味好漢2:何伯求(何ギョウ)
味好漢列傳 其の二
何顒(字:伯求) 本籍地:荊州南陽郡
味好漢第二号は、後漢末期を生きた007こと、何伯求です!
帝都洛陽の太学では余人の追従を許さぬ大学士でありながら、弾丸のように一本気で、めっぽう剣の腕が立ち、相当の浮き名も流したという若英雄・何顒伯求が、何故地下に潜伏せねばならなかったのか……?
この「味好漢指数」120の何伯求について、今回は紹介してゆくとしましょう!
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郡県の期待を一身に背負って上京した何顒少年は、洛陽の太学でその青春時代を過ごしました。
ちょうどこの頃の洛陽と言えば、後に「桓霊の間」と呼ばれる爛熟・頽廃期が幕を開けた頃であり、外戚と宦官による権力争いのまっただ中。
まだ老いも若いも政治に強烈な関心を持っていた時代でして、特に太学の諸生(学生)たちなどは、数千人単位で決起集会を行うなど、どこかで見たことのあるような状況です。
彼ら学生たちにとって、カリスマは「清流派」と呼ばれる名士層。
世間では、李膺・陳蕃などという高級官僚から劉表・張などという若手まで、「清流派」の名士たちを月イチでランク付けするのが大流行していました。
さて、何顒です。彼はこの頃一諸生に過ぎませんでしたが、その名は既に洛陽中に拡がっていたようです。
というのも、有名な「虞偉高の代討ち」事件を起こしていたからです。
――何顒の盟友であった虞偉高は、長く病床につき、余命幾ばくもないという状況でした。虞偉高はその臨終のとき、涙を流し「わが生涯で父の仇を討てなかったのが無念だ」と何顒に言い遺したといいます。
何顒は義のため、友人の代わりに仇を討とうと決意しました。
その相手というのは、「巨万の財を蓄し、百駟(400頭)の駿馬を飼う」といわれる程の実力者! 普通に考えれば、死んだ人のために挑む相手ではありません。
ところが何顒は、それをやってのけたのです!
見事仇討ちを果たした何顒は、斬獲した首級を友人・虞偉高の墓に供え、その霊を慰めました。人々は彼の義心と機略、そして剣の腕に喝采を送ったといいます。
このこともあって、何顒は清流派の若手として洛陽中の名士に期待される身となっていました。
当時の司隷校尉・李膺や太傅(皇帝顧問官)陳蕃などという大物たちまでもが、一諸生に過ぎない何伯求を友人として遇したというから、相当なものです(※李膺の屋敷の門を許される事は破格の待遇であり、為に「登竜門をくぐる」という言葉の語源になった)。
そして、「党錮の禁」が起こります。
大将軍竇武・太傅陳蕃が指揮する官僚・外戚連合部隊は、宦官たちに騙されていた猛将・張奐によって蹴散らされ、クーデターは失敗。
清流派の英傑数百人は、みな捕縛され、拷問の挙げ句殺されてゆきます。
何顒は、官憲の包囲網を突破して洛陽を脱出。
以後、消息不明。
ちなみにこの時、曹操少年、十五歳…。
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地下に潜伏した何顒は、各地を転々としながら、天下の豪傑や隠者たちと交わり、一大地下組織を創り上げていたようです。
大胆不敵にも、彼は年に二、三度は洛陽に潜入し、宦官らの弾圧に苦しむ元清流派人士を救う計略を練っていたといいます。
――この際、アジトに使用していたのは何と貴公子・袁紹の屋敷!
