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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

332 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:34 ID:???0
続き。

さて、ここで興味深いことが。何晏が誅されたことを聞いた裴徽(管輅にとっては恩人にあたる人物)は、管輅に、何晏の
印象を問い、その答えから何晏の本質を理解するという話があるのですが、そこで挙げられているのが、恵施(恵子)なの
です。
恵施というと、「荘子」に出てくる、荘子の論敵。彼は、名家(今でいうところの論理学者の類)として知られる人物です
が、何晏もその類であった…ということでしょうか。
wikipediaソースで何ですが、何晏は玄学(老荘思想に基づく学問)の創始者とされているようです。しかし、何晏はそう
単純な人物ではなさそうです。一見、ただの俗物であった晩年も、あるいは違う見方ができるのでしょうか。

さて、司馬懿のクーデターにより、曹爽の一族は滅ぼされたわけですが、帝室に連なる家が消滅させられた、となると、帝
室に連なる他の一族にもその影響は及んできます。
曹操の父の実家とされ、準皇族ともいうべき夏侯氏もその一つです。ここでは、その夏侯氏から三人が紹介されています。

一人は、夏侯令女。曹爽の一族に嫁いだ彼女は、若くして夫に先立たれて寡婦になりましたが、再婚を拒み、曹爽の庇護を
受けていました。その曹爽家が滅んだため、頼るすべを失い、実家に引き取られると、あくまでも再婚を拒み、自らの鼻を
削ぐに至ります。
先に髪を切り、次いで耳を削いでいますから、これ以上再婚を強いると自害しかねないという凄まじさです。
夫への、そして婚家への貞節ぶりに心動かされた司馬懿は、彼女が養子をとり、曹氏の家を継がせることを許します。それ
は、自らの正当性を世に知らしめるには、有効なことでした。
しかし、権力とは無関係の夏侯令女はともかく、実権を持つ夏侯氏に対しては、そう甘くはありません。

続きます。

333 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 01:54:58 ID:???0
続き。

残る二人は、夏侯玄と夏侯覇です。二人は、ともに西方にあって蜀漢との戦いの最前線に立っていたわけですが、夏侯玄が
都に召還されることになりました。夏侯玄は、先に曹爽が蜀漢を攻めた際、その計画に賛同し、同行もしていますから、曹
爽派とみなされて…というわけです(なお、この戦いにおいては、夏侯覇は先鋒を務めている)。
結局、夏侯玄への措置は単なる異動だったわけですが、残された夏侯覇は、気が気ではありません。何しろ、夏侯玄の後任
は、仲の悪い郭淮なのです。
 郭淮というと、かつては夏侯覇の父・夏侯淵とともに蜀漢と戦っている人物。その彼と仲が悪いというのはちょっと変な
 気がしますが、以前に、曹休が賈逵を(一方的に)嫌ったということもありましたから、父の元部下の指図を受けること
 に不快感を持っていた(それを察した郭淮も夏侯覇を嫌った)のかも知れません。
これは、準皇族たる夏侯氏である自分を陥れる罠か。夏侯玄への沙汰が下るのを待っていては危うい。ここまで思いつめた
夏侯覇は、ついに亡命することを決めます。

しかし、魏の西方にあって亡命先となる国はただ一つ。そう、父の仇たる蜀漢です。父の仇を取りたいという気持ちを強く
持っていた(それ故に、先の戦いでは先鋒となった)夏侯覇にとっては難しい決断でしたが、彼の一族の女性が張飛の妻に
なり、二人の間に生まれた娘が蜀漢の皇后になっているという縁が決め手になりました。
夏侯覇は、苦難の旅の末に蜀の地に入り、皇后の縁戚として厚遇されます。没年は不明とのこと。姜維とともに戦うのは、
演義での創作のようです。

続きます。

334 名前:左平(仮名):2011/10/02(日) 12:44:26 ID:???0
続き。

夏侯覇が亡命した当時、蜀漢の宰相格となっていたのは、費禕でした。この数年前から病床にあった蔣琬は、そのまま回復
することなく亡くなり、費禕がその後任となっていたのです。
費禕は、司馬懿のクーデターの委細をつぶさに検証し、その是非を論じました。これは、いわゆる史論の先駆けというべき
ものです。蜀漢には文化的な要素は少ないのですが、諸葛亮の『出師表』や費禕の史論があるあたり、文化不毛の国という
わけでもありません。
その論は二つあります。一つは、是とするもの(司馬懿は、先帝・曹叡の遺命に基づき、国政を正した)。もう一つは、非
とするもの(先帝・曹叡は、司馬懿と曹爽に後事を託したにもかかわらず、司馬懿は、曹爽の恣行を正すことなく誅した)
です。

是非はともかく、司馬懿のクーデターの影響は大きいものがありました。なるほど、クーデター後、魏の国政は正されては
いる(人材登用等が適正化された)のですが、帝室たる曹氏の一部が滅ぼされる一方で、司馬氏の権力が著しく伸長したの
は、魏の国体の護持という観点からは望ましくないことです。
これを危惧した令狐愚は、おじの王淩に、司馬懿を討つべきではないか、と持ちかけます。

王淩は、王允の甥です。彼は、おじが董卓を討った(それによって国体を正そうとした)ことを誇っていましたから、この
話には興味を示しました。単に栄達だけを考えるなら、司馬懿との良好な関係を保つに越したことはないのですが、王允の
甥であるという自覚が、それを許さなかったのです。

ただ、皇帝を奉ずる司馬懿と戦うには正当性の根拠となる存在が必要です。令狐愚は、楚王・曹彪(曹操の子)の名を挙げ、
彼を奉ずるべきであると主張し、配下を遣わして曹彪に説きます。
一方、王淩も、優秀な息子達のうち、頼りにしている長子・王広にことのあらましを伝え、是非を問います。四十近い壮年
の王広は、司馬懿の善政を挙げ、慎重に振る舞うべきである、と回答します。

事実上、魏の南方を任されている王淩は、かなりの兵力を持っています。その彼が、楚王・曹彪を奉じて司馬懿と戦えば、
どうなるか。なるほど、うかつな動きはできません。
王淩達は、水面下で静かに動いていましたが、その最中に、この計画の中心人物・令狐愚が亡くなります。ここから、一体
どうなるのでしょうか。

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344 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:01:13 ID:sAtiQhzY0
三国志(2011年10月)


今回のタイトルは「老衰」。そういえば、今回登場する主要人物は、みな高齢者…。

令狐愚が亡くなったことで、王淩達の楚王擁立計画は一からやり直しとなりました。落ち着いてみれば、計画の実行はさらに
難しくなったわけですが、王淩は、令狐愚の遺志を引き継ぐかのように、この計画にのめりこみます。
ただし、司馬懿との全面対決はできません。十分な兵力を持っているとはいえ、彼の計画は、魏の国政を正さんがためのもの
なのですから、たとえ勝てたとしても、魏の国力を疲弊させるような行為をするわけにはいかないのです。
それを避けるためには、何とかして、司馬懿をおのが勢力圏内に引き込み、捕斬する必要があるわけですが…。

肚は括っているとはいえ、困難極まりないことです。さすがの王淩にも迷いがあったのか、浩詳という人物に、占わせます。
王淩の言葉に不吉なものを感じた浩詳は、やや曖昧さの残る表現で、王者が興るというようなことを話しました。
王淩は、その言葉を、おのが計画が成功することを示したものだと確信したのですが、実は、(呉における孫権のような)
至尊とまではいかないが高位の人が亡くなる、ということを示したものでした。その、高位の人とは…

さて、ここで話は呉に移ります。王淩が、司馬懿を引き込むのが困難と思ったのは、呉の内部事情が、それをさせないとみた
からに他なりません。孫権は年老いて、もはや、司馬懿自らが行かねばならないような大戦(孫権の親征)を仕掛けることは
ないからです。呉にとっては、戦下手な孫権が出ない方が良いのではありますが、ことはそう単純ではありません。

 しかし、王淩が孫権を「老いた」というのも不思議なもの。なにしろ、王淩の方が年上なのですから。

続きます。

345 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:03:15 ID:sAtiQhzY0
続きます。

孫権は衰えました。衰えて政務への意欲が萎えただけならまだしも、変なところで頑固になり、臣下の諫言を受け入れる度量が
すっかり失われてしまったのです。その讒言によって多くの名臣達を陥れた孫魯班は、ここでも暗躍しました。老いた孫権が、
新たに潘氏(及び彼女との間にもうけた孫亮)を寵愛するようになったのを知ると、彼女達を賛美したのです。
孫亮は、実際、なかなかの資質があったようですが、潘氏は、というと…。

ともあれ、孫権は、娘の言葉に心動かされました。
太子・孫和派と魯王・孫覇派との争いが国を二分するに至り、いよいよ収拾がつかなくなったことに嫌気がさしていたこともあり、
ついに、ある決定を下します。それは、
「太子・孫和を廃し、魯王・孫覇に死を賜う。新たに孫亮を太子とする」
というものでした。

孫権としては喧嘩両成敗というところなのでしょうが、これに納得する者はいたのでしょうか。孫覇は毒を仰いで果てましたが、
何故に自分が死なねばならなかったのか、納得できたとは思えません。
また、孫和も、罪なくして太子を廃されました(後に王として僻地に遠ざけられる)。このような非道が許されてよいのか。そう、
憤る者もいたことでしょう。
魯王派の小人達は処刑され、太子派は、太子の廃替を諌めるも、これまた処刑される者が出ました。

孫権の子は、おおむね才能はあったようですが…孫登、孫慮の早世が惜しまれるところです。

続きます。

346 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:05:58 ID:sAtiQhzY0
続き。

敵国のこのような異常事態を、魏が見逃すはずはありません。将軍として前線に近い新野にあった王昶はこれに気付き、呉を攻める
べきであると上奏し、許しを得ました。
王昶は、これまで様々な官職を歴任し、いずれにおいても成果を挙げてきたそつのない人物です。当然、呉の政情も抜かりなく調べ
上げた上での上奏ですから、司馬懿もすみやかに了承し、王昶と王基・州泰に出撃命令を下しました。

 王昶と王基は、王淩ゆかりの人物です(王昶は、王淩とともに地元で名が知られた人物。王基は、王淩の元部下。中央での王基の
 扱いに王淩が憤り、手元においた、というような話も)。ただし、ともに私より公を重視する人物ですから、王淩の計画を知った
 としたら、どうしたでしょうか。
 州泰は、司馬懿が孟達を攻める際に、先導役を務めた人物。身内に不幸が相次ぎ九年も服喪しましたが、司馬懿は彼を忘れず、喪
 が明けるのを待って起用しました。

まず、王昶は江陵を攻撃します。江陵は要地で城も大きく、容易に落とせる城ではありませんが、ここを攻めることで、敵の耳目を
他から逸らす(王基・州泰への間接支援になる)という意義があります。
守る施績は迎撃しますが、王昶はこれを撃破。施績が籠城すると、挑発した上で引き揚げると装い、追撃してきたところをまた撃破。
鮮やかな勝利を飾ります。
王基は、敵将・歩協が固守して動かないとみると、食糧庫を攻めこれを奪取。数千の人々が降ったといいます。州泰も結果を残した
ので、王昶の計画はみごと成功したわけです。

続きます。

347 名前:左平(仮名):2011/11/04(金) 23:08:33 ID:sAtiQhzY0
続き。

さて、魏に攻められたとなれば、呉は当然に反撃してくるはず。王淩は、これを好機とみて、呉が川をせき止めたことを上奏して、
呉を攻めたい(あわよくば、これで司馬懿を誘い出したい)と申し出ます。
が、これに、司馬懿は不審を抱きます。
この頃、司馬懿は病が悪化しており、自邸から出るのも辛い状態になっていました。しかし、それを抜きにしても、この上奏には
不自然な点がありました(剛毅な王淩がこの程度のことで…というわけです)。

司馬懿は動かない。それを知った王淩は、やむを得ず、実力行使に出ようとします。しかし、それには、令狐愚の後任である黄華
を取り込む必要がありました。
使者が、黄華のもとに向かいます。しかし…
令狐愚が亡くなったことで、計画には(王淩からみて)赤の他人が多く関わるようになっていました。それは、計画が漏れる危険
性が高まることでもありました。

黄華は、かつて魏に背いたことのある人物でした。それ故、利をちらつかせれば味方に引き込める、と王淩はみたのですが…彼は
根っからの反逆者ではなく、このことを中央に知らせます(使者も寝返った)。
司馬懿も、王淩の計画を(噂でですが)耳にしてはいました。それ故、この知らせにも驚きはしなかったのですが、人というもの
の不思議さを実感せずにはいられませんでした。
ともあれ、王淩を止めねばなりません。司馬懿は、最後のご奉公だ、と言い、自ら王淩のもとに(兵を率いて)赴きます。

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356 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:45:08 ID:bT4gIyLs0
三国志(2011年11月)


今回のタイトルは「交代」。いつの間にか世代交代の時期になっています。

司馬懿自らが兵を率いて南下中。それは、王淩を討伐する軍である。この知らせは、王淩を驚愕させました。挙兵しようにも、
完全に機を逸したのです。
そのせいでしょうか。司馬懿と、長子・王広からの書簡を読んだ王淩は、自ら出頭しました。自首すれば罪に問わない。その
ようなことが書かれていたようです。しかし、司馬懿は、そんなに甘い人物ではありません。
かつて、孟達を討った時がそうでした。そして、曹爽を倒した時も。司馬懿にとっては、ことばもまた計略の一環。敵に対する
信義などというものは、端から存在しないのです。

小舟に乗った王淩は、司馬懿のいる旗艦に近付くことを拒まれました。ここに至って、初めて騙されたことに気付いた王淩は、
わたしを騙したのか、と叫びますが、「君を騙しはしても国家を騙しはしない」と言い返され、絶句します。
引き続き太尉の印綬を持たされましたが、都に着けば、楚王擁立計画の全容を暴かれ罪に問われることは確実。王淩は、毒を
仰ぎ自決しました。享年八十。

王淩自身は太尉として死にましたが、その息子達は、皇帝廃立を目論んだ者に連なるとして処刑されました。かつて令狐愚に
仕えていた単固という人物も、連座して処刑されました。
擁立されるはずだった楚王・曹彪は自決に追い込まれ、その属官達も処刑されました。
「謀叛」というものは、たとえ未遂に終わっても族滅に至る重罪。過酷とはいえ、ここまでは、仕方のないことではあったの
でしょうが…

続きます。

357 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:49:44 ID:bT4gIyLs0
続き。

これほどの大量処刑があったにも関わらず、百官からは、なお処罰が甘いという声があがりました。司馬氏が魏の実権を掌握
しつつあることを認識し、それに媚を売ろうとしたのです。
太尉として死んだ王淩や刺史として死んだ令狐愚の墓が暴かれ、遺骸は晒し者とされました(その後、直に埋められている)。
そんな中、馬隆は、かつて令狐愚の客であったことから、晒されていた遺骸を引き取って埋葬し、さらに喪に服しました。
馬隆の行動は称賛されたことからみても、令狐愚達は、(先に司馬懿に欺かれて滅んだ)曹爽達とは異なり、為政者としては
優秀だった(民に慕われた)ことが分かります。

この直後、司馬懿の病は急速に悪化しました。老齢で無理をしたことが堪えたのでしょうが、王淩の祟りだという声があった
のも無理からぬところ。結局、その年のうちに亡くなりました。

しかし、司馬氏の権力は弱まりません。伊尹の故事(伊尹が亡くなるとその子の伊陟が継いだ)に従い、長子の司馬師が引き
続き実権を掌握し続けたからです。
時に司馬師は四十四歳。しかし、その真意を知る者はいません。仕官して日が浅いというわけでもないのに、どこか謎めいた
存在感を放っています。ただし、この年は服喪期間につき、その実像が明らかになるのは翌年以降になります。

魏の方がひと段落ついたところで、話は呉に移ります。


続きます。

358 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2011/12/03(土) 00:55:43 ID:bT4gIyLs0
続き。

