2009.09.06

正史時間軸歪曲報告スレまとめ

時間軸スレッド!

[86] リョウ統(呉将)の没年? 投稿者:玉川雄一[関東] 投稿日:2001年07月23日 (月) 20時45分39秒
リョウ統とのはアレです、字がでリョウ操の息子さん。OK
と彼につての疑問きました。

の年ついては、享年49いうことがはっきりしているだけです。
ただ
のリョウ江夏攻めで戦死したに15歳だったと。
はポインでは?と伝を見る、孫権の(黄祖)めは202年、207、208年の3回です
だし、リウ操戦死は「孫権呉軍の総にあたるうになって」とのことすので、一回目の20年と考えて良いでしょう
すると、202年にえ)15歳だとすると生年は188年。ちなみに三國志8で89年ですので、ほれを踏襲しているのょう

し。駱にふと見た怪し記述。「統は)リョウ統の死その配下の兵の指揮を任れた」とあります
統は珍し生没年がきりしてり、228年に36歳死去しています。
さら
えば、上の記述は駱陸遜に従って劉備を破った(夷陵の戦い)という記述より先に登場します。リョウ統は意外に早い
統伝ほかを読み返してみると、彼について年代のはっきりしている記述は、215年肥戦が最後です。そは地方に出て山越をし、離任る直前にしたとなています
ヘタするとは建安年間中に死去のでは?


玉川雄一[関東] > (2001/07/23(Mon) 20:47:22)

上の続きです。

生年を引き上げる(ムリがあるか?)とするならば、彼が若き日の留賛(183-255)に素質を見いだし、推挙したという話があります。
若き日の留賛は「黄巾の賊」の呉桓を斬った際に足に怪我をしましたが、その時の荒療治の様子を伝え聞いたリョウ統が彼と面談して高く評価したとのこと。

読めば読むほど謎が増えるばかり。史料のどこかに何らかの誤りがあるのでしょうが…
さて、ゴッキーの皆さんのご意見やいかに?

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/07/24(Tue) 00:03:17)

おおお!? 凌(あて字)統ですか!?
なるほど…?ええと、これは…明らかにパラドックスが発生してます。
つまり

凌操 …━━━━━━
凌統   ━━━━━━━━━━━━━━━
駱統      ━━━━━━━━━━ 
留賛  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……

となっているのですが、
まず凌統より先に死んだはず(第一次北伐あたり)の駱統が、「凌統の死後(孔明の死後五年くらい)」にその兵を受け継いでいる。
しかもそれは夷陵の戦いの前である。
ついでに若かりし頃留賛が、5ツ6ツ「年下」の凌統に武の資質を見出されている。

う~ん? ……考えるほど頭が…。あ、なんかこういうパズルありますよねえ、「この四人の中で誰かが嘘を付いてます」というパズル。
凌操と凌統を間違えている、にしては年がズレすぎですし…。

もし玉川様のご指摘通りに建安年間に死亡したとして、「享年49」を信じると、父・凌操が戦死したとき三〇代!生年は一七〇年前後で、孫策より五ツ上!
逆に生年(父の死の時十五)を信じると、享年30前後!

うう~ん、ゴッキー(?)の間では解決されている問題なのでしょうか!?

松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 02:31:07)

ええと、こちらのほうは『三国志集解』から。
陳景雲という人が、やはり駱統伝などに注目してこの記事をおかしいとし、四十七歳の四は二の誤りだとしています。ちなみにこの陳景雲さんは凌操の死を第二次江夏征伐の203年としているので、没年は217年、魯粛と同年没です。やはり215年を境に彼の記録がぷっつり切れてるのは、217年前後に死んだということなんでしょうね。

玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 09:43:05)

こちらも! 47歳と27歳ったら、えらい違いではありますが…
なるほど、正史を頼りにしすぎるのは禁物だということがよくわかりました。
しかし、このように矛盾点があれば疑いようもありますが、自然な形で載っていられると気付かずにいてしまうこともあるのでしょうね。

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:55:31)

わわ、松竹梅様、救援ありがとうございます~!
で、ええと凌統! なんと。説によって20年もの差が!?
註や集解は、正史の矛盾点や不足を他の資料などで補う書物ですから、あきらかに元テキストが誤っている場合などはそちらを優先してよいハズ。となると、凌統の死は217年、三十にならずして早世した若武者、ということにしてもよいのでしょうね~!
正史を鵜呑みにするとこういう事態が起こるわけですね~…怖い怖い…。



[96] 恐怖!呉国超時空領域再び 投稿者:玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月07日 (火) 00時52分08秒
超時空領域、またの名をディメンジョンスフィアー。(by長瀬室長)
凌(当て字
)統の生没年に引き続き、またも呉に時空歪曲が発生しているようです。

粲について調べていたとき、顧邵に関する記述を読んでいたのですが

顧邵は顧雍(178-243)の長子ですが、「若くして死んだ」そうです。27歳で豫章太守になり、郡にあること5年で在官のまま死去、ということは享年32歳。その後任の太守について、呂蒙は孫権から相談を受けています。はて?

