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「司州」という表記について
24:★ぐっこ 2004/01/26(月) 01:07 >ばんるさま イエイエ〜。こちらこそよろしくお願い致します〜。 マニア度…あまりに知らない人たちがゾロゾロ出てくると、今度は見る人が限られ てしまうので、三国迷としてはばんる様の世界ぐらいが丁度かと! 学三の党錮前 ネタは、やりすぎの典型。 私はシリアスが書けない人なので、素直に尊敬してます…。1話1ネタさえ用意で きれば、ギャグのが楽ですし(^_^;) >むじんさま あー、そうです。前から沛の丁氏について、そのあたりの関係が 微妙だなと(^_^;) 曹操が正妻として丁夫人迎えたのは、風雲前の 話ですが、それ以前から曹氏と丁氏ってつながりあったのかなあ、と。 別れた妻の実家…って立場も微妙ですねえ… >蜀司隷校尉 意地でも「司隷を預かる職だ」として、益州を「司隷」扱いしていたのかなあ、 という意見に頷きたいです。それに皇太子の舅たる張飛が任じられたのだから、 名誉職ではなく、多少実のある職場の方がいいな、といういい加減な憶測ですが。 >漢王朝 そもそも漢王朝自体が無くなったため、両者のスタンスも相応に変化したのでしょうね…。 諸葛亮は当初台詞の端々で漢家を重んじて大義とし、その復興を劉備の旗印として煽って ましたが、劉禅の代だと、当然漢家=蜀漢になっちゃってますし。 演義のときから思ってましたが、もし劉備が許陥として献帝の身柄確保しちゃったら、どう してたでしょうかねえ(^_^;)娘後宮に押し込んで外戚になるにしても、同姓不婚だし…
25:ばんる 2004/01/27(火) 00:59 >japanさま びっくりしました。(笑)大した冊数も刷っていないのに(しかも随分月日が経ってしまってるのに!)、結構見てくださってる方がいらっしゃるものですね。 私が何らかの影響を与えてるなんて思うとあせりますけど、でも嬉しいです。ありがとうございます。 もはや誰も待ってないかもしれないけど、なんとか新作がつくれるよう今頑張ってるところです。 後漢を通じて、最も研究されていた『春秋』は『公羊』らしいです。 この時代特にシンイ説が盛んで(「この文章は孔子が漢の興るのを予言したものである」とかそーゆーアレです)それがいっぱい載ってるが故に『公羊』なのだそうです。 末ぐらいになるとそーゆーのに対する批判などもあり、個人的に『左伝』を研究する人が増えてきたとか。 狩野直喜氏の受け売りですが。(笑) >むじんさま リンクのお申し出ありがとうございます。好きにリンクしていただいてかまいません。 そっか、うちも一応漢文和訳載せてますしね。人様の参考にされることなんかあったらと思うと、ちょっと冷や汗出ますが。(なのに公開する無責任な管理人…) むじんさまのサイトを見ていると、あまりにいろんな情報があって眩暈がしそうです。(笑) わたくし結構年季の入った中国史ファンですが、ちょっとブランクがあってですね、最近再燃しはじめたところで、昔はネットなどという手段もなかったので、いきなり入る大量の情報に脳の処理速度がおっつかない感じです。 じっくり見せていただいて、うちからもリンクさせていただきますね。 >ぐっこさま 党錮ネタ、私は楽しいですが。(笑) 今『後漢書』を読むのに、中国語の先生(と言っても大学生のお嬢さん)に協力してもらってるんですが、三国志はマンガでしか読んだことないという北京人の彼女、郭林宗を知っていました。 中国じゃどうも、かなり有名らしいです。ちょっと意外でした。(失礼かな…?) 沛の丁氏…曹操が別れた妻の実家と親密だったりするのも、ありえなくないような気がしてきました。(笑)
26:むじん 2004/01/27(火) 18:54 >丁氏 姻戚になるくらいですから、日ごろの付き合いはあったんでしょう。 とくに出仕以前の少年同士が友誼を結ぶ可能性は高いかと。 うんー、桓範も同郡なんですねえ。 >司隷校尉 諸葛亮が一度司隷校尉になったあと益州牧になっていますので、 左遷とも考えられず、まずそうなんだろうなとは思うんですが…確証はなし。 おそらく劉禅に代替わりしたころ、益州を司隷校尉部から外して 中原へ帰る意志を宣言したのではないかと思います。 みごと中原に復帰したら劉備は霊帝の従弟になります(^^ >ばんるさん ありがとうございます。よろしくお願いします。
27:★ぐっこ 2004/01/27(火) 21:33 >ばんる様 確かに意外…。まあ、郭泰は折角(でしたっけ)の語源ですから 歴史に果たした役割以上に有名なんでしょうけど…。逆に蔡倫あたり は紙の方ばかり有名になって、それなりに活躍したことがスルー… 私も昔バイト先の留学生に三国志のことをしつこく聞きまくった事が ありますが、ウイグルの子と朝鮮族の子は「知らない」とハッキリ言い、 四川生まれの子でさえ「劉備しか知らない」と。男子はみんな知ってる らしいですが…。キン肉マンみたいなものなのかなあ(^_^;) >むじん様 なるほど!そのあたり、結構ドラマとかありそうですな〜。 それに宦官とはいえ権門には違いない曹氏が、嫡子の嫁をとるくらい ですから、沛のあたりで顔だったかもしれませんねえ、丁氏。 司隷校尉…あ、なるほど!中原奪還の意思表示ともとれるわけで!
