ご先祖・子孫を探れスレまとめ【2】

ご先祖・子孫スレッド!【2】

Cafe日誌No.41
2001年09月22日土曜日 12時08分

まだお日様が高いうちに、また飽きもせずに玉川雄一がやってきた。何をして生活してるんだろう?裏の世界しか見てこなかった、世の中にはそういう人間もいる。自分が愛していたのは素敵なレディだけだったんだと言い始めた。
ノミ屋 玉川雄一   
「★ 丁奉の子発見!? ★

晋書の三国志関連人物を洗うべくパラパラとめくっておりますと、思わぬ発見が!?

これまではろくすっぽ目にも通さなかった「志」の部分を読んでいましたら、五行編に怪異現象じみたお話が。こりゃ面白そうと見ていますと、「豕禍」の項に呉の丁奉が登場!

三国志呉書丁奉伝では、彼の死後孫晧によって家族が強制移住されたと書かれていますが、実はそれは「豕禍」が原因だった?
なんでも、丁奉の営に野豕が入ってきたことがあったそうで、遺族の災難もそれが原因だろう、と。

そして、発見! 晋書の例の件には、孫晧によって丁奉の子の丁温が殺されたとあるようなのです!
呉書には載っていない丁奉の子…ただいま、「解體晉書」さんで鑑定を依頼中であります。

うーむ、列伝だけでなく、「志」もあなどれませんな…」

私はその場を逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
あたり障りがないように私はこう答えた。
マスター ぐっこ     2001年09月23日日曜日 23時38分
「なんとっ! 三国志に名の無い人物! 丁奉の子の丁温! しかも孫晧に誅されてる…。これだから晋書ってやつは~!
こりゃあ探せばウハウハですな~!どんな人物がどんなところから飛び出して来るやら…。
正史で馴染の「索引探し」が出来れば随分楽でしょうが…。いいな~!
あ、私は引き続いて後漢書と格闘中。…漢文、嫌いです。」
玉川雄一はさらにこう言った。
ノミ屋 玉川雄一     2001年09月24日月曜日 21時54分
「鑑定結果出ました!
やはり丁温は丁奉の子と考えて良いそうです!
とはいえ晋書でも登場はここだけだそうで、結局どんな人だったかは分からず終い。
ただ分かるのは「孫晧に誅された」ということだけ。
呉国の二代目は不運な末路か消息不明のどちらか(が多い)ですが、彼もそれに新たに加わった一人でした…
ほかにビックリ発見がないか、さらに探ってみるとしますか!」
こういう場合は適当に相槌をうっとく。
マスター ぐっこ     2001年09月25日火曜日 22時31分
「む! あちらでも丁奉の子と出ましたか!
名前だけでも、三国志にない情報が記載されてるなんて羨ましい!
むー、孫ぽこ様あたりも悔しがっておられるかも…。
本当に呉の二代目、不遇ですよね~。全部孫晧のせいでないにしても…。」


Cafe日誌No.47
2001年09月30日日曜日 18時12分

店も繁雑な賑わいを見せる頃、わりとよく来る左平(仮名)が入ってきた。着やせはするが、体には自信があるらしい。左平(仮名)はいかに娘というものが素晴らしいかを主張し始めた。
ポン引き 左平(仮名) 
「「三国志全人名事典」から、姓または氏が同じというだけで「ひょっとしたら?」というご先祖候補の有名人をかたっぱしからピックアップしてみようかと、、。なお、出身地などは省略しておりますので、根拠は全くといっていいほど、ないです。また、韓・魏・趙、王・張・李・劉・曹・孫といったところは人数が多すぎるので省略。
【い】尹~ 尹佚(いんいつ:史佚とも)。周王朝初期の史官。成王がたわむれで弟の唐叔虞(晋国の祖)を「封じる」と言ったのを「そのとおりになさる様に」と諌める。「天子に戯言があってはならないのです」というのがその理由。→『重耳』(上)
・尹黙、尹賞など。
【え】衛~ 衛青(えいせい)。前漢・武帝の衛皇后の弟にして、大将軍。匈奴との戦いで戦功をあげる。彼の死後、巫蠱の乱(ふこのらん)で一族は滅んだはずですが、あるいは、、。→『霍去病』『中国傑物伝』
・衛カン(王に灌の右側)、衛茲など。
【え】閻~ 閻楽(えんらく)。秦の宦官・趙高の親戚。二世皇帝・胡亥を自殺に追い込む。それだけ。→『小説十八史略』
・閻圃など。
【か】華~ 華元(かげん)。春秋時代中期・宋の宰相。出目で太鼓腹という愛嬌あるキャラクタ-。晋・楚二大国の和平を斡旋。→『華栄の丘』
・華キン(音に欠)など。
【か】カイ(萠にリ)~ カイ通(かいとう)。韓信に「天下三分」を説いた説客。→『史記の風景』
・カイ越・カイ良兄弟。
【か】霍~ 霍光(かくこう)。前漢の昭帝・宣帝を支えた実力者。「関白」の語源でもあります。彼の死後、霍氏は滅ぼされているはずですが、あるいは、、。→『霍光』
・霍峻、霍弋親子など。

私はその場を逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
左平(仮名)は、口早にこう言い足した。
ポン引き 左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 18時24分
「もう一つ、注意事項。①斉・呂・許・申及び姜という姓・氏は全て羌姓と考えられ(斉・呂・許・申とは周代にあった羌族の国。姜は羌が転じたもの)、太公望につながり得るので、省略。②陳・蔡なども、同様の理由で省略(では周・呉・越・楚・晋・秦・宋・鄭・魯・衛などは、というツッコミはご勘弁を)。」
左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。
ポン引き 左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 18時44分
「【く】屈~ 屈原(くつげん)。名は平。原は字。戦国時代後期の楚の政治家。秦の(というより張儀の)策謀によって失脚し、『離騒』を著す。後、汨羅(べきら)に身を投げる。→『中国詩人伝』
なお、昭・景・屈氏は楚の名族だそうです。
・屈晃など。
【け】刑~ 巫臣(ふしん)。楚の荘王に仕えた名臣。後に、絶世の美女・夏姫と結婚し、晋に亡命。そこで刑の地に封ぜられ、刑氏を名乗る
。ただし、この家は後に途絶えているはずなのですが、、。→『夏姫春秋』『鳳凰の冠』
・刑ギョウ(禺に頁)など。
【け】郤~ 郤缺(げきけつ)。春秋時代・晋の宰相。父の郤ゼイ(草かんむりに内)に従い、文公・重耳に反旗を翻すも、後に許される。文武に優れ、徳に篤いという、有能な人格者。彼の直系は、孫の代に滅ぼされているのですが、郤一族は大きいから、あるいは、、。→『沙中の回廊』
・郤正など。」
左平(仮名)は話が長いので有名だ。
ポン引き 左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 20時00分
「【こ】伍~ 伍子胥(ごししょ)。名は員。子胥は字。楚の名臣・伍挙の孫。父と兄を楚王によって殺された為、呉に亡命し、楚王の屍を鞭打って復讐したという。後、讒言を信じた呉王によって自殺させられ、屍は長江に流された。なお、彼の子は斉の鮑氏に託されたという。伍子胥=孫武という説もあるとか。→『小説十八史略』
・伍朝など。
【こ】高~ 高固(こうこ)。春秋時代・斉の名族。斉が晋の大臣・郤克(郤缺の子。容貌が醜悪だった)を辱めた直後に晋が主催する会同(国際会議)に出席せざるを得なくなったが、郤氏の報復を恐れて引き返す。なお、彼にかわって会同に出席した事で、晏弱は一躍有名になり、後に彼の子の晏嬰が宰相の位に登るきっかけとなった。→『晏子』
高柔・高幹など。
【こ】国~ ①子産(しさん)。春秋時代・鄭の名宰相。孔子に敬仰された、当代随一の知識人。一代改革を断行し、初めて成文法を作った人でもある。氏名はふつう公孫僑といわれるが、彼の父の字が子国であった事から、彼の家は国氏ともいわれる。→『子産』
      ②国左(こくさ)。春秋時代・斉の名族。なかなかの辣腕家であったが、崔杵の策謀にかかり、粛清される。→『晏子』
・国淵、国泰親子。

今は亡き玉川雄一の言葉をふと思い出した。
売人 玉川雄一     2001年09月30日日曜日 20時10分
「遡りますか! 意外なのが判明すると楽しいですね。
で、ご協力できないのが恐縮ですが…
高柔と高幹どうしも縁続き(ちょっと遠いけど)らしいんですよね。
何となく意外でした。やっぱり高幹もただもんじゃありませんのね。」
左平(仮名)は話が長いので有名だ。
ポン引き 左平(仮名)   2001年09月30日日曜日 21時00分
「【さ】崔~ 崔杵(さいちょ)。春秋時代・斉の人。斉を強国とした名臣であったが、斉公が妻を奪おうとしたのに対して激怒し、ついに斉公を殺害する(この直後、「崔杵弑其君」という記述をめぐって史官と対立)。数年後、彼の一族は滅びるのですが、彼の子の一人は魯へ亡命し、生き残ったそうです。なお、『世説新語』には、晋代にその子孫の崔正熊という人物がいたという記述があるとか。→『晏子』
・崔烈、崔林、崔エン(王に炎)など。
【し】荀~ 荀林父(じゅんりんぽ)。春秋時代・晋の宰相。名将・士会と同時代の人であるが、割と温厚かつ平凡な人。彼の子孫が中行氏を、彼の弟の子孫が知氏を名のる。→『沙中の回廊』
・荀彧、荀攸など。
【し】淳于~ 淳于コン(上は髪の上部、下は几)(じゅんうこん)。奴隷出身。人の心理を読むのに長け、ユ-モアに富んだ人。確か、彼の子孫の一人に、かの鑑真和上が。→『小説十八史略』『反骨列伝』
・淳于瓊など。
【し】上官~ 上官桀(じょうかんけつ)。前漢の武帝の護衛。武帝が崩ずる際、霍光らとともに後事を託される。後、霍光と対立し、一族もろとも滅ぼされる。しかし、あるいは、、。→『霍光』
・上官崇など。
【と】東方~ 東方朔(とうほうさく)。前漢の武帝の時代の人。博学多才のユ-モリスト。塚本靑史氏の作品では、体を自由自在に折り曲げる事の出来る長身の美男という設定。→『霍去病』
・東方安世。
【と】董~ 董狐(とうこ)。春秋時代・晋の史官。趙氏が晋公を殺害したのを「趙盾弑其君」と記した(趙盾自身が晋公を殺したわけではないが、一族の者が起こした事件に対し、趙氏の総帥であり、かつ亡命直前とはいえ一国の宰相であった趙盾にはそれを止める責任があったとみなした)事で孔子に賞賛される。→『孟夏の太陽』
・董遇など。
【は】白~ 白起(はくき)。戦国時代・秦の常勝将軍。長平の戦いでは、趙軍45万のうち5万を戦死させ、残る40万をすべて穴埋めにして殺したという。後に自殺を命じられる。→『白起』
・白波など。
【は】樊~ 樊カイ(口に會)。漢の高祖・劉邦の護衛。劉邦の正妻・呂氏の妹の夫でもあります。彼と呂氏との間の子は呂氏が滅ぼされた際に殺されていますが、他はどうなのか、、。→『小説十八史略』
・樊稠など。
【ほ】鮑~ 鮑叔(ほうしゅく)。名は牙。叔は字。春秋時代・斉の人。「管鮑の交わり」で知られる。→『管仲』(現在連載中との事。著者は、もちろん、宮城谷氏です)
・鮑信など
、、他にもあるのでしょうが、だいたいこんな感じでしょうか。」
こういう客はどう返事していいものか悩む。
マスター ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時26分
「うわあ、これはまた膨大なリストアップありがとうござます~!左平(仮名)さま!
中国の思想として、同姓を遡れば元はひとりと換算するそうですから、上記の人物達はそれぞれ共通の先祖を持っていたと考えられてたでしょうね~。
で、比較的近い血族を捜すのにまず見るのが本籍の所在地ですが…。まずピンと来るのが、衛青━衛カンのライン。出身地は隣同士です。襄陽のカイ兄弟については、カイ通の子孫であると明記されてますね~。
郤正も河南の出身ですから、郤氏の血脈であるっぽいです。国淵、国泰も旧斉領の辺境・楽安出身ですので、国左の血を引いてるかも。あと、荀子は潁川荀氏の直系の先祖の様子。
……う~む。ざっと先祖の氏を紐解いただけでも、けっこう春秋以前の歴史と三国志が繋がるものですね~!」
逃げ出したい気持ちを押さえ、私はこう返事した。
マスター ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時29分
「あ、高柔は高幹の「従弟」あるいは「叔父」のようです。家系図を見る限り叔父のようですが…。






┃━┳━┓
靖 昌 賜
┃   ┃
柔   躬
    ┃
    幹

ふ、IEで見るとまたズレるんでしょうねえ…。LINUXなら大丈夫なのに…。」

おばらという職業不明が話に参加してきた。この優男は誰にも相手にされていない。
職業不明 おばら   2001年10月01日月曜日 04時01分

左平(仮名)さん、はじめまして。おばらと申します。
樊カイの子孫についてですが、
呂シュ(呂后の妹)との間にできた嫡男の樊伉は、呂氏討滅のドサクサに紛れて母と共に殺されてしまいます。
しかし、樊カイには庶子があり、樊市人が家を継ぎました。29年して樊市人は死に、子の樊他広(もしくは樊佗広)が継ぎ、6年して平民におとされました。
その後も細々と家は続いたようで、王莽に毒殺された平帝の時(紀元2年)に、樊カイの玄孫の子の樊章が祖先の舞陽侯の爵位を継いだとか。

その後は、知りませぬ。(^^;;
お騒がせしました~。

左平(仮名)は話が長いので有名だ。
ポン引き 左平(仮名) 2001年10月07日日曜日 15時43分
「すみません、一つ訂正が。【け】の「ケイ」ですが、「刑」ではなく、「刑の左側に郤の右側」です。
また、ご先祖?の追加を。
【ら】欒~ 欒氏。西周時代に晋の公室から分かれた名家。欒書(らんしょ):春秋時代、晋の宰相。讒言によって郤氏を滅亡させた後、晋公(厲公)を殺害。彼自身は普通に亡くなっているが、孫の代に士氏と争い、滅ぼされています。→『子産』
・欒文博。
【よ】羊~ 羊斟(ようしん)。春秋時代、宋の人。戦いの前に、不吉さを感じた華元が羊の肉を与えなかった事を恨み、華元を敵中に放置する。後、華元が宋に帰還すると、魯に亡命する。→『華栄の丘』
・羊コ(示に古)など。、、ただ、死後、住民たちが石碑(祭りの時にはその死を悼んで泣いた為に堕涙の碑と呼ばれたという)を建てたという名将・羊コの先祖としては恥ずかしすぎますが、、。
【ほ】北宮~ 北宮佗(ほくきゅうた)。春秋時代、衛の人。北宮氏は、衛の名家です。楚の霊王の最期を預言。→『子産』
・北宮玉。」
私は相手に誤解を与えないように噛み砕くように説明してやった。
マスター ぐっこ     2001年10月07日日曜日 23時46分
「引き続いての情報ありがとうございます~!
さて、ひとつ気づきましたが、食い物の恨みであの名宰相・華元を敵に売り渡した羊斟と言う人物、これは後世につけられたあだ名のようです。「羊斟」とは、文字通り「羊のスープ」という意味で、これこそが華元が彼に与えなかったメニューです。中国人の命名法って…。
とにかく、羊[示古]は彼の血を引いてなさそうで、彼のファンは一安心。
あ、それと上のレスになりますが、鮑信の本貫は泰山郡。鮑叔の子孫は代々斉の正卿だったようだから、血縁があるかもしれません…。」


Cafe日誌No.46
2001年09月28日金曜日 01時52分

夜もどっぷりと更けた頃、見なれない一人の若い男が店に入ってきた。この前、サツにつかまったと聞いていたが、違う人物だったらしい。おばらはつまらないジョークを得意げにかましてから本題にふれた。
職業不明 おばら 
「楊喜



楊毋害



敞 司馬遷
|――+ │
忠 惲 = ○
| │
譚 ■(酒泉郡に配流)




|―+―+
牧 秉 奉
| │ │
■ 賜 [専文]
| │ │
奇 彪 衆
| │
亮 脩




│――+―+
[山喬] 俊 髦

以前、話題になっていた楊氏を系図にまとめてみました。
きっと稚拙な頭脳で書いたので間違いだらけでしょう。
おおめに見てやってくださいましー。
なお、晋書は参考にしてません(知らないとも言う^^;)ので、
晋書を通読された方なら書き足すことができるでしょう。
玉川さまあたりなら・・・(他力本願)」

若い男のこの言葉がのちのち、何人もの人々を苦しめることになろうとは、本人でさえも気づいていなかったのだろう。
おばらはさらにこう言った。
職業不明 おばら   2001年09月28日金曜日 01時57分
「んぎゃ~~~~
ずれちまった!!
楊惲の妻は、司馬遷の娘です。楊惲は楊忠の弟です。
あとずれた所は、楊囂以下全てですゥ(泣)。
楊囂は楊脩の子どもです。
ホントにすみませぬ~。ごめんなさいデス。」
玉川雄一が変なことを言い出した。・・・・タレコミ屋らしい言葉だ。
タレコミ屋 玉川雄一     2001年09月28日金曜日 10時11分
「では引き続き。いや、別に苦しくなんてありませんから(^_^)

楊準の子に楊[山喬]、楊髦、楊俊の3人を挙げられていますが、
楊[イ全]期伝によれば彼の祖父は楊林というそうで、
楊林も楊準の子にあたるので4人兄弟ということになりましょうか。

で、楊林の子が楊亮。その子が楊[イ全]期(?-399)。
楊[イ全]期には兄の楊廣(?-399)、弟の楊思平(?-408)がいました。
また、彼らの従弟に楊尚保という人物もいたそうです。
「(兄弟)皆強獷粗暴」ってあるので、ワイルドな兄弟だったのでしょうかね。

楊[イ全]期は武勲著しく、一旦官を退いてのち荊州刺史殷仲堪の麾下に属しましたが、
桓玄と戦って兄の楊廣と共に戦死しました。
その首は都(建康でしょうか)にさらされたそうです。

事情がうまくつかめないのですが、当初は殷・楊とも桓玄に従って叛乱を起こしたらしいのですが、
結局桓玄と戦うことになって戦死したようです。仲間割れ?

