2009.09.07

魏延の北伐【第四章】 第一次北伐開始

 
               一
 
 孔明には、実戦経験がない。あるいは足りない。
 少なくとも文長はそう考えていた。実際、孔明の軍将としての初陣は劉備の益州詐取作戦のときで、その後は軍師将軍として内国の軍政全般を統括し、いわば今の李厳の位置にいた。その後、南中の蛮人相手に多少戦争らしい采配を揮ったくらいで、要するに二度しか指揮官として戦場に立った事がない。
 較べて、文長はどうか。先の荊州牧劉表の「私有物」として家畜同然の雑兵から人生を振り出し、次の主劉備の下で当陽、赤壁・烏林の会戦に参加し、荊南奪取作戦では小部隊長を務め、荊州詐取作戦では一気に部将にまで引き上げられた。さらに漢中争奪戦では大将黄忠の副として目にたつ程の大功を挙げ、ついには漢中全域の総帥にまで任じられた。つまり文長は最前線で叩き上げられた修羅の闘将であった。
(しかも、おれは長らくこの方面軍を統監し、敵情や地勢用兵の要諦も心得ている)
 かつ、官は涼州刺史、督前部、丞相司馬、鎮北将軍であり、都亭侯の爵を有する。皇帝の代理として全軍に下知するのに不足はない。
(そのおれが)
 実戦経験が少なく、また、これまでろくな面識も持たない首席文官の采配に、一部将として絶対服従を要求されるのだ。いわばプロのエキスパートが、アマチュアの命令に振り回されなければならない状況であった。
「莫迦莫迦しい」
 文長はおもわず声に出して毒づいていた。これまでは、さほど悪印象もなく、むしろ好感を抱いていた諸葛丞相が、今やこれ以上ない程いやな奴に思えてきた。こうなると不思議な作用で、彼の言動のことごとくが変に鼻につき、今まで気にも止めなかった事が、思い出すたびに腹立たしくなってくる。
 それでも、態度はあくまでも下位者を保っていた。文長にしてみれば、これは最大限の忍耐力を動員しての成果であった。
 一方の孔明も、文長の露骨に空々しい慇懃さを見て、彼の内面の変化にすぐに気付いた。
(厄介な)
 溜息をつきたくもなる。これより三国有数の頭脳を駆使し、きわめて高水準の情報戦略を手繰ろうというとき、一将軍のはるかに低級な反抗に気を割かねばならないのだ。
 ――自分は鶴の翼で空を羽ばたいても、鈍速の亀が足を引っ張る。
(これだから武人という連中は使いづらい)
 孔明がこのときふと感じた、文長以下武官全般に対する秘かな軽蔑は、彼が操っている膨大な情報量に較べれば実に些細なものであった。
 
 しかし孔明がぼやきたくなるのも無理ない話で、孔明はこのとき、全世界で最も多忙な宰相であった。
 事務全般の機能はおおかた楊儀の主宰する部署へ移しているが、内外の情報網や彼らを運用する機能は、依然として孔明が直接掌握している。
 矢継ぎ早にもたらされる、あまり精度の良くない最新情報を、孔明は自ら検討し、いちいちそれらについて追調査の是非を指示し、軍団の想定進路を考えなおし、それに応じて輜重計算も算出しなおす。――馬謖以外まともな情報参謀が居ないという事も、蜀漢軍の致命的な欠陥であるかもしれなかった。
 孔明は文字どおり身を削る精神作業の末、新城太守孟達に対する調略に好感触を得た。
「やはり孟達はだいぶ進退窮まっている」
 孔明は、白帛にびっしり記された報告書に目を通し、馬謖に云った。
「孟新城は抜け目のない男です。呉に対し、すでに内応の約束を付けているのでは」
「幼常、よく見た」
 孔明は嬉しそうにうなずいた。
「そう見て間違いはない。さらば悪どいが調略の手を極めねばなるまいぞ」
 孔明は、このとき実に辛辣な手法を実行に移すべく決意している。
 ――余人には、参戦どころか、見ることも想像することも出来ぬ。
 第一次北伐の尖兵は、すでに敵地に斬り込み、激烈な火花を散らしているのである。 
 