この危険な時代に国事犯を匿うとは、袁紹も唯の坊ちゃんではなかっということ。もちろん、この騒ぎには曹操も一枚噛んでいます。
何顒は曹操青年を評して、
「漢家マサニ亡バントス。天下ヲ安ンズルハ、必ズ之人ナラン」
という超級の賛辞を吐いています。
これとほぼ同様のことを当時の橋玄も漏らしていて、あるいは資料の混乱かとも思われますが、どの記にも「橋玄と何顒だけは曹操を異なりとし」とありますから、本当に二人が同時に同じような評を残したかもしれません。
何顒が評したのは、曹操だけではありません。
彼はこのとき、まだ少年の面影を残す諸生・荀彧にも会っており、ひとこと「――王ヲ佐ケル器ナリ」と喝破。有名な「王佐の才」は、この評からきている言葉です!
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余談ですが、袁紹・袁術兄弟はこの貴公子時代から仲が悪かったらしく、特に袁術の袁紹に対する嫉視反感は尋常ではありませんでした。
ふたりは門を訪れる客の質・量を競い合っていたようですが、袁術はどうも不利を感じていたようです。
袁紹には「奔走友」とよばれる四人の豪傑が常に付き従い(何顒・張・許攸・伍瓊・呉子卿)、天下の羨むところとなっていましたが、これを見た袁術は
「許子遠(許攸)は凶淫、何伯求(何顒)は凶徳の男である」
と口を尖らせて批判したとか。
許攸のほうは後に袁術の評通りに行動し、官渡において袁氏を滅亡に追いやる立て役者となる人物ですが、この時は「百計を蔵し救世の才がある」と評される凄腕の謀士として知られていました。
――で、何顒がなぜ「凶徳」かというと、彼は非常にオシャレで、また金遣いが相当に豪勢だったようなのです。
清流派の名士といえば清貧が当然で、当時にはそのスタンドを貫くためなら餓死してもよいとさえする風潮がありました。…何顒や許攸は彼らを鼻で笑い、金は使うためにあるんだよ、とばかりに豪遊していたのでしょうか!?
とにかく、ただの清流名士という枠に収まらない凄味のある豪傑だったようです。
ちなみにこの袁術の負け惜しみは、彼の食客の一人に
「そんなことを外で口に出したら、貴方が恥をかくだけですぞ」
とあっさりやり返されたとか。
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やがて黄巾の乱が勃発。宦官らはその対応に苦慮し、とうとう「党錮の禁」を解除する方針を打ち出します!
清流派は、何顒が築き上げていたネットーワークによって素早く連絡を取り合い、大将軍・何進の元で急激に勢力を回復してゆきます。
十五年という長きに渡る潜伏生活にピリオドを打った何顒本人は、司空府に招聘され、余人では思いもつかないような計略を次々と発案し、ただちに北軍中候官に栄転しました。
頼りないとはいえ大将軍・何進は清流派を自認する外戚で、かの名君・竇武の後継者として宦官と対抗しています。
いよいよ念願の濁流一掃――すなわち、宮中に巣くう宦官どもの皆殺し計画の実行が近づいていました…!
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ところが!
宦官が皆殺しにされたはよいが、代わって政権を握ったのは清流派どころか、あの猛将・董卓だったのです!
董卓の暴政はとどまるところを知らず、彼によって相国府の長史に任じられた何顒も、
「斬るべし」
という決断を固めました。
……が、暗殺計画は寸前のところで露見し、首謀者たちは一網打尽に捕らえられ、拷問にかけられました。
同志のうち、袁紹時代からの親友であった伍瓊は既に獄死。他の仲間も次々と殺されてゆく中、何顒は獄のうちで一人、自らの命を絶ちました。
享年不明。――ただ、彼の交友関係などから類推するに、40半ばくらいではないでしょうか。
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このとき、何顒と同じ獄舎に放り込まれていた同志・荀攸は、手抜かりなく獄卒に賄賂を配り、拷問を免れていました。そして董卓は死に、荀攸はただひとり奇跡の生還を遂げます。
後年、尚書令として国政全般を統括する身になった荀彧は、何顒が叔父の荀爽と親友であったことを思い起こし、何顒の遺体を荀爽の墓の側に移葬したということです――。
(2002年記)