呂蒙…彼の没年も、219年の末なんだか220年になってからなのかはっきりしませんが、仮に前者だとすると、顧雍とまったくの同年生まれと言うことになります。(呂蒙は享年42歳)
その呂蒙よ
り早く32歳で亡くなった顧邵…計算によると、彼の生年は一番遅く見積もっても188年。顧雍11歳の時の子

供!?

方目を転じますと、顧邵の子の顧譚、顧承兄弟は「二宮の変」に巻き込まれ、張休とともに交州へ流されています
顧譚は
「流されて2年目に42歳で交趾にて死去」し、顧承も「(交州に強制移住させられ)37歳で死去」しています
弟はいま
いちはっきりしませんが、兄の顧譚が245年かその数年後に死去しているのは確かなようです。すると彼の生まれは200年少し後。
これを基準
に顧邵の生きた年代をある程度特定できそうです。
する
とますます気になるのが顧邵の父、顧雍の歳。彼は子、孫と違い、唯一生没年がはっきしています。243年に66歳で死去、すなわち生年は178年。
死去
した年は彼の伝以外に呉主伝にも書いてあるので確実でしょうが、生年が怪しいのでは…
どうも顧
邵の生年がすでに180年代ぐらいまで遡りかねないようですし。


玉川雄一[関東] > (2001/08/07(Tue) 00:52:41)

ちなみに顧邵は「孫権のはからい」で孫策の娘と結婚していますが、顧譚、顧承の母が彼女かは怪しいです。といいますのも、父の孫策自身が175年生まれ、その娘が200年を過ぎた頃に子供を産めたものか… 実は、顧邵には(孫策の娘より先に?)陸氏という妻もいたようです。

 整理しますと、
顧譚はどうやら200年少し後に生まれたらしい。
その父の顧邵は、おそらく孫策の死後にその娘と結婚した。
また、呂蒙より早く32歳で死去している。故に生年は遅くとも180年代と推測される。
しかし、顧邵の「父」の顧雍は178年生まれ。

よりによって、生没年がはっきりしているはずの顧雍まで怪しいというのも妙な話です。

やはりどこかのデータが間違っているのか? 私の計算違いというオチだったら恥ずかしいですが(*^_^*)
呉書って面白いですね。(そういうことか?)

松竹梅[北海道] > (2001/08/07(Tue) 05:51:49)

ここまであからさまにおかしいとなあ。もしかしたら『三国志集解』に何かヒントがあるかもしれないんで、今日大学にいって調べてみますね。あと、『呉書見聞』のほうに、救援を要請してみましょう。陳寿と韋昭、しっかりしてくれよ~

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/07(Tue) 22:07:18)

下に埋もれてしまった凌統スレのようにタイムテーブル作ろうとして断念!
このタイムパラドックスは何じゃ~! いや、パラドックスというより生年の記述の不具合!私的には、生没年と享年が明らかにズレてるとき、享年のほうが正しい気がします(;^_^A 「このとき46才だった」とハッキリ言われると、妙に説得力が…。
しかし顧雍の場合だと没年から逆算して得られる生年と、息子の推定生年の差が近すぎる…。ああ、また「この中の誰か一人が嘘をついてます」状態~!!
やはり顧雍の生年をあと10年早めれば全てが上手くゆく換算なんですが…。

>松竹梅様
そうですね~(;^_^A 確かに呉書見聞の御大方にもご出馬頂ければ、だいぶ楽になる、というか公論が出来上がって気が楽に~。凌統スレも上げときますね~。
それにしても当時に2ちゃんねるがあれば「先生、>>陳寿は厨房決定です!」とか罵られてたでしょうね~。この種の矛盾ほどツッコまれるモノはないですし…。あ、そういえば四方山ではあの超超超面白いあずまんが三国志スレをお教え頂きありがとうございました~(^^) これを機にあずまんが大王、読まれてみては?あんな良スレ見たことないです。

玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 01:08:39)

 今回はこんなカンジでしょうか。
   
呂蒙 ━━━━━━━━
顧雍 ━━━━━━━━━━━━
顧邵  …━━━━…
顧譚     ━━━━━━━━━━

呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ… 

孫ぽこ[] > (2001/08/08(Wed) 19:36:05)

はい。その役に立たない大御所がやってきました(;^_^A 

えー、この件についてですが、以前黄蓋の没年の整理をした時にも同じ事が起きました。どうやら呉書では【○○年にこういう役職についた】という記述の場合、あまり信用できないという気がします。が、この場合はたぶん顧雍の生年の方が怪しいですね。まさか顧雍さん年齢詐称していたのか・・・・・

孫ぽこ[北海道] > (2001/08/08(Wed) 19:39:32)