この年、呉では災害が相次ぎました。当然、人々は不安に駆られるのですが、孫権がしたことといえば、大赦くらい。政務に
対する関心がすっかり失われていました。

そんな中、外出した孫権は発熱して寝込みます。孫権は高齢。万一のことがあれば…。ここでも、皇后となった潘氏や孫魯班
らが暗躍します。
寝込んでいる孫権ですが、ときどき意識を取り戻し、太子の廃立は誤りではなかったか、と問いかけます。もちろん、潘氏達
がこれを是とするわけはありませんから、何とか言いくるめるのですが。

いくらかは回復したものの、もはや孫権の余命は僅か。遠からず死ぬことを自覚した孫権は、孫和の復位が成らないとみると、
幼い孫亮を補佐する者を推挙するよう命じます。
群臣達は、こぞって諸葛恪を推挙しますが、孫権は難色を示します。彼が後事を託するに値しないとみたからです。ここまで
目立った失策はなかったはずですが、諸葛恪という人物に、どこか危ういものを感じたようです。すっかり衰えた孫権ですが、
時に、往年の冴えを取り戻すことがあります。もっとも、諸葛恪にまさる人物がいないこともまた事実。

 秀長亡き後の豊臣家、とまではいかないまでも、陸遜がいれば…と思う呉人も多かったでしょうね。

諸葛恪に後事が託されることは、潘氏達としても望ましくありません。かつての呂氏の如く垂簾政治を行いたい、という野心を
抱く潘氏にとっては、諸葛恪が全権を担うなどというのは悪夢でしかないのです。
孫権との面会をさせない、ということには成功しましたが、さて…。


追記。
印象に残った人物が二人。
まず曹彪。皇帝の使者から「何の面目あって武帝にまみえるのか」と言われ、怒りの目を向けるあたりは、帝室の一員としての
矜持を感じさせます。
司馬懿は、皇帝の留守をついてクーデターを起こしたわけですが、これこそ、皇帝をないがしろにする叛逆ではないか。司馬懿
に言われるがままに帝室の一員たる曹爽達を滅ぼしたのは、おのが手足をもぎ取るが如き愚行。その心の声を形にしようとした
のが、王淩ではなかったか。彼こそ、武帝の恩に報いようとした忠臣。ゆえに、われは王淩と共謀した…。
確かに、即位時は幼弱ではあったでしょうが、それから既に十年以上が経っています。それにもかかわらず、おのが意志を見せ
ない曹芳は、愚かと言われてもしょうがないのかも知れません。一方で、王淩達が曹彪の擁立を考えたというのも分かります。
次に、孫峻。物事をはっきり言う性格を孫権に気に入られたということですが、潘氏や孫魯班、それに、潘氏に取り入る孫弘ら
と比べると、善良な人物に見えてきます(非凡という風でもありませんが)。

司馬懿存命中の時点で、魏の群臣が司馬氏に媚び始めた、というのが気になります。司馬氏の王朝たる晋は中国史上最も脆弱な
統一王朝だったように思うのですが、このあたり、何か関係があるのでしょうか。

359 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:19:39 ID:???0
三国志(2011年12月)


今回のタイトルは「晩光」。孫権がいよいよ最期のときを迎えるわけですが、曹操・劉備とは異なり、本人の知らぬところでの
政争が繰り広げられます。そのせいか、今回は、いささか違った雰囲気が。

孫権から後事を託された諸葛恪は、ある人物に声をかけられます。上大将軍の呂岱です。呂岱は、諸葛恪に「あなたは、(事を
行う前に)十度お考えになるべきです」と助言しますが、諸葛恪は嫌な顔をします。
この言葉は、季文子(季孫行父)が三度考えた(後に事を行った)、ということを踏まえてのものと思われますが、諸葛恪には、
考える回数が多い分、自分が季文子に劣る、と言われたように感じたからです。
呂岱は、諸葛恪が、人の助言に耳を傾けないその性格ゆえに失敗することを危惧しますが、もはや為すすべはありません。
 しかし、七十歳の老皇帝(孫権)が後事を託する者達の中に、九十一歳の老将(呂岱)がいるというのも、不思議なもの。
 また、季文子が三度考えたことに対し、孔子は「二度考えれば足る」、としたことについての考察も、なかなか興味深い
 ものがあります。

才覚はあるとはいえ、危うさを抱えた諸葛恪に、いかに掣肘を加えるか。孫権も、このことはよく承知していました。皇子達の
封地にも、その意図が見えるといいます(長江に沿う形で、孫奮、孫休、そして孫亮を配置。廃太子・孫和は、孫氏にとっては
興隆の地だが地味の悪い長沙に配置することで復位はないことを示す)。
細かいところはこれからとしても、孫権亡き後の、おおよその形ができてきたというところでしょう。しかし、いかに制約を加
えたところで、諸葛恪が巨大な権力を持つことは明らかです。潘皇后の垂簾政治、という形をとって自らが実権を握りたい孫弘
としては、何とかしたいところです。

そんな中、ある事件が起こります。

続きます。

360 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:21:12 ID:???0
続き。

潘皇后が急逝したのです。看病疲れはあったにせよ、子の孫亮が幼いことからも分かるように、まだ若く特に持病もない皇后の
急逝に不審なものを感じた(首筋に痕跡があるのに気付いた)諸葛恪は、みずから調査にあたります。
不審者が侵入したのではないか。皇后の侍女に、ついで衛士に問うものの、そのような者はいませんでした。どこか衛士の死角
をついて侵入したのか、と周囲を調べますが、死角は見当たりません。
事件は迷宮入りか、と思われましたが、再度衛士に問うたところ、侍女達に不自然な行動がみられたことから、真相が明らかに
なりました。

やはり、皇后は殺害されたのです。はじめ、侍女の証言に怪しいところがなかったのは、彼女達の間で口裏合わせがあったため
でした。それほどまでに、皇后は憎悪されていたのです。
この事件の少し前に改元が行われましたが、それをもってしても、呉の不運は祓えなかったのです。

孫権の病状は、いっこうに回復しません。不安に駆られた呉の人々は、この頃、神と尊崇されていた王表のもとに集まるように
なります。
王表には、論戦を仕掛けてくる相手を言い負かすだけの弁才と学識があったことは確かなようですが、いくら彼でも、死にゆく
孫権を救うことはできません。このまま孫権が死ねば処罰されることを悟った彼は、姿を消しました。
王表が神であったかどうかはともかく、彼の逐電は、呉から神が去ったことを暗示していたのでしょうか。孫権の容態は、この
後、悪化の一途をたどります。

続きます。

361 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:22:50 ID:???0
続き。

皇后の急逝にも、どこかうつろな孫権。しかし、おのが死を自覚した孫権は、あらためて、後事を託すべき者達を招集します。
呼ばれたのは、諸葛恪、孫弘、滕胤、それに呂拠の四名(孫峻は、孫権の命をうけて招集する側)です。
孫権は、諸葛恪が独断に走らないよう、入念に指示をします。そこまで指示しないといけないのか、とも思いますが、そんな
諸葛恪にまさる臣下がいないがゆえのこと。

これが、皇帝・孫権の最期の詔。と言いたいところですが…いつ亡くなるか分からないとはいえ、まだ生きている以上、これ
とは異なる詔が出る可能性も否定できません。
この日は、孫弘が孫権の看護にあたることになったのですが、孫峻は、これに嫌な予感を抱きます。翌日、他の者と交替する
までの間、孫権の容態を知る者が、孫弘ただ一人になる。これが何を意味するか。

はたして、孫弘にはある予感がありました。「陛下は、今夜、亡くなる」という予感が。孫弘が、諸葛恪を失脚させて自らが
実権を握るためには、何としてでもこの機会を逃すわけにはいかないのです。この間に、孫権が何を話したか、話さなかった
か。それを知る者が孫弘のみということになれば、彼の勝ちなのです。
この夜は、孫弘・孫峻の二人にとっては、とても長く感じられたことでしょう。孫権が生きて朝を迎えるか否かで、すべてが
決まるのです。

孫権の容態を確認しながら、孫弘は、孫権の生涯に思いを馳せます。孫弘にとっての孫権とは、正直言って、よく分からない
存在でした。学問好きということだが、酒癖が悪いと印象が強く、何が偉大なのかよく分からない…が、それゆえに偉大なの
であろう、と。
そして…孫権は、殂きました。

続きます。

362 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/01/06(金) 01:25:12 ID:???0
続き。

孫権の死を確認した孫弘は、室外の衛士に指示を出すと、直ちに動き出しました。諸葛恪や孫峻に気付かれる前に、孫弘に
都合のよい遺詔をつくらねばならないのです。
しかし、ほどなく、孫峻がやってきました。衛士に阻まれた孫峻が諸葛恪を呼び、兵を引き連れた諸葛恪が衛士を制して中
に入ると…。

孫権の死を知った二人は、孫弘が何をしようとしているかを察しました。ことは、一刻を争います。

孫峻が、諸葛恪が呼んでいる、と孫弘を誘い出し、諸葛恪がこれを斬殺。これにより、一応の決着はついたわけですが、孫
弘もまた、孫権が後事を託した者達の一人であったことを思うと、呉の前途は、決して明るいものとは言えません。


追記。
今回は、諸葛恪・孫峻・孫弘の三人の心理描写が目立ちました。孫権の死を扱った回なのですが、孫権その人については、
あまり触れられていません。これが、彼の偉大さの一端なのでしょうか。
印象的なのは、職務に忠実な衛士達の姿です。孫権の気まぐれのために国政が乱れても、私欲から来る重臣達の権力闘争が
あっても、彼らは、ただ自らの職務を果たしています。
諸葛恪が、自らを阻んだ衛士を指して「忠の者だ」と言って殺さなかったことに、わずかな救いが感じられました。

363 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:26:02 ID:???0
三国志(2012年01月)


今回のタイトルは「太傅」。久しぶりに三国の情勢が語られます。大物達が相次いで亡くなったことで、時代が再び大きく
動こうとしています。

まずは、孫権が崩じた呉から。新帝・孫亮が幼少であることもあり、諸葛恪が巨大な権限を握ったわけですが、冗官を廃し
たり税の減免をする等の施策もあって、上々の滑り出しをみせます。
さて、国外に目を転ずると…。魏との戦いは膠着状態とはいえ、やや劣勢。ただ、呉にとって脅威であり続けた王淩は既に
亡く、司馬懿も亡くなりました。この頃、魏の脅威は、やや弱まっていると言えます。
性急なところのある諸葛恪は、魏への牽制とするべく、新たな城を築かせました。

これにいち早く反応したのが、王淩に代わって対呉戦線を所掌することとなった諸葛誕でした。呉に動きありとみた彼は、
すぐさま呉を攻めるべきであると上奏します。
司馬懿亡き後、服喪中ということもあり沈黙を保っていた司馬師は、このことをさほど重視してはいませんでしたが、呉も
また服喪中であろうはずのこの時期に動いたことを訝しく思い、彼の意見を採用することとしました。
諸葛誕の他にも、先の戦いで戦果を挙げた王昶達も呉を攻めるべきであると上奏していたこともあり、呉を攻めることに
ついては、すんなりと決定しました。わずかに傅嘏が異見を述べましたが、余りにも少数意見。

魏は、この戦いに、十分すぎるほどの大軍を動員しました(諸葛誕・胡遵、毌丘倹、これに王昶)。胡遵は、かつて司馬懿
のもとで堅実な戦いぶりを見せた良将。毌丘倹は、公孫淵を攻めきれなかったとはいえ、その後の高句麗との戦いにおいて
目覚ましい戦果を挙げています。王昶は、数回前に触れられたように諸事にそつのない人物です。万全の体制と言ってよい
でしょう。諸葛恪は、いきなり大きすぎるほどの試練に見舞われます。

続きます。

364 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:30:09 ID:???0
続き。

ただし、あまりの大軍ゆえか魏軍に油断がありました。そこを、呉の歴戦の勇将・丁奉が突きます。僅かな兵で敢然と攻撃を
加えると、魏軍は存外あっけなく敗走。諸葛誕・胡遵の軍勢が敗走したと見るや、毌丘倹、王昶はすぐさま撤退。
諸葛恪は、労せずして大勝利を収めました。これにより、彼の呉国内での声望は絶頂に達します。

しかし、この大勝利は丁奉の勇戦によるものであり、諸葛恪には、自分が為したという実感が余りありませんでした。実感の
伴わない大勝利のゆえ、もっと戦果が挙げられたのではないか、という思いが日々強くなっていきます。
そして、ついに、再度の魏との戦いを決します。先の戦いから日も浅く、国内には厭戦気分が濃厚にあったのですが、これを
無視しての強行です。孫峻は、そんな諸葛恪に嫌悪感を抱きますが、ここではどうすることもできません。

もちろん、諸葛恪にしても、単独で魏とあたるのは危険すぎるということくらいは承知していますから、蜀漢との連携を考え
ました。使者が、蜀漢に赴きます。
これまで呉と蜀漢とが連携して魏にあたろうと試みたことは何度かあったのですが、いずれもうまくいっていません。蜀漢は
その成立の経緯からして、魏とは不倶戴天の仇敵ではあるのですが、諸葛亮の死後の軍事行動はやや控え気味です。呉の要請
があっても、動くかどうかは未知数でした。
諸葛恪に、それをどうするかといった見通しがあったのかは分かりませんが…この時は、うまくいきました。ちょうどこの頃、
蜀漢では一大事が発生していましたのですが、これが大きく影響していたのです。

続きます。

365 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:34:00 ID:???0
続き。

その一大事とは…費禕の急死でした。ただの死ではありません。宮中で殺害されたのです。

超人的な記憶力と事務処理能力を持ちながらも、自らが諸葛亮に及ばないとみていた費禕は、無理な軍事行動は控えました。
その分は内政の重視に向けられ、蜀漢はしばしの休息の時を享受します。
費禕は、蜀漢にとってかけがえのない人物でした。それゆえ、身辺にはご注意いただきたい。名将・張嶷はそう忠告したの
ですが…魏の降将に高位を与え宮中に出仕させたことが、仇となりました。

費禕の死により、積極路線の姜維の発言力が強くなりました。費禕と姜維は、ともに諸葛亮を篤く尊敬していたのですが、
その見るところは異なっていました。費禕は、その並外れた政治手腕と公正さに、姜維は、大敵・魏に敢然と立ち向かった
雄姿に、憧れていたのです。

諸葛恪からの使者が蜀漢に至ったのは、ちょうどそんな折のことでした。姜維はこれを承諾し、皇帝・劉禅もこれを是認。
ひとりこれを危惧した張嶷は、諸葛恪のいとこにあたる諸葛瞻に書状を出しました。(父に及ばないことを自覚しているが
故に)誠実なことで知られたいとこの言葉なら、むげには扱わないだろうと見越してのことです。
しかし、皇帝が是認した以上、出師は止められません。

ついに、両国の軍勢が出陣しました。魏の宮中は騒然。司馬師は、またしても大きな決断を迫られることになります。

366 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/02/04(土) 02:39:18 ID:???0
追記。

今回の時点では結末は描かれていませんが、司馬師と諸葛恪の明暗が交錯しているような印象があります。

前半に描かれた戦いでは、司馬師は、十分な兵力をもってすればまあ良かろうとやや軽く考えており、魏軍も、大軍故に
寡兵の丁奉を侮りました。一方、諸葛恪は、彼には珍しく人の意見に耳を傾け、慎重に対応。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」などと言いますが、一見すると負けるはずのなかった魏があっけ
なく敗れたのも、ちゃんと理由があってのことでした。
後半は、逆に、諸葛恪に油断があります。先の戦いでは、なるほど諸葛誕・胡遵を打ち破りはしたものの、毌丘倹、王昶
の軍勢は無傷で撤退しています。ともに実績のある将であることは、これまでの経歴をみれば明らかなわけですから、次
に彼らとあたった時はどうか…と考えておくべきでしょう。

