魏延の北伐【第二章】 南征始末

              

               一
 
「――この度の不祥事、臣らの不明によるもの。誠に慚愧に堪えませぬ」
 丞相諸葛亮と中都護李厳はそろって参内し、皇帝へ謝罪した。
 登極したばかりの皇帝劉禅は、字を公嗣という。数えで十七という青年だが、まるまると肥え、いかにも温和で従順そうな面相をしている。
(お父君とは、だいぶ違う)
 孔明も李厳も、主君の為人や能力について、知らず先帝と比較している。
(……昭烈帝陛下と較べ奉るのは、いかにもお気の毒であるが)
 だいぶ、人品がひくい。
 当たり前の話で、建国帝より人品の高い人物など、少なくとも蜀漢に居るはずがない。
 だが臣下が二代目に求める映像は、やはり先代と同等かあるいはそれ以上の颯爽たる姿である。その点では、今上皇帝禅は完全無欠の落第生であった。激動の風雲に生を受けた身にしては、その幸福そうな風貌は、戦乱の辛苦を知ら無すぎるようにみえた。
「丞相よ」
 劉禅は、甲高い声で諮問した。別に気分を害しているわけではなく、これが地声である。
「南中とは、遠い所なのかの」
 との的外れな質問を、孔明は無言で、恭しく頭をさげることで黙殺した。近侍の廷臣が何やら皇帝に耳打ちしている。
 
 当時南中と称された地帯は、益州郡(後の建寧雲南)や永昌郡、越閾郡などという途方もない僻地である。今日では鬱蒼たる密林に覆われた亜熱帯という印象が強いが、実際のところ南中のほとんどは平均標高が一〇〇〇メートルを越す高原地帯であった。
 高山民ともいうべき南中人たちは概して精強猛悍であり、まず漢人の感覚で御することは出来ない。新興勢力である蜀漢王朝も、南中には形だけ行政官を送り込み、その実は土豪や蛮人の渠帥(酋長)の支配に任せるという方針をとっていた。南中から出土する資源は、物資不足に悩まされる蜀漢にとって貴重であり、彼らとの交易を途絶えさせるわけにはいかなかったのである。
 今回謀叛をおこしたのは、南中でも最深部にちかい益州郡の豪族である。蜀漢王朝が派遣していた行政官らは、どうやら捕殺されたようで、首は呉へ送られたという。
 
