下
「司州」という表記について
6:ばんる 2004/01/16(金) 01:01 早速のお返事ありがとうございました! や、やっぱり晋書か…。実は、むかーし中国で買って、船便で日本に送ったら、事故って行方不明になってしまって…。(汗) って言い訳がましいですねぇ…。ちゃんと発注しておくことにしますです。 「司隷」が「司州」になってしまうのって、「京都」が「京都府」になるようなもんなんでしょうか? 魏になって変わったというのが真相で間違いないようですが(受禅直後がか末だかは分かりませんが)、都は洛陽のままなハズ。 都が移動するにつれて、「司隷」となる地区が変わり、その結果以前の「司隷」は名称が変わって普通の州になる、とかだと、とっても納得がいくんですが、そうすっきり理屈が通っているものでもないんでしょうね。 私も三国時代ネタで創作をやったりするので(笑)その時代の人たちが普通に「司州」と呼んでいたのか、それとも「司隷」と呼んでいたのか、とぉっても気になります。 「司州さま」という表記はちくま正史のどこにあったのかな?ちょっと探してみることにしますね。
7:★ぐっこ 2004/01/17(土) 01:50 うーん、>>2の地理志部分を読む限りは、「司隷」を廃してしまって 「司州」を置いたということで、次に司隷がドコへ行ったかが記されて無く… もう地名としての「司隷」は無くなってしまった…という感があります。 それでも司隷校尉の統治州は残ってるからシュールな(^_^;) 三国志内の記述では、「司州之人士也」という紹介がチラホラあるようなので、 やはり日常レベルでは他の州と合わせる意味で「司州」が慣習化されてたかも しれない…と自信なく言ってみます。 >司州さま お手数おかけします〜。 学三で李膺さまをそう呼ぼうと決断したのが、その記述だったもので(^_^;) だから李膺に関する記述かなあ、と思って後漢書検索してもヒットしなかったです。 ひょっとしたら世説のほうかも…。 >創作 わかります! どうしても当時の慣習とか、地名・人名の呼び方とかをこだわりたく なるというのが!色々文献あさったりしましたねえ(^_^;) 最近になって応劭の「風俗通義」を知ったという間抜けっぷりでしたが…
8:japan 2004/01/17(土) 03:05 ばんる様、初めまして。 既にぐっこ様と玉川様のレスで解決済みの模様ですが、 『後漢書集解』郡国志の冒頭に「司州」と「司隷」についての 解説が載っていました。 私の読解力では詳細は不明なのですが(申し訳ありません)、 後漢〜晋にかけて何度か改変が行われているようです。 ・『献帝起居注』によると、建安十八年三月に司隷に属する郡を 豫・冀・雍の三州に分割した。(司隷は廃止された?) ・魏の黄初元年に司州が再び設置され、後に司隷という名に戻された(?) ・司州が復活したのは曹奐の時代だという説もあるが、これは間違い。 (孫権が蜀と司州分割についての協定を結んでいるため) で、結論らしき箇所は以下のとおりです。 考司州之名魏時屡見證之晋志通鑑可見魏時司隷但通稱司州 至晋太康始定名耳 魏代の正式名称は「司隷」で、通称として「司州」という名も用いられていた。 晋の太康元年に「司州」という名称が正式なものになった。 ということではないかと思います。 なお、ざっと見た限りでは『後漢書』の記述は「司隷」で統一されているようです。 何故「司隷」→「司州」と名前が変わったかは不明ですが、ばんる様の仰るように >都が移動するにつれて、「司隷」となる地区が変わり、 >その結果以前の「司隷」は名称が変わって普通の州になる のだとすれば、建安十八年に司隷が廃止された理由も納得できますね。 (当時の漢の都は、帝のいる許ということになっていたでしょうから) >司州さま 馬超と鍾ヨウの辺りで見たような…と思って捜したけれど、見つかりませんでした。 何となくどこかで見た気はするのですが…発見されたら是非お教え下さいm(_ _)m