それと玉川雄一さん。最近よくお名前を拝見させていただいてます。すごい博識ですねー。今度ホームページにも遊びに行かせてもらいますね。

玉川雄一[関東] > (2001/08/08(Wed) 20:32:27)

いえいえ、私の情報源って、結局正史(筑摩の三巻本)がほぼ全てで、後は斜め読み(ですらない)した晋書程度ですから、あまり偉そうなことは言えないのですが…

ホームページでは大歓迎…はもちろんですが、こと三国志ネタにつきましては、最近こちらのぐっこさんのHPに入り浸りなもので私の所の内容はお寒い限りではありますが、追って充実させていく所存です。
私からも、貴方のHPにお邪魔させて頂きたいと思います。

japan[関東] > (2001/08/08(Wed) 21:56:23)

>呉書を読む限りでは、やはり顧雍の生年が怪しいように思えますねえ…

『呉書』顧雍伝の冒頭に「朔方郡から戻ってきた蔡ヨウが呉に赴いたとき、顧雍に学問と琴を伝授した」という記述があります。

蔡ヨウが朔方郡への流刑に処せられたのが178年の7月。
いつ頃朝廷に戻ったのかは不明でしたが、董卓伝の記述を見ると、董卓が太尉になった189年に招聘されるまでの十年間、呉と太山を行ったり来たりしていたようです。

従って顧雍が蔡ヨウに師事した時期は179~189年のどこか、というのはほぼ間違いないと思います。
――そう考えると、顧雍の178年生まれという記述は非常に怪しい。

よほどの神童でもない限り、十歳(もしくはそれ以下)にして、あの蔡ヨウから名前の一字を与えられるほど高く評価されるなんてことはないでしょう。
もしそうなら、「その時顧雍は僅か六歳であった」とか誇らしげに書いてあるはず。
やはりぐっこ様や孫ぽこ様の仰るとおり、顧雍は十歳か、下手したらそれ以上サバをよんでいるのでしょうか…??

玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:03:57)

>あの蔡ヨウから名前の一字を与えられる
註でいう、蔡ヨウ(雍に通じる)の雍の字をもらった、というヤツですね。
オマケに、蔡「雍」の賛「歎」で顧「雍」元「歎」って、それじゃ弟の顧徽の字の子「歎」はおこぼれかい!みたいな。

しかし、火を付けたのは他でもない私ではありますが、曲がりなりにも生没年がはっきり記述されているはずの顧雍がここまで疑われるのも可哀想な話ですね(^_^;)

松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 01:46:13)

やりました!顧雍問題は解決です!原因はズバリちくま正史の誤植!小南せんせ~;
実はこの問題を調べるために、大学図書館から『三国志集解』を借りてきたのですが、それを見ると、なんと三国志本文の顧雍の享年が76歳に。盧弼の『集解』の「霊帝の建寧元年生まれ」という文を見るまでもなく、ぐっこさんの仰せられたとおりに顧雍の年齢が10歳アップです。いや、ちくま本の落とし穴でした(汗)
 この調子で、凌統(当て字)問題、黄蓋問題も解決するといいなあ…

松竹梅[関東] > (2001/08/09(Thu) 02:04:12)

ちなみに、『集解』のほうには吾粲問題について書いてあり、どうやら吾粲=呉粲で間違いないようです。でもどこから官職の差が出てくるのかは謎でありますが。

玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 09:38:37)

なんと!ありがとうございます…(T_T)
調べてみれば分かるもので、というか、私もまだまだ知らないことがたくさんあるようです。
ところで、「ちくまの誤訳」だとすると、原文はどうなのでしょう?
大学の図書館に中華書房のヤツがありましたので、今度機会があったら見てみようかしら。
ところで、『三國志集解』とは度々耳にするのですが、どのような本なのでしょうか。
私も以前一度読んでみようと思ったこともあったのですが…手に入るようなものでしたっけ?

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:04)

「三國志集解」!欲しい!「華陽国志」と並んで! あ、まえ大学図書館で「さんごくししゅうかい」ありますか!――って言って失笑を買いました。「さんごくししっかい」が正解らしいですね(;^_^A
で、顧雍問題にもとうとう解決が~! ハイ、私も友人に貸してた三國志書籍全部を引き上げて調べましたが、徳間の正史全人物名辞典、潮出の演義大辞典ともに、顧雍の生年を168年としていました。まさに筑摩の落とし穴~!案外この種の誤植・誤訳が他にもあるかも~っ!?
それと吾粲=呉粲もほぼ間違いないですか~ッ!? うわあ、集解欲しい~!

