下
短編(?)です。
16:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:22 冒突は、その後も驚くほどの手際の良さで羊を解体していき、日がすっかり暮れる前に料理はできあがった。 「ほら、できましたぞ。若殿、さあ、たくさん召し上がってくだされ」 「じゃ、いただくよ」 (あの時の羊、野趣にあふれてけっこう美味かったなぁ。しかし、俺にはあの技が頭から離れなかった。どうすればあんな事ができるのかと、しばらくの間、そればかり考えてた) 「う−ん…あの時、右手に小刀を持ってたよな。手首、いや肘の近くまで羊の脇腹に入り込んでたから、小刀で脇腹を切り裂いて手を突っ込んだのは分かるんだけど…その先がどうなってるのか…」 「若様。早くお休みになりませんと。明日は早いそうではございませんか」 「ああ、今行くよ…。えっ、そなたもこの褥に入るのかい?」 「いけませんか?わたしは今日から若様の婢女。若様が眠りにつかれるまでお側にお仕えする勤めですよ」 「いや、まぁそうなんだけど…。ずいぶんと薄着だね…」 「それは…。殿方に仕える女には夜のお勤めもございますから、いつ催されてもいい様にいたしませんと。若様は、女がお嫌いですか?」 「いや、そんな事はないよ。ただ…何分、勝手が分からないから…。その、夜のお勤めとやらはもう少し待ってくれないかい」 「分かりました、お待ちいたします。ですが、せめて同じ褥には入れてくださいませ」 「ああ」 「お休みなさい」 「お休み。…飛燕の体って、柔らかくて、暖かくて、気持ちいいなぁ…」 (結局、あの夜はただ寄り添って寝ただけだった。ふふ、若かったな、お互いに)
17:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:22 九、 「えい!」 「なんの!」 虚空を切り裂く音がしたかと思うと、凄まじい打ち合いが演じられる。彰と冒突の武術の鍛錬は、日を追うごとに激しさを増していった。 打ち合いながら、冒突は、彰の成長ぶりをひしひしと感じる。一方で、何かを言い出しかねているのも感じていた。 「お疲れ様」 「お疲れ様です。…ところで若殿、何か私に聞きたい事があるのではありませんか?」 「え、気付いてたのかい」 「気付きますよ。それであれだけの打ち合いをなさるというのはすごいですがね。しかし、何を聞こうとなさってるのですか?まさか、飛燕がお気に召さないとか?」 「いや、あの娘はいい子だよ。ずっと側においておきたいし、子を儲けてもいいと思ってる」 「では、何を?」 「あの技を教えて欲しいんだ」 「あの技?若殿に隠している技などございませんが…」 「いや、あの時、羊をさばいたあの技だよ」 「ああ、あれですか。別に、特別なものではありませんよ。我らが昔からやってる事ですから」 「じゃ、教えてくれるのかい?」 「それはいいんですけど…。そうすると若殿、これから当分、覚えられるまで、羊ばかり召し上がっていただく事になりますよ」 「承知の上だよ」 「それでしたら、お教えいたしましょう」
18:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:23 「まず、羊を仰向けに倒します」 「うん」 「次に、手に持った小刀で、羊の脇腹をすっと切り、そこから手を差し込みます」 「そう、そこまではあの時見えたんだ。その続きがどうなってるのかが分からない」 「腹の中には、肋骨の他に、心臓や肺腑を守る為の膜がありますから、手でそれを破り、さらに奥まで突っ込みます」 「そう言えば、手首どころか肘のあたりまで入ってた様な気がするな」 「その通りです。膜を破った手は、次に心臓まで持っていき、ひときわ太い血管を引きちぎります。そうすると羊は、衝撃と失血によりすみやかに死ぬのです」 「しかし、その時には血は一滴も出なかった。あれはどういう事?」 「あれは、血を胸の中に溜め込んで、外に流れ出ない様にしていたのです。