味好漢4:趙雲と陳到

味好漢列傳 其の四

 

趙雲(字:子龍) 本籍地:冀州常山国

 

陳到(字:叔至) 本籍地:豫州汝南郡

 

 

 今更説明するまでもありませんが、趙子龍は「演義」における五虎大将の一人として並びなき勇名を馳せた当代の大スター! …が、趙雲と並び称されたもうひとりの陳到に至っては、ごく最近になってようやくその存在が知られてきたという体たらく。

 本来は陳到ひとりの紹介でよいのですが、ここは田中芳樹先生の「マイナーキャラはペアで出すとファンがつく」説に従い、あえて趙雲を「マイナー」キャラとして扱ってみます!

 

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 屈強の傭兵集団を率いて各地を転戦していた若き劉玄徳は、当時のクライアント・公孫瓚のもとで、一人の若者と出逢います。

 若者の名は趙雲、字は子龍。冀州の人士が続々と袁氏に服従する中、「袁紹が正しいとは限らないので」などと至極曖昧な理由で公孫瓚に従う変わった人物です。

 ちなみに当時の公孫瓚とは、幽冀青の三州にまたがる強大な軍事勢力を支配し、白馬義従と称する四海最強の騎馬軍団を率い、塞外の異民族からもシャーマニズム的な畏怖を抱かれていた、いわば北方の覇者。

 劉備も趙雲も、当初は公孫瓚の部将として、それぞれの戦線で活躍していたようです。

 二人が出会ったのは、袁紹による冀州攻略が本格化した時期でした。公孫瓚は別動隊の田楷に附けるべき将帥として劉備を選び、さらに幕僚として趙雲を派遣したのです。趙雲は劉備の主騎(騎兵隊長)に任じられ、轡を共に並べることになりました。

 このとき劉備は趙雲にベタ惚れしてしまい、趙雲もまた劉備を心中で慕うようになった様子。

 ……ところが趙雲の兄が故郷で死んでしまい、趙雲は服喪のために帰省せねばならなくなりました。このときの彼の口ぶりから、二度と公孫のもとに戻ってこないと察した劉備は、趙雲の手を握りしめて別れを惜しんだとか。趙雲もまた、「終ニ徳ニ背カズ」、つまり終生おん徳に背きません、と誓ったとあります。

 

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 さて、劉備は徐州に派遣されたのを機に、クライアントを徐州牧・陶謙に替え、イロイロあって徐州牧の地位を引き継ぐことになりました。

 その後呂布に本拠を奪われたものの、代わって豫州の州都・沛(小沛城)を与えられ、以後長く豫州牧を称することになります。

 この豫州牧時代に、劉備はこんどは陳到という猛将を得ることになります。

 陳到は地元の豫州出身であることくらいしか解っていませんが、まず、普通の現地採用だったのでしょう。当時の地位がどれほどのモノであったかも不明です。

 ですが以後の劉備の波瀾万丈な人生に離れず従ったわけですから、単なる下っ端部将というよりは、やはり側近クラスだったのではないかと思われます。

 

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 徐州を奪われ、豫州も奪われ、またまた徐州を曹操に奪われた劉備は、家族を棄て部下を棄て兵馬を棄て、こんどはかつての敵・袁紹を頼ることになりました。

 そして袁紹の陣営で、劉備は思いがけない人物と再会します。

 昔、ともに袁紹軍と戦った趙雲です!

