2009.09.07

魏延の北伐【第三章】 北伐前夜

 
               一
 
 年が明け、建興四年(二二六年)。
 蜀漢王朝の帝都、成都宮にもようやく新春年賀がおとずれたようであった。
 建国帝の喪明けの年であるとともに、ここ二年のあいだ諸人の神経を圧迫していた南方叛乱も終結して、今年からやっと平穏で日常的な正月を過ごせそうである。
「各々、おめでとうござる」
「おめでとうござる」
 成都宮のなかにも巨大な宴席が張られ、文武の顕官数百名が一堂に参集した。
 席中、談笑の華が賑やかに咲き誇り、管弦の妙音がその合間を縫うように流れ続けている。皇帝臨席とはいえ、この日ばかりは無礼講にちかく、諸人とも襟をくつろげて心行くままに宴を愉しむ風情であった。
 酒客のなかには、漢中都督の魏延文長の姿もあった。
 彼にとっては、実に七年ぶりの成都である。先帝劉備の即位式典の時も、その葬儀の時も、また今上劉禅の即位式典の時にも、彼は国境を離れる事を許されず、漢中の南鄭城で勅使相手に挨拶を述べただけであった。
(それが、急に都へ上れとはどういうことだろう)
 文長は正直首をひねる心情であったが、表情には出さず、杯を貰いに来る諸将を片っ端から酔いつぶす事に専念していた。
 それにしても――
 と文長は思う。ずいぶんと宮殿の容子が変わった。
(高官に益州組が増えた)
 劉備存命中は諸葛亮を中心に、いわゆる荊州閥の面々が次官級以上の役職を独占していたのだが、この建興四年現在、ずいぶんと現地採用がすすんでいる。劉備の圧倒的カリスマが失われ、やんわりと抑圧されていた益州人士の不満が噴き出した結果であろう。
(やりきれぬ)
 と、文長は思う。
 この蜀漢王朝は、劉備がほとんど中国全土からかき集めた幕僚団によって創り上げられた国家である。放浪に放浪を重ね、連勝連敗を交互に重ね、乱箭乱刃に親を亡くし友を喪い、主劉備と共に辛酸艱苦、ようやくの思いで切り取った国土である。
(それを、先に此処に住んでいただけという奴らが、九卿だの三公だのの席に座るとは)
 死んだ者が浮かばれぬ、と文長は思った。
 無論これは余所者の論理である。土着の益州人にしてみれは、突然土足で上がってきた連中に政戦の頂上を独占され、建国の功なしと卑職に押し込まれてきた自分たちこそ、被害者であると云いたいであろう。
「劉備一党は、侵略者である」
 という意識は、潜在的であるとはいえ根強く残っている。孔明は、彼らを宥め、荊州閥中心の政体に取り込み、完全な融和を図らねばならなかった。
 ところが文長などは長らく漢中要塞に篭もりっきりで、そういう微妙な空気を知らないから、自然、中央の苦労も知らぬ無神経な不平屋にならざるをえない。
 