 散騎常侍、新城郡太守の孟達は、居城の上庸にあって、落ち着かない日々を送っていた。
 孟達、字は子度。最初益州牧の劉璋の下で栄達したが、これを裏切って劉備を主と仰ぎ、荊州失陥の責任問題が拗れるとみると素早く曹操に降った。
 つまり寝返りの常習者であったが、それだけ時勢眼が鋭いという事だろう。事実、彼は主を裏切るたびに栄達し強大な力を得ている、摩訶不思議な男である。
 容姿壮麗で、施政官としても将帥としても第一級の手腕を有し、その卓越した才略を先帝曹丕に愛された事は、以前触れた。
 ――王佐の才
 ――国将の器
 と、孟達を評する者は最大級の賛辞をもって讃えている。事実、讃えられるだけの能力はあったが、彼の場合、百才あって一誠足らずというべきで、やや人望を欠いた。だから曹丕もなく、庇護者と恃んでいた桓階、夏侯尚という友人もない今となっては、これまでの嫉視反感に曝され、孤立せざるをえなかった。
 ただでさえ居心地が悪いところに、この九月にはいって、蜀漢の丞相諸葛亮からしつこい程に送られていた書状が、ぴたりと止んでいる。
(どうしたのだろう)
 と孟達は不審に思った。その矢先、僚将である魏興太守申儀という男が、何やら秘密めかした文書を中央へ送っているようであった。
(まさか、おれが諸葛亮の誘いを受けている事が知られたのではないか)
 孟達は一瞬不安を感じたが、彼の対内諜報能力は、当時にあっては最高水準である。敵へ味方へと反復横飛びのように裏切りを繰り返す彼のような型の男は、敵よりもむしろ味方に対して鋭い情報網を有している。
(有り得ぬことだ)
 孟達はその点、確信している。確かに、彼はそういう隙を微塵たりと見せていなかった。
 しかし、彼が見せなくとも、他に見せてしまう者がいたのだ。
 
 隣接する魏興郡の太守申儀は、元々この一帯に勢力を張る大豪族で、最初曹操に帰参し、次に劉備に降り、今度は孟達とともに曹操に降った男である。
 そんな彼のもとに、先日、一隊を率いて秘かに蜀から投降してきた部将がいた。
 男は郭模と名乗り、驚くべき蜀の軍事機密を申儀に打ち明けた。
(――諸葛丞相は、新城太守孟達に対し工作をすすめ、彼の内応の約束を得ている)
 申儀は、愕然とした。
「ほんとうか」
 この降将の云うとおりだとすると、隣接する自分の立場は再び怪しくなる。孟達にまた振り回された挙げ句、謀叛人として伐たれてしまっては滑稽この上ない。
 もともと申儀と孟達は、不仲であった。
「よろしい、卿の云う事を信じよう」
 申儀は勿体ぶって頷くと、内心雀躍りしながら僚将の見せたしっぽを大げさに書きたて、魏王朝の中央へ送りつけた。
 ――この事は、やがて孟達の元にも伝わってくる。
(申儀め)
 孟達は、裏切り仲間の意外な裏切りに切歯扼腕したが、彼が殺意を向けるべきは、申儀などでなく、この郭模を申儀へ送り付けた人間に対してであろう。
 全ては、諸葛孔明のどぎつい策謀だったのである。
 
 十一月にはいった頃、孟達はとうとうたまりかねて孔明へ内応を約束した。
 疑惑が正式に告発され、荊州総督府から調査官が派遣されたというのである。
 孟達は見事にこれをやりこめ、荊州総督の司馬懿という男を欺く事に成功したが、事態がこうも大げさになってしまった以上、もはや魏に居場所はなくなったといって良い。
「――翌月には、麾下の兵二万をもって郡の主要機関を占拠し、魏興郡の申儀を攻め滅ぼして後顧を無からしめ、以て荊州方面、進んでは中原への遊軍たる事を約束する」
 孔明と馬謖は会心の笑みを交わした。いわゆる敵中作敵ノ計が、見事に中ったのである。
 いよいよ北伐の最終段階である、軍事力の発動が迫っていた。
 