9:中根東竜 2004/01/17(土) 22:53 japanさんのカキコをみて、 思いついて資治通鑑を見たのですが、建安十八年には州の 大改正が行われたようで、司隷だけではなく 涼州・幽州・并州の三州も廃止になって居ます。 胡三省は「則ち司、涼、幽、并を省き而して禹貢の九州を 復す矣。此れ曹操が自領は冀州牧なれば、 其の統べる所を広げんと欲して以て天下に制するのみ。」 と、この改正は曹操の領地を広げるためのものだと 言い切って居ますね。この改正により冀州は司州の河東・河内・ 馮翊・扶風と幽州并州を合併、華北ほぼ全域を 占めて居ます。
10:中根東竜 2004/01/17(土) 23:22 追記です。 建安十八年の州改正は、どうやら曹操の魏公就任と 連動しており、洛陽の後漢王室の権威を意図的に 低下させる目的なのではないか?と思われます。 魏書武帝紀によればこの年は曹操の魏の地盤固めを 着々と薦めた年であり、正月に州改正、四月魏公冀州牧 就任、七月魏公の社稷を建立、十一月腹心の荀攸・王粲 らを尚書六卿に任じ魏公国の行政組織が出来る…という 具合に、「漢にかわるものとして魏という国を作る」という ことを一生懸命薦めています(その障害になったジュンイクは 前年に謎の死を遂げ、後任に荀攸が座っている)。 その過程において、「司隷」は漢王室の所在を示す名称なので 魏建国の邪魔だということから、 故実に詳しい王粲あたりが「古代の夏王朝が定めた禹貢九州を 復活させるという名目で、司隷を消滅させる」という策を 言い出したのではないかと考えられます。(王粲はその直後に 官位を貰っており、どうもクサイ) …やや飛躍しすぎかとは思いますが、どうも前後の状況を 考えるとこんな感じのような気がしないでもありません。
11:ばんる 2004/01/17(土) 23:40 ぐっこさま、玉川さま、japanさま、中根さま、ありがとうございます!とっても助かりました! 『後漢書』の本紀、建安十八年正月に「禹貢の九州を復す」って記述が確かにあります。 この時に名称が変わったと見て間違いなさそうです。 同じ年の5月に曹操が魏公になっていますね。キリがいいってことだったんでしょうか。 「司州さま」を探し出すのには、もうちょっと時間がかかりそうです。 ぐっこさま、私「風俗通義」って知りません。どんな本ですか? 『晋書』も『後漢書集解』も『三国志集解』も『資治通鑑』も持ってないし。 そこそこマニアなつもりでいたけど、まだまだですねぇ…。 ああそうだ、リンクフリーということなので、近々私のサイトから、ここにリンクさせていただきます。 集客努力をしてないサイトゆえ、私のブックマーク程度の意味しかありませんが、いちおうご報告まで。
12:ばんる 2004/01/17(土) 23:50 あ、かぶってしまいました…。 王粲の話、なんか荀イクの死をめぐったドラマ作れそうですね。(笑) まあ実際のところ、「司隷」はもう、献帝即位ぐらいからその役目を果たしてなかったろうと思うので、ある種の合理化なのかもしれませんが。 その後「司隷」という言葉はもう、歴史から消えてしまうのでしょうか?