反乱軍の首魁、桓玄に討たれたとはいえ、楊[イ全]期も当初は桓玄に与したということで、梟首ということなのでしょうかね。
この時楊思平、楊尚保は逃れましたが、「思平、尚保後亦以罪誅、楊氏遂滅。」とあります。楊林の系統はここでジ・エンドの模様。

ちなみに、安帝紀(司馬徳宗)義熙4年11月の項に、「梁州刺史楊思平有罪、棄市。」とあるのはこのことでしょう。
また、同年12月には陳留王曹霊誕薨ずともあります。陳留王家、まだ続いていましたのね。

楊氏の他の系統はまだ続いたのでしょうかね。まさに大河一族!
さらにこの先をご存じの方へバトンタッチ!」

玉川雄一はまだ言う事があるらしい。
売人 玉川雄一     2001年09月28日金曜日 10時27分
「そうそう、義熙4年は西暦408年です。念のため。
5世紀に入っても三国志関連人物のネタがあるとは、
恐るべし中国…」
おばらはまだ言う事があるらしい。
職業不明 おばら   2001年09月28日金曜日 15時30分
「玉川様、訂正&補足ありがとうございます!!
いやー、さらに続いているとは、恐るべし!

あと、少し訂正。司馬遷の娘は、楊敞の妻でした!
勘違いでした。すいませーん。」

こういう場合は適当に相槌をうっとく。
マスター ぐっこ     2001年09月28日金曜日 22時53分

私も苦しんでませんってば(;^_^A
で、手元の史料とおばら様と玉川様の情報を元に、組み直してみました~!

    楊喜(項羽の死体の一部をゲット)
    ┣━━━━┓
    ■    敷
    :    ┃
    ■    母害
    :    ┃
司馬遷 ■    ■ 
 ┃  ┃    ┃  
 娘==廠    孟嘗 
  ┃ ┣━┓  ┃
  ■ 忠 渾  恢 (←渾のせいで一族流浪中)
    ┃    ┃  
    譚?   譚?  
    :    ┃  
    :    並
    宝
    ┃
    竇
    ┃
    震☆
  ┏━╋━━┳━━┓
  奉 秉  牧  ■
  ┃ ┃  ┣━━┓
  敷 賜  馥  統
  ┃ ┃  ┃
  衆 彪☆ 奇
    ┃  ┃
    脩☆ 亮
    ┃
    囂
    ┃
    準
 ┏━━╋━━┳━━━┓
 髦  林 [山喬]  俊
 :  ┃
 ■  亮
 :  ┣━━┳━━━━┓
尚保? 廣 [イ全]期  思平(A.D.408、全滅)
    :
    :
    :
    楊堅(581~)
    ┃
    煬帝(;^_^A 

……うわ~っ!」

逃げ出したい気持ちを押さえ、私はこう返事した。
マスター ぐっこ     2001年09月28日金曜日 22時55分
「やはり激しくズレました(;^_^A
掲示板で系譜はキツイか…。」
おばらはまだ言う事があるらしい。
職業不明 おばら   2001年09月30日日曜日 03時23分
「おおお!!
なるほど~。ぐっこさまの系譜で楊敷の家と楊敞の家が別家だったと知りました。
『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』だけでは資料不足でした^^;;。

お恥ずかしいのですが、上に挙げた史書以外で何を参考になされたか、お教えねがえませんでしょうか。
お願いしますm(_ _)m」

私は内心うんざりしていたが、にこやかな顔でこう答えた。
マスター ぐっこ     2001年10月01日月曜日 01時30分
「う…、楊家の構成、実はファイリングしてあるコピー史料の一部から作成したものなのです…。
たぶん『後漢国家の支配と儒教(雄山閣出版)』だと思うのですが。ちなみに著者は最近おなじみな渡邊義浩先生だったりします(;^_^A」
おばらはまだ言う事があるらしい。
職業不明 おばら   2001年10月04日木曜日 03時34分
「『後漢国家の支配と儒教』大学図書館で読みました!
それと、渡邊先生と中林先生は『華陽国史』『後漢紀』の翻訳もなさっていて、図書館に置いてありました。(確かな記憶ではない)

しかし、袁家の祖、袁良とはだれの子孫なのでしょうか?
知っている方はおられます?よかったらお教えねがいませんか。」

そのとき、なんの関係もないMOSという男が話に加わってきた。
ヒモ MOS     2001年10月06日土曜日 01時02分
「何故か後漢紀を持っているもすがお答えしましょう♪
と言っても、あまり遡れないんですが、
項劉の時代に生き、劉邦に進言した事が史記にも載っている袁生という人物が祖のようです。(^^)
その上はちょっと存じないです。。」
黒竜という職業不明が話に参加してきた。このゲイは誰にも相手にされていない。
職業不明 黒竜 2001年10月06日土曜日 09時25分
「同じく、何故か後漢書を持っている黒竜です。
袁術伝の注に「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」
となってました。
さらに遡ると帝舜まで行き着くようです。

ちなみに袁安伝では袁良以前のことには触れられてません。」

カウンターの隅で飲んでいた左平(仮名)が天井を見ながらつぶやいた。
ポン引き 左平(仮名) 2001年10月07日日曜日 15時14分
「袁氏の先祖について、黒竜さんが「陳の大夫、轅濤塗。袁氏はその後裔なり」と『後漢書』袁術伝の注にある、とおっしゃっているので、もしや、と思い宮城谷氏の『史記の風景』をチェックすると、、ありました!「春秋時代の晩期に、陳という国に轅頗(えんぱ:エンはながえ、パは戦国時代の名将・廉頗のパと同じ字)という大夫がいた。かれは司徒の位にあった。」との事です。ちなみに、この人は、紀元前484年に亡命しており、その6年後に陳は楚によって滅ぼされています。轅氏は陳の公室を累代ささえてきた大柱石の名家という事ですから、公室に連なる→(陳の公室は帝舜に連なるといいますから)帝舜の血脈という事になりそうです。」
こう言えば分かってもらえるだろうか。
マスター ぐっこ     2001年10月07日日曜日 23時47分
「おおッ!袁家の血筋!
ええと、私も皆様とおなじソースしか用意できないのですが(後漢書・後漢紀(明徳のアレ)・三国志・後漢国家の支配と儒教)、いちおう推測しました~。

まずMOS様の仰る袁生なる人物、たしか劉邦本人を囮にして味方を救うよう進言した人物。
この袁生は、どうも袁紹・袁術らの「汝南袁氏」ではなく、袁滂・袁渙らの「陳袁家(曹氏に仕え、晋代に栄達した)」のご先祖のようです。
ただ、この陳袁家の家系図を見ていますと、袁生の8代後に「梁の相」袁良の名が!
この袁良が、袁紹の祖父の祖父の祖父である「太子舎人」袁良と同一人物であるかどうかが不明ですが…(かなり年代がズレてます)。

ここで話は飛びますが、黒竜様、左平(仮名)様の情報のとおり、袁術の先祖は陳国の大夫である轅頗(濤塗)であると見て間違いありません!
つまり、汝南袁家も元々は陳袁家と同門であったとするべきでしょうか。

あくまでも仮定の話として、陳袁家の袁良と汝南袁家の袁良が同一人物であったとして、また系譜をつくってみました(;^_^A 

※どうせズレるでしょうから、メモ帳とかにコピペしてください。正確になります。

帝・舜


胡公満(初代陳主)


轅濤塗


袁生



┣━━━━┓?
璋    ■
┃    ┃
滂    安
┃    ┃
渙☆   京
:    ┃
:    湯
:    ┣━━┳━━┓
:    成  隗  逢
:    ┃     ┣━━┓
:    紹☆    術☆ 基


宏(後漢紀の著者)

うーん。やっぱり袁良=袁良は無理があるかも…。そもそも汝南の袁良は、前漢末の人物ですし…。」

黒竜は話が長いので有名だ。
職業不明 黒竜 2001年10月11日木曜日 20時38分
「三国志Ⅴ事典の一節に
「陳郡陽夏県の袁氏が家系図を作るにあたって
汝南郡汝陽県の袁氏と自分の家系を結びつけた」
とあったんですが、これって袁宏の一族のことなんでしょうか?

だとすれば陳袁氏と汝南袁氏は無関係ってことになりますが…」

私は答えに窮したがとりあえずこう答えておいた。
マスター ぐっこ     2001年10月11日木曜日 23時00分
「がーん! 三国志V辞典!? ううむ、なんで光栄辞典シリーズはたまにこうマニアックなことを記述するのだ…あ、玄奘陳氏情報もこれに書かれてたんでしたっけ?買おうかな~。
うーむ、いちおう地図の上では、陽夏県と扶楽県(袁渙)に分かれてるけど…同族なんでしょうね~。
しかし、何で陳の袁家が汝南袁家とつながりを持とうとするのでしょ?陳郡のほうが本家なのに…。」


Cafe日誌No.44
2001年09月25日火曜日 23時05分

他の客も酔いが回ってきた頃に、また飽きもせずに玉川雄一がやってきた。何をして生活してるんだろう?今度、モロッコで性転換するらしい。玉川雄一は現地の人間でも分からないのでないかという癖のある訛りでがなりだした。
タレコミ屋 玉川雄一   
「★ 晋書立伝三国志関係者 ★

洗ってみました。列伝、載記から、立伝されている人物をチェック。
とりあえず、司馬一族(と后妃)は抜かしますね。
●当人が三国時代(末期)~晋代を生きた。
●三国時代の(メジャー)人物の末裔。
●先祖が三国時代の人物だった。

王祥、王覧兄弟、鄭沖、何曾、石苞、羊コ、杜預、陳騫、裴秀、衛カン、張華
王沈(王昶の従子)荀ギ(荀イクの子)、荀キョク、馮沈、賈充、楊駿
魏舒、李憙、劉寔、高光(高柔の子)、王渾、王濬、唐彬
山濤、王戎、楽廣、鄭袤、李胤
廬欽(廬毓の子)、華表(華キンの子)、石鑒、温羨(温恢の孫)
劉毅、和[山喬](和洽の孫、いわゆる「銭癖」)、武[β亥]
任愷、崔洪、郭奕(郭淮の甥)、侯史光、何攀、劉頌、李重
傅玄(傅幹の子)、向雄、段灼、閻[糸贊](閻圃の孫)
阮籍、ケイ康(竹林の七賢)、向秀、劉伶、謝鯤
胡毋輔之(胡毋班の曾孫)、曹志(曹植の子)、秦秀(秦朗の子)
皇甫謐(皇甫崇の曾孫)摯虞

この辺りまでほとんど漢魏の臣あがりです。」

私の意識は玉川雄一の鼻の穴から伸びている一本だけ長い毛に釘付けで、話を聞いている余裕はなかった。
玉川雄一は、口早にこう言い足した。
タレコミ屋 玉川雄一     2001年09月25日火曜日 23時58分
「訂正:皇甫謐の曾祖父は皇甫嵩でしたね。

続き。
華譚(祖父は呉の左将軍華融、父は呉の黄門郎華[言胥])
陸機、陸雲(陸遜の子)、夏侯湛(夏侯威の孫)、孫楚(孫資の孫)
羅憲、滕脩(呉出身)、馬隆、胡奮、陶[王黄]、吾彦
周處(周魴の子)、周訪(祖父周纂は呉の威遠将軍、父周敏は左中郎将)
解系、牽秀(牽招の孫)、賈疋(賈クの曾孫)
華軼(華キンの曾孫、華表の孫)、劉喬、劉[王昆](中山靖王劉勝の末裔)
劉弘(劉馥の孫)、陶侃(父陶丹は呉の揚武将軍)
温[山喬](前述の温羨の弟)、[希β]鑒([希β]慮の玄孫)
顧栄(祖父は顧雍、父は顧穆)、紀瞻(祖父紀亮は呉の尚書令、父紀陟は光禄大夫)
賀循(曾祖父は賀斉、祖父賀景、父賀邵) 薛兼(祖父薛綜、父薛瑩)
戴淵(祖父戴烈は呉の左将軍、父戴昌は呉の会稽太守)
応詹(応[王虍豕]の孫)、甘卓(甘寧の曾孫)、孫恵(孫賁の曾孫)
葛洪(『抱朴子』の著者、祖父葛系は呉の大鴻臚)
王湛(王昶の顧、王渾の弟)、荀崧(荀イクの玄孫)
虞潭(虞翻の孫)、顧衆(顧栄の族弟)、張ガイ(張昭の曾孫)
陸曄(陸遜の弟陸瑁の孫)、何充(何禎の曾孫)
諸葛恢(諸葛誕の孫、諸葛セイの子)
孔愉(祖父孔竺は呉の予章太守)、丁潭(祖父の丁固は呉の司徒)
陶回(祖父は陶基、父は陶抗)
蔡豹(高祖父蔡質は蔡ヨウの叔父、祖父蔡睦は魏の尚書)
陳寿、司馬彪、孫盛(孫楚の孫)
干寶(祖父の干統は呉の奮武将軍、父干瑩は丹楊丞)
謝沈(曾祖父謝裴は呉の予章太守、父謝秀は呉の翼正都尉)
顧和(顧衆の族子、曾祖父顧容は呉の荊州刺史、祖父顧相は臨海太守)
袁カイ(袁渙の曾孫)、車胤(蛍雪の功、曾祖父車浚は呉の会稽太守)
王雅(曾祖父は衛将軍王粛、祖父は後将軍王隆、父は大鴻臚王景)

さらに続く。」

玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。
タレコミ屋 玉川雄一     2001年09月26日水曜日 00時42分
「先の捕捉。張昭の曾孫である張ガイ、
彼は曹嵩を殺害した黄巾賊あがりのヤツと同名です(^_^)

楊[イ全]期(楊脩の孫楊準のさらに曾孫)、張軌(張耳十七世の子孫)
王ナニガシ(王脩の孫)、孫ナニガシ(呉伏波将軍孫秀の曾孫)
ケイ昭(竹林の七賢ケイ康の子)、魯芝、杜軫(父杜雄は緜竹令)
王宏(王粲の従孫)、曹チョ(曹休の子である曹肇の孫)
呉隠之(呉質六世の孫)、虞喜(虞潭の族、父虞察は呉の征虜将軍)
孔衍(孔子22世、祖父孔乂は魏の大鴻臚、父孔毓は征南軍司)
応貞(応キョの子)、張翰(父張儼は呉の大鴻臚)
曹[田比](曹休の曾孫、父は曹職)
羊琇(羊コの従弟、父は羊耽、母は辛憲英)、王恂(王粛の子)
杜乂(杜預の孫)
孫登(隠者、魏書阮籍伝に登場)、任旭(父任訪は呉の南海太守)
孟陋(呉の司空孟宗の曾孫、兄は孟嘉)、[言焦]秀([言焦]周の孫)
陶淡(祖父は陶侃、父は陶夏)、陶潜(陶淵明、曾祖父は陶侃、祖父は陶茂)
辛憲英(羊耽の妻、辛ピの娘)、鍾[王炎](王渾の妻、曾祖父は鍾ヨウ、父は鍾徽)
王彌(祖父は玄莵太守王[斤頁])、盧循(盧毓の曾孫である盧[言甚]の曾孫)
劉淵(前趙の前身、北漢の建国者。祖父は於扶羅、父は劉豹)

ふう。こんなもんです。ごちゃごちゃしていますが、
じっくり見ていると思わぬ人物が?
また、本文をじっくり読んでいると出てくるのでしょうね。」

そのとき、ラジオから聞こえてくるオールディーズはこういう歌詞の唄を歌っていた。
ポン引き MOS     2001年09月26日水曜日 01時09分
「ほぇ~~、スゴイ数ですね!!(>_<)
時は止まらぬもの、時代は流れるもの、ってカンジでしょうか♪

ところで、黙っていても失礼と思い、ちょっとばかし気付いた事をば。。
陸機・陸雲は陸抗の子ですよ~~。細かい事ですし、これくらいしか気がつかない身ですが。。(^^ゞ」

MOSはちょっと間をおいて、また続けた。
ヒモ MOS     2001年09月26日水曜日 01時12分
「補足。。ROMらせて頂きました。ありがとうございます♪
あっしには漢文を読む能力なぞ「ノミの半ベソ」ですから(笑)」
玉川雄一は話が長いので有名だ。
タレコミ屋 玉川雄一     2001年09月26日水曜日 01時16分
「ぐは! MOSさんのおっしゃる通りでした。
私のミスであります。ほかにも何度か誤植もしてみたり、申し訳ございませんでした。
どうも、このBBSは管理人さんしか削除(修正)ができないようで…そうでしたよね?
ご指摘感謝です!」
噂好きの香香が話に参加してきた。
スリ 香香 2001年09月26日水曜日 15時18分
「どひゃ~!すごいですね!
打ち込みお疲れ様です。」
そのとき、背後から声をかけて来た者がいた。
職業不明 孫ぽこ 2001年09月26日水曜日 21時56分
「うわー^^;

すげぇ・・・読み切れない^^;

これはすごい貴重な資料ですねーサンクスです。玉川さん♪」

こういう場合は適当に相槌をうっとく。
マスター ぐっこ     2001年09月26日水曜日 23時58分
「ひゃ~! ここまで完全なリストアップありがとうございますっ!総計約140名! 本当に、本当にお疲れさまです!
む~、見るからに錚々たる面子ばかり! 三国志が終わっても、まだまだ二世世代、三世世代が続いているのですね~!これを見るだけでもよくわかります!
うわああ、読みたい! 彼らがどういう人生歩んできたか見てみたい!
中国経由の通販だと一万以下でしたな…。こりゃあ奮起の時か!?」
玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。
タレコミ屋 玉川雄一     2001年09月27日木曜日 00時59分
「ふは。例によって見落とし、誤読はありましょうが、だいたいこんなところです。