この戦いの結果、両者とも、より強い権力を掌握しています。これの運用次第で、情勢が大きく変動することは自覚して
いたでしょうが…さてどうなるか。

367 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:52:22 ID:???0
三国志(2012年02月)


今回のタイトルは「敗残」。才子が才に溺れて失敗し、一方で…。

諸葛恪は、二十万と号する大軍をもって合肥を攻めます。蜀漢との連携、十分な軍勢、綿密な偵察。そのあたりの準備は
きちんとしていたのですが、一つ、忘れていました。合肥の守将の名を知らなかったのです。
将の名は、張特(字は子産)。名前(字)負けしている感のある彼は、諸葛恪からは愚将であるとばかにされましたが、
味方(もとの上官の諸葛誕)からも愚将呼ばわりされており、危うく罷免されるところでした。
諸葛誕の異動に伴い留任しましたが、合肥という要地を任せるには不安あり。おまけに、合肥の兵はわずか三千。諸葛恪
ならずとも、たやすく落とせそうだ、と思われたことでしょう。
張特自身も、自分一人でこの難局を乗り切れるとは思いませんでした。ただ、満寵によって築かれた合肥新城の堅固さと
味方の援軍を信じ、何とか六十日は持ちこたえようとしたのです。

戦いが始まりました。呉軍は猛攻を仕掛けますが、合肥新城の守りは堅く、いたずらに死傷者が増えるばかり。諸葛恪は
いらだちを隠せません。一月経って、ようやく方針転換(土を盛って城壁を無効化する)しますが、将兵の士気は下がる
一方。さらに、軍中に病が発生し、死者はますます増えます。
こうしている間に六十日が経ちましたが、魏の援軍はいまだ来ません。張特は訝しく思います。合肥の重要性を考えると
見殺しにすることはあり得ないし、司馬師が無能だというなら、むしろ慌てて軍勢を動かすと思われるからです。
ともあれ、張特は、なおも防戦を続けねばなりません。呉軍の損失も大きいとはいえ、なお大軍なのです。

ところで、司馬師はどうしていたのか。彼は、側近の虞松の献策を容れ、大胆な、しかし理に叶った用兵を行いました。

続きます。

368 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:55:44 ID:???0
続き。

兵法においては、敵の虚を撃つことを重視します。江南を攻める呉と西域を攻める蜀漢とでは、明らかに、前者の方が
魏にとって重要です。いかに大国とはいえ、両面作戦をとることは難しい以上、どちらかを優先させねばなりません。
となれば、より重要な方である前者を優先するのが道理なわけですが、しかしそれ故に、後者には(こちらは後回しに
されるに違いない)という予断があります。それこそが、虚。
司馬師は、合肥の救援はしばらく見合わせるよう指示する一方で、西域を任せている郭淮と陳泰に迎撃を命じます。

既に老将というべき年齢になった郭淮ですが、動きは迅速でした。司馬氏には、大きな恩があったからです。彼の妻は
王淩の妹。王淩が謀叛人とされたことから、当然に連座の対象となったわけですが、郭淮は、処罰を承知でこれを奪還
しました(奪還したのは息子達でしたが、郭淮は自らが罪を受ける覚悟であえて送り出したのです)。
司馬懿は、西域における郭淮の存在の大きさに鑑み、あえて法を枉げてこれを許しました。司馬懿からみれば、郭淮を
失うことによる損失と比較した結果の判断でしたが、郭淮にとっては、篤情と映ったのです。

ここでは「非凡には遠い」とされる郭淮ですが、曹操の時代から、長年にわたって西域を無難に統治してきたのは伊達
ではありません。その郭淮が、良将の陳泰とともに迎撃に当たったわけですから、相当の大軍が動いたはずです。
魏の中央は当然に合肥の救援を優先する(ゆえに西域の救援は遅れる。その間に戦果を挙げる)という姜維の目論見は
外れました。出兵したことで呉との約定は果たしたわけですから、戦果が見込めなくなった今、兵を動かす意義はあり
ません。姜維は、呉の不甲斐なさを詰りながら、撤退しました。

続きます。

369 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 21:59:36 ID:???0
続き。

姜維が撤退したことで、魏への脅威は、合肥を攻める呉軍に絞られました。しかし、司馬師は、まだ動きません。そう
して、開戦から九十日が経過しました。

魏・呉両軍とも、そろそろ限界に近づいていました。そんな中、守将の張特が、諸葛恪に面会を求めてきました。これ
は、降伏に違いない。そう思った諸葛恪は、しばらくぶりに上機嫌になります。
張特が刺客になることを怖れた諸葛恪は、それについての用心は怠りませんでしたが…。

魏の法令においては、開戦から百日が経過しても援軍が来なかった場合は、将が降伏しても連座は適用されない。自分
(張特)はもう戦うのをやめようと思うが、納得しない兵もいるので説得したい。そんなことを聞かされた諸葛恪は、
ますます勝利を確信します。
しかし、帰還した張特は自らの勝利を(少なくとも、まだ戦えることを)確信していました。諸葛恪は、自軍の損害の
大きさを隠すのを忘れていたのです。しかも、張特が降伏するものと思い込んだため攻撃が中止されました。この機会
を逃す手はありません。張特は、この間に防備を固めました。

張特にしてやられたことに気付いた諸葛恪は激怒し、攻撃を再開しますが、既に戦意を失っている呉軍には合肥を攻め
落とす力などありません。しかも、ここでついに司馬師が大軍を動かしましたから、もはや手詰まり。
諸葛恪は、撤退を余儀なくされます。

続きます。

370 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 22:02:04 ID:???0
続き。

諦めきれない諸葛恪は、帰還するのをためらい、屯田をしようか、などと言い出します。しかし、その軍は、あくまで
皇帝から授かった国軍であって、諸葛恪が好き勝手に扱ってよいものではありません。

このことを知らされた孫峻は、繰り返し詔勅を出させることで、何とか諸葛恪を帰還させました。しかし、いたずらに
兵を消耗した(大きな会戦はなかったが大敗に等しい)にもかかわらず、諸葛恪は凱旋したかの如く振る舞い、批判的
な人々を遠ざけました。
かつて諸葛恪は、蜀漢に仕えた叔父・諸葛亮は父・諸葛瑾に劣ると言いました。しかし、たとえ形式上のこととはいえ、
諸葛亮は自らの失敗の責を負い降格するということがありましたし、厳格だが公平な政治を行い、蜀漢の人々から畏敬
されました。それができない諸葛恪は、父に劣る、と貶めた叔父にまさると言えるでしょうか。

このような有様を、孫峻は苦々しくみていました。諸葛恪が君臣からの支持を失っていることは明らか。このままでは、
自分も巻き添えを食らう。そうならないためには…。

371 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/03/04(日) 22:04:55 ID:???0
追記。

司馬懿、孫権が世を去り、曹操や劉備の時代を知る者は殆どいなくなりました、歴史上は、まだ三国時代の真っただ中
なのですが、一般的な、物語としての三国志の時代は既に去っていると言えます。

それと関係あるのかどうかは分かりませんが、先の卑衍といい、今回の張特といい、普通は目立たない存在の人々に、
見せ場があるように思います。
今回の張特は、三千の兵で二十万の大軍の攻撃を耐え凌いだわけですが、名将、という感じはありませんでした(まあ、
郭淮でさえ「非凡には遠い」という扱いですから、無理もないのですが)。しかし、絶望的な状況にあってなお冷静な
判断を行い、おのが職責を全うしたわけですから、ひとかどの人物ではあるのだろうな…と。
堅実な凡将・張特に敗れた、才子・諸葛恪。そう思うと、何とも劇的な話です。

おっと、今回、ケ艾が登場しました。一言でいうと、寡黙な努力家です(能力面はともかく、彼もまた諸葛恪とは対照
的な存在と言えます)。三国志の後半を彩る名将の一人ですが、その出発点は、下級官吏でした。農政の分野における
優れた見識が司馬懿に認められたことが、後の業績につながっていくわけです。ただ、下級官吏の頃に世話になった人
に謝意を示さなかった(立身する前に謝意を示すのは己を縮めるのでは、と恐れたため。後に、その家族にはきちんと
報いている)ことで、その人格を誤解されたかも知れません。
ケ艾は、司馬師に、諸葛恪の終わりがよろしくないであろうと予見しました。これを、単なる予言としてではなく、自
分への諫言(位人臣を極めた者は慎重に振る舞うべき)である、ととるところに、司馬師の器量が見て取れます。
ただ、司馬懿といい、司馬師といい、どこか、人としても温度が低い、という印象があります。道理においても、人情
においても正しい判断をしてはいるのですが…。いずれ詳しく語られるであろう司馬昭、司馬炎はどうなのでしょうか。

372 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:51:29 ID:???0
回のタイトルは「大政」。「大政」とくると「大政奉還」が思い浮かびますが、このような大事がそうそう平穏無事に
行われるわけもなく…。

諸葛恪の専横を苦々しく思っているのは、孫峻のみではありません。幼くして皇帝となった孫亮も、そうでした。先帝が
崩じてからまだ間もないというのに、大々的に戦を行い、しかも大敗。さらに、それへの反省もなく…となれば、不快に
思うのも当然でしょう。
聡明で心優しい孫亮としては、心静かに先帝の喪に服していたかったのです。諸葛恪がそのことに配慮していれば、先の
大敗はなく、その名望が失墜することもなかったのでしょうが…。
そんな孫亮に、孫峻が、ある内奏をします。「諸葛恪を慰労する宴を開いていただきたい」と。何か含むところがあると
いうことは、分かります。が、孫亮は、詮索はしませんでした。

孫峻が何をしようとしているのか。多少の見当はつきますが、その全容を知るのは、孫峻のみといってもよいでしょう。
ともに後事を託されたはずの滕胤らも、知る由はありませんでした。
その頃、諸葛恪の周囲では、変事が相次いで発生していました。「捜神記」等で博学ぶりを示すエピソードのある諸葛恪
です。用心はしていたのですが…

続きます。

373 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:54:45 ID:???0
続き。

その日が来ました。やはり、諸葛恪の周囲に変事が発生します。どうにも血腥いのです。諸葛恪に親しい人々からも、何
か不穏なものを感じるので警戒すべきとの忠告がなされました。最大限の用心をして宴に臨むことにした諸葛恪ですが、
なぜか、宴に行かないという選択はしませんでした。不穏なものを恐れるあまり宴に行かなかったと思われるのを恐れた
のでしょうか。

孫峻が、諸葛恪を出迎えました。立ち居振る舞いは、あくまで丁重そのもの。一見すると何ら怪しいところはないのです
が…それでも、何か違和感が拭えません。
こうして、宴が始まりました。
しばらくして、皇帝・孫亮が退席。さらに孫峻が席を外します。厠に入った孫峻は、ここで衣を着替えます。当時の習慣
としては普通のことですが…ここで彼は、長衣から短衣に着替えました。その、意味するところは何か。

席に戻った孫峻は、突然、諸葛恪に襲い掛かります。召し捕ると言ってはいますが、はなから斬るつもりでした。斬った
後、変わらぬ様子で酒を飲みますが、その後の指示は、なかなかどうして、抜かりありません。

続きます。

374 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:56:45 ID:???0
続き。

ここでの孫峻は、手際が良く、かつ容赦ありません。諸葛恪の死に動揺する一族を、あっさりと殲滅したのです。都を
遠く離れており、のんびりと過ごしていた諸葛融達も、例外ではありませんでした。
孫堅の弟・孫静の曾孫という微妙な存在であった孫峻は、こうして大権を掌握しました。
このクーデターにおいてはみごとな采配をみせた孫峻でしたが、その後は驕慢になります。聡明とはいえ、幼弱な孫亮
は、引き続いて、実力者に翻弄されることになります。

一方、魏では…。司馬師が大権を掌握しているわけですが、諸葛恪とは異なり、これといった失策はありません。です
が、皇帝が軽んじられているのでは、と思い、密かに反発している人々がいました。
若くして呉にも名を知られる名士となっていた李豊も、その一人でした。かつて司馬懿と曹爽とが対立していた時には
両者から距離を置いていた彼は、その後もまあまあ順調な官僚生活を送っていたわけですが、呉でのクーデターの話を
知り、魏でも同様の(専横の振る舞いのある実力者を排除し皇帝に大政を奉還する)ことはできないか、ということを
考え始めました。仕事ぶりは不まじめ(欠勤が多い。ただし業務はきちんとしているので無能ではない)ですが、勤皇
の志はあるのです。

このままでは魏は危うい。そういう危機感を持った、皇后の父・張緝や夏侯玄といった人々が、司馬氏を排除すべく、
水面下で動き始めました。

375 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/04/01(日) 02:59:11 ID:???0
追記。

今回、諸葛恪が破滅したわけですが…これだけの変異があり、本人も危機感を持って臨んだのに、最期は呆気ないもの
でした。度重なる失策に加え、諫言する人々を遠ざけた末のことですから、本人については自業自得ですが、一族ごと
殲滅されたのは、どうにも後味が悪いものがあります。
遊び好きで、人と仲良くやってきたはずの諸葛融も、助けてくれる者が現れなかった(本人は自害ですが脱出を図った
息子達はあっさり殺されている)のは、少し物悲しいものがあります。

それにしても、魏の皇帝・曹芳は影が薄いです。この頃にはとっくに成人しているはずですがいまだに幼弱扱いされて
いるのが、何とも。

376 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:15:13 ID:???0
三国志(2012年04月)


今回のタイトルは「掃除」。しかし、その内実は…。

李豊は、張緝のもとに子の李韜を遣わしました。「このままでは、皇帝に近い我らは、司馬師によって排斥される」。そう
いった危機感を持つ者同士での連携を模索していたのです。
李豊・李韜父子も、張緝も、才覚のある人物です。その危機感は、まんざら妄想ではありません。李韜の言葉に迷いがない
のをみてとった張緝はこれを了承します。
李豊は、さらに宦官達とも話をつけました。後漢の頃ほどではないとはいえ、宦官達の中には不正を働く者もおり、彼らは
司馬師による処断を恐れていましたから、この話に乗ります。

こうして、李豊は、外戚と宦官とを抱き込むことに成功しました。あとは、帝室に近く、名士でもある夏侯玄ですが…なぜ
か、やや消極的です。ここでは触れられていませんが、かつて司馬師とは義兄弟(司馬師の最初の妻が夏侯玄の妹)だった
ことが影響していたのでしょうか。それとも、単に危機感が薄かったのでしょうか。
優れた学識と文才の持ち主ではありますが、権力闘争を勝ち抜こうとする胆力が欠けているのでは…。ともあれ、そのこと
に、李豊は不安を抱きます。かといって、この計画が成った後、事態を収拾するには、夏侯玄の存在が不可欠だとも思って
いるのです。

さて、この計画ですが…先の王淩もそうですが、一つ問題があります。協力を求める相手が多いのです。「事は密をもって
成り、泄をもって敗る」と言いますが、手広く声をかけると、当然ながら異心を抱く者もいるわけで…。

続きます。

377 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:18:00 ID:???0
続き。

案の定、このことが司馬師に知られました。何ゆえ、李豊が…と思うものの、複数のルートから情報があがってきたとなれ
ば、無視することもできません。
司馬師は、やや強引に李豊を呼び出し、自邸に連れてこさせました。

無理やり連れてこられて不機嫌な李豊でしたが、そんな彼を、司馬師は高圧的に迎えました。そして、中書令である李豊に
皇帝の行状を語ります。
先帝が崩じてから十数年。とっくに成人した曹芳ですが、淫楽に耽り、まともに政務をとれないというのです。
そんな皇帝にかわって政務をみている。その自負のためか、司馬師の言葉には、皇帝への敬意はみじんも感じられません。
「なんじは、かような皇帝に親政をさせるため、われを除こうとした」
そこにあるのは、個人的な憎悪などとは次元の違う怒り。まっとうな為政者を除いて国政を乱そうとする者への怒りです。