28:むじん 2004/01/29(木) 22:54 >丁氏 たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの 近所付き合いがあったと思うんですよ。 それが朝廷内では曹氏の身内意識になって、 反司馬氏感情に育っていったのではないかなと思えてきます。 >司隷校尉 そうそう、劉備の場合は、後漢はもうダメだから新しい漢を作っちゃうって意識で、 劉禅になると、やっぱり俺たちの故郷は洛陽だ〜、みたいな感じで。 もう少し歴代の司隷校尉・益州牧がはっきりすればいいんですけどね。
29:★ぐっこ 2004/01/31(土) 01:09 ああ、その辺に曹一族との紐帯が… >たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの >近所付き合いがあったと思うんですよ。 なんか絵的に見てみたい光景ですね〜( ´∀`) 任官前の曹操あたりは、わりとブラブラしてそうですので、 蒼天も結構イイカンジに放蕩息子の像を書いてるような。 そこで一つの疑問なのですが、曹操ってやっぱりメインは本籍地で 育ったんですよねえ。父親が洛陽で居を構えてる以上、洛陽に移り 住んでるのかな、とも思うのですが、当時の高官の幼い息子が、どこ で育ってるのかわからなくて。たまたま読んでた黄琬伝では、洛陽 で親父さんにアドバイスしてましたけど…。
30:むじん 2004/02/01(日) 21:47 任官前の曹操ですか…これがまたよく分からないんですよね。 彼は嫡男なので曹嵩の周辺にいたんでしょうが、 中風を装ったときには叔父の夏侯某さんがいましたし。 あと蔡瑁や何ギョウなど荊州人士との付き合いもあるから、 もしかしたら南陽あたりに遊学してたんじゃないかという気も…。 ちと難しいです。
31:ばんる 2004/02/02(月) 00:55 ちょっと話題が司州から反れますが、丁一族で思い出したこと。 曹操の母親は丁氏だったと友達に聞いたことがあります。その人も典拠までは知らなかったのですが、これって本当なんでしょうか? (もしかして私が知らないだけ…?) だとしたら曹操と丁夫人の離婚程度で切れてしまう縁ではないのも当然ですよね。
32:★ぐっこ 2004/02/03(火) 01:24 そういえば南陽の連中と知り合いが多いですねえ… むしろ彼らが洛陽に遊学でもしてたのかな、とも思いましたが、 可顒はともかくとして、他のメンツは中央の高官に付いていた わけでもなさそうですし… このへんは、本当に推測するしかないんですね(^_^;) >曹操の母親は丁氏 Σ(;´Д`) いや、私も知らないです。 うーん、曹操の母親…どっかでみた気がしますけど、丁氏だったかなあ… 確か曹家の墓に曹嵩と合葬されてた人は…呉氏だったか、そんな名前だった 記憶が…(必ずしも曹操の母親とは限りませんが) もしも丁氏だったとしたら、そりゃあ、丁家は曹操にとって大事な親戚。 両家の紐帯もわかるというものです。
33:むじん 2004/02/03(火) 03:56 にょわ!それは知らんかった…。 『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。 これですね。 うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは 近親婚ということになるけど…。まずくないかい?
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