他の客も酔いが回ってきた頃に、わりとよく来るおばらが入ってきた。こう見えても金には汚い。おばらは現地の人間でも分からないのでないかという癖のある訛りでがなりだした。 |
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ポン引き おばら
「あ゛~クッキーが腐ってるぅー。
いつも変にアジテートして去って行くおばら再登場ですわ・・・。
今日は陸家のお話ということで。
陸[門+広]、字は子春。AD25~AD55のどこかで尚書令になってます。美男子だったようで、越産の布単衣を着て、光武帝に気に入られたそうな。陸賈の子孫かなんかですかね?
その孫が陸續、字は智初。故郷の会稽郡郡守尹興の下で貧民救済してます。そのとき粥を振舞った600人以上の人の名前を覚えていたとか。楚王劉英の謀反に連座し拷問されるも、母の「真四角の肉・一寸の葱」の差し入れで孝行者として赦免される。一生仕官できずに老衰死。
続の長男が広陵郡太守陸稠、次男が楽安郡太守陸逢、末子が陸褒。
陸褒は学を好み孝行者。名誉を捨て、志を貫き一生仕官せず。
褒の子が陸康、字は季寧。義烈を称され臧旻に茂才に推挙され高成県令になる。武陵太守・桂陽太守・楽安太守と、後の孫呉の重要都市の太守に就任。銅人を造ろうとして百姓への増税を図る霊帝を上疏して諌め、大不敬罪を劉岱によって救われる。故郷呉へ強制送還させられ、後廬江が、賊の黄穰ら+江夏異民族連合=10余万人で騒がしくなったので、陸康は廬江太守に任命され悉く賊を降す。その功績で孫の陸尚は郎中に。
その後、袁術が寿春で飢え陸康に食料援助を頼んだときに断った為、袁術配下武将の孫策に攻められる。陸康は2年間篭城するも、70歳で病死。城は落ち、一族百人以上が餓死・病死。朝廷は彼の節義を憐れみ、子の陸儁を郎中に任命しています。末子の陸績は先に城から落ちていたために助かっています。
以上、後漢書の要約でした。誤訳あったらゴメンナサイm(_ _)m
あとは、正史三国志の陸遜陸績陸瑁の伝にある通りです。
誰か「陸家その後」続けてくれないかにゃ~?晋代とか・・・。(←煽ってマース^-^;;」 |
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そう言って、口の周りをゆっくり舐め回した。 |
こういう客はどう返事していいものか悩む。 |
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玉川雄一という私立探偵が話に入ってきた。こういうところは抜け目がない。 |
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おばらはこうも言った。 |
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ポン引き おばら 2001年12月25日火曜日 02時03分
「2ちゃんですが、初めて2chを恐る恐る覗いたとき、たまたま春秋戦国スレだったのですが、なんとぐっこさまにお贈りした拙系図が紹介されてましたよ・・・。なんだか、私の系図とぐっこさまの考察について色々言われてましたが。(笑
以後、一ヶ月に一回くらいでしか2chは覗きませんねぇ。
私、ああいうの苦手なんですよー。(^-^;;
っつーか、2ch用語もあんまり解らないので(T▽T)
>玉川さま
玉屋が引用されてるスレを今見てきましたよ~。
うむむ、盛り上がってますな。ホントに一体誰が・・?(笑
それと、『晋書』からの救援、お待ちしておりますm(_ _)m←他力すぎ
あと、陸家をさらに遡れる方いらっしゃったら、是非是非教えてください。結構気になっているので・・・」 |
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こういう話に限って参加してくる若造がいる。・・・・・NOBだ。 |
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職業不明 NOB 2001年12月25日火曜日 04時53分
「こんな時間ですがこんばんは~(^-^)
つい最近(読んでる暇はないのですが)読んだ論文に、「孫呉政権と陸氏の群像」(松本幸男、「学林」22号1~30)というのがあり、黄帝(爆)から魏晋まで陸氏をたどっていました。出典として引かれているのは史記陸賈伝索隠に引く『陸氏譜』、『元和姓纂』、おなじみ『新唐書宰相世系表』などです。
長いですが、書いてみますね~。
黄帝-昌意-センギョク-窮蝉-敬康-句望-橋牛-瞽叟-舜……【陳】胡公-申公-孝公-慎公-幽公-釐公-武公-平公-文公-陳他-田完-?-ビン-須無-無宇-乞-常-盤-白-【斉】太公-桓公-威王-宣王-達(ここから陸氏らしい)-發-萬-烈(続く)
途中、本筋と関係のない兄弟などは省きました。ちなみに陸烈の従甥が、史記に伝の立てられている陸賈です。陸烈のときに呉に移ったそうです。(ちなみに陸賈は祖父が楚に移っているので、楚人になってますよね)
陸烈-[目于]-鴻-建-曄-恭-[王黄]-文-親-衆-賜-[門+広]
事跡などは一切書きませんでしたが一応[門+広]までたどり着いたので、後は玉川さんにお願いします!(爆)
それではおやすみなさい~(汗)」 |
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そのとき、壁に向かってブツブツ喋っているレディがいた。 |
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場末のNO.2 香香 2001年12月25日火曜日 13時16分
「うお!陸家ネタですね!
