下
「司州」という表記について
8:japan2004/01/17(土) 03:05
ばんる様、初めまして。
既にぐっこ様と玉川様のレスで解決済みの模様ですが、
『後漢書集解』郡国志の冒頭に「司州」と「司隷」についての
解説が載っていました。
私の読解力では詳細は不明なのですが(申し訳ありません)、
後漢〜晋にかけて何度か改変が行われているようです。
・『献帝起居注』によると、建安十八年三月に司隷に属する郡を
豫・冀・雍の三州に分割した。(司隷は廃止された?)
・魏の黄初元年に司州が再び設置され、後に司隷という名に戻された(?)
・司州が復活したのは曹奐の時代だという説もあるが、これは間違い。
(孫権が蜀と司州分割についての協定を結んでいるため)
で、結論らしき箇所は以下のとおりです。
考司州之名魏時屡見證之晋志通鑑可見魏時司隷但通稱司州
至晋太康始定名耳
魏代の正式名称は「司隷」で、通称として「司州」という名も用いられていた。
晋の太康元年に「司州」という名称が正式なものになった。
ということではないかと思います。
なお、ざっと見た限りでは『後漢書』の記述は「司隷」で統一されているようです。
何故「司隷」→「司州」と名前が変わったかは不明ですが、ばんる様の仰るように
>都が移動するにつれて、「司隷」となる地区が変わり、
>その結果以前の「司隷」は名称が変わって普通の州になる
のだとすれば、建安十八年に司隷が廃止された理由も納得できますね。
(当時の漢の都は、帝のいる許ということになっていたでしょうから)
>司州さま
馬超と鍾ヨウの辺りで見たような…と思って捜したけれど、見つかりませんでした。
何となくどこかで見た気はするのですが…発見されたら是非お教え下さいm(_ _)m
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