唯一つの命~建寧の政変【第六話】
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事は、破れた。
惨なる哉。――宮闕のひとつ承明門前にて、「叛乱軍」の首魁である太傅の陳蕃が捉えられたのである。
大将軍が北営の校を率いて奮戦している頃、宮中に火の手と悟り、急行してきたのが、彼、陳蕃であった。ちょうど義真が何顒と話し合っていた時刻である。
自邸にあって、夜の騒擾を耳にした陳蕃は、天を仰いだに違いなかった。
「閹人に、漏れたか――」
そう、長嘆したであろう。
竇武が宦官長を捕らえて拷問にかけ、いちいち上奏の調書を準備したとき、陳蕃はその誠実な夫子らしい悠長さに苛立ち、さっさと誅して兵を挙げるべきだ、と怒鳴ったものだ。
思えば、まさにその時からこの義挙は破れていたのである。
ならば責は大将軍にあるか、と問えば、陳蕃は無論頷かぬであろう。
「天命よ」
天が、そうあるべしと命じたのだ。竇武と陳蕃、それに多くの名士たちがこの夜を境に死に絶えることも、すべては天の差配である。
しかしながら、
「腐者どもの栄華とて永遠には続くまい」
陳蕃は死ぬ為の出撃を前に、そう呟いたであろう。
…天下はいよいよ濁流の覆う世となるが、この日より二十年の後、時の司隷校尉袁紹とその一党が、とうとう宮中に巣喰う宦官という宦官数千名を、一人残らず殺戮するのである。
数百年と続いた宦官と外戚の果てない闘争は、図らずも、いま洛陽の永和里で悶々としている先の袁紹青年が、歪な形ながら解決してしまうのだ。
陳蕃は、齢七十という老身を引っ提げて、掖廷へ駆け付けた。
単身ではない。日頃かれが愛育してきた諸生、官属等八十余名が、この老臣と運命を共にするべく、各々剣を佩いて門出した。
戎装もせぬ朝服姿に、抜き身を引っ提げて駆けるこの奇妙な集団は、やがて承明門前にて、宦官長たる黄門令王甫の率いる一隊と遭遇した。
「謀反人ども!」
大喝したのは陳蕃老人であった。――大将軍に何の不道やある、叛するは宦者なる、宦者なるぞ、と、声を限りに怒鳴りつけた。
ちょうど門内にあった宦官王甫が進み出て、やよ、汝らこそが大逆よ、と甲高い声で怒鳴り返し、双方が剣を抜いて、あれを黙らせよ、と命じ合った。双方を忠衛していた人数は、白刃をかざして突進した。
が、数が桁一つ違う上に、王甫の隊が完全武装の近衛兵であるのに較べ、陳蕃の諸生たちは、剣一本を携えるだけの身である。
たちまち叫喚のもと、朱に染まるのは陳蕃の人数であり、八十名を数える者どもは、みるみるうちに地へ臥し崩れた。
…が、王甫も驚いたことに、陳蕃老人だけは、殆ど超人とも云える頑張りで、群がる兵士らを突き飛ばし、剣で滅多打ちに殴り、組み付いて投げ飛ばし、なんと少しずつ王甫の方へ近づいてきたのである。
「ふ、拒げっ!――拒げっ!」
王甫が悲鳴をあげて重壁の裡へ隠れるうちに、とうとう、屈強の衛士ひとりが、陳蕃老人の痩身を押し倒して、剣をもぎ取った。そこへ、次々と折り重なるように兵どもが殺到し、ようやく陳蕃老人を縛り上げたのである。
陳蕃老人は、黄門北寺獄へ収監され、その日のうちに刑戮された。
その折り、宦官の一人が趨走して、伏臥する陳蕃の顔を蹴りつけ、こう言ったそうである。
「老人、我が曹の稟仮を奪うや不や」と。
この宦官は、皇帝顧問官たる陳蕃に向かって、(よくも我らの飯を奪おうとしてくれたな)と罵ったのだ。
陳蕃にこの時意識があったとすれば、そのあまりの矮ささに、哄笑したに違いなかった。
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――黎明。
洛陽宮の宏壮な闕が朝日に輝く時刻、義真は、北営門の側まできている。
後にこの皇甫嵩という青年は、兵事の玄機を知る類ない名将として、連戦した数だけ連勝し、車騎将軍という国家の元帥まで昇り、三公に任じられ、弓矢の棟梁として後漢王朝最後の武臣として名を残す男である。