それにしても、NOBさまの系図すごすぎます(汗)。黄帝からスタートしているし(爆)。私が知っているのは三国志の範疇においてだけですので・・・。
お忙しいのに、有難うございます!
って、私が言ってどうする(爆)。
それでは、玉川様、よろしく(~_~;)!
晋書の陸機・陸雲伝をナナメ読みした時、この二人の列伝はヤケに小説めいているというか、よく書かれ過ぎているな~なんて思ったもんですが(笑)。他の人のも読まないとなぁ。メジャーな人物意外全然読んでませんから(滝汗)。
いや、それ以前に読めません(爆)。「解体晋書」がたよりです(~_~;)」 |
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おばらはまだ言う事があるらしい。 |
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ポン引き おばら 2001年12月25日火曜日 16時09分
「うを!さすがNOBさま・・・。
っと、史記陸賈伝索隠の引用ということで、触発されて私も中華書局『史記』レキ生陸賈傳第三十七を見てみました。
『陳留風俗傳』はこう伝える。「陸氏、春秋の時の陸渾國の後裔なり。晋侯が陸渾國を討ったために、陸渾子は楚に逃げた。陸賈はその後裔なり。」と。
また『陸氏傳』はこう伝える。「斉の宣王の子、達は陸で食菜す。達は發を生み、發は皋を生む。皋は楚に住みつき、陸賈はその孫なり。」と。
うーわ~、すんごい適当な訳だ(T▽T)
>NOBさま
卒研どうっすか?こっちは・・・ぐへっ。」 |
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玉川雄一は話が長いので有名だ。 |
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私立探偵 玉川雄一 2001年12月25日火曜日 19時41分
「あらら、また回ってきてしまった(^_^;)
えー、では陸康の方は… 陸績の子の会稽南部都尉・陸宏と長水校尉・陸叡、張白に嫁いだ娘の鬱生ですか。これで打ち止め(?)のようです。
陸遜の方は…皆様ご存じでしょうが(笑)
陸延と陸抗。陸抗の子は晏、景、玄、機、雲、耽。
下の三人は揃って303年に死亡。一網打尽ですね。
ちなみに機の子の蔚、夏も同じ年に亡くなっています。
また、陸遜の弟の陸瑁とその子までは呉書に載っていますね。
陸瑁の子は滂、喜、英、偉、顔。喜の子が育。
で、陸英の子の陸曄(士光、261-334)が晋書に立伝されています。
「陸曄字士光、呉郡呉人也。伯父喜、呉吏部尚書。父英、高平相、員外散騎常侍。曄少有雅望、従兄機毎稱之曰、『我家世不乏公矣。』居喪、以孝聞。同郡顧栄與郷人書曰、『士光気息裁屬、慮其性命、言之傷心矣。』」
…で始まるのですが、コレって褒められてますか?
当初は文官ちっくに昇進したようです。散騎常侍、侍中、尚書、州大中正、光禄勲、太常、尚書左僕射、太子少傅、左光禄大夫…
また軍事にも携わったようで、蘇峻の乱を平定して衛将軍になったり開府儀同三司にしてもらったり爵位を勧められたり。
「峻平、加衛将軍、給千兵百騎、以勲進爵為公、封次子暇(の編が古の字)新康子。」ってありますが…
密かに次男が陸暇(の編が古の字)だというのでしょうか。今発見♪
で、後に郷里に帰り、74歳で亡くなったとか。追贈して侍中、車騎大将軍。おくりなは穆。子の[言甚]は散騎常侍になりました。
…陸曄はこないでいかがでしょう?
あと、弟の陸玩の伝もくっついていたりしますが(^_^;)
」 |
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こういう客はどう返事していいものか悩む。 |
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マスター ぐっこ 2001年12月25日火曜日 21時34分
「うわわわ~~! たった一晩で…!
