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「司州」という表記について
1:ばんる 2004/01/15(木) 01:25 初めまして。最近このサイトに入り浸らせていただいている者です。 まだ全部は読み終わっていないけど、「南蛮王呂布」も「学園三国志」も 面白いですね!続き楽しみにしています! …でも感想はちょっと置いといて。 知識豊富な皆様にちょっとお尋ねしたいことあるので、思い切って書き込みをしてみました。 最近あちこちで「司州」という標記を目にするのですが、これって「司隷」が正しくないですか? 正史『三国志』には郡国志、地理志の類がありませんが、『後漢書』の郡国志には、「司隷」として載っています。 でも正史『三国志』に付いている地図に「司州」って書いてあるんですよね。 これの元ネタになってる『中国歴史地図集』では、第二冊「秦・西漢・東漢時期」で「司隷」、第三冊「三国・西晋時期」で「司州」という表記になっています。 最初は地図作った人が間違えたのかな、と軽く思ってたのですが、なんだかほんとにどこでも「司州」になってるので、もしかして都が東に遷った時に改称でもされてたか!?とかいろいろ考えてみたり…。 でも「司隷」とは「隷を司る」地域であって、税収入が皇帝の私費に当てられる、つまり私有地みたいなものだと記憶しています。(実質州と変わらないわけなんですが。郡と国の関係のような感じで。) その頭の文字だけ取って州の名前にするのは、なんだかヘンじゃないでしょうか? いちおうログはチェックさせていただきましたが、この話題はなかったようなので、スレッド立てさせていただきました。 よろしくご教授願います。(他力本願ですいません!!)
2:★ぐっこ 2004/01/15(木) 23:03 はじめまして、ばんる様! 書き込みありがとうございます〜。 さて、お尋ねの件「司州」ですが、ぶっちゃけていうと、ほとんどばんる様が 答えを出してしまっているような… 私も学三がらみでちょろっと司隷校尉部のあたりの地理志読んだだけなので、 上っ面部分しかわからないのですが… 例によって中央研究院で検索してみますと、 それらしい記述のほとんどは、晋書に集中しています。 幸い晋書には志があるのでその地理志「司州」を見てみますと、 司州.案禹貢豫州之地.及漢武帝,初置司隸校尉,所部三輔、三河諸郡. 其界西得雍州之京兆、馮翊、扶風三郡,北得冀州之河東、河內二郡,東得豫州之弘農、 河南二郡,郡凡七.位望隆于牧伯,銀印青綬. 及光武都洛陽,司隸所部與前漢不異. 魏氏受禪,即都漢宮,司隸所部河南、河東、河内、弘農并冀州之平陽,合五郡,置司州. 晉仍居魏都,乃以三輔還屬雍州,分河南立滎陽,分雍州之京兆立上洛,廢東郡立頓丘, 遂定名司州,以司隸校尉統之.州統郡一十二,縣一百,戶四十七萬五千七百. もう一カ所、 晉武帝太康元年,既平孫氏,凡£u郡國二十有三,滎陽、上洛、頓丘、臨淮、東莞、 襄城、汝陰、長廣、廣戟A昌黎、新野、隨郡、陰平、義陽、毗陵、宣城、南康、晉安、 寧浦、始平、略陽、樂平、南平.省司隸置司州 とまあ、はっきりと「地名を変えた」というカンジですねえ。 ただし、司隷校尉部を「司州」と呼ぶのは結構前からあったはずで、豫州刺史を 「豫州さま」と呼ぶように、司隷校尉を「司州さま」と呼び慣わしている記述を、 どこかで見た気がします。…ちくま和訳だったかもしれませんが。 ついでに後漢書安帝紀には 司隸,領河南、河内、河東、弘農,都於洛陽.魏末因為司州. とありますので、名称変更のタイミングは微妙ですが… 問題は、なぜそういう名前に変えてしまったか、ですねえ(^_^;) 司隷校尉という官位は厳然として残ってますが、晋以降は司州刺史 なる役職もありますし、そのへんの詳細な経緯については、諸賢の 援護射撃を期待するや切であります、と。
3:★玉川雄一 2004/01/15(木) 23:19 はじめまして。なかなか興味深い話題提起をありがとうございます。 手持ちの晋書地理誌をひもときますと、「司州」と記されています。 ●西漢武帝が初めて司隷校尉を置き、京兆、馮翊、扶風、河東、河内、弘農、河南の七郡を属せしむ。 ただし、この時点ではその地域名(「司隷」なり「司州」)は特定していない。 ●光武帝が洛陽に都を置いたが、“司隷部所前漢不異”。「司隷の部する所は前漢と異ならず」? ●魏が受禅すると、“司隷部所”河南、河東、河内、弘農、平陽の五郡で“置司州”。「司州」の言葉が登場。 ●さらに晋が魏都を継承した際に郡の再編を行い、“遂定名司州”やはり司州… 晋書では一貫して「司州」という表記がなされています。 これが「司隷」という表記と敢えて区別されているのかまではわかりませんし、 上の記事でも漢代にこの地域が「州の単位として」どのように呼ばれていたかはやはり不明ですね。
4:★玉川雄一 2004/01/15(木) 23:22 オフラインで見事に被った……_| ̄|●
5:★玉川雄一 2004/01/15(木) 23:25 あ、私の書き込みちょこっと引用間違えてます。 誤:●魏が受禅すると、“司隷部所”河南〜 正:●魏が受禅すると、“司隷所部”河南〜 要するにぐっこさんの記事の方が確実ですによって。