               二
 
 一日、文長は孔明の本営を訪れた。
 孔明は地図を広げて思案の態であったが、珍しい文長の来訪を得、急ぎ席を準備させた。 
「どうなさった、涼州殿」
 文長は先に涼州刺史に任ぜられ、通称は「涼州」で通っている。むろん現在のところ北のかた涼州は魏領であり、これを攻め取りでもしない限り単なる名誉職であったが、同時に対北の総責任者たることを約束する地位でもあった。
「丞相、まずは御覧あれ」
 文長は席につくと、ところどころ朱書きの入った持参の地図を広げた。
「このとおり、漢中より長安へ到る回廊は五本ござる。最も遠回りな関山道、順に故道、斜谷道、駱谷道、子午道」
「それで」
 現在、敵味方とも孔明がこの五つのルートのうちどれを用いるか、最大の関心を払っている。孔明は防諜の都合上、味方にも予定進路を示していなかった。
「この」
 文長は、漢中からほぼ直線で長安へ到る最短ルートを指した。
「子午道を、私に征かせて頂きたい。無論、我が漢中軍団のうち一万のみで結構」
 孔明が無言でいるので、文長は彼にしてはやや長口上をふるった。
「長安の守将夏侯楙は、ただ主婿というだけの孺子。性、怯にして武略なき男にござる。重ねて申すが、丞相。いま延(文長)をして子午道を北せしめよ。十日を出ずして長安へ到り、二十日を出ずしてこれを攻め陥とす事必定でありましょう」
「攻囲中の糧食は」
「敵地に求めます」
「もし無くば」
「長安城内にございましょう」
「――危険ですな」
 のひとことで、孔明は片付けた。が、危険なのは孔明に云われ無くともわかっている。
「何も全滅覚悟の挺身というわけではない。丞相には、本隊を率いて他道を進んで頂きたい。拙者は、丞相が長安へ到るまでかの地を守り通してみせましょう」
 孔明は、唸った。彼には別の計画があったが、これも魅力的な提案であった。
 タテへタテへ鋭く進み、拠点を確保しながら後続を待つという作戦は、運用が難しいぶん成功したときの成果は凄まじい。
 そしてこの作戦の最大の旨味というべき点は、関中随一の防禦能力を誇る潼関を、比較的早い段階で制圧できると云うことだろう。潼関さえ封鎖してしまえば、洛陽方面の魏軍をほぼ無力化することさえ叶うのである。
(……だがやはり、危険だ)
 孔明はこの文長の作戦具申を聞き、成果よりも損害の計算を優先してしまった。
 諸葛孔明の用兵家としての限界であろう。これが例えば曹操のような英雄型の用兵家であったら、敗北なぞ度外視して作戦を押し進め、徹底的な勝利を収めるか全滅して自分も死ぬかしているに違いない。
(所詮丞相は、文吏である)
 文長はしみじみと思った。あるいは軍事技術者としても、孔明は文長を凌駕しているかもしれない。しかしその作戦行動は、元金を失わないというただ一点に縛られ、決してその範囲を踏み越す事はできない。能力ではなく、適性と立場の問題である。
 ――孔明の答は、不許可であった。
 文長は、さすがに不満を隠しきれず、視線を地図へ落とす事で別の感情を抑えようとしていた。そこへ、不意に差し出口をたたいた者がいる。
「涼州殿。丞相には秘策がござる。県危を避け、安んじて坦道を征くにしくは無く、隴右を取ること十のうち十でありましょう」
 孔明に近侍していた参謀将校馬謖であった。だがこういう時、彼の朗々たる声と颯々とした態度は逆に起爆剤となりうる。
(なにを、孺子が)
 文長の感情があわや激発しようとしたとき、孔明は例の水の如き所作で立ち上がった。
「参軍っ、僭越であろう。元帥同士の議に汝如きが口を挟むな!」
 鋭く彼を叱りつけて黙らせると、文長へ向き直った。
「申し訳ない、涼州殿。しかし馬参軍の申したとおり、余の計は平路を堂々征くものと定めている。ただ長安奪取のみを目的とするならば、将軍以上の策は世にあるまいが、この北伐はもう少し範囲が広い。上庸の孟達がこちらへ帰参を申し出ている事は御存知か」
 文長はむっつりと頷いた。
「この北伐の正否を決めるのは、つまり上庸である。かの地は、漢水を遡ればこの漢中に、下れば荊州都の襄陽へ易々と進める交通の要地。しかも北すればすぐに南陽があり、これを突破するともはや洛陽は指呼の距離」
 孔明の細い指が、忙しく地図の上を滑っている。
「孟達蜂起という報があれば、北伐軍の一部は転じて東伐軍と化り、漢水を下って一気に荊州へなだれ込む。この荊州戦線を維持しつつ、北伐軍は悠々と涼雍の二州を踏み堅め、いずれはこの中原で主力同士の決戦となりましょう」
 孔明の指が洛陽のまわりを指し、また長安へ戻った。
「先制して長安を抑えるのも一計ですが、そうすると長安軍は最低一月は敵中で孤立する事になり、それを救援するための遊軍を編成せねばならない。すると必定、我が軍の荊州戦線へ対する反応は鈍重にならざるを得ず、機に臨み変に応ずる事が難しくなりましょう」 孔明の説明はまるで淀みがなく、またいちいち具体的で、文長も眼下の地図でくるくると描かれる広壮な戦略を、半ば陶然と見守っていた。
「魏は、巨きい。一戦して勝つというわけにはゆかぬ」
 魏の軍制は、典型的な外郭配置型である。
 つまり中央軍とは全く別に、東西南北それぞれに強力な常駐軍団を擁している。その外軍の一つだけでも、蜀や呉の総戦力に匹敵するのである。
「故に、調略に調略を重ねてこの外郭を一枚ずつ剥ぎ取ってゆき、この七対一という彼我の戦力格差をせめて五対二くらいまでもってゆき、一戦で状況が入れ替わるという状況になって初めて、主力決戦という手段を用いるべきでしょう」 
 それでも、勝率は三割強といったところであろう。しかし最初から七本首の巨竜に槍一本で肉弾戦を挑むよりはましである。
「以上の理由から、余は速戦案を退けざるを得ない。おわかり頂けたか」
「御意……」
 文長は、さすがに虚勢をはる元気もなく、うなだれるように首肯してみせた。しかし肚の底で、抑えようのない屈辱感がゆっくりと頭を擡げている。
 惨めであった。
 孔明、馬謖が大局全体を見渡す戦略を示したのに対し、文長はただ目先の戦術を大声で喋々しただけの結果に終わった。
 この事は、翌日になればすぐに全軍へ伝わるに違いない。
(――さすが丞相、参軍は一千年の逸材よ。かくも壮大な戦略を自在に手繰るとは)
(――較べて、嗤うべきは涼州の短慮である。所詮は一介の武辺か)
 あざやかな対称をもつ噂が囁かれる事になるであろう。
 孔明は、ふと語気をゆるめ、まるで慰めるかのように文長を誉めはじめた。
「しかし将軍の武勇武略には感服いたした。我が軍はすでに四大将(関羽・張飛・黄忠・馬超)なく、いささか寂寥を感じていたところ、今日将軍の覇気に触れ、正しく蘇生した心地がします。どうか将軍、これからも漢家の御為、ますます御精勤下されよ」
 文長は、つまるところ態よく追い払われたわけである。
 