ええと、NOBさまの黄帝~桓公~陸[門+広]からスタートして、おばら様の~陸康~陸績につづき、玉川様の陸瑁~陸曄~陸暇…と。
……うわ~っ(;^_^A
こりゃあ、系譜にし甲斐がある~。
なるほどお、「陸氏傳」だと斉の宣王の子・田達が、陸氏の祖だと…。ええと、宣王って孟嘗君の父・靖郭君のお兄さんですよねえ。だから、田(陸)達は孟嘗君にとって従兄。
しかし「陳留風俗傳」だとかすりもしない…。個人的には陸氏傳のほうが嬉しいですけど、たぶんこっちはウソのような気が(;^_^A
でも陸氏傳どおりだと、やっぱり陸遜の血は黄帝まで遡るわけで…。斉の田氏を引いていたとは。
で、アフター陸遜(;^_^A
陸績の一門は案外早く打ち止め…。陸遜一族も曾孫の代でほぼ壊滅…。
陸瑁の一族がいちばん長引いたんですね~。陸暇…って、何した方なんでしょう…?」 |
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ちょうど、店に酒を運びに来ていた酒屋の左平(仮名)が口をはさんできた。 |
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スリ 左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時05分
「一度ならず二度までも、、書き込みが反映されない~!!
…というわけで、しつこいですが、もう一度。
『陳留風俗傳』の記述を見て、ひょっとしたら、と思い、チェックしてみました。すると、、
『沙中の回廊』(下巻)に、楚の荘王が、洛水上流域に蟠居する陸渾の戎を討った、という記述がありました。
仮に、陸渾國=陸渾の戎と考えると、陸氏の故地は、華山の辺り(黄河がL字形に屈曲する辺り)という事になります。」 |
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左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。 |
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スリ 左平(仮名) 2001年12月25日火曜日 22時11分
「陸渾國の姓が何であるのかまではどう調べればいいのか分かりませんが、斉の王室の系譜を拝借したのだとすると、あるいは陳と同じくキ(女に爲)姓だったのかも知れません。」 |
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おばらはちょっと間をおいて、また続けた。 |
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ポン引き おばら 2001年12月26日水曜日 00時22分
「はいは~い(^-^;;
早速、陸家系図を作りましたー。
【玉屋】の玉川雄一さま、【逸聞三國志】のNOBさま、そしてぐっこさま。
ほんとに情報ありがとうございました。m(_ _)m
うーん、この充実感は何??
http://isweb39.infoseek.co.jp/novel/t-obara/riku-ke.htm
にUPしましたんで、よろしかったら見てやってください。
また、ぐっこさまにはめいるにGIFを添付して送りました~。怪しくないんで開けちゃってくださいな。
玉川さま、これからそちらにご挨拶に参りますです。」 |
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NOBはちょっと間をおいて、また続けた。 |
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職業不明 NOB 2001年12月26日水曜日 00時53分
「>おばらさま
作業早いですね(^-^;
力作、お疲れさまでした。手元の資料で系図中の「○」を少し補足できそうですので、書かせていただきます。
1.陸賈の父ですが、陸ヨウ(巛邑)だそうです。
2.陸続の父は陸桓(字・叔文)だそうです。桓には?(ギョウ)・温という兄がいたらしいです。
ともに出典は『新唐書宰相世系表』です。
本来ならおばらさんに直接お知らせするべきでしたが、話題の流れ的にこちらにまとめて書いておく方が便利だと思ったのでぐっこさんのところに書かせていただきました。m(_ _)m
#卒論、焦ってます(笑)
>玉川さま
おぉ、晋書に陸曄がいたのですか!知りませんでした…(オイ~!)
てっきり前漢の陸曄かと(爆) なるほど、勉強になります。
<陳留風俗伝
この件は、私が引いている論文でも触れられていました。索隠で先に『陳留風俗伝』の記述が引かれ『陸氏譜』のような説も他にある、といった感じで、史記索隠の著者である司馬貞も『陳留風俗伝』のほうを信じていたのだろう、と。しかし論文の著者である松本氏、「陸賈の「詩」「書」に対する豊かな教養を思うと、やはり『陳留風俗伝』には従えない」だそうです(爆) そんなもんなのでしょうかねぇ…?