「このたび益州の蛮徒が朕に叛したという。丞相は彼らを誅するのに、如何なる術を以てあたるつもしか」
 孔明は李厳を顧みた。
「こと兵事については、昭烈皇帝陛下より、この中都護に一任するよう仰せつかっております。陛下、なにとぞ中都護に御下問くださいますよう」
「そ、そうか。李厳、直答をゆるすぞ」 
「恐れ多き事にございます、陛下」
 李厳は一礼すると、自らの腹中を述べはじめた。
 ――ただでさえ将兵、物資が不足しているおりに、気候の厳しい蛮地へ鎮圧の軍を送り込むなど不可能にちかい。ましてこの乱が東呉の示唆によるものであるならば、南中へ戦力を振り向けたところを東から急襲されかねない。
「つまり軍を動かすには時期尚早ということであります。また昭烈皇帝陛下の喪中である間は、なるべく兵事を避けるべきでありましょう」
 これは孔明と前もって打ち合わせしていた内容である。
「ならば、南中は彼らの為すがままにせよという事か」
「わずか二、三年の事でございます、陛下」
「そうか。なっとくした」
 皇帝禅は、人の好さそうな微笑をうかべて頷いた。賢愚の程はともかく、真っ直ぐに育てられた事は確かなようであった。
「ではその間、南中への関所はすべて封鎖し、後は放っておくのじゃな」
「御意。なれどその間に兵馬を鍛え、補給を整え、なにより国力を高めておかねばなりませぬ。また呉国に対し、彼らが南中へ直接兵を入れるような事がないよう牽制するため、国境線上に軍団を集結させておく必要もあります」
「あいや、中都護。その点は待たれよ」
 孔明はあわてて李厳を遮った。彼には彼の方策があった。
「呉軍を牽制するのはよいとしても、彼らを徒に刺激するのは得策ではない」
「丞相の意外な仰せではある。呉は先帝陛下へ弓引いた不倶戴天の仇敵におざる。彼らに対し何の遠慮が要りましょうか」
 李厳の云い分はもっともで、皇帝も頷きを与え、孔明に向き直った。
「中都護の申す通りである。朕は、国力さえ許さば呉へ軍を送りたいほどなのだ」
「その儀は」
 ――なりませぬ。孔明は、李厳が驚くほどの強い調子で断言した。
「天下は三分されたとはいえ、魏の国力は我々の七倍。呉は三倍」
 つまり蜀漢と呉王国をあわせて、どうにか魏帝国の過半にあたるわけである。弱者同士が手を結ぶことで、辛うじて拮抗することが能う状況であった。
「呉王との修好なくして、如何に魏の鋭鋒を防ぎえましょう。それは呉王とて同じであるはず」
「しかしこの度の策謀、呉王の奸智によることは明白だというではないか。市井の者とて、一方的に喧嘩を仕掛けられては、黙ってはおれまい」
 皇帝は、案外さかしい。孔明は心苦しかった。
(……状況さえ許せば、私とて呉王に仕返したいのです)
 皇帝は、孔明の意中を斟酌し(丞相とて辛かろう。わかった、国事に私情は挟まぬ)と一英断をくだすべきであった。亡き劉備ならば、間違いなくそうするはずであった。
 孔明は敢えて面を冒し、その旨をいちいち云わねばならなかった。
「――左様か」
 皇帝は、少し気分を害したらしい。遠回しに阿呆扱いされたのだから無理もないが、この皇帝は、意外にも自分に対する負の感情には人並に敏感であった。
 李厳は、間に踏み込む事の危険を覚り、一歩うしろへ退がっている。
「あいわかった。丞相がそう決めたのならば、朕は異を差し挟まぬ」
 ふてくされたように、皇帝は断をくだした。が、すぐに人の円い表情に戻ると、
「して、呉王のもとへ修好の使者を出すというなら、その人選はどうするのか」
 と尋ねてきた。眉間から、一瞬前までの険が消えている。怒りや不満を持続できる性質ではないのだ。専制君主としてのあらゆる欠点を持ち合わせているこの皇帝にも、ただ一つの美点があった。根が、どうしようもなく善良なのである。
 孔明はほっとした。
「使者はすでに内定しております」
「ゆゆしき国使をつとめねばならぬ身じゃ。丞相に人の誤りはなかろうが、いったい何者であろうか」
「陛下のお許しを得て申し上げます。新野の人で、尚書の鄧芝でございます」
 皇帝は、無論その名を知らなかった。李厳は、尚書令であった頃、そういう部下がいたことは覚えている。
 尚書の鄧芝は字を伯苗といい、後漢王朝建国の元勲「雲台二八将」の筆頭、鄧禹の末裔であるという。そのくせ劉璋の頃はうだつも上がらず小禄を食んでいたのだが、劉備は彼をいきなり大抜擢し、地方行政官を歴任させ、さらには中央に招いて尚書の大任を授けた。この種の人材登用は劉備の常法で、たとえば漢中都督の魏延文長も、一介の足軽であったのを劉備が掘り起こして自ら使い育てた男である。
 ちなみに、この鄧芝は若い頃いわくつきの予言をうけている。
「齢七十にして官は大将軍、爵は封侯たるべし」
 というものだが、彼は予言通り文武両面にのびのび才幹を顕し、晩年には車騎将軍という四元帥の一人にまで昇り詰め、陽武亭侯に封じられている。
「――鄧芝ならば、四方に使いして君名を辱めませぬ」
 孔明の太鼓判があれば、皇帝に異があるはずもない。
「よろしい。丞相のよろしきようにせよ」
 
 蜀使鄧芝と呉王孫権の会見は、その年の十一月に行われ、大成功におわった。
 半敵国の宮殿へ単身のりこんだ鄧芝は、魏の目を気にして会おうとしない呉王を、奇舌を用いて会見の席へ引きずり出し、鉄槌でもって杭を打ち込むように舌をふるい、ほとんど脅迫まがいの文句を呉王の胸へ刺しとおした。孫権は、半ば閉口して我が不明を謝し、即座に魏との断交を表明した。
 そればかりではなく孫権は、輔義中郎将の張温という人物を正式に答礼使として蜀へ派遣する事まで約束したのである。
 
