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関羽の評価とは?
5:岡本2005/03/29(火) 22:33
>玉川様
かなりの方を引かせてしまうような内容かも知れないと恐れておりましたので、
書き込み支援ありがとうございます。
>私としては、「襄樊以前」までに関羽が武名を築くだけに足る業績をどれだけ挙げていたか、
>という点にも興味がありますね…
そこが一番の問題の本質かつ厄介な内容であるのが悩みの種なのですよね...。
荊州董督になった以降では比較的2で私がやったような分析はしやすいのです。
ですが、それ以前に単に個人的武勇に優れた一部将でなく、軍団統率者や軍政官も
水準以上にこなせる器量人と内外勢力から評価されていないとそもそも荊州董督として
貫目に欠けますんで。
個人的武勇に関しては、私としては
「当時の個人としては最強クラスに強かった。以上、終わり」
でこれ以上の興味はありません。
戦術に長けた部隊長、万単位の士卒を見事に統御する軍司令官、
中原の情勢を読み、またそれに合わせた軍団準備を行える軍政官
としての能力がどのように培われ、評価されていったかの方により興味があります。
取り敢えずのスタートは
1)反董卓同盟軍の最中もしくは直後に劉備に従って公孫瓉の傘下に入る。
2)劉備が別部司馬(遊撃部隊長)から公績で平原の相となると、張飛と共にその別部司馬となる
あたりからでしょうか。
この辺りの、曹操が袁紹の下働きとして、劉備が公孫瓉の下働きとして働いていた頃あたりの競り合いで
そこそこ戦上手としての劉備の評価、引いてはその両翼たる関羽・張飛の個人武勇に留まらない部隊長としての
評価が気づかれていったはずです。...考察しようにも情報少ないんですけどね...。
黄巾ではどのような活躍をしたか不明です。劉備の規模から考えてこの時点では個人武勇の域を
あまり超えないでしょう。華雄や虎牢関は講釈師の与太ですので無視です。
でも、講釈師がわざわざ劉備一党が凄いぞというために反董卓同盟の一件を演義に創作していれているのは
玉川様の疑問を解消するのが正史からでは非常に難しく、またできたとしても一般受けしづらいことの
証左でもあります。
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