味好漢1:谷利
味好漢列傳 其の一
谷利(字:不明) 本籍地:不明
記念すべき味好漢第一号は!
「何か委員会」の前身組織である「谷利促進委員会」の大モト!
彼、谷利(愛称・こっくりさん)であります!
谷利は、武将ではありません。かといって文官でもありません。ただひたすら孫権の身の回りの世話をしてきただけで正史に千載の名を遺した、奇跡のような「一般人」なのです。
「利! おれの剣をもて!」
とか
「利よ、髻をあたってくれ」
とか、とにかく孫権の側ちかくに控え、「利!」と呼ばれるたびに駆け付けて雑用をこなす役であったと思われます。
正史三国志「呉書」でも谷利の記載は、わずか二ヶ所。
合肥での壊乱の中、孫権を無事後方まで逃がしたという所と、旗艦の進水式ではしゃぐ孫権をたしなめた所。
このたった二ヶ所の記述のみでも、我々は谷利という稀代の「一般人」の、おおよその像を知ることが出来ます!
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まず、合肥。
A.D.210年、劉備との荊州領有権問題に一応の解決をえた孫権は、先の濡須戦役の報復行動として曹操領・淮南に進出し、合肥城を攻撃しました。
ところが敵将・張遼の武略によって孫権軍は手もなく突き崩され、壊乱し、孫権自身はわずかな馬廻りたちとともに戦場を逃げ回るハメに。
しかし時すでに遅し――!
退路として確保してあった橋は、既に曹操軍に破壊されていたのです!
ここで呆然とする孫権に向かって、「馬にしがみついておいでなさい」と声を掛けたのが、彼・谷利。孫権が手綱を緩めて鞍にしがみつくのを確認すると、後から馬の尻をムチで一撃!
馬は驚いて奔走し、破壊された橋を飛び越え、無事に対岸までたどり着きました。
――この時の功績により、谷利は都亭侯に封じられています。
………………
そして、進水式。
A.D.226年(諸葛亮の第一次北伐がおこる前年)、孫権の旗艦「長安」の艤装工事が完了し、その進水式が開かれました。
武昌(江夏)の水軍基地を発したこの大型戦艦は、孫権の命によって羅(長沙)へと進路をとっていましたが、このとき風が激しく吹き、長江は荒れに荒れていたといいます。
ところが呉王・孫権ははしゃいで「頑張って目的地までゆくように」と宣う始末。
孫権の側に侍立していた谷利は、やにわ抜剣して操舵手に突き付け、「樊口まで引き返さぬと斬る」と、君主の命を堂々と無視してみせます!
「長安」は、暴風に悩まされながらも樊口までたどりつきました。風はますます激しくなり、これ以上の遡航は不可能と言うことで、停泊することになりました。
おさまらないのは、呉王殿下・孫権です。
「おいおい阿利(利ちゃん)よ、えらく臆病になったな。そんなに水が恐いのかい」
と、彼をつかまえて嫌みをいいました。すると谷利は、
「大王たる者が軽々に冒険などされ、万が一のことが有れば国家はどうなりましょう」
と、毅然として言い返しました。
孫権は二の句が継げず、以後、谷利のことを名前の「利」で追い使う事はせず、常に敬意をもって姓の「谷」と呼び慣わしたとか。
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……我々が谷利について知ることが出来るのは、この二点のみです。
ですが「この二つだけで十分」といえるほどに、以上の挿話が彼の人柄、能力を現していると思います。
呉書によると谷利はもともと「左右給使」であり、性は「忠果亮烈(一本気)」、言は「不苟(いい加減でない)」。その謹直さを買われて「親近監(近従頭)」にまで昇ったようです。
――権、之ヲ愛信ス。
とあるように、孫権の寵愛は絶大であったようですが、谷利の名は他には見られず、要するにあくまでも孫権の「プライベート」な家臣という枠を護り、決して寵に狎れた佞臣という定番位置に陥らなかったようです!
まさに味好漢!
(2002年記)