孫ぽこ[北海道] > (2001/08/10(Fri) 04:49:39)

お、おでもほしいぃぃー、さんごくししっしっかい!!(山田たろー風)

できれば和訳しくくでー、誰がー(爆)

松竹梅[関東] > (2001/08/18(Sat) 05:22:42)

買っちゃいました、三国志集解!
そのお店にはあと1冊残ってましたよ~
あ、でも日本語訳がほしいのか…誰か翻訳してないかなあ

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/18(Sat) 23:01:26)

うわあ、いいなあ~!三国志集解…。どれくらいの文量でしょう!? やっぱり白文ですか?



[97] リターンオブ呉・超時空領域 投稿者:孫ぽこ[北海道] 投稿日:2001年08月08日 (水) 22時15分46秒
それでは、没年・生年詐称疑惑第三弾を^^;。今回の被告は呉の大物・黄蓋ジイそのです。

蓋は赤壁後は武陵や長沙の異族統治を中心にやっていたとあり,そこから考えると,武陵を呉が領有したのは,呂蒙による関羽挟撃以降のことなので,219年の段階では生きています。その後,武陵→長沙の反乱を鎮圧した後,死亡しているので219年から229年の間に死んだと言うことに

りますね。

ですから、個人的にはもし蓋が夷陵の戦いの頃に生きていたなら,おそらく戦線に参加したはずだと思うので,たぶん219年から222年の間に死去した思っていまし

た。

と・こ・ろ・が・・です

孫皎伝に「黄蓋と兄の孫ユとが死去すると、彼らの配下の軍をも併せて孫皎が指揮を執った。」という記述があります。

ここを
読んであれれれ??と違和感を感じたのですよ。孫ユが死亡したのが215年であり、関羽挟撃の前で武陵はまだ呉領ではあません。また孫皎が死亡したのは219年で

す。

となると・・・全ての記述が正しいとすると下記のようになり

ます。

黄蓋は呂蒙の関羽挟撃のあった219年、十月まできていた。でその直後に武陵の太守になって数日のうちに武陵の乱を平定してその数日後には長沙の反乱の平定をして偏将軍に任じられた。所がその後すぐ死去。そこで孫コウが軍を引き継いだが、その孫コウも219年のうちに死んだ

・・・・

んと黄蓋も孫コウも没年どころか、死んだ月まで特定できる事になります^^;。こんなアホな事

ない^^;。

という事でこれも誰かが嘘ついています^^;。さて犯人は誰だ??


玉川雄一[関東] > (2001/08/09(Thu) 00:20:27)

ありがとうございます。アテになるとも思えませんが、参考までに三國志8で見てみますと…
一年刻みのシナリオが思わぬ所で力を発揮(^_^)

注目の219年、この年は7月から開始されますが、黄蓋は登場しません。死亡扱いです。
孫ぽこさんが仰った通り、この時点ではまだ呂蒙の荊州攻略は開始されていません。というか、ゲームでは江陵に武将が多すぎ(^_^)
このままでは、呉軍はうかつに手を出せません。

そうそう、ようやく(なぜか)えぢたー各種が入手できましたので、没年の設定を見てみますと、黄蓋は219年没ということになっています。

このゲームでは、「没年」と設定された前の年まで登場しているようです。
すなわち、諸葛亮の没年は235年に設定されていました。呂蒙は220年。孫策は201年。
面白いのは、220年1月に死去した曹操が、この年のシナリオは1月開始にもかかわらず登場しない(君主は曹丕)こと。
曹操の没年は「220年」になっていました…いや、それは確かに正しいといえば正しいのですが、ゲームシステム上は「221年」没で220年まで登場、にはなっていないのですね。
また、シナリオが存在しない235年以降に死去した人物については、実際の没年が設定されているようです。

話が大分それましたが、「三國志8」においては、黄蓋は218年ないしは219年に死亡したことになっているようです。ちなみに生年は154年。

凌統の生没年は189-237、何かと話題(笑)の顧雍は178-243。

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:33)

黄蓋まで!?(;^_^A
なるほど、黄蓋は武陵太守任命後に死亡とありますね~。武陵が呉の領土になったのは関羽の死後だから、当然219年以降。が、黄蓋死後の兵を受け継いだ味好漢・孫皎は、呂蒙と同じく関帝に祟り殺されてます。これまた219年。219年というのは呉にとって転機の年ですね~。荊州を得た代償として、名将・呂蒙、孫皎、そして黄蓋を喪ったことに…。

しかし、部長の仰るとおり、いかにもセセコマシイというかあわただしいシナリオになってしまいますよね~。このままでわ。
この場合、年度ではなく状況を考えてみましょう。
本文では、「武陵の蛮夷叛乱し、城邑を攻守す。蓋を以て太守を領せしむ」
「蛮人が叛逆して立て籠もったので、黄蓋を太守として派遣した」という事です。……なんだか、関羽と命を削る攻防のすえ領有!…というカンジがしないような…? 妙にノンビリしている気もします。
ついでにいうと、この記述は「武鋒中郎将を拝す」のすぐ後に続きます。筑摩の正史ではこの就任を赤壁の記述とくっつけてますが(「赤壁の功績によって武鋒中郎将に任じられた」という具合に)、手持ちの和刻本では赤壁のあと註を挟み(トイレのあれ)、一行あけてから「拝武鋒中郎将。武陵蛮夷……」というカンジで続き、赤壁とは段落が異なります。
つまり黄蓋が武鋒中郎将に任じられてすぐに武陵太守になった、と解釈できなくもないです。