「――鎮北将軍」
 ふと、文長の席の横へ立つ者がいた。
「どうぞ一献」
 みると、丞相の諸葛孔明であった。無礼講が過ぎて席が崩れ、みな酒瓶を手に勝手に立ち歩いている。
「やあ、忝なし」
 文長は、受けた。この穏やかな少壮首相とは、実はほとんど面識がない。
 文長が部将に抜擢されたのは、劉備の益州詐取作戦の最中からだが、そのとき劉備の帷幄にあって全軍を指揮していたのは、孔明ではなく軍師中郎将の?統であった。その?統の死後、軍師職を継いだのは揚武将軍の法正という男で、文長が知っているのはその法正までである。
「魏将軍には北の事を任せ放しで、心苦しい。さぞかしご苦労が多いでしょう」
「なんの。寧日だらけで暇でござる」
 本当ではない。漢中都督職は、おそらく武官の中では最も激務であろう。いつ魏の大軍が寄せてくるか油断なく目を配り、将兵を鍛え上げ、漢中盆地全体を要塞化する土木工事も指揮せねばならない。
「ご謙遜あるな。ご精勤のこと、色々耳に入っている」
 孔明は、文長の男走った顔を見つめた。もともと荊州新野の農奴あがりというが、そのわりに眉目は貴公子然としており、眸には理知が隙なく光っている。
(案外、ゆだんできぬ)
 孔明は思った。単なる武辺というなら、いくらでも飼いこなしようがあるが、この虎は、どうも野生種であるらしい。
「丞相も、それがしの杯をお受け下さるか」
 文長は表情をかえずに酒瓶を掴み、片膝をたてた。
「有り難く」
 と孔明も爵杯を手にしたが、文長は不意に舌打ちをした。
「やや、粗相でござる。瓶に酒が入っておらぬ」
 云いかけると、隣席の後将軍劉?の卓から酒瓶をひったくり、孔明の杯に注いだ。
「おい、鎮北」
 面食らった劉?が苦情を云いかけたが、孔明は素早く杯を示してみせ、
「これは後将軍と鎮北将軍両所のご好意と存じる」
 と笑い、一気に飲み干したため、劉?もそれ以上は文句を云わなかった。
(困った御仁じゃな)
 孔明は内心、眉をしかめぬでもない。この衛尉卿(皇宮警備大臣)・中軍師・後将軍劉?は、先帝劉備が豫州牧であった頃からの寵臣だが、武功も実務能力もなく、ただ噺がうまいだけという茶坊主のような存在であった。そのくせ、位階だけはやたらと高く、軍部においては前将軍の李厳に次ぐナンバー2の地位にあった。
(なんの、先帝陛下の寵のみで成り上がった幇間が)
 という感情は諸人、それこそ孔明などにもあったのだが、文長はそれを露骨に示してみせたのである。そこまで計算したものか否かはともかく。
 ……その文長はと観ると、まるで気にした容子もなく、自分の杯に手ずから酒を充たし、
「遅れましたが丞相、この度の南征の儀、誠にご苦労に存じます」
 と、錆のある声で祝儀めかしたことを云っている。
「いえ。お互い漢家の御ために大賀」 
 孔明は乾杯に応じたが、頭ではべつのことを考えていた。
(まず、無神経。人事に疎い。それに叛骨あり。深慮欠けるところあり。為人、矜高)
 孔明がわざわざ国境総司令官を本国へ召還したのは、実はその性情と心術を見定めるためであった。この場合、彼の美点を挙げる必要はなく、ただその欠点のみを把握すればよかった。
(まず、雲長か)
 孔明が連想した人物像は、ちょうど六年前、呉によって斬首された関羽であった。
(武勇群を抜き、用兵に優れ、部下に優しい。しかし性、倨傲である。心術に劣り、僚将あるいは上官に必要以上対抗したがる)
 何から何まで関羽と瓜二つである。 
「……鎮北将軍は」
 ふと、孔明は問うてみた。
「日ごろ、何か書を嗜まれる事はおざらぬか」
「書ですか」
 文長は、少し首をかしげ、
「左様、一書を挙げるとすれば、春秋に尽きますな。幾度となく読み返しておりますが」
「左伝の?」
 孔明の反問に、文長は嬉しそうに頷いた。
 春秋左氏伝は、関羽が全文そらんじる程に愛読していた歴史書である。
 