 ――一方で、南中の混乱は手のつけようがない程に発展している。
 益州郡の雍闔に呼応して、  郡太守の朱褒が自ら挙兵を宣言し、これと合流した。さらに叛火は飛び火し、越閾郡の夷蛮王高定(一説に高定元とつくる)も西南夷(南蛮)兵を集い、郡城を占拠してしまった。
「早く何とかしてくれ」
 という南方からの悲鳴を、孔明は無視した。
(あと二年は、好きに暴れさせてやる)
 いまは南への関所をすべて閉鎖し、彼らが跋扈するにまかせる。その間にも、呉王孫権は、実益のすくない南中工作を切り上げるであろう。つまり南中の豪族連中は、孫権に見捨てられるのである。 
 かくして四川盆地に夏が訪れ、冬が過ぎ、再び夏が過ぎ、冬が去った。
 孔明が南征軍の編成を終えたのは、予定通り二年後の建興三年(二二五年)春のことであった。その間、塩鉄の官専売を実施して財源を確保するとともに、領内の交通網を整備して流通の向上をはかり、徹底して殖産興業を押し進めた。孔明は政治家としては重農主義者であったが、商工業の重要性も知悉していた。
 
               二
 
「期、熟したり」
 孔明の号令に応じた南征軍は、叛乱鎮圧軍とは思えぬ三万余という大部隊であった。
 ――進軍は三路。
 先行した闡降都督(南中総督)の李恢を中軍とし、門下督馬忠は左翼軍、右翼軍は物好きなことに丞相諸葛亮が自ら指揮を執る。すなわち李恢軍は直進して一路昆明を衝き、孔明軍は西へ迂回して越閾の高定を討ち、馬忠軍は東へ繞回し闖關の朱褒を攻めつぶし、然る後に三軍は南中最深部の益州郡にて合流する。
 かつて劉璋より蜀を詐取した時と同じく、三方向からの分進合撃作戦であった。孔明にとって必勝のカタチであるといってよい。
「万が一にも負けは有り得ぬ」
 孔明は自信がある。
 出兵が事務化すると、あとは作戦通りに兵団が運動を開始する。もっとも今回は孔明も現場指令官のひとりであるから、旗本どもに護られつつ戦地へ赴かねばならない。
 赴かねばならないが、彼が征旅のあいだ熟考している事は、もはや区々たる用兵などではなく、戦捷後の宣撫工作の手法についてであった。
 実は、骨子は既に固まっている。
(――その心を攻める) 
 大方針である。つまり城攻めを下策とし、敵の心を攻めるを上策とする。当然、敵の捕虜を斬り棄てるなど論外であり、できれば敵首領を生け捕りにして、蜀漢王朝の威徳に服せしめるべきであろう。
(幼常も、好い事を云う)
 孔明は嬉しそうにつぶやいた。
 幼常とは、孔明にとって間接的な義弟ともいうべき人物の字で、姓を馬、諱を謖という。このとき三五歳。後世、とにかく泣いて斬られたという事のみが有名になった男であるが、この時点では、孔明にとり何者にも替え難い軍師であった。
 孔明は今回の出陣の直前、後を追い慕ってきた馬謖に、自分の腹案をかくして意見を求めた事がある。
 馬謖は、水の流るる如く、まるで淀みのない答案を孔明に返した。おそらく、孔明に訊ねられる課題を前もって推測し、答を用意してきたのであろう。
 ――南中、其の険遠を恃み、王化に服せざること久し。今日武威を以て之を破ると雖も、明日また叛すのみ。……願わくば公、其の心を服されよ。
「ああ、汝は英明だ」
 孔明は手を打って、馬謖の並外れた明敏をよろこんだ。
 
