短編(?)です。
7:左平(仮名) 2005/01/02(日) 01:24
四、

(兄上に褒められるなんて、そうそうある事じゃなかったからな。おれは嬉しくて、毎日飽きることなく射術の鍛錬にいそしんだ。もちろん、騎射の鍛錬にも励んだ。こう言うと我褒めになるが、武術については、おれも兄上並に早々と体得した。あの頃は、本当、楽しかった…しかし…)

−建安二(197)年、長兄・昂、討死。ほどなく、昂の養母で正室の丁氏が離縁された。それに伴い、側室だった卞氏が正室となり、次兄の丕が嫡男になった−

(長兄が亡くなられてから、兄上は名実共に後嗣になった。早くから六藝・六経を学んでおられたのは、乱世を憂え、こういう事があった場合に備えていたからだったのだ。そう想うと、おれはまだ気楽なものだったな…)
(…その後、おれも父上につき従って幾つかの戦いに臨んだ。呂布との戦い、劉備との戦い、そして袁紹との戦い…。兄上が遭遇したような危難には結局遭わなかったが、父上や兄上の姿、それに長兄の最期を思うにつけ、このままでいいのかという想いがあった。しかし…この様な時代の中で、おれはどうすればいいのかは分からずにいた…)

長ずるにつれて、彰の体は父・操や兄・丕よりも大きくなり、体格に応じた骨肉と膂力を備えるようになっていった。中でも膂力は、父の配下の武人達にもまさる程であった。しかし、それでも身の丈は八尺(当時の一尺≒23pなので、約184p)には満たず、特に恵まれた体躯というほどではなかった。

(ほんと、許チョ【ネ+者】が羨ましくてならなかった。あいつは軽く身の丈八尺を越えてるし、胴回りも太いから、その図体だけで父上や兄上を守り通すことができる。おまけに、牛の尻尾をつかまえて引きずることさえできる怪力の持ち主ってんだから…。父上から見ると息子と護衛だから立場は違うとはいえ、自分が許チョ【ネ+者】に劣っていると想って焦燥感ばかりが募ったもんだ)
(そんな頃だったな。あいつらに出会ったのは)

それは、父・操による袁氏掃討が、いよいよ大詰めを迎えようという頃だった。彰は、そろそろ志学(十五歳)を迎えようとしていた。
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