「司州」という表記について
3:★玉川雄一2004/01/15(木) 23:19AAS
はじめまして。なかなか興味深い話題提起をありがとうございます。

手持ちの晋書地理誌をひもときますと、「司州」と記されています。

●西漢武帝が初めて司隷校尉を置き、京兆、馮翊、扶風、河東、河内、弘農、河南の七郡を属せしむ。
ただし、この時点ではその地域名(「司隷」なり「司州」)は特定していない。
省16
4:★玉川雄一2004/01/15(木) 23:22AAS
オフラインで見事に被った……_| ̄|●
5:★玉川雄一2004/01/15(木) 23:25AAS
あ、私の書き込みちょこっと引用間違えてます。
誤:●魏が受禅すると、“司隷部所”河南〜
正:●魏が受禅すると、“司隷所部”河南〜
要するにぐっこさんの記事の方が確実ですによって。
6:ばんる2004/01/16(金) 01:01AAS
早速のお返事ありがとうございました!

や、やっぱり晋書か…。実は、むかーし中国で買って、船便で日本に送ったら、事故って行方不明になってしまって…。(汗)
って言い訳がましいですねぇ…。ちゃんと発注しておくことにしますです。

「司隷」が「司州」になってしまうのって、「京都」が「京都府」になるようなもんなんでしょうか?
省10
7:★ぐっこ2004/01/17(土) 01:50AAS
うーん、>>2の地理志部分を読む限りは、「司隷」を廃してしまって
「司州」を置いたということで、次に司隷がドコへ行ったかが記されて無く…
もう地名としての「司隷」は無くなってしまった…という感があります。
それでも司隷校尉の統治州は残ってるからシュールな(^_^;)

三国志内の記述では、「司州之人士也」という紹介がチラホラあるようなので、
省19
8:japan2004/01/17(土) 03:05AAS
ばんる様、初めまして。
既にぐっこ様と玉川様のレスで解決済みの模様ですが、
『後漢書集解』郡国志の冒頭に「司州」と「司隷」についての
解説が載っていました。

私の読解力では詳細は不明なのですが(申し訳ありません)、
省38
9:中根東竜2004/01/17(土) 22:53AAS
japanさんのカキコをみて、
思いついて資治通鑑を見たのですが、建安十八年には州の
大改正が行われたようで、司隷だけではなく
涼州・幽州・并州の三州も廃止になって居ます。
胡三省は「則ち司、涼、幽、并を省き而して禹貢の九州を
復す矣。此れ曹操が自領は冀州牧なれば、
省11
10:中根東竜2004/01/17(土) 23:22AAS
追記です。
建安十八年の州改正は、どうやら曹操の魏公就任と
連動しており、洛陽の後漢王室の権威を意図的に
低下させる目的なのではないか?と思われます。
魏書武帝紀によればこの年は曹操の魏の地盤固めを
着々と薦めた年であり、正月に州改正、四月魏公冀州牧
省21
11:ばんる2004/01/17(土) 23:40AAS
ぐっこさま、玉川さま、japanさま、中根さま、ありがとうございます!とっても助かりました!

『後漢書』の本紀、建安十八年正月に「禹貢の九州を復す」って記述が確かにあります。
この時に名称が変わったと見て間違いなさそうです。
同じ年の5月に曹操が魏公になっていますね。キリがいいってことだったんでしょうか。

省14
12:ばんる2004/01/17(土) 23:50AAS
あ、かぶってしまいました…。

王粲の話、なんか荀イクの死をめぐったドラマ作れそうですね。(笑)
まあ実際のところ、「司隷」はもう、献帝即位ぐらいからその役目を果たしてなかったろうと思うので、ある種の合理化なのかもしれませんが。
その後「司隷」という言葉はもう、歴史から消えてしまうのでしょうか?
1-AA