「司州」という表記について
10:中根東竜2004/01/17(土) 23:22
追記です。
建安十八年の州改正は、どうやら曹操の魏公就任と
連動しており、洛陽の後漢王室の権威を意図的に
低下させる目的なのではないか?と思われます。
魏書武帝紀によればこの年は曹操の魏の地盤固めを
着々と薦めた年であり、正月に州改正、四月魏公冀州牧
就任、七月魏公の社稷を建立、十一月腹心の荀攸・王粲
らを尚書六卿に任じ魏公国の行政組織が出来る…という
具合に、「漢にかわるものとして魏という国を作る」という
ことを一生懸命薦めています(その障害になったジュンイクは
前年に謎の死を遂げ、後任に荀攸が座っている)。

その過程において、「司隷」は漢王室の所在を示す名称なので
魏建国の邪魔だということから、
故実に詳しい王粲あたりが「古代の夏王朝が定めた禹貢九州を
復活させるという名目で、司隷を消滅させる」という策を
言い出したのではないかと考えられます。(王粲はその直後に
官位を貰っており、どうもクサイ)

…やや飛躍しすぎかとは思いますが、どうも前後の状況を
考えるとこんな感じのような気がしないでもありません。
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