ちなみに陸賈について、『元和姓纂』は「呉の丞相陸遜は、陸賈の裔孫である」と間違って書いているそうな…ひょっとして、家系をよく見せようと思ったゆえの改竄があったのでしょうか?(^-^;」 |
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おばらはちょっと間をおいて、また続けた。 |
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ヒモ おばら 2001年12月26日水曜日 01時35分
「むむ、またもや『新唐書宰相世系表』の登場!
大活躍ですな(^-^;;
>左平(仮名)さま。
『史記』匈奴列伝によると、陸渾を攻めた晋侯とは晋の文侯だそうです。そして陸渾には匈奴人もかなり混じっていたとのこと。
『陳留風俗伝』を信じるならば、陸さんは異民族の子孫って可能性もあるんですかね。
>NOBさま
追加情報ありがとうございます。もーお世話になりっぱなしですm(_ _)m さっそく改良しました。
>ぐっこさま
『漢書』地理志だと、春秋の時、陸渾の戎は弘農郡に移されて、その地を陸渾と新たに名付けたとのこと。う~む、色んな情報がでてくるなぁ・・。」 |
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左平(仮名)は話が長いので有名だ。 |
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ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月26日水曜日 21時19分
「陸渾を討ったのは、文侯(重耳ではなく、仇の方)ですか。と、いう事は、紀元前8世紀後期(西周→春秋の境くらい)ですね。楚の荘王よりも先です。陸渾は、晋・楚の両方と戦った事があるというわけですね。なかなか精悍な氏族(?)です。
ただ、この頃から匈奴が存在していたかどうかが、、。「匈奴」という名(民族名か政権名かは不明)が史書に出てくるのは、戦国時代の頃からの様です。
蛇足…確か、匈奴は夏后氏の末裔、と『史記』に書かれていたかと。
あるいは、狄族との関連があるのでは?『沙中の回廊』での描かれ方をみると、狄族は半端でなく強いです。衛を一度は滅ぼし、晋ほどの大国も相当苦しめた相手です。名将・士会でこそ勝てるけど、というくらいに。」 |
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私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。 |
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マスター ぐっこ 2001年12月26日水曜日 21時53分
「 >おばら様
系譜、修正版ともども拝領しました~っ! は、はやい…。しかも精巧な…。可及的速やかにアップできるよう頑張ります~!!
いま趙家の系譜と並べてみてみましたけど、なんだか凄いですねえ…。神話の時代からスタートして、有名人を経由しつつもきちんと繋がってることに畏怖を覚えます! 新唐書色んな意味で恐るべし。
>NOB様
補足説明ありがとうございました~! それにしても、陸氏ひとつでここまでの系図が出来上がってしまうとは…。繰り返しますが、新唐書の編纂者の執念に脱帽。
陳留風俗伝…軽く見られてますかな(;^_^A どーも、コチラの方が身も蓋もない書き方なので通っぽいですけど…。ただ、記述がアバウト。史家のツッコミどころも多いんでしょうか。松本先生…。
卒論がんばってください~(;^_^A
>左平(仮名)さま
ということは、まず陸渾国の戎たちは、春秋時代、三國志で言うヘイ州あたりから弘農に移り(強制?)、その地に陸渾国をつくる、と。で、晋の文侯に攻撃されて楚に逃亡。で、しばらく後にこんどはまたまた楚の荘王に攻撃される、と。この時点で二派に分かれてたのかなあ…。
陳留風俗伝では、陸賈はこの陸渾国子の子孫。たしかに非漢人の血が濃ゆいですね~。
宮城谷作品では、北方の民族は化け物みたいに強い場合が多いですよね~! 三國志の呂布が楽しみです(;^_^A」 |
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玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。 |
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私立探偵 玉川雄一 2001年12月27日木曜日 21時17分
「えー、では陸曄の弟の陸玩(士瑤、278-341)。彼の方が兄より記述が多めです(^_^)
まあ、かいつまんで言えば兄と似たような地位を歴任したようです。
奮武将軍の地位は病で辞したようですが、蘇峻の乱の鎮圧において兄と共に功を挙げ興平伯になったり。
尚書左僕射だの尚書令だの左光禄大夫だの開府儀同三司で散騎常侍-この時何度も辞退しようとして結局押しつけられた(笑)らしい-だの。
子の陸始が跡を嗣ぎ、侍中、尚書になったそうです。
んで、陸玩の今一人の子が陸納(祖言、?-394)。「少有清操、貞萬絶俗」だそうです(ってどういう意味?)
