唯一つの命~建寧の政変【第七話】
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――あれから、一年が過ぎた。
義真は、ようやく官に戻った。
職務は議郎である。秩禄は比六百石で、いわゆる起家にあたる高級官僚であった。
あれから間もなく西涼へ引き上げた叔父は、屋敷をそのまま義真の為に残していったため、相変わらず、義真は酈を薫陶しながら、都の豪傑たちと交わっていた。
この年、官界は、凄まじい粛清の嵐が吹き荒れた。
世に謂う、第二次党錮の禁である。
第一次党錮の禁は、文字通り清流派の人士を党人と括り、禁錮に処する程度の軽いものであったが、今回は公職追放などという生やさしいものではなかった。
宦官どもは、竇武・陳蕃の蜂起に遭って、心底恐怖したのであろう。
公職に就いていた、あらゆる清流派の人士たちが、次々と逮捕され、獄に下され、月を経ずして刑戮された。
世を覆うほどの声名を博した、王朝の宝ともいうべき有為の士たちが、毎日のように、一人また一人と、葬列へ加わってゆく。
このときの後漢王朝の、人的損害は、もはや致命傷であった。
後に冷笑をこめて霊帝と諡される、この年十五歳の皇帝劉宏は、無邪気なものであった。
宦官どもから、
「党人の首魁某が、今日北寺獄にて笞殺されました」
という報告を聞く度に、手をうってきゃッきゃッと喜んだ。今上にとっては、党人とは、皇帝の椅子を揺るがす大悪人ということになっているのである。
義真ともあろう者が、そのような、暗愚というよりは悪意無き暴虐といってよい愚帝に仕える気になったのは、やはり、あの夜の無力さが、身に染みたからであろう。
もし、あの夜、彼に十分な兵権が在れば。
かれはためらい無く大将軍竇武へ合力し、宦官を皆殺しにする断を下したはずだ。
――正義を行うには、力が要る。
義真の就職観というものに、いささかの変化が起こったのだ。義真は本意ではないものの、とかく精力的に猟官運動をはじめた。
ちょうど折良く、かれは皇帝の命により、公車にて召されるという光栄に浴した。
これは、第二次党錮の禁によって、官界の人数の八割を誅してしまった結果、行政が滞り、宦官どもが慌てて中堅級以上の官僚の補充に乗り出した為であり、義真の任官は、図らずも、勅任という望むべくもない形で実現することになった。
議郎とは、いわば参議のようなものであり、皇帝の諮問に親しく応える事ができる。
多くの場合、議郎は次の顕職へ就くまでの予備任官のようなもので、事実、かれは間もなく栄進し、北地郡の太守となる。
………
……
さて、議郎皇甫嵩は、さる休沐の一日、書見を休めて、屋敷の院子へ出た。
晴日つづきで、季候も良い。
ちょうど正午を過ぎた頃であり、陽光が空気に満ちている。
と、客があることを、家令が告げにきた。
「族父上――」
酈が、行儀良く辞儀しながら、殿の下で拝拱した。
この少年も、いまは太学へ入り、学友達とおおいに交わって、世というものを学んでいるところであった。
「族父上の休沐とあって、お顔を見に、戻って参りました」
少年はまっすぐに育った。
あの夜の出来事も大きかったであろう。学問の為に学問をする諸生たちのなかで、かれは大志を抱いて筆硯を修め、古典をを古典とみず、先人の智慧を貪欲に学ぼうとしている。
「学問はどうか」
「まあまあでございます」
「明堂には教授も多い。学問の上で解らぬ事にあたれば、五度その理由を突き詰め、最後の疑問を問うがよい」
「そう心掛けるでしょう」
何がおかしいのか、くすくすと二人は笑って、そういう問答を続けた。
「――時に、まだ一番にはなれぬか、酈よ」
「はい。酈は悔しくてなりませぬ」
この酈も優秀であったが、彼と同年で、やはり同年に太学へ入った少年の中で、ずば抜けて明晰な児があり、誰も彼には適わないというのである。
それが、たとえば袁郎の如き、画に描いたような優等生ならばまだしも、この少年は、常々から
「何と云っても、世に儒の教えほどくそ面白くもないものはない」
などと放言して憚らぬ問題児であった。
だったら学など修めねば良いのに、 この放埒坊主は、いつどこで勉強するのであろう。学問の師に呼びつけられ、厳しい口調で課題を問われると、すらすら論語孝経を諳じ、ついでにひとつ上の詩易春秋まで論じて師を唖然とさせるというのである。