 南征軍の進撃はおそろしく素早く、わずか二月あまりで道程の半ばを突破していた。
 中軍の李恢隊は、先行し過ぎたぶん敵の重囲に陥ったが、知略能く敵を欺き、ついにはこれを打ち破り益州郡へなだれ込んだ。
 左軍の馬忠隊は、故城且蘭の北東十里あまりの抗水河畔において、朱褒率いる叛乱軍の大部隊と交戦し、これを苦もなく蹴散らして、闖關郡城へ入った。
 右軍の諸葛亮隊もまた、地滑りのような勢いで越閾郡を急襲し、蛮王高定の野戦陣を跡形もなく踏みつぶした。後からわかった事だが、このとき高定は私兵を引き連れて越閾を離れ、さらに南方の昆明にいた。なんと、今回の叛乱の盟主である雍闓を攻め殺していたのである。
「さっそく内紛か」
 報を受けて孔明は冷笑した。高定の妻子は捕らえてある。彼に帰参を呼び掛けて、目通りを許し、南中の支配権を与えるつもりであった。
「南中の支配は、彼らの自治に委ねる」
 というのが作戦の骨子である。高定は雍闔の首を土産に投降しておれば、なんの苦労もなく南蛮王を名乗る身になっていたであろう。
 ところが高定は、用心した。余計な入れ知恵をした者もいたのであろうが、南方で再び兵を挙げ、孔明軍へ襲いかかってきた。
「さて蛮人とは御し難いもの。一日の短慮が一生の不覚を招くか」
 孔明は仮借をしなかった。ただ一度の野戦でこれを破り、高定を斬った。
 
 ここに孟獲という蛮将が登場する。
 人物、といってよい。武勇あり知略に優れ、南中諸部族のあいだに絶大な人望があった。
 雲南周辺に伝わる伝説によると、孟獲はウ族のゾトアオと呼ばれ、諸部族の渠帥と、南中を管理する漢人役人との連絡役を務めていたらしい。
 このゾトアオもとい孟獲が、叛乱郡盟主の雍闔に合力を要請され、呼応したのである。彼は、南中の諸部族の渠帥たちを説得し、雍闔の味方につけるという外交任務を任された。
「蜀漢王朝は強大すぎる。事は破れるに決まっておる」
 渠帥たちは、口を揃えて反対した。
「雍大人も、じきに諸葛丞相やらいう漢将に討たれてしまうぞ」
 怖じ気づいた渠帥たちを、孟獲は根気よく説得した。
 ついには、詐略を用いた。
「漢人たちは、烏狗(黒犬)三百頭、黒蛇の脳(一説には瑪瑙)三斗、高さ三丈を越す断木(ふつう二丈以上に成長しない)を三千枚、それぞれ貢ぐよう云ってきている」
 そして諸渠帥の貌をじろりと睨みつけ、
「各々がたは、これらを綺麗に揃える事が出来るか」
「できるはずがない。諸葛丞相とやらは、そのような無理を我々に押しつけるのか」
 数百ある諸部族の王は、みな憤慨して立ち上がった。
「わかった。勇猛なるウ族のゾトアオ、貴様に任せよう。我らに下知せよ」
 声を揃えて、彼らは雍闔への合力を約束した。
 ところが、孟獲がせっかく超一流の縦横家ぶりを発揮して南中諸部族連合をまとめあげたというのに、わずか二年足らずで、盟主たる雍闓が、同志の高定の手の者によって殺害されたのである。
 
 闖關の朱褒は破れ、盟主の雍闓は高定に殺され、その高定も諸葛孔明に斬られた。
 南中の大将は、孟獲だけになってしまった。
(降伏すべきだろうか)
 と、迷いもしたが、不幸にも彼は孔明の穏健統治策をしらない。孟獲は、過去に例を求めた。これまで中原の王朝に背き、降って後、生命を全うした者など存在しない。
(やはり最後まで戦い、もし身がひとつになったところで、南の山を越え、交趾の密林に逃げ込めばいくらでも再起のしようがある)
 したたかな計算をたて、孟獲はまず主無き本拠の益州郡を掌握しようとした。
 ところが、道中の険路はすべて李恢麾下の部隊に扼されている。孟獲は動くに動けず、やむなくその場で南蛮諸部族に号令をかけ、先ず一兵団を編成しようとした。
 
