「司州」という表記について
25:ばんる2004/01/27(火) 00:59AAS
>japanさま
びっくりしました。(笑)大した冊数も刷っていないのに(しかも随分月日が経ってしまってるのに!)、結構見てくださってる方がいらっしゃるものですね。
私が何らかの影響を与えてるなんて思うとあせりますけど、でも嬉しいです。ありがとうございます。
もはや誰も待ってないかもしれないけど、なんとか新作がつくれるよう今頑張ってるところです。
後漢を通じて、最も研究されていた『春秋』は『公羊』らしいです。
この時代特にシンイ説が盛んで(「この文章は孔子が漢の興るのを予言したものである」とかそーゆーアレです)それがいっぱい載ってるが故に『公羊』なのだそうです。
省21
26:むじん2004/01/27(火) 18:54AAS
>丁氏
姻戚になるくらいですから、日ごろの付き合いはあったんでしょう。
とくに出仕以前の少年同士が友誼を結ぶ可能性は高いかと。
うんー、桓範も同郡なんですねえ。

>司隷校尉
省14
27:★ぐっこ2004/01/27(火) 21:33AAS
>ばんる様
確かに意外…。まあ、郭泰は折角(でしたっけ)の語源ですから
歴史に果たした役割以上に有名なんでしょうけど…。逆に蔡倫あたり
は紙の方ばかり有名になって、それなりに活躍したことがスルー…

私も昔バイト先の留学生に三国志のことをしつこく聞きまくった事が
省16
28:むじん2004/01/29(木) 22:54AAS
>丁氏
たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの
近所付き合いがあったと思うんですよ。
それが朝廷内では曹氏の身内意識になって、
反司馬氏感情に育っていったのではないかなと思えてきます。

省10
29:★ぐっこ2004/01/31(土) 01:09AAS
ああ、その辺に曹一族との紐帯が…
>たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの
>近所付き合いがあったと思うんですよ。
なんか絵的に見てみたい光景ですね〜( ´∀`)
任官前の曹操あたりは、わりとブラブラしてそうですので、
蒼天も結構イイカンジに放蕩息子の像を書いてるような。
省11
30:むじん2004/02/01(日) 21:47AAS
任官前の曹操ですか…これがまたよく分からないんですよね。
彼は嫡男なので曹嵩の周辺にいたんでしょうが、
中風を装ったときには叔父の夏侯某さんがいましたし。
あと蔡瑁や何ギョウなど荊州人士との付き合いもあるから、
もしかしたら南陽あたりに遊学してたんじゃないかという気も…。
ちと難しいです。
31:ばんる2004/02/02(月) 00:55AAS
ちょっと話題が司州から反れますが、丁一族で思い出したこと。
曹操の母親は丁氏だったと友達に聞いたことがあります。その人も典拠までは知らなかったのですが、これって本当なんでしょうか?
(もしかして私が知らないだけ…?)
だとしたら曹操と丁夫人の離婚程度で切れてしまう縁ではないのも当然ですよね。
32:★ぐっこ2004/02/03(火) 01:24AAS
そういえば南陽の連中と知り合いが多いですねえ…
むしろ彼らが洛陽に遊学でもしてたのかな、とも思いましたが、
可顒はともかくとして、他のメンツは中央の高官に付いていた
わけでもなさそうですし…
このへんは、本当に推測するしかないんですね(^_^;)

省14
33:むじん2004/02/03(火) 03:56AAS
にょわ!それは知らんかった…。
『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。
これですね。
うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは
近親婚ということになるけど…。まずくないかい?
34:japan2004/02/03(火) 21:56AAS
>『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。
>これですね。
>うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは
>近親婚ということになるけど…。まずくないかい?

武帝紀ばかり見ていました。まさか文帝紀とは…orz
省37
1-AA