ、陳宮・張バクの裏切りはどうなるんですか陳先生。 そもそも陳宮も許攸も乱世にありがちな、忠誠より自身の野望を満たそうとする謀士ですが、 張バクは仁義に厚い事で知られる気骨の士であり、曹操の無二の親友ですよ。 同じ古くからの友人でも、許攸の裏切りなんぞより、こっちの方がよっぽど曹操の人柄を疑わせませんかね。 まぁ、そこらへんは人によって意見も違うでしょうが……。 …………大体なぁ、巷にありがちな、官渡の戦いで袁紹の君臣関係を問題にし、対して曹操と部下との信頼関係を強調して、 比較象徴するパターンってのがすでになんだかなぁ。 官渡で曹操に撤退を踏みとどまらせた荀イクなんて、その後魏公就任を巡って決裂し、疎んじられているのに……。 荀イクら名士層の支持によって勢力を拡大し、基盤を確固たるものにしておきながら、 そこで自分が望む形の権力確立のために、一転名士層の弾圧を始めるというのも、袁紹とは別にえげつないなぁ。 自分としてはそう思っているんだけど、 本作「秘本」では、その荀イクとの決裂は「口裏を合わせていた」という事になっているんだよ、これが。 やっぱり袁紹が家臣と決裂したのは単に身を滅ぼしただけであったのに対し、 曹操は逆に確かな覇業実現へ邁進しての副産物であった、という違いなんだろうかねぇ。 そこらへんに秘本で「実は魏公就任反対は荀イクと口裏を合わせていた」という解釈を成り立たせる余地がある、と。 だから作品内における袁紹の評価は、秘本的、陳先生的には一貫したものになっているんでしょうな。 でもやっぱり章末尾の作者曰くは一方的だろう。
20:むじん 2003/06/22(日) 13:47 [mujin@parfait.ne.jp] はじめまして。横れすれす。 個人的には登場人物の心象風景の描写を主題とした小説はあまり好きではないです。 作者がそうした努力をすればするほど、結局その人物の心情は作者の心情の投影に過ぎなくなってしまいます。 袁紹の場合はそれこそ作者の凡庸性を反映したものでしょう。 むしろ事実(←作中の、ね)だけを淡々と書き連ねていくスタイルが好きですね。 そうした事件に対して登場人物が何を思ったのかは読者に委ねるのが最善の道です。 その点から言っても、『三国志』を元にして作られた創作物のうち 『演義』を越える作品はまだ見あたらないという観があります。 ちまたで語られる「萌え」という言葉は、その人物に実際的に備わる属性に対してではなく、 作中では触れられない余白に対して向けられているというのが私の観察です。 たとえば趙雲の武勇とか、諸葛亮の知略に対しては「萌え」ないわけです。 人物を類型的に作れば、それだけに読者の想像に委ねられる部分(つまり萌え要素)が多くなります。 読者が○○という作品が好き、と語るとき、 実際はその作品から導き出した自分自身の想像が好きなんですよ(多分)。 だから作者がその余地を削り取ってしまえば読者に不満が残る。 ネット上を見ればわかりますが、いかに『演義』が読者の想像力を刺激してきたことか…。 『演義』は人物を類型的に作ったからこそ、あれだけ二次作品を生み出すことになったんですよ。 そういう意味からいって、至高の三国志小説は 陳寿の書いた正史『三国志』であるとさえ私は思ってますよ。 (ニセクロさまの姜維や袁術についての考察は凡庸な小説より小説的でしょう)
21:★ぐっこ 2003/06/22(日) 15:41 ヨコソー、むじん様 >たとえば趙雲の武勇とか、諸葛亮の知略に対しては「萌え」ないわけです。 コレかなり同意。歴史小説でもハァハァゲームでも、いわゆる「萌え」が発生するのは、 そのキャラクターの余白部分であることが多いですよねー。 ゴンタ風に言えば心の闇か? いや、ゴンタはどうでもよくて。――確かに個々のキャラクターの内心描写を延々と されると萎えますねえ。(もっとも、主人公に関しては、あまり素っ気ないのもアレですが) そのへん、ナニゲなセリフで読ませるテキストは感心。 結局は、バランスなんでしょうけど。 ところで、ネットで三国志の小説をたまに読むことがありますが、ヤハリ目立つのは、説明の 長さ。人物でも事件でも背景でも。全文の7割を占めるくらい。 状況説明を含め、読者へ一方的な情報を与えるテキストは、2割以下に抑えるのが理想的と 言われてますが…。歴史物だと、多くて3割くらいかな? 三国志演義は、ノベライゼーションのお手本のような作品ですが、惜しむらくはザコ武将を ぞんざいに扱いすぎましたね…。いや、だからこそ、後世、我々に妄想を差し挟む余地を与えて いるのかもしれませんが…
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