袁紹はナゼ過小評価される!?
20:むじん2003/06/22(日) 13:47 [mujin@parfait.ne.jp] AAS
はじめまして。横れすれす。

個人的には登場人物の心象風景の描写を主題とした小説はあまり好きではないです。
作者がそうした努力をすればするほど、結局その人物の心情は作者の心情の投影に過ぎなくなってしまいます。
袁紹の場合はそれこそ作者の凡庸性を反映したものでしょう。
むしろ事実(←作中の、ね)だけを淡々と書き連ねていくスタイルが好きですね。
そうした事件に対して登場人物が何を思ったのかは読者に委ねるのが最善の道です。
その点から言っても、『三国志』を元にして作られた創作物のうち
『演義』を越える作品はまだ見あたらないという観があります。
ちまたで語られる「萌え」という言葉は、その人物に実際的に備わる属性に対してではなく、
作中では触れられない余白に対して向けられているというのが私の観察です。
たとえば趙雲の武勇とか、諸葛亮の知略に対しては「萌え」ないわけです。
人物を類型的に作れば、それだけに読者の想像に委ねられる部分(つまり萌え要素)が多くなります。
読者が○○という作品が好き、と語るとき、
実際はその作品から導き出した自分自身の想像が好きなんですよ(多分)。
だから作者がその余地を削り取ってしまえば読者に不満が残る。
ネット上を見ればわかりますが、いかに『演義』が読者の想像力を刺激してきたことか…。
『演義』は人物を類型的に作ったからこそ、あれだけ二次作品を生み出すことになったんですよ。

そういう意味からいって、至高の三国志小説は
陳寿の書いた正史『三国志』であるとさえ私は思ってますよ。
(ニセクロさまの姜維や袁術についての考察は凡庸な小説より小説的でしょう)
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