 一二月。
 漢中へ到着して九ヶ月目に、ようやく蜀漢王朝の北伐軍団は行動を開始する。
 軍団の大先鋒は、孔明が生涯で最も信用したという老練な鎮東将軍趙雲と、先に東呉へ使いして大成功をおさめた揚武将軍の鏃芝ふたりが率いた。
 彼らはすでに漢中を発して斜谷道(三番目に長安へ近いルート)を北上しつつあり――と魏方面でさかんに喧伝されている。
 魏の実質上の支配者の一人である大将軍・都督外中諸軍事の曹真は、洛陽を出てその本営を長安へ移していたが、蜀の「北伐」の報告をうけて眉をしかめた。
「蜀賊は、劉備の死とともに滅んだものと思っていたが、まだ謀叛する元気があったか」
 当時、魏の蜀漢に対する関心はその程度のものであった。劉備の興した蜀漢王朝など、辺境に割拠する地方叛乱勢力くらいにしか思われておらず、実際に国力差からみると、そちらの方がより事実に近かった。
 当然ながら孔明に対する認識も、あいまいであった。
「劉備から遺児を託された重臣二人のうちのひとり」
 というのが一般で知られているせいぜいな情報で、その為人、能力の程などほんの風聞の域を出ない。
 曹真は多少それより孔明像に詳しいが、まさか今回の孔明の出撃が魏帝国最大の危機であるなどという突飛な発想はせず、しごく常識的な範囲で事態を処理しようとした。
「まあ蜀賊がどう足掻いたところで、せいぜい辺境の数郡を踏み荒らすくらいしかできまい。それよりも彼らの主力を捕捉し、二度と悪戯が出来ぬ程に痛めつけるべし」
 直ちに全軍長安を出撃し、斜谷道の出口である鐡城を抑え、蜀軍のあたまを正面から叩き潰すよう、司令を下した。
 大将軍曹真は、名将ぞろいの魏軍にあっても、その重厚さと智勇において傑出する存在であったが、このとき戦略レベルでものの見事に孔明にしてやられている。
 曹真は自ら七万という対蜀軍団主力を率いて鐡に入り、斜谷の険を突破してきた趙雲・鏃芝軍一万と戦闘状態に突入したのだが、じつはこの方面の蜀軍はおとりであった。
 名人趙雲の小気味よい戦闘指揮によって、魏の大部隊がずるずると狭隘な斜谷道に引きずり込まれて進退を窮めているとき、孔明の率いる北伐軍主力は、全く別の関山道(長安から最も遠いルート)を猛烈な勢いで驀進している。
 しかもこの月の半ば、荊州新城郡の太守孟達が中央との連絡を遮断し、魏にたいし、事実上叛旗を翻したのである。
「しまった……!」
 曹真は、報告をうけて愕然とした。
 
