2009.09.07

魏延の北伐【第六章】 北伐みたび

               一

 
 ただ一人の若い独走が、取り返しようの無い結果を蜀漢王朝へもたらした。
 まず、街亭から長駆して祁山本営を衝いた張郃軍が、さらに折り返して隴西と漢中との連絡路を遮断しようとしたため、孔明ら本軍は、為す術もなく全軍撤収した。
 それにやや先立ち、魏の大部隊を斜谷道で引きずり回していた趙雲・鏃芝軍もまた、戦線を支えきれず突き崩された。彼らはもともと陽動部隊であったから、曹真軍を引き付けておくだけで一定の戦果をはたしていたのだが、それも全てが徒労に終わったわけである。
 さらに、せっかく蜀の威を畏れて投降していた安定郡・天水郡・南郡の三郡も、蜀軍去るの報を受けて、再び魏に舞い戻ってしまった。
 北伐など夢の中の出来事であったかのように、なにもかも元通りに戻ってしまった。
 
 ――馬謖の身柄を、如何に処すべきか。
 漢中への撤収を無事完了した孔明は、彼にとって重すぎる裁断をつきつけられていた。
 街亭へ出撃する後姿を見送って以後、孔明は、漢中へ無事戻った今でも馬謖と顔を合わせるのを避けている。
(どのような表情をして彼に向かえばよいのか、また、何を語ればよいのか)
 抗命の咎を詰り、怒鳴りつけ、打擲し、それで事が収まるならばどれ程に楽か。
 馬謖は、断罪を待つ意味で自らの髻を落とし、黒絹で目隠しを施して、南鄭城外の一楼に閉じ込もっている。
 孔明は南鄭城の私室で、幾度目かの眠れぬ夜を迎えた。
 すでに、心は決まっている。
「斬ろう」
 そればかりは孔明の立場上、どうしようもない決定事項であった。敵を逃ぐる者、無辜を害す者、軍規に反す者――は悉く斬すべしと軍規に明記してある。そうと定めた孔明自身が、率先してそれを破り、悪しき先例をつくるわけにはいかない。
 即座に、そう突き放した判断を下したものの、平素親しく近づけていた青年馬謖の顔を思い浮かべるにつれ、それへ殺を与えるべき惨を思い、歯軋りした。
 彼の手元に、つい先刻馬謖の元から送られてきた書状がある。
(……平素、明公が謖を慈しみ下さること子に対する如く、謖が明公をお慕いすること父に対する如く、情、細やかであったと信じております。しかし今は、古の尭王が鯀を戮し、その遺児禹を用いた義話をお惟いください。さらば、謖は死すとも黄壌に恨みをのこしませぬ。……)
 このとき、既に馬謖は十二分の覚悟を決めているようであった。王平が直感した通り、馬謖は、明らかに以前の馬謖ではなくなっている。
 狼狽し、膝が震えるほどに動揺しているのは、孔明のほうであった。
(最後に一度、一度でよい。幼常の側で、杯を交わし、四方山の夜話などしたい)
 師父としてのせめての願いであった。
 堪らず、筆を投げ出し紙燭を手にとり、馬謖が謹慎している一楼へ向かいかけ、また思い直して座に戻る。漢中へ戻って以来、孔明はこの動作を幾度くりかえしたことであろう。
(身は、天朝の大宰相なるに、これほどの自由が許されぬのか)
 孔明は、泣くまいという誓いに反し、胸を焦がす悔しさに嗚咽をもらした。
 