6340円。プラス振替手数料70円だったかな?
私の時は在庫切れで中国から取り寄せましたので2週間ほどかかりましたが…

6340円。6340円。6340円。6340円。6340円。
ほら、三國志8買うよかお得でっせ!
6340円。6340円。6340円。6340円。6340円…」

玉川雄一はまだ言う事があるらしい。
タレコミ屋 玉川雄一     2001年09月27日木曜日 01時03分
「そうそう、これからは、二十四史上屈指の信憑性の低さ(涙)といわれるこの晋書、どの辺がイケてないのかそんな所も調べてみたいですね!
いつか、「解體晉書」さんにご協力できる日が来たら素晴らしいなあ…」
こういう客はどう返事していいものか悩む。
マスター ぐっこ     2001年09月27日木曜日 21時34分
「6340! お値打ち価格の6340! ドルではなく円!
くらくらくらくら…。
あ、そういえば司馬懿唯一の欠点「詩が可哀想なくらいヘタ」というのも、宣帝紀の収録でしょうか!?ソースが分からなくて…。
欲しい…。今必要なビデオカードとどっちを優先させるべきか…。」
玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。
タレコミ屋 玉川雄一     2001年09月28日金曜日 00時04分
「ふいふい。ただいま宣帝紀を捜索中。
…ああ、曹叡即位後に司馬懿が官位を剥奪されたのってフィクションでしたっけ。

なぬ、「遼東太守『公孫文懿』」? …ああ、もしかして公孫淵?
晋書は唐代の書物ですから、太祖李淵の諱を避けておるのですな。
っつーことは、「文懿」って公孫淵の字! ひゅ~♪
上のリストにもありますが、戴淵、劉淵は実は晋書ではそれぞれ姓+字で表記されています。「戴若思」「劉元海」。
彼ら立伝人物は伝の冒頭にその旨断りを入れてありますが、公孫淵のような端役(失礼)は唐突です。

で、詩に関しては…申し訳ありません、私の読解力では宣帝紀には該当する記述は見つかりませんでした。
一字一句丹念に見ていけばあるのかな? 一通り見てみましたが、それらしき物は発見できませんでした。

とりあえずの成果は、公孫淵の字が「文懿」らしいということでご容赦下さいませ<(_ _)>」

こう言えば分かってもらえるだろうか。
マスター ぐっこ     2001年09月28日金曜日 23時16分

うお! ナニゲに公孫淵情報! 彼の字は「文懿」ですか~!
む~、三国志なら宣帝と被ってる…。
あ、その宣帝の詩ヘタですが、「三国時代」にサラッと書いてあったので…。
何でも「素人目にも拙さが解る」という程のものらしいです。」
その時、今まで一言も喋らなかった中根東竜が口を開いた。
職業不明 中根東竜   2001年10月04日木曜日 13時42分
「どうも、はじめまして。
「解體晉書」に参加させて頂いております、中根と申します。
今後ともよろしく。

ここには孫ぽこさんのページの掲示板を伝って参りました。
玉川さん、『晋書』関係人物リストアップ力作ですね!
僕も『晋書』を読んできましたがこれほど多くの
三国人物の子孫がいたとは驚きです!

>なぬ、「遼東太守『公孫文懿』」? …ああ、もしかして公孫淵?

そうですね、玉川さんのおっしゃるとおり『晋書』では淵の字を
すべて名に持つ人物は字で表記されます。

遼東太守『公孫文懿』は公孫淵とみて多分間違いない、
と思います。

>司馬懿の詩

丁度玉川さんのおっしゃられた公孫文懿の記述がある9ページの後ろ、10ページに「帝(司馬懿のこと)歎息し、悵然として感有り、為に歌いて曰く。
『天地開闢して、日月光を重ぬ。際会に遭遇して,力を遐方に畢す。・・云々』」と、詩があります。詩というより、劉邦の「大風歌」と同じジャンルに属する「歌」ですね。歌は民謡に近いもので、詩より
俗っぽいものです。

この詩は決まり文句を多用しているためか、下手だと言う本もあるようですが、それはどうかと思います。歌というのは決まり文句を多用する
もので、別に司馬懿が特に下手だとは言えません。魏晉南北朝の民間の歌はみなこのようなものです。貴族の詩は別ですが。
(上手いと言われている曹操の詩も実は決まり文句を多用していて、これは歌として兵士に詠わせたためです)

これは歌としてみれば如何にも英雄・司馬懿らしい感情の高ぶりを素直に歌い上げているもので、なかなか良いと個人的には思いますねぇ。

と、いうわけで、ぐっこさん、「可哀想なぐらい下手」ということはないですよ~。司馬懿が下手なら、同じような決まり文句を多用する詩を量産した曹操も下手になってしまいます。(爆)

それではこんごともよろしく。」

私は相手を怒らせないように冷静に対処した。
マスター ぐっこ     2001年10月04日木曜日 22時49分
「あ、中根東竜様、はじめましてーっ! 実は解體晉書、定期ROMってます(;^_^A 書き込める程の知識がないもので…。玉川様やNOB様の投稿見てほえーと感心するばかりでのパンピーですが、どうぞよろしくm(_ _)m

そして補足説明、ありがとうございます! 司馬懿の詩ですが、なるほど高雅な文学「詩」ではなく、歌だったわけですかー! 「感有り、為に歌いて曰く――」ということは、興が催したために即興でスラスラ~と歌いあげたのでしょうか。意外に人間味のある男だったのですね~、仲達さん。
あ、でも、仮に詩がヘタだったとしても、なんだか新撰組の土方みたいで、かえって魅力的な気もします。これで詩歌まで三曹レベルだと救いようがないような(;^_^A」


Cafe日誌No.48
2001年10月01日月曜日 22時17分

他の客も酔いが回ってきた頃に、何回かこの店を利用している美丈夫が入ってきた。美丈夫の体から漂う高級な香水の香りが店内に異臭を放つ。ここだけの話と前置きをしてから、長い話を始めた。
職業不明 bu-show  
「ご無沙汰しておりました。
掲示板、変えられたのですね。

晋書やらご先祖ネタで盛り上がっているようですが、私も参加させてください。
何と、諸葛緒の孫娘が『晋書』巻第三十一列傅第一に掲載されているではないですか。やはり、当時は女性ということもあって、伝に記されている文章も短いですが…。

あと、何気なくYahoo! TAIWANで三国志関係のサイトを見ていると、
日本ではまずお目にかかれない情報が沢山ありますね(当たり前ですが…)。
私は中国語の読み書きがまともにできませんが、
只何となく読んで理解するだけなら、
Yahoo! TAIWANはお勧めです(但し、BIG5をDLする必要があります)。」

この美丈夫もたまには語りたいのだろう。
隣で聞き耳を立てていた玉川雄一が会話に割って入った。
売人 玉川雄一     2001年10月02日火曜日 00時09分
「どうも、初めまして、玉川と申します。
貴方のサイトでは諸葛氏について調べていらっしゃいますよね。
諸葛恢伝にも挑戦されたようで、拝見させていただきました。

で。諸葛緒の系統について注目されたようですが、
晋書には他にも巻第八十五列伝第五十五に「諸葛長民」なる人物の伝がありますね。
彼は4世紀末~5世紀初頭の人物で三国時代の諸葛氏との繋がりは不明ですが、
琅邪陽都の人だということは…
弟に諸葛黎民、諸葛幼民、従弟に諸葛秀之がいたそうです。
で、なにやらあって413年に劉裕によって全員殺されてしまいましたとさ。
「諸葛長民」伝、いかがですか?」

bu-showはこうも言った。
職業不明 bu-show    2001年10月02日火曜日 21時01分
「玉川さま、はじめまして。
この度は当サイトにお越しいただきありがとうございます。
これから、そちらへ伺わせていただきます。

ところで、諸葛長民伝についてですが、『瀚典 資料庫選單』で読んだことはございますが、更新となるとまだまだ先の話ですね。
諸葛恢伝も一部しか紹介しておりませんし、ちくまの『正史』から拾えるネタも隠し持っているので。」

私は内心うんざりしていたが、にこやかな顔でこう答えた。
マスター ぐっこ     2001年10月03日水曜日 00時11分
「わ、bu-show様、お久しぶりです~。うひー! 晋書になると諸葛氏も後へ続くのですね…。諸葛緒というと、鄧乂の下僚という程度の記憶しかないのですが、晋では卿にまで昇った様子。彼の本籍はどこでしょうか? やっぱり琅邪でしょうか~?
そして台湾系サイト!そうか~! 本場の方が研究も進んでるでしょう!くー、中国語の読解が出来れば~!今からでも中国語を勉強したいです! いずれ中国に行って古書市周りとかするのが夢。
そして諸葛長民!? し、知らない人だ! 琅邪諸葛氏の一門のようですが、何をした人なんでしょう(;^_^A 一族皆殺しになってるなんて…。」
bu-showはまだ言う事があるらしい。
職業不明 bu-show    2001年10月04日木曜日 21時56分
「諸葛緒についてですが、ぐっこさまの仰る通り、徐州瑯邪郡陽都県出身です。祖先が諸葛豊かどうかは不明ですが…。

>台湾系サイト
幾つか見ましたが、Yahoo!に掲載されている諸葛亮サイトだけでも8つか9つあったと思います。日本では私のサイトを含めて何ヶ所でしか見られない『誡子書』が、当たり前のように紹介されておりました。」

玉川雄一はまだ言う事があるらしい。
売人 玉川雄一     2001年10月04日木曜日 23時48分
「田中芳樹の「中国武将列伝」だと、
諸葛長民は劉裕(南朝宋の創始者ですね)に向かって、
「俺は『諸葛』であんたは『劉』だから手を組めば天下を取れるぞ」
みたいなことを言ったらしいんですね。
劉裕は「なに言ってんだコイツわ?」みたいな対応だったとか。
晋書の諸葛長民伝には見あたらないんですが…
どっちかっつうと野心系の人だったみたい?

で、彼も死の直前に何やら怪異現象に巻き込まれているみたいです(^_^)」

玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。
売人 玉川雄一     2001年10月05日金曜日 09時01分
「よく考えてみたら、彼が言わんとしたところの諸葛さんと劉さんって、
別に天下取ったワケじゃないじゃん(^-^)」
私は前にもした話をもう一度繰り返した。
マスター ぐっこ     2001年10月05日金曜日 22時22分
「>諸葛緒
ああ、やはり琅邪でしたか~。いずれにしても孔明たちの遠縁にあたるのですね…。晋でそれなりに高位に上がったのですから、晋の諸葛は「猫」でしょうか?

>諸葛長民
それにしても長民だの幼民だの、諱というよりは字っぽいネーミングの兄弟ですね~。なるほど、それなりに野心家で、しかも歴史認識がちょっとズレてて、最後は怪奇現象で死亡…。う、なにやら余計に解らないキャラになってしまいました(;^_^A

 台湾系サイト、きちんと詣でないと…以前BIG5落としたのに、こないだフォーマットしたときに消えてる…。またやり直し…」


Cafe日誌No.53
2001年10月11日木曜日 00時38分

夜もどっぷりと更けた頃、この店の常連のMOSがいつものように入ってきた。若い男の美貌に店内中の女が息をのむ。MOSはつまらないジョークを得意げにかましてから本題にふれた。
ヒモ MOS   
「はぁ~~~、書いていたら手違いで全部消してしもうた。。。
というワケで再度書き直し~~♪
ネタは・・・こりゃまたマイナー野郎の袁譚麾下の将軍、郭援です!!

ウチの人物列伝でも賈逵の段で多少紹介していますが、
彼は袁譚・袁尚連合の最中、高幹と共に長安方面に侵攻するものの、
鐘ヨウ率いる馬騰などの軍に撃破され、馬騰配下の部隊長ホウ悳によって首を取られています。
また、対峙した鐘ヨウは彼にとってオジ(嫁の父だったかと)に当たるとか。

いきなりですが、最近オイラは後漢末の情勢に興味があり、
三国志研究要覧を必死で探すほどの熱の入れようです♪
そこでちょっと気付いたのですが、彼、郭援は・・・郭図の一族ではないでしょうか??
郭図の息子とまではいかずとも、可能性は非常に高いと思われます。
なぜなら、郭図は著名な潁川郡人士であり、鐘ヨウも潁川郡人士。
その鐘ヨウと郭姓である郭援が甥-オジ関係にあるのであれば・・・
有り得る話だと思うのですが、どうでしょう?

こういう時、後漢書を持っていない事と漢文を読めない事が物凄く残念でなりませんなぁ(^^ゞ」

独り言なのだろうか・・・・・?
明らかに他の客の迷惑になりそうだったので、私はこう言った。
マスター ぐっこ     2001年10月11日木曜日 23時01分
「なるほど!今まで想像もしていませんでしたが、言われてみればその可能性もありますよね!
で、ちょっと調べてみたのですが…少なくとも手持ちの後漢書には郭援の記載はなく…中林先生の漢文全籍資料庫で検索をかけても、基本的に三国志と同じ内容のみ…。
うう…お役に立てずに申し訳ないです~。他にも潁川郭氏がいるかな~、と思ってパラパラと見たら…郭嘉と郭誕しかいない(T_T)」
そこにjapanの登場である。全員が愛想笑いを始めた。
家出娘 japan  2001年10月12日金曜日 21時54分
「『郭図-郭援-郭嘉同族説』は私も考えた事がありました。

潁川の名士は「相対する勢力の双方に一族の構成員を送り込む」という戦略を取ることがあるので、郭図と郭嘉も袁紹・曹操方に分かれて密かに連携していたのではないかと…

そうなると「出ると負け軍師」の異名を持ち、ことごとく袁氏に不利な進言ばかりしていた郭図の真意も、或いは――などと妄想が尽きません(笑)。」

私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。
マスター ぐっこ     2001年10月13日土曜日 01時27分
「おお、なるほど!潁川名士って、案外したたか!真田家のようです(;^_^A
確かに彼の進言は悉くが裏目に出、全て曹家の肥やしになってますね。秘本三国志の劉備的役割を!? 妄想が絶えない(;^_^A
郭家の先祖って、誰なんでしょ? 少なくとも漢初の頃にはそれなりの人物がいてそう~。」
なぜか赤の他人の黒竜というナイスガイが語り出した。
職業不明 黒竜 2001年10月13日土曜日 02時12分
「後漢書をながめたところ
穎川郡陽テキの郭躬という人が見つかりました。

彼の甥の郭鎭が皇帝廃立計画を未然に防いだことが
一族繁栄のきっかけのようです。

一族は郭躬の父、郭弘の代より法律に秀で
子孫は、公者一人、廷尉七人、侯者三人、刺史太守侍中中郎将は二十余人。
とかなり繁栄してるんですが、
残念ながら、嘉、図、援の名前は見つかりませんでした…」

MOSは、口早にこう言い足した。
ヒモ MOS     2001年10月13日土曜日 02時48分
「ふむぅ。
黒竜さんの仰る郭躬が彼らの一族の前代の人物である事は間違い無さそうですね♪
ところで、郭躬が未然に防いだ皇帝廃立計画というと、やはり梁冀の件でしょうか??

>嘉、図、援
彼らの名前が出ないのは致し方ないでしょう。
3人とも確たる地位に上っていないですし、功績もさほどではありませんから(^^ゞ

それにしても、公まで出しているとはビックリですなぁ。。

>郭図
彼はそこまで無能ではないと思いますよ♪
魏志で悪し様に書かれているのは、魏を肯定しようとする書が多く、
陳寿がそれらに則って書いたからではないでしょうか?
ウチの沮授伝でもちょっと触れましたが、
演義小説では、郭図の功績が掻き消されていたり、結果論的に書かれている面も否めなかったりしますから(^^)」

MOSはまだ言う事があるらしい。
ヒモ MOS     2001年10月13日土曜日 05時14分
「むぉ!!
郭躬さん、三國志杜恕伝に登場してますぞ!!
もちろん杜恕伝ですから、あの異様~~に長い上層文の中の1節です(笑)

孔羨が司馬懿のキチガイな弟を招聘した事に対して、
少府の竇嘉が廷尉であった郭躬さんの(マトモな)弟を招聘した時ですら非難されたのに
「孔羨は何をしておる!?」と非難を浴びせた、という事らしいですね。」

黒竜は話が長いので有名だ。
職業不明 黒竜 2001年10月13日土曜日 21時12分
「梁冀の一歩前です。それと昨日の時点での自分翻訳に間違いが…

安帝から順帝のあいだに北郷侯劉懿という短命の幼帝がいたのですが
その死後、外戚閻氏と宦官孫程等の間で皇帝擁立争いがあり、
まず孫程が擁立したのが後の順帝なんですが、
機先を制され兵を率いて宮中に向かっていた閻氏の要人、閻景を捕らえたのが
当時、尚書の官にあり病身でもあった郭鎭だったというわけです。
廃立というか擁立というか… つまり後漢らしいゴタゴタです。」

こういう客はどう返事していいものか悩む。
マスター ぐっこ     2001年10月13日土曜日 21時50分
「審配はあれだけ格好良く死んでるというのに…。同じ反沮授派でどうして…。それに郭図だって、曹操に先んじて帝擁立を具申してますよねえ…不憫な。
常識的に考えれば、主君の意に阿って弟を擁立した審配らのほうこそ逆心あつかいされるでしょうし、まして袁譚は、手腕はともかく人物的には「蒼天」の像がしっくりするくらいの好男子だった模様。
袁家の跡目争いも、しょせんは冀州閥と潁川閥の戦いだったわけなんですね…。」
明らかに他の客の迷惑になりそうだったので、私はこう言った。
マスター ぐっこ     2001年10月13日土曜日 21時56分
「あ、それと郭氏の前身!そのあたり(孫程のクーデター)、むか~し曹騰の小説みたいなのを書いた時にちょっとだけ勉強しました(*^。^*)
そ、そうだったのか! 名前忘れてましたけど、あのとき既に潁川の郭氏が登場していたのですか!?
ううむ、三国志を一通り理解するためには、通史で勉強しなきゃならないことを痛感します…。」
今は亡き左平(仮名)の言葉をふと思い出した。
ポン引き 左平(仮名) 2001年10月14日日曜日 00時57分
「黒竜さんの仰る事件ですが、、次回あたり、宮城谷三国志で描かれそうです(今回、ようやく安帝が崩じました。で、擁立されたのが北郷侯)。楽しみです。」
とにかく、ここは一旦相手を落ち着かせなければならない。
マスター ぐっこ     2001年10月14日日曜日 21時57分
「おお、今月号読むの忘れてた! もう(まだ?)そのあたりですねー!
しかし想像以上にパースの長い三国志になりそう…。このぶんだと桓帝が崩御するくらいで単行本第一巻ってところ。第二巻で曹操が成人・北部尉・県令・議郎・隠棲くらいでしょうか?」