 かれは劉備が冀州の魏に入ったことを聞き付け、常山から駆け付けてきたのでした!趙雲は別れ際の言葉通り、以後の生涯を劉備の為だけに送ることになります。

 

 趙雲は、想像以上に役に立つ男でした。

 目立った行動のとれない劉備に代わって、趙雲は「左将軍(劉備)の兵」を募り、将を集め、袁紹陣営内に一種の私兵集団を創り上げてしまったのです。彼の非凡さは、この事実を袁紹に最後まで気取らせぬところにあったでしょう。劉備は、ぬくぬくと袁紹の元で軍団を形成し、さっさと汝南へ逃げ延びてしまいます。

 まもなく袁紹は曹操に攻め滅ぼされてしまいました。

 

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 やがて数年をかけて北方を平らげた曹操は、軍を南に向けて天下統一の仕上げに掛かりました。

 軍団の総数は公称80余万(実数20万弱)――。劉表の部将として樊城に駐屯していた劉備軍団は、為す術もなく蹴散らされ、民衆を引きずりながら南へ向けて逃走を開始します。

 曹操はこの千載一遇のチャンスを逃さず、こんどこそ「乱世のゴキブリ」劉備の息の根を止めるべく、猛追撃。やがて長坂で移民団の最後尾と接触しました!

 10万を超す民衆達は、それこそ蜘蛛の子を散らす様に逃げ惑い、曹操騎馬軍団は虐殺の限りを尽くします。この凄まじい混乱に巻き込まれ、劉備の妻子もまた民衆の渦の中で曹操軍に捕捉されてしまいます。

 このとき!

 混乱のモヤを突っ切って曹操陣営の中に躍り込んだのが、趙雲です!

 趙雲は単騎で敵の重囲をぶち破り、見事、劉備の妻子を保護し、戦闘圏を離脱してのけました。この超人的な武勇談が、後の三国志演義によって喧伝され、永く人口に膾炙する事になります。

 

 さて、小説的な想像ですが、趙雲と対を為す猛将・陳到は、この長坂でどういう役割を演じたか。

 趙雲と陳到は、劉備直属の部将兼護衛――つまり草創期における関羽・張飛のごとき存在であったと仮定すると、護衛の列を離れて敵方へ突入した趙雲に代わり、劉備の護衛を指揮したのが陳到であった、という考えが出来ます。

 

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 赤壁の後、劉備は荊州南部を領有しました。

 荊南四郡のひとつ桂陽の太守は、もともと趙範という人物でしたが、劉備は降った彼の心根を信頼できず、趙雲を偏将軍に任じて太守に抜擢し、派遣しました。

 趙範は劉備に迎合するためか、趙雲を厚遇し、亡き兄の未亡人である樊氏を趙雲の室へ差し出そうとします。

 ところが当時は(所によっては現代でも)同姓不婚の原則があり、趙家の未亡人を同じ趙姓の自分が娶ってはマズイだろう、と趙雲は頑として受け付けません。人が、どうしても、と強いたところ、有名な

「天下ニ女ハ少ナカラズ」

 という名文句(迷文句?)を吐いて、肩をすくめたとか。無論こんな阿呆らしい理由で断ったのでなく、降ったばかりの趙範の人物が信用できなかったからでしょうが。

 

 また、しばらく後の話ですが、趙雲は益州をまるごと騙し取りに出ていってしまった劉備の留守を守ることになりました。

 この頃、関係が悪化していた東呉の孫権は、劉備との国交断絶の準備行動として、劉備の後室におさめていた孫夫人(孫権の妹)の引き上げを画策します。孫夫人は、こともあろうに劉備の長男・劉禅を引っさらって荊州脱出を図りました。

 ところが趙雲はいち早く事変に気付き、張飛とともに荊州水軍を動員して長江を封鎖し、すんでの所で孫夫人の身柄を確保、劉禅を奪い返します(実際のところ、孫夫人の帰郷時点では、張飛も趙雲も益州入りしていたかもしれませんが)。

 

 ……どうも趙雲は、この種のストーリー的要素の強い活躍がやたら目に付きます。これに較べて陳到は、な~~~んの記録も残っていません。

 

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 やがて劉備は、とうとう孫権に出し抜かれて、荊州領全土を奪い取られてしまいました。さすがにブチ切れた劉備は報復戦を叫び、群臣の諫言を無視して遠征軍団を組織します。

