唯一つの命~建寧の政変【第四話】
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いかなる術であろうか。
義真は、呼吸すらできなかった。
声の主は、ただ義真の手首と掌の一部を指で圧迫しているだけなのに、それだけで体中の筋骨が全く動かぬ。
酈は、酈はどうなったか、と後ろを確認したくとも、振り返ることができない。
(――皇甫氏よ、童子は無事だ。いま卿とおなじ目に遭っているだけだ)
声は、呟くように云った。
義真はそれを聞いて、全身の力を抜いた。とたんに、さきほどの呪縛が嘘のように解けた。同じく敵手は義真の手を圧迫しているというのにだ。
「そうだ、この骨子を解くには、全身の筋肉を弛緩させる覚悟が要る。皇甫氏は、力みすぎていた」
声は涼しげに云うと、その手を離した。
離れた瞬間、義真の腰間から閃光が鞘ばしり、声の生じた位置を正確に薙ぎ払った。
が、空を斬った。
「――!?」
次の瞬間には、ひやりとした感覚が首筋に擬せられていた。
(乱暴な男だな。童子は無事だというのに)
こんどは、後ろからだ。
声の主が、すくなくともその方角には居ないことくらいしか、いまの義真には解らなかった。
(だめだ、格が違う――)
義真は、自信のもとである剣技において、二度も不覚を取ってしまったのである。
と、ふいに、一体にみなぎる殺気が消えた。
「驚かせて済まなかった、義真どの。私だ、伯求だ」
出し抜けに声が聞こえた。小さいが、偽装されていないはっきりとした声である。
「あっ――」
義真は、今度こそ声の方角へ、あわてて拝拱した。
相手も同じく拱手の礼を返してきた。
声の主は、義真もよく知っている何顒、字は伯求という青年であった。
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後漢王朝は皇甫嵩という名将を得て、その命数を幾ばくか長らえることになるが、それだけでなく、この何顒という稀代の活動家を産んだこともまた、僥倖と称するに足るであろう。
何顒は義真と異なり任官歴がなく、文字通り無位無官である。歳も二十歳を幾つ過ぎるか、という弱輩だ。
にもかかわらず、その知名度は義真と比較にならない。
かれは太学で甚だ学名を挙げ、末は博士にとまで期待されていた諸生なのだが、その学究の傍らで、常に武技を講じて飽きず、悪少年らからは武神の如く崇められていた。おまけに品行も定まらず、後に「凶徳の徒」とまで弾劾されるほどであったが、不思議と悪い評判はなく、かえって、頼もしい英雄男児という印象を周囲に与えていた。
そして党錮のおこる前年、友の遺言を果たすべく、かれは食客数百家という勢力を誇る豪侠のもとへ単身乗り込み、一剣をふるって見事仇討ちを果たしてのけた。
都城をあっと騒がせたこの事件は、たちまち官界にまで波紋を広げ、何顒青年のゆくところ、必ず競うように当時の高官らが招きを寄越した、という。この中には、いまの大将軍竇武や、太傅の陳蕃らも含まれている。
何顒はやはり任官の誘いをことごとく断り続けたが、しかし彼らとは積極的に交わり、たとえば司隷校尉の李膺とは心契を結び、名高い“登竜門”へ主の方から招き入れられるという珍事までおこっている。
――その何顒。
かれは詫びもそこそこに、ふたりを街から連れ出し、また里の閭門内へと誘っていた。
あれほどの騒ぎをおこして、宮兵に気づかれなかったのは、無論幸いであろう。
そこであらためて、何顒は無礼を詫びた。意外にも、酈は背後の気配を察知できなかった己を恥じており、存外しおらしく何顒の謝罪を受け入れてくれた。
「さて、本題に入ろう」
さっそく、二人は双方が知っている情報を交換した。
といっても、何顒は先ほどまで軍団を観察し、隊からはぐれた兵を一人締め上げて、新たな情報を得ているらしいので、義真が教えを請う形になった。
