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ぐっこ どっと ねっと-【第三回】 簡雍
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味好漢列傳 其の三

 

簡雍(字:憲和) 本籍地:幽州

 

 ……って、「簡雍ってマイナーだったけ?」というツッコミがありそうですが、「私がオススメの」味好漢だから問題なしッ!

 簡雍憲和――。

 実は三国志全登場人物のなかで、私が最も大好きな人物なのです!

 意外! ぐっこ簡雍ファン説浮上!

 でも事実なんです!

 

 さて、この簡雍ですが、光栄の三国志シリーズをプレイされた方ならばよく御存知のハズ。序盤の劉備陣営においては、内政や外交の出来る貴重な文官で、孫乾や麋竺と並んで「内政三羽ガラス」と親しまれたもんです。

 が、実際に彼がどういう人物かというと、演義ではあまり触れられていません。

 そこで、まあ最近ではよく知られてきましたが、とりあえず簡雍の人物談をば。

 

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 いきなりですが小説的な想像を差し挟む事をお許し頂きたい。

 

 ――北辺の寒村にぽつりと灯を点じる、うらぶれた旗亭(酒場)

 ある青年が、決まった時間にフラリと訪れ、亭主にぼそっと「酒」という。

 この青年、昼間はワラジなどを編んで日々を喰いつないでいる。が、めっぽう剣の腕が立ち、村では珍しく字が読めるという。

 と……。ひとりまたひとりと、客が亭に集まりはじめる。亭はにわかに活気づく。どれもこれも、鼻つまみの不良どもばかりである。この悪少年どもは、みな青年を慕っているらしい。

 一同は二刻も飲み食いする。

 やがて亭主がそろそろ看板にしたい、という表情をうかべる。

 すると、今まで黙々と上座で飲み続けていた青年が、またぼそりと「勘定」とつぶやく。

 途端に、一同はシンと静まりかえり、亭主と青年を凝と見つめる。青年は立ち上がると、亭主がいっただけの銭を、ぞろりと懐から引きずり出し、きれいに支払う。少年たちは、感激の目で青年を見上げ、そさくさと散る。

 ふらりと、よろけるように店を出た青年に、二人の巨漢が寄り慕う。市で狗肉をひさいでいる男と、その兄貴分の流れ者である。

 青年を両側から支えるようにして歩くふたりのあとに、慌ててうしろから追い慕ってくる者がある。旗亭の若造である。先刻の釣りをもってきたのである。

 青年はふりかえると、お前さんにやるよ、という。

 若造は、「要らねえ」という。言を継ぎ、「その代わり大兄の舎弟になりてえ」という。

 青年は苦笑して、好い事がねえよ、と言い、二人の巨漢も揃って「おやめなせえ」という。

 若造はひかず、「舎弟にしてくれないとこの金は貰えねえ」という。

 青年は、

 ――じゃあ舎弟にしてやるからその金は貰っときな

 といって、わらう。…………

 

 ムシロ売りの青年は、後の蜀漢王朝初代皇帝・劉備玄徳であり、屠狗屋は後の車騎将軍・領司隷校尉・西郷侯の張飛益徳、その兄貴分の流れ者は後の前将軍・都督荊州諸軍事・漢寿亭侯の関羽雲長である。

 ちなみに酒家の若造は後の昭徳将軍・簡雍憲和である。

 

 ………………

 

 簡雍、または耿雍。字は憲和。幽州郡出身。

 要するに蜀漢初代皇帝・劉備と同郷で、お互いにまだ青年であった頃からの知り合いだったとか。

 この時代の劉備の知己としては、やはり同郷の張飛がおり、彼の兄貴分の関羽もまた、劉備に惚れ込んで行動を共にしました。

 やがて劉備は彼ら村のあぶれ者どもを率いて一旗揚げることになります。

 無論このほかにも無数の侠客や豪傑が同道したのでしょうが、一人また一人と消えてゆき、最終的に上の三人だけが歴史に長久の名を刻んだ、というところ。

 

 以上、要するに長々と何が言いたいかといいますと、「桃園結義」にこそ同席しなかったとはいえ、簡雍はれっきとした劉備の舎弟だった、とうことです!

 

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 簡雍は勝つも負けるも、劉備と終生を共にしました。

 記録を見る限り、軍将として前線に立ったことはなく、あったとしてもそれほど長い期間ではなかったようです。ならば存外吏才があって蕭何の功でも労したのか、と思えば、やはりそのような記述も無し。

 信じられないことですが、最初彼は「何もしなかった」らしいです!

 

 やがて劉備は荊州に安住の地を得、組織作りの中で側近官僚たちが必要になりました。そこで、ようやく彼は麋竺や孫乾とともに従事中郎という役職に就きます。

 この役目、劉備の側近として客や書簡を取り次ぎ、時に相談相手となり、時に使者として四方へ使いするというモノ。

 劉備の話し相手として簡雍以上の者がいるはずもなく、この仕事で彼はそれなりに活躍したようです。

 

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 赤壁後、劉備は劉璋の要請に従い益州入りします。

 北方からの侵略者を撃退する――という相変わらずの傭兵家業ですが、今度の場合、雇い主である劉璋を益州から叩き出してしまおう、という下心アリの行動です。

 簡雍は、このとき劉備とともに益州に入り劉璋と面会しましたが、どういうわけか劉璋、簡雍をいたく気に入ってしまいます。

 