建威長史、黄門侍郎、本州別賀、尚書吏部郎、呉興太守…
太常、吏部尚書、奉車都尉、衛将軍。
何やら、謝安を迎えるのに「茶果」だけで質素に迎えようとしたら、「其兄子俶」が(謝安に)豪勢な贈り物をあげたとかで陸納がマジ切れしてしまい、四十杖ほどしばいたそうです。
おそらく、陸納の兄の子が陸俶というのでしょうか。またも新発見♪
その後、兄の子の陸禽が罪を犯したために自らも免官を求めるも降格で済んだりして、尚書僕射、(尚書)左僕射、散騎常侍、尚書令に。
最後は会稽王・司馬道子絡みでなにやらあったようですが、まずは天寿を全うしたかと。
で、子の陸長生は先に亡くなっており、弟の子の陸道隆が跡を嗣ぎました。陸道隆は元熙年間(419~420年!)に廷尉になったそうです。
陸納には「兄の子」として陸俶、陸禽がいるようですが… 陸始の子と考えて良いのでしょうかね。
父の跡を嗣いだのが陸始ということで、陸始が兄で陸納が弟と考えてみました。その他にもいたのかはわかりませんが♪
また、陸納の跡を嗣いだのも…
「(陸納の子)長生先卒、無子、以弟子道隆嗣。」とあったのですが、陸道隆は「陸長生の弟の子」と解釈してみました。
この手の記述って多いんですよね。関係が微妙に分かりにくくて大変です(-_-;)
さすがに、これで打ち止めのようです。
どなたか、これより後の時代の陸氏についてご存じありませんか~?(^_^)」 |
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仕方がないので、こう答えてやった。 |
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玉川雄一は話が長いので有名だ。 |
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私立探偵 玉川雄一 2001年12月28日金曜日 01時06分
「うに。
>陸道隆は元熙年間(419~420年)に廷尉になった
420年とはズバリ、東晋最後の皇帝、司馬徳文が劉裕に禅譲して零陵王(すげェ封地ですな)となり、
晋王朝が滅亡した年です♪ ちなみに、翌年徳文さん殺されました(T_T)
まさに大河! ああ、楊さん家の方がもっと凄かったんでしたっけ。」 |
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左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。 |
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ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時13分
「六朝以降の陸氏(といっても、陸賈や陸遜とのつながりは特に書かれていないので、たぶん赤の他人でしょう)ですが、、漢字字典『新字源』の「陸」のところを見ると、何人か記載されていました。
1,陸羽(りくう) 茶道の開祖。「茶経」を著す。
字は、、書かれていません。
2,陸九淵(りくきゅうえん) 南宋の学者。
字は子静、号は象山。朱子のライバル的存在。
3,陸贄(りくし) 唐・徳宗期の政治家。
字は敬輿、諡は宣。
4,陸元朗(りくげんろう) 唐初の学者。
字は徳明。
5,陸游(りくゆう) 南宋の詩人。
字は務観、号は放翁。生涯で数万という詩を詠んだとか。
ほかに陸機・陸雲・陸賈は書かれていましたが、陸遜がない!です。
このうち、割とあやしいのは、陸贄でしょうか、、。
NOBさん、すみませんが、「新唐書宰相世系表」をチェックしていただけませんか。」 |
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左平(仮名)はまだ言う事があるらしい。 |
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ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時35分
「続いて、諸橋轍次氏の『中国古典名言事典』の人名索引から、、。
6,陸亀蒙(りくきもう) 唐末期(生没年の記載はないですが、皮日 休との親交があったという事から)の詩 人。字は魯望、号は江湖散人、天随子、甫 里先生、バイ(さんずいに倍の右側)翁、 江上丈人。、、号が多い、、。
7,陸秀夫(りくしゅうふ) 南宋末期の人。文天祥・張世傑とともに
「三傑」といわれる。涯山の戦い(壇ノ 浦の合戦を、さらに大規模にした感じの 戦い。この戦いで南宋は滅亡するが、史 書には、戦いの後、嵐に遭い、「舟覆 る。世傑溺る。宋滅ぶ」と記載)の際、 舟中で「大学」を講じ、その後、入水し た。
」 |
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左平(仮名)は話が長いので有名だ。 |
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ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 21時38分
「↑の書き込み、レイアウトを失敗してしまいました。見づらくしてしまい、すみません。」 |
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左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。 |
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ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月28日金曜日 22時58分
「こうしてみると、陸という氏は、林などと同様、南方系なのでしょうか。」 |
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NOBは話が長いので有名だ。 |
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職業不明 NOB 2001年12月29日土曜日 00時15分
「左平さまに御指名いただいたので、僭越ながら書かせていただきます(^-^;
陸贄は見事にビンゴでありました!宰相世系表によると
陸瑁―英(長沙太守)―カン(衛伯玉の名前と同名/晉の中書侍郎)―(間に4代)―文盛(齊の散騎常侍)―宣猛(字は觀明/六朝梁の宣威將軍)―潯(六朝陳の吏部侍郎)―(間に8代)―齊望(祕書監)―[シ霸](吏部郎中)―陸贄(字は敬輿/徳宗期の宰相)
となっています。他にも陸元朗が、