 南征軍団内部に、焦燥の気配が拡がっている。
 慣れぬ南中の風土に加え、この季節である。遠く巴蜀の地より征旅一千余里、そろそろ将兵たちのあいだで事態の早期解決を求める風が強まってきている。
「いましばらく待て」
 孔明は静かに彼らを抑えた。
「今回の南征は、ただ蛮人どもを馘にして快哉をあげるというものではない。我々の務は北にこそあるのだ。南征は、その下準備である」
 孔明が馬謖以外の者に「北伐」の可能性を示したのは、この時が初めてである。 
「而るに南中は叛乱を好む。余は、彼らをして其の愚を知らしめ、其の詐を窮めるつもりできたのだ」
 単なる武力制圧を目的とした軍事行動ならば、李恢や馬忠のみで充分務まるであろう。しかし南征の真なる目的は、むしろ戦後処理にある。でなければ、事実上の国家元首である孔明が、わざわざ一千数百里という征旅を指揮する必要はない。
「南人どもをわが漢朝の威徳に服せしめ、二度と背く事なからしめる」
 という政治的解決を、今回の武力叛乱の終末には求めるつもりであった。
 孔明はその目的達成のため、しばらく南人を泳がせているのである。彼の情報では、孟獲なる男が諸部族で人気第一であるという。
「その孟獲とやらを使おう」
 孔明は宣言した。諸将は、首をひねった。
「孟獲は南人ながらなかなかの大器者といいます。彼を自由にしておっては、益州郡一帯を統合しかねませんぞ」
「ぜひとも統合して欲しいものだ」
 孔明はすましている。いまひとつ孔明の戦略指針が呑み込めない諸将は、顔を見合わせて困惑の表情を交換し合った。
「益州郡とはいわず、南中一帯に号令するだけの器量を期待しているのだが……」
 手に持つ羽扇で、丁、と手をうった。
「一度顔を見てみたいものだ。誰でもよろしい、彼を生虜にして余の前に連れて参れ」
 
               三 
 
 孟獲は、むろん自分の身柄を敵総帥に熱望されている事など知らず、続々参集する諸部族の戦士たちを編成する作業に逐われていた。
 数だけならば、どうにか蜀軍を悩まし得る程の数字が揃っている。闥池の本営に参集した戦士たちが一万二千。孟獲の本軍に呼応し、蜀軍の背後で蠢動する事を約束した部族の戦士が一万余。
 彼ら戦士ひとりの戦闘力は、蜀軍の兵士ひとりのそれを遥かに凌駕するであろう。
(しかし、烏合の衆だ)
 孟獲が早くも後悔したように、この勇猛果敢な非漢人兵たちは、万単位の軍組織として、到底機能し得ない人種のようであった。困った事に、日頃縄張について争っている部族どうしが顔を突き合わせたりすると、たちまち喧嘩が始まるのである。孟獲が駆けつけると、彼らはバツが悪そうに鎮静するのだが、放っておくと、またどこかで火種がくすぶり、発火した。
(諸葛亮とやらが羨ましい)
 孟獲は素直に思った。蜀漢の軍は将兵一同、総帥の采配に一部の狂いもなく従い、総帥が死ねと云えば喜んで死ぬであろう。
 ……孟獲の統率者としての力量に不足はない。ただ、西南夷将兵どもの被統率者としての力量に不足が有りすぎた。
 翌月から開始された闥池近辺の小競り合いが、やがて本隊同士の大規模衝突に発展し、二度の野戦で孟獲軍は木っ端みじんに砕け散った。
「退くなや、死ね」
 総帥たる孟獲は人間離れした武勇で、ただひとり戦線を支えていたが、やがて殺到した漢兵らに寄って集って押さえつけられ、とうとう生け捕られてしまった。
 