 荊州の中枢に、いきなり新城郡という楔が打ち込まれた。絶妙のタイミングである。
 孟達は充分な余裕をもってこの叛乱を実行した。
 彼は謀才あり、弁才あり、もちろん軍才もある男だから、彼なりに緻密な計算をたてて機会を見計らっていた。
(荊州総督の司馬懿が駐留している南陽の宛城は、ここから千二百里はなれているし、洛陽までも八百里ある。おれの挙兵をきいても、まず洛陽へ上奏して軍を動かす裁可を仰がねばならぬだろうから)
 ――まず、一月かかる。
 孟達はそう計算した。一月もあれば、新城郡全域に防衛線を張る事もできるし、蜀や呉からの援軍も到着しているはずであった。
(しかも、おれは疑われてもいない)
 今まで何度とは無く、荊州総督の司馬懿から彼を信用する旨の書簡が送られてきた。
 つい先日にも、随分とのんきな書状が届いている。
(――郭模とやらいう蜀の投降者が何やら騒いでおりますが、魏家は将軍をみじんも疑っておりません。どうせ蜀の者どもは将軍を心底憎んでおりましょうから、将軍が魏を裏切り蜀へ奔る事など有り得ません。そんなことは考えたらわかる事です……)
 この書状が届いたのはほんの八日前で、孟達が謀叛を決行したのはその翌日であった。
 謀叛を興して今日で七日目。司馬懿が宛城を進発し、荊州軍団を率いて駆けつけてくるまで、最低でもあと二十日はかかる。
 はずであった。
 
               三
 
 智者は、智におぼれる。
 ――司馬懿、何ゾ其レ神速ナル
 これが、孟達の断末魔のさけびとなった。
 陣中で新年を迎える事になった孔明のもとへ、漢中を経由して報せが届いたとき、すでに孟達の首は道中梟されつつ洛陽へ向け輸送されている。
(あッ)
 報を受けた直後、孔明は天を仰ぎ、しばらく身じろぎもできなかった。
(大事去った――)
 その姿のまま、かたく目をつむり、神罰をまつ罪人のような、一個の彫像と化していた。
 傍らの馬謖も、ぼうぜんと孟達の最期の書状をみつめ、この多弁な青年が二の句もつげずにいる。
 
 司馬懿は、字を仲達といった。
 司州河内のひとで、代々高級官僚を輩出した名門司馬氏の次男である。彼の八人の兄弟は闌司馬の八達闕とよばれ全員神童の誉れ高かったが、なかでも
「仲達こそ聡亮明允、剛断英特。非常の器にして余達の及ぶところにあらざるなり」
 と、他の闌七達闕とは懸け離れた存在としてしられていた。
 当時少壮だった曹操も、膝下の司州でこれほどの男を眠らせておく手はないと考え、いわゆる「三顧の礼」をもって彼を迎えた。
 ――ただ、少々その「礼」が普通ではない。
 一度目は、尋常な礼を尽くして説得にむかい、病を理由に断られた。
 二度目は、なんと刺客をもって彼を刺さしめ、この偉材が他陣営へ流れる事を防ごうとした(仲達は、牀のうえで身じろぎもせず刺客を静かに見据え、襲った刺客の方が恐怖に駆られて逃げ出している)。
 三度目は、登用の使者に司法警察権まで付随させ、
「もしまた理屈をこねて断るようだったら、逮捕してでも引きずってこい」
 とまで云い含めた。仲達はさすがに曹操流「三顧の礼」におぞけを感じ、いやいや出頭して、曹操に忠誠を尽くす事になった。
 曹氏に仕えてからは、仲達はその能力、門地にもかかわらず、まず二級の行政職に甘んじて、それほどの名声を受けずにいた。これは曹操の猜疑と仲達の韜晦が巧く釣り合っていた結果なのだが、息子の曹丕の代になってそれが崩れた。
「仲達は、余が無二の者ぞ」
 ふたりは青年時代を共に過ごした親友同士でもあり、曹丕は仲達を次々と栄転させ、ついには曹氏や夏侯氏という一族衆以外では、最高位の武官職にまで任じた。
 代がかわり、仲達は驃騎将軍に昇り、豫州および荊州の督諸軍事として、対呉方面軍の総帥となった。
 