陸續―稠(荊州刺史)―粛(丹徒令)―(間に9代)―鎮之(梁の給事中)―(文字化けで1カラム分意味不明)―雍(陳の豫章王の諮議)―元朗(字は徳明/秦王府の學士)
ということで、いずれも既出のご先祖様にたどり着くことができました(^-^)
その他の3名については探した限りヒットしませんでした。と、こんなところです。字はコピー&ペーストなので、旧字体のままで失礼します。」 |
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左平(仮名)は話が長いので有名だ。 |
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ノミ屋 左平(仮名) 2001年12月29日土曜日 01時22分
「唐代の二人が“あたり”でしたか。NOBさん、調べていただいてどうもありがとうございます。陸秀夫もそうだと、悲運の名将(名臣)・陸一族というイメ-ジがより強烈になりますが、、それはさすがに妄想ですね。
それはそうと、唐という時代は、やはり中国史上、重要な時代だという事があらためて確認できます。その衰亡を機に、貴族社会が崩壊していくわけですから(宋以降、“〇〇の子孫”という名乗りをあげる人は少ない様に見受けられます。『水滸伝』に出てくる、大刀・関勝【自称・関羽の子孫。もちろん、架空の人物】くらいでしょうか)。」 |
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NOBは話が長いので有名だ。 |
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職業不明 NOB 2001年12月29日土曜日 02時30分
「>左平さま
すみません、2番目の書き込み、全部調査していませんでした(汗)
陸亀蒙は以下のとおりでした。っていうことは、陸瑁の子孫ですね。
陸玩(字は士瑤/侍中・司空/贈太尉・興平康伯)―始(字は祖興/五兵尚書・侍中)―萬載(臨海太守・祕書監・侍中)―子真(字は同宗/宋の東陽太守)―惠徹(字は監/齊の司徒府左曹掾)―閑(字は遐業/揚州別駕)―完(字は楚卿/梁の琅邪太守)―丘公(字は子岳/黄門侍郎)―[王深](字は潔玉/陳の黄門侍郎)―玄之(字は又玄/豫章尉)―元方(武后の頃の宰相)―景倩(右臺監察御史)―溥(少府少監/平昌縣男)―康(澤州刺史)―正興―賓虞(字は韶卿/侍御史)―龜蒙(字は魯望)
唐よりも後の陸羽・陸九淵・陸游・陸秀夫については、
【陸羽】字は鴻漸。一名として疾、字は季疵ともいう。復州竟陵の人。
【陸游】越州山陰の人。
【陸秀夫】字は君実。楚州鹽城の人。
と言うこと以外は分かりませんでした。それぞれ正史に伝が立てられていたので、先祖が辿れたりすると面白かったのですが…(^-^;」 |
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玉川雄一はまだ言う事があるらしい。 |
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おばらはちょっと間をおいて、また続けた。 |
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ヒモ おばら 2001年12月29日土曜日 02時45分
「『新唐書宰相世系表』読んでみたのですが、まだまだ陸家系図書き足せそうですねぇ。
褒-紆-駿-瑁-穎-濯-漢公-冽-元之-英-玩-始-萬載-子真-惠徹-閑-完-丘-[王深]-柬之-まだまだ続く・・・・・
って唐の玄宗期だああああ!!!」 |
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おばらはまだ言う事があるらしい。 |
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ヒモ おばら 2001年12月29日土曜日 02時49分
「ああ、オフラインの魔術・・
>玉川さま
ひええぇ~そ、そんな・・・。
『新唐書宰相世系表』みたんですが、「む・り」です(爆
もーあんなの系図にしてたら、頭狂いますよ~~σ(TεT;)」 |
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おばらはちょっと間をおいて、また続けた。 |
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おばらはまだ言う事があるらしい。 |
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おばらはまだ言う事があるらしい。 |
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ヒモ おばら 2001年12月29日土曜日 20時14分
「上のリンクはねられてます・・。すいません。
・・
・・・
・・・・
といいつつ、卒論の合間に結局陸家系図作ってる・・・(T▽T)」 |
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NOBは話が長いので有名だ。 |
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職業不明 NOB 2001年12月29日土曜日 21時20分
「中央研究院の漢籍電子文献、直リンクはできないようになっているんですよね。あと、プロキシを使うと使えないことがあるとか。
『新唐書宰相世系表』は、漢籍電子文献のトップから「二十五史>新唐書>表」で行けます、陸氏については、さらに「宰相世系三下>陸氏」で。
>おばらさん
孫権の祖父・孫鍾が『宰相世系表』に出てきているとは知りませんでした。
余談なのですが、瓜を司命星に恵んだため子孫が高貴になった話が『幽明録』などに載っています(『三國志集解』にもひかれていたような記憶が)。それによると瓜を売って生計を立てていたそうですが、本当に世系表にあるとおり太守の子だったとしたら、わずか数年でそこまで没落した理由って一体…(爆)」 |
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私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。 |
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マスター ぐっこ 2001年12月29日土曜日 21時21分
「いかん、これではおばらさまの負担が凄いことに…と思ってましたら、更新されるのですか!? あの、あまり無理はなさらずに…。手が空いたら私の方でも何とかしますから…!
