下
「司州」という表記について
27:★ぐっこ2004/01/27(火) 21:33
>ばんる様
確かに意外…。まあ、郭泰は折角(でしたっけ)の語源ですから
歴史に果たした役割以上に有名なんでしょうけど…。逆に蔡倫あたり
は紙の方ばかり有名になって、それなりに活躍したことがスルー…
私も昔バイト先の留学生に三国志のことをしつこく聞きまくった事が
省16
28:むじん2004/01/29(木) 22:54
>丁氏
たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの
近所付き合いがあったと思うんですよ。
それが朝廷内では曹氏の身内意識になって、
反司馬氏感情に育っていったのではないかなと思えてきます。
省10
29:★ぐっこ2004/01/31(土) 01:09
ああ、その辺に曹一族との紐帯が…
>たぶん地元では、出仕前の若者や定年後の老人たちの
>近所付き合いがあったと思うんですよ。
なんか絵的に見てみたい光景ですね〜( ´∀`)
任官前の曹操あたりは、わりとブラブラしてそうですので、
蒼天も結構イイカンジに放蕩息子の像を書いてるような。
省11
30:むじん2004/02/01(日) 21:47
任官前の曹操ですか…これがまたよく分からないんですよね。
彼は嫡男なので曹嵩の周辺にいたんでしょうが、
中風を装ったときには叔父の夏侯某さんがいましたし。
あと蔡瑁や何ギョウなど荊州人士との付き合いもあるから、
もしかしたら南陽あたりに遊学してたんじゃないかという気も…。
ちと難しいです。
31:ばんる2004/02/02(月) 00:55
ちょっと話題が司州から反れますが、丁一族で思い出したこと。
曹操の母親は丁氏だったと友達に聞いたことがあります。その人も典拠までは知らなかったのですが、これって本当なんでしょうか?
(もしかして私が知らないだけ…?)
だとしたら曹操と丁夫人の離婚程度で切れてしまう縁ではないのも当然ですよね。
32:★ぐっこ2004/02/03(火) 01:24
そういえば南陽の連中と知り合いが多いですねえ…
むしろ彼らが洛陽に遊学でもしてたのかな、とも思いましたが、
可顒はともかくとして、他のメンツは中央の高官に付いていた
わけでもなさそうですし…
このへんは、本当に推測するしかないんですね(^_^;)
省14
33:むじん2004/02/03(火) 03:56
にょわ!それは知らんかった…。
『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。
これですね。
うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは
近親婚ということになるけど…。まずくないかい?
34:japan2004/02/03(火) 21:56
>『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。
>これですね。
>うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは
>近親婚ということになるけど…。まずくないかい?
武帝紀ばかり見ていました。まさか文帝紀とは…orz
省37
35:japan2004/02/03(火) 22:02
先頭に「>むじん様」と書いた部分が抜け落ちていました…申し訳ありません。
あと、スレ違いの長文レスもお詫びします。
36:bannru2004/02/03(火) 23:33
今『秦漢風俗』っていう中国の本を読んでるんですが、そのなかの記述によると、この時代「表親婚」というのがあって、
おじとめいの親族婚程度のものは珍しくなかったようです。(ある程度身分やら財産やらある人たちに限られますが)
両家の絆を強くするために、ってことでしょうね。
なんぼか例が載ってましたが、それでも自分と同じ姓のヒトと結婚するっていう例はさすがにありませんでした。でも養子に行った場合は、元の姓はそんなに問題に
されないのではないでしょうか。
後世中国は親族関係にとても厳格になるので、簡単には信じられないような、とんでもない話と思われたのでしょう。
省8
上前次1-新書写板AA設索