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■ ★『宮城谷三国志』総合スレッド★

1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

434 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:31:03 ID:f69prmJ00
続き。

同盟国を失った呉は、大いに動揺したものと思われます。それから程なく皇帝・孫休が崩じると、幼少とはいえ太子が
いるにもかかわらず、孫皓をたてたのですから。
孫休は、先に孫綝を倒したことからも分かるように、無能ではありません。しかし、国内が落ち着いたと感じると学問
に耽る等、消極的な人物でした。一方で、孫皓は、積極的(に見える)人物だったのを期待されたのでしょうが、一つ
誤ると暴君と化す恐れがあります。事実、そうなってしまうのですが。

蜀漢が消え、呉も衰勢にある。そして、魏はもはや司馬氏の手中。司馬昭は、後漢末期から続いた乱世が、もうすぐ
収束することを確信していました。
しかし、一方で、それを為すのは自分ではなく、子の司馬炎であろう、とも感じていました。
かつて曹操は、自らを周の文王になぞらえました。それは、帝王というものの重さを自覚するが故の発言でした。司馬
昭も、それに倣うこととしたのです。

ここでの司馬昭の評価は、なかなか興味深いものがあります。いわく、自分から仕掛けることが少なかった、と。確か
に、兄の司馬師が健在であれば、彼が前面に出てくることはなかったでしょう。
司馬昭の立場でみれば、曹髦を死に追いやったことは痛恨事でしたが、そこに策謀の影を見るか、というと、確かに…
なのです。
(まあ、事後処理についてはやりようがあったとは思います。後々のことを思うと、賈充は処断すべきであった、と)

続きます。

435 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:33:21 ID:f69prmJ00
続き。

おのれが何を為したか。天、地、そして自分。この三者が知っていればよいのではないか。司馬昭はそうも思いますが…
やはり「子(なんじ)」は必要なのです。天地のような全くの第三者ではない、しかし自分でもない、他者が。

「その存在がなければ、歴史も、物語も、ありえない。」

司馬昭の死と、司馬炎によって晋王朝が成立したところで、本作は終わります。しかし、その直前に書かれたこのことが、
ひどく印象に残りました。

「四知」で始まった物語が「四知」で完結したのです。
(そして、「四知」を意識しなくなったとき、中華の没落は始まった…という、個人的な感想もあります)

436 名前:投稿 ★:2018/01/13(土) 19:32:31 ID:5Jm+vDrc0
人いるの?

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