たしかに順をおってメモしていきましたが、頭狂います(;^_^A 陸家おそるべし…
それにしても、以前おばらさまがつくってくださった系図と照らし合わせてみますと、見事に何箇所かミッシングリンクが! このへんは新唐書宰相世系表の編纂者と陸家のみなさんの腕の見せ所でしょうか(;^_^A
唐代…隋唐代ですよ!? 三國志が終わって、魏晋南北時代が終わった後の話!凄すぎ…。
ええと、おばらさまのリンク先ですが、
http://www.sinica.edu.tw/
の、「學術資源」→「漢籍電子文献」から。中林先生のサイトからリンクされてる漢文全籍資料庫のオオモトです(;^_^A
中国正史のほぼ総てが閲覧できる仕組みのようです。さあここで新たなる陸家を発掘するか!」 |
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NOBはまだ言う事があるらしい。 |
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職業不明 NOB 2001年12月29日土曜日 21時22分
「すみません、ちょっと意味不明でしたが、余談のところは孫鍾にまつわる説話です。
すでに過去に出ている話だったらごめんなさい。読み流してくださいm(_ _)m」 |
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仕方がないので、こう答えてやった。 |
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マスター ぐっこ 2001年12月29日土曜日 21時24分
「↑
同時です(;^_^A NOBさまようこそ~!
孫家の祖ともいうべき孫鍾のお話ですね! …さすがの新唐書宰相世系表も、孫家に関してはそれ以上の追跡は不可能でしたか…」 |
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左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。 |
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ノミ屋 左平(仮名) 2002年01月04日金曜日 23時34分
「そうそう、おばらさんのHPで陸氏系譜を拝見しましたが、陸康が二人いるんですよね(一人は陸績の父、一人は陸亀蒙の曽祖父→陸瑁の子孫 直系の先祖・子孫ではない)。
避諱(ひき:先祖の諱を避ける)といいますが、数百年も経つと、さすがにそう言ってもおられないのでしょうか。
類似した例として、周の武王と鄭の子産の父・子国が挙げられます(ともに、姓名は姫発)。こちらは、数百年経っていますが、直接の先祖・子孫の関係です。日本では、伊達政宗の例があります。」 |
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左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。 |
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ノミ屋 左平(仮名) 2002年01月05日土曜日 00時10分
「↑約一週間が「ちょっと(の)間」って、、。
それはそうと、『三国志 きらめく群像』を読んでいて、諸葛氏の血縁関係をどう考えるか、という問題があったので、こういう風に考えてみたのですが、聞いて頂けますか?
