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「司州」という表記について
20:ばんる 2004/01/24(土) 00:39 なんだかいやにお褒めいただいて、嬉しいです。ありがとうございます。(照れつつ) マニア度としてはまだまだ…と本人は思うのですが。 あ、でも、何ギョウ出したこととかあります。(笑) 南蛮王呂布おもしろいですよ。文才あるなーと思います。 ギャグものは実はシリアスより難しいんじゃないかなと。
21:japan 2004/01/24(土) 18:05 >むじん様 詳細なデータをありがとうございます。 董卓や曹嵩も司隷校尉の経験があったんですね。知りませんでした。 よく見ると三行目の真ん中辺りに(+д+)マズーな名前の人が紛れているような… 諸葛亮や張飛は蜀漢王朝での官位でしょうか? 蜀には益州刺史とは別に司隷校尉の職が置かれていたそうですが、 どこを統治していたのでしょう。 成都周辺の何郡かを「司隷」と称していたのか、或いは呉と約定した 函谷関より西半分を名目上治めるという、一種の名誉職だったのか… >ばんる様 月川様とは存じ上げずに失礼いたしました。 三国志の中でも魏、特に曹一族や潁川清流派の人々に興味を持った きっかけの一つがばんる様の漫画でした。お話ができて光栄です。 後漢の初めの頃は、春秋といえば公羊・穀梁伝だったんですね。 三国志には左伝好きが多いから、左伝の方がメジャーなのかと 思っていました。 学問、地名、官職…まだまだ知らないことだらけです。 もっと勉強しなければ…
22:むじん 2004/01/25(日) 01:35 あいやどもどもです。 丁沖は、史書だと許に遷都した直後のような感じですねえ。 沛国の丁氏といえば丁沖父子のほか、 曹操の丁夫人、丁斐・亭謐父子がいてかなり豪華な顔ぶれ。 丁夫人は卞皇后よりはるか上の正室ですし…外戚ですかね。 >ばんるさん あとで拙サイトよりリンクを設定させていただきたいと思いますけど。 http://mujin.parfait.ne.jp/ http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/
23:むじん 2004/01/25(日) 01:51 >蜀之司隷校尉 蜀漢の制度から考えると益州刺史あるいは牧は必ずいたはず。 でないと太守を監察する官がなくなってしまいます。 しかし『三国志』に限っていえば、劉備即位後の益州牧は、 劉禅の時代に諸葛亮が益州牧になるまで不明なんですよね。 これだけ重要な官職が記録に残らないのも不自然なので、 やはり司隷校尉が益州を監督したと見るべきでしょうか。 あと、これは仮説以前の段階ですが、 劉備と劉禅とでは漢朝に対する姿勢が違ってきてるように感じます。 劉備の場合は、光武帝のように中興の「祖」になろうと考えていて、 劉禅の場合は後漢第十六代皇帝という意識があったような…。 気のせいかな。
24:★ぐっこ 2004/01/26(月) 01:07 >ばんるさま イエイエ〜。こちらこそよろしくお願い致します〜。 マニア度…あまりに知らない人たちがゾロゾロ出てくると、今度は見る人が限られ てしまうので、三国迷としてはばんる様の世界ぐらいが丁度かと! 学三の党錮前 ネタは、やりすぎの典型。 私はシリアスが書けない人なので、素直に尊敬してます…。1話1ネタさえ用意で きれば、ギャグのが楽ですし(^_^;) >むじんさま あー、そうです。前から沛の丁氏について、そのあたりの関係が 微妙だなと(^_^;) 曹操が正妻として丁夫人迎えたのは、風雲前の 話ですが、それ以前から曹氏と丁氏ってつながりあったのかなあ、と。 別れた妻の実家…って立場も微妙ですねえ… >蜀司隷校尉 意地でも「司隷を預かる職だ」として、益州を「司隷」扱いしていたのかなあ、 という意見に頷きたいです。それに皇太子の舅たる張飛が任じられたのだから、 名誉職ではなく、多少実のある職場の方がいいな、といういい加減な憶測ですが。 >漢王朝 そもそも漢王朝自体が無くなったため、両者のスタンスも相応に変化したのでしょうね…。 諸葛亮は当初台詞の端々で漢家を重んじて大義とし、その復興を劉備の旗印として煽って ましたが、劉禅の代だと、当然漢家=蜀漢になっちゃってますし。 演義のときから思ってましたが、もし劉備が許陥として献帝の身柄確保しちゃったら、どう してたでしょうかねえ(^_^;)娘後宮に押し込んで外戚になるにしても、同姓不婚だし…