Cafe日誌No.62
2001年11月04日日曜日 05時21分

朝方、何回かこの店を利用しているタフガイが入ってきた。おばらはチャック全開に気づいている様子もない。おばらはいかに美女というものが素晴らしいかを主張し始めた。
職業不明 おばら 

左平(仮名)さんに煽られてまたまた登場(笑
正史『三国志』蜀書をよんでいると、どマイナーな人物、來敏を見つけました。彼は後漢光武帝の姻戚來歙(字は君叔)の後裔とのこと。
そこで來家の調査開始!(←暇人

遡れる限界は、來漢。
前漢武帝の時、光禄大夫に任命され南越と衛氏朝鮮を討伐した楼船将軍楊僕を補佐したとのこと。

次に、來漢の孫の孫、來仲。
前漢末期の哀帝の時、諌大夫になったとのこと。

そして、來仲の子、來歙と來由。
來歙は劉秀(後の光武帝)の一族でもあり、後漢王朝成立に参加。羌を鎮撫し、蜀で最後まで抵抗を続けていた公孫述を攻めるが、公孫述の暗殺部隊に刺されて死去。光武帝は驚愕し落涙。
弟の來由は、光武帝が來歙の忠節を讃えて由をとりたて、宜西侯となる。

來歙の子は來褒。

來褒の子は來稜。
明帝の娘を娶るも、早世。

來稜の子は來歴と來[示止]と來超。
來歴の記述はたくさんあるのでカット。(訳せないだけ^^;)大鴻臚の官についたまま死去。
來[示止]は歩兵校尉に、
來超は黄門侍郎になる。

來歴の子は來定。
彼は安帝の妹を娶り、官は虎賁中郎将になる。

來定の子は來虎と來艷(←は略字。さらに略すと艶)。
來虎は桓帝のとき屯騎校尉になる。
弟の來艷は学者肌で、靈帝のときに司空になる。

ココまでが後漢書の内容です。
以下が三国志の記述です。

來艷の子は來敏。
後漢末の乱を避け、蜀に逃亡。学者として名高く、劉璋、劉備に優遇される。しかし行動・発言が異常だったため、免官・起用を何度も繰り返す。蜀では一番の困り者?? 97歳の高齢で死去。

來敏の子は來忠。
來忠には父の面影があり Σ ̄□ ̄;; 姜維を補佐して参軍になる。

以上が調査結果です。
その後の來家、どうなったのでしょうか?
『晋書』には來家はもう出てこないのでしょうか?
情報求む!!(ナニヲ偉そうに言ってんだか・・^^;;」

何を語っても冴えないタフガイだ。
おばらは、口早にこう言い足した。
ポン引き おばら   2001年11月04日日曜日 05時22分
「すんまそん。チャック全開でした。」
噂好きの左平(仮名)が話に参加してきた。
ヒモ 左平(仮名) 2001年11月04日日曜日 21時12分
「來氏について(といってもたいした足しにはなりませんが)一つ。來歴(だと思うのですが)は、宮城谷三国志に名が出ています。記述が多いとの事ですが、どうやら出番がけっこうありそうな描かれ方でしたよ。」
私は前にもした話をもう一度繰り返した。
マスター ぐっこ     2001年11月04日日曜日 21時49分
「↑チャック全開!!(^0^)) いやあ、誰がこのナレーション最初に出すのかと思ってました~。

来敏! …知らないひとだ(;^_^A 調べ調べ…。
ふんふん…父の来艷は霊帝の時に司空…。三公リスト見ると、171年、あの橋玄の後任になってますね~。
で、都の争乱を逃れて、姉とともに荊州へ…。
え!?
姉の夫・黄[王宛]!? 彼って、王允や呂布と謀って董卓を暗殺したもと三公のひとり。魏書では董卓の命で曹操の潜伏箇所を襲撃したけど(←この話、嘘っぽいなあ。後漢書の黄[王宛]と矛盾するし…)、曹真の父が身代わりになったという…。
とにかく、そんな有名人の義弟なものだから、劉璋が招聘して、後に劉備が引き受ける、と。
でも孔明が呆然とする程の奇人であったため、クビ。ただし劉禅の傅人のひとりであったため、地位は保たれる…と。
……なんだかぱっとしない人ですが、費イ伝では格好いいエピソードが。出撃直前の大将軍・費イの元をふらりと訪れ、のんびりと碁を打ち、「こうしてあなたの心胆を図ったが、なるほど見事じゃ」と太鼓判を押したとか…。
どうもキャラが掴みづらい人ですが、彼の祖を辿ってゆくと來歙伝……うわ、光武帝の雲台二八将よりも伝が前!!そりゃあ名族ですなあ…! 前漢の代から武門で鳴らしてたんですね~。
これほどの由緒ある名門だったら、司馬氏も放っておかないでしょう~。いちおう本籍は新野ですが、四川に居着いたのかなあ。」

仕方がないので、こう答えてやった。
マスター ぐっこ     2001年11月04日日曜日 21時52分
「またオフライン(;^_^A
ええと、宮城谷三国志ですか! あ、また文春読み忘れてた…。
たしか來歙伝には曾孫来歴まで乗ってましたよねえ~(私はこのへん目次だけ所有(;^_^A)。
あのあたりの政変の場にいたとなれば、かなりの活躍をしたのでしょうか?」
そこに玉川雄一が現れた。・・・他の人の顔が困惑の表情に変わる。
金貸し 玉川雄一     2001年11月04日日曜日 22時32分
「速報。
とりあえず、晋書に立伝はされていないようです。
文中に登場している可能性もなきにしもあらずですが…
「解體晉書」さんで伺ってみようかしら。

あと、来敏は三國志IIにだけ登場していたような記憶が…」

私は満面の愛想笑いを浮かべてこう答えた。
マスター ぐっこ     2001年11月06日火曜日 01時35分
「おお、さすがに早い!
玉川様、情報ありがとうございます~! 立伝が無いということは、来氏もそれほどの権勢を、少なくとも晋代にはふるわなかったわけですね~!
伝を見る限り、かれは姉とともに身一つで蜀に亡命してますから、かの地の一地方名士として終わったのかも…。
ただし光武帝の一門でもあった名族、中原にとどまった来氏のほうは、ひょっこりとどこかに出てきてたりして…。私も探してみます~!

三国志Ⅱ!? …意外な作品に。演義では名前のみの登場なのに…。」

猥談好きの松竹梅が嬉しそうに参加してきた。
職業不明 松竹梅     2001年11月07日水曜日 07時22分
「そういやこっちの掲示板は初めて…ご無沙汰してます。

宮城谷三国志での来歴は、楊震亡き後宮廷に残った数少ない諫臣として活躍していました。安帝にあっさり罷免されたけど。

三国志2に出てた?記憶にないなあ…三国志2って、何を色気づいたかマイナー人物が多数出ていた作品ですよね。呂覇(呂蒙の子)とか典満(典韋の子)とか。だとすると来敏が出ててもおかしくないですね。」

玉川雄一は話が長いので有名だ。
金貸し 玉川雄一     2001年11月07日水曜日 19時19分
「呂覇! 未だにIIでしか登場してないんですよねえ。ミョ~に強いし。
典満はこの後もチョコチョコ出てますが、IIのは顔が結構怖かったでしゅ。
一番アレだったのは王双でしたけど(^-^)

っつーか、IIったら尚挙とか出ていたような気もするんですが(^_^)
あれ、来敏じゃなくてこっちでしたかしらん。」

噂好きの黒竜が話に参加してきた。
職業不明 黒竜 2001年11月07日水曜日 21時19分
「來氏の子孫、北史と新唐書に登場するみたいです。
詳しいことはわからないんですけど…
來護皃(漢字少し違います)という人です。」
黒竜は話が長いので有名だ。
職業不明 黒竜 2001年11月07日水曜日 22時30分
「↑訂正
「來護兒」でした(この年になって漢字がわからないとは…)。
隋で大将軍までなってるみたいです。」
玉川雄一はまだ言う事があるらしい。
金貸し 玉川雄一     2001年11月07日水曜日 23時46分
「来護児(私の見たのはこういう字でした)、田中芳樹の小説
『風よ、万里を翔けよ』に登場しています。
何やら、煬帝が弑逆された際に一族もろとも殺されたそうですが…
実際の所、どうなのでしょう?」
黒竜はちょっと間をおいて、また続けた。
職業不明 黒竜 2001年11月08日木曜日 00時44分
「來護兒=来護児ですね、意味はおなじですから。
私は兒をジと読めませんでした(ゲイかボウかな?と…)

来護児の一族は確かに宇文化及の反乱で殺されますが
息子が二人、難を逃れて唐に仕えています。
宰相まで出世したとか…(不確かな情報で申し訳ない)」

こういう客はどう返事していいものか悩む。
マスター ぐっこ     2001年11月09日金曜日 01時08分
「うわ、お三人様ともおさすがです!
来護児!? 新唐書!?
あっはっは~!私勉強が全く足りておりませんでした~!
こりゃあ二四史買いそろえなきゃならないかな……。

ということは、来氏の血縁は唐代まで残っているわけですか~! やっぱり残ったのは中原の方でしょうか?」


Cafe日誌No.67
2001年11月09日金曜日 23時53分

他の客も酔いが回ってきた頃に、何回かこの店を利用している若い男が入ってきた。黒竜はマダムを探しているらしい。黒竜はつまらないジョークを得意げにかましてから本題にふれた。
職業不明 黒竜
「來氏のスレがだいぶ長くなったので独断で新スレ立てさせていただきます。

先日、新唐書を読む機会があったんですが、表の宰相世系が凄すぎます。
唐の歴代宰相の家系図を並べているようなんですが…
袁氏の項目に袁煕、姜氏の項目に姜維、閻氏の項では閻甫の名前が…
探せばまだいるかもしれません。
凄いというか、凄いあやしいと言うべきか…

私はひたすら我慢して聞いてあげた。
逃げ出したい気持ちを押さえ、私はこう返事した。
マスター ぐっこ     2001年11月10日土曜日 01時03分
「唐代ですか~!
もうやりたい放題のようですね(;^_^A 何処の国でも家系図偽造は当たり前だったんですね…。
でも絶対嘘とは言い切れない人もいるでしょうし…。そもそも同姓同族の原則で言えば、嘘を付いているわけでも無し。
しかしうさんくさいなあ…(;^_^A」
むかし旅の占い師がこんなことを言っていた・・・・。
風俗店の店長 玉川雄一     2001年11月10日土曜日 08時57分
「ある意味そうそうたる?ラインナップでありますね。
閻氏は何やら続いていたそうですが…

これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、
偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。

また、必ずしも直系でもないと考えていいのでしょうか?
いわゆる「○○をもって(祭祀を)継がせる」ってヤツ。
しかし何故袁熙(^_^;)」

黒竜は、口早にこう言い足した。
ポン引き 黒竜 2001年11月10日土曜日 20時30分
「調子に乗って追加調査を敢行しました。
とりあえず列挙してみます。

喬玄 田疇 祝恬 武周 劉ヨク 杜預 盧植
関羽 呂虔 蘇則 去卑 温恢 薛蘭 賈ク 
鍾ヨウ 顧雍 傅幹 陳寔 崔烈 畢言甚 鄭泰
唐固 裴徽 楊震 許允 (順不同)

注目はやはり薛蘭(呂布の部下)でしょう。
彼の息子、薛永が劉備に従って入蜀していたらしいです。

この他にも役に立つような、立たないような情報がいくつか、
崔州平の名前(崔鈞)や赤泉侯楊喜の字(幼羅)などが確認できました。」

私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。
マスター ぐっこ     2001年11月11日日曜日 00時37分
「うわはは~!
なんだか大変なことになってますね~唐代の家系図(;^_^A
顧氏や鍾氏はまあいいとして、なぜに薛蘭…あえて子孫を名乗りたいとは思わない人物ですが…。
ところで! 崔州平と崔鈞って同一人物なんですか!? ちょっと年代がズレてるような…(いずれも崔烈の息子ではありますが…) 」
黒竜は話が長いので有名だ。
ポン引き 黒竜 2001年11月11日日曜日 01時52分
「崔州平、原文が
「烈、後漢太尉、城門校尉、生鈞、字州平、西河太守」となってます。
兄貴の名前が崔均なんであっさり信じたんですが… 疑う余地はありそうですね。

それと薛蘭ですが意外にも名家のようです。
薛蘭の父や祖父も国相や太守を務ています。てっきり呂布配下の并州人かと思ってましたが…
薛永は蜀郡太守、その子の薛斉は蜀・巴の太守を務めたらしいのですが蜀書には出てこないですね………(??)

ちなみに一番あやしいのは関羽です。
関竜逢(商)…→関羽→関興(三国)…→関播(唐) アバウトすぎ」

昔、こういう言葉を言った人物がいた。
ヒモ 左平(仮名) 2001年11月11日日曜日 10時57分
「唐書についての知識は皆無なので入り様がないのですが、、関龍逢の名が出てきたので、ちょっと説明を。
関龍逢とは、商ではなく、夏王朝末期の人です。桀王の暴虐をたびたび諌めましたが、ついに殺されたという名臣です。ちなみに、彼は関氏ではなく、関龍氏だった様です。宮城谷昌光氏の『天空の舟』に、「、、夏の社の神体は、「交龍」である。、、そのおさめるところは河水(黄河)である。、、ここの最高責任者は関龍家であった。、、」という記述があります。
関羽以前で名の知れている関氏といいますと、、
・春秋時代初期の鄭の大夫、関其思(戦略的には正しい事を発言したのだが、武公の意図を読み切れなかった為に処刑される。「韓非子」(説難篇)に登場。鄭というと、河南省のあたりでしたから、河西の人・関羽とのつながりは?です)。 
・老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。確か、関喜とかいった様です。もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。」
どこから聞きつけたのか、中根東竜という職業不明が現れた。
職業不明 中根東竜   2001年11月11日日曜日 17時58分
「どうも、ご無沙汰の中根です。

>『新唐書』宰相世系表

なんか懐かしいなぁ。いや、4年ほど前「『三国志』の注釈を
全部読破してやろう」と思って注釈だけまとまった『二十四史補編』
なる中国書を読んでいたことがあったのですが、そこの賈クの
箇所の注に『新唐書』宰相世系表が引用されていたのですよ。
んで、賈クには賈疋なる孫がいた、そうで・・

>玉川さん
>これらの系譜、マジならそれはそれでアレですが、
偽造(^_^)してまで繋げたとして、それだけの価値があるということなのでしょうか。

価値はあったでしょうね。唐の時代はまだ貴族社会の色が濃い(庶民から科挙を通って朝廷に仕官した官僚と、貴族が派閥争いをやっていた)んで、庶民上がりや元来中国人ではない人でも名門の末を主張した人物は結構居るのではないでしょうか。貴族社会は能力より血筋を
重んじますからね。
それで『三国志』系マイナー武将を子孫と称した人物が多かったのでは?記録がない人物なら文句はいわれませんから。
もしつっこまれても「家に伝わる記録ではこーなのじゃっ!」
と言い返せるので。

まあ、怪しいといえば怪しいのですが。怪しい具体例を挙げると、隋の皇帝の楊家は「楊震の末裔」を称していたのですが、現在の学界では「騎馬民族・鮮卑族の末裔」とするのが定説化しているようです。

>関龍逢

左平(仮名)さんのおっしゃる通り、夏王朝末の人ですね。
結構諸子百家の世界では有名人で、「暴君を諫めて殺された賢臣」
として『韓非子』などに登場します。なお、『韓非子』の有力な
注『韓非子翼毳』(かんぴしよくぜい)に依れば、大本の
出典は『韓詩外伝』だそうです。

なお、宮城谷昌光氏が関龍家とする根拠はよくわかりません。
王雲五氏の『辞源』では「関・龍逢」として区切っています。
関姓という説もあるのでしょうか?まあ、『韓詩外伝』を
見ないとわかりませんが・・

>老子がいずこともなく去っていく時、その思想を書き残してもらった、関所の役人。

これは関尹喜(かんいんき)のことですね。ただ、この人の名は
「尹喜」で「関所役人の尹喜」が「関尹喜」となっているみたいですよ。関姓ではないようです。

>もっとも、関所の役人だから「関(所の)喜」といっただけかも知れませんが。

そういう説を中国の故・郭沫若氏は主張していたようですね。「関尹喜」は「関尹」(関所役人)という普通名詞であり、固有名詞ではないと。

まあどっちにせよこれも調べないとなんともいえませんが。」

黒竜は話が長いので有名だ。
ポン引き 黒竜 2001年11月11日日曜日 23時19分
「左平さん、中根さん、私の雑な話題に注釈を入れてくださってありがとうございます。

何しろ新唐書のあまりの書きっぷりに興奮冷めやらぬもので…
賈クの親兄弟まで名を連ねてますから(父はキョウ、兄は綵)。

関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました…
殺されたということは湯が子孫を封じたりしたのかな??
姓氏は復姓が単姓に改まることもあるようなので「関姓」全体の始祖という位置づけみたいです。
他の項でも最初は伝説的人物からはじまってます(炎帝や黄帝が…)」

こう言えば分かってもらえるだろうか。
マスター ぐっこ     2001年11月12日月曜日 00時38分
「 >崔氏
いまのところ手元の資料は三国志と辞書だけの状態なので、詳しくは判らないんですが…。崔鈞は、「銅臭ェんだよオヤジは」って言った人ですよね(西河太守として反董卓連合にも参戦)。で、崔州平は孔明の友人。崔均はその州平の兄。
…やっぱり三(以上?)兄弟っぽい状況ではありますが…。
あと、薛氏!
ひょっとして本籍、徐州とか豫州のへんですか!? もしそうだったら、孟嘗君と関係あるひとかも…。う~ん! こりゃあ意外な事実!? 私も李封とかといっしょで、呂布の子飼いかと思ってました(こうなると、李封も案外、エン州李家の一族だったり…じゃあ李乾とは同族?)。
三国志って、どこまで奥が深いんだ~!!