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/09(Thu) 22:56:48)

となると、いつ孫権は武陵を領有したか、ということになりますね~。最終的に孫呉が荊西を領有したのは関羽の敗死後ですが、その前に、いちど長沙や武陵あたりを暫定統治した時期はなかったでしょうか?
黄蓋が武陵太守ながら鎮圧した長沙の益陽県というのは、地図で見る限り洞庭湖の西南に位置し、かなり武陵に近く(手持ちの地図では衡陽郡)、湖を挟んですぐ北は周瑜の勢力圏である南郡です(ちなみに関羽軍が魯粛軍と対峙したのもこの益陽県です)。

……以上、記述の章句と地理的環境から類推するに、黄蓋が「武陵太守」であった時期は、必ずしも「関羽の死後」でないかもしれません~。周瑜が劉備に公安を貸す前、呂蒙の荊南攻撃が始まる前、魯粛との予備交渉がまとまる前…。

ああ、我ながら飛躍した理論だ~。

孫ぽこ[北海道] > (2001/08/10(Fri) 04:53:48)

私もそれを考えていました。つまり呉は関羽挟撃以前に武陵全部でなくても一部を支配していなかったかと?

つまり魯粛の荊州東西分割以後です。確かショウ水を境に・・とあったと思うので、そのショウ水というのがどこを流れているのか、武陵の一部が呉側に来ていたのではないか?と。可能性はあるような気がします。ぜひ誰か調べて・・・お願い・・・あう・・・(泣)

おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:40:21)

わっかりました。孫ぽこどの!
えっと、漢書地理志をつらつら調べていると、武陵郡の記述がありました。「高祖置く。戸数34177、人口185758、県18。」ふむふむ・・・・
索県は現在の湖南省常徳市東北60里・・・ということは洞庭湖の西岸近くか・・・。孱陵は現在の湖北省公安の南・・・?公安と言えば、劉備が赤壁のあと周瑜が南郡に居座ったため長江の対岸に本拠地を定めた、あの公安ではないですか!ということは、武陵郡は長江と[シ元]水と洞庭湖に挟まれた地域のことなのか~。なるほど~。
と、言うことは長江と洞庭湖に挟まれた広大な湿地帯(雲夢沢)は武陵郡に含まれていた・・・。あれ?湘水がスゴイ遠いぞ~。っていうか武陵郡と関係ないぞ~。湘水の西側(益陽・湘潭など)はぜんぶ長沙郡だしな~。
[まとめ]武陵は湘水と関係なし。しかし、黄蓋が鎮圧した武陵蛮夷とは雲夢沢もしくは洞庭湖の賊かもしれず、そこは武陵郡である。長江の南岸は武陵郡で、もしかするとそこら辺一帯は呉が領有していたのかも??黄蓋が赴任したのはそこら辺??

って全くまとまってませんね。三国迷でもない私が慣れない事をすると、こうなってしまう^^;ごめんなさい。これは明らかに間違ってる等ありましたら、教えてくださいまし~。お願いします。
とりあえず出直してきますm(_ _)m

おばら[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:53:21)

う~ん。やっぱ↑のはオカシイ。公安は劉備領ですし。
え~ん、だれかたすけて~(泣)

MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 09:54:24)

面白そうなのでROMらせて頂いていたのですが、お助け船をば。。

湘水は、おそらく「長沙のすぐ西を流れ、桂陽に至る長江の支流」ではないでしょうか?
これはちくまの地図にもくっきりと記してあるので確認して頂けると思います。
現在、この支流の名称は「湘江」で、ここから単に『湘水=湘江』を連想しただけですが、
中国の地名は今でも結構残っているので、おそらくは間違い無いかと。

ちなみに、『湘水=湘江』ならば、長沙の西10kmくらいの所を流れているので、、、
湘水で領土を分けたなら、武陵郡は全然入らないでしょうねぇ。。(^^ゞ
ありゃ!? 助け船になってない??(爆)

あと、御承知かと思いますが、まだ領有していない地域の太守に任命される事もありますよね?(^^)
この場合も、同じくである可能性は捨てきれないと思いますよ。
『張飛の司隷校尉任命』などは極端な例でしょう♪

MOS[関東] > (2001/08/10(Fri) 10:00:54)

あ、、、直前にカキコされちゃいましたね。。。あはははは(^^ゞ

MOS[外国] > (2001/08/10(Fri) 10:38:37)