13:japan 2004/01/18(日) 19:17 >中根様 >建安十八年の州改正は、どうやら曹操の魏公就任と >連動しており、洛陽の後漢王室の権威を意図的に >低下させる目的なのではないか? 確かに…! そう言えば曹操の娘三人が献帝に輿入れしたのもこの年でした。 ・「魏国公」「九錫授与」「帝の外戚」として漢朝における曹操の権威を高め ・司隷の廃止、荀揩フ死、伏皇后の殺害(翌年)等で漢室の力を削ぎ ・魏国の法制を固めることで禅譲への布石とする こうした一連の動きが建安十七年〜二十年辺りに集中している訳ですね。 凄い…何というか、ドラマチックですね。 この辺の流れをみっしり書けば面白そうなんですが、小説や漫画でも 各エピソードが細切れになっていて、今ひとつ全容がつかめないような…。
14:japan 2004/01/18(日) 19:46 >ばんる様 >ぐっこさま、私「風俗通義」って知りません。どんな本ですか? >『晋書』も『後漢書集解』も『三国志集解』も『資治通鑑』も持ってないし。 このスレに色々載っていますよ。 【自薦】オススメの学術三国志書籍・サイトを教えてください【他薦】 http://gukko123.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/12ch/read.cgi?bbs=sangoku&key=1058577112&ls=50 ただ、資治通鑑の全文検索がある「寒泉」は最近繋がらないみたいです(´・ω・`) >その後「司隷」という言葉はもう、歴史から消えてしまうのでしょうか? 晋代に「司州」に名前が変わっても「司隷校尉」という官職は残っていたようです。 「中国古代職官大辞典」という本の司隷校尉の項には、 「三国魏と西晋では司州長官(河南・河東・河内・弘農・平陽の五郡を治める) として設置されていた。東晋では省かれていたが、北魏の初めにまた設置した」 と書いてありました。 少なくとも南北朝の頃までは、司隷校尉という官職が存在したようです。 ところで、建安十六年に曹操が漢中の馬超・韓遂らを討伐した際、 守司隷校尉の鍾ヨウを上奏して前軍師としていますが、後任の司隷校尉は 存在しなかったのでしょうか?(建安十八年の司隷廃止まで空席?) 鍾ヨウは司隷校尉として長安方面の軍事・政治を一手に引き受けていましたが、 その後を継いで漢中守護の任に就いた夏侯淵の官職は征西将軍。 ・長安方面の軍事を司る=征西将軍 ・ 〃 政治 〃 =雍州刺史 という分掌が生まれたのは、この時だったのでしょうか。
15:★ぐっこ 2004/01/20(火) 00:54 ううむ、留守の間にスレが育っている… japanさま、中根東竜さま、そしてばんる様、追加情報ありがとうございました〜! うんうん、だいぶハッキリして参りましたが…それにしても建安一八年とはすごい 年だったんですね…。 このテの州の改変って、やはり他の諸国も従うものなんだろうか…? 一応劉備も 孫権も漢王室の臣下なわけですから、皇帝の名で決められた事には、ある程度従う 必要があるでしょうし。 …にしても、新冀州でかっ!曹操の露骨な野心、周囲の思惑…確かにドラマになりそうです! >リンク ありがとうございます――! もし差し支えなければ、こちらからもリンクさせて頂きたいのですが〜。 ばんる様の創作作品、きっとこだわりをいっぱい詰め込んだ力作揃いと推測しますが…。 >風俗通義 ぐぐってみたら、妙にチカチカしたピンク色なサイトがいっぱいヒットしますが(^_^;) ちなみに書いた人は、曹嵩殺害事件の責任追及されるのが怖くて逃げた、陶謙の部下だったり。 抄訳本でしたら、日本でも古典新書あたりで出ていたと思います〜。上記学術書スレに、電子版の リンクもありますから、そちらで確認される方が早いと思いますが。 >司隷校尉 そういや後漢書集解、歴代刺史一覧みたいなのありませんでしたっけ(;´Д`)ハァハァ あれでも鍾ヨウがトリだったとしたら、ホントに誰なのか不明に(^_^;) あるいは彼みたいな万能の才人は百年に一人であって、後続が無かったとか… そういえば雍州刺史郭淮、常設かどうかはわかりませんが、隷下の一軍を率いて北伐軍と 対峙してました。刺史としての軍権なのか、将軍の方なのかはわかりませんが…
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
「司州」という表記について http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1074097503/l50