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袁紹はナゼ過小評価される!?
17:上田散人2003/06/22(日) 03:01
>>「演義的個人劇」の呪縛の内、お釈迦様の手のひらの上に終わってるってーの。
>コレに関しては、意見が分かれるところでしょうね…。小説である以上、人間が
活躍してなんぼ。史料の解釈で許される範囲ならば、むしろキャラクターとしての
特性(能力含む)を出すのは、私は問題ないと思います。それこそ袁紹一党とか。
ついでに歴史上の出来事や戦の勝敗は、自動的に発生する訳では無論なく、あくまで
人間が基ですからね…。
バックボーンや時代背景だけで物語が動いてしまっては、それは小説ではなく歴史解説書
ですし。
嗚呼…、その通りです。いつも走り過ぎてしまい地雷を踏む私。
言い直しましょう。「演義」には多くの背景や状況の切り捨てがあるにせよ、
確固として人間ドラマに焦点が当てられており、それゆえに時代を超えた普遍性を持っている。
演義を越える、演義の虚妄を打ち破る、などと言っても「人のドラマ」を描くのである以上、
それはすでに演義と焦点を同じにしているのだ。
だからこそいくら新たなる「三国志の物語」が後に続こうとも、演義は決して色褪せる事無く、また絶える事もないだろう。
………とまぁ、一応フォローをしておいて上のレスで言いたかった事を付け足すと、
個々人の資質のみならず背景や状況に目配りしないと
肝心の「人間ドラマ」そのものにも深みが生まれないよ、という事なんです。
暗君、仁君、忠臣、逆臣、勇将、ザコ将、
しばしば演義の登場人物が類型的で、平板な印象を免れないのはそういう問題にあると思います。
類型的なのがイコール問題、と言ってしまえば言い過ぎですが
(では、そもそも人格のオリジナリティとは何だ? なんて話には首を突っ込みたくない)、
背景、状況、環境、情勢、その他もろもろの要因を切り捨てる事によって、
膨大な登場人物が時として薄っぺらなパターンに見えてしまうのはやっぱ残念ッスよぉ、なんて。
この個人劇に特化する事によって個人劇として厚みを失う事のジレンマ。
そんな事を言わんと走り過ぎて、あたかも歴史ドラマの人間主体を否定するかのように言ってしまった、という話で。
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