連続カキコ申し訳ないですが、ちょっと補足~~♪

[シ元]水は洞庭湖から武陵を経て舞陽に至る河で、こちらも同じく現在の名称が[シ元]江です。
ちなみに中国語名はユワンコウ。でも日本語読みはシスイ、、、分からん!!(爆)

今、我ながら調べてみますと、極端な仮説を思い浮かんじゃいました。。。(^^ゞ
黄蓋が乱を平定したおかげで蜀から投降してきた巴・醴・由・誕などですが、
これを『巴=巴丘』、『醴=醴陵』とすると、、、黄蓋が赴任した地域は武陵ではなくなってしまいます(笑)

そもそも、『巴』と言われると『益州の巴』を思い浮かべたくなりますが、
いくらなんでも、武陵の異民族の乱を平定しても『益州の巴』から投降してくるのはオカシイでしょう。。6(^_^;
んで、南荊州の近くを見てみると、(どっかの注にもありましたが)『巴丘』は2つありまして、
洞庭湖の辺の『巴丘』と、豫章郡の南西に位置する『巴丘』、となります。
また、『醴』は武陵の近くには無く、長沙郡(長沙の東南)に『醴陵』という地名があります。
そして、『巴丘』と『醴陵』の間(つまり長沙と豫章の間)には標高1000mほどの丘陵地帯がそびえるんです。
(これらの地名は、全てちくまの地図に載っています)
こういう所って、いかにも反体制派の民衆がいそうな気がしません?(笑)
豫章の周辺は常に呉の内患であったワケですし♪

つまり・・・ 陳寿の勘違いか、もしくは勘違いされ易い書き方をしてしまったか、
もしくは、、、またもや、ちくまの訳ミスでは?(笑)

ちなみに、こうすると、黄蓋ジイがもうちょっと先に亡くなっていた可能性も出てきますよね?(^^)

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/10(Fri) 23:08:14)

ではこちらは後漢書郡国志から……「城12、戸数46,672、人口250,913」お、少し増えてますね(;^_^A 
それはそうと、まず「湘水」ですね~。これはMOS様の仰るとおり洞底湖のど真ん中から真南に、武陵と長沙の間を流れています。この湘水を国境としたのならば、215年の魯粛の東西分割案では武陵はどう考えても劉備領です。

で、またまたMOS様がご指摘されたとおり、「蜀から投降した巴・醴・由・誕などの部族」というのは、別に蜀(益州)在住の諸部族というわけではなさそうですね。まあ劉璋の対荊州経営の一環として指嗾されていたのかもしれませんが…とにかく、この諸部族というのは、洞庭湖近辺に散らばっていたと見て間違いないと思います。
……となると、やはり黄蓋は不穏な武陵を踏み固めるため太守として赴任し、ついでに長沙や洞庭湖(当時はたいしたサイズでなかったらしいですが)近辺の部族を平らげて回った、ということになりますね~。

しかし、215年以降、武陵は劉備の土地。となると、209~210年の、荊州南部が混沌としていた時期が怪しいかもしれません。あの当時、劉備が正式に領有していたのはあくまで公安などの「長江南岸(以南ではない)の土地」ですし…。実情は孫権領荊州に浮かぶ島国みたいなテリトリーだったかも。
そういえば、周瑜と魯粛が食邑として与えられた劉陽、漢昌、下儁、州陵の四城は、いずれも長沙郡内にありますね~。
劉備軍が金旋や韓玄を追っ払ったとはいえ、孫権の勢力も荊南全域に張り出していたのでは~。

松竹梅[関東] > (2001/08/14(Tue) 00:31:26)

孫権は荊州と一緒に黄蓋も貸していた、とかはダメですね…

マジな話、読んでいてこれは?と思ったのが、
一、黄蓋が武陵太守のはずなのに長沙郡益陽県の反乱を鎮圧している…ただし、この手の越権行為を孫堅もやってるから、その真似事かもしれない。
二、MOSさんの指摘どおり、巴・醴・由・誕のうち巴は巴丘(集解によれば、おそらく洞庭湖のほう)、醴は醴陵のことらしいです。でも、なぜにこの地方の異民族は劉備勢力に心服していたんだろうか。
 さらに疑問を増やしてしまった…役に立てず、申し訳ないです。

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/15(Wed) 00:32:27)

う~む。この異民族が謎ですよね~。黄蓋が定説通り関羽敗亡後に武陵太守となったのならば、劉備の支援を受けていた叛乱なのでしょうが、異説「赤壁直後説」をとると、この異民族を支援していたのは劉璋勢力ということに。
武陵と言えば五谿蛮ですが、彼らの動向も気になります。黄蓋がいた間は大人しかったのでしょうか?