6:ばんる 2004/01/16(金) 01:01 早速のお返事ありがとうございました! や、やっぱり晋書か…。実は、むかーし中国で買って、船便で日本に送ったら、事故って行方不明になってしまって…。(汗) って言い訳がましいですねぇ…。ちゃんと発注しておくことにしますです。 「司隷」が「司州」になってしまうのって、「京都」が「京都府」になるようなもんなんでしょうか? 魏になって変わったというのが真相で間違いないようですが(受禅直後がか末だかは分かりませんが)、都は洛陽のままなハズ。 都が移動するにつれて、「司隷」となる地区が変わり、その結果以前の「司隷」は名称が変わって普通の州になる、とかだと、とっても納得がいくんですが、そうすっきり理屈が通っているものでもないんでしょうね。 私も三国時代ネタで創作をやったりするので(笑)その時代の人たちが普通に「司州」と呼んでいたのか、それとも「司隷」と呼んでいたのか、とぉっても気になります。 「司州さま」という表記はちくま正史のどこにあったのかな?ちょっと探してみることにしますね。
7:★ぐっこ 2004/01/17(土) 01:50 うーん、>>2の地理志部分を読む限りは、「司隷」を廃してしまって 「司州」を置いたということで、次に司隷がドコへ行ったかが記されて無く… もう地名としての「司隷」は無くなってしまった…という感があります。 それでも司隷校尉の統治州は残ってるからシュールな(^_^;) 三国志内の記述では、「司州之人士也」という紹介がチラホラあるようなので、 やはり日常レベルでは他の州と合わせる意味で「司州」が慣習化されてたかも しれない…と自信なく言ってみます。 >司州さま お手数おかけします〜。 学三で李膺さまをそう呼ぼうと決断したのが、その記述だったもので(^_^;) だから李膺に関する記述かなあ、と思って後漢書検索してもヒットしなかったです。 ひょっとしたら世説のほうかも…。 >創作 わかります! どうしても当時の慣習とか、地名・人名の呼び方とかをこだわりたく なるというのが!色々文献あさったりしましたねえ(^_^;) 最近になって応劭の「風俗通義」を知ったという間抜けっぷりでしたが…
8:japan 2004/01/17(土) 03:05 ばんる様、初めまして。 既にぐっこ様と玉川様のレスで解決済みの模様ですが、 『後漢書集解』郡国志の冒頭に「司州」と「司隷」についての 解説が載っていました。 私の読解力では詳細は不明なのですが(申し訳ありません)、 後漢〜晋にかけて何度か改変が行われているようです。 ・『献帝起居注』によると、建安十八年三月に司隷に属する郡を 豫・冀・雍の三州に分割した。(司隷は廃止された?) ・魏の黄初元年に司州が再び設置され、後に司隷という名に戻された(?) ・司州が復活したのは曹奐の時代だという説もあるが、これは間違い。 (孫権が蜀と司州分割についての協定を結んでいるため) で、結論らしき箇所は以下のとおりです。 考司州之名魏時屡見證之晋志通鑑可見魏時司隷但通稱司州 至晋太康始定名耳 魏代の正式名称は「司隷」で、通称として「司州」という名も用いられていた。 晋の太康元年に「司州」という名称が正式なものになった。 ということではないかと思います。 なお、ざっと見た限りでは『後漢書』の記述は「司隷」で統一されているようです。 何故「司隷」→「司州」と名前が変わったかは不明ですが、ばんる様の仰るように >都が移動するにつれて、「司隷」となる地区が変わり、 >その結果以前の「司隷」は名称が変わって普通の州になる のだとすれば、建安十八年に司隷が廃止された理由も納得できますね。 (当時の漢の都は、帝のいる許ということになっていたでしょうから) >司州さま 馬超と鍾ヨウの辺りで見たような…と思って捜したけれど、見つかりませんでした。 何となくどこかで見た気はするのですが…発見されたら是非お教え下さいm(_ _)m
9:中根東竜 2004/01/17(土) 22:53 japanさんのカキコをみて、 思いついて資治通鑑を見たのですが、建安十八年には州の 大改正が行われたようで、司隷だけではなく 涼州・幽州・并州の三州も廃止になって居ます。 胡三省は「則ち司、涼、幽、并を省き而して禹貢の九州を 復す矣。此れ曹操が自領は冀州牧なれば、 其の統べる所を広げんと欲して以て天下に制するのみ。」 と、この改正は曹操の領地を広げるためのものだと 言い切って居ますね。この改正により冀州は司州の河東・河内・ 馮翊・扶風と幽州并州を合併、華北ほぼ全域を 占めて居ます。
10:中根東竜 2004/01/17(土) 23:22 追記です。 建安十八年の州改正は、どうやら曹操の魏公就任と 連動しており、洛陽の後漢王室の権威を意図的に 低下させる目的なのではないか?と思われます。 魏書武帝紀によればこの年は曹操の魏の地盤固めを 着々と薦めた年であり、正月に州改正、四月魏公冀州牧 就任、七月魏公の社稷を建立、十一月腹心の荀攸・王粲 らを尚書六卿に任じ魏公国の行政組織が出来る…という 具合に、「漢にかわるものとして魏という国を作る」という ことを一生懸命薦めています(その障害になったジュンイクは 前年に謎の死を遂げ、後任に荀攸が座っている)。 その過程において、「司隷」は漢王室の所在を示す名称なので 魏建国の邪魔だということから、 故実に詳しい王粲あたりが「古代の夏王朝が定めた禹貢九州を 復活させるという名目で、司隷を消滅させる」という策を 言い出したのではないかと考えられます。(王粲はその直後に 官位を貰っており、どうもクサイ) …やや飛躍しすぎかとは思いますが、どうも前後の状況を 考えるとこんな感じのような気がしないでもありません。
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