 >関氏
関羽以前の伝説になりますと、そりゃあうさんくさい話がいっぱい(;^_^A 唐代の人もやりたい放題だったでしょうね~(たしか馮氏説もあったような…)。
それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか~(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。

三国志の小説を書かれてる作家(特に宮城谷先生)、どの程度まで「後世の」三国志史料を引用するか見物ではありますよね~!(;^_^A
賈クの兄弟まで名前が「伝わって」るのか…。」

左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。
ヒモ 左平(仮名) 2001年11月12日月曜日 20時43分
「宮城谷三国志でどの程度まで「後世の」資料を使うかですが、、一つ、蛇足までに。
第一回で楊震の「四知」という言葉が出てくるのですが、その内容は資料によって若干のずれがあります。元ネタの『後漢書(楊震伝)』では「天知る、神知る、我知る、子(汝)知る」、『資治通鑑』では「天知る、地知る、我知る、子知る」となっているのです。
そして、宮城谷三国志で採用されているのは、後者です。「天、神」よりも「天、地」の組み合わせを好んだというのもあるでしょうが、『資治通鑑』は北宋の司馬光の著作ですから、ひょっとしたらひょっとします。
場合によっては、清の歴史家・趙翼の『二十二史箚記(にじゅうにしさっき)』(二十二史=二十四史【『史記』から『明史』まで】-二史【『旧唐書(くとうじょ)』・『旧五代史』】。箚記=書物を読んで得た感想や考えなどを随時書き記したもの。 )まで出てくるかも、、もうここまで来たら、私にはちんぷんかんぷんなのですが。以上、角川書店の『新字源』から。」
黒竜は話が長いので有名だ。
ポン引き 黒竜 2001年11月12日月曜日 20時52分
「残念ながら薛蘭は孟嘗君とは無関係なんです。
自分も薛氏と言えば薛綜の子孫とばかり思っていたので度肝を抜かれたんですが、
周初から春秋はじめまで薛侯であった家のようです(信憑性はともかく)桓公に逆らって国替えされ、
その後楚に滅ぼされると博徒などに身を落としていたようですが、漢初に黥布討伐の献策をした薛公がでて再興し、薛蘭へ…
…あやしい……博徒のあたりが限りなくあやしい…

李封は見つかりませんでしたが、今度は広武君李左車が趙郡李氏の系図のなかにいました。趙の名将李牧の孫らしいんですが…これって史記に書いてありましたっけ?」

黒竜は話が長いので有名だ。
ポン引き 黒竜 2001年11月12日月曜日 21時23分
「あと崔鈞と州平のことですが、仮に同一人物だとしたら

軽蔑していたとはいえ戦乱に死んだ父の人生に無常を感じ、
荊州に流れて以後仕官せず…

なんて、あまりにも小説的すぎますね…」

私は相手に誤解を与えないように噛み砕くように説明してやった。
マスター ぐっこ     2001年11月13日火曜日 01時23分
「 >左平(仮名)様
ふえ…。宮城谷先生がそうである以前に、左平様の史料の幅広さに呆然としておりますが、いかがお過ごしでしょうか(;^_^A
四知…わたしも後者の天地バージョンしか知りませんでした~(;^_^A そうか、原文は天と神だったわけですね…。当時の様式からいって、そのほうが正解なんでしょうけど…。
しかしまあ、田中芳樹先生が仰ってた「演義さえろくに読まずに三国志モノ書いて、中国小説を書いたと宣伝する勘違いしてる作家(女将軍伝あとがきより)」が雨後の竹の子のように生え揃ってる中、宮城谷先生は目立ちますよね~。

 >黒竜様
薛蘭、孟嘗君の薛氏とは違いましたか~。残念なようなホッとしたような…。でも孟嘗君以上に名門なんですね~! ……本当だろうか(;^_^A 
それに李氏。李左車が李牧の孫…? う~ん…? なんか、趙の名将の孫かひ孫が、これまた有名な人物だった…という話をどこかで読んでるんですけど…たぶん李ではなかったような…。
後世の家系図は、つなぎ換えも承ってるのか!?(;^_^A
それと崔修平。崔鈞と同一人物だとすると、なるほど……ドラマチック。後漢末の爛熟した空気にうんざりしてたうえに、董卓と真っ向から対立…。疎開先の襄陽アカデミーで、見込みのある若者に政治の要諦を伝える…。崔修平、案外格好いい人かも…」

中根東竜はちょっと間をおいて、また続けた。
職業不明 中根東竜   2001年11月13日火曜日 14時36分
「>ぐっこさん
>それにしても、中根東竜様、それだけの史料、どこで集められたのですか~(T-T) うちの近所には図書館しかなくて…。

前の投稿で挙げた史料は神保町に3年ほど足繁く通って(神保町は通勤・通学ルートの途中なので)、かき集めた物です。
ですから、神保町に通えばぐっこさんも入手できますよ。

>関羽

『新唐書』をみてみましたが、関氏系図は唐の徳宗の宰相を
やっていた関播という人物のでっち上げかも。

だって、始祖が伝説の人物・関龍逢で、その後全く記述無く
関羽ー関興と続くのは非常におかしいです。その関興の子孫を
称した人々が住んでいた地域も魏の領土内の信都ですからねぇ。
なんで蜀の武将の子孫が魏に移動しているのでしょう?
しかも、他の系図には最近の人物が複数書かれているのに、関氏
系図のみは関播一人のみ。・・これは妙ですな。

>黒竜さん

>関龍逢のことですが「商大夫」とあったので商の人かと思いました…

これは単純に『新唐書』の誤りと考えて良いと思います。歐陽脩(『新唐書』の筆者)も何でこういうケアレスミスをするかなあ?
もっとも、この系図自体先に述べたように関播の偽作の可能性が
否定できないので、関播が朝廷に提出した系図が既に誤っていた
のかもしれません。

>左平(仮名)さん

『資治通鑑』を使うのは中国史の記述をするときには良くありますので、他の後世の史料とは分けた方が良いかも。

『資治通鑑』は、正史以外の実録・野史の類を司馬光はふんだんに持っていて、それをかなり正確に配置しているので、正史の次に(正史が誤っている時には正史以上に)重んじられる史料ですからね。後世とはいってもこれは別格。宮城谷氏が使うのも良く分かります。

なお、『二十二史剳記』は新しい史料を引用するのではなく、
単に正史の事項を研究した本なのでちょっとこれは用いないでしょう。
四知の話しも載っていないはずです。

左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。
ヒモ 左平(仮名) 2001年11月13日火曜日 22時39分
「>ぐっこさん
史料の幅広さ、と言われると、少々気恥ずかしいです。中根東竜さんにくらべると、私の手元には、まったくと言っていいほど資料はないんですよ。
あるのは、宮城谷昌光氏の作品(それも、春秋まで。戦国以降はまだ一部)と陳舜臣氏の作品の一部(ほか、塚本靑史氏、伴野朗氏の作品が少し)、『韓非子』(現代語訳付きのもの)、白川静氏の『字統』(普及版)、先述の『新字源』(普通の漢字字典です)、それと『三国志全人名事典』くらいのものなんです。
ですから、先に書いた内容は、すべて手持ちの漢字字典から拾い出したものです。なお、「四知」の内容が「天、神~」と「天、地、~」の二種類あるというのは、宮城谷氏自身が『三国志』の第一回で書かれています。
>中根東竜さん
非常に詳しいご説明、ありがとうございました。『資治通鑑』、手頃なものがあれば入手したいものです(私程度の素人には、『十八史略』(現代語訳付き)くらいが現実かな?)。
ただ、神田神保町までは、私もぐっこさんも、なかなか行きにくいのですが、、」


Cafe日誌No.68
2001年11月13日火曜日 03時36分

夜もどっぷりと更けた頃、わりとよく来るおばらが入ってきた。「マスター、いや、少佐……」 おばらは、私の古傷を疼かせるような口調で話し始める…何を思ったのかマダムの話しをはじめた。
ポン引き おばら 

おう?!
自分でたてたスレッドがすごい勢いで成長^-^;;
ということでさらに新スレを。

補足!
周知ですが薛綜が孟嘗君の子孫だとか。まあ、これも怪しいといえばキリがありませんねぇ。^-^;;
ドマイナ~薛公ですが、もともと楚の令尹(宰相)だったとのこと。しかし戦国熊氏の楚なのか、項羽の西楚なのか、はっきりしませんねぇ。
黥布を破る献策をして1000戸の大名になっています。でも史記高祖功臣侯者年表には1000戸の薛公の名は無いので、列侯にはなれなかったみたいです。っていうか、たぶん公って名じゃないような・・・。

そして、李牧と李左車。史記にはそういった関係は見当たりませんね。
実際のところ、どうなんでしょうか・・。

ちなみに、意外な子孫再興話があります。
楽毅の孫、楽叔は劉邦にみいだされて華成君となります。また一族で楽瑕公・楽巨公が学者としてかなり著名だったようです。

ではでは」

なぜここまで自信たっぷりに話せるのだろうか。・・・・理解に苦しむ。
さびしがり屋の黒竜が話に割って入った。
ポン引き 黒竜 2001年11月13日火曜日 20時42分
「新唐書宰相世系表は読めば読むほどあやしさを増していきます。

試みに漢楚の人物を捜したところ、
鍾離眛…→(中略)→鍾ヨウ。。。などは序の口、
陳余が陳嬰の息子だったり、劉邦の父親の名前はおろか字までのってたり…

これだけあやしいと最早どれだけいかがわしい家系図かを楽しむ世界です…」

私は一つの古い話を客に聞かせてやった。
マスター ぐっこ     2001年11月14日水曜日 00時37分
「じゃあこちらで前スレのレスも~!

 >中根東竜様、左平(仮名)様
いや~、私は神戸ですから、左平(仮名)様の仰るとおり、聖地巡礼もままなりません(;^_^A 古びた地下古書市で、ごくまれに掘り出し物にぶちあたるくらいで…。神保町いいなぁ…。
左平(仮名)様、それだけあれば充分です~! 私も最近になって宮城谷作品(文庫のみ)かきあつめてますが、ハードカバーの子産や沙中の回廊は図書館で借りたきり…。あとは三国志文献のコピー少々のみ。こないだ三国志研究要覧を県立図書館から取り寄せたのですが、膨大な数の三国志論文に呆然…。みんなこんなに読んでるの!? プロは凄い、と思いました。
資治通鑑、私も欲しいです! 図書館にあるのは抄訳だから…。

 >関羽
ちょうどいま手元にあった新潮選書の「関羽伝」によると、現在関羽の故郷である常平村には、関羽六二世が存命中とのこと(;^_^A まえNHなんとかいうテレビ局がやってた諸葛村に近いノリですが、その関新剛氏は党委書記として村の世話役のような方だとか。
残念ながら家系図は一部のみしか記されてないんですが、どうも関羽――関興――関彝……関朗――関康之(←日本人みたい(;^_^A)――関播……と続くようです。
うさんくさいなあ…(;^_^A」

こういう客はどう返事していいものか悩む。
マスター ぐっこ     2001年11月14日水曜日 00時38分
「 >おばら様
薛公…う~ん、資料的なあやふやさをからいって、戦国時代に想定されてる可能性あり。項羽の下で令尹やってたら、タイミング的に黥布とかぶるような…。あ、そういう「伝説」なんですよね(;^_^A 
李家も史記のラインでは実証できませんか~。どうも有名人は繋がってしまいがち…。個人的には、楽毅には楽進と繋がって欲しい(;^_^A どこかの宰相列伝で、楽毅…楽叔…楽進…楽○とかがあったら全面的に支持します。

 >黒竜様
鍾離眛…→(中略)→鍾ヨウ!? どこで単姓に!? 鍾離牧ならまだしも…。まあ、鍾の字が付く有名人を捜してたんでしょう(;^_^A 日本でも家系図屋が繁盛したと聞きますが、唐代では相当うさんくさい連中が手掛けてたんでしょうな~。私のところも遡ったら清和源氏くらいいくかも。奥州の家老の家らしいですけど。一説では桜島の農民だったとも。
劉邦の家系図があると言うことは、やはり劉家の子孫もいるわけですね~。日本では丹波哲朗。」

そこに左平(仮名)の登場である。全員が愛想笑いを始めた。
ヒモ 左平(仮名) 2001年11月14日水曜日 21時02分
「李牧と李左車の関係はさっぱり分かりませんが、、また、煽って(?)みます。
『史記』に出てくるもう一つの李将軍(家)、忘れてはおられませんか?そう、李広・李陵の一族です。彼らの先祖は、始皇帝の頃に活躍した将軍・李信だとの事です。
家系をたどると、、李信…李広-李当戸-李陵-?
              -李椒-?
              -李敢-?
※李陵には、匈奴に降った後に生まれた子がいましたが、呼韓邪単于(王昭君の最初の夫)の時代に叛乱にかかわり、処罰された様です。その後の事は不明。
※李椒・李敢の子孫については、何も伝わっていません。あるいは、李陵が降った際に皆殺しになっているかも。
匈奴や鮮卑といった遊牧騎馬民族は、民族の記録を残していませんから、何とでもいい様があります。あるいは、「李将軍の末裔」と言っていたのが混同された、という事もありそうに思えるのですが、、」
左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。
ヒモ 左平(仮名) 2001年11月14日水曜日 23時45分
「↑の家系ですが、ちょっとずれてしまいました。李椒・李敢は李広の子で、李当戸の弟です。この三兄弟は、いずれも飛将軍・李広の名に恥じぬ名将だった様です。もっとも、早死にとか、暗殺とかで、李広同様悲劇的な最期なのですが。
家系の偽造についてですが、、たとえば、徳川氏は吉良氏(忠臣蔵でおなじみの吉良上野介義央の吉良氏)から清和天皇の血筋という設定を拝借した(了解は得ている…はずです)という例がありますね。
私自身も、たどりようによっては、藤原氏あたりにたどり着くかも知れません。
蛇足ですが、ウグイスの物まねで知られる江戸家猫八(字、合ってますか?間違ってたらごめんなさい)師匠の先祖は、かの源八幡太郎義家の(実際はその家臣の)子孫という言い伝えがあるそうで、息子さんの小猫師匠(字、合ってますかねぇ。不安です)の本名は八郎です(ちなみに猫八師匠の本名は六郎です)。」
左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。
ヒモ 左平(仮名) 2001年11月14日水曜日 23時55分
「なんで私の登場に対して“愛想笑い”を?このナレ-ション、ほんまに予測できませんね。」
黒竜は話が長いので有名だ。
ポン引き 黒竜 2001年11月15日木曜日 01時05分
「李陵の血筋もあるにはあるんですが…
李陵から一気に唐まで飛ぶのでアレです(もっとやる気を出せといいたい)。

漢楚の人物も結構見つかりました。
陸賈 張良 王翦 蕭何 韓王信 楊喜などは順当として

あやしいのは
春秋の宋国→宋義→宋昌 とか
信陵君→不詳→魏無知 となってるあたりでしょうか。 
楚漢から漢初にかけて資料が少ないのを良いことにかなり弄ってるような…

意外なのは曹氏、夏侯氏など、曹操達はおろか参や嬰も出てきません。
河南の劉氏や渾氏のように素直に匈奴の末裔を名乗ってるのもいますし(前者は去卑、後者は渾邪王)…」

私は内心うんざりしていたが、にこやかな顔でこう答えた。
マスター ぐっこ     2001年11月15日木曜日 22時24分
「春秋と史記も必要になってくるなあ…(;^_^A もそっとお金が貯まれば、どばっと買いたいのですが、和刻本後漢書の全コピで7000円ほど使っちゃったし…。

 >李陵一族
あ、李氏の血統って伝が途絶えてるんですか!? まあ末路が末路だけにしようのない話ですが、自称子孫もあまり見られないのですか~。

 >唐
一種のミッシングリンクですからね~。いくらでもいじれるし、それを嘘だと証明することさえ(例外はあるけど)不可能。やっぱり先祖様を持ち出さないとでかいツラできない時代だったんですね…。
でも自分が誰の子孫を名乗るかは自由として、勝手に有名人を血縁にしないで欲しい(;^_^A

 >曹氏の子孫
それですよそれ! 演義の普及した現代なら分かりますが、昔から曹氏や夏侯氏って不人気ですよね~! それだけ司馬氏の締め付けも厳しかったのかな…。そういえば劉禅の子孫って唐代まで残ってるんでしょうか…。 

 >ナレーション
デフォルトのハードボイルド版をそのまま使ってます(;^_^A チャンドラーな気分です。」

通りすがりの松竹梅が声をかけてきた。
職業不明 松竹梅     2001年11月16日金曜日 20時21分
「曹操の子孫、どこかのサイトで取り上げられていたはずと思ってちょっと探してみました。
唐代の画家で曹覇という人がいるそうです。
http://www2.nightmare.to/~nobmatsu/
【逸聞三国志】さん(勝手リンク御免)の
「逍遥雑記」2/22・7/25・8/7・8/14日の項に
曹覇関係の記事があります。是非ご覧あれ。

田中芳樹も、彼について取り上げていたことがあったような…」

黒竜は話が長いので有名だ。
ポン引き 黒竜 2001年11月16日金曜日 22時23分
「唐の皇族の李氏が一応李広の末裔ってことになるらしいですが…
やっぱりこれも「実は鮮卑」説が強いとのこと。