約二〇年続く党錮の禁が解除され、弾圧されていた清流派名士たちが、群竜が雲を得る如く、ふたたび世に縦横する事が叶うのも、すべてこの義真が、黄巾賊鎮圧に際して強硬に主張したのがきっかけである。
だが、その彼も、この時はまだ布衣の一処士に過ぎず、扈従するのは四十万の軍勢ではなく、わずか十五歳の少年ひとりであった。
いまの彼はあまりに無力であった。
その無力な処士が、一命を賭して、歴史へ挑もうとしている。
「何者!」
誰何の声が、四方から響いた。殺気立っている兵らから出る言葉は、もはや悉く怒号と云ってよい。
――呆れたことに、義真は、佩剣を酈へ預けて、単身、本営まで歩いてゆく事を選んだ。
当初の予定通り、兵の一人から甲胄を奪い、伝令を装うことを想定していたのだが、張奐は義真の予想を遙かに上回る名将であった。彼は令箭を与える伝令に二人を用い、外からの連絡は全て門前の割り帳と符合させた上、合言葉らしきものを唱えさせるという、徹底的な軍機保持を行っていた。
戦場では、軍使の報告一つで戦況はがらりと変わる。何よりも先んじて、闘将として最初に張奐がおこなった事は、情報保持なのであろう。
(――俺が浅慮だった)
義真は苦笑した。思えば、皇甫規も戦時、つねに軍使として、子飼いの将校を十余名も連れていたではないか。それを、甲胄を奪っただけで入れ替わるつもりであったとは、なんとも児戯に等しい発想であったと羞じるしかない。
かといって、他に手がある筈もなく、もはや堂々と、張奐の旧知であることを頼りに、彼へ談判するしか無いと、判断した為であった。
義真が、兵列へ接近するや、たちまちのうち、磨きぬかれた鉾の刃先が身辺を取り囲んだ。
「汝も反逆の徒輩か」
「この鉾に貫かれるしかないぞ」
兵は口々に喚いて、今にも義真を突き殺そうという危険な状態であった。
が、義真にとってそれは、予想のうちであった。
義真は、群がり寄る連中へ大いに怒鳴った。
「護匈奴中郎将の御身が危うい!猶予すべからず、疾くお通し願いたい」
兵どもは、その叔父譲りの凄まじい大音声に怯み、思わず距離をあけた。
気組みは、まず義真が取った。義真は畳みかけるようにして、
「二度は云わぬ!中郎将へ禍が迫り、その命数の急たるや、一刻の猶予もない」
と断言した。
嘘は云っていない。もしこの日、張奐が竇武を討つようなことになれば、張奐の名は明日から地に墜ち、あらゆる名士の敵として、千年後まで唾棄され続けることになるであろう。
義真としては、そういう真情もあるので、余計に熱が入り、ついには怒鳴りながら涙を流した。
かれを取り囲む人数は、最初の勢いも失せ、困惑したように、両隣とチラと見合った。
「――卿は、何様であるか」
兵のうちの一人が、鉾先を地へ向けて、問いかけた。
義真の虚喝は功を奏したというべきだった。彼らは完全に気を呑まれている。然るべき貴人の若殿である、ということをも悟ったのであろう。
「覚え措け、私は先の皇甫雁門の子、皇甫嵩である」
義真が堂々と名乗ったので、御林の衛兵は更に驚いた。
僥倖なことに、彼らの中に、かつて皇甫規の率いる遠征軍団に従事した将校がいた。
「あっ――先の度遼将軍の甥御におわすか」
鎧音さわがしく、義真の元へ、華美な甲胄を纏った壮漢が現れ、無官の義真に対して相応の軍礼を施した。
義真は、郎官としての拝拱で応え、その将校へ云った。
「先も申した通り、私は叔父の名代として、護匈奴中郎将を護り参らせんと推参した。お通し願えるだろうか」
将校は、梁衍と名乗り、その旨難しいことを返答した。
「中郎将は、いま本営をば離れ、支隊の采配へ赴かれている。急とやらが何かは知らぬが、いますぐの目通りは叶うまい」
「その支隊の位置は」
「問うまいぞ、皇甫氏。卿は先ほどから、無官の身に過ぎた質問をされている」
梁衍は難しい顔をしたが、義真はなお熱弁をふるった。