 仲達は着任後、すぐに孟達の挙動を不審とみなし、それとなく監視していたようである。
 やがて、傍証が揃った。
「孟達の謀叛はもはや防げぬ。ならば彼を叛起させ、間隙おかずこれを伐つべし」
 仲達は、さっそく情報戦を開始した。孟達に対して繰り返し繰り返し書簡を送りつけ、
(中央は将軍を微塵も疑っていません。ご案じあるな)
 と吹き込み、彼の激発を巧みに遅らせる一方で、荊州軍団の最も高速な一隊をひそかに切り離して、孟達の居城上庸ちかくに配備させた。しかもこれを孟達に察知されぬよう、近付く者はすべて捕らえ、不審と見たらこれを斬り棄てた。
 孟達ほどの男が、こと仲達周辺の軍移動に関しては全くの盲目となったわけである。
 やがて孟達が予定通り兵を挙げたときは、すでに仲達は宛城を進発しており、各地に伏せておいた諸隊を糾合しつつ、疾風のいきおいで新城郡へなだれ込んだ。
「……何ゾ其レ神速ナル」
 孟達が悲鳴混じりの書状を孔明に送りつけたのが、仲達の攻城が始まる直前のことで、挙兵からわずか八日後である。
 普段の沈毅な仲達からは想像もできない激烈きわまる攻囲は、わずか一六日で終わった。
 かねてより内応の約を取り交わしてあった連中が、城門を開け、仲達軍を迎え入れたのである。孟達は脱出を試みて失敗し、散々に斬り暴れたあげく、ずたずたの肉隗となった。
 その間、蜀も呉も大規模な援軍を次々と新城へ送り込んだのだが、ことごとく仲達の支隊に阻まれ、上庸へ接近する事さえ出来なかった。
 鎬鎬歴史を変えるはずであった孟達の乱は、わずか二四日で終結した。
 
「孟達の事、余の過ちであったわ」
 孔明はつぎつぎ飛来する続報に、耳を塞ぎたくなった。
「おそるべきは司馬懿の智よ」
 すべては、司馬仲達というひとりの男の脳漿が決したようであった。
 孔明が、いや、蜀漢王朝という政体が、ただ一人の知的活動によって無惨に敗れ去った。
 「北伐」作戦の要諦は、まさに新城郡奪取の如何である。魏領荊州へ突き出るこの郡は、そのまま魏の咽喉へ突きつけられる刃となるはずであった。
(それが――)
 またしてもぼきりと折り取られた。もう二度と蜀へ付随する事はなくなるであろう。もはや、以後の北伐は、ただ北へ北へと一次元に活動するピストン運動にならざるを得ない。
(やはり危険は承知で、魏延の策に乗ってみるべきであったか)
 しかし、すでに凡将の誉れひくい夏侯楙に代わって、大将軍曹真が長安へ入り雍州一帯の軍権を直接掌握してしまっている。無防備の長安を電撃するという策は二度と使えぬ。残る選択肢は、ただひたすら北上するというものだけであった。 
(ただ北上するだけ……!)
 これは、孔明ほどの智者にとって拷問にも近い軍事行動であった。
 ……しかし、孔明はこの単調きわまる北伐行にも、なるべく戦略的な幅を持たせようと試みている。
 