李豊の計画は、完全に失敗しました。協力者の名も、全て把握されています。もはや言い逃れることも不可能。目の前が
真っ暗になった李豊ですが、司馬師に「叛逆」と言われると、落ち着きを取り戻し、司馬師を非難しました。
「わたしは叛逆などしておりませんよ。皇帝を助けんがためにしたことを叛逆といわれる覚えはない。皇帝をないがしろに
しているあなたはどうなのか」
こちらにも、正義があります。至尊の存在であるはずの皇帝をないがしろにする者を除くのは臣下の務めなのです。

異なる正義のぶつかり合いといったところですが、ここは司馬師邸。司馬師の側に控える力士が、たちまちにして李豊を
突き殺しました。

続きます。

378 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:21:36 ID:???0
続き。

李豊の屍体は、廷尉の鍾毓のところに運ばれました。あの鍾繇の子にして、父の名に恥じぬ篤実な人物である鍾毓は、李
豊の死にただならぬものを感じます。
司馬師が殺させたことは明らか。常人であればその威勢を恐れて意のままになるところですが、大将軍としての公式な文
書がない以上、これは私刑によるものであるゆえ、受け取れない、ときっぱり拒否したのです。
これを聞いた司馬師は、怒るどころか、むしろ喜びました。鍾毓が、きちんと法度に基づいて職務にあたっていることが
分かったからです。
なお、文書が整い、李豊の死が公的なものとなると、その死体は受け取られました。

これをうけて、すみやかに、法度にのっとった処断が下されました。
李豊、張緝の一族は滅ぼされました(李豊の甥は幼年のため処刑は免れたようです。なお、公主をめとっていた李韜は、
形式上は自害)。宦官達も処刑され、鍾毓による、夏侯玄への尋問が行われます。
名士・夏侯玄をも処断せねばならぬことを分かっている鍾毓は、哀しみました。彼ならば、あるいは司馬師以上の政治を
行う可能性もあるのです。ですが、法度は枉げられません。

李豊の死に、曹芳は怒りを露わにしました。李豊の計画は知らなかったようですが、側近がいきなり殺されたのですから
穏やかならぬことは分かるのですが、この反応に対する周囲の目は冷ややかなものでした。
曹芳の徳のなさをみた司馬師は、ついに皇帝廃立を考えるようになります。しかし現状ではまだ時期尚早。いかに大将軍
とはいえ、容易なことではないのです。

続きます。

379 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/05/03(木) 02:23:24 ID:???0
続き。

「まずは、掃除、掃除」
司馬師はそう言って、李豊に続きそうな者達の排除に取り掛かります。それを「掃除」という言い方で表すあたり、司馬師と
いう人物の恐ろしさが垣間見えるようです。

この中で排除されたうちの一人が、許允でした。名門意識が旺盛な彼は、司馬懿が亡くなった際、それを喜ぶかのような発言を
したこともあり、状況によっては反司馬氏に成り得る存在として、徹底的にマークされます。
そんな彼に大役が与えられましたが、何と、任地に赴くまさにその時に、横領の罪で逮捕されたのです。流刑で済みましたが、
面目は丸つぶれ。気落ちした彼は、間もなく亡くなりました。
許允は罪人として亡くなりましたが、妻の阮氏は、その聡明さをもって子を守り抜きました。

しかし、これほどまでに入念に掃除してもなお、反司馬氏の企ては続きます。そして、ついに弟・司馬昭の暗殺未遂事件が発生。
司馬師は、最後の大掃除を決意することに…。


追記。

以前から、司馬氏の権力掌握の過程には、何かすっきりしないものを感じています。やっていること自体は、おおむね妥当では
あるのですが…。

380 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:12:34 ID:???0
三国志(2012年05月)


今回のタイトルは「廃位」。司馬師のいう、最後の大掃除が行われます。しかし、司馬師の悩みの種がなくなったかといえば…。

司馬昭の暗殺計画はかなり緻密なものであったようで、ついに立案者の名は出てきませんでした。この計画は、西方への遠征を
行うにあたって参内する司馬昭を宮中で捕え、勅命によって誅する、というものですから、皇帝・曹芳が直接的に関与するもの
です。
そして、その時がきたわけですが…なぜか曹芳は動きませんでした。俳優の雲午が「青頭鶏」(鴨=オウ=押さえるに通じる)
というサインを出したにもかかわらず、です。何ゆえに、かは分かりません。しかし、曹芳の振る舞いに何か異常を感じた司馬
昭は、退出すると直ちに司馬師に報告。
商(殷)の伊尹(王の太甲が暴虐であったので幽閉し改心させた)に憧れる司馬師ですが、現実には、漢の霍光(擁立した昌邑
王が皇帝にふさわしくないとみるやこれを廃した)の道を取らざるを得ないことを嘆きつつも、それを実行せざるを得ないこと
を悟ります。
ただ、霍光は皇帝の廃位(及び宣帝の擁立)には成功しましたが、その死後、一族は滅びました。皇帝を廃するという荒々しい
手段は、かなり危険なことでもあるのです。

しばし思案した司馬師は、「箒を持つ手を変えれば大掃除しても埃をかぶらなくて済む」と、謎めいたことを言います。皇帝を
廃するという大事を掃除に例えるのはいかがなものかとは思いますが、一体、どうしようというのでしょうか。

続きます。

381 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:14:41 ID:???0
続き。

それから程なく、多くの高官達が集められました。ここで司馬師が、皇太后・郭氏からの、ある文書を読み上げます。それは、
皇帝・曹芳が皇帝にふさわしくないため、もとの斉王に落とすべきである、と命ずるものでした。

…司馬師は、自分ではなく、皇太后が皇帝の廃位を言い出したという体裁をとったのです。その影に司馬師がいることはみな
察していましたが、それを非難する声はあがりませんでした(曹芳を擁護する声もありませんでした)。
実力者たる司馬師に媚びるという含みもありましたが、手続上は十分な正当性を有すること、司馬師の政治がおおむね妥当で
ある(彼に従っても損をする者はない)ことが、この挙を肯定させたのです。
かくして、司馬師をはじめとする高官達によって起草された―皇太后の命をうけ曹芳を弾劾する―文書が、皇太后の一族の郭
芝によって届けられます。

この時、皇太后は曹芳と同席していました。ことここに至ってはやむを得ないとは思いつつも、血のつながりはないとはいえ
子として接してきた曹芳と別れることに、感傷的になっていたのでしょうか。
場の雰囲気を壊す形になりましたが、郭芝は文書を差し出し、皇帝の印綬を取り上げさせます。

廃位ともなれば相当な抵抗が予想されるところでしたが、拍子抜けするくらい、淡々とことは進みました。あるいは、曹芳は、
皇帝の位に嫌気がさしていたのでしょうか。さすがに皇太后と別れる際には号泣していましたが、それ以外は何の問題も生じ
ませんでした。

続きます。

382 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:16:18 ID:???0
続き。

さて、皇帝を廃したとなれば、当然に、新たな皇帝の擁立が必要になります。では、たれにするか?

司馬師は、彭城王の曹據(曹操と環氏の子。曹沖、曹宇の兄弟)がよいと考えました。曹操の子ですから、既にかなりの高齢
でしたが、王として大過なく過ごしてきた思慮のある人物です。しかし、これは皇太后に反対されます。彼女は、曹操の孫・
曹叡の妃なのです。ここで曹操の子が即位すると、皇統に歪みが生じる恐れがありました。
 ※曹操の孫から子に戻る形になるので、そのまま曹據の系統で帝位が継承されると曹叡の祭祀が絶える。曹叡も正当な皇帝
  なので、祭祀が絶えることは望ましくない。
  また、皇太后より皇帝の方が世代が上になると、皇太后の尊厳が失われる。
司馬師の思い通りにはさせぬ…という意地もあったかも知れませんが、一理あります。ここは司馬師が折れる形となりました。

そして、皇太后が挙げたのは、高貴郷公の曹髦でした。曹叡の弟の子にあたる彼ならば皇統も保てますし、何より、皇太后と
面識があり、好印象を持っていたのです。
ただし、このとき曹髦は十四歳。幼弱とはいわぬまでも若年です。またしても若年の皇帝をいただくことに、司馬師は多少の
危惧を覚えます。
ともあれ、曹髦を迎えることが決まりました。曹髦とは、どのような人物なのでしょうか。

曹髦は学問を好み、夏の小康(中興の祖とされる)を尊敬するという、独特の感性を持った少年でした。それゆえに、自分が
帝位に就くことにも驚くことはありませんでした。父の王位を継いだわけでもないのに、帝位に就くことがあり得ると思って
いたというのですから、どこか神秘的なものが感じられます。


続きます。

383 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/06/04(月) 00:18:22 ID:???0
続き。

かくして、曹髦は洛陽に着いたわけですが、即位するまでは人臣であるという姿勢を崩しませんでした。先例を持ち出されても
己が信念を通したのです。
その姿勢に、皇太后は、あらためて好感を抱きます。そして、多くの群臣達もその挙止の清々しさを歓迎しました。曹髦の治世
は、魏の中興を予感させる、上々の滑り出しとなりました。

しかし司馬師は、曹髦の聡明さに、いささか危惧の念を抱いていました。若年にして聡明と言われる者は、得てしてさわがしい
ものですが、それが自分に向かうようなことになれば…。
鍾会が、曹髦を陳思王(曹植)・太祖(曹操)にたとえたことも気がかりです。

危惧のもとは、他にもありました。王粛が気になる予言をしていたのです。「東南に兵乱の気あり」。恐らく文欽が叛くという
ことは推測されるのですが…。

追記。
司馬師の苦悩が伺えます。帝位をも左右できるほどの実力者とはいえ、その正当性を保つためには、かくも細心の注意を払わねば
ならないのです。
もっとも、皇帝の側からみれば、何を勝手なことを…というところではあるのですが。

ところで、廃位された曹芳は、たれの子だったのか。司馬師は、うわさだと前置きした上で、曹楷(曹彰の子)の子らしいとして
います。曹叡が曹楷と親しかったからその子を養子に迎えた…というわけですが、なぜそれを明らかにしなかったのか。謎が残り
ます。
曹彰・曹楷父子の評判が悪かったから…ということですが、曹楷の子であれば、確かに帝室の一員ですし、曹叡の子の世代になる
ので、何も問題はなさそうなのですが…。

384 名前:おばら@投稿 ★:2012/06/25(月) 17:07:57 ID:???0
おお!超久しぶりに来てみれば、左平さんがいらした!!
秦漢三国晋談義で盛り上がったのが懐かしいですねぇ・・・
もう10年経ったかw

385 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 03:56:22 ID:???0
おばらさん、お久しぶりです。
>もう10年経ったかw
そういえばもうそんなになるのですね。早いものです。では、今回のレポ?を。

386 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 03:58:45 ID:???0
三国志(2012年06月)


今回のタイトルは「寿春」。王粛の予言通り、東南に兵乱が発生します。王淩の件からはまだ数年。この頃の司馬氏にとっては、
東南は不祥の地ですね。

かつて公孫淵と戦い、高句麗討伐を成功させて勇名を馳せた毌丘倹は、この頃、鎮東将軍にして都督揚州諸軍事という重責を担う、
魏を代表する将帥となっていました。
ともに戦場に立ったこともある司馬懿には多少の親近感がありましたが、司馬師とはいささか距離があります。そんな彼にとって、
司馬師がなした皇帝廃立の挙は、許せない出来事でした。
辺境で戦う将の器量と労苦をよく知る帝王であった曹叡を尊崇する彼にとっては、その遺詔を踏みにじる行為と映ったのです。

そんな彼の配下の一人が、文欽でした。父の代からの根っからの武人である彼は、一言でいえば問題児でした。なのですが、腫れ
物に触るような扱いを受け、この当時は揚州刺史。結構、出世しています。
扱いにくい文欽ですが、彼以上の武人である毌丘倹には、よく従っていました(同じ武人であることもあり、毌丘倹は、その扱い
方を心得ていたのです。一方、諸葛誕とは犬猿の仲)。
文欽は曹爽とは同郷で、その縁で出世したとも言えるのですが、曹爽が滅んだ後も、割と待遇は良かったようです。しかし、司馬
氏が力を持っている現状には、不安と不満を持っていました。

多少の相違はあるとはいえ、二人は皇帝廃立の挙に憤ります。また、毌丘倹のもとには、洛陽で仕官している子の甸から、父上は
決起すべき、との含みを持った文を受け取っていました。
王淩の轍は踏まぬよう、二人は計画を練ります。そして、年が明けると、すみやかに行動に移りました。

続きます。

387 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 04:01:47 ID:???0
続き。
二人の決起には、皇帝をないがしろにする司馬師を除く、という大義名分がありました。また、そのために、偽造とはいえ皇太后の
詔を持ち出しました。それでも、決起する際に、人々を軟禁状態に置いたうえで誓いを立てさせる等の強行手段を取らざるを得ない
あたり、この決起の危うさを物語っています。
とはいえ、数万の兵を擁した、大規模な内乱の発生です。この頃、司馬師は、目の上の瘤を切除したばかりで療養中だったのですが、
早速、対応に悩むこととなります。

叛乱の規模からすると、大将軍たる自分が行くべき案件ですが、病み上がりの身には堪えます。地位等でいえば、叔父の司馬孚でも
良いのですが、堅実とはいえ応変の才には欠ける司馬孚を遣わすことには、いささかの不安があります。
これについて、司馬師は二人の意見を聞くこととなります。

まず一人目は、王粛です。魏建国の元勲・王朗の子にして優れた学者でもある彼には、あえて直截的な聞き方はしませんでしたが、
その回答は、戦の本質を突いたものでした。
王粛は、かつての関羽の例を挙げ、こちらが敵方の家族を抑えている以上、彼らはやがて自壊する、と看破しました。それならば、
司馬孚がそつなくこなすであろう、と、療養に専念しようとします。
しかし、その後、二人目の傅嘏が来ます。彼は、司馬師自らが行かなければ敵に勢いを与えてしまうことになる、と強諫します。

大局的にみれば王粛の言う通りですが、確かに、「騎虎の勢い」ということもありますから、用心するに越したことはありません。
司馬師は、戦場に赴くことにしました。
となると、都・洛陽が空きます。曹髦がこのことをどうみるか。傅嘏の懸念は、そこにもありました。

続きます。

388 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 04:03:40 ID:???0
続き。
傅嘏は、曹髦を「こざかしい」とみていました。司馬師に近い彼からすると、親政に意欲をみせる(必然的に、遠からず司馬師と
対立することになる)曹髦は、好ましい存在ではないのです。うかつなことをすると、司馬師不在の間にクーデターを仕掛けるの
ではないか。そうなると…。
それゆえ、留守の役割は重大です。司馬師は、これに弟の司馬昭をあてることにしました。この頃、司馬昭は、蜀漢に備えるべく
西方に駐屯していたのですが、陳泰に任せてよいと見極めがついたので、呼び戻すことが可能になったのです。
司馬昭が洛陽に戻り、司馬師は戦地に向かいます。このとき、司馬昭はかすかな不安を感じますが…。

司馬師みずから行くことを強硬に主張した傅嘏ですが、その後は慎重な姿勢を示します。それは、王基がいうように、司馬師自ら
が行く(敵に勢いを与えない)ことで、勝敗自体はすでに明らかになったからです。
短期決戦を望むのは、兵力面で劣勢の毌丘倹の方。司馬師は、諸方面に命を発し、じわじわと毌丘倹に対する包囲網を敷きます。
傅嘏と鍾会のコンビが、いかにも参謀、といった感じで、作戦計画を練っていきます。