「大将軍府が陥落した後、大将軍は北営に入ったと聞く。その後、羽林と虎賁の二校がそれを攻めているというのは知っているが、いま見た限り数が多すぎる」
目算する限り、他の営へも動員命令が下ったと見るべきだが、疑問が残る。
「――伯求どの、私は解せぬ。あの五営の兵士らは、いったい誰が指揮しているのか。みな、行儀がよすぎる」
義真の指摘に、伯求はさてこそと掌を打った。
「さすがに義真どの、よく見た。驚くなかれ、あの兵団を仕切っているのは、卿の名付け親どのよ」
「えっ――」
信じられる話ではない。
皇甫嵩の名付け親といえば、皇甫規の僚将であり、ともに涼州の勇者として「涼州三明」の名を馳せたひとり、護匈奴中郎将の張奐ではないか。
そもそも、かれがいま洛陽にいるということ自体、義真は報されておらず、そうでなくとも、まず信じられない話であった。
「何の故あって、かれが宦官に味方し、大将軍の軍を害するのか――!」
張奐は叔父と同じ六四歳になる老将軍で、辺境での武功も抜群であるが、文名も書名も当代随一をうたわれるほどの文人であった。当然、陳蕃ら清流派人士との交流は浅からず、彼自身も清流派とよばれるべきであろう。
「あり得ぬ」
「それが、事実なのだ」
何顒は残念そうにつぶやいた。
「彼は、何も知らないのだ。何も知らされぬまま兵を率いている」
「ばかな」
「それが、閹人の奸猾さよ。なぜ、この月になって、かれがひっそりと洛陽へ召還されたか。おそらく勅か太后の宣でもって、偽りを吹き込まれ、ただ正義のためと信じて、大将軍を討つつもりのようだ」
聞いていて、義真はおぞけを覚えた。
そんなことが、可能なのか。
張奐は、数年前から西方の国境に貼り付き、しばしば郡県を侵す羌族の軍団を相手に連戦してきた。おそらく、党錮の禁のおりも、戦火の最中にあったはずだ。
誰か、彼へ詳報を報せなかったのか。
その後、張奐か張奐の縁者と連絡をとらなかったのか。
(もし、それが取らなかったのではなく、取れなかったものだとすれば)
――宦官は、数年という歳月をかけ、随意に動かせる手駒を飼い育ててきたことになる。しかも、国内で最強といってよい猛将のひとりだ。
義真は、呆然として何顒の顔を見つめた。
何という謀計か。大将軍も、太傅も、すべて宦官の張り巡らせた糸の上で踊っているに過ぎないではないか。
間違っている。――老将軍は、取り返しのつかない間違いをおかしている。これを匡し、宦官の謀を狂わせ、歴史の逆転を止めねばならぬ。
「…中郎将を止めてくる。これが、私の役目と知った」
「よく覚えた、義真どの。私も、まさにそれを卿にお願いしたかった」
何顒はうなずいた。
「だが、命懸けになるだろう、皇甫氏よ。不審者は、見つけ次第斬り殺すように触れが出ているうえに、たとえ卿か叔父殿の名を出しても、五営の将兵がそれを信じて取り次いでくれるか解らぬ。さらに、張中郎将が、卿と会ってくれるかさえ解らぬのだ」
義真もそれに首肯したが、迷いはなかった。
「やってみるだけだ。どうしても彼らが云うことを聞いてくれなければ、本陣に届くまで斬り暴れるまでだ」
何顒は義真の言に感動したようだが、すぐに首を振った。
「卿は、まだ死んでよい体ではない。会見が無理とわかれば、すぐに斬り抜けて屋敷に待機して欲しい。私の方は、竇大将軍の邸宅へ潜入し、ご家族を一人でも多く脱出させるつもりでいる。その手助けをお願いしたい」
「心得た。それならば、永和里を抜けられるといい。袁家の子息、本初がよろこんで力を貸してくれるだろう」
さっと打ち合わせを済ませ、ふたりと一人は別れた。
「ご無事で――」
「互いに」
拱手し、ふたりは別々の方へ歩を進めた。
何顒は北へ、義真は南へ――
空が、白み始めていた。