上記の書き込みも、これを考える中での副産物なんです。
1,諸葛珪(しょかつけい)、諸葛玄(しょかつげん)
2,諸葛瑾(しょかつきん)、諸葛亮(しょかつりょう)、諸葛均(しょかつきん)、諸葛璋(しょかつしょう)
3,諸葛誕(しょかつたん)
1,2,3,のグル-プが、それぞれ同じ世代(起点となる人物からみて同じ世代という意味)と考える。名の発音が-e-が1,-i-が2,-a-が3,と考えてみました。
渡辺氏がおっしゃる様に、王ヘンがつく人・つかない人という分け方には十分な説得力があるのですが、一つひっかかるのです。諸葛瑾と諸葛亮が実の兄弟ではないのではないか、というのはいいのですが、では、諸葛亮と諸葛均はどうなるのか、なんです。同じ勢力に仕えていて、史書にも弟と書かれているのに実の兄弟ではないとは考えにくいし、かといって、名の字づらには共通性がないし。
私の仮説が合っていれば、諸葛瑾・諸葛亮・諸葛均は実の兄弟として考えても問題ない、となるのですが、、ただ、名へのこだわりをどう見るべきか(この仮説だと、諸葛珪と諸葛瑾は親子で王ヘンを使用している事になるが、親子の名に共通性があって良いのかどうか)というのがまだ完全にはクリアできていない様で。」 |
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玉川雄一は話が長いので有名だ。 |
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呼ばれてもいないのに黒竜が話に参加した。 |
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ポン引き 黒竜 2002年01月05日土曜日 02時20分
「この話題には初参加の黒竜です。
>左平(仮名)さん
親子で名前に共通性がある例ならありますよ。
応[王旬]━応[王易] 応純━応紹 孫綽━孫[糸林] 王渾━王済
ざっと調べてこんなところです。
確かに少ないですが皆無ではないようです。」 |
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左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。 |
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タレコミ屋 左平(仮名) 2002年01月05日土曜日 02時42分
「黒竜さん、わざわざ調べていただいて、どうもありがとうございます。
親子の名に共通性のあるケ-スが三国時代にありましたか!と、なれば、、」 |
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玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。 |
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私は内心うんざりしていたが、にこやかな顔でこう答えた。 |
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マスター ぐっこ 2002年01月05日土曜日 22時04分
「歴代長スレの中でも屈指のロングランとなりました(;^_^A
さておき名前についてですか~。封地にしても同名の土地は避けると言いますが、基本的にチョクの諱をさける、という以外は、結構ニアミスとかありそうですね…。
>諸葛ニセ兄弟
たまに見かけますよね~、この説。私は従来の設定を心情的に支持してますが、実際はどうなんでしょ。ニセ三顧の礼と同じく、単なる異説で
あってほしいと思ってます…。
>漢字
たしかに一族で同じ部首の漢字を使う例はあるようですが、確かに親子となると…。」 |
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おばらはちょっと間をおいて、また続けた。 |
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ヒモ おばら 2002年01月06日日曜日 01時19分
「妄想レスですまんのですが、
「珪」とは「ガラスの原料」であり、
「瑾」とは「純粋で硬い玉」を意味し、
「亮」とは「あきらか。さえる。まこと。高らかによく通る声。」を意味し、
「均」は「ひとしくする。すべて。」と漢和辞典あるんで、
諸葛珪は、自分の名と合わせて、さらに三人の子の名を合わせて理想的な人間像とした?!
「透き通った玉のように、あくまでも純粋で硬骨を保ち、その明徳は高らかに響きわたり、すべての人に余徳が行きわたる。」な~んてね。(^-^;;
メッチャ妄想ですわ。
かんけーないスレ付けてスマンデスm(_ _)m」 |
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左平(仮名)はちょっと間をおいて、また続けた。 |
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タレコミ屋 左平(仮名) 2002年01月06日日曜日 02時27分
「単なる妄想なのですが、ifものの小説でもつくる際に、諸葛均の“均”を“鈞”にしたらどうかな、とも考えています(彼を産んですぐに母親が亡くなっている、という事実も絡めて)。そうなると、、
・瑾-美しい玉。→玉の持つ輝き→高潔な人格
・亮-あきらか。→あかるさ→智の輝き
(注:「亮」という字は、「京」と共通の字源を持つらしいです。ちなみに、「京」には、「京観(:けいかん。戦いの後、敵兵の屍を塗り込めてつくった凱旋門のこと)」という意味合いがあるとか)
・鈞-ひとしい、の他に、造物主や天の意味もあるとか。→金ヘンもあるから、金属の輝きもある、かな?→人々への恩徳・高貴さ
(注:夏の啓王が、即位後、「鈞台」という所で諸侯をもてなしたという故事もあります)
三人の名には、それぞれ「明るさ」を示す意味合いが加わる事になり、共通性が出ます(ただ、これだと長兄・瑾の名が相対的に地味に…)。
それともう一つ、妄想ですが、、何故、諸葛瑾の字は「子瑜」なのに諸葛亮は「孔明」なのか?ひょっとしたら、元の字は「子明」だったのでは?てな事も考えています。
以上、ちょっとした妄想レスでした。」 |
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