MOS[外国] > (2001/08/17(Fri) 01:34:58)

全く意味は無いんですが、なんとなく見付けてしまったので。。
『呉の丞相』顧雍は丞相になる前、太常になっているのですが、
同時に醴陵侯に任じられているようです。
「封を進め」と書いてあるので、ある程度大きい県だったんでしょうね♪

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] > (2001/08/17(Fri) 23:42:11)

顧雍が醴陵侯ですか~。となると県侯ですから、相当に高位ですね!さすが顧雍!
ところで郡国志で見ると醴陵県には、仙人ゆかりの石室があるとかなんとか…。


Cafe日誌No.56
2001年10月19日金曜日 23時45分



他の客も酔いが回ってきた頃に、わりとよく来る孫ぽこが入ってきた。最近、肉体に衰えを感じると嘆いているらしい。ポン引きは私にグアバジュースを注文してこう言った。
ポン引き 孫ぽこ
「おひそです。劉ヨウ伝を書いているうちに不思議な事にぶちあたりまして、カキコさせてもらうことにしました。ぜひ玉川さん・ぐっこさん・松竹梅さんなど三国迷の大御所様たちのご意見を伺いたくm(_)mペコリ。

というのは、【劉ヨウの揚州刺史赴任当時の豫州太守は誰か?】です。
まず、華[音欠]は馬日テイにより豫州太守に任命されており、馬日テイが、諸国を放浪し、徐州に行ったときに華[音欠]を豫章太守として任命しており、ほぼ孫策が懐義校尉に任命された時期、つまり193年~194年の頃と思われます。

ところが、豫章太守には、【諸葛亮伝】【劉ヨウ伝】などで、劉表が指名した諸葛玄と漢の任命した朱晧の間で紛争が起こり、諸葛玄が豫章太守の座を追われ、劉表の元に落ち延びた事、さらに朱晧は、劉ヨウが孫策に敗れ、豫章に落ち延びるまで、太守として存在し、サク融によって討されています。

???時期的に華[音欠]の豫章太守赴任と朱晧の豫章太守任命が重なってませんか??

孫ぽこ的解釈では、華[音欠]の赴任した豫章は長江流域で、朱晧の赴任した豫章は南部・後の廬陵郡あたりではないかという気がするのですが・・・・ご意見求めます!!」

孫ぽこは何が面白かったのか、自分の話で爆笑していた・・・・・。
あたり障りがないように私はこう答えた。
マスター ぐっこ     2001年10月20日土曜日 01時38分
「お、大御所なんてとんでもないです!とくに呉については素人同然です…。
というわけで、勉強がてら調べてみることに。

う~~~~ん!!!
た、確かに重なってますよね…。
うーーーーん。とりあえず、華[音欠]の太守の時期ですが…。
読めば読むほど矛盾点が出てくる出てくる(;^_^A
ええと、先に言いますけど、はっきりと結論は出ませんでした!だから、解ったことだけ以下に書きますよ~!

■彼が太守に任命されたパターン。
「馬日テイ(朝廷)説」……華[音欠]伝
「劉ヨウ説」…………………同註・江表伝

■太史慈伝では、豫章太守華キンが、死んだ劉ヨウの息子を手元に引き取り、孫策を迎え入れるかどうか悩んでいる、という記述が。華キン伝にある、「劉ヨウの死後、彼の軍民たちが華キンを慕い、君主に仰ぎたがった。だが彼はそれを断った」というのが、ちょうどそのあたりかもしれません。

■太史慈は、これから間もなく孫策の命を受けてハ陽・豫章・廬陵を偵察。この記述から、いちおう華キンの勢力はこの三郡に及んでいたと思われますが、実情としては
「華キンはなるほど立派な名士だが、廬陵は勝手に独立し、ハ陽は民衆達が華キンの任命した役人を追い出している。そしてすぐ近くの海昏でさえ彼に従わない」
…とあります。
まあ、とりあえず華キンは豫章の郡治・南昌にいたことは間違いなさそうです(海昏の隣だから)。
で、この太史慈の報告を受けて、孫策は豫章接収を決意。最終的には虞翻を使者にして華キンを降伏させてます。

■諸葛亮伝を見てみますと、やっぱり諸葛玄は南昌に赴任。その後朱晧、サク融も南昌に太守として君臨。サク融を斃した劉ヨウも、おそらくは南昌に滞在。
その劉ヨウの息子を、同じ南昌城で華キンが引き取り、太守として孫策と対峙。」

とにかく、ここは一旦相手を落ち着かせなければならない。
マスター ぐっこ     2001年10月20日土曜日 01時51分
「……こう見てみると、諸葛玄やら何やらの騒ぎが収まった後、後援者・劉ヨウによって名実ともに豫章太守に任命された、とするのが道理かもしれません…。彼が単身ではるばる徐州から豫章まで直行したとは思えんないからです。
劉ヨウは孫策に追われて豫章付近まで敗走→すると豫章を巡り諸葛玄と朱晧が対立中→劉ヨウはサク融を派遣して朱晧を援護→だがサク融が朱晧を殺して自立→キレた劉ヨウはサク融を逐い豫章入り→そこに馬日テイが任命したという豫章太守華キンが随行→劉ヨウが州牧の権限で太守職に任命→劉ヨウ病死……。

