下
短編(?)です。
13:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:20 七、 (おれが将たる事を意識し始めたのは、この時だったのかも知れない。考えてみれば、父上の子である以上、一介の武人というだけでは済まないからな) 冒突の話を聞いた彰は、しばらく考え込んだ。父にはなく、自分にはあるこの武勇を、いかにして『威』に転ずるか。また、どうすれば『徳』を得られるか。 それには、更なる鍛錬と経験を積むしかないというのは分かった。その為には、今後、従軍できる機会を無駄なくおのれの血肉とせねばなるまい。また、より一層武術を磨き、誰からも侮りを受けない、揺るぎないものにする必要もある。 「それでこそ、私が見込んだお方というものです」 「えっ?私はまだ何もしてませんよ。考え事をしただけで」 「ええ、傍目にはそう見えるかも知れません。しかし、若殿は、このわずかな間にも、将としてかくあるべきかを考えておられました。そういうお方であってこそ、将として成長できるのです。私には分かります」 「そうかな」 「ええ。ところで、話は変わりますが…一つお願いがございます」 「何でしょう?私にできる事でしたら何なりと」 「我が娘・飛燕を…もらってはいただけませぬか」 「えっ!?私は、ようやく志学を迎えたばかりですよ。それに、婚儀となると父上や母上に伺いを立てないと…」 兄の丕でさえまだ妻を娶ってはいないというのに、弟の自分が先というのはどうか。まず思い浮かんだのはその事であった。それに、彰は今まで女というものを意識する事さえ殆ど無かった。
14:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:20 「いえ、正室になどど厚かましい事は申しません。側室、いや婢女でよろしいのです」 「それはいいのですが…どうしてまたその様な話を」 「実は…我ら父子と飛燕の母は、かの董卓の乱の時に生き別れてしまいましてな」 「そういう事があったのですか」 「ええ。恐らくはあの混乱の中で死んだのでしょうが…まだ未練がございまして、今も探しておるのです。とはいえ、辺境にあってはあても無く…。ですが、今や漢朝の第一人者であられる殿の御許でしたら、何かしら手がかりが得られるかも、とそう思いまして」 「将になりたがらなかったというのはそういうわけですか」 「まぁ…」 「いいですよ」 「ありがとうございます。おい、飛燕や。若殿のお許しが出たぞ。入りなさい」 「若様、初めまして。冒突が娘・飛燕でございます。どうぞかわいがってくださいませ」 「ああ…分かったよ」 (あの時は女というものを知らなかったからな。もう何が何やらさっぱりで、飛燕の顔さえよく分からなかったもんだ。しかし、あれから二十年近くも経って振り返ってみると、おれは女運にはわりと恵まれてたな。初めての相手があんなにいい女だったんだからな) (あとで知った事だが、父上も兄上も、若い頃から艶めいた話には事欠かなかったとか。いや、植もかなり早かったというな。志学を過ぎてからという俺が一番遅かったのかも知れん。まぁ、多少の早い遅いはあまり関係なかった様だが…) 「やれやれ、この冒突、こんな嬉しい事はございません。若殿、さっそくですが、ささやかながら粗餐をふるまいましょうぞ」 「えっ、なにか酒食の類でも?」 「はい。我ら遊牧の民に古来より伝わる料理をば」 「へぇ、どんなものですか」 「では、今からお見せしましょう。飛燕、羊を」 「はい。しばしお待ちください」
15:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:21 八、 「若様、父上。用意ができました」 「では若殿。参りましょう」 「えっ、どちらに?」 「この料理の支度は野外でするものですからね。ちょっと外に」 外に出てみると、日はだいぶ西に傾いていた。徐々に日は長くなっているとはいえ、さすがにもう薄暗い。 「父上、この羊なぞはいかがでしょうか」 「うむ。いい具合に肉がついておるな。…では若殿。これより調理に取りかかりますぞ。飛燕。火と炭と串、あと塩を用意してくれ」 「はい」 「調理ったって…まだその羊、生きてますよ」 「ええ、これからさばくのです」 「これから?」 「ちょっと待っててくださいね。すぐ終わりますから」 冒突の手には、小刀と大きな容器があった。何も知らない羊は実にのんびりとした様子である。彰は、羊を見る冒突の眼に、一瞬異様なものを感じた。 次の瞬間、冒突により、羊は仰向けに倒されていた。そして、小刀を握った右腕が羊の脇腹に叩きつけられたかと思うと、羊は、ぴくりとも動かなくなった。 「な…何が起こったんだ?」 「我らは、あの様にして羊をさばくのです。ああする事で、羊に余計な苦痛を与えずに済むし血も無駄なく使えるのです」 「えっ?じゃ、もう羊を殺したってのかい?」 「ええ。ほら、あとは皮をはいで肉と臓物を切り分けるだけです」 「なんて技だ…」
16:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:22 冒突は、その後も驚くほどの手際の良さで羊を解体していき、日がすっかり暮れる前に料理はできあがった。 「ほら、できましたぞ。若殿、さあ、たくさん召し上がってくだされ」 「じゃ、いただくよ」 (あの時の羊、野趣にあふれてけっこう美味かったなぁ。しかし、俺にはあの技が頭から離れなかった。どうすればあんな事ができるのかと、しばらくの間、そればかり考えてた) 「う−ん…あの時、右手に小刀を持ってたよな。手首、いや肘の近くまで羊の脇腹に入り込んでたから、小刀で脇腹を切り裂いて手を突っ込んだのは分かるんだけど…その先がどうなってるのか…」 「若様。早くお休みになりませんと。明日は早いそうではございませんか」 「ああ、今行くよ…。えっ、そなたもこの褥に入るのかい?」 「いけませんか?わたしは今日から若様の婢女。若様が眠りにつかれるまでお側にお仕えする勤めですよ」 「いや、まぁそうなんだけど…。ずいぶんと薄着だね…」 「それは…。殿方に仕える女には夜のお勤めもございますから、いつ催されてもいい様にいたしませんと。若様は、女がお嫌いですか?」 「いや、そんな事はないよ。ただ…何分、勝手が分からないから…。その、夜のお勤めとやらはもう少し待ってくれないかい」 「分かりました、お待ちいたします。ですが、せめて同じ褥には入れてくださいませ」 「ああ」 「お休みなさい」 「お休み。…飛燕の体って、柔らかくて、暖かくて、気持ちいいなぁ…」 (結局、あの夜はただ寄り添って寝ただけだった。ふふ、若かったな、お互いに)
17:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:22 九、 「えい!」 「なんの!」 虚空を切り裂く音がしたかと思うと、凄まじい打ち合いが演じられる。彰と冒突の武術の鍛錬は、日を追うごとに激しさを増していった。 打ち合いながら、冒突は、彰の成長ぶりをひしひしと感じる。一方で、何かを言い出しかねているのも感じていた。 「お疲れ様」 「お疲れ様です。…ところで若殿、何か私に聞きたい事があるのではありませんか?」 「え、気付いてたのかい」 「気付きますよ。それであれだけの打ち合いをなさるというのはすごいですがね。しかし、何を聞こうとなさってるのですか?まさか、飛燕がお気に召さないとか?」 「いや、あの娘はいい子だよ。ずっと側においておきたいし、子を儲けてもいいと思ってる」 「では、何を?」 「あの技を教えて欲しいんだ」 「あの技?若殿に隠している技などございませんが…」 「いや、あの時、羊をさばいたあの技だよ」 「ああ、あれですか。別に、特別なものではありませんよ。我らが昔からやってる事ですから」 「じゃ、教えてくれるのかい?」 「それはいいんですけど…。そうすると若殿、これから当分、覚えられるまで、羊ばかり召し上がっていただく事になりますよ」 「承知の上だよ」 「それでしたら、お教えいたしましょう」
18:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:23 「まず、羊を仰向けに倒します」 「うん」 「次に、手に持った小刀で、羊の脇腹をすっと切り、そこから手を差し込みます」 「そう、そこまではあの時見えたんだ。その続きがどうなってるのかが分からない」 「腹の中には、肋骨の他に、心臓や肺腑を守る為の膜がありますから、手でそれを破り、さらに奥まで突っ込みます」 「そう言えば、手首どころか肘のあたりまで入ってた様な気がするな」 「その通りです。膜を破った手は、次に心臓まで持っていき、ひときわ太い血管を引きちぎります。そうすると羊は、衝撃と失血によりすみやかに死ぬのです」 「しかし、その時には血は一滴も出なかった。あれはどういう事?」 「あれは、血を胸の中に溜め込んで、外に流れ出ない様にしていたのです。ですから、調理する時にどっと溢れ出たのです」 「そういう事か」 「しかし…すみやかに心臓に届かないとえらい事になるな。羊も苦しませてしまうし」 「そうですね」 「どうすれば心臓の位置が分かるかな?」 「まぁ…まずはその拍動を確認してみる事ですな」 そう言うと、冒突は、羊をひょいと仰向けにしてみせた。羊は、呆れるほど抵抗しない。 「このあたりですよ。耳を当ててみなされ」 「どれ…本当だ。確かに聞こえる」 「我らは、こうして羊とじゃれあいながら、おのずと臓器の位置を把握してるのですよ」 「なるほどなぁ…。何となく、見えてきたよ」 「では、いきますか」 「そうだ、一つ頼みがある」 「何でしょうか」 「この技は…できるだけ内緒にしたいんだ」 「なぜですか?」 「ちょっと考えがあるんだ」
19:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:23 十、 彰は、それからしばらくの間、その技を体得すべく励みに励んだ。 一体、何日羊ばかりを食べただろうか。身も心も遊牧の民になりそうな、そんな錯覚さえ覚えるくらいだったある日、ついにその体得に成功したのである。 「よっ、と。で…、むんっ!…ふぅ。こんなもんかな」 「お見事です。これなら、もう羊の解体などはお手のものですな。しかし…この技を体得していかがなさるおつもりですか?」 「言っただろ、考えがあるって。ちょっと父上のところに行ってくる」 「はて…?」 「父上、お願いがあります」 「何事かな?」 「私に、数頭ばかり虎狼の類を頂けませんか?」 「そんなもの、一体何に使うつもりだ?飼いならそうとしても無理だぞ」 「飼いならすのではございません。我が武術の鍛錬に用いたいのです」 「ほう。虎狼を相手に鍛錬をしようと言うのか。では、わしの元に返ってくるのは虎狼の毛皮というわけか」 「ええ、そうなります」 「まぁ、良かろう。好きにするがよい」 「かたじけのうございます」 何日かして、彰のもとに虎狼が届けられた。 「で、若殿。この虎狼どもをいかがなさるおつもりで?」 「こやつらを、羊の如くさばいてみせようと思ってな」 「えっ?よした方がいいですよ。こいつらの肉、そんなに美味いもんじゃありませんから」 「肉を食らおうってんじゃないよ」 「まさか…」 「そう、そのまさかだ。私は、こいつらと格闘し、そして勝つ。虎狼に打ち勝ったとなれば、世に名が知れるというものだろ?」 「まぁ…そりゃそうですが。でも、狼はまだしも、虎は危険です。お止めくだされ」 「いや、そうもいかん。私には、まだ『威』が足りんからな」 「『威』を得る為に…ですか…」 「よぉ−し、かかって来い!」
20:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:24 彰が構えるか否かというところで、虎が飛びかかってきた。 いくら武術に長け、羊を巧みにさばいてみせたとはいえ、虎では相手が大きすぎる。誰もが、彰が負けると思った。 冒突でさえ、事あらば直ちに彰を助け出すべく得物を構えたほどである。しかし、次の瞬間。 虎は、虚を衝かれたと言わんばかりの間抜け面を晒していた。その足元には、彰の体はない。どうやら、虎の一撃を避ける事ができたらしい。 「わ、若殿はどちらに?」 気が付くと、彰はいつしか虎の背後に回り込んでいた。 「えい!」 そう言うや否や、彰は虎の脚を蹴り飛ばし、横倒しにした。そして、顎と前足の根元付近に立て続けに拳を叩き込んだかと思うと、脇腹に手を伸ばした。 「…決まった…」 虎と人との死闘は、存外呆気なく終わった。彰には傷一つない。完勝であった。 「若殿、いつの間にこれほどの腕前に…。やはり、我が目に狂いはなかった。このお方こそ、類稀なる武人」 彰の、そして冒突の顔に、満面の笑みが浮かんでいた。
21:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:25 十一、 「曹氏の仲子が、素手で虎を仕留めた」 この噂は、あっという間に広まっていった。それが、彰の武名を大いに高めた事は、言うまでもない。 「彰がのう…。我が子ながら大したものだ」 父も、そう言って喜んだと聞く。彰には、それが何より嬉しかった。 ただ、この頃、父と兄の間には、やや微妙な空気が漂っていた。 父が狙っていた絶世の美女・シン【西+土+瓦】氏を、兄が我がものとした為ともいうし、父が、環夫人との間の子・沖を愛し、彼を後嗣に立てようと考えていたからともいわれる。 彰にとっては、どうでもいい事ではある。しかし、兄に何かあった場合、後嗣の座に最も近い者の一人であったのもまた事実。 (父上のあの言葉は…おれの器量を量ろうとしていたのだろうか…まさかな) 「彰よ」 「はい」 「そなたは書を読んで聖人の道を慕わず、馬に乗り剣を振るう事を好んでおるが…それは匹夫の働きに過ぎぬのだぞ」 「はい」 「ゆえに、そなたには、『詩(詩経)』『尚書(書経)』を読む事を課す。分かったな」 「はい」 (父上の仰せは絶対だから、側仕えの者に読ませ、聴く事にした。内容を理解できておれば叱られる事もないと思ったからな。事実、あれからは、無学の故に叱られるということはなかった) (ただ、妙に引っかかった。兄上には何ら問題はないし、植も沖もいるのだから、わざわざおれが学問をする必要もないのに…) だからこそ、あんな事を言ったのかも知れない。その頃の事を振り返り、彰はそう想った。
22:左平(仮名) 2005/01/02(日) 20:26 「丈夫たる者、将となりては、烈侯(衛青。前漢武帝期の名将)・景桓侯(霍去病。衛青の甥で、叔父と同じく前漢武帝期の名将)の如く、十万の大軍を率いて沙漠を駆け、戎狄を打ち破り大功を挙げるべきである。書物を読み、博士になるのが何ほどのものか!」 「若殿。その様な事をおっしゃっては…」 「おれは、書物を読まぬとは言っておらぬぞ。それともそなた、烈侯・景桓侯を貶めるのか?」 「いえ…その様な事は…」 (家臣どもは、あの頃から何かと「その様な事をおっしゃっては…」などと言ってたなぁ。おれに父上の後を継がせようとでもしていたのか?おれ自身にそんな気はさらさらなかったというのに…) 彰は、こそこそと策をめぐらすなどという事は好まない。 敵であれば、堂々と戦い、打ち破るまでの事。味方であれば、一切の疑いを持たずに信じ抜く事。そう思っている。 その裏表のなさ−単純さとも言えるが−が、彰という人物を特徴づけていると言えるであろう。 だからこそ、彰は、父の面前においても、自らの想いを飾る事無く語った。 (それを話した時、父上は笑っておられた。少なくとも、おれが見る限り、そこにはいやな曇りとか濁りはなかった。器量は到底父上には及ばぬが、嫌うという事はなかったと想う…)
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