ですから、調理する時にどっと溢れ出たのです」 「そういう事か」 「しかし…すみやかに心臓に届かないとえらい事になるな。羊も苦しませてしまうし」 「そうですね」 「どうすれば心臓の位置が分かるかな?」 「まぁ…まずはその拍動を確認してみる事ですな」 そう言うと、冒突は、羊をひょいと仰向けにしてみせた。羊は、呆れるほど抵抗しない。 「このあたりですよ。耳を当ててみなされ」 「どれ…本当だ。確かに聞こえる」 「我らは、こうして羊とじゃれあいながら、おのずと臓器の位置を把握してるのですよ」 「なるほどなぁ…。何となく、見えてきたよ」 「では、いきますか」 「そうだ、一つ頼みがある」 「何でしょうか」 「この技は…できるだけ内緒にしたいんだ」 「なぜですか?」 「ちょっと考えがあるんだ」
19:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:23 十、 彰は、それからしばらくの間、その技を体得すべく励みに励んだ。 一体、何日羊ばかりを食べただろうか。身も心も遊牧の民になりそうな、そんな錯覚さえ覚えるくらいだったある日、ついにその体得に成功したのである。 「よっ、と。で…、むんっ!…ふぅ。こんなもんかな」 「お見事です。これなら、もう羊の解体などはお手のものですな。しかし…この技を体得していかがなさるおつもりですか?」 「言っただろ、考えがあるって。ちょっと父上のところに行ってくる」 「はて…?」 「父上、お願いがあります」 「何事かな?」 「私に、数頭ばかり虎狼の類を頂けませんか?」 「そんなもの、一体何に使うつもりだ?飼いならそうとしても無理だぞ」 「飼いならすのではございません。我が武術の鍛錬に用いたいのです」 「ほう。虎狼を相手に鍛錬をしようと言うのか。では、わしの元に返ってくるのは虎狼の毛皮というわけか」 「ええ、そうなります」 「まぁ、良かろう。好きにするがよい」 「かたじけのうございます」 何日かして、彰のもとに虎狼が届けられた。 「で、若殿。この虎狼どもをいかがなさるおつもりで?」 「こやつらを、羊の如くさばいてみせようと思ってな」 「えっ?よした方がいいですよ。こいつらの肉、そんなに美味いもんじゃありませんから」 「肉を食らおうってんじゃないよ」 「まさか…」 「そう、そのまさかだ。私は、こいつらと格闘し、そして勝つ。虎狼に打ち勝ったとなれば、世に名が知れるというものだろ?」 「まぁ…そりゃそうですが。でも、狼はまだしも、虎は危険です。お止めくだされ」 「いや、そうもいかん。私には、まだ『威』が足りんからな」 「『威』を得る為に…ですか…」 「よぉ−し、かかって来い!」
20:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:24 彰が構えるか否かというところで、虎が飛びかかってきた。 いくら武術に長け、羊を巧みにさばいてみせたとはいえ、虎では相手が大きすぎる。誰もが、彰が負けると思った。 冒突でさえ、事あらば直ちに彰を助け出すべく得物を構えたほどである。しかし、次の瞬間。 虎は、虚を衝かれたと言わんばかりの間抜け面を晒していた。その足元には、彰の体はない。どうやら、虎の一撃を避ける事ができたらしい。 「わ、若殿はどちらに?」 気が付くと、彰はいつしか虎の背後に回り込んでいた。 「えい!」 そう言うや否や、彰は虎の脚を蹴り飛ばし、横倒しにした。そして、顎と前足の根元付近に立て続けに拳を叩き込んだかと思うと、脇腹に手を伸ばした。 「…決まった…」 虎と人との死闘は、存外呆気なく終わった。彰には傷一つない。完勝であった。 「若殿、いつの間にこれほどの腕前に…。やはり、我が目に狂いはなかった。このお方こそ、類稀なる武人」 彰の、そして冒突の顔に、満面の笑みが浮かんでいた。
21:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:25 十一、 「曹氏の仲子が、素手で虎を仕留めた」 この噂は、あっという間に広まっていった。それが、彰の武名を大いに高めた事は、言うまでもない。 「彰がのう…。我が子ながら大したものだ」 父も、そう言って喜んだと聞く。彰には、それが何より嬉しかった。 ただ、この頃、父と兄の間には、やや微妙な空気が漂っていた。 父が狙っていた絶世の美女・シン【西+土+瓦】氏を、兄が我がものとした為ともいうし、父が、環夫人との間の子・沖を愛し、彼を後嗣に立てようと考えていたからともいわれる。 彰にとっては、どうでもいい事ではある。しかし、兄に何かあった場合、後嗣の座に最も近い者の一人であったのもまた事実。 (父上のあの言葉は…おれの器量を量ろうとしていたのだろうか…まさかな) 「彰よ」 「はい」 「そなたは書を読んで聖人の道を慕わず、馬に乗り剣を振るう事を好んでおるが…それは匹夫の働きに過ぎぬのだぞ」 「はい」 「ゆえに、そなたには、『詩(詩経)』『尚書(書経)』を読む事を課す。分かったな」 「はい」 (父上の仰せは絶対だから、側仕えの者に読ませ、聴く事にした。内容を理解できておれば叱られる事もないと思ったからな。事実、あれからは、無学の故に叱られるということはなかった) (ただ、妙に引っかかった。兄上には何ら問題はないし、植も沖もいるのだから、わざわざおれが学問をする必要もないのに…) だからこそ、あんな事を言ったのかも知れない。その頃の事を振り返り、彰はそう想った。
22:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:26 「丈夫たる者、将となりては、烈侯(衛青。前漢武帝期の名将)・景桓侯(霍去病。衛青の甥で、叔父と同じく前漢武帝期の名将)の如く、十万の大軍を率いて沙漠を駆け、戎狄を打ち破り大功を挙げるべきである。書物を読み、博士になるのが何ほどのものか!」 「若殿。その様な事をおっしゃっては…」 「おれは、書物を読まぬとは言っておらぬぞ。それともそなた、烈侯・景桓侯を貶めるのか?」 「いえ…その様な事は…」 (家臣どもは、あの頃から何かと「その様な事をおっしゃっては…」などと言ってたなぁ。おれに父上の後を継がせようとでもしていたのか?おれ自身にそんな気はさらさらなかったというのに…) 彰は、こそこそと策をめぐらすなどという事は好まない。 敵であれば、堂々と戦い、打ち破るまでの事。味方であれば、一切の疑いを持たずに信じ抜く事。そう思っている。 その裏表のなさ−単純さとも言えるが−が、彰という人物を特徴づけていると言えるであろう。 だからこそ、彰は、父の面前においても、自らの想いを飾る事無く語った。 (それを話した時、父上は笑っておられた。少なくとも、おれが見る限り、そこにはいやな曇りとか濁りはなかった。器量は到底父上には及ばぬが、嫌うという事はなかったと想う…)
23:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:26 十二、 史書には、彰の事跡について、僅かにしか触れられていない。 彼を語る上で、建安二十三(218)年の戦いを欠かす事はできないであろう。 「よいか、彰。出陣にあたって言っておくぞ」 「はい」 「我らは、家にあっては父子。しかしながら、いったん事を受けたなら、君臣である」 「もちろん、承知しております」 「王法を以って動き、事を行うのだ。その事を心せよ。良いな」 「はい!」 彰が将帥として戦いに赴くのは、これが初めてだった。相手は、十一年前に、父自らが打ち破った烏丸。 あの時から比べると、烏丸の勢力は拡大したというわけではない。一方、国内はというと、丞相たる父の政治のよろしきを以って、安定を取り戻しつつある。 それにもかかわらず叛乱を起こすとは。背後に鮮卑の影があるにしても、烏丸は漢朝を侮っておるのか。 「烏丸を伐たねばならんな。さらに、漢と烏丸との力の差を見せつけるには…」 「そうだ、彰を使おう。あいつなら将帥としても収まりがいいし、『なんじらには、わしが出るまでもない』というのにはうってつけだからな」 意地悪くいえば、彰は父には劣るから選任されたという事になるわけだが、そんな事は気にならなかった。 丞相と一武将とでは、前者の方が存在が大きいのは言うまでもないし、それに、彰は父にまさろうとしているわけではなかった。 十万とはいかないが、北中郎将・行驍騎将軍として万を越える軍勢を率い、彰は、意気揚々と出陣した。相は田豫、参軍事は夏侯尚。ともに、経験豊富で信頼に足る人物である。
24:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:27 「国譲(田豫の字)殿、ここは?」 「タク【シ+豕】郡でございます」 「ほぅ…ここがタク【シ+豕】郡ですか。確か、劉備…」 「はい。劉備、それに張飛はこの地の者です」 「…国譲殿、すまぬ事をした」 「?」 「あなたは、以前、劉備に仕えておられた事がありましたな。それに気付かず…」 「もう二十年以上も前の事になります」 「劉備の名を出したのは、他意があっての事ではありませぬ。ご気分を損ねたとすれば、謝ります」 「はは、将たるお方が部下に謝られる事はございません。丞相と干戈を交えたわけではありませんし、丞相も、私も、気にしてはおりませんよ」 「そうですか」 「それより、ゆめゆめ気を緩めませんよう、お気をつけくだされ。漢朝の郡県の内とはいえ、烏丸や鮮卑の連中がいつ襲ってくるやも知れませんからな」 「そうですな。かつて段紀明(段ケイ【ヒ+火+頁】。紀明は字。後漢桓帝期の名将)が辺境にあった時、褥に入る事がなかったと言いますしね。私も、それに倣いましょう」 そうしているうちに、部隊は、易水の近くまで来た。 「『風蕭蕭として易水寒し。壮士、一たび去りて復た還らず』。燕の太子丹が荊軻を見送ったのはこの河のほとりのどこかなのですね…」 「ええ」 「既に中原からは遠く離れている…。国譲殿、偵騎はどうなっておりますか?」 「それでしたら、既に放っております」 「そうですか。しかし、あなたのおっしゃったとおり、気を緩めてはなりませんね」
25:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:28 十三、 「たっ、大変です!」 「何事だ!」 「う…烏丸の襲来です!」 「そうか、ちと早いな。手元には僅かの兵…これでは全軍の迎撃体勢が整うのを待ってはおられぬ」 「いかがいたしましょうか?」 「うろたえるでない!国譲殿、策は?」 「そうですな。少数の歩兵をもって多数の騎兵にあたるには…李陵にならいましょう」 「李陵の?確か、彼は匈奴に敗れたのではなかったか。敗軍の将の戦い方に倣うとというのか?」 「確かに、李陵は匈奴に敗れました。しかし、そこに至るまでに、僅か五千の歩兵をもって単于自ら率いる八万の騎兵を相手に戦い、自軍の数倍の損害を与えております」 「我が軍は数万。質量とも敵にまさります。この場を凌ぎさえすれば、勝利はもう眼前でごさいますぞ」 「そうか。では李陵に倣うとしよう。それは、具体的にはどの様な戦い方だ?」 「輜重の車を周囲に並べて長城の如くし、その内に弩兵を込めます。そして、隙間には長兵を充てて埋めるのです」 「そうか。騎兵が得意とするのは、その速さと高さだが、車を壁にする事でその勢いを殺ぐというわけだな。そして、矢を浴びせる…」 「その通りです」 「うむ。…者ども!すみやかに車を動かし、円陣を組め!ここを凌げば、手柄は思いのままと心得よ!」 「はっ!」 さすがに、歴戦のつわもの達だ。ひとたび将の命令が出るや、実に速やかに動き出した。気がつくと、もう車による円陣が組まれている。 こうなれば、烏丸の騎兵をもってしても容易には破れまい。 そう思っていると、早々と引き始めるのが見えた。 「なんだ、あいつら、もう引くのか」 「やつらは、勝てないとみるとすぐに引きますからね。…将軍、いかがなさいますか?」 「知れたこと、追いかけて粉微塵に打ち砕くまでだ!行くぞ!」 「おう!」
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