曹操には曹覇のような子孫ではないですが、明末の群盗、羅汝才が自らを「曹操」と號したそうです。
明末には他にも混世王とかいますが、講談や小説の影響らしいです。
タイガーマスクやサンダーライガー(プロレスラー)の世界ですな…」

おばらはこうも言った。
ポン引き おばら   2001年11月17日土曜日 04時46分
「ぐあ~~
まだまだ続く、長大スレっど。

>李陵一族>ぐっこさま
飛将軍李広の子、李敢は霍去病に暗殺されますが、
李敢の娘は戻太子劉拠に寵愛されます。
息子の李禹は虎に向かって行く勇敢な漢でしたが、李陵が匈奴に降ったあと、李禹も匈奴へ逃げようとしていると讒訴され刑死・・・。後、戻太子も非業の死・・・。李敢の娘がもし子を産んでいたとしても、このときに殺されているはず。
李陵の子は、匈奴内乱のときに一勢力を保って自ら単于を立てますが、結局戦で負け死んだ?。詳細不明。

また、飛将軍李広の従弟李蔡は匈奴を討って二千戸の安楽侯になり、武帝期に丞相となりますが、罪を得て自殺・・・。しかし、こちらの一族はどうやら残った模様。(中華書局『漢書』景武昭宣元成功臣表より)
でも、表の最後の段(玄孫の欄)の見方がいまいち解らないので・・・。
皮氏とか武陽と記されているのですが、明らかに土地名ですよね。子孫たちがその土地に住み着いた、ということですかね?
ちなみに李蔡の下には「昌」と書かれています。昌は瑯邪郡に属すらしいです。高不識の下にも「昌」、、んん?
どう見ても侯の名前ではないし。う~む。わからん。」

とにかく、ここは一旦相手を落ち着かせなければならない。
マスター ぐっこ     2001年11月17日土曜日 21時32分
「 >松竹梅様
拝見して参りました~!
なんと馬の専門画家!? かの杜甫が大ファンで、賛の詩を贈ったという…。こりゃあ意外だ…。
でも「曹将軍」といわれ、「青門為る」…ということは、かなりの高位にいたということですよね~。ただの画家というわけではなさそうで。私もこの人物調べてみます~! 
でも、NOB様も仰ってるように、「曹覊」と「曹霸」のどちらが正しいんだろう…(;^_^A

 >黒竜様
まあ北朝の実力者はたいがいが非漢人だったようですから…。でも「嘘とは言い切れない」範疇でしょうか~? その旧主たる楊家のほうは、無理があるんでしたっけ(;^_^A
群盗が「曹操」を号する!? 落ちたもんだな曹操! …まあ、「小覇王」とか「小馬超」みたいな、名誉称号だったのでしょうか…。

 >おばら様
当たり前ながら、先祖話は探せば探すほど出てくるようで(;^_^A やはり李家は漢のほうも匈奴のほうも全滅気味ですか…。
あ、従弟の家は残ったのですか!「昌」…はて? 表どころか漢書も史記もないので確認できませんが…封地の名なんでしょうか…?」

左平(仮名)は話が長いので有名だ。
スリ 左平(仮名) 2001年12月10日月曜日 20時18分
「急に以前のスレッドを上げますが、ご容赦下さい。
↑で私がちらっと言った江戸家猫八(本名、岡田六郎)師匠が亡くなられたそうです。享年80歳。
まごう事なき清和源氏の棟梁である、名将・源八幡太郎義家の(実際はその家臣の、らしいです)子孫という猫八師匠のご冥福をお祈りします。」
私は答えに窮したがとりあえずこう答えておいた。
マスター ぐっこ     2001年12月10日月曜日 20時34分
「ああ、私もこのスレ上げようと思って帰ってきたところです~!
いまテレビでさかんに声帯模写とか映ってますよね…。謹んでご冥福をお祈りします。」


Cafe日誌No.90
2001年12月23日日曜日 21時48分

他の客も酔いが回ってきた頃に、わりとよく来るおばらが入ってきた。こう見えても金には汚い。おばらは現地の人間でも分からないのでないかという癖のある訛りでがなりだした。
ポン引き おばら   
「あ゛~クッキーが腐ってるぅー。
いつも変にアジテートして去って行くおばら再登場ですわ・・・。
今日は陸家のお話ということで。

陸[門+広]、字は子春。AD25~AD55のどこかで尚書令になってます。美男子だったようで、越産の布単衣を着て、光武帝に気に入られたそうな。陸賈の子孫かなんかですかね?

その孫が陸續、字は智初。故郷の会稽郡郡守尹興の下で貧民救済してます。そのとき粥を振舞った600人以上の人の名前を覚えていたとか。楚王劉英の謀反に連座し拷問されるも、母の「真四角の肉・一寸の葱」の差し入れで孝行者として赦免される。一生仕官できずに老衰死。

続の長男が広陵郡太守陸稠、次男が楽安郡太守陸逢、末子が陸褒。

陸褒は学を好み孝行者。名誉を捨て、志を貫き一生仕官せず。

褒の子が陸康、字は季寧。義烈を称され臧旻に茂才に推挙され高成県令になる。武陵太守・桂陽太守・楽安太守と、後の孫呉の重要都市の太守に就任。銅人を造ろうとして百姓への増税を図る霊帝を上疏して諌め、大不敬罪を劉岱によって救われる。故郷呉へ強制送還させられ、後廬江が、賊の黄穰ら+江夏異民族連合=10余万人で騒がしくなったので、陸康は廬江太守に任命され悉く賊を降す。その功績で孫の陸尚は郎中に。
その後、袁術が寿春で飢え陸康に食料援助を頼んだときに断った為、袁術配下武将の孫策に攻められる。陸康は2年間篭城するも、70歳で病死。城は落ち、一族百人以上が餓死・病死。朝廷は彼の節義を憐れみ、子の陸儁を郎中に任命しています。末子の陸績は先に城から落ちていたために助かっています。

以上、後漢書の要約でした。誤訳あったらゴメンナサイm(_ _)m

あとは、正史三国志の陸遜陸績陸瑁の伝にある通りです。

誰か「陸家その後」続けてくれないかにゃ~?晋代とか・・・。(←煽ってマース^-^;;」

そう言って、口の周りをゆっくり舐め回した。
こういう客はどう返事していいものか悩む。
マスター ぐっこ     2001年12月23日日曜日 23時25分
「うぐお! 陸家のご先祖様たち!情報ありがとうございます!
いま系譜つくろうと思ったんですが、何故かADSLがストップしてしまい、細々とアナログ接続してますので、また後日(;^_^A どなたか書いてくださらないかな…←オイ

たしか玉川様が晋代の陸家にお詳しかったような…(逃げ腰)。
実際、玉屋にある系図等(2ちゃんねるで大活躍中)にあったハズ…。
なるほど~、呉の名族陸氏も、いろな歴史を経ているわけですね…。
意外に格好いい陸康! 蒼天航路では散々でしたが…。」

玉川雄一という私立探偵が話に入ってきた。こういうところは抜け目がない。
私立探偵 玉川雄一     2001年12月25日火曜日 01時00分
「…うぐは!
陸機、陸雲は香香さんにお任せして(←責任転嫁)、
せめて陸曄でも調べてみるとしますかにゃ。

…ところで、誰が2ちゃんに紹介したんだろう?
私、松竹梅さんのBBSで見るまで知りませんでした(^_^;)」

おばらはこうも言った。
ポン引き おばら     2001年12月25日火曜日 02時03分
「2ちゃんですが、初めて2chを恐る恐る覗いたとき、たまたま春秋戦国スレだったのですが、なんとぐっこさまにお贈りした拙系図が紹介されてましたよ・・・。なんだか、私の系図とぐっこさまの考察について色々言われてましたが。(笑
以後、一ヶ月に一回くらいでしか2chは覗きませんねぇ。
私、ああいうの苦手なんですよー。(^-^;;
っつーか、2ch用語もあんまり解らないので(T▽T)

>玉川さま
玉屋が引用されてるスレを今見てきましたよ~。
うむむ、盛り上がってますな。ホントに一体誰が・・?(笑
それと、『晋書』からの救援、お待ちしておりますm(_ _)m←他力すぎ

あと、陸家をさらに遡れる方いらっしゃったら、是非是非教えてください。結構気になっているので・・・」

こういう話に限って参加してくる若造がいる。・・・・・NOBだ。
職業不明 NOB      2001年12月25日火曜日 04時53分
「こんな時間ですがこんばんは~(^-^)

つい最近(読んでる暇はないのですが)読んだ論文に、「孫呉政権と陸氏の群像」(松本幸男、「学林」22号1~30)というのがあり、黄帝(爆)から魏晋まで陸氏をたどっていました。出典として引かれているのは史記陸賈伝索隠に引く『陸氏譜』、『元和姓纂』、おなじみ『新唐書宰相世系表』などです。
長いですが、書いてみますね~。

黄帝-昌意-センギョク-窮蝉-敬康-句望-橋牛-瞽叟-舜……【陳】胡公-申公-孝公-慎公-幽公-釐公-武公-平公-文公-陳他-田完-?-ビン-須無-無宇-乞-常-盤-白-【斉】太公-桓公-威王-宣王-達(ここから陸氏らしい)-發-萬-烈(続く)

途中、本筋と関係のない兄弟などは省きました。ちなみに陸烈の従甥が、史記に伝の立てられている陸賈です。陸烈のときに呉に移ったそうです。(ちなみに陸賈は祖父が楚に移っているので、楚人になってますよね)

陸烈-[目于]-鴻-建-曄-恭-[王黄]-文-親-衆-賜-[門+広]

事跡などは一切書きませんでしたが一応[門+広]までたどり着いたので、後は玉川さんにお願いします!(爆)
それではおやすみなさい~(汗)」

そのとき、壁に向かってブツブツ喋っているレディがいた。
場末のNO.2 香香 2001年12月25日火曜日 13時16分
「うお!陸家ネタですね!
それにしても、NOBさまの系図すごすぎます(汗)。黄帝からスタートしているし(爆)。私が知っているのは三国志の範疇においてだけですので・・・。
お忙しいのに、有難うございます!
って、私が言ってどうする(爆)。
それでは、玉川様、よろしく(~_~;)!
晋書の陸機・陸雲伝をナナメ読みした時、この二人の列伝はヤケに小説めいているというか、よく書かれ過ぎているな~なんて思ったもんですが(笑)。他の人のも読まないとなぁ。メジャーな人物意外全然読んでませんから(滝汗)。
いや、それ以前に読めません(爆)。「解体晋書」がたよりです(~_~;)」
おばらはまだ言う事があるらしい。
ポン引き おばら     2001年12月25日火曜日 16時09分
「うを!さすがNOBさま・・・。
っと、史記陸賈伝索隠の引用ということで、触発されて私も中華書局『史記』レキ生陸賈傳第三十七を見てみました。

『陳留風俗傳』はこう伝える。「陸氏、春秋の時の陸渾國の後裔なり。晋侯が陸渾國を討ったために、陸渾子は楚に逃げた。陸賈はその後裔なり。」と。
また『陸氏傳』はこう伝える。「斉の宣王の子、達は陸で食菜す。達は發を生み、發は皋を生む。皋は楚に住みつき、陸賈はその孫なり。」と。

うーわ~、すんごい適当な訳だ(T▽T)

>NOBさま
卒研どうっすか?こっちは・・・ぐへっ。」

玉川雄一は話が長いので有名だ。
私立探偵 玉川雄一     2001年12月25日火曜日 19時41分
「あらら、また回ってきてしまった(^_^;)
えー、では陸康の方は… 陸績の子の会稽南部都尉・陸宏と長水校尉・陸叡、張白に嫁いだ娘の鬱生ですか。これで打ち止め(?)のようです。

陸遜の方は…皆様ご存じでしょうが(笑)
陸延と陸抗。陸抗の子は晏、景、玄、機、雲、耽。
下の三人は揃って303年に死亡。一網打尽ですね。
ちなみに機の子の蔚、夏も同じ年に亡くなっています。

また、陸遜の弟の陸瑁とその子までは呉書に載っていますね。
陸瑁の子は滂、喜、英、偉、顔。喜の子が育。
で、陸英の子の陸曄(士光、261-334)が晋書に立伝されています。
「陸曄字士光、呉郡呉人也。伯父喜、呉吏部尚書。父英、高平相、員外散騎常侍。曄少有雅望、従兄機毎稱之曰、『我家世不乏公矣。』居喪、以孝聞。同郡顧栄與郷人書曰、『士光気息裁屬、慮其性命、言之傷心矣。』」
…で始まるのですが、コレって褒められてますか?
当初は文官ちっくに昇進したようです。散騎常侍、侍中、尚書、州大中正、光禄勲、太常、尚書左僕射、太子少傅、左光禄大夫…
また軍事にも携わったようで、蘇峻の乱を平定して衛将軍になったり開府儀同三司にしてもらったり爵位を勧められたり。
「峻平、加衛将軍、給千兵百騎、以勲進爵為公、封次子暇(の編が古の字)新康子。」ってありますが…
密かに次男が陸暇(の編が古の字)だというのでしょうか。今発見♪

で、後に郷里に帰り、74歳で亡くなったとか。追贈して侍中、車騎大将軍。おくりなは穆。子の[言甚]は散騎常侍になりました。

…陸曄はこないでいかがでしょう?
あと、弟の陸玩の伝もくっついていたりしますが(^_^;)

こういう客はどう返事していいものか悩む。
マスター ぐっこ     2001年12月25日火曜日 21時34分
「うわわわ~~! たった一晩で…!
ええと、NOBさまの黄帝~桓公~陸[門+広]からスタートして、おばら様の~陸康~陸績につづき、玉川様の陸瑁~陸曄~陸暇…と。

……うわ~っ(;^_^A
こりゃあ、系譜にし甲斐がある~。
なるほどお、「陸氏傳」だと斉の宣王の子・田達が、陸氏の祖だと…。ええと、宣王って孟嘗君の父・靖郭君のお兄さんですよねえ。だから、田(陸)達は孟嘗君にとって従兄。
しかし「陳留風俗傳」だとかすりもしない…。個人的には陸氏傳のほうが嬉しいですけど、たぶんこっちはウソのような気が(;^_^A
でも陸氏傳どおりだと、やっぱり陸遜の血は黄帝まで遡るわけで…。斉の田氏を引いていたとは。

で、アフター陸遜(;^_^A
陸績の一門は案外早く打ち止め…。陸遜一族も曾孫の代でほぼ壊滅…。
陸瑁の一族がいちばん長引いたんですね~。陸暇…って、何した方なんでしょう…?」

ちょうど、店に酒を運びに来ていた酒屋の左平(仮名)が口をはさんできた。
スリ 左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時05分
「一度ならず二度までも、、書き込みが反映されない~!!
…というわけで、しつこいですが、もう一度。
『陳留風俗傳』の記述を見て、ひょっとしたら、と思い、チェックしてみました。すると、、
『沙中の回廊』(下巻)に、楚の荘王が、洛水上流域に蟠居する陸渾の戎を討った、という記述がありました。
仮に、陸渾國=陸渾の戎と考えると、陸氏の故地は、華山の辺り(黄河がL字形に屈曲する辺り)という事になります。」
左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。
スリ 左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時11分
「陸渾國の姓が何であるのかまではどう調べればいいのか分かりませんが、斉の王室の系譜を拝借したのだとすると、あるいは陳と同じくキ(女に爲)姓だったのかも知れません。」
おばらはちょっと間をおいて、また続けた。
ポン引き おばら     2001年12月26日水曜日 00時22分
「はいは~い(^-^;;
早速、陸家系図を作りましたー。
【玉屋】の玉川雄一さま、【逸聞三國志】のNOBさま、そしてぐっこさま。
ほんとに情報ありがとうございました。m(_ _)m
うーん、この充実感は何??

http://isweb39.infoseek.co.jp/novel/t-obara/riku-ke.htm
にUPしましたんで、よろしかったら見てやってください。

また、ぐっこさまにはめいるにGIFを添付して送りました~。怪しくないんで開けちゃってくださいな。

玉川さま、これからそちらにご挨拶に参りますです。」

NOBはちょっと間をおいて、また続けた。
職業不明 NOB      2001年12月26日水曜日 00時53分
「>おばらさま
作業早いですね(^-^;
力作、お疲れさまでした。手元の資料で系図中の「○」を少し補足できそうですので、書かせていただきます。

1.陸賈の父ですが、陸ヨウ(巛邑)だそうです。
2.陸続の父は陸桓(字・叔文)だそうです。桓には?(ギョウ)・温という兄がいたらしいです。
ともに出典は『新唐書宰相世系表』です。

本来ならおばらさんに直接お知らせするべきでしたが、話題の流れ的にこちらにまとめて書いておく方が便利だと思ったのでぐっこさんのところに書かせていただきました。m(_ _)m

#卒論、焦ってます(笑)

>玉川さま
おぉ、晋書に陸曄がいたのですか!知りませんでした…(オイ~!)
てっきり前漢の陸曄かと(爆) なるほど、勉強になります。

<陳留風俗伝
この件は、私が引いている論文でも触れられていました。索隠で先に『陳留風俗伝』の記述が引かれ『陸氏譜』のような説も他にある、といった感じで、史記索隠の著者である司馬貞も『陳留風俗伝』のほうを信じていたのだろう、と。しかし論文の著者である松本氏、「陸賈の「詩」「書」に対する豊かな教養を思うと、やはり『陳留風俗伝』には従えない」だそうです(爆) そんなもんなのでしょうかねぇ…?