 孔明が、わざわざ彼を呼び寄せてまでその人物を観たのは、もちろん理由がある。
 北伐
 を意図していたからであった。
 このピストン運動にも似た軍事行動は、蜀漢王朝滅亡のときまで数年おきに繰り返され、なんと合計して十四回も行われる。動員兵力は、延べで五十万を超すであろう。 
「魏を攻め滅ぼすまで止めぬ」
 というくらいの徹底した戦略的主題があるわけではなく、第二次作戦以降は半ば惰性、孔明没後の第六次からは、明らかに局地戦闘のみにとどまる示威行動になってしまう。
 ――しかし、この翌年に発動するいわゆる「第一次北伐」は、丞相諸葛孔明がその持てる能力の限りを尽くし、蜀漢王朝全軍の七割以上を動員し、望み得る最高のスタッフを揃えた大真面目な中原奪回作戦であった。微々たる地方軍事政権が、本気で超大国へ振りかざしてみせた蟷螂の斧であった。
 孔明はこの第一次北伐を敢行するにあたり、帷幕の列将全員を直接把握し、完全に操作するつもりである。
 まず、文長を知った。
(不世出の勇将である)
 これほどの驍将は魏呉にも数えるほどしか居まい。
 いま一人、軍を旋回させる為の車輪が要る。
(威公ならば用いるに足る)
 威公とは、荊州襄陽のひとで、姓名を楊儀といった。おそるべき実務処理の達人で、並の官吏十名が十日かける仕事を、彼は一日でさばいてしまう。
(あの辣腕があれば、北伐の事務方面はずいぶんと楽になる)
 だいたい、戦争をやっていて最も気を使うのは、補給の計算や手配、行軍計画の立案、各方面のへ伝達などの、絶望的に膨大な事務処理である。それに比べると、戦場での指揮などまだ楽なほうであった。
 楊儀ならば、全軍の事務を一手に引き受けても、それらを水の流るる如く処理してくれるはずである。実際、先の南征軍の事務を統括していたのは、他ならぬ楊儀であった。
「武の魏延と文の楊儀」
 という人事は、二人の能力だけを見れば、孔明と蜀漢王朝にとってこれ以上は望むべくもない会心の布陣となるはずであった。
    
               二
 
 夏、五月。
 文長が日頃から飼っている細作が、魏の情報封鎖を突破して漢中へ報をもたらした。
(これは……)
 文長は、すぐさま早馬を立てて、孔明のもとに驚くべき訃報を届けた。
 大吉報と呼んだほうがよいかもしれない。魏王朝の初代皇帝曹丕が、齢四十という若さで、俄に崩じたのである。
 曹丕は父曹操に似て多芸多能な男で、軍事、政治、武芸、詩文、遊戯に超一流の素質を示した。特に詩文に関しては父をも凌ぐと噂され、彼に勝ちうる詩人がいるとすれば、それは彼の実弟で後に「詩聖」と敬慕される曹植のみであろうと云われた。
 諡して、文皇帝。性やや酷薄であったが、よく民を安んじ二代目の分を越さなかった。
「では後を嗣ぐのは」
 孔明は、身を乗り出して訊ねた。
「色々と取り沙汰されたようですが、結局、先妃甄氏の腹の曹叡に定まりました」
「その人物は」
「容姿つとに優れ、長身威躯、髻を解くと髪が地に着くとか。為人は沈毅果断、五歳の頃から神童と噂され、曹操が常に手元で育てていたそうです。今の齢は二一」
 孔明は舌打ちをこらえた。敵国の皇帝は暗愚であるべきものを、どうも曹操は三世までその才幹を遺伝させている。先帝劉備と、どうしてこうも違うのだろう。
「魏国内に動揺はないか」
「曹丕に後事を委嘱された曹真、司馬懿、陳羣らが、素早く軍主力を掌握して曹叡を擁立したため、跡目騒動の起こる暇もなかったそうです」
 これも、意に添わぬ返答である。みるみる気分を損じる孔明の貌を、使者はおそるおそる見守っている。
 ともかく使者を労って退出させると、孔明は机上の絵地図を凝とにらんだ。
(中央に動揺が起こらずとも、地方では必ず浮き足立つ輩がいそうなものだが……)
 やがて、その眸が地図上の一点を捉えた。
 新城郡上庸――
 もともと漢中郡に属し、地図でみると、益州から荊州へ突き出した半島のような形である。いまは魏にぽっきりと折り取られ、荊州に区分されていた。
 この新城太守の孟達という男は、最近まで蜀漢王朝の禄を喰んでいたのである。それが、先の荊州失陥と関羽斬死に際して過失あり、罪を恐れて城ごと魏へ奔った。容貌端正で智略に優れ、どういうわけか魏帝曹丕に絶大なる寵愛を与えられたという。
(そうだ)
 孔明は躍り上がるように起立すると、大声で、
「参軍をよべ」
 と怒鳴っていた。
 