 このとき、馬謖をもしも救える存在があったとすれば、それはただひとり、成都に居ます皇帝劉禅であろう。
 劉禅の耳には、すでに馬謖の過失と北伐の失敗が届いている。
 当然、孔明が馬謖を誅して全軍へ謝する意向であることも聞き及んでいるはずである。
 もしも劉禅が英明と呼ばれるほどの君主であれば、孔明の立場と理屈を是としつつも、それを小乗的な法家主義と喝破し、自らは大乗的な立場で勅を発し、馬謖の一命を救おうと尽力したかもしれない。
「千軍は求め易く、一将は求め難い。勝敗は兵家の常であり、敗北の度にいちいち将を斬っておっては国家の衰亡を早める事になろう」
 たとえば曹操や劉備、孫権などは、それがたとえ職務怠慢や軍令違反であろうと、眉をしかめながらも上の如く云い、一命を救って再起の機会を一度は与えた事であろう。
 まして蜀漢王朝は、その国力の弱小さもさることながら、絶望的に薄っぺらい人材層に悩まされている。孔明以下、用いるべき人が数えるほどしか無い中、馬謖は例外的に異彩を放っていた。
 劉禅が勅使を急派し、
 ――丞相、馬謖は確かに失敗した。しかし、大用する毋かれとの先帝陛下の御諚があったも関わらず、謖は大用されたのだから、彼も気の毒である。朕に免じ、謖の罪を減ぜよ。
 と云ってやれば、孔明はまさしく蘇生の思いをし、馬謖を公然と赦してやる事ができたかもしれない。
 孔明は、あるいはそれを待っていた。
 だが、結局勅使は訪れなかった。
 馬謖は赦されず、孔明は彼と口をきく機会を永久に喪った。  
 
 馬謖の死については、今日も各説が語られている。
 最も有名で、また最も事実に近いと思われるのが、「泣いて馬謖を斬る」にある刑死説。
 「謖を戮し、以て衆に謝す」という記述が、正史には二箇所のこされている。
 他に、獄死説。
 これは馬謖伝の記述で、斬られたというのではなく、「獄中で物故」という表現が用いられており、あるいは謖が自らを裁いたようにも思える。
 さらには、逃亡説。
 時の丞相長史向朗は、馬謖と平素親しかったため、馬謖の逃亡を知りつつこれを黙許し、孔明の不興を買って更迭された、という。(にも関わらず向朗は間もなく栄進し、一部ではその事が馬謖逃走説を裏付ける証左といわれ続けている)
 ……最後の逃亡説は別として、馬謖はともかく漢中で刑死した。
 孔明は彼の死を哀しむ一方、それを最大限に利用した。彼の政治家としてのつめたい本能が、最も効果的で劇的な演出を孔明の所作にほどこしている。
 目を真っ赤に腫らし、馬謖の誅死を全軍に知らしめる孔明をみて、漢中の十万将兵、これに哭かざる者はなかったという。
(嗚呼、丞相の御悲愴)
(我が弟、我が子と愛した参軍を自らの手で戮せねばならぬのだ)
(見よ、あの痛ましい丞相のお姿を)
 苦い敗戦の記憶は、心地よい涙とともに彼方へ流し去られる。
 享年三九。馬謖はその若い一身を以て、北伐の失敗を象徴するモニュメントとなった。
 
 もっとも、馬謖に全責任を負わせ犠牲の仔羊とするだけでは、無論、足りない。
 丞相孔明もまた、自らの位階を三つ下げ、右将軍となった。我々は孔明の事を、諸葛右将軍と呼ばねばならないであろう。
 馬謖に従い街亭へ出陣した諸将のうち、張休と李盛の両名は棄陣の咎で斬され、奮戦してやぶれた黄襲、陳戒は軍兵を剥奪されて?刑(頭髪を剃られる刑。当時は死罪に次ぐ屈辱とされた)に処された。
 他にも、校尉や都尉のような下級将校も次々と分にあった処分を下されてゆく中、ただひとり、馬謖の麾下でありながら処分保留のままの将帥が居た。
 漢中軍団長の魏延文長が、馬謖に貸し与えた王平である。
 王平は、常に潰走する馬謖軍の最後尾にあって、自ら長槍をふるい敵を退け、敗兵を収容し、擬兵の計で張郃軍を惑わし、自軍の損害を最小限に食い止めた。かれの見事な撤退戦がなければ、馬謖軍一万などひとり残らず討ち滅ぼされていても不思議はない。
「王平を如何する御心算か」
 孔明の裁断が存外秋霜にすぎるので、南鄭城主の文長も不安になり、孔明の執務室を訪れた。子飼いの部将を、馬謖の失策に巻き込まれて失ってはかなわぬと思ったのだ。
「ああ、鎮北将軍」
 孔明は執務の手を止め、ちょっと疲労した顔に無理に微笑をうかべた。
「王平の処遇については考えてある。安んじておられよ」
 とだけ云い、また手元に目を落とした。
 