 このとき武官の高位者である趙雲は、理をもって劉備を諫めますが、聞き入れられませんでした。

 ……結果、皇帝劉備による親征軍団は壊滅的な打撃を被り、特に将帥クラスの人的損失は国家規模の致命傷となりました。

 今思えば、趙雲が戦列から外されたのは不幸中の幸いだったでしょう。

 おそらく趙雲は、劉備の盾となって戦場に踏みとどまり、他の大将ともども壮絶な戦死を遂げていたに違いありませんから。

 

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 翌年、劉備が失意のうちに没し、劉禅が皇帝となります。

 趙雲は征南将軍、陳到は征西将軍と、仲良く出世しました。

 さて。丞相職を続行した諸葛亮は、自ら軍を率いて南方の武力蜂起を鎮圧し、こんどは北方の魏帝国へ侵略戦争を試みることになりました。

 ――北伐のはじまりです!

 このとき、永安城に駐留して対呉国境方面を総監していたのは、諸葛亮とほぼ同等の実力を持つ李厳でした。

 諸葛亮は自らが前線に出る代わり、この李厳を成都に比較的近い江州へ移して、内国の軍政全般を委ねるという措置をとります。

 そして空席となった永安都督(つまり対呉国境方面軍の実戦責任者)に任じられたのが、征西将軍の陳到です!

 呉は、同盟が急成立した勢力であり、いまだその腹中の程は知れません。あるいは北伐軍全滅す――という事態になった場合、鉾を逆しまに攻撃してくる可能性さえあります。

 ですから呉との国境を一任された陳到とは、当時の蜀の将星中、対魏国境軍総司令・魏延にも匹敵する超一級の存在であったとも思われます。

 ちなみにペアの征南将軍趙雲は、鎮東将軍として北伐軍団の中核を占めることになりました。

 

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 第一次北伐が始まりました。

 軍の重鎮である趙雲の役割は、華々しい先鋒でも堅実な中軍指揮でもなく、敵軍主力の注意を引きつける「オトリ」部隊の隊長でした…。

 ですが、趙雲は見事にオトリを演じてみせ、敵総大将の曹真をかなり長期間にわたって引きずり回し、その采配の見事さを天下に示します。

 残念ながら馬謖の失態によって主力決戦で蜀軍は敗れたものの、趙雲はなお最後尾でしぶとく指揮をとり続け、これ以上はないというほど見事に敗走してのけます。全戦線が悲惨に潰走したのに較べ、趙雲隊は物資一つ残さず綺麗に逃げおおせたということでした。

 「戦師」趙雲の腕はなお衰えず、というところでしょうか。

 

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 趙雲と陳到。

 ふたりの記録が残されているのはここまでです。

 趙雲というと演義の颯爽たるイメージがあまりに強く、正史でも趙雲の記述はかなりの量に及びます。

 逆に陳到は演義で名を見ず、正史でも伝を立てられず補足の様に書かれているのみ。

 これで「陳到の武功・名声は趙雲に亜()いだ」などと言われたところで、我々はまるでピンとこず、光栄さんだって能力値の設定に困るというモノです。

 

 我々が気を付けねばならないことは、「正史」もあくまで「後世評価」に過ぎない、ということ。実際に「三国志」があった一〇〇年近く後につくられた書物なのです。

 当時のリアルタイムな評価はどうだったか、とかイロイロ想像しながら読んでゆくと、正史は結構、面白いものです。

 私の場合、リアルタイムの趙雲の評価は「我々が思ってるほどではなかった」と想像し、陳到に関しては「思っている以上のものだった」と想像しています。

 まあ、趙雲は陳到と違って劉禅を二度も救出するという「奇功」があったため、皇帝の覚えも目出度く、死後特別に諡を追贈され、史家の筆も進み、陳到に較べて「なんとなく別格」になってしまった――という程度ではないでしょうか。

 (2002年記)

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