 孔明は興味深そうに、曳き出されてきた蛮人の大渠帥の姿を眺めた。
 衣服も所々破れ、髻が解けて髪を振り乱しているが、よくよく眺めると、骨柄雄偉であり、面だましいもまた尋常ではない。
 孟獲はふてくされたように横を向き、目を閉じている。孔明がしげしげと鑑賞しているのを、気にも止めない。
「孟渠帥、如何に」
「何がだ」
 孟獲ははじめて口をきいた。
「いや、いまの心情を訊いている」
「心情か」
 孟獲は、唇をめくりあげるようにして嗤った。
 ……敗軍の将をこうして曝しものにした挙げ句、いまの心情や如何にと屈辱を与え、自らは優越感に浸ろうとしているものと見た。諸葛丞相は仁者であると聞いたが、勇者を遇する術を知る、聞きしに勝る仁らしい。いま我の心情は、卿ら漢人に対する尊敬の念でいっぱいである。……
 蛮王の吐いて棄てるような口調は、一言一言が、つぶてのように孔明を打った。
(なるほど。南蛮にも人はいる)
 孔明は思ったが、表情は微塵も動かさず、ただ羽扇で空気を二、三度撫でた。
 本営に列する他の諸将は、孟獲の明かな侮辱に腹を立てたらしく、斬って掛かりそうな表情をしている。
 孔明は、つい――と立ち上がった。後世、水ノ流ルル如クと称される、あの所作である。
「孟渠帥、話そう」
 一言だけいうと、陣幕を払って外へ出た。
 唖然とする諸将を後目に、孟獲は兵に縄をひかれて、それへついていった。
 
 孔明は、孟獲を連れまわして、陣営を案内してやっていた。
 ここは騎都尉某の陣、ここは校尉某の備え、といちいち羽扇で指し示して、布陣まで明らかにしている。その口調は、旅人に名勝を自慢する現地人と変わりがなかった。
 孟獲は、さすがにぼうぜんとして、無言でついてまわっている。
 途中、物語などもした。蜀漢とはどんな国か、劉備とはどんな人だったか、いま蜀で一人を挙げるなら誰か、などと、孔明は世間話のように語り続けた。
 たっぷり一刻半かけて案内を終えると、孔明はふたたび孟獲を連れて本陣へ戻ってきた。 見ると、諸将はまだ立ち尽くしたまま孔明たちを待っていたらしい。
(諸葛孔明とは、さまで諸将を督しているのか)
 さすがに孟獲も舌をまいた。
「さて」
 孔明は、兵に目配せした。すると匕首をもった兵が、いきなり孟獲の躰を引き寄せた。さすがに一瞬ひやりとしたが、流血は起こらず、かわりに彼の両腕を束縛していた荒縄が床へおちた。
「改めて訊こうか」
 孔明は孟獲を見据えると、穏やかにたずねた。
「我が軍、如何」
 これを訊くために、孔明はわざわざ自分を案内したのであろうか。孟獲は目を剥いたが、やがて本調子を取り戻し、ふてぶてしく応えた。
「恨むらくは、貴陣の虚実を相知らず、故に破れたのみ」
「それで」
「いま賜を蒙りて貴陣を観看するに、もし次戦もかくの如き備えならば、即ち我勝ち易し」
 失笑が沸き起こった。孟獲の云っている事は無茶であった。何処の世に、
(次に戦うときにこの備えのままであれば、おれが必ず勝つ)
 と堂々宣言する捕虜がいようか。
 だが孔明は、ちょっと苦笑を浮かべると、
「孟渠帥、次は定めて勝つというのか」
 と問い返した。
 孟獲は力強く頷いた。負け惜しみというには、あまりに底のぬけた態度である。
「よろしい」
 孔明は明朗に笑って、白羽扇を打った。
「渠帥、貴公を縦して差し上げる。再び兵をそろえ、余の備えに挑戦し給え」
 一同、度肝を抜かれて、この四五歳の若き丞相をみつめた。孟獲も例外ではない。
「誰ぞ、孟渠帥に馬を用意せんか。道中の水、糧食もまいらすべし」
 謹直であるはずの孔明が、さも面白そうに云っている。これが余人であれば、おそらく誰もが冗談ととるであろう。だが孔明に限ってそれはないと、皆しっている。
 慌ただしく云われた品々が用意され、孟獲は、他の捕虜たちと一緒に縦たれた。
(どういうことだ?)
 孟獲には、孔明の意図が、この時わからない。
 