 丞相府参軍の馬謖は、このとき弱冠三六ながら、余人には眩しい程きらびやかな閲歴を重ね、もはや蜀中で知らぬ者はない名士中の名士であった。二十代のうちに先帝劉備に直属し、以後緜竹県、成都県の令を歴任し、次いで越?郡太守に抜擢された。
 行政能力に卓越し、四書五経の悉くを諳んじ、孫呉兵書に通ぜざるものなしという、まさに蜀中期待の超新星のような男である。
「参軍馬謖、御前に罷りました」
 声のすみずみまで自信が盈ち盈ちている男であった。天性の煌めきであろう、その姿、いかにも涼やかである。
「おお、幼常きたか」
 孔明は、愛弟を迎える如く破顔して、この若武者を迎えた。彼の実兄馬良と孔明とは、義兄弟の間柄であったから、弟の馬謖もまた、孔明からみれば義弟にあたる。それどころか孔明は、この馬謖を実弟以上に愛していた。
「御相談の儀と承りましたが」
「好い、好い」
 孔明は他愛ない。にこにこと微笑み崩れながら、手ずから茶の用意をしている。この利発な青年士官と同室するのが、嬉しくて仕方がない風情であった。
「まず、これを見よ」
 孔明は、先ほど文長がもたらした第一報を馬謖へ見せた。
「……曹丕が」
「斃れた。内国に動揺は生じておらぬようだが、幼常はどう時勢を見定める」
 馬謖は、形のよい眉をしかめると、虚空を相手に無言問答を始めた。孔明がじっと待っているのにも構わず、だいぶ考え込んだ。考えたすえ、一言、
「中都護の筆がよろしいでしょう」
 とだけ答えた。
 孔明は嬉しそうに幾度も頷き、自分もそう考えていた、と云った。
 順を追うと、こうである。
 曹丕が死に、曹叡が登極した。すると、先帝の寵愛を受けていた者は身分が危うくなる。特に、余所者でありながら先帝の個人的親愛のみで栄達した孟達などは、一瞬で失脚するに違いない。彼は驕り者だったから、その生命さえ保証の限りではない。もはや他国へ身を寄せるしかない。しかし蜀漢を裏切った手前、どうにも帰参しづらい。
 だから、
(もう怒ってないよ。帰っておいで)
 という文を出してやればよいのである。それも、孟達の親友であった中都護李厳の文章であれば、余計に安心するだろう……
 今の禅問答のような会話のなかで、二人はかくも高度な政略を語ったわけである。
 