「先刻も申したが、事は張中郎将の、声名と万代の家祀に係わることなのだ」
その時、遠くで、鼓を擲つ音が響いた。
梁衍は一度、遠くをかえりみて、食時なり、と呟いた。そして義真へ強く云った。
「皇甫の郎殿、重ねて云うが、お屋敷へ戻られ、朝餉などを喰われるがよい」
「戯言は止して貰いたい」
「戯言ではない。――本職としては応えられぬが、卿は中郎将へ、此度の行軍は、まったく、大将軍の咎にあらず、とでも進言なさる心算であろう」
義真は、頷いた。
「中郎将の御そばには、周小府がおわし、黄門令の指図を逐一、お伝えされておる。この意味が分かるか」
周小府とは、すなわち小府卿周靖のことであり、この度のどさくさにまぎれて、宦官が緊急に任命した九卿のひとりである。また彼は、車騎将軍の任を臨時に行っており、いわば軍事の棟梁として、張奐を指令する立場にあった。
義真は唇を噛みしめ、ために鮮血が顎へ滴った。
「卿が、首尾良う中郎将の前へ立ったとしても、そこは既に、宦者の籠の中よ」
義真には想像が出来た――何も知らぬ老将軍が、周靖の口を通して騙る宦者の虚言へ導かれるままに、この世の正義を毀ちてゆく姿が。
嗚呼――と、義真は、蒼穹をみあげて、体をくずした。
自分は、何と無力であるのか。
――ここに来て、ようやく、叔父の云わんとしていた事が分かった気がする。一人の正義などでは動かし様もない事が、この世にはあるのだった。
そのとき、遥か前線のほうで、騒々しく、鉦が鳴らされたようである。
「――皇甫氏よ、残念ではあるが、事は終わったらしい」
梁衍は、一瞬だけ真情を込めた口調で、義真へ告げた。鉦は、大将軍自裁を報せる報であり、同時に、この中華という地から、清流派という呼称が失われる徴でもあった。
「…屋敷へ戻られるならば、閭門までは我が隊の人数を連れてゆかれよ」
梁衍という、後に皇甫嵩の腹心となる男は、この時からふしぎに親切であった。
完全に脱力した義真へ同情したのか、安全圏まで、兵を貸して呉れるというのである。無論それは、掣肘と監視の意味もあるだろうが、酈を無事に連れ帰る為にも、義真は、その好意に甘えるしかなかった。
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やや遡り、黎明の頃――
護匈奴中郎将・張奐は、生涯西方で鍛え上げた老練の用兵を振るい、とうとう鉄桶の如き包囲網を完成させていた。
そこへ、先ほど陳蕃老人を捕らえた黄門令王甫の一軍が駆け付けたが為に、もはや誰の目にも、大将軍の敗亡は必至となった。
更に追い打ちとして、王甫が例の金切り声で、降れば褒賞すべし、残らば誅滅せん、と自ら怒鳴り、兵士らにも唱和させた為、大将軍を囲む人数は、次々と、戈を擲ち、その自壊を早めることになった。
「叔父上――」
大将軍の甥・竇紹は、無念に歯噛みしつつも、叔父へ退転を促した。
もはや、どこへ落ちようと云うのか、という状況ではあったが、彼らの麾下は未だ精強を保ち、血戦すればあるいは、この包囲を抜けられぬこともなさそうであった。
「ここは、落ちましょう」
竇武は力無く頷くしか無かった。この段に及んでは、かえって、歩兵校尉竇紹の方が、大将軍よりも精力的に兵を采配し、めざましく武勇を振るっていた。無論、それが死出を飾る最期の勇戦であることを、竇紹も承知のうえであった。
竇紹率いる、わずか百名程の一団は、赤熱した溶鉄が滴るように、包囲網の一部へ殺到し、その勢いに怯んだ衛兵らを突き崩して、見事に鉄環を抜け、洛陽市街へまろび出たかに見えた。
――が、既にそこは、張奐の率いる別軍が扼すところとなっており、決死の竇紹隊はいよいよ、その場所で最期を迎えることになった。
兵の悉くを討たれた叔父と甥は、背中を相庇いながら剣を振るい、とうとうある門前の一亭へ追い詰められた。
ここに衛士を突入させぬのは、張奐の、大外戚である竇氏へ対する、せめてもの敬礼なのであろう。