ちなみに陸賈について、『元和姓纂』は「呉の丞相陸遜は、陸賈の裔孫である」と間違って書いているそうな…ひょっとして、家系をよく見せようと思ったゆえの改竄があったのでしょうか?(^-^;」

おばらはちょっと間をおいて、また続けた。
ヒモ おばら     2001年12月26日水曜日 01時35分
「むむ、またもや『新唐書宰相世系表』の登場!
大活躍ですな(^-^;;
>左平(仮名)さま。
『史記』匈奴列伝によると、陸渾を攻めた晋侯とは晋の文侯だそうです。そして陸渾には匈奴人もかなり混じっていたとのこと。
『陳留風俗伝』を信じるならば、陸さんは異民族の子孫って可能性もあるんですかね。

>NOBさま
追加情報ありがとうございます。もーお世話になりっぱなしですm(_ _)m さっそく改良しました。

>ぐっこさま
『漢書』地理志だと、春秋の時、陸渾の戎は弘農郡に移されて、その地を陸渾と新たに名付けたとのこと。う~む、色んな情報がでてくるなぁ・・。」

左平(仮名)は話が長いので有名だ。
ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月26日水曜日 21時19分
「陸渾を討ったのは、文侯(重耳ではなく、仇の方)ですか。と、いう事は、紀元前8世紀後期(西周→春秋の境くらい)ですね。楚の荘王よりも先です。陸渾は、晋・楚の両方と戦った事があるというわけですね。なかなか精悍な氏族(?)です。
ただ、この頃から匈奴が存在していたかどうかが、、。「匈奴」という名(民族名か政権名かは不明)が史書に出てくるのは、戦国時代の頃からの様です。
蛇足…確か、匈奴は夏后氏の末裔、と『史記』に書かれていたかと。
あるいは、狄族との関連があるのでは?『沙中の回廊』での描かれ方をみると、狄族は半端でなく強いです。衛を一度は滅ぼし、晋ほどの大国も相当苦しめた相手です。名将・士会でこそ勝てるけど、というくらいに。」
私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。
マスター ぐっこ     2001年12月26日水曜日 21時53分
「 >おばら様
系譜、修正版ともども拝領しました~っ! は、はやい…。しかも精巧な…。可及的速やかにアップできるよう頑張ります~!!
いま趙家の系譜と並べてみてみましたけど、なんだか凄いですねえ…。神話の時代からスタートして、有名人を経由しつつもきちんと繋がってることに畏怖を覚えます! 新唐書色んな意味で恐るべし。

 >NOB様
補足説明ありがとうございました~! それにしても、陸氏ひとつでここまでの系図が出来上がってしまうとは…。繰り返しますが、新唐書の編纂者の執念に脱帽。
陳留風俗伝…軽く見られてますかな(;^_^A どーも、コチラの方が身も蓋もない書き方なので通っぽいですけど…。ただ、記述がアバウト。史家のツッコミどころも多いんでしょうか。松本先生…。
卒論がんばってください~(;^_^A

 >左平(仮名)さま
ということは、まず陸渾国の戎たちは、春秋時代、三國志で言うヘイ州あたりから弘農に移り(強制?)、その地に陸渾国をつくる、と。で、晋の文侯に攻撃されて楚に逃亡。で、しばらく後にこんどはまたまた楚の荘王に攻撃される、と。この時点で二派に分かれてたのかなあ…。
陳留風俗伝では、陸賈はこの陸渾国子の子孫。たしかに非漢人の血が濃ゆいですね~。
宮城谷作品では、北方の民族は化け物みたいに強い場合が多いですよね~! 三國志の呂布が楽しみです(;^_^A」

玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。
私立探偵 玉川雄一     2001年12月27日木曜日 21時17分
「えー、では陸曄の弟の陸玩(士瑤、278-341)。彼の方が兄より記述が多めです(^_^)
まあ、かいつまんで言えば兄と似たような地位を歴任したようです。
奮武将軍の地位は病で辞したようですが、蘇峻の乱の鎮圧において兄と共に功を挙げ興平伯になったり。
尚書左僕射だの尚書令だの左光禄大夫だの開府儀同三司で散騎常侍-この時何度も辞退しようとして結局押しつけられた(笑)らしい-だの。
子の陸始が跡を嗣ぎ、侍中、尚書になったそうです。

んで、陸玩の今一人の子が陸納(祖言、?-394)。「少有清操、貞萬絶俗」だそうです(ってどういう意味?)
建威長史、黄門侍郎、本州別賀、尚書吏部郎、呉興太守…
太常、吏部尚書、奉車都尉、衛将軍。

何やら、謝安を迎えるのに「茶果」だけで質素に迎えようとしたら、「其兄子俶」が(謝安に)豪勢な贈り物をあげたとかで陸納がマジ切れしてしまい、四十杖ほどしばいたそうです。
おそらく、陸納の兄の子が陸俶というのでしょうか。またも新発見♪
その後、兄の子の陸禽が罪を犯したために自らも免官を求めるも降格で済んだりして、尚書僕射、(尚書)左僕射、散騎常侍、尚書令に。
最後は会稽王・司馬道子絡みでなにやらあったようですが、まずは天寿を全うしたかと。
で、子の陸長生は先に亡くなっており、弟の子の陸道隆が跡を嗣ぎました。陸道隆は元熙年間(419~420年!)に廷尉になったそうです。

陸納には「兄の子」として陸俶、陸禽がいるようですが… 陸始の子と考えて良いのでしょうかね。
父の跡を嗣いだのが陸始ということで、陸始が兄で陸納が弟と考えてみました。その他にもいたのかはわかりませんが♪

また、陸納の跡を嗣いだのも…
「(陸納の子)長生先卒、無子、以弟子道隆嗣。」とあったのですが、陸道隆は「陸長生の弟の子」と解釈してみました。
この手の記述って多いんですよね。関係が微妙に分かりにくくて大変です(-_-;)

さすがに、これで打ち止めのようです。
どなたか、これより後の時代の陸氏についてご存じありませんか~?(^_^)」

仕方がないので、こう答えてやった。
マスター ぐっこ     2001年12月28日金曜日 00時00分
「「おさなくして清操あり…」までは分りますけどその後が…、俗を絶つ、のようなフィーリングで(;^_^A

それにしても! まだ陸家が続きますか!?
一つ質問ですが、陸道隆の段階でだいたい何年くらいでしょう(;^_^A
すくなくともこれだけの代に渡って人材を輩出し続けろとわ…!」

玉川雄一は話が長いので有名だ。
私立探偵 玉川雄一     2001年12月28日金曜日 01時06分
「うに。

>陸道隆は元熙年間(419~420年)に廷尉になった

420年とはズバリ、東晋最後の皇帝、司馬徳文が劉裕に禅譲して零陵王(すげェ封地ですな)となり、
晋王朝が滅亡した年です♪ ちなみに、翌年徳文さん殺されました(T_T)
まさに大河! ああ、楊さん家の方がもっと凄かったんでしたっけ。」

左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。
ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時13分
「六朝以降の陸氏(といっても、陸賈や陸遜とのつながりは特に書かれていないので、たぶん赤の他人でしょう)ですが、、漢字字典『新字源』の「陸」のところを見ると、何人か記載されていました。

1,陸羽(りくう) 茶道の開祖。「茶経」を著す。
  字は、、書かれていません。
2,陸九淵(りくきゅうえん) 南宋の学者。
  字は子静、号は象山。朱子のライバル的存在。
3,陸贄(りくし) 唐・徳宗期の政治家。
  字は敬輿、諡は宣。
4,陸元朗(りくげんろう) 唐初の学者。
  字は徳明。
5,陸游(りくゆう) 南宋の詩人。
  字は務観、号は放翁。生涯で数万という詩を詠んだとか。

ほかに陸機・陸雲・陸賈は書かれていましたが、陸遜がない!です。
このうち、割とあやしいのは、陸贄でしょうか、、。
NOBさん、すみませんが、「新唐書宰相世系表」をチェックしていただけませんか。」

左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。
ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時35分
「続いて、諸橋轍次氏の『中国古典名言事典』の人名索引から、、。

6,陸亀蒙(りくきもう) 唐末期(生没年の記載はないですが、皮日             休との親交があったという事から)の詩              人。字は魯望、号は江湖散人、天随子、甫             里先生、バイ(さんずいに倍の右側)翁、             江上丈人。、、号が多い、、。
7,陸秀夫(りくしゅうふ) 南宋末期の人。文天祥・張世傑とともに
              「三傑」といわれる。涯山の戦い(壇ノ              浦の合戦を、さらに大規模にした感じの              戦い。この戦いで南宋は滅亡するが、史              書には、戦いの後、嵐に遭い、「舟覆               る。世傑溺る。宋滅ぶ」と記載)の際、              舟中で「大学」を講じ、その後、入水し              た。

左平(仮名)は話が長いので有名だ。
ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時38分
「↑の書き込み、レイアウトを失敗してしまいました。見づらくしてしまい、すみません。」
左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。
ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 22時58分
「こうしてみると、陸という氏は、林などと同様、南方系なのでしょうか。」
NOBは話が長いので有名だ。
職業不明 NOB      2001年12月29日土曜日 00時15分
「左平さまに御指名いただいたので、僭越ながら書かせていただきます(^-^;

陸贄は見事にビンゴでありました!宰相世系表によると

陸瑁―英(長沙太守)―カン(衛伯玉の名前と同名/晉の中書侍郎)―(間に4代)―文盛(齊の散騎常侍)―宣猛(字は觀明/六朝梁の宣威將軍)―潯(六朝陳の吏部侍郎)―(間に8代)―齊望(祕書監)―[シ霸](吏部郎中)―陸贄(字は敬輿/徳宗期の宰相)

となっています。他にも陸元朗が、

陸續―稠(荊州刺史)―粛(丹徒令)―(間に9代)―鎮之(梁の給事中)―(文字化けで1カラム分意味不明)―雍(陳の豫章王の諮議)―元朗(字は徳明/秦王府の學士)

ということで、いずれも既出のご先祖様にたどり着くことができました(^-^)

その他の3名については探した限りヒットしませんでした。と、こんなところです。字はコピー&ペーストなので、旧字体のままで失礼します。」

左平(仮名)は話が長いので有名だ。
ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月29日土曜日 01時22分
「唐代の二人が“あたり”でしたか。NOBさん、調べていただいてどうもありがとうございます。陸秀夫もそうだと、悲運の名将(名臣)・陸一族というイメ-ジがより強烈になりますが、、それはさすがに妄想ですね。
それはそうと、唐という時代は、やはり中国史上、重要な時代だという事があらためて確認できます。その衰亡を機に、貴族社会が崩壊していくわけですから(宋以降、“〇〇の子孫”という名乗りをあげる人は少ない様に見受けられます。『水滸伝』に出てくる、大刀・関勝【自称・関羽の子孫。もちろん、架空の人物】くらいでしょうか)。」
NOBは話が長いので有名だ。
職業不明 NOB      2001年12月29日土曜日 02時30分
「>左平さま
すみません、2番目の書き込み、全部調査していませんでした(汗)

陸亀蒙は以下のとおりでした。っていうことは、陸瑁の子孫ですね。

陸玩(字は士瑤/侍中・司空/贈太尉・興平康伯)―始(字は祖興/五兵尚書・侍中)―萬載(臨海太守・祕書監・侍中)―子真(字は同宗/宋の東陽太守)―惠徹(字は監/齊の司徒府左曹掾)―閑(字は遐業/揚州別駕)―完(字は楚卿/梁の琅邪太守)―丘公(字は子岳/黄門侍郎)―[王深](字は潔玉/陳の黄門侍郎)―玄之(字は又玄/豫章尉)―元方(武后の頃の宰相)―景倩(右臺監察御史)―溥(少府少監/平昌縣男)―康(澤州刺史)―正興―賓虞(字は韶卿/侍御史)―龜蒙(字は魯望)

唐よりも後の陸羽・陸九淵・陸游・陸秀夫については、
【陸羽】字は鴻漸。一名として疾、字は季疵ともいう。復州竟陵の人。
【陸游】越州山陰の人。
【陸秀夫】字は君実。楚州鹽城の人。
と言うこと以外は分かりませんでした。それぞれ正史に伝が立てられていたので、先祖が辿れたりすると面白かったのですが…(^-^;」

玉川雄一はまだ言う事があるらしい。
私立探偵 玉川雄一     2001年12月29日土曜日 02時34分
「ひええ、本当に繋がっていらっしゃる…
どうも、ポイントは晋書に載っていない(と思う…)陸英の子孫とゆうワケですね。
陸曄、陸玩の他にも兄弟がいたとは…
そして、陸始の後がちゃんと続いていたとは!
何だかしやわせですわ。

…ということは、おばらさんの系図が更に伸びる?(笑)」

おばらはちょっと間をおいて、また続けた。
ヒモ おばら     2001年12月29日土曜日 02時45分
「『新唐書宰相世系表』読んでみたのですが、まだまだ陸家系図書き足せそうですねぇ。
褒-紆-駿-瑁-穎-濯-漢公-冽-元之-英-玩-始-萬載-子真-惠徹-閑-完-丘-[王深]-柬之-まだまだ続く・・・・・
って唐の玄宗期だああああ!!!」
おばらはまだ言う事があるらしい。
ヒモ おばら     2001年12月29日土曜日 02時49分
「ああ、オフラインの魔術・・
>玉川さま
ひええぇ~そ、そんな・・・。
『新唐書宰相世系表』みたんですが、「む・り」です(爆
もーあんなの系図にしてたら、頭狂いますよ~~σ(TεT;)」
おばらはちょっと間をおいて、また続けた。
ヒモ おばら     2001年12月29日土曜日 02時55分
「系図作ってくださる奇特な方がいらっしゃいましたら
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=1102970918&path=/18.3.18
で陸家その後が詳しくわかりますのでどうぞ(爆爆」
おばらはまだ言う事があるらしい。
ヒモ おばら     2001年12月29日土曜日 03時01分
「あと、
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3?ukey=1102970918&path=/18.3.18.4
で呉の孫家のことチラッと触れてますね。
探せばでてくるもんだ・・・。」
おばらはまだ言う事があるらしい。
ヒモ おばら     2001年12月29日土曜日 20時14分
「上のリンクはねられてます・・。すいません。
・・
・・・
・・・・
といいつつ、卒論の合間に結局陸家系図作ってる・・・(T▽T)」
NOBは話が長いので有名だ。
職業不明 NOB      2001年12月29日土曜日 21時20分
「中央研究院の漢籍電子文献、直リンクはできないようになっているんですよね。あと、プロキシを使うと使えないことがあるとか。
『新唐書宰相世系表』は、漢籍電子文献のトップから「二十五史>新唐書>表」で行けます、陸氏については、さらに「宰相世系三下>陸氏」で。

>おばらさん
孫権の祖父・孫鍾が『宰相世系表』に出てきているとは知りませんでした。

余談なのですが、瓜を司命星に恵んだため子孫が高貴になった話が『幽明録』などに載っています(『三國志集解』にもひかれていたような記憶が)。それによると瓜を売って生計を立てていたそうですが、本当に世系表にあるとおり太守の子だったとしたら、わずか数年でそこまで没落した理由って一体…(爆)」

私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。
マスター ぐっこ     2001年12月29日土曜日 21時21分
「いかん、これではおばらさまの負担が凄いことに…と思ってましたら、更新されるのですか!? あの、あまり無理はなさらずに…。手が空いたら私の方でも何とかしますから…!
たしかに順をおってメモしていきましたが、頭狂います(;^_^A 陸家おそるべし…

それにしても、以前おばらさまがつくってくださった系図と照らし合わせてみますと、見事に何箇所かミッシングリンクが! このへんは新唐書宰相世系表の編纂者と陸家のみなさんの腕の見せ所でしょうか(;^_^A
唐代…隋唐代ですよ!? 三國志が終わって、魏晋南北時代が終わった後の話!凄すぎ…。

ええと、おばらさまのリンク先ですが、
http://www.sinica.edu.tw/
の、「學術資源」→「漢籍電子文献」から。中林先生のサイトからリンクされてる漢文全籍資料庫のオオモトです(;^_^A
中国正史のほぼ総てが閲覧できる仕組みのようです。さあここで新たなる陸家を発掘するか!」

NOBはまだ言う事があるらしい。
職業不明 NOB      2001年12月29日土曜日 21時22分
「すみません、ちょっと意味不明でしたが、余談のところは孫鍾にまつわる説話です。
すでに過去に出ている話だったらごめんなさい。読み流してくださいm(_ _)m」
仕方がないので、こう答えてやった。
マスター ぐっこ     2001年12月29日土曜日 21時24分
「↑
同時です(;^_^A NOBさまようこそ~!
孫家の祖ともいうべき孫鍾のお話ですね! …さすがの新唐書宰相世系表も、孫家に関してはそれ以上の追跡は不可能でしたか…」
左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。
ノミ屋 左平(仮名) 2002年01月04日金曜日 23時34分
「そうそう、おばらさんのHPで陸氏系譜を拝見しましたが、陸康が二人いるんですよね(一人は陸績の父、一人は陸亀蒙の曽祖父→陸瑁の子孫 直系の先祖・子孫ではない)。
避諱(ひき:先祖の諱を避ける)といいますが、数百年も経つと、さすがにそう言ってもおられないのでしょうか。
類似した例として、周の武王と鄭の子産の父・子国が挙げられます(ともに、姓名は姫発)。こちらは、数百年経っていますが、直接の先祖・子孫の関係です。日本では、伊達政宗の例があります。」
左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。
ノミ屋 左平(仮名) 2002年01月05日土曜日 00時10分
「↑約一週間が「ちょっと(の)間」って、、。
それはそうと、『三国志 きらめく群像』を読んでいて、諸葛氏の血縁関係をどう考えるか、という問題があったので、こういう風に考えてみたのですが、聞いて頂けますか?
上記の書き込みも、これを考える中での副産物なんです。
1,諸葛珪(しょかつけい)、諸葛玄(しょかつげん)
2,諸葛瑾(しょかつきん)、諸葛亮(しょかつりょう)、諸葛均(しょかつきん)、諸葛璋(しょかつしょう)
3,諸葛誕(しょかつたん)
1,2,3,のグル-プが、それぞれ同じ世代(起点となる人物からみて同じ世代という意味)と考える。名の発音が-e-が1,-i-が2,-a-が3,と考えてみました。
渡辺氏がおっしゃる様に、王ヘンがつく人・つかない人という分け方には十分な説得力があるのですが、一つひっかかるのです。諸葛瑾と諸葛亮が実の兄弟ではないのではないか、というのはいいのですが、では、諸葛亮と諸葛均はどうなるのか、なんです。同じ勢力に仕えていて、史書にも弟と書かれているのに実の兄弟ではないとは考えにくいし、かといって、名の字づらには共通性がないし。
私の仮説が合っていれば、諸葛瑾・諸葛亮・諸葛均は実の兄弟として考えても問題ない、となるのですが、、ただ、名へのこだわりをどう見るべきか(この仮説だと、諸葛珪と諸葛瑾は親子で王ヘンを使用している事になるが、親子の名に共通性があって良いのかどうか)というのがまだ完全にはクリアできていない様で。」
玉川雄一は話が長いので有名だ。
私立探偵 玉川雄一     2002年01月05日土曜日 00時38分
「日本だと祖先の名を継ぐことありますよね。
伊達政宗しかり。
朝倉孝景しかり。
長宗我部元親しかり。
相良長毎しかり。(マイナーやな)
この辺り、考え方が違うということでしょうか。
といいますか、親子で同名もいますし。
小山田信有(甲斐の豪族、郡内小山田氏)とか。
小場義実(常陸の武将)とか。