 孟達の失敗は、無論、軍最高幹部のひとりである文長も聞き及んでいた。
(それみたことか)
 と思わぬでもないが、蒼白な貌で軍議を取り仕切る孔明を口汚く罵る気にもならず、床几に座したまま無音を保っていた。
 文長が文句を云いたいとすれば、孟達の失敗などよりも、この北伐本隊の進路そのものについてであった。
(何が悲しくて、こんな方向へ兵を動かすのか)
 北伐軍団本隊五万は、漢中を出た後、進路を関山道に定め、長安とは全く反対方向の西へむけて移動中なのである。道中、征けども征けども山また山で、進めば進むほど長安からどんどん遠ざかってゆく。
「丞相は、要するに戦さがお怖いだけではあるまいか」
「左様。なにしろ魏の軍勢は西南夷の蛮兵どもとは違うからな」
 文長だけでなく、彼の幕将や速戦派の部将たちは、みな不穏とも云える表現で孔明の軍略を批判し、中には露骨に彼を軽視する発言もあった。孔明はそれらの風評を知らぬわけはないのだが、一向に進路を改めようとせず、ひたすら北西への進撃を続けている。
 ところが、北伐軍団が道中半ばの祁山へ到着したあたりで、諸将が例外なく驚愕し、孔明の評価が文字どおり一八〇度転換するような、一連の珍事件が起こった。
 
 ――魏王朝の西方面の防壁であるはずの天水、安定、南安ら雍州の主要三郡が、六万近い大軍団を目の当たりにして恐慌状態に陥り、慌てて降伏を申し込んできたのである。
 だいたい半州を攻略するなど、本来ならば数万単位の兵力が衝突し、戦場を覆い尽くすほどの屍山を築いてようやく成る程の一大事業である。
 それが。戦さらしい戦さもず、ころりと転がり込んできた。
 鮮やかなるかな。丞相の御慧眼――。
 孔明はただ長安という戦略都市を衝くのではなく、戦力が希薄になった長安以西の涼州一帯を威圧攻略し、以て後顧をなからしめるという策をとっていたのである。
(なるほど……!)
 文長でさえ、唸った。机上の空論が、空論ではなくなってゆく。
(丞相がおれの献策を蹴ったのも無理からぬことかな)
 と思うほどに、この時の孔明の下知は無謬であった。祁山に本陣を据えた孔明は、次々と軍令を発して諸郡を鎮撫し、降人を容れ、後続の輜重を納め、着々と長安侵攻作戦の準備をすすめている。
 現在、魏の対蜀軍団主力は斜谷の険道に引きずり込まれて膠着しており、長安までの道中、まったくの無防備であった。
「進路は東へ。目的地は長安」
 間もなく命令が下されると、北伐軍団の脊髄を異様な興奮が走り抜けた。
 いよいよ、悲願の長安攻略作戦が発動するのである。
 
 超大国の魏王朝が、はじめて震撼した。
「大将軍は何をやっているのか」
 魏帝曹叡は、決して無能でないはずの曹一族筆頭大将を、名指しで攻撃した。
「聞けば、驃騎(仲達)の機転がなければ荊州どころか、この洛陽までも危うかったというではないか」
 数え二三才の青年皇帝は、ひとしきり憤懣をもらすと玉座を立ち、皇帝親征の意思を群臣へ伝えた。彼みずから陣頭へ立ち、長安へ後詰めにむかうというのである。
「朕が甲胄をもて。わが虎賁(近衛)のつわものどもに出動を命じよ」
 云うが早いか、本当に曹叡は軍団を率いてその日のうちに洛陽を出立してしまった。
 器量も才幹も父帝より一まわり小振りであるとはいえ、この剛毅果断は、さすが曹操の末裔であるといえた。成都で退屈を持て余している劉備の息子とはえらい違いである。
 とにかく、緊急の出撃であったため、中央軍の半数ほどしか扈従できず、その数は五万余であった。残りは補給部隊の到着を待ちつつ、先鋒を追い慕う事になっている。
「――ご無礼を承知で上奏致したきことあり」
 征旅半ばを過ぎた頃、皇帝の輦へ巨躯を寄せた老人があった。
「おお、右将軍か。軍礼に則り直奏をゆるす。いったい何事か」
 白の直垂に白銀の鎧を身に纏い、白髯が陽に映えるさまは、まるで軍神の彫像のようであった。すでに六旬を越える老将軍は、壮者も狼狽ぐ程の大声で上奏した。
「有り難き幸せに御座います、陛下。お許しを得て申し上げます。願わくば、不肖この老骨めに最も迅き一軍をお与え頂き、以て先の防ぎに充てて頂きたく存じまする」

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