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関羽の評価とは?
4:★玉川雄一2005/03/29(火) 21:26
では少し異なる切り口から…
時代は下って東晋初期のことになりますが、劉遐(正長、?-326)という武将がおりました。
晋書の彼の伝には冒頭にこうあります。
「性果毅、便弓馬、開豁勇壮。値天下大乱、遐為塢主、毎撃賊、率壮士陥堅摧鋒、冀方比之張飛、関羽」
性格は果毅にして弓馬をよくし、開豁勇壮。天下大乱の時にあたって塢主となり、
賊を討つごとに壮士を率いて堅陣を陥とし鋭鋒をくだき、(地元の)冀州では彼を張飛、関羽に比した−
意訳するとこんなところでしょうか。
彼は個人的武勇に優れまた人望があり、衆を率いて多くの戦勝を重ねたそうですが、
地元(彼の本籍は冀州廣平郡易陽県)では彼を張飛や関羽になぞらえた、と記録に残されています。
ここで興味深いのが、ローカルな名声ではあるにせよ武勇に優れた人物に対比される歴史上の人物として
張飛と関羽の名が挙がっているということです。この逸話が事実であるとするのならば、
関羽の生きた時代から一世紀を経た4世紀初頭において武勇自慢のサンプルとして
敢えて彼らが選ばれることに何らかの意味があるとも考えられます。
もっとも晋書が成立したのは唐初であり、そこに至るまでに何か別の要素が働いた可能性も否定できませんが…
また敢えて細かく見てみれば、「張飛、関羽」という順番にも格付けが意識されているのかもしれません。
そして注意すべきは、劉遐と張飛や関羽を結びつける要素として考えられるのが
あくまでも「卓越した武勇」なのであって、一般的に張・関らに対するイメージとして抱かれる
もう一つの柱である「主君への忠義」といったファクターは考慮されていません。
この時点で劉遐は塢主であり、自身がトップの地位にあったわけですから。
当時において張・関が世間でどのような認識を持たれていたのか、
そもそも知名度がどれ程あったのかは即断できませんが、
少なくともローカルレベルで「武勇絶倫」のいち代表者としてノミネートされるだけの一例をここに見ることができたわけです。
「忠義うんぬん」については、単に劉遐の場合に該当していないだけなのか
張・関についてそういうイメージが固まっていなかったのかまでは解りません。
後者についてはさすがにこの事例からは検証のしようがないにしても、
前者については何故あえて張飛、関羽なのか? 他に適切なサンプルは存在しなかったのか?
という点に関しては類例の検証などさらなる調査が必要かと思われます。
ちなみに、劉遐はこの後南渡して東晋王朝に属し、中堅の軍事指揮官として各地を転戦します。
その驍勇が改めてことさら際だって描写されることはなかったようですが、
軍事指揮官としては傑出してはいないまでもまず優秀といってよい成果を残しました。
ただ、勝ちに乗じて略奪を行おうとして温[山喬]にたしなめられ陳謝したというエピソードもあり、
多少アクのある人物ではあったようです。はからずもこの辺りも張・関を彷彿とさせなくもない…?
また彼の妻も武勇に優れていたといい、劉遐が後趙の石虎軍の包囲に遭った際、
彼女は数騎を率いて万余の敵中に突入し夫を救出したという逸話が伝わっています。
夫の死後、その軍団を再編しようとする動きに反発して旧部下が謀叛を企てた際、
それを止めるために隙を見て武器を焼き尽くしました。
そして乱の鎮圧後、子らと共に建康に還ったとのことです。
後世に「勇将」として関羽、張飛の名が持ち出されたというお話でした。
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