ただし、戦場の情勢は刻一刻と変化するもの。戦局全体をみれば傅嘏の慎重姿勢は正しいのですが、それが全てではありません。
王基は、食糧庫のある南頓まで兵を進めるよう求めます。王基が突出すれば包囲網に乱れが生じる恐れがあるので、傅嘏達はそれ
を却下するのですが、王基は、ついにそれを振り切って南頓まで兵を進めます。
そして、これによって情勢が動きます。毌丘倹も南頓の重要性に気付き、その確保を試みたのですが、王基に機先を制されたため、
そうもいかなくなりました。既に脱走する将兵も出始めており、早急に戦果を挙げる必要が生じたのです。

続きます。

389 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 04:11:39 ID:???0
続き。
既に劣勢なのは明らかな毌丘倹。そんな彼に、悲報が舞い込みます。子の甸が、亡くなったのです。
父の決起に呼応し、洛陽から父のもとに向かおうとしたのですが、途中で捕捉され、戦った末に討死したのです。魏の行く末を
案じ、魏に殉じた彼の最期を知った毌丘倹は、その死を哀しむとともに、誇りに思いました。
不幸中の幸いというべきか、毌丘倹の子は甸一人ではありません。他の子は呉に逃しました。自分が死んでも、毌丘氏の血胤は
残ります。毌丘倹は、決意を新たに、戦いに臨みます。

一方、文欽は、包囲網の一角を担う兗州刺史・ケ艾の迎撃を命ぜられます。意気込む文欽と、それに何か意見のあるような、中
子の文鴦。さて、何をしようというのか。

また、呉も動いていました。孫峻も、魏の内乱という好機を逃すほど愚かではありません。寿春(を拠点とする毌丘倹)を救援
すると言いつつ、あわよくば…というのは、呉としては当然の判断でしょう。
ただし、この少し前に、陳泰らによって姜維は撤退しているわけですから、今回も、蜀漢との連携はとれていないのですが。

 何というか…立場によって物の見方は変わるものですが、今回は、特に強く意識させられました。前回、群臣達にはおおむね
 好意的に迎えられた、神秘性さえ感じさせる曹髦が、こざかしい、なんて言われているわけですからね。
 ただ、そう言っている傅嘏も、賢者とはいえ万能ではありません。王基の、突出とも思われる行動も、十分に理に叶ったもの
 だったわけですが、それを理解していないように見えました。
 また、毌丘倹父子の、魏(主に曹叡)への忠誠ぶりには、清々しさを感じます。一方で、人々の支持を得ているのは、司馬師
 の方。このあたり、正義とは、政治とは、等と考えさせられます。

390 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/07/01(日) 04:13:38 ID:???0
追記。
今回の「オール讀物」に、宮城谷氏のインタビュー記事が載っていました。それによると、来年九月に出る十二巻をもって、
「三国志」は完結するとのことです。
ファンの人からは「呉の滅亡まで書いてほしい」との要望があったようですが、いつかの記事のように蜀漢の滅亡あたりで
終わりそうです。
(個人的には、さらにその後の、王衍の最期≒西晋の滅亡まで見たかったのですが…)

劉備は、全てを捨てることで蜀を得た、この時代の最大の非常識人である、という見方をされていました。本作では、曹操
を主人公とした(彼を描くために、養祖父・曹騰から書き始めた)わけですが、不思議なもので、劉備の方が独特の存在感
を持ったことになります。

本作の完結が見えてきたことにはいささかの寂しさを感じますが、この時期だからこそ、というべきか、新たに、「三国志
外伝」の連載が始まりました。
第一回の主人公は、許靖です。(上)となっているので、二回か、三回か。

391 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/08/06(月) 02:06:01 ID:???0
三国志(2012年07月)


今回のタイトルは「傅嘏」。毌丘倹の決起の結末はいかに。

前回の時点では、文欽達から最も近いところにいた敵は、南頓にいる王基でした。しかし、戦うよう命ぜられた相手はケ艾。
毌丘倹からすれば、王基ほどには実績がなく容易な敵だと思ったからですが、文鴦は少し違った視点を持っていました。

文俶(鴦は幼名)。未だ幼名が抜けきらない若年ながら、ケ艾が、まだ前線に着いて間もない(→戦う支度が不十分である)
ことを看破し、直ちに攻撃すべきであると説きます。
文欽もこれに同意し、二人は直ちに支度を始めます。父であり、将としての格が高い文欽の方が多くの兵を率いるとはいえ、
文俶の支度は父よりも速やかで、かつ抜かりのないものでした。
二手に分かれて兵を進めたのですが、文俶は、(父の軍勢とケ艾を挟撃するべく)大きく北に回り込もうとします。そして、
これが(両軍にとって)思いもかけない事態を招くことになります。

この時、ケ艾が率いていたであろう軍勢は、一万程度といったところ。文俶が率いていたのは二、三千程度でした(文欽が
率いていた軍勢はこれより多いので、夜襲であれば十分挟撃が可能)。
しかし、文俶のもとにとんでもない報告がもたらされます。数万の大軍が近くにいるというのです。この確認に手間取った
ため、夜襲というのはいささか微妙な時間となりましたが、夜が明けては元も子もありません。文俶は、攻撃を開始します。

この大軍の正体は大将軍・司馬師の本隊でした。王基が突出した形になっていたため、包囲網の形を整えるべく、前進して
いたのです。
そんなところに、文俶は攻撃を仕掛けたのです。通常であれば、無謀そのものの行為ですが…

続きます。

392 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/08/06(月) 02:07:17 ID:???0
続き。
文俶の戦いぶりは凄まじいものでした。圧倒的な大軍が相手とはいえ、夜が明けきらぬうちの急襲だったことが功を奏し、
司馬師の陣営は大混乱に陥ります。
それだけではありません。この混乱のため、司馬師の体調が一気に悪化したのです。

とはいえ、文俶の手勢は僅かです。夜が明けてケ艾達も合流すれば包囲殲滅される恐れがあります。文俶は、未練を残し
つつも、撤退します。
撤退の途中、文欽の軍勢と合流しますが、(司馬師の叱咤で)混乱から立ち直った大軍が迫ります。報告を聞いた文欽は、
迷うことなく撤退しました。
文俶は、自らが殿を引き受け父を逃がします。この戦いぶりがまた凄まじく、その武威に恐れをなしたか、以降、追撃は
ありませんでした。

 物語では、文俶は趙雲に比せられていましたが、そう言われるのも無理からぬ戦いぶりです。人並外れた武勇に加えて
 冷静な判断力。この二つを兼備した勇者は、なかなか得難い人材です。
 また、文欽の逃げ足の速さもなかなかのものです。猛将とはいえ退くべき時が分かっているあたり、ただの猪武者では
 ありません。

文欽達は無事に撤退しました(そのまま呉に亡命)。しかし、その一部始終を聞いた毌丘倹は愕然とします。ただでさえ
兵力が漸減しているというのに、大将軍自らが率いる大軍が迫っているとなると、こちらの劣勢は明らかなのです。
毌丘倹は、体勢を立て直すべく、いったん本拠地の寿春まで退くこととしました。

続きます。

393 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/08/06(月) 02:13:48 ID:???0
続き。
一刻も早く寿春に…と思ったのでしょうが、毌丘倹は、なぜか側近のみを従えて項城を後にしました。いかに漸減していた
とはいえ、まだ相応の軍勢がいたはずなのに、です。
側近のみ、とはいっても、城を出た時点では多数いたのですが、櫛の歯が抜けるように欠けていき、ついには、弟と孫のみ
になりました。いくら勇将とはいえ、これでは、追っ手に捕捉されたらひとたまりもありません。

項城の異変に気付いたのかどうかは分かりませんが、寿春への途上には、既に(近隣住民も駆り出した)捜索網が敷かれて
いました。
捜索を避けるべく、毌丘倹は草むらに身を潜めます。そこに、捜索に当たっていた張属が矢を放ちます。矢は毌丘倹の首を
貫きました。…数万の大軍を率い、少なからぬ功業を挙げた勇将としては、あまりに呆気ない最期でした。首をみた司馬師
が慨嘆したのも無理からぬところです。

かくして、毌丘倹の決起は失敗に終わりました。しかし、ここで新たな問題が発生しました。司馬師の容態が悪化し、ついに
亡くなったのです。享年四十八。
死期を察した傅嘏・鍾会が、司馬昭を呼び、軍の引き継ぎを行ったため、ひとまず混乱は回避できました。とはいえ、これは
あくまでも私的な引き継ぎ。皇帝・曹髦の承認を得たものではありません。
当然、洛陽からは、「司馬昭は引き続き本務にあたれ(毌丘倹討伐のために動員された軍は傅嘏が率いて洛陽に帰参せよ)」
という命令が届きます。兄の後を継いだばかりの司馬昭、いきなりの重大局面です。

続きます。

394 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/08/06(月) 02:18:02 ID:???0
続き。
このとき、傅嘏は、自分が司馬師に出師を強いたばかりに…と自責の念に駆られていました。また、前回も書かれていたよう
に、曹髦の器量に不信感を抱いていました。
それゆえ、彼自身は司馬氏の家臣ではありませんでしたが、司馬昭のために何をすべきか…と思っていました。そんな彼の判
断は、皇帝の命令を無視し、司馬昭が軍を率いたまま洛陽に向かう(洛陽近郊で停止し威圧する)、というものでした。

いかに少年とはいえ、相手は皇帝。正面から命令を無視するのですから、大変な判断です。が、司馬昭も、ここが勝負どころ
と分かっていましたから、この判断を善しとし、実行に移します。
既に皇帝を凌駕する実力の持ち主が、大軍を率いたまま、洛陽近郊で停止し沈黙したのですから、大変な威圧です。ついに、
この件は皇帝側が折れる(司馬昭を大将軍に任命し、公私ともに司馬師の後を継がせた)という形で決着しました。

この重い判断が心身に堪えたのか、ほどなく傅嘏は世を去ります。彼の最後の心配は、ともに司馬師を補佐した鍾会に驕りの
色が見えてきたことでした。もちろん、鍾会を戒めてはいますが、彼がそれをどう聞いたかは…。


追記。
毌丘倹も、傅嘏も、国を想う人物であったことは間違いないでしょう。しかし、毌丘倹にとっては国=曹氏(特に曹叡)なの
に対し、傅嘏にとっては国≠曹氏であった点が異なります。
外伝でもあったように、いわゆる名士にとっては、曹操の出自(宦官の養孫)はどこまでいっても汚点扱いなのでしょうか。

395 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/09/04(火) 03:19:50 ID:???0
三国志(2012年08月)


今回のタイトルは「蛇足」。前回、呉・蜀漢に動きあり、というように書かれていました。このタイトルとの関連は…?

まずは、呉から。孫権には七人の男子がいたわけですが、特にできのよかった上の二人(誠実な努力の人であった孫登、
才徳共に秀でた孫慮)が若くして薨去したのが呉にとって大きな不幸となったことは、既に書かれているとおりです。
二十歳で薨去した孫慮には子はいませんでしたが、三十三歳で薨去した孫登には三人の男子がおり、孫英がぶじに成人
していました。
本来であれば孫権の嫡孫であるわけですが、この時点で帝位にあるのは、孫権の末子・孫亮でした。孫英自身には野心は
なかったようですし、太子となるまでの経緯はともかく、孫亮は正当に即位したわけですから、本来なら何の問題もない
はずなのですが…孫亮が(結果的に)信任している孫峻が、問題でした。

信望を失った諸葛恪を倒した孫峻には、少なからぬ期待が寄せられていました。才智では及ばぬまでも、誠実かつ慎重に
振る舞えば、無難に国政を運営することができたでしょう。しかし、孫峻がしたことは、その逆でした。人々の期待は、
瞬く間に失望に変わりました。

孫峻を打倒せねば。そう思う人々は、自分達の行為を正当なものとするため、旗印となる人物の擁立を考えます。孫権の
嫡孫たる孫英は、うってつけの存在でした。
しかし計画は露見。孫英は、関与を疑われ自害しました。享年は不明ですが、恐らく二十歳程度とのこと。

続きます。

396 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/09/04(火) 03:21:38 ID:???0
続き。

孫峻打倒計画は、これだけではありませんでした。蜀漢の使者が来訪する折を狙って…というものでしたが、これも失敗。
才智においては諸葛恪に劣る孫峻ですが、身の危険を察知することには長けていたようです。
これらの計画は、特に関連はなかったようですが、孫峻は、皇帝・孫亮を疑うようになっていきます(賢さを顕示しない
という賢さがある、とみて警戒したのです)。
そんな中、敵地に城を築くと宣言。わずかに滕胤が諫言したものの、孫峻は聞く耳を持ちません。今回の時点においては
大きな動きはないようですが、孫峻に、いわゆる死亡フラグが…?

一方、蜀漢の方は、というと…。費禕の死後、毎年のように兵を動かしていた姜維が、またしても動こうとしていました。
毌丘倹の決起をみて、魏の西方の備えが手薄になっているのではないか、と判断したのです。さすがに国力の疲弊を危惧
した張翼が諫めたのですが、姜維はこれを無視。強引に出兵を決めます。
 ただし、この出師には張翼も同行しています。劉備の時代から仕えてきた老将の存在は、なかなか大きいのです。
 また、夏侯覇の名もあります。
これを迎え撃つのは、雍州刺史であった王経。教養も気骨もある好人物ですが、軍事的手腕については、ちょっと…という
ところ。西方の軍事を統括する陳泰に急報を送ったのはいいとして、情報が整理されていませんでした。
陳泰は、情報が錯綜していることを見抜き、速やかに指示を下します。その指示は的確なものだったのですが、通信手段が
限られている時代です。王経は、その指示に従わず(指示が届く前に)動いていました。

続きます。

397 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/09/04(火) 03:23:35 ID:???0
続き。

魏にとっては最悪の展開です。王経は、迎え撃つ側であるにもかかわらず、不利な地に布陣してしまったのです。速戦を
好む姜維にとっては、願ってもない状況。あっさりと打ち破りました。魏軍は川に追い落とされ、甚大な損害を蒙ります。
辛うじて狄道に逃げ込んだ王経。なお一万の兵を擁するとはいえ、城は包囲され、兵糧は僅か。絶体絶命と思われました。
姜維がさらに攻勢に出ようとするのも無理からぬところ。張翼が「蛇足である」と諌めますが、聞くはずもありません。

しかし、陳泰は慌てません。援軍は、いずれもケ艾等の良将の率いる精鋭。都の司馬昭からも十分な後援が期待できます。
陳泰が行軍の速度を落とすまでもなく、援軍が追い付いてきました。ここで、軍議です。
軍議において、ケ艾は、要地に拠って敵の鋭鋒を避けては…と進言しますが、陳泰はこれを退けました。姜維の動きは、
魏にとっては最悪のものではない(狄道の攻略に固執したことで、西方諸郡を抑えられる危険がなくなった)。それゆえ、
速やかに狄道に向かい、王経を救うべきである、というのです。
ここは、陳泰の言うことに理がありました。ケ艾は良将ですが、ここは慎重に過ぎたようです。
ともあれ、魏軍は狄道に向けて進軍します。狄道に向かうルートは二つありますが、陳泰はあえて迂路とみえるルートを
進みました。それでも十分な速さで進み、蜀漢軍に気付かれることなく、狄道の近くまで進出することに成功しました。

そのまま奇襲することも可能でしたが、援軍の到着を知らせるべく、狼煙をあげました。陳泰にしてみれば、この戦いの
目的はあくまで王経の救援であって、蜀漢軍の撃滅ではないからです(城内が援軍の到着に気付かないと、動揺した将兵
によって王経が殺害される恐れがあった)。

続きます。

398 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/09/04(火) 03:26:23 ID:???0
続き。

奇襲ではなくなりましたが、蜀漢軍からすれば、いつの間に、という状況には違いありません。城を包囲する兵を残しつつ、
新たな敵軍を迎え撃つというのは、相当な余裕がなければ不可能です。陳泰は、負けるはずがない、と余裕綽々で臨みます。
蜀漢軍は精強ですが、状況が状況ですし、魏軍も十分に精強です。しばらく一進一退の状態が続きましたが、やがて、蜀漢
軍の方が引いていきました。

