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関羽の評価とは?
7:岡本 2005/04/01(金) 20:20 ふにゅう様 お初にお目にかかります。 >当時の関羽の評価が上がったのは、劉備が徐州を有して >袁術あたりと戦うようになってから おっしゃるように、例の張飛が徐州を呂布に奪われた際(建安元年=196年)に袁術と 劉備が交戦したときに名は挙がってはいませんでしたが部隊長として 活躍したものと思います。 ですが、私は関羽の部隊指揮官としての経歴が始まったのはもっと以前からと 考えています。上にあげましたように公孫瓉時代に既に別部司馬についております。司馬ですと1000人 単位の兵を任されますのでそれほど軽い位ではありません。于禁は軍司馬、楽進も仮司馬から将としての 経歴が始まっていますし、李カク・郝シは董卓死亡直後は牛輔の司馬です。 PCゲーム等やっていると簡単に兵力が揃えられてしまって万単位のぶつかり合い出ないと野戦でないような 感覚を持ってしまいがちですが、1000〜2000の部隊同士でのぶつかり合いの比重 はかなり高いです。 また、徐州へ行く前に青州で管亥に包囲された孔融を救援するために劉備が3000 の兵を遣わせた事件があります(初平二年=191年)。演義では徐州救援にくっつけて(194年ごろになる) 3兄弟が全員出撃していますが、公孫瓉の旗下として袁紹とにらみ合っていた当時、平原を任されていた 劉備が直々に出撃したことは考えづらいです。実際、3000の兵を「遣わせた」とあります。 太史慈に全て貸したというのは論外ですので、関羽か張飛が部隊長として向かったことが 考えられます。従って、関羽・張飛の二人が指揮官として兵を率いるようになったのは初平2〜3年あたり(191-192)から 始まっている可能性が高いと思います。 経験と公績をつみ、対外的に優秀な部隊指揮官として名が知られだしたのが徐州 時代辺りではないかと考えます。それもとてつもなく優秀な指揮官として。 曹魏の五覇はどの人物もこの辺りで既にエース級の実力を見せ始めています。その 彼らよりも、関羽は気持ち上に曹操には評価されていました。 関羽が下った直後(建安5年=200年)に 関羽=偏将軍 張遼=中郎将あるいは裨将軍 于禁=裨将軍 楽進=討寇校尉 徐晃=裨将軍 となっています。偏将軍は裨将軍より形式的には上の階級です。 曹魏で最高の将軍達と評価される百戦錬磨の五覇を上回る評価をうけるには、それに見合うだけの 公績をあげ、かなり長期に渡って経験をつんでいたと考えるほうが自然と考えます。 私は軍事も基本的に天才は存在しないと見ています。多少の向き不向きはあるでしょうが、 優秀な人間が経験を積んで名将になると考えています。私見ですが、古今東西の戦史を 紐解いても無から有を生じせしめた正真正銘の天才は一人もいないと考えています。 (非難を浴びるのを承知で言えば、ヤン・ラインハルト否定論ですな。彼ら程度の積んだ経験であれだけの 戦果があげられれば文句なしの超天才です。)
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