 いわゆる七禽七縦――七たび禽え、七たび縦つ――の、これが第一度目であった。
 孟獲は、南中諸部族の精鋭をまとめては蜀軍へ挑みかかり、その度に生け捕られ、また陣を案内されて放たれ、それが実に七度にも及んだという。
 事が八度めになろうとしたとき、さすがにこの蛮王も心底思い知ったらしく、うなだれて孔明の元を去ろうともしない。
「孟渠帥、八度目の復讐戦は如何に」
 と孔明が笑って訊ねると、とうとう堰を切ったように泣き出してしまった。
「公は天威なり。我ら辺民、二度と悪を為さず」
 孟獲は涙ながら宣言し、雍闓が孫権の意を受けて乱を起こして以来、まる二年ものあいだ南中を席巻した武力叛乱は、ここに終結した。……
 と、いうのだが。さすがにこの話はあまりに物語的すぎるため、本当に史実に基づいているのかどうか疑問も多い。が、七禽七縦の挿話は正史に大真面目に記載されているし、雲南のあたりでは、
「英雄ゾトアオは、北から来寇した漢将諸葛孔明と智恵くらべし、七度捕らえて、七度これを放し、ついには義兄弟の契りを結び、二度と南蛮の地を犯さぬよう誓約させた」
 という、反伝説まで残されている。もしもこちらが史実だとしたら、想像するだけでも面白い光景である。
 
 七禽七縦の正否はともかくとして、孔明麾下の蜀漢軍は秋七月に南中のほぼ全域を制圧した。軍事行動はこれで終了し、あとは戦後処理を残すのみである。
「軍団は、一兵たりとて留めず」
 と、諸葛亮は宣言してしまっている。撤退後の南中は、定期的に鉄、錫、金銀、丹漆、牛馬などの貢物を献上するという条件をのませた他は、基本的に今までと同じく間接支配にとどめ、各渠帥の地位を奪わないという方針であった。
「手緩すぎる」
 無論、諸将の中から反対がおこったが、乱後の土地に軍兵を残す危険性を、孔明は充分に承知している。第一、軍団を僻地に駐留させておくだけの余裕もない。
「民治に関しては、まあ彼らの自治機能を信用してよかろう」
 とはいうものの、孔明も無原則に南中人を信用したわけではなかった。南中四郡を六郡に編成しなおし、それぞれに李恢や馬忠といった南中系の勇将を太守にとどめ、事あれば、それぞれの部署で対処できるよう巧妙に組織している。むろん東呉に対する牽制という意味も含まれているであろう。
 同時に孔明は、大量の兵員も南中に求めている。西南夷人及び彼らと雑居している青羌人は、概して強力、驃悍で、鍛え上げればどれほどの精鋭になるか知れない。
「彼らのうち最も強い者どもを蜀へ住まわせ、弱き者どもを南中諸豪の部曲(家兵)に編成させよ。また、事々に異を挟む者どもには金帛をくらわせ、利で従わせよ」
 強制移住令である。青羌や南蛮諸族の猛者たち数万戸が、それぞれ蜀中に土地を与えられ、正規軍とは別に独自の軍団として造り上げられた。
 彼らを号して「飛軍」といい、無当を称されるほどに精強であった。故に、彼らの指揮官は「無当監」と呼ばれ、蜀中最強の武人が代々これに選ばれた。
 さらに、孔明は南中に人材も求めた。
「汝も来よ」 
 と孟獲を引っ張り出したのを始め、朱提の孟琰、建寧の爨習など、並外れて才徳に優れる俊傑どもを、孔明は成都へ連れ帰るつもりであった。――ちなみにこの後、孟琰は官は輔漢将軍にのぼり、爨習は偏将軍・領軍(近衛指令)、孟獲は御史中丞(最高監察官)にまでのぼった。
 
 ……かくして、南中の仕置きは一段落し、蜀軍は凱旋を開始する。
 乱が起こって二年。孔明が出兵して四ヶ月目のことであった。
 単なる武力制圧に終わらず、蜀漢王朝の半永久的な統治を彼らに認めさせたあたり、やはり諸葛孔明の才幹と威徳は尋常ではなかろう。
 物語ならばこれでめでたしめでたしという事になるのだろうが、残念ながら孔明のこれほどの腐心にも関わらず、南中は以後もしばしば部族単位で謀叛騒動を起こし、その度に李恢、張翼、馬忠、閻宇、霍弋という代々の南中総督のひげを焦がしている。
 いずれにせよ、それは後の話。
 孔明は、建寧郡太守李恢に残務処理を委ね、年内の十二月に成都へ帰還した。

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