こうして、魏軍は、狄道の救援に成功したのですが…ここでも、王経は陳泰の指示に従っていませんでした。必要ない、と
言われていたにもかかわらず、涼州に援軍を要請していたのです。戦後、王経が罷免されたのも、無理からぬところです。
一方、陳泰は昇進し、中央に戻ることになりました。
陳泰のあと、西方を任されたのは、ケ艾でした。先の戦いでは慎重に過ぎたケ艾ですが、西方の疲弊と、姜維の過剰なまでの
戦意に気付いていました(陳泰をはじめ、魏の誰もが、補給が続かないから姜維はしばらく動かないと思っていたが、ひとり
ケ艾は、遠からず、姜維が攻めてくると予期していた)。

そしてその予想は当たりました。陳泰に敗れたとはいえ、その前の大勝の功績をもって大将軍に昇進していた姜維は、また
しても兵を出してきたのです。
初めはケ艾を軽く見ていた姜維ですが、なかなかの難敵と分かると、胡済の軍と合流し、膠着状態の打開を図ります。さて、
これがどう出るか。


追記。

陳泰の活躍が目立ちましたが、一方で、魏と蜀漢の国力の差というものを見せつけた戦い、という感じがします。
先の曹真のときもそうでしたが、蜀漢は「勝たねばならない」のに対し、魏は「負けなければよい」わけですから。

また、呉の迷走ぶりもひどくなっています。政治的正統性(魏→漢から禅譲を受けた 蜀漢→漢の血胤)を持たない
だけに、これを何とかしないといけないわけですが…。

399 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:31:34 ID:???0
三国志(2012年09月)


今回のタイトルは「緩急」。ちょっとした差が運命を分かつ…といったところでしょうか。

胡済の軍を待った姜維でしたが、なかなか来ません。この時、姜維が率いていたのは「軽兵」。普通は軽装の兵、という
ことなのですが、先に狄道を包囲した際に攻城兵器がなかったと思われるため、「大型兵器を持たない兵」という含みも
あったのではないか、とのこと(となれば、それを補うことを期待された胡済の軍には大型兵器があった→当然ながら行
軍は遅くなる)。
結局、胡済の軍との合流がならないままにケ艾と正面から戦うはめになり、大敗を喫しました。段谷の戦いです。
相手方に地の利があり、かつ、名将のケ艾が相手となれば、仮に合流が成ったとしても難しかったかも知れませんが…。

この敗戦は、単なる負け戦に留まりませんでした。せっかく服属させた西方諸族が、蜀漢から離反してしまったのです。
精兵も多く失ったため、蜀漢の軍事力は、大幅に低下することに。さすがに堪えたのか、姜維は、かつての諸葛亮に倣い
自ら降格を申し出ました(といっても実務上の権限はほぼそのままですが)。
もっとも、そういうことがあっても、姜維の戦好きは収まりません。これには、張翼も苦言を呈しますが、相変わらず、
聞く耳を持ちません(それでもなお、不思議と張翼を遠ざけなかったのですが)。

蜀漢は、こんな具合。直ちに滅亡には至らないにしてもジリ貧といった感じがあります。相変わらず劉禅の影が薄いです。
では、幼帝・孫亮を戴く呉は、どうなのでしょうか。

この頃、孫峻は、魏から亡命した文欽の言うことに耳を傾けていました。魏に付け入る隙あらば、というわけですが…。

続きます。

400 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:33:14 ID:???0
続き。

魏は、既に司馬昭が実権を掌握しており(特に軍事面においては、独断で兵を動かすことさえ可能)、高官達も、その
ことを概ねよしとしていました。孟子の教えによれば、曹氏<司馬氏なのであれば司馬氏の世になってもよい、という
わけですから、高官達が司馬昭に媚びへつらっているわけではないのです。
事実、当時の高官の多くは、人格識見とも世に優れた人達が任じられていました。しかし、それが全てではありません。
司馬氏の方が良い政治を行うとしても、いまだ帝王ではないのです。臣下が帝王を脅かすのはどうか。そう思う人達も
います。文欽も、その一人でした。

傲慢な文欽は、呉では嫌われていました。しかし孫峻は、彼の意気をみて、魏に隙ありと判断しました。蜀漢が段谷で
大敗したことを知ってか知らずか、魏への出師を決めたのです。
当然、呉内部では猛烈な反対にあいます。その一人が(孫権に後事を託されたうちの一人である)滕胤なのですが、孫
峻は、彼も連れて軍勢を見送ろうとしました。
その時、各将の陣を見て回ったのですが、その一人、呂拠の陣をみた際に、ただならぬものを感じます。…といっても、
異変があったわけではありません。将の威令がよく行きわたった、粛然とした陣があっただけです。
しかし、呂拠は、孫峻とともに孫権から後事を託された者の一人。もし、呂拠と滕胤が手を組んで自分に敵対したら…。
不意に胸騒ぎを覚えた孫峻は、送別の宴に出ることもなく、引き返しました。

続きます。

401 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:35:33 ID:???0
続き。

時宜に適ったとはいえない出師です。滕胤の助言もあり、呂拠は行軍を急ぎません。そんな中、急を告げる使者が訪れます。
孫峻が、亡くなったとの知らせでした。
やがて続報が入り、急な胸の病による死であったことが判明します。さて、そうなると、たれが後任になるのか。

さらなる続報は、驚くべきものでした。孫峻のいとこ、とはいえ、これまで何ら目立った実績のない孫綝が実権を掌握した
というのです。
このことに対し、呂拠は激しく憤ります。孫権に後事を託された滕胤と自分がいるのに、何ゆえ孫綝が、と。呂拠は、滕胤を
孫峻の後任とするよう上奏し、兵を引き返そうとします。

これに対する孫綝の動きは、存外素早いものでした。自身に正当性がないことが分かっているからか、政敵と妥協するという
選択肢は、端からなかったのです。
まず、滕胤を遠ざける命令を出させると、一族の孫憲(孫慮)を遣わし、滕胤を討とうとします。
呂拠に対しては、兵を引き返したことをもって謀叛の疑いありとし、呂拠の属将達に、呂拠を討つよう命じます。これにより、
呂拠の軍勢の動きは遅くなりました。

滕胤は、呂拠の軍勢と合流できれば、十分に勝機はありました。しかし、わずかに、間に合いませんでした。滕胤は討たれ、
呂拠は、呂範の子としての矜持をもって、自害して果てました。
相前後して清廉の人・呂岱も世を去り、呉において、孫綝を制する者がいなくなったのです。孫綝としては、これはもっけの
幸いでした。しかし、彼に国政を牛耳られた呉にとっては、どうなのでしょうか。

402 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/10/08(月) 06:37:31 ID:???0
続き。

まだ幼いとはいえ、皇帝・孫亮は、聡明な人物でした。そんな彼からすれば、孫綝の如き者に制約される状況は、耐え難い
ものがあります。

年が明けるとともに、親政を行う旨を表明した孫亮。しかし、亡き孫峻もその聡明さを警戒していたわけですから、容易では
ありません。


孫権が後事を託した者達が、皆、世を去りました。呉は、この先、どうなるのやら。

403 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:29:30 ID:???0
三国志(2012年10月)


今回のタイトルは「朱異」。呉は、魏の内戦に介入しようとして、また一人、良将を失うことに…。

物語は、既に西暦257年。各国とも、何度か改元が行われています。魏・呉に比べて改元の少ない蜀漢は、小なりといえ
ども、国内は比較的安定している様子。国内情勢については、呉が最も荒れていて…。

もとをたどれば、孫権が呂壱を重用したあたりからその芽があったわけですが、太子・孫和派と魯王・孫覇派の対立の中で、
多くの良臣を失いました。孫権の死後もそれは収まらず、ついに、何の正当性もない孫綝が実権を握る始末。
若年とはいえ聡明な孫亮が、この状況をよしとするはずもありません。即位から五年。親政を行う決意を固めました。

意欲的に政務に取り組む孫亮は、孫綝にとって、うるさい存在となりました。また、皇帝直属の軍事力の形成にも取り組む
など、何が必要かを、正しく理解していると思われます。しかし、この頃の孫綝には、なぜか運がありました。それが呉に
とっての運とは言えないのが、呉の混乱の原因なのですが…。

そんな中、孫綝のもとに、軍吏が報告に来ました。魏の諸葛誕が協力を求めてきたというのです。初めは一笑に付した孫綝
でしたが、諸葛誕が実子を含む多数の人質を出すと聞き、兵を出すことを決めました。
魏の内紛は、呉にとっては好機。この出師は孫亮も承認し、諸葛誕が籠城する寿春に向け、大軍が出撃しました。呉として
は、割と素早く動いたのですが…。

続きます。

404 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:31:15 ID:???0
続き。

それにしても、諸葛誕といえば、魏の征東大将軍。相当な高位にあります。それが、何ゆえ叛旗を翻したのでしょうか。

…諸葛誕は、司馬氏を恐れていました。彼自身に咎が及んだことはないのですが、先に司馬氏によって消された曹爽達とは
親しく付き合っていたため、いつか自分にも…と危惧していたのです。
司馬氏は、司馬懿→司馬師→司馬昭と代替わりし、寛容さも見せていたとはいえ、先の、曹爽達を葬り去ったやり方を見る
と、疑心暗鬼になるのも無理はありません。
そのため、南方を任され、寿春に赴いた彼がまずしたことは、毌丘倹の轍を踏まぬよう、現地の民の心を得ることでした。
これによって、彼のためには死をも厭わぬ者達を得たわけですが、さらに…と大軍を要請したことで感付かれました。

中央への召還命令。一応、三公への昇進という飴はありましたが、群臣達の序列からして、異常な話ではあります。これに
司馬氏の好意を感じていれば、あるいは違った展開があったのでしょうが…諸葛誕には、これが、自分を抹殺するための罠
にしか感じられませんでした。
謀られた、という怒りの中、楽綝を殺し、その軍勢を合わせた諸葛誕は、寿春に籠城します。単独では勝てないことは十分
承知していた故、呉との連携も十分考慮していました。

続きます。

405 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:33:38 ID:???0
続き。

しかし、諸葛誕の本気をみた呉の動きは早かったのですが、魏の動きも相当に早いものでした。荊州には、何事にもそつの
ない王基がいます。彼が、寿春の異変に気付かないはずもありません。中央に出撃を乞うや否や、直ちに兵を率いて寿春の
近郊に至り、包囲網を敷いていきます。

いかに王基といえども手が回りきらなかったか、あるいは兵法に従いわざと空けておいたのか、包囲網には僅かな隙があり
ました。呉は、ここから援軍を寿春に入れることには成功したのですが…諸葛誕にとっては、二重の意味で有難迷惑でした。
一つは、城内に大軍が入ったことで兵糧の消耗が早まること。もう一つは、城内に入った将が、仲の悪い文欽であったこと
です。
このあたり、孫綝の采配のまずさが感じられます。彼の采配のまずさは、これだけではありませんでした。勇将・朱異の
使い方も、その一つです。

当初、朱異が向かっていたのは、寿春ではありませんでした。彼に与えられた命は、孫壱を討て、というものだったのです。
孫壱というのは、孫静の孫の一人で、当時、沙羨侯でした。父、兄、そして彼自身、呉の臣として、何ら問題はありません
でしたが、孫綝に敗れて亡くなった呂拠や滕胤と姻戚関係があったため、孫綝に睨まれていたのです。
孫壱は、朱異が自分を殺すために来たことを察知し、呉に見切りをつけて魏に亡命しました。魏で厚遇されたところをみる
と、呉の帝室の一門の人間の亡命は、魏からしても慮外のことだったようです。

続きます。

406 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:35:58 ID:???0
続き。

孫壱を取り逃がしたことでケチが付いたのか、これまで魏相手によく戦っていた朱異が連敗しました。十分な兵力を擁し、
兵の士気も決して低くなかったのに、です(朱異自身、なぜ負けるのか分からない、という感じです)。

これに取り乱さないところはさすが、といったところですが、魏軍が相当に手ごわいということが分かった以上、うかつ
には動けません。朱異の軍勢は、動かなくなりました。
従軍していた陸抗は、かつての廉頗に似ている、と感じました。強敵相手には、うかつに動くよりもいったん静止した方
が良いこともあるのです。しかし、これまで遮二無二突撃していた朱異の突然の静止は、孫綝に、あらぬ疑いを持たれる
恐れがあります。

陸抗は朱異に諫言しましたが、朱異は孫綝を警戒していなかったため、召還命令に応じて孫綝を訪ねた際に、申し開きを
することも出来ぬまま、殺されてしまいます。
孫綝は、そのまま兵を引き揚げてしまったため、寿春は孤立しました。犬猿の仲の諸葛誕と文欽が、同じ城内にいて、劣
勢の中、焦燥感を募らせていきます。

407 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/11/08(木) 05:41:36 ID:???0
追記。

初動は素早かった孫綝でしたが、結局、事態を悪化させただけでした。諸葛誕も、まさか、呉(というか孫綝)がここまで
役立たずだとは思わなかったでしょう。独力で戦った方がましだったのでは?とさえ思えます。

しかし、孫峻といい孫綝といい、戦いにおいてはどうしようもないくらいに無能なのに、宮廷内の権力闘争においてはなか
なか鋭敏なのが、また…。

また、諸葛誕が反旗を翻した動機が、演義とは異なり、恐怖によるものとされていますが、政敵に対する司馬氏のやり方を
みると、無理からぬことと思います。
「敵に対してはどんなことをしてもよい」というのは、一見正しいようですが、後々のことを考えると…ということがあり
ますからね。

408 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 22:57:43 ID:???0
三国志(2012年11月)


今回のタイトルは「全氏」。呉の名門・全氏に、一体何が…。

寿春の城内では、諸葛誕の部将である蒋班・焦彝が、朱異の死と孫綝の撤退を知り、ある献策をしようとしました。
孫綝が撤退したとなると、寿春は孤立します。城内の兵がこのことを知って恐慌状態に陥る前に、城内の全兵力をもって
打って出よう、というのです。
しかし、タイミングが最悪でした。諸葛誕のそばに、文欽がいたのです。猛将とはいえ、魏の包囲網の堅さをいやという
ほど味あわされた文欽は、当然ながらこれに猛反発。普段は文欽とは犬猿の仲の諸葛誕も、ここでは文欽に同調したため、
献策は容れられませんでした。

蒋班・焦彝は、諸葛誕の決起の大義を信じて、ここまで付き従ってきました。もちろん、ある程度の勝算もあってのこと
です(魏の南部に属する寿春付近は長雨が降る時期があるため、長期にわたる包囲網の維持が困難。よって、長雨の時期
まで持ちこたえれば敵が撤退することが見込まれる)。
しかし、この年は、いつまで経っても雨が降りません。諸葛誕は、巫祝に降雨を祈願させましたが、それも効きません。
こうなると、この決起は、天に認められないものなのか、という疑問が生じてきます。
やがて、朱異の死と孫綝の撤退が城内の将兵に知れ渡ると、士気は目立って低下しました。他の将兵と同じく、意気消沈
していた蒋班・焦彝には、士気を高揚させる術もありません。
献策が容れられなかったこともあり、二人は、降ることを考えます。

降るとはいっても、ことは容易ではありません(ただ降っただけでは、不忠として斬られる恐れもある)。幸い、敵の軍
中につてを発見した二人は、内密に降る意向を伝えさせます。

続きます。

409 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 22:59:46 ID:???0
続き。

諸葛誕の部将、それも、副将ともいうべき二人が降る、という知らせを受けた司馬昭は、これを受諾。二人は機をうかがい、
降ることに成功しました。
司馬昭からすると、労せずして諸葛誕の戦力を削ぐことができたわけですが、さらに大きな知らせが舞い込んできました。
全輝・全儀の兄弟が、魏に亡命してきたというのです。