 翌日発表された牙門将・卑将軍王平に対する人事は、さすがに文長を愕然とさせた。
 亡き馬謖の持つ官爵が、そのまま王平へ付与されたのである。丞相府の参軍というポストと、馬謖の食邑であった一亭を封邑として受け継ぐ事になる。
 そればかりではなく、あらたに討寇将軍の将号を加えられ、独立して一軍を与えられる事になった。それも普通の軍ではなく、先年の南征で得た異民族傭兵部隊「無当(飛軍)」である。
 つまり王平は、丞相府参軍・討寇将軍、亭侯という官爵を授けられ、加えて「無当監」の称号を許されるのである。字も読めず、生涯隊将止まりであるはずの彼が、信じられないほどの栄達であった。
 文長は、我が事のように喜び、さっそく馬をとばして王平の陣舎を訪れた。
「子均、子均はおるか」
 大声で陣営を尋ね歩いているうち、王平の副将の句扶に出会い、大将はお留守です、と知らされた。
「何処へ行ったかな」
「爾後の打ち合わせがあるとかで、楊長史殿に伴われ、丞相の元へ」
「……そうか」
 文長はふいに興醒めしたように声を落とした。
 思えば、もはや王平は漢中軍団の牙門旗を守る連隊長などではなく、一軍の、それも蜀中最強の飛軍五部隊を総監する将軍なのである。文長の部将ではなく、孔明の直属のに引き抜かれてしまったのである。
 王平を連れて行ったという丞相長史の楊儀とは、まだそれほどの面識があるわけではない。ただ、小うるさい輜重方の官僚である、としかこの時は認識していない。
 
               二
 
 再び、北伐軍を起こすという。
 「第一次北伐」が失敗に終わった年の内で、まだ半年ほどしか経ていない。
 孔明は成都の宮廷へ参内し、皇帝へ深く失敗を謝した後、丞相府に山積みされた政務を瞬く間に片づけて、ふたたび漢中へ舞い戻ってきた。
(いっそ、成都で政令だけを見ておられればよいのだ)
 文長は本気でそう思ったが、孔明は軍権を他に委ねるつもりは全く無いらしい。
 
 孔明が「第二次北伐」を決意したのは、時期的な理由がある。
 蜀に遅れる事三ヶ月余、この夏から秋にかけ、長江下流域方面で呉王の孫権も魏に対し軍事行動を起こし、こちらは大いに戦捷を得ていたのである。
 呉軍の総帥陸遜は、六年前に先帝劉備を苦もなく攻め滅ぼした鬼才を存分に発揮し、対呉方面軍総帥の曹休を完全に手玉にとった。大司馬曹休は戦線を維持する事が出来ず、淮南地方における魏の拠点を次々に失い、自らは憤死にちかい最期を遂げている。
(急は、まさに淮南にあり)
 と急使が広大な魏帝国全域に発信され、魏軍の耳目はたちまち対蜀戦線から対呉戦線へ向けられる事になった。
 やがて、長安に駐留していた近衛の中央軍が、続々と対呉戦線へ振り向けられるに及び、
「――時は今である」
 と、孔明の決断が下されたわけであった。
 