中央では、華キンをいちど太守に任命したものの、すぐさま現地に近い朱晧を任命し直した…ということでしょうか?何しろ李カク・郭汜のやることですし、馬日テイらが宣撫のために任命権を持って地方巡業(;^_^Aしてた時代ですから…。

なんだか頼りない結論になってしまいました(;^_^A 引き続きどなたか詳しい方、ご教授お待ちしてますm(_ _)m」

黒竜が変なことを言い出した。・・・・職業不明らしい言葉だ。
職業不明 黒竜 2001年10月22日月曜日 22時33分
「この三人って任命元がそれぞれ違うんじゃないでしょうか。
華[音欠]→朝廷(馬日テイ)
朱晧→朝廷(長安)
諸葛玄→劉表(袁術?)という感じで…

馬日テイが徐州に赴いたというのが陶謙を徐州牧・栗陽侯に封じるため
と仮定すると193年。
ほぼ同時期、朱晧の親父の朱儁が長安政権に帰参して太尉録尚書事に任命されてます。
懐柔のために息子を取り立てるのは充分ありうると思います。

あるいは華キンのそれは周術の死による臨時の任命で正式なものではなかったのではないでしょうか。
後漢書にも馬日テイの足どりがはっきり書かれてないので(馬融伝にも名前しか…泣)想像の域を出ませんが…」

玉川雄一という金貸しが話に入ってきた。こういうところは抜け目がない。
金貸し 玉川雄一     2001年10月22日月曜日 22時39分
「私はソースが三国志しかありませんのでお力添えできないのが恐縮ですが…

朱晧って朱儁の子供だったんですか! 初めて知りました。
後漢書辺りに載っているのでしょうか…」

孫ぽこはこうも言った。
ポン引き 孫ぽこ 2001年10月23日火曜日 00時43分
「w( ̄o ̄)w オオー!大御所の皆様ありがとうございます。

なるほどねー。やはり中央の混乱により朝廷の指名した朱晧と馬日テイの指名した華[音欠]が重なったとみてよいのかもしれませんね。

となると華[音欠]が豫章にいたと言っても実権はほとんどなかったという太史慈の報告を考えても、華[音欠]が実際に赴任したのは指名よりかなり後、実は朱晧がサク融に殺されてから・・とみていいかもですね。

そうなると劉[月缶系]は丹楊を孫策に追われてからかなり長い間豫章で勢力を保っていたのでしょうか?

うーん^^;このあたりよくわかりませんね^^;」

私は前にもした話をもう一度繰り返した。
マスター ぐっこ     2001年10月24日水曜日 01時17分
「黒竜様、アドバイスありがとうございます~!
私も玉川様と同じく、朱儁と朱晧の関係を知りませんでした…。
というわけで朱儁伝を見てみると、おお、最後の方に「子の晧、亦た才行有り。官豫章太守に至る」と一行だけ記述が! ううむ! 全く気づきませんでした! 「資料は持ってるだけじゃダメ」の良いお手本です(;^_^A

劉ヨウは、仮にも揚州の牧ですから、それなりの勢力を保ったまま闘争した様子。華キンも「私は劉牧殿に豫章太守を任され…」と述懐してますから、いちおう勢力が及ぶ範囲内では君主だったようですね~。
豫章、それも郡治の南昌県に関しては、最後まで領有してたのでしょう。」

カウンターの隅で飲んでいたMOSが天井を見ながらつぶやいた。
ヒモ MOS     2001年10月26日金曜日 15時11分
「ちょっと興味深い人物を発見。。

 朱儁は会稽郡上虞県が本籍の人物(孫堅伝参照)ですが、孫亮の時代に朱育という人物がいたそうです(虞翻伝参照)。そして、彼も会稽郡の出身です。ただし、朱育は上虞県の隣の山陰県なのですが(^^ゞ
 この場合って、同族である可能性ってあるんでしょうかねぇ?? 呉郡の朱子とは別であるのは分かるのですが。。。
ちなみに、朱育は朱儁の事を『朱公』と呼んでいたようです。」

明らかに他の客の迷惑になりそうだったので、私はこう言った。
マスター ぐっこ     2001年10月26日金曜日 21時53分
「なんと!? 朱育!? というわけで調査。…なるほどお、会稽山陰の出身で、学者肌の人物だった様子。人を巧みに評する事で有名だが、その人物評の中には「朱公(朱儁)は神の如き武勇を持ち…」という具合に朱儁をきわめて高く評価している、と…。
確かに、地理的に言っても、朱儁と関係ある人物かも。朱儁伝見るかぎり、彼も相当の苦労をして這い上がってますし、「同郷同族の英雄」という目で見られていたんでしょうね~。」

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