全氏は、全輝・全儀の祖父にあたる全jが父とともに孫氏に仕えて以来、呉の重臣として活躍してきました(全jは、孫権の
娘・孫魯班を娶っている)。
その全氏から、よもや敵国・魏に亡命する者が出ようとは。司馬昭ならずとも、驚くべき事態です。
訴訟がこじれたため、呉にいられなくなった、ということですが、ことは、全輝・全儀の二人に留まりません。なぜなら、寿
春の城内には、兄弟の叔父にあたる全懌が(他にも、全氏一門の者が多く)いたからです。

孫綝が撤退したことで、呉の援軍は縮小しています。しかし、呉帝室の連枝とも言える全氏がいる以上、呉は全軍撤退すると
いうわけにもいきません。ですが、その前提が覆るとしたら…。
司馬昭は、彼らにも寛容をもって接します。敵国の者であった我らに対し、なんという厚情…。感じ入った二人は、全面的な
協力を約束しました。
司馬昭は、彼らに、あることを依頼します。

続きます。

410 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:01:50 ID:???0
続き。

城内の全懌達に、魏に降るよう説得してもらいたい、というのです。
全jの死後、家督を継いだ全懌が魏に降るとなれば、その影響は計り知れないものがあります。将兵の犠牲を減らすのに、
これほどの策はそうそうないでしょう。

とはいえ、寿春の城内には、全氏以外の将兵も多くいますから、ことは慎重を要します。
幸い、全輝・全儀に付き従ってきた従者の中には、全懌達と面識がある(そして、信頼されている)者が多くいました。
彼らを使って、慎重に、連絡を取り合います。

全輝・全儀が魏に亡命した。このことは、全懌達にとっても、大きな衝撃でした。鍾会の策で、呉国内の全氏が皆殺しに
されるかも…という危機感を持たされたのも効きました。
そうでなくても、孫綝が撤退したことで、見殺しにされるのではないか、という疑念が生じているところです。これまで
呉において重きをなしてきた全氏の危機。全懌は、難しい判断に迫られます。
彼一人であれば、そんなに難しいことではないでしょうが、ここには、彼らが率いてきた数千の兵がいるのです。当然、
皆が皆、魏に降ることをよしとするとは限りません。

さて、どうするか。

続きます。

411 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:03:56 ID:???0
続き。

全懌は、ついに、魏に降ることを決意しました。息子達や、従兄弟の全端も、ともに亡命します。
しかし、自分たちだけが城外に出るのでは、置き去りにされた兵がどうなるかわかりません。全懌は、兵達と一緒に、
城外に出ました(もちろん、司馬昭に事前承認を得た上で、です)。

数千の兵が、堂々と城外に出て、包囲している魏軍からも、城内の諸葛誕・呉軍からも攻撃を受けることなく、戦場
から離脱したのです。
何とも不思議な光景ですが、これにより、全氏の兵は、無事に死地を脱しました。

城内から全氏の兵が消えた。ようやくことの重大さを理解した諸葛誕達は、これまでの防戦体制から一変、決死の総
攻撃を試みます。
その攻撃の凄まじさは、冷静な王基でさえあわや、というところでしたが、数か月の籠城を経た後で数倍の敵による
包囲網を突破するのは、やはり無理がありました。
再び城内に追いやられた諸葛誕は、疑心暗鬼が募り、ついに文欽を殺害。その子・文俶にも危険が迫ります。

412 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2012/12/02(日) 23:05:00 ID:???0
追記。
全j以外の全氏は、ゲーム等では、目も当てられないような低数値にされがちですが、今回の全懌は、父の全jや
兄の全緒にも見劣りしない人物として描かれていたように思います。
数千の兵の命を守るため、あえて難しい方法を選んだ全懌の行動は、見事なものでした。
寛容をもって接した司馬昭の勝利と言えるでしょう(それだけに、諸葛誕の決起の遠因となった曹爽派の処断には
すっきりしないものを感じるのですが)。

また、孫綝の軍事的手腕のなさが、あらためて浮き彫りにされました。魏の内紛に介入したはいいが、ただ将兵を
失っただけでした。
それにしても、全氏が亡命せざるを得なくなるほどにこじれた訴訟とは、いったい…。

413 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/01/01(火) 00:22:54 ID:???0
今回は三国志は休載でした(文藝春秋の90周年特別号、ということです)。

414 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:51:20 ID:???0
三国志(2013年01月)


今回のタイトルは「孫亮」。諸葛誕の決起がついに決着します。とともに、呉に動きが…。
文俶達は、寿春城内の小城に起居していましたが、ここに諸葛誕の軍勢が迫ります。数百も手勢があれば、諸葛誕を
殺して父の仇を討てる、と思った文俶でしたが、兵達は恐慌を来たし、我先にと逃げ散る有様。
これをみた文俶は、何を思ったか、城壁を越えて脱出し、不倶戴天の敵であるはずの司馬昭の陣に駆け込みます。

司馬昭も驚いたでしょうが、彼は、何より政治家でありました。普通ならば即刻処刑しているところを、敢えて許した
のです(戦いの序盤で降ったなら処刑していたであろうが、窮した今であれば、許す方がよい、と判断した)。
自身のみならず、兵達にも気遣いをみせる司馬昭に感じ入った文俶は、城内に投降を呼びかけます。

そろそろか。司馬昭は陣を進め、ついに、城内に兵が突入しました。いよいよ、諸葛誕に最期の時が迫ります。
この時、彼にはなお千を越える兵がつき従っていました。もはやこれまで。我が首を差し出せば…。しかし、ここまで
ついてきた兵達は、たれ一人としてこの場を去ろうとはしませんでした。
決起は失敗し、謀叛人として死ぬ。甚だ不名誉なことではありますが、それでもなお、これほどの人々がついて来て
くれることに、諸葛誕は感激します。そして、ついに…。

 諸葛誕は、魏への忠義を唱えて決起しましたが、かつて浮華の徒として曹叡から遠ざけられたこと、(文欽と不仲
 だったとはいえ)毌丘倹の決起に同調しなかったことを考えると、それにはいくらかの修辞があったのではないか、
 とされています。
 ただ、司馬昭の意を受けた賈充と面会した際のやりとりをみると、決起せざるを得なかったのか、とも思えます。
 (司馬師には殺されないが司馬昭には殺されると思った、ということですが、これって、賈充のせいでは…)

続きます。

415 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:52:48 ID:???0
続き。

諸葛誕は戦死し、決起は鎮定されました。彼に最期まで付き従った兵達は、たれ一人として助命を願うことなく、
処刑されました。哀しい場面ですが、ある種の美学があります。
城内に残された呉の将兵達は、司馬昭の寛弘に感じ入り、多くはそのまま降りました。年を越えて続いたこの戦いは、
司馬昭の完全勝利に終わったのです。

司馬昭は、この余勢をかって呉に侵攻しようか、とも思いましたが、ここは王基の諫言に従い、兵を引きました。
大勝の後、調子に乗ってさらに戦いを続けて惨敗を喫する、という例は、遠くない過去にも何例もあるだけに、この
判断は賢明でした。

魏においては、結果として、司馬昭の力がますます強くなる(相対的に皇帝・曹髦の力は弱くなる)こととなりました。
では、呉は、どうなのでしょうか。
普通、これほどの敗戦ともなれば、総司令官たる孫綝の責任が問われます。そうでなくても、自責の念にかられ、降格を
申し出るなりするものですが、孫綝は、自分には全く責任はないと言わんばかりのふてぶてしさを見せます。
これには、皇帝・孫亮も怒りを隠せません。そうでなくても、孫綝がのさばるこの現状は、呉にとって望ましからぬもの
なのです。孫亮は、孫綝の勢力を削ることを考えます。

皇帝自らが兵を率いて孫綝を拘束する。臣下に任せず、自ら大事に当ろうというわけですが、それには、中軍を預かる全
尚(皇后の父)の協力が必要でした。ただ、彼の妻は孫綝の一族。それだけに、慎重に事を進める必要がありました。

続きます。

416 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/02/08(金) 06:54:14 ID:???0
続き。

いよいよ計画が固まった頃合いを見て、孫亮は、全尚にことを打ち明け、協力を求めました。もちろん、妻には極秘で
あると念押しをして。
しかし、彼女に感付かれた全尚は、このことを話してしまいます。彼女は、直ちに急使を孫綝に派遣。孫綝は、間一髪の
ところで命拾いをしました。
そして、逆に孫亮を包囲。皇帝が昏乱であるとして、廃位を宣言します。


追記。
今回は、人の美しさと醜さとが、かなり強烈に描かれていました。
前者は、諸葛誕に殉じた兵達です。彼らは、諸葛誕から何かしらの恩徳を受けたのではあるのでしょうが、最後は、そう
いった利害を超えて、敬愛していました。
後者は、言うまでもなく、孫綝。あれほどの惨敗を喫しながら、恥じ入ることさえしないのは、厚顔無恥というほかあり
ません。しかも、かような小人が、まっとうな皇帝を廃するというのですから、他人事ながら、腹立たしいことです。
…ちと感情的になりましたが、かような小人が得てしてのさばるのですから、人の世はままならぬものです。

それはそうと、ここまで、司馬昭はかなり好意的に書かれているように思えますが、そろそろ、あの事件が描かれるはず。
どう描かれるのでしょうか。

417 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:01:31 ID:???0
三国志(2013年02月)


今回のタイトルは「孫綝」。孫権の晩年から続いた呉の混乱が、ようやく終息します。

孫亮が気付いた時には、宮殿は包囲されていました。打って出ることもままならず、玉璽を差し出すことしかできません。
全尚の不甲斐なさを詰りますが、空しいことは分かっています。
全紀(全尚の子)は恥じて自害し、全皇后(全尚の娘)は、廃位後も孫亮と辛苦を共にしました。子供たちは全うだった
のに、ひとえに、全尚が…。

聡明な皇帝を廃位するという、董卓以上の暴挙を為した孫綝ですが、さすがに、自分が皇帝に…とまではいかず、孫権の
他の皇子を擁立しようとします。とはいっても、孫権がもうけた男子七人のうち、上の四人は既に他界し、末子の孫亮は
廃位されたところ。残っているのは、五男の孫奮と六男の孫休の二人です。
結局、おとなしいとみられた孫休が選ばれました。

知らせを聞いた孫休は、当初、迷いました。弟が廃された後、兄の自分を立てようというのですから、正常な事態でない
ことは火を見るより明らか。孫綝の傀儡になることは分かりきっているのです。
一地方王としての静かな日々を捨てるに相応しいものではない。そうなのですが…しかし、ここで断ると、思いやりの心に
欠ける孫奮が即位する…。

それはならぬ。このとき、孫亮は、私事よりも国事をとる決断を下しました。ただ、龍に乗ったが尾がないという夢は、
何を意味するのか。このことは気になります。

続きます。

418 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:02:38 ID:???0
続き。

当初、ゆっくりと都に向かっていた孫休ですが、道中で出会った老人の言葉をうけ、急行します。そして、いよいよ即位。
あのおとなしかったお方が、かくも堂々と…。さすがは皇子であらせられる。側近たちを感心させる変貌を見せます。

かくして即位した孫休ですが、この時点では、孫綝の傀儡でしかありません。まずは、彼らに地位や恩賞をばらまいて、
敵意を抱かれないようにしなければならないのです。
そして、この一点については、孫休は孫亮に勝っていました。孫綝たちは、すっかり安心して、参内するようになったの
です。これは、好機でもありました。
とはいえ、皇后冊立等、孫綝のいうことを聞かないこともありますから、猶予はわずかしかありません。孫休の味方に
なる者がいればよいのですが…

いました。張布です。即位時から、いずれ孫綝と戦うことになるであろう、と覚悟していただけに、両者が結びつくのは
早いものでした。
ただし、主要な地位のほとんどを孫綝たちに占められているだけに、打つ手は限られます。というか、手段のみならず、
時期も限られます。
孫綝を除き、国政を正すのは、詰まるところ、運任せなのです。張布は、死を覚悟しました。

続きます。

419 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/03/07(木) 23:04:20 ID:???0
続き。

臘日。この日こそが、孫綝を除くことができる、唯一のときでした。

この日、参内を前にした孫綝は妙な不安を抱きますが、すみやかに退出できるよう図った上で、参内することとしました。
参内をせかす急使が何度も来たことにもう少し不審を抱いてもおかしくないところですが、これは、ここまで孫休が孫綝
の警戒心を削ぐことに成功していた、ということでもあります。

参内し、手筈通り、退出するはずだったその時…! 張布の手勢が孫綝を縛り上げました。孫綝は、してやられた、と苦笑
しつつ、孫休に助命を乞いますが、かつての呂拠・滕胤のことを持ち出されては、ぐうの音も出ません。
孫綝は首を打たれました。享年二十八。その一族は族滅され、呂拠・滕胤(及び諸葛恪)の名誉は回復されました。
かくして、呉は、一応皇帝の尊厳が取り戻されたわけですが…魏はそうはいきませんでした。次回は、その顛末が語られる
のでしょうか。

追記。
孫綝は、軍事・政治共に無能でしたが、危機を察知することには長けていました。この時も、察知してはいたのです。それを
打ち破るあたり、孫休も無能ではありません。
行状芳しからぬ孫奮を除き、孫権の息子達は有能ですね。
ただ、(本人の意思の賜物でもあるとはいえ)運頼みになった感があります。このあたりは、どうなるのでしょうか。

420 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:20:32 ID:???0
三国志(2013年03月)


今回のタイトルは「好戦」。魏と蜀漢の好戦的な人々の話、といったところでしょうか。

まず最初に、孫休が孫綝を滅ぼした(西暦258年)時点での、各国の皇帝の年齢について触れられています。魏は、曹髦18歳。
呉は、孫休24歳。蜀漢は、劉禅52歳です。
魏と呉は、若年の皇帝が廃されて新たに若年の皇帝が擁立された、という点では共通していますが、その後の情勢は異なるものと
なりました。それは、ひとえに、皇帝を制する実力者の力量の違いによるものでしょう。呉の方は、前回までで語られた通りです
が、魏の方は、というと…。

その頃、魏の若き皇帝・曹髦は、現状に苛立っていました。先代(斉王・曹芳)が廃された経緯は承知しているとはいえ、自分も
また、司馬氏に実権を握られたまま、政務に関われないでいたからです。
曹髦は曹芳とは異なり、酒色に走ったりはしませんでしたが、「潜龍」の詩(龍が現れたが、天に昇らないため、瑞祥ではないと
皮肉った)などをみると、相当に不満が溜まっていたことは分かります。
「(曹髦は)理屈をよくこねる」などと書かれているところをみると、やや辛く評価されているのかな…と思えます。確かに、皇
帝という至尊の地位にいるとはいえ、ままならない現実に苛立つのは、人としての風格に欠けると言えるのではあるのですが…。

曹髦の側近に、三人の王氏がいました(といっても血縁関係にあるわけではない)。王沈、王業、そして王経です。王経は、前に、
姜維に大敗を喫した人物として登場していましたが、軍事的な能力には欠けたものの、他に才能があるとみられていたようです。
その三人に向かって、曹髦は、重大な決意を打ち明けます。今から兵を率いて、司馬昭を討つ、というのです。
既に魏の軍事力のかなりの部分は司馬氏に握られていますから、全くもって無謀なことではありました。三人は必死に止めました
が、曹髦は効く耳を持ちません。

続きます。

421 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:29:19 ID:???0
続き。

この時、曹髦はかなり昂奮していました。普段は、学問を好む理知的な人物という感じですが、実のところは、かなりの激情家で
あったのではないでしょうか(ただし、全く理性が吹っ飛ぶというわけではない)。
確かに、これは無謀なことです。しかし、これまで異常なほどに正当性にこだわってきた司馬氏が相手である以上、勝算がゼロと
いうわけでもないのです(皇帝の尊厳が保たれているのであれば、皇帝自ら陣頭に立てば臣下は手出しができないはず。となれば、
司馬氏を倒すとまではいかなくとも、何らかの形での実権回復も見込まれる)。
諫言が聞き入れられないのをみた王沈・王業は、司馬昭に報告。王経は、この場に残ってなおも説得を試みたようですが…ついに
曹髦自らが出撃するという事態に至ります。