 八月にはいって、蜀漢王朝軍の動きは目立って活溌になっている。
 成都近郊に五万という大部隊が集結し、丞相諸葛孔明の采配のもと、十日間にわたり大規模な軍事演習が行われた。
 また、成都から北の漢中までを結ぶ路という路が突貫工事で補修され、要所要所に軍需物資の備蓄基地が設けられた。それとほぼ同時に官庫が次々開け放たれ、各郡から臨時に徴収された作物が、長蛇の列をつくって、続々、北へ向け輸送されている。
(丞相は北の魏国へ攻め入るおつもりではあるまいか)
(まさか。勝てる相手じゃねえ)
 蜀の農民たちは、正直なところ北伐という軍事行動に何の価値も見出せない。
(せっかく世が三分されて平和になったんだ。もう戦乱はこりごりじゃ)
 彼らは顔を見合わせ、深刻な表情で云い合った。
 ……前将軍の李厳が成都へ呼ばれた時、世間はそういう空気で満ちている。
 李厳は皇帝に謁した後、丞相府へ足をはこび、孔明に会った。
「ご足労です」
 孔明は立ち上がって李厳を誘い、席へつかせた。
 席上には、例の馬謖と楊儀が居並んでいる。
(ははあ、この連中が今回の北伐騒ぎの枢密か)
 李厳は腰を据えた。
「丞相、どうやら漢朝の頭脳が一堂に会しているようですな。世上では色々と憶測が飛び交っておりますが、いったい身に何の御用です」
 孔明は皮肉に付き合わず、単刀直入に云った。
「この度お呼びだてしたのは他でもない、前将軍。卿に、あの孟新城(孟達)に翻意を促す書状を書いて頂きたい」
(あっ……!)
 李厳は、さすがに一瞬で孔明の策を覚った。
「勿論、私からも書状を送るつもりですが、まず将軍から私信という形で、我々が孟新城の帰参を嘱望している事をお伝えお願いしたいのです」
 なるほど、前もって旧知から「情報」を得ていた方が、孟達としても次の公文書に返事をしやすくなるであろう。
(芸が細かい)
 李厳は感心したが、やや小細工が過ぎる気もした。とはいえ断る理由もない。
「それと将軍、いま一つお願いがあります。我々は早ければ来春には漢中へ大本営を移すことになります。その時のため、将軍にはより成都に近い江州へ幕府を移し、そこから本国の軍政全般を統括して頂きたい」
 つまり、北伐のあいだ後方総司令部を主宰せよ、という辞令であった。
 遠征軍への補給線維持はもちろん、内国の治安維持、防諜活動の悉くを掌管し、さらに万一魏なり呉なりが攻め寄せてきた場合は、残留軍を率いてこれを斬り防がねばならない。
(これは、凄まじい)
 李厳と云えども、これほどの重責はさすがに胃が凭れそうであった。
「それでは、身に代わり永安国境を防禦するに足る勇将をば一人、お遣わし願いたい」
「ああ、それでしたら征西こそ然るべきでしょう」
 征西将軍陳到のことである。先帝劉備が、戦場で自分の手足以上に追い使ってきた二騎の旗本頭の一人で、いま一人の征南将軍趙雲は、北伐軍に組み込まれる事が内定していた。
 
 この月、これまで防戦一方だった呉王孫権が、珍しく長江を遡って魏の荊州領に対し先制の一撃を加えているが、守将文聘の武略と魏帝曹叡の采配により、敢えなく敗退した。
(頼りない同盟国だ)
 孔明はぼやきたい気分であったが、一応、魏の注意を蜀から外らすという役目は果たしてくれている。しばらくは魏も夏口以西の制江権を確保する作業に追われるであろう。
 一進一退の荊州情勢を横目で睨む一方、孔明は漢中城塞の文長に対し、ほぼ毎日のように命令書を送りつけている。
 孔明の主眼は、まさに北にあった。
 漢中以北に茫漠と広がる涼州一帯は、蜀人にとっても辺境のまた辺境、寒風吹き荒ぶ人外魔境であるという印象が強い。したがって人々の興味も薄く、精細な資料を欠く。
「なるべく細に入った記録が欲しい」
 孔明は文長に、涼州一帯の地理、人物の調査を求めた。一郡一郡の面積や戸数、兵数はもちろんのこと、諸豪の大姓、銭糧の貯え、点在する都市の規模、地形の高低、山河の険要、間道の有無など、とにかく涼州を一望できるような資料を揃えたかった。
(そんなものを揃えてどうするのか。中原の情報を仕入れよというならともかく)
 文長は首をかしげながらも、とにかく手飼いの細作どもを北へバラ撒いた。
 
               三
 
 ――再び年が明け、建興五年(二二七年)。
 蜀漢王朝の丞相諸葛亮は、三月の旦を期して北上の途についた。
 征旅に付きしたがう将兵数は、北伐軍団と荊州侵攻軍団を合わせて、七万余。
 これほどの大部隊が編成されるのは、先主劉備が魏王の曹操と直接漢中盆地を争ったとき以来であろう。
「次は長安」
 ということばが、いまの蜀国内を席巻していた。
 魏の太祖武帝曹操が、四十万という文字どおり桁の違う大軍団を統率して漢中の防衛にあたったのは、わずか八年前の出来事である。
 このときは、
「漢中を奪らざれば、蜀すなわち危うし」
 ということばが流行した。
 もしも魏の対蜀前線基地である漢中盆地を放置しておけば、魏は何時でも好きなように蜀へ攻め入ってくるであろう。――そういう危機意識をくどいほど蜀中の民に植え付け、劉備は八万という漢中攻略軍団を組織し、自らその作戦指揮にあたった。
「目指すは漢中」
 という合い言葉を、まるで呪文のように繰り返し繰り返し唱えさせ、まとまりの悪い益州住民をその気にさせ、とうとう漢中から曹操軍を追い払ってしまった。
 それから八年。
 今度はその漢中を前進基地にして、魏の支配下にある中原の西玄関、旧都長安を攻め陥とそうというのである。
(次は長安。――次は長安)
 蜀の民も将兵も、一種形容しがたい集団的な高揚感につつまれ、漢中を目指していた。
 