ところで、『三国志 きらめく群像』って以前も何度か出ていますが、
イケてる本なのでしょうか。
昨日、書店で偶然見つけたんですが購入は見送ってしまいました。」

呼ばれてもいないのに黒竜が話に参加した。
ポン引き 黒竜 2002年01月05日土曜日 02時20分
「この話題には初参加の黒竜です。
>左平(仮名)さん
親子で名前に共通性がある例ならありますよ。
応[王旬]━応[王易] 応純━応紹 孫綽━孫[糸林] 王渾━王済
ざっと調べてこんなところです。
確かに少ないですが皆無ではないようです。」
左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。
タレコミ屋 左平(仮名) 2002年01月05日土曜日 02時42分
「黒竜さん、わざわざ調べていただいて、どうもありがとうございます。
親子の名に共通性のあるケ-スが三国時代にありましたか!と、なれば、、」
玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。
私立探偵 玉川雄一     2002年01月05日土曜日 03時14分
「王渾の子は他に王澄、王[シ文]というのもいるようですね。王尚だけは関係なさそうですが。
王渾の従兄弟に王沈、その子が王浚という例もあるようで。

で、兄弟や同世代というのはいくらでもありますが、親子というのは珍しいということですか。
…たしかに、親子で共通してるのって珍しそうですね。
気を付けて見てみようっと。」

私は内心うんざりしていたが、にこやかな顔でこう答えた。
マスター ぐっこ 2002年01月05日土曜日 22時04分
「歴代長スレの中でも屈指のロングランとなりました(;^_^A
さておき名前についてですか~。封地にしても同名の土地は避けると言いますが、基本的にチョクの諱をさける、という以外は、結構ニアミスとかありそうですね…。
>諸葛ニセ兄弟
たまに見かけますよね~、この説。私は従来の設定を心情的に支持してますが、実際はどうなんでしょ。ニセ三顧の礼と同じく、単なる異説で
あってほしいと思ってます…。
>漢字
たしかに一族で同じ部首の漢字を使う例はあるようですが、確かに親子となると…。」
おばらはちょっと間をおいて、また続けた。
ヒモ おばら     2002年01月06日日曜日 01時19分
「妄想レスですまんのですが、
「珪」とは「ガラスの原料」であり、
「瑾」とは「純粋で硬い玉」を意味し、
「亮」とは「あきらか。さえる。まこと。高らかによく通る声。」を意味し、
「均」は「ひとしくする。すべて。」と漢和辞典あるんで、
諸葛珪は、自分の名と合わせて、さらに三人の子の名を合わせて理想的な人間像とした?!

「透き通った玉のように、あくまでも純粋で硬骨を保ち、その明徳は高らかに響きわたり、すべての人に余徳が行きわたる。」な~んてね。(^-^;;
メッチャ妄想ですわ。

かんけーないスレ付けてスマンデスm(_ _)m」

左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。
タレコミ屋 左平(仮名) 2002年01月06日日曜日 02時27分
「単なる妄想なのですが、ifものの小説でもつくる際に、諸葛均の“均”を“鈞”にしたらどうかな、とも考えています(彼を産んですぐに母親が亡くなっている、という事実も絡めて)。そうなると、、
・瑾-美しい玉。→玉の持つ輝き→高潔な人格
・亮-あきらか。→あかるさ→智の輝き
(注:「亮」という字は、「京」と共通の字源を持つらしいです。ちなみに、「京」には、「京観(:けいかん。戦いの後、敵兵の屍を塗り込めてつくった凱旋門のこと)」という意味合いがあるとか)
・鈞-ひとしい、の他に、造物主や天の意味もあるとか。→金ヘンもあるから、金属の輝きもある、かな?→人々への恩徳・高貴さ
(注:夏の啓王が、即位後、「鈞台」という所で諸侯をもてなしたという故事もあります)
三人の名には、それぞれ「明るさ」を示す意味合いが加わる事になり、共通性が出ます(ただ、これだと長兄・瑾の名が相対的に地味に…)。

それともう一つ、妄想ですが、、何故、諸葛瑾の字は「子瑜」なのに諸葛亮は「孔明」なのか?ひょっとしたら、元の字は「子明」だったのでは?てな事も考えています。

以上、ちょっとした妄想レスでした。」


Cafe日誌No.144
2002年03月24日日曜日 22時42分

読者諸氏の中にはもうすでに、誰が犯人か目星をつけている方もおられよう。私から更に有益な情報を提示しよう。
マスター ぐっこ   
「「何か委員会の総司令部を作ってみました(^-^;
まあ、要するに過去ログを並べただけとか、前作ってたぶんをまとめてみただけとか、そういうものですけど…。
改めて一から読んでると、本当に、みなさま凄い!
ただただ感心しながらログをまとめておりました!
この場をお借りして、皆様に感謝させてください!m(__)m
本当にこの1年4ヶ月の間、ありがとうございました!

……って、何か最終回みたいな挨拶ですな(^_^;)
これからも、皆様に頼りっぱなしになること確定なへぼ管理人ですが、どうぞ宜しくお願いいたします!
管理人の役目は、皆様に情報を出し合う「場」をお貸しすること、と割り切って、またまた皆様の議論に参加させてください(^-^;」」

ちょうど、店に酒を運びに来ていた酒屋の玉川雄一が口をはさんできた。
国外亡命 玉川雄一     2002年03月25日月曜日 00時50分
「なんかすげェゴジャースになってる!
…しかし、私スレ立ててばっかですねえ。
今思えば結構恥ずかしいこと言ってるし…
でも、ここで色々と学べてめっちゃんこ有意義ですわん。
これからもゴリゴリ行くですよ。」
左平(仮名)が変なことを言い出した。・・・・金貸しらしい言葉だ。
金貸し 左平(仮名) 2002年03月25日月曜日 21時38分
「これはまた、随分と読み応えのあるものに…。
私の方は、玉川さんほどにはスレッドを立てられない(立てる程のネタが出てこない)ですが、時々はチクチクと指摘できれば…といったところです。」
私は相手を怒らせないように冷静に対処した。
マスター ぐっこ 2002年03月26日火曜日 00時14分
「>玉様
とんでもない!玉様のスレ起こしのおかげで、これだけ繁盛したですよ!本当に感謝です!
呉のタイムパラドクスネタとかも盛り上がったなあ…。あの夜、楽しかったです~!

>左平(仮名)様
読み応えは凄まじくあります(^-^; 全部目を通すと3時間くらいかかったかな…。スレ立て云々じゃなくて、左平(仮名)様にもずいぶんと助けられました!ありがとうございます!」

通りすがりの中根東竜が声をかけてきた。
ポン引き 中根東竜 2002年03月26日火曜日 01時18分
「お久しぶりです、何か委員会、拝読しました~。
相も変わらず濃いですね~。読みふけってしまいました。
まあ、スレが沈んでしまった後に追跡調査してたことを
折角コーナーも出来たことですし、書いておきます~。

1,趙氏の系図について

趙氏に関しては最近中国で専門の書が出ました。
神保町を例の如くふらついていてハケーンしたのですが、
余りにも内容が濃すぎて何ともまだ読み切れていません。
この本は姓氏の歴史の叢書の一冊で、特に神話関係に詳しいです。
また、この書では趙佗ー趙雲同族説は採っていませんでした・・
(言及なし)

2,瑯邪の王氏はコーエーゲーに既に登場

『三國志3』に、王祥・王覧の父、王基が登場しています。
3ではお気に入りでよく使っていました。しかしその後の
シリーズには出てませんなぁ。なお、ぐっこさんが
王羲之は書の正流なのか、とおっしゃられてましたが、
まあ規範と言っていいと思います。みな書をやる人は
一度は王羲之の書を通過しないといけないみたいな
感じですかね。なお、王氏はみな書に堪能であり、
趙宋の『淳化閣帖』という名筆を集めた本に
多数の王氏出身書家たちの書がみられます。

3,陶侃と陶潜の関係は正式には不明?

最近、故・李長之氏の陶淵明(陶潜)に関する
史伝『陶淵明』(筑摩書店)を読んでいたら、
陶侃に関してかなり長く書かれていました。
で、この本によると陶侃ー陶潜の関係は
「陶潜が書き残した陶侃に関する記録を巡って
学会で論争されており、直系なのか単なる親戚か
分かっていない」ということのようです。
まあこの件では『晉書』はシロですね。

正直、この本を読むと陶侃にしろ陶淵明にしても
謎の多い人物であることが身にしみて分かります。
まあ、彼らは変な邪推を受ければ命が危ない
時代に生きているので、必然的に筆が曖昧になるようです。

後の世から忠誠を謡われる陶侃にしても謀反をたくらんだようです。
事実、李氏が指摘するとおり陶侃は晋の王室が反乱で危機に
陥ってもまともに兵を出そうともしておらず、
(一度は出したがすぐに帰ってきてしまっている)
説客・温矯(刺史奮迅の温恢の子孫ですな)の説得で
ようやく重い腰を上げています。
この人も色々あるみたいですねぇ・・」

玉川雄一はまだ言う事があるらしい。
国外亡命 玉川雄一     2002年03月26日火曜日 18時56分
「中根さんにいくつか。

1:王基
王祥・王覧の父は王融ではないでしょうか。晋書王祥伝の初っぱなに載っていますよね。
で、王基(伯輿)は直接の繋がりはないかと思われますが。彼は年齢的には王祥・王覧と同世代だと思われますし。

で、王祥系の琅邪王氏は結局登場していませんが、王基は3以降最新作の8まで皆勤賞レギュラーなんですよ。
顔グラは一貫して同じイメージを踏襲していますが、6の時は妙に生々しくて恐かったのを今でも鮮明に覚えてます(-_-;)
やや過小評価気味かとも思われますが、まずバランスの取れた名将です。

ところで、王覧の子にして王敦の父である処の人も「王基」といいますよね。
となると、王基-王覧-王基-王敦というのは成り立たないかと思われます。

2:陶侃と陶淵明
私が過去に立てたスレ読むと恥ずかしくなってきますが…
結局確実な資料はないのでしょうが、陶侃は子が17人、
うち史料に残っているのが洪、瞻、夏、[王奇]、旗、斌、稱、範、岱の9人だそうですので、
残りの8人の中に陶茂(陶淵明の爺ちゃん)が入っている可能性なきにしもあらず、と。

3:陶侃の野望(笑)
先日陶侃伝や世説新語を読んだのですが、一筋縄ではいかない人物だったようですね。
蘇峻の乱の際、先帝の遺詔をうけられなかったのをゴネてユ亮に頭を下げさせたとか、例の「八枚の羽根」の夢とか。
陶侃びいきの私としては、胸に大望を抱きつつも心はあくまで東晋王朝に…
と考えたいところですが、何だか考えを改めた方が良さそうです(^_^;)ゞ
結果論からいうと、「韓信のもう一つの生き方」? それも違うか。

ところで、山川の中国史に陶侃が五谿蛮の出身だったかも、って載ってました。
晋書には[番β]陽の人とありますけど… 五谿蛮って武陵ですよね。」

玉川雄一は話が長いので有名だ。
国外亡命 玉川雄一     2002年03月26日火曜日 21時07分
「 山川受け売りですが、陶侃などについて。
『中国史 2 三国-唐』のpp.90,91に「北府と西府」と題して東晋初期~中期の体制について触れられています。
それによると、

・(前項より)江南土着の豪族は次第に北来の人士に主導権を奪われていった
・河北の混乱の中、豪族や有力者は軍事力を有する集団を形成し、南方に移動した
・東晋王朝はその統率者(塢主、行主)を刺史や太守に任命して取り込みを図る
・代表的なものは、祖逖(のち弟の祖約)、チ鑒、蘇峻など
・一方、西方(荊州)では王敦が江南豪族を支配下に収め、次第に朝廷と対立し叛乱を起こす
・その鎮圧に北来の軍事力が投入されるが、彼らが力を持ちすぎるのを恐れた外戚のユ亮は勢力削減を図る
・それに反して蘇峻、祖約が叛乱するが、チ鑒、陶侃や温キョウに鎮圧される
・この後、北来勢力の残存者であるチ鑒は北面の軍団長として「北府」を設立、京口や広陵に駐屯する
・王敦に替わって西方の軍団長となった陶侃は征西大将軍、都督荊湘雍梁諸軍事、荊州刺史として「西府」を形成した
・チ鑒は司空、陶侃は太尉として東晋王朝を支える二大軍閥となる
・陶侃は朝廷とは距離を置き、その後はもっぱら荊州の統治と西・北方への軍事行動に従事した
・陶侃の後は(北来の)ユ亮、ユ翼が後を継ぎ、朝廷の王導と拮抗した

ここでもやはり、蘇峻の乱に際しての陶侃の腰の重さが指摘されています(^_^;)
こと荊州に関しては、四世紀初頭の劉弘の頃から半独立めいた雰囲気があったようですし。叛乱もボコスカ起きてますが。
代々キャスティングボートを握りつつ上手く渡ってきたようですけど、
そのバランスが崩れると桓温みたいなのが出てくるわけですな(-_-;)」

私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。
マスター ぐっこ     2002年03月26日火曜日 23時53分
「うおっとお! 中根東竜様、玉様、毎度ありがとうございます!
…あれ、中根東竜様のサイト、サンクスバナー付けてなかった…! すぐ工事します!(__;)
――むう、このスレも先祖スレ集に含まねばなるまい!(^_^;)
相変わらず濃ゆい議論サンクスです!
私は王基認知、ゲームからの人なので、まずあの顔がうかびます(^_^;)
陶侃…玉様のカキコミで初めて存在を知ったクチです…。「韓信のもう一つの生き方」…なるほど!

…うーむ、それにしても勉強になる掲示板だなあ…。多謝多謝!」

中根東竜は話が長いので有名だ。
ポン引き 中根東竜     2002年03月27日水曜日 00時37分
「玉川さん、詳細なフォローありがとうございます!

>王祥・王覧の父は王融ではないでしょうか。

か、勘違いしていました。そうです、王融です。
何処で間違えて覚えたのか・・これまでずっと
誤っていました。ご教示ありがとうございます。

>で、王祥系の琅邪王氏は結局登場していませんが、王基は3以降最新作の8まで皆勤賞レギュラーなんですよ。

グガーン!もう一つ間違っていたのか・・
なんか、コーエー『三国志5』事典に「王基は3にのみ登場」
とあるのを鵜呑みにしていたようです・・
自分王基関係全然だめじゃん・・参った・・
色々フォローありがとうございます。

>陶侃は子が17人、
うち史料に残っているのが洪、瞻、夏、[王奇]、旗、斌、稱、範、岱の9人だそうですので、
残りの8人の中に陶茂(陶淵明の爺ちゃん)が入っている可能性なきにしもあらず、と。

実際『晉書』や『宋書』では玉川さんのおっしゃる通りです。
まあそれでよさそうなものなのですが、学会ではこれに対する反対意見も根強いようで、「現存の史料に即して論ずる限り、より明確な
答案は得られない」と李氏はしていますねぇ・・

何故反対意見が出るかというと、
どうも陶淵明自身が「陶侃は自分の先祖」
と主張しているのかどうか怪しいうえ、
陶淵明の友人が書いた陶淵明を
追悼して書かれた伝記『陶徴士誄』(とうちょうしるい)が
陶侃について一言も触れていない、からだそうで・・
(詳しく書くと以上に回りくどいうえ、何かもはや『三国志』とは関係なくなっているみたいなのでこの話はここで切ります)

>蘇峻の乱の際、先帝の遺詔をうけられなかったのをゴネてユ亮に頭を下げさせたとか、

この蘇峻の乱の時の陶侃はゴネまくってます。なんか驚きですよ~。
なお、このゴネ陶侃に関しては『晉書』巻67温矯伝に説得内容と
合わせて載っているようですよ。(あ、矯の字は正しくは
ヘンが山ヘンね)なお、温矯の説得は流石に温恢譲りの
朗々たる大文章です。僕はこれを読んで温矯ファンになったなー。

>ところで、山川の中国史に陶侃が五谿蛮の出身だったかも、って載ってました。

え、そうですか?史料には「渓族」とあるのですが、
「渓族=五谿蛮」でいいんでしょうか?
陶侃は谿族出身だそうです。「谿族」は「巴・蜀・蛮・僚(けものへんが正しい)・谿・俚・越・楚」を総称する言葉だそうです。
(ソースは例の牛氏が司馬睿の親父であることを書いた『魏書』司馬叡伝)
しかし、これだと南蛮・山越みんなひっくるめて居るだけっぽいですが
(^^;)

>山川の「北府と西府」

まとめるとこんな感じですね。まあ、荊州に関しては司馬一族
が送り込まれて反乱軍に殺されて劉弘が入った後、まるで晋中央
が統治できてないんですよねぇ。劉表とかの頃と実は余り
変わらない情勢がずっと継続するわけです。」

 

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