 第二次北伐
 に参加する兵力は、前回をも上回る九万余。蜀漢王朝の動員能力の、ほぼ限界値である。これほどの大部隊が早急に展開できるのも、さきの「第一次北伐」の損害が馬謖隊と趙雲隊の二隊だけにとどまり、本隊と軍需物資にさほどの損耗を見なかった為であった。
 その大軍を統率するのは、「右将軍」諸葛亮孔明。
 今度は遊軍や陽動の部隊を用いず、また内応調略などの事前工作を行わず、文字どおり槍一本を最前線へ立てての全軍突進となった。前回の北伐作戦が、その準備に一年半をかけているのと較べて、いかにも急造りな感は否めない。
「だがこの度の北伐は、拙速こそ要である」
 魏の注意と主力が呉方面へ向けられているいま、どれほどの早さで魏領へ侵攻できるか、最初の第一撃の鋭さが作戦の正否を分ける事になるであろう。
 孔明は軍議の席で上の主旨を述べ、
「如何」
 と諸将の存念を訊ねた。
「右将軍が戦えと仰れば、我らに何の存念がありましょう。ただ御下知を頂き、戦うのみ」
 蜀の誇る将星たちは声を揃えて賛同した。その中には、最近になって反孔明派と目されはじめた文長もいる。
 これは意外な、という目で見られる文長だが、
(戦うことに異議のある筈もない)
 その点、ことさらに反対してみるなどの底意地の悪い妨害を行おうなどとは、夢にも思わなかった。
 思わないが、やはりひとこと云わずにはおれなかった。
「右将軍。北して魏を伐つ、これは大いによろしい。ですが全軍あげてただ一本の道を征くというのは、以後の作戦展開の硬直につながります」
 少なくともあと一路、別動軍を編成して本隊と並行させるべきであろう。
「願わくば、延をしてその別将にあてて頂きたい」
 文長は孔明の顔をじっと見つめた。孔明は、清涼水が楚々と流れるような表情を崩さず、同じくして文長を見つめかえした。
 ふいに、鋭い反駁の声があがった。
「鎮北将軍。丞相の御決断はすでに下された。将軍も部将であるならば、最高決定に異議するなどもってのほか、ただただ丞相の御意思の完遂に尽力されよ」
 一座がぎょっとするような、どぎつい意見であった。
 空気まで蒼白になる中、文長のえたいの知れない視線をうけて傲然と胸を反らしたのは、最近、急に頭角を顕しだした参軍の楊儀であった。
 楊儀は孔明や文長と較べても遜色のない長身で、額ひろく反り上がり、双眸するどく、一見して常人ではない。このとき既に蜀中随一の能吏として知られ、文長と同じく、孔明の幕府に欠けてはならない人物であった。
「丞相ではない、楊参軍。右将軍であろう」
 文長はとりあえずそれだけを訂正し、あとは黙殺した。
(――丞相の威光を振りかざす奴とは聞いていたが、ここまで増長しているのか)
 正直、呆れかえる気持ちのほうが怒りに勝った。
(所詮は小物の遠吠えだ)
 と、彼をひととおり蔑視する事により、文長は大物である我に満足した。
 ところが当の楊儀は、小物であるどころか、既に大物も大物。身代は一介の丞相府参軍に過ぎないが、北伐軍の機能のほぼ全てを一人で掌握し、軍中における権勢は、もはや孔明や文長と肩を並べるほどになっている。
 文長は、まだそこまでは知らない。
 
 晩冬一一月、「第二次北伐」作戦が発動した。
 例の五本のルートのうち、孔明が今回使用したのは「故道」である。長安から四番目の回廊にあたり、秦嶺山脈の切れ目を縫うように進む、比較的平坦なルートであった。
「この故道は、桟道を通過せねばならない子午道、斜谷道にくらべて大軍の運用が容易であり、迅速な行軍に適している」
 孔明が今回この故道を選んだのは上の理由によってだが、他にもまだ、
「故道の出口にちかい散関は脆弱で突破し易く、さらに道の出口を扼している陳倉城は、山塞に毛が生えた程度の出城に過ぎない。これも抜き易い」
 という、進路を阻む敵要害についての判断も加えられている。
 ――この孔明の予見の通り、蜀軍の進撃は実に快速であった。
 八万の大軍はおそろしい速度で北上し、十一月半ば頃には散関を突破し、いよいよ最後の障害物である陳倉城を包囲しようという程である。
 ところが、ここに意外な事態が出来した。
 
「これは何事か」
 孔明が目を剥いたのは、見慣れない城塞群に行く手を阻まれたからであった。
「地図には無い。この要塞は、いつ出現したものか」
 さすがに、沈毅な彼も狼狽を顔に示した。本来、守備隊がこっそりと進駐する程度であるはずの陳倉城が、小振りであるとはいえ各処要害を占め、小憎らしいほどに堅固な防衛線を形成して、故道の真上に居座っている。
「すぐさま駆けよ」
 孔明は目の利くものどもを放ち、陳倉について調べさせて答を得た。
 ……先の「第一次北伐」の終了後、敵総大将曹真は孔明の再侵攻を予見し、五道全てに防衛線を張り巡らせる決断を下したという。特に、次に孔明が用いるのは故道に違いないと判断し、荊州総督司馬懿の賛同を得て、この陳倉城を増強する裁可を皇帝に仰いだ。
「大将軍の思うままにされよ」
 皇帝曹叡は一言で快諾し、陳倉の貧弱な城郭は取り壊され、代わって強固な要塞群が突貫工事でつくりあげられた。曹真はここに常時一千人の山岳兵を置き、加えて忠勇無双の誉れ高い郝昭という大将を、特に選抜して城将に据えた。……
「敵はわずか一千。わが精兵八万をもって蹴破れぬはずがない」
 孔明は断を下し、まず郝昭に投降を勧めてみたが、これは一笑に付されただけあった。
「――ならば攻め陥とすまでだ」
 小さな陳倉城塞と千名ほどの守備兵に対し、八十倍の北伐軍団が一斉に牙を剥いて襲いかかった。
 