――義真は、酈からその少年の逸話を聴くたびに、面白そうな顔をした。
少年は、朋輩からも、幼名である阿瞞という名で呼ばれていた。
「学問とは、裸の心に先人の英智を一枚一枚薄皮の如く張り付け、やがてわが血肉とするものなのに、君の学問は人へ見せるために知識を羽織っているに過ぎない」
あるとき学問の師のひとりが、阿瞞を指して非難した。君の学問は猿真似に過ぎない、と云っているわけである。
彼は口元をちょっと歪めただけで、師の酷評を聞き流した。
(今の言葉はそっくりそのまま先生に準用できるではないか) とでも心中思ったに違いない。
経典の文言章句に拘泥し、徒に世の筆硯を浪費する類の小儒など、端から彼は相手にしていなかった。 大人にとって、これほどやりにくい子どもはない。
阿瞞は常に、小さい巾着をぶら下げて歩き、その中には手巾や櫛などの小物から、六博、弾棊といった遊戯道具、用途不明の薬篭、それに五朱銭などを容れていた。
これが、不思議と彼の朋輩の間で流行し、たとえばいまの酈の腰にも、そういう巾着がぶら下がっている。
容易ならざる餓鬼大将、とはその阿瞞のような者であろう。知らず、皆が彼の行動に注目している。
「随分と楽しそうだな」
「楽しくはありませぬ。あのような男の下風に立つなどと」
酈は頬を膨らませた。
「何しろ、阿瞞は、あの曹大長秋の孫にあたるのですから」
大長秋、とは、宦官の最高責任者のことだ。
阿瞞の祖父・曹騰は、先帝の頃、宦官数千名の上に君臨する、後宮の王者であったという。党錮の禁で辣腕を振るった宦官曹節、王甫らなど、曹騰から見れば子どものようなものであろう。
その大宦官の孫に、そういう阿瞞のような少年が出ることは、天下にとって吉か凶か、いささか占じ難い。
「…まあ、酈は分をわきまえ、己の学を修めなさい」
「もとよりです」
――と、ふたりが、常の如く、会話をしていたところに。
「お邪魔をしている」
と、ふいに横合いから声が掛けられた。
ぎょっとして向き直る義真と酈の目の前に、いつからそこへ居たのか、一人の壮士が、いっそのんびりした態で、大きな敷石に腰掛けていた。
義真は、大いに驚いて、壮士へ駆け寄った。
「伯求どの!ご無事でいらしたか――!」
壮士は、あの夜、竇武の家族を救うと云って別れた、何顒伯求であった。
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「爾来、交友する暇が無かったが、議郎はいと闊達で、重畳なことです」
「…無為に官禄を喰んでおります。――亡くなった方々へは、九泉の下でも顔向けできそうにない」
「皮肉にとり給うな。私は、皇甫氏の栄達を心待ちにしておる一人です。」
慌ただしく拝謝し合うと、義真は酈をやって、家人に奥まった一室を用意させた。そこへ席を用意し、酈と家令のみを給仕に立てて、何顒と義真は語らった。
「――あの夜の一別以来、卿は荊州へと落ち延びたと仄聞しました」
「その通りです。私は竇大将軍の掾属、胡氏とともに、大将軍の御嫡孫を連れ参らせ、荊南まで落ちた」
ゆっくりと爵盃をあけながら、何顒はこれまでの逃避行を語った。
――その惨、その逆境。
聞いているうちに、義真は面を上げられず、涙を席上へ滴らせた。
あの夜、自分は張奐を止めると大言し、ついにはそれを果たすことも出来ず、空しく引き上げただけであった。
だが、同じ夜、誓いを立て合ったもうひとりの何顒は、見事に、大将軍の孫を洛陽から脱出させ、結果的に空しくはなったが、約一年間を堪え忍んだ。
嗚咽する義真をみて、何顒は真情のこもった眸で、その苦悩を慰めた。
いま何顒は、例の袁紹青年の屋敷を潜伏の根城として、洛陽中へ地下の連絡網を作りつつあるという。何とも精力的な、反政府活動家というべきだった。
「…そういえば、護匈奴中郎将も、禁錮されたらしいですな」
ふと、何顒は呟いた。
その通りである。あの夜、事情を知らずに大将軍、というより後漢王朝の基幹部を攻め滅ぼした老将軍は、翌日、他ならぬ義真を私邸に迎え、ついにその現実を知った。
老将軍は、一時気を失うほどの衝撃を受けた。
張奐は、この度の「叛乱鎮圧」の功として、九卿のひとつである大司農卿の位が下賜される予定であった。その恩賜の帛を、張奐は立ち上がって切り裂き、義真の手を取って、大いに泣いた。