竇武と竇紹は、そこで懐剣を手にして、彼らの先祖へ大いに懺し、憤涙のなかで相果てた。
竇武と陳蕃による宦官誅滅の挙は、この朝、ふたりの自害により幕を閉じたのである。
………
……
…
その頃、洛陽北宮にほど近い歩廣里へも、五営の軍兵が殺到していた。
彼らの標的は、数百名にもおよぶ大将軍竇武の卷族と、その家属である。かかる乱子の三族は、老幼の別なく、悉く誅されるのが世の習いであった。
――大将軍邸を襲撃した兵士らは仮借無く、中へいる男も女も撃殺し、それでも息のある者のみを拉致しては、逮捕せりと騒いだ。
竇武には幾人かの子がいたが、既に彼らは、従容として死を遂げており、せめてその屍の名誉を守った。
殺戮に飽いた者は、その財庫の錠前をこじ開けて、珍しい調度だの、財物だの、書物だのを勝手に持ち出しはじめた。中には、価値あるものを巡って、官兵どうしが剣を抜き連ねて私闘するものもあり、大将軍邸は、凄まじい惨状を見せることとなった。
さて、ここに、竇武の門生のひとりで、機知を以て天子にも愛されたという、桂陽の胡騰なる人物がある。
かれは竇武の子に、孤児を託されて、今年わずか二ツになると言うあどけない若君を胸に抱いて、辛くも、竇武邸を脱出したのだった。
だが、胡騰はたちまちのうちに、市街へ展開している兵の一団へ見咎められ、逐われることになった。閭門を越え、他邸の軒へ隠れたりして、幼い児を抱えて、彼は死に物狂いで駆け回ったのだが、練達の武人でない彼は、血を吐くほどに息もきれ、腕にかかる児童の重さにも耐えられず、もはやこれまでか、という程まで追い詰められた。
ところが、路地のかげで北部尉隷下の歩卒に発見され、とうとう捕縛されようかというとき、白い疾風のように、ひとりの剣士が飛び込んできて、二呼吸のうちに、一伍の兵団をことごとく薙ぎ倒してしまった。
「――胡従事、安んぜよ、この伯求が来たからには」
剣士は、何顒であった。
何顒は胸に若君を抱き、胡騰の腕をとって、巷から巷へと、素早く移動した。途中遭遇した動哨の悉くは、呼吸する間もなく斬り殺した。
また同時刻、何顒のまわりには、不思議な人数が出没していた。
彼らは、何顒につかず離れず、巧妙に連携しながら、五営の軍団を遠ざけたり遅滞させたりと陽動し、彼らの脱出を掩護した。――この見知らぬ影こそ、乱のはじめ、皇甫規が市街へバラ撒いた細作たちで、彼らは主の命じる通り、竇武の一族を安全圏まで、送りだそうとしていたのだ。
何顒の勇戦と、かれらの暗躍によって、胡騰と竇武の孫は、無事、この日の禍をのがれることができたのであった。
何顒はふたりを、大胆にも袁紹邸まで送り届けて、後事を頼んだ。
袁紹青年は、手を撃って、竇武の血縁が守られたことを祝し、よろこんで脱出の便宜を図った。
かれらは袁郎の庇護の元、厳戒態勢であった洛陽の宣陽門を通過して、その日のうちに洛陽を脱出することが出来たのである。
……それからわずか数刻後、邸内の屍の中に、二歳になるはずの嫡孫が無いことに気付いた宦官達は、大いに騒いだ。
すぐさま進発した追っ手たちは、なんと遥か南の荊州のにまでその網を広げて、死に物狂いで竇武の胤を捜した。
南へと遁げる胡騰と何顒は、その先々において、幾多の困難に見舞われたのだが、その都度、互いの智勇で難局を切りぬけ、幾月か後に、荊南の零陵にまで落ち延びた。
――が、そこまでであった。
竇武の孫は、惜しいかな、脱出のあいだの苦難が労したのか、3ツに成るのを前に、空しうなってしまったという。
それを伝え聞いた追捕の一団は、急報を洛陽へと送り、追跡の指示をしていた宦官の曹節・王甫らは、これで宿敵の胤が途絶えたと安心して、捜査網を解散させた。
胡騰は党人と云うことで、生涯禁錮という厳罰となったが、かれの幼い息子胡輔と、逃避行中に得た彼の妻は、とくに司直への出頭を命じられず、一平民として、余生を安んじることを赦されたのだった。
何顒の方は、まるで風のように行方を断って久しかった。