 攻防、二十余日。
 ……陳倉は小揺るぎもしない。
 激烈な蜀軍の攻城に対し、陳倉の各支城は守将郝昭の采配により呆れるほど巧妙な連携をみせ、その城壁のまえに積み上げられる蜀兵の死屍はしだいに嵩を増している。
 前線の惨状は形容し難い。
 文字どおり針鼠状になった蜀兵の躰が城壁下の地面をびっしり覆い、ところどころで微かに動いている。その上を容赦無く駆けぬけた一隊が、果敢に城壁に取り付き、梯子を半ば昇ったあたりで全身に箭を受け次々と転落し、また新たに肉の層を積み重ねてゆく……。
 指揮官の文長は歯軋りして次の隊の突撃を指令した。
(こんな莫迦な戦さが世にあるか)
 だいたい、この狭い故道にはせいぜい一千ほどしか軍兵を展開させ得ず、それだけの数で城壁に取り付いたところで、たちまち矢玉落石の的になり全滅するだけであった。兵力を小出しにするのは、鶏卵を次々と石壁に叩きつける行為に似て、とても郝昭ほどの勇将の見逃すところとは思えない。
 長安攻略用に用意された大型の攻城兵器も前面に押し立てられたが、これらも要塞群の防禦力に致命傷を与えるまでには至らず、逆に火箭の的になって焼き払われ、いたずらに敵方の嘲笑をあびるのみであった。
(だから一路のみで突進するなど愚の極みであるのだ。故道も兵書で云う隘路。入口と出口を塞がれたら、それだけで身動き一つとれなくなる)
 もしも自分に十分な兵権があれば、本隊とは別に遊軍を率いて、例えば別ルートから急進して陳倉城を背後からかき回すくらいはやっているだろう。
(それを、あの腐れ儒将が)
 文長が、はっきりと孔明を敵視し出したのは、この陳倉の地獄絵図を体験した時からである。 
 
               三
 
 攻防はさらに続き、十二月も半ばを過ぎたとき、各方面に飛ばしていた物見から一斉に報告が入り始めた。
 曰く――敵大将軍曹真、自ら十一万の軍を率いて陳倉へ来援しつつあり。先鋒大将王双、すでに二万余の軽騎を引き具して入城せり。
(……ここまでである)
 孔明は本営で天を仰いだ。
 ふたたび、北伐は成らなかった。前回よりも強大な戦力を動員し、しかもそれを一箇所に集めて運用したというのに、その成果は前回を大きく下回り、損害は遥かに上回った。
 この度は、戦略面で魏の曹真に完敗した。
 
「このまま逃げ帰ったのでは、死んでいった兵たちに申し訳がたたん」
 軍議の席で、文長は声を大に孔明へねじ込んだ。まるで、その無策を詰るような口調で、あきらかな敵意があった。孔明はきっと唇を噛みしめ、反論はしない。
「涼州殿、控えられよ! 逃げ帰るのではない、兵糧が足りず、惜しくも撤収するのだ」
 楊儀がまたしても孔明の弁明にまわったが、こんどは文長も容赦なかった。
「黙れ、俗吏!」
 一喝で両断すると、鉾先をこの辣腕軍官僚に転じた。
「兵糧が足りぬと申すならば、この度の敗因は貴様ら輜重方にあるのだろう。偉そうに口抗えする程の長い舌があるなら、さっさと噛み切って全軍に詫びておれ」
 叫ぶほどにむかッ肚が立った。諸将があっと云う間もなく文長は剣を抜き、楊儀の蒼い頸すじに白刃を擬した。
「舌を噛み切る程の度胸がないなら、余がこの場で馘ってやろうか、参軍」
「鎮北、よい加減にせよ」
 苦々しげな叱咤は、皇叔の呉懿が発したものだった。彼もすでに剣巴に手をやっている。文長はようやく、自分が事もあろうに営中で抜剣したことに気付き、素早く剣を納めた。
 諸将には黙礼したが、顔面蒼白な楊儀は棄ておいて、文長は孔明に向き直った。
「右将軍、撤収は是非もないが、敗け逃げは国家の恥でござる。せめて野戦で一勝し、勝ち逃げに転ずるべきでありましょうぞ」
 孔明は、沈思し、立ち上がって断を下した。
「涼州の言、善し。敵の先鋒を誘き出し、これと一戦して、然る後に撤収する」
 その一言で、列将はおおいに蘇生の表情をうかべた。
 ふと、幕中に異様な音が響いた。――楊儀が、肩を震わせ、嗚咽を漏らし始めたのだ。文長は鼻を鳴らして冷笑をその横面に吹きかけると、満足げに陣営を退出した。
  