 ちなみに簡雍という男、劉備が室に訪れたときでも諸肌ぬぎでねそべり、酒を呑んでは屁をこくという一種の奇人でした。諸葛亮や関羽などにいたっては、牀にさえ座らせてもらえず、寝ころんだままの簡雍と辛抱強く話さねばなりませんでした。

 簡雍は、それをやっても人から憎まれることのない人格とポジションを、すでに手に入れていたようです。 

 

 劉璋は父王から全てを受け継いだ苦労知らずの二代目であり、この種の奇人が珍しかったのでしょうか。「之ヲ甚ダ愛ス」とありますから、相当の厚遇ぶりだったのでしょう。

 劉備はやがて当初の予定通り劉璋を裏切り、鉾を逆しまにこれを攻撃。劉璋軍は善戦したものの支えきれず、とうとう成都城に逃げ込んでしまいます。

 劉璋への降伏勧告の使者は、他ならぬ簡雍が指名されました。

 人情の機微を知り尽くした劉備らしい人選と言え、簡雍は見事に使いを果たしました。劉璋は輿に簡雍を同乗させ、劉備の軍門へ降ります。

 ちなみに演義ではやや脚色を加え、傲然と輦のまま入城しようとした簡雍が劉璋の臣に怒鳴りつけられる、というシーンがあります。

 

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 さて、この無血開城の功(本当は馬超の功績ですが)により、簡雍は昭徳将軍に任じられました。

 そのような大賓になってもなお彼の素行はまるで変わらず、その性は「簡傲跌宕(傲慢で無頓着)」と評され、張飛も青ざめるような不作法ぶりが続いてたようです。だからこそ、劉備は彼を愛し続け、側に置き続けていたのかもしれませんね。

 無論ただの無礼屋でも道化師でもなく、彼の「優遊風議(伸びやかに語ること)」は皆が一目置いていました。

 このときのエピソードとして、有名な事件があります。

 

 ――ある年、益州は旱魃に見舞われて穀物が不足し、一時期酒の醸造を厳禁する、という事態にまで陥りました。醸造につかう器具を所有しているだけでも処罰されるという過酷さが、事態の深刻さを示しています。おそらく当代の酷吏・諸葛亮が司法を掌握していた時期ですから、処刑か徒刑は免れなかったでしょう。

 さて、益州の王者劉備は、簡雍を共に連れて城下の遊覧に出かけました。

 ふたりはふと、わかい男女が睦まじく歩いている日常の光景を見ます。劉備は微笑んで通り過ぎようとしたでしょうが、簡雍は何を思ったか劉備の袖を取り、

「彼ノ人、淫行ヲ欲ス」

 と言い出しました。えっちをするつもりだろうから、逮捕せよ、と主張するのです。

 おどろいた劉備は、卿何ヲ以テ之ヲ知ル――つまり、何でやねん、と簡雍にツッコミを入れました。

 間髪入れず、簡雍はこう答えました。

「彼、其ノ具ヲ有ス。…醸セント欲ス者ト同ジ」

 ――その具を有す!

 簡雍らしい極端で笑える風刺ですが、的確でした。劉備はしばらく大笑いし、笑いをおさめると「未遂者は許す」と言いましたとさ。……

 

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 簡雍は、正史において麋竺・孫乾・伊籍・許靖・秦らと並び、劉備の賓客として列せられています。

 なかでも麋竺は劉備一党の経済基盤を長らく支えてくれたパトロンであり、劉備の義兄であったことから、位階こそ高くないものの、諸葛亮以上の敬意を受けていたといいます。

 そして劉備のもとで艱難を共にした簡雍や孫乾は、その次に位置します。

 内政三羽ガラスは、実は劉備にとって掛け替えのない「友人」格だったわけです!

 

 蛇足――。

 これは余談ですが、実は劉備の幕僚には、簡雍と似たような人物がいました。

 、字を威碩といい、小沛時代から劉備の側に侍った男です。やはり噺が上手く、劉備はこれを度が過ぎるほどに甚だ愛しました。彼は簡雍とは違い、積極的に政権に手を伸ばし、位人臣を極め、席次は諸葛亮・法正に次ぎ、常にナンバー3、最終的には車騎将軍にまで昇ります。

 が、結局は征西大将軍・漢中都督の魏延と対立し、成都に送還され、挙げ句劉禅の不興を買って首を打たれるという哀れな末路を辿りました。

 ……簡雍は位階こそ低いけれど、劉備に親愛をもって遇され、群臣にも苦笑混じりの敬意を受け、その生を終えました。劉と簡雍の人物の差とも言えますが、簡雍流の生き方がいかに難しかったか、ちょっとした証左にはなりそうです。

 

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 私ぐっこは、吉川三国志からこの世界に足を踏み入れ、色んな傍系本も読み漁り、正史も買いそろえ、魏呉蜀ひととおりにハマった後、ぐるりと一周して蜀ファンすなわちショッカーに戻って参りました。

 その理由の一つとして、この簡憲和の存在が間違いなくあったと思います。

 傲慢無礼な、不羈というにはあまりに図々しいこの男を、苦笑混じりで容認できるという劉備一党の懐の深さに、私は正直、参ってしまいました。

 梁山泊的な、という表現は時代的にもおかしいですが、とにかくそれぞれ得意とする芸を持つ豪傑どもが、大声で笑い合い、怒鳴り合い、尊敬し合う――そういう劉備軍団の野放図加減が、私はたまらなく好きなわけです。

 で、その劉備軍団の「豪放」をある意味象徴している簡雍が、私は大好きなわけです。

 

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