25:ばんる 2004/01/27(火) 00:59 >japanさま びっくりしました。(笑)大した冊数も刷っていないのに(しかも随分月日が経ってしまってるのに!)、結構見てくださってる方がいらっしゃるものですね。 私が何らかの影響を与えてるなんて思うとあせりますけど、でも嬉しいです。ありがとうございます。 もはや誰も待ってないかもしれないけど、なんとか新作がつくれるよう今頑張ってるところです。 後漢を通じて、最も研究されていた『春秋』は『公羊』らしいです。 この時代特にシンイ説が盛んで(「この文章は孔子が漢の興るのを予言したものである」とかそーゆーアレです)それがいっぱい載ってるが故に『公羊』なのだそうです。 末ぐらいになるとそーゆーのに対する批判などもあり、個人的に『左伝』を研究する人が増えてきたとか。 狩野直喜氏の受け売りですが。(笑) >むじんさま リンクのお申し出ありがとうございます。好きにリンクしていただいてかまいません。 そっか、うちも一応漢文和訳載せてますしね。人様の参考にされることなんかあったらと思うと、ちょっと冷や汗出ますが。(なのに公開する無責任な管理人…) むじんさまのサイトを見ていると、あまりにいろんな情報があって眩暈がしそうです。(笑) わたくし結構年季の入った中国史ファンですが、ちょっとブランクがあってですね、最近再燃しはじめたところで、昔はネットなどという手段もなかったので、いきなり入る大量の情報に脳の処理速度がおっつかない感じです。 じっくり見せていただいて、うちからもリンクさせていただきますね。 >ぐっこさま 党錮ネタ、私は楽しいですが。(笑) 今『後漢書』を読むのに、中国語の先生(と言っても大学生のお嬢さん)に協力してもらってるんですが、三国志はマンガでしか読んだことないという北京人の彼女、郭林宗を知っていました。 中国じゃどうも、かなり有名らしいです。ちょっと意外でした。(失礼かな…?) 沛の丁氏…曹操が別れた妻の実家と親密だったりするのも、ありえなくないような気がしてきました。(笑)
26:むじん 2004/01/27(火) 18:54 >丁氏 姻戚になるくらいですから、日ごろの付き合いはあったんでしょう。 とくに出仕以前の少年同士が友誼を結ぶ可能性は高いかと。 うんー、桓範も同郡なんですねえ。 >司隷校尉 諸葛亮が一度司隷校尉になったあと益州牧になっていますので、 左遷とも考えられず、まずそうなんだろうなとは思うんですが…確証はなし。 おそらく劉禅に代替わりしたころ、益州を司隷校尉部から外して 中原へ帰る意志を宣言したのではないかと思います。 みごと中原に復帰したら劉備は霊帝の従弟になります(^^ >ばんるさん ありがとうございます。よろしくお願いします。
27:★ぐっこ 2004/01/27(火) 21:33 >ばんる様 確かに意外…。まあ、郭泰は折角(でしたっけ)の語源ですから 歴史に果たした役割以上に有名なんでしょうけど…。逆に蔡倫あたり は紙の方ばかり有名になって、それなりに活躍したことがスルー… 私も昔バイト先の留学生に三国志のことをしつこく聞きまくった事が ありますが、ウイグルの子と朝鮮族の子は「知らない」とハッキリ言い、 四川生まれの子でさえ「劉備しか知らない」と。男子はみんな知ってる らしいですが…。キン肉マンみたいなものなのかなあ(^_^;) >むじん様 なるほど!そのあたり、結構ドラマとかありそうですな〜。 それに宦官とはいえ権門には違いない曹氏が、嫡子の嫁をとるくらい ですから、沛のあたりで顔だったかもしれませんねえ、丁氏。 司隷校尉…あ、なるほど!中原奪還の意思表示ともとれるわけで!
28:むじん 2004/01/29(木) 22:54 >丁氏 たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの 近所付き合いがあったと思うんですよ。 それが朝廷内では曹氏の身内意識になって、 反司馬氏感情に育っていったのではないかなと思えてきます。 >司隷校尉 そうそう、劉備の場合は、後漢はもうダメだから新しい漢を作っちゃうって意識で、 劉禅になると、やっぱり俺たちの故郷は洛陽だ〜、みたいな感じで。 もう少し歴代の司隷校尉・益州牧がはっきりすればいいんですけどね。
29:★ぐっこ 2004/01/31(土) 01:09 ああ、その辺に曹一族との紐帯が… >たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの >近所付き合いがあったと思うんですよ。 なんか絵的に見てみたい光景ですね〜( ´∀`) 任官前の曹操あたりは、わりとブラブラしてそうですので、 蒼天も結構イイカンジに放蕩息子の像を書いてるような。 そこで一つの疑問なのですが、曹操ってやっぱりメインは本籍地で 育ったんですよねえ。父親が洛陽で居を構えてる以上、洛陽に移り 住んでるのかな、とも思うのですが、当時の高官の幼い息子が、どこ で育ってるのかわからなくて。たまたま読んでた黄琬伝では、洛陽 で親父さんにアドバイスしてましたけど…。
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