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「司州」という表記について
31:ばんる 2004/02/02(月) 00:55 ちょっと話題が司州から反れますが、丁一族で思い出したこと。 曹操の母親は丁氏だったと友達に聞いたことがあります。その人も典拠までは知らなかったのですが、これって本当なんでしょうか? (もしかして私が知らないだけ…?) だとしたら曹操と丁夫人の離婚程度で切れてしまう縁ではないのも当然ですよね。
32:★ぐっこ 2004/02/03(火) 01:24 そういえば南陽の連中と知り合いが多いですねえ… むしろ彼らが洛陽に遊学でもしてたのかな、とも思いましたが、 可顒はともかくとして、他のメンツは中央の高官に付いていた わけでもなさそうですし… このへんは、本当に推測するしかないんですね(^_^;) >曹操の母親は丁氏 Σ(;´Д`) いや、私も知らないです。 うーん、曹操の母親…どっかでみた気がしますけど、丁氏だったかなあ… 確か曹家の墓に曹嵩と合葬されてた人は…呉氏だったか、そんな名前だった 記憶が…(必ずしも曹操の母親とは限りませんが) もしも丁氏だったとしたら、そりゃあ、丁家は曹操にとって大事な親戚。 両家の紐帯もわかるというものです。
33:むじん 2004/02/03(火) 03:56 にょわ!それは知らんかった…。 『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。 これですね。 うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは 近親婚ということになるけど…。まずくないかい?
34:japan 2004/02/03(火) 21:56 >『文帝紀』延康元年五月、太王夫人丁氏を王太后と称し…。 >これですね。 >うーむ、そうすると曹操が丁氏から正室を娶ったのは >近親婚ということになるけど…。まずくないかい? 武帝紀ばかり見ていました。まさか文帝紀とは…orz 近親婚といえば、集解の武帝紀で 「並云嵩夏侯氏之子夏侯惇之叔父太祖於惇従父兄弟」 という一文の後に面白い説が載っていました。 (斜め読みなので間違っていたら申し訳ありません) 夏侯惇の子・夏侯楙は曹操の娘である清河公主と結婚し、 夏侯淵の子・夏侯衡もまた曹氏の女を娶っている。 『曹瞞伝』や『世語』にあるとおり曹嵩が元々夏侯姓であったとしたら、 (これらの婚姻は)陳家に養子に入ったにもかかわらず生家の劉氏の女と 結婚した陳矯と同様、同姓不婚の禁を犯しているのではないだろうか。 『曹瞞伝』は敵国・呉の人間が著したものであるから、これは曹操を 貶めるための妄言であろう。 曹操と夏侯惇&淵の血縁関係が否定されてしまいました。そんな馬鹿な… 先にも述べましたが、私の読解力では曲解している恐れがあります。 疑問に思う点等がありましたら、お手数ですが原文をご確認下さい。 私としては 「曹操が近親婚のタブーを犯すはずが無い→だから曹嵩は夏侯惇の叔父ではない」 とするよりも、 「曹操自身も近親婚の経験者だから、同姓婚で叩かれていた部下を庇った」 という方がありそうな話かな、と思います。 徐宣「近親婚(・A・)イクナイ! 陳季弼は反省シル!」 曹操「漏れのラブワイフはママンの身内でしたが何か? ついでに娘も親戚のdの倅に嫁ぎましたが何か? てか前のことをあげつらう香具師uzeeeeee!!! 建安五年以前の話題は 糸冬 了 」 ↑陳矯伝裴注の『魏氏春秋』のエピソードを某所風に表現すると、 こんな感じではなかったのかと…
35:japan 2004/02/03(火) 22:02 先頭に「>むじん様」と書いた部分が抜け落ちていました…申し訳ありません。 あと、スレ違いの長文レスもお詫びします。
36:bannru 2004/02/03(火) 23:33 今『秦漢風俗』っていう中国の本を読んでるんですが、そのなかの記述によると、この時代「表親婚」というのがあって、 おじとめいの親族婚程度のものは珍しくなかったようです。(ある程度身分やら財産やらある人たちに限られますが) 両家の絆を強くするために、ってことでしょうね。 なんぼか例が載ってましたが、それでも自分と同じ姓のヒトと結婚するっていう例はさすがにありませんでした。でも養子に行った場合は、元の姓はそんなに問題に されないのではないでしょうか。 後世中国は親族関係にとても厳格になるので、簡単には信じられないような、とんでもない話と思われたのでしょう。 こーゆー話が出てくると、やっぱ古代なんだなと思いますよね。
37:ばんる 2004/02/03(火) 23:36 な、なまえが…orz(←マネして使ってみる)
38:むじん 2004/02/05(木) 02:42 なるほどー。時代的にさほどタブーじゃなかったんですかね。 たまたま徐宣が厳しかっただけとか…。 『曹瞞伝』は抜き出してみると案外曹氏への悪意はないみたいです。
39:★ぐっこ 2004/02/06(金) 00:10 おっと、japanさま、bannruばんるさま、またまた情報ありがとうございます! 当然の帰結として、丁氏の嫁ぎ先に丁氏が嫁に入り…と同姓婚どころか近親婚っぽい 香りがぷんぷんと… しかし>>34ワロタ。 なるほど、ニュアンス的には 糸冬 了 でカタをつけた感も… >秦漢風俗 あ、読みたい(;´Д`)ハァハァ… なるほど、上の方へいくと、それほど珍しいことでもなし… 皇帝にしたって、けっこう外戚になる一族は限られてますから、搓c后やら竇皇后やら、何代かごとに 同じネーミングの人が現れますしねえ。 戦国やら春秋やらにまでいくと、諸侯どうして頻繁に婚姻がありましたから、それこそ兄妹婚ギリギリの ぶんとか。 ハイソサエティになるほど、古例を逆手にとって、そういうタブーが気にならないものかもしれませんね…
40:japan 2004/02/07(土) 02:21 近親婚は三国時代にもあったみたいですね。 呉帝孫休は異母姉(孫魯育)の娘である朱夫人を娶っていますし、 魏末の三少帝のうち曹髦と曹奐は、共にベン氏(曹丕・曹植らの生母である ベン皇后の一族)の娘を皇后に立てています。 ばんる様の仰る「表親婚」の名残なんでしょうか。 ただ荀揩フ従兄弟である荀悦は、漢の惠帝が姪を皇后に立てたことについて 「人倫の大道に悖る」と非難したそうですから、儒教の道徳を厳格に遵守する (ことになっている)清流派の士人にとっては、近親婚はタブーだったのかもしれません。 陳矯が叩かれたのもそこら辺が原因なのでしょうか。
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