まずは、皇太后のもとに向かいます。一応、皇太后の同意も得られればそれに越したことはない、というところでしたが、既に、
曹髦と皇太后の関係は著しく悪化していましたから、これは、事実上の決別でした。
(武装した(不仲の)皇帝がいきなり現れたのですから、皇太后が恐怖したのも無理はないのですが)
当初は、曹髦が見込んだ通りでした。まず現れた司馬伷(司馬昭の異母弟)は、陛下に手出しは出来ぬ、というふうで、ほとんど
無抵抗でした。これに気を良くした曹髦はなおも進撃しますが、ここで、賈充が立ちはだかります。

賈充には、皇帝への敬意はありません。彼が敬意を持つのは、あくまで司馬昭。賈充は、皇帝を眼前にして戸惑う兵達を叱咤し、
攻撃を命じます。
本気で戦えば、司馬氏配下の将兵の方が圧倒的に強いので、曹髦率いる軍勢は押されます。そしてついに、成済が、曹髦を突き
殺しました。

続きます。

422 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:32:49 ID:???0
続き。

最悪の事態も覚悟していた司馬昭でしたが、さすがにこの結末に対する衝撃は大きいものがありました。叔父の司馬孚が直ちに
哭泣して(皇帝と司馬氏の間に深刻な対立があったわけではないと)アピールしたこと、皇太后が曹髦を悪逆であったと罵った
ことで、ひとまず落ち着きを取り戻したのですが、何かすっきりしないものが残ったのも、また事実です。

実権がなかったということもありますが、曹髦は、決して悪しき皇帝ではありませんでした。傍目には生意気な若造と思えたと
しても、見ようによっては、意欲ある(そして、十分な学識もある)青年だったわけですし、何より、これといった乱行もあり
ません。
曹髦を止められなかったために、ほとんどとばっちりという感じで王経は処刑されましたが、母とともに従容と死についた彼は
多くの人々から敬われました。むしろ、彼を見殺しにした王沈・王業の方が、その薄情さを曝したとも言えます。
廃帝という扱いにされたとはいえ、曹髦は皇帝です。その葬列があまりに貧弱なのを見た人々は、魏の終わりが近いことを痛感
したことでしょう。

ともあれ、一応の事務処理は済んだと思われましたが…なおも問題がありました。陳泰が来ないのです。
父祖と同様、名臣として知られる彼に認めてもらえないことには、司馬昭としても不安なのです。陳泰にしても、表立って批判
的なことは言いませんでしたが、その発言をみれば、この件を是としているわけではないことは明らか。
陳泰は、皇帝弑逆を命じた賈充を処刑するよう求めますが、司馬昭はこれを拒否。結局、下手人の成済を、その一族もろともに
殺害することでごまかしました。

続きます。

423 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/04/04(木) 03:38:50 ID:???0
続き。

さて、次の皇帝を擁立する必要が生じたわけですが…。もう、我の強い人物はこりごりです。結局、おとなしいとみられた曹奐
(燕王・曹宇の子)が選ばれました。

一方、蜀漢の方は、というと…。姜維は、さして成果の上がらない出兵を繰り返していました。姜維の相手はケ艾ですが、彼は
魏の一刺史に過ぎません。一国の大将軍の相手が刺史で勤まるのですから、もはや、国力の差は如何ともしがたいものとなって
いました。
そして、内政面においても、宦官やそれと癒着した者達が実権を握るようになっていました。魏や呉のような大規模な内紛こそ
なかったものの、じり貧状態であったのです。
これをみた司馬昭達は、蜀漢を一気に滅ぼすべく、入念な準備に取り掛かります。蜀の地に入る複数のルートから一斉に侵攻
するのです。


追記。
今年出る単行本で完結という話がありました。ということは、あと1、2回。いよいよ、本作のラストが見えてきました。

曹髦の非業の最期は、多くの人々に暗い影を落としました。魏の帝室たる曹氏からみれば、いよいよその衰運が明らかになった
ことを示すものでしたし、遠からず帝位に就くであろう司馬氏からみれば、その正当性を大きく傷つけるものであったからです。
また、臣下からみれば、高位にある人々の節義に疑いを抱いたことでしょう。
司馬昭が切り捨てられなかったことをみると、賈充が司馬氏にとって必要な人材であったのは確かでしょうが、なぜこのような
判断を下したのか、よく分かりません。
そこまで描かれることはなさそうですが、これこそが、司馬氏のたてた王朝があっけなく瓦解した一因であるように思えてなら
ないのですが…。

424 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:17:31 ID:???0
三国志(2013年04月)


今回のタイトルは「劉禅」。ついに、三国の一角が潰えるときがきました。

鍾会を総司令官とする蜀漢への侵攻作戦については、前線にいる姜維は薄々感付いていました。しかし、蜀漢の中央には厭戦
気分が横溢したこともあり、迎撃態勢の構築は不十分でした。
宦官の黄皓の影響はあったにせよ、皇帝たる劉禅に緩みがあったことは否めません(ただ、この時点で在位四十年。歴代皇帝
の中でも長い部類ですから、無理からぬところではある、という点も言及されています)。

そして、ついに侵攻作戦が開始されました。蜀漢領内への侵入自体は容易で、(粗漏のあった許儀を斬る等)軍紀にも厳しい
魏軍の進撃は、まずは順調に進みました。
面白いことに、鍾会には諸葛亮や蔣琬への敬意があり、侵攻作戦の一環とはいえ、蔣琬の子・蔣斌に丁重な書簡を送ったりも
しています(返信も受けています)。姜維にも同様の書簡を送ったのですが…これは無視されました。

姜維は、優れた人材として、名指しで諸葛亮に絶賛されたことを終生の誇りとしていました。それゆえ、諸葛亮に敬意を抱く
(という姿勢を見せる)とはいえ、彼が守り通した蜀漢を侵さんとする鍾会には、強烈な敵意を隠しません。
政治的な感覚はない(それゆえ成果に乏しい戦いを繰り返すことになった)とはいえ、優秀な武将です。領内への侵入を許し
はしましたが、険阻な蜀の地の利を生かし、鍾会の大軍を巧みに食い止めます。

続きます。

425 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:20:12 ID:???0
続き。

鍾会率いる主力軍が姜維に足止めを食らっているのをみたケ艾は、自身に割り当てられた侵攻ルートを変更し、一気に蜀漢の
要所に攻め入ることを思いつきました。
もちろん独断ではなく、洛陽にいる司馬昭の許しは得たのですが、たとえ自身に無断ではなかったとしても、鍾会には面白く
ないことです。成功すれば、ケ艾に大功を立てさせる(自身はその補助に過ぎなくなってしまう)のですから、無理もないの
ではありますが。

とはいえ、この進軍は困難を極めました。数千の軍勢が(補給に気を遣いつつ)険阻な蜀の山岳地帯を短期間に踏破せねば
ならないのです。滑落したら一巻の終わり。それは指揮官のケ艾とて例外ではありません。毛氈にくるまっての登攀という
場面も。

そして…ついに、進軍は成功しました。姜維の援軍として魏軍と戦うものとばかり思っていた後方の諸将は、不意を突かれた
格好になりました。
しかし、小国とはいえ、魏とは同等の正統性を有する蜀漢です。馬邈や蒋舒のように降伏する者もいましたが、劣勢を承知で
なお戦う者達はいました。傅僉や諸葛瞻、張遵といった面々です。

続きます。

426 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:23:05 ID:???0
続き。

諸葛瞻は諸葛亮の子で、幼少の頃より、父の偉大さを聞かされて育ってきた人物です。彼への期待は大きかったのですが、
器量については父には及びませんでした(黄皓の専横を止められなかった、等)。
とはいえ、国への忠義は父の名に恥じません。その決死の戦いぶりは、明らかに劣勢であるにもかかわらず、一度はケ艾の
軍勢を退かせたのです。
しかし、時の勢いの差は如何ともしがたく、ついに戦死。ケ艾の軍勢は、成都近郊にまで至ります。

当然ながら、蜀漢の宮廷は大混乱に陥ります。魏に降るべきか、南方に逃れるべきか。籠城する、という選択肢が挙がら
なかったのは確かに不思議ではありますが、首都近郊にまで敵軍が来た以上は、籠城しても勝ち目がない、と判断しても
おかしくはないところです。
 通常、自軍の軍勢が健在であれば、敵軍がここまで来るはずはない、と考えるでしょうからね。あと、呉に降っては…
 という声もありましたが、すぐさま却下されました。同盟関係にあるとはいえ、先帝の仇ともいえる呉は、信頼できる
 相手ではないのです。

意見はいろいろありますが、猶予はありません。ここで議論の流れを決定づけたのは、譙周でした。

続きます。

427 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:25:06 ID:???0
続き。

譙周という人の評価は難しいところです。学者としては優秀です(三国志の著者・陳寿の師でもある)し、この時の意見も
正論です。しかし…国家への忠誠、という点では、どうも引っかかります。

とはいえ、彼の意見は、(この状況下では)十分過ぎるほど理に叶ったものでした。前線の状況が分からない以上、ケ艾と
戦っても勝てる見通しはありません。ここで戦えば、皇帝の身も危うくなります。
一方で、先の曹髦のことがあります(皇帝弑逆との批判をかわすため、司馬昭は、敵を作らないことに腐心せざるを得ない)
から、ここで降れば皇帝の身の安全は保証される、という冷静な計算もありました。
もちろん、ここで戦って民にさらなる苦難を与えることは避けたい…という為政者としての責任、というのもあります。

劉禅としても、苦しい決断ではありましたが…ことここに至ってはやむなし。ついに、降伏を受諾しました。子の一人・劉
ェは、先帝に申し訳ないと父を批判したのち、自害して果てましたが、これは国民への弁解である、と書かれているように、
いろいろ難しい事情がある、ということを考えさせられます。

昨日まで至尊の存在であった皇帝が、今日は罪人として敵将の前に身を晒す。ケ艾は、国が滅びるとはこういうことか、と
感慨にふけります。


追記。

物語においては、劉禅の降伏は批判的に書かれることが多いと思いますが、本作では、割と肯定的に描かれていました。
状況を考えれば、賢明な判断であったのは確かですしね。
今回で、「三国時代は終わった」わけですが、まだ「完」ではありません。最低でももう一回はあるわけですが…どこまで
描かれるのでしょうか。

428 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:47:00 ID:???0
三国志(2013年05月)


今回のタイトルは「滅亡」。今回が、真の意味での蜀漢の最期、なのでしょうか。しかし、それだけでもないような。

ケ艾は、この戦いに臨む際に夢をみました。爰邵という人に問うたところ、成果はあがるが…という解釈。吉か不吉か
難しいところですが…ともあれ、成果はあがりました。ここからどうするか、が新たな問題です。
降伏を受け入れ、旧蜀漢の君臣に寛容の姿勢をみせると、続いて占領地行政を取り掛かりました。このあたりはそつ
なくこなします(大功をあげただけに、いささか舞い上がった言動もありますが)。
そして、呉への侵攻をも企図します。先の夢占いのこともありますし、軍略家としての血が騒いだ、というのもある
でしょう。これは司馬昭が早計であると却下しますが、ケ艾は諦めません。

しかし、ケ艾は、一つ忘れていました。この戦いの総司令官は、文才に恵まれ、策謀にも長けた(そして気位の高い)
鍾会なのです。ここまでのケ艾の働きぶりは大いに称賛されるべきものですが、それは一方で、人から妬まれる危険
をも孕んでいました。
そして、年明け早々、ケ艾の運命は暗転します。叛意ありとして都に送還させられるというのです。それは、鍾会の
讒言によるものでした。

続きます。

429 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:48:18 ID:???0
続き。

さすがのケ艾も、これには為すすべもありません。三公にまで登りつめた直後のこの仕打ちなのです。しかし、本当の
「滅亡」は、これからでした。

さて、鍾会と激戦を繰り広げていた姜維は、成都付近に敵が現れたとの知らせを受け、急行しましたが…途中で皇帝が
降ったと知らされます。
何のために戦ってきたのか。こちらも呆然としますが、何か思いついたのか、「蜀漢はまだ滅んでおらぬ」と立ち直り、
成都にいるケ艾にではなく、鍾会に降ることにしました。腐れ縁の張翼も一緒です。

蜀漢の柱石たる姜維が自分に降った。この意味の大きさを、鍾会はよく理解していました。これによって一応の面目は
立ったからですが、それだけではない含みがありました。
鍾会は、降った姜維を厚遇し、彼の名によって武装解除された蜀漢の将兵を集めようとします。これは、一体…。

続きます。

430 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:51:37 ID:???0
続き。

かつて傅嘏が危惧していたように、鍾会は、己の才智に驕っていました。姜維が降ったことで、自身が率いる大軍に
加えて蜀漢の精鋭も手に入れられる、となると…結構な兵力になるわけでして、要害の蜀の地に拠れば、あるいは…
と思ったようです。
ケ艾への讒言も、彼の暴走を危惧して、というようなことではなく、嫉妬と、邪魔者は…というものでした。
もっとも、司馬昭(及び王夫人)も、鍾会の野望の大きさには気付いていました。その上で蜀漢征討の総司令官に
任じたわけですから、やはりこちらの方が上手でしたが。

鍾会は、蜀漢の歴戦の将兵を使って野望の実現を目論み、姜維は、お膳立てが整ったところで鍾会達を消して蜀漢の
再興を目論む…。互いに互いを利用しているわけですが…

思わぬところで破綻が訪れました。鍾会が、旧蜀漢内の兵力の完全掌握のため、非協力的な将兵の殺害を図っている、
ということで、内紛が勃発したのです。
なにしろ、旧敵国内ですから、彼らは孤立しています。殺される、という恐怖は相当なものであったはずで、これに
よって、鍾会も、姜維も斃れます。

檻車に収容されて洛陽に送られているケ艾は、この時点ではまだ生きていますが…

431 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:24:28 ID:f69prmJ00
三国志(2013年06月) 最終回


今回のタイトルは「晋王」。約十二年にわたって続いた本作も、ついに完結の時を迎えました。呉の滅亡等、まだまだ
書いていただきたいことはあったのですが…最後は正直、「そうきますか」という思いでした。

鍾会・姜維が斃れたことで、蜀の混乱は、ひとまず収拾がつきました。監軍の衛瓘は、蜀の天地をみて、しばし感慨に
耽ります。
かつて公孫述は、この地で自立して天子と称しましたが、光武帝によって滅ぼされました。劉備もまた、この地に割拠
して皇帝を名乗りましたが、子の代で滅びました。そして鍾会も、あらぬ野心を抱きましたが、果たせず、斃れました。
この天地には、人の気宇を広げるものがあるようです。では、衛瓘は、どうなのでしょうか。

彼には、そのような野心はありません。ここでの彼は、あくまで監軍。司馬昭の名代に過ぎないのです。その程度の
冷静さは持っています。そんな中、驚くべき知らせが届きます。混乱の中を抜け出した兵達の一部が、ケ艾を奪還し、
こちらに向かってくるというのです。
ようやく事態の収拾がついたばかりのところに、(罪状未確定とはいえ)罪人のケ艾に来られては困る。衛瓘は、決して
ケ艾に同調しないであろう将の田続(蜀漢征討戦の途中、進軍を停止したとして処断されそうになった)に命じ、これを
迎撃させます。
…時に利あらず。さすがの名将・ケ艾も、衆寡敵せず、ついに落命しました。

衛瓘のとった措置を、杜預は批判しました。後に衛瓘は、杜預が予言したように無残な最期を遂げるわけですが、それは
ともかくとして、ケ艾の死によって、名実ともに三国時代が終わった、とされています。
(本心はともかくとして、実力的に、蜀漢に代わって第三勢力になる可能性を持ったケ艾が消えたことで、天下三分は
なくなった、ということ)

続きます。

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