その日から張奐は、数ヶ月客を避け、まるで服喪したかのように静まった。
それが明けてから、今度は宦官を弾劾する文書を上奏するようになり、党錮の事はまるで事実無根で、宦官らにこそ責がある、という類の主張を重ねて行うようになった。
慌てた宦官どもは「ばれたか」と舌打ちして、さっさと、この用済みとなった老将軍を、党人として禁錮し、追放してしまったのである。
それが第二次党錮の禁のきっかけともなったのだから、どこまでも、この張奐の行動は、後漢王朝を衰亡させる要因となってしまっている。
「――まあ、色々とあったが、結局誰にも止められぬ事であったのだろうよ」
何顒は、肩の力を抜くように述懐して、話をまとめた。
彼らふたりは、たまたま、歴史が変わる途の真ん中に居合わせた。
二人とも歴史を変えられると思い上がり、それに挑み掛かり、それが果たせず、こうして酒を酌み交わしているのだ。
義真は、少しだけおかしみをおぼえて、仄かに笑った。
「…それにしても、大将軍の御嫡孫には、残念だった」
思い返すも惜しいのは、その一点である。
大将軍の敗亡は防げなかったにしても、その二歳という幼い生命を、無事洛陽から救出しておきながら、空しく死なせてしまった事だけは、未だ、いささかの残念がある。
何顒や、胡騰に責があるわけもなく、ただその幼児に天命が無かっただけなのではあるのだが。
零陵まで逃れた胡騰は、結局、生涯公職を追放され、妻と子とを、学問でもしながら養うのであろうが、悔いはいつまでも残るに違いなかった。
――と。
何顒は、くすくすと笑って、義真の肩を叩いた。
「卿がだまされるならば、もう安泰と云うところだな」
義真がぽかんとする間に、何顒は勢いよく杯を仰いだ。
「胡氏は、逃亡のあいだ別嬪な伴侶を得たが、二人の間に児はおらぬ」
「えっ――!?」
義真は、喜色に顔を輝かせた。
「さよう。胡騰の子、胡輔とは、つまりは竇輔どのよ」
「――おお…!」
義真は、感激に胸がふさがり、また泣いた。
涙をかくす必要は無かった。横なぐりに目を拭っては、また泣いた。
何顒も、笑いながら泣いた。
偉丈夫ふたりは、向かい合って、手で席を叩きながら、大いに泣き合った。
――あの夜、救いがあったのだ。
二人の処士が、都の隅で小さく歴史に挑み、結局は何一つ報われず、敗れたと思っていた。
しかし、その日死ぬべき定めにあった二歳のこどもが、都を遥か離れた地で生き延び、今も、市井の一平民の子として、すくすくと傅育されていたのだ。
一命を賭すれば、何をか為すでしょう――と、あの夜叔父へ高言し、何をも成せなかったと空しく戻った日が、鮮やかに思い浮かんでくる。全ては無駄であったと、自嘲するしかなかったあの一日が、全くの無駄ではなかった。
救いはあった。
義真はそれだけでよかった。
それが、ただ一つの命であったとしても。
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後漢書、竇武傳に云う。
竇武の孫、竇輔は、二ツのときに零陵へ逃れた。そこへ曹節らの追捕が及んだとき、令史である南陽の張敞(張温の弟)が、胡騰と図り、大将軍の孫は死せりと届け出た。
その日以来、胡騰は竇輔をわが児として育てた。かれはのびのびと才分を伸ばし、妻子を得るほどに成長し、ついには桂陽の孝廉に挙げられるほどの有為の士となった。
建安中、荊州の支配者となった劉表は、胡輔を召し抱えたとき、養父胡騰からかれの生い立ちを聞いて大いに驚き、彼の権限で竇姓へ戻し、上客として敬った。
数年の後。
幾度かの回天を経て、荊州に支配者として君臨したのは、時の丞相、冀州牧の曹操、字は孟徳という、一代の覇王であった。
彼こそ、すなわち先の話題に出ていた阿瞞の成長した姿であるが、かれもまた同時代を育った人間として、竇輔の生い立ちに同情し、彼の家族らをみな都へ呼び寄せ、上卿の列に加えて篤く信任した。
やがて関中に戦役があり、竇輔はその将帥として出陣したが、武運拙く、馬超軍の飛箭を身に受けて、その地で没した。
だが彼の祭祀は、きっとその子に受け継がれ、いつか血の絶えるまで、勇敢で誠実であった大将軍竇武の血脈は続いてゆくことであろう。
あの夜、救い出されたのはただ一つの命であっても、その枝葉は次代へ広がり、また新たな命を残すのである。
了