 その意識操作を演出した張本人である丞相の諸葛孔明は、この時に限ったことではないが、己の背負い込んだ責務の重圧を必死に耐えている。
(万が一にも失敗は許されぬ)
 政務の最高責任者が自ら指揮鞭を執って、国力を傾ける程の軍事行動を起こすのだ。失敗でもしようものなら、国中に怨嗟と非難が囂々こだまし、丞相たる諸葛孔明は失脚、せっかく成立した蜀漢王朝は空中分解せざるをえまい。
 尋常の人間なら想像するだけでも膝が震えるような立場である。失敗したとき代わって責任をとってくれる者もいない。
(思えば、先帝陛下も生涯この重責を一身に背負い続け給うたのだ。それでいて、常に笑顔を絶やさず磊落であそばした)
 いまさらながら劉備の人柄の雄偉さが身にしみた孔明である。ちょっと、真似できない。
 真似できないが、逆に孔明の方でも、劉備では真似できない手段で内国の人心を鷲掴みに掌握し、むしろその手段が万世あとにも孔明の名を遺さしめる事になった。
 ――出師の表
 と題される孔明直筆の上表文章は、孔明が成都を発つ二十日前に完成し、即日のうちに公開されている。
「臣亮言――」
 という三文字からはじまる長文である。
 出撃に際しての決意表明というよりは、成都へ残してゆく青年皇帝にたいする訓戒めいた内容で、日常の規範から政務の心得、さらに用いるべき将帥や重臣までいちいち指名するという懇切さであった。文調は、全体をとおして身を裂くような悲嘆に満ちているが、その奥にシンとした一すじの勁い何かが横たわっている。
(……これは、まぎれもなく丞相の御遺言だ)
 みな瞬時にそれを理解した。成都宮の文武百官はみな一礼して襟を正し、黙読した。読み進むうち、みな知らず知らず呟くように文面を声に上せはじめ、その声はやがて泪気まじりの大声になった。
(知らずや、丞相の御苦衷――)
 諸官諸将とも、魂の震えるような感動に突き上げられ、日頃沈毅な者ほど不覚にも嗚咽を抑えきれなかった。各省の官吏たちは仕事の手を止め、めいめい「出師表」を書写し、これを繰り返し繰り返し、諳んじるほどに読み返した。
 本来は多分に冒険的軍事行動であるはずの北伐作戦が、妙に悲壮で厳粛な趣をもつ聖戦となったのは、この孔明の上表文書に拠るところがきわめて大きい。
 
 三月中旬、先行した孔明以下五百騎の部隊は、剣門閣をくぐり、桟道を渡り、漢中盆地に到着した。ただこれだけの行程で早くも四騎の精兵が脱落しているのだから、この隴蜀の地で大部隊を運用する難しさは言語に絶する。
 国境軍総司令と漢中郡太守を兼任する魏延文長は、南鄭城外五十里まで孔明を迎え出た。
「遠路、遥々ご苦労にござる」
 文長は馬を降り、皮肉ぬきで挨拶した。宮廷の奥深くに納まっているべき大丞相が、わざわざ北端の国境要塞まで出向いているのだ。去年は自ら南の果てまで行き、今年は自ら北の果てまで来る――どうもこの諸葛孔明という男は、文長が想像する丞相という職種とは懸け離れた存在らしい。
「いえ、将軍こそ出迎えご苦労」
 孔明は鷹揚に答礼し、駒を文長と並べるかたちで南鄭に入城した。
 劉備の漢中王即位式典以来、孔明はこの地に足を踏み入れた事がない。
(これがあの道教王国なのか)
 景観が、一変している。
 かつては五斗米道教の総本山であったこの城も、いまや蜀漢王朝軍主力の駐留基地として無骨きわまりない様相を呈していた。城下の市街にまであふれる武装兵は、時刻天候にかかわらず歩哨あるいは立哨し、鋼鉄の規範に貼り付けられているかの如く機能している。
「治安は完全に守られております」
 文長は大街(都大路)を通過するとき、特に誇る容子もなく云った。
「お見事」
 孔明が呟いたのは、その治安のよさではなく、むしろ市街の活気に対してである。この臨戦下にあっても、南鄭市街には商人が続々おとずれ、物流も盛んな容子であった。
(経済統制を布いていないのか)
 更に驚いた事に、道服を着た一団が、彼らの教会らしい建物に出入りしている。
「将軍、あれらは米賊の残党か」
「抑えて鎮まる連中ではありませんからな。武器の携帯、他国者との連絡などを禁じる以外には、特に制肘を加えておりませぬ」
 意外にもこの野戦攻城の達人は、行政官としても柔剛自在な施政ができるらしい。
「もちろん防諜の都合上、商人どもにしても米賊どもにしても、不審とみればすぐさま逮捕拘束できるよう、監視はつけてあります。もっとも、噂の類を封じる事はできませんが」
 そのかわりこの市にゆけば、三国はおろか西域の噂まで仕入れる事が可能だという。
 ――これほどの情報媒体を掌握している文長が、内国の事情には致命的なまでに疎く、その事が後々彼の孤立を招く事になるのだから皮肉なものである。
 
 孔明の入城から二十日遅れで、今度は蜀漢王朝の本隊が続々、漢中へ到着しだした。
 この移動軍団の編成は、前軍二万は外様筆頭格の袁?、高翔の二将が率い、中軍四万は帝門の外戚である呉懿、呉班の両将軍が統率、後軍二万は例の茶坊主将軍劉?が指揮し、さらに後続の輜重部隊は楊儀が奉行している。
 これほどの軍勢、将星が一堂に会するなど蜀漢王朝の設立以来はじめてであった。
 全部隊の士気は極めて高い。将兵はそろって丞相諸葛亮の「出師の表」を高吟しつつ進軍し、ある意味、宗教団体の行進ような雰囲気さえある。
 この八万の大軍団は当然南鄭城に収容しきれず、城外に延々数百里にわたって陣営を連ね、夜にはその篝火が暗天をあかあかと照らしつけた。
「これは、必ず勝てる」
 南鄭城の望楼に立ち、文長は必勝の確信を得た。
 これほどの大軍を自由に操る事が出来れば、たとえ敵将が魏祖の曹操であったとしても、自分は一歩たりと譲らぬであろう。
(問題は、おれにどの程度の専断が許されるかだが)
 文長は、実にその点が気になっている。彼はこのとき、生粋の文官である孔明が自ら前線で指揮を執るつもりでいるとは、夢にも思っていなかった。しごく常識的な思考の結果、孔明とその幕僚たちは漢中で諸軍を督戦し、形式的な実戦責任者は国叔の呉懿が当てられ、実質上の指揮官は、十年ものあいだ国境を預かり、いまや軍神・関羽と並び称される自分が任じられるものと考えていた。
 だから、孔明が自ら前線へ出ると云い出したとき、文長は最初、督戦のため大本営を前線へ移すのだと思った。ところが、
「兵の指図(采配)は、余が行うつもりである」
 と孔明が信じられないような事を断言したので、思わず目を剥きそうになった。
「御正気か」
 と、文長は無礼きわまりない文句を思わず滑らせ、すぐに云い直した。
「丞相は漢家の至宝でござる。前線となればいつ矢の的になるかは知れず、危険が大きすぎます。まず、御自愛を」
 孔明は、悠然と微笑んでかぶりを振った。
「いや、余が采を揮う。将軍には、よろしく余を補佐して欲しい」

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