 蜀軍は、この撤退戦では大いに勝利を得た。
 郝昭の制止も聴かずに、魏の先鋒大将王双は逃げ去る蜀軍を追撃し、四十里ほどの地点でその最後尾と接触した。
「蜀の孤児どもを鏖殺しにせよ」 
 王双は陣頭で躍り上がるように叫んだが、鏖殺されたのは当の王双の人数であった。
 孔明が、遁走しながらも造り上げた巧緻な邀撃陣に、頭から突っ込んだ形である。王双軍は、たちまち各所で寸断され、押し包まれ、文字どおり一人のこらず討ち取られた。
 なかでも文長隊の殺戮ぶりは、味方にとっても悪夢を見るような凄まじさで、陳倉での鬱憤をすべて王双に叩きつけるかのように、痛烈に闘った。主将の王双もまた、この復讐鬼の突撃によって討ち取られた。
 戦闘はわずか二刻。蜀軍が旌旗をまとめて故道を駆け去った後には、討ち棄てられた魏兵の死骸が点々と十里余にわたって転がっている。
  …撤収のあいだに年が開け、建興七年(二二九年)。
 
 このたびの“第二次北伐”の失敗によって、蜀軍の首脳はあらためて深刻な癌の存在を自覚させられる事になった。
 絶望的なまでの行軍、補給の困難さである。
 蜀から漢中へ、そして漢中から隴西方面へ。平均標高が一千メートルを越すほどの山岳地帯を、北伐軍の将兵数万は移動し、転戦している。
 なにしろ、道が無い。
 無いから造るしかなく、切り立った断崖絶壁に杭をずらりと打ち込み、その上に人ひとりがようやく通れるくらいの桟を載せ、そこを怖々と渡るのである。
 兵士たちはまだよいとしても、問題は膨大な補給物資である。平野部での戦争のように、広い街道を牛車数列で押し渡るというわけにはゆかず、人足ひとりひとりが荷を背負い、先の桟橋をのろのろ輸送するしかない。これではどうしても消耗が補給を上回る事になり、戦線の維持どころではなくなってしまう。
 つまり、魏としては野戦で蜀軍主力を撃ち破る必要など無く、ただ街道を閉鎖して一定の期間を防禦に注ぐだけで、蜀軍は勝手に引き上げてゆくのである。
 北伐とは、常に時間との闘いでもあった。
 
(右将軍のままでは諸事、不都合である)
 漢中へ引き上げた孔明は、その事を痛感した。
「……軍中が不穏だ。涼州あたりが煽っているな」
 孔明は側に参軍楊儀を置き、酒杯を嘗めている。嗜む程度で多飲しないが、かれはすぐに酔い、酔うとやや愚痴っぽくなる。
「涼州めは、丞相に対し狼心を構えているのではありませんか」
 楊儀は、はっきりと反文長派で、愚痴る相手としては申し分無い。とはいえ、さすがに孔明は、楊儀の一方的な誹謗に乗るようなことはない。
「そういうのとはちょっと違う」
 右将軍孔明は、据わった目で楊儀を一瞥し、杯の端をちびと嘗めた。
「彼はな、威公。根からの豪傑なのだよ」
 先帝劉備が、その生涯で最も信任した武将はふたりいる。
 ひとりは、荊州総督であった関羽雲長。そしてひとりは漢中総督の魏延文長。
 やくざ者あがりと奴隷階層あがりのふたりは、文字どおり劉備の分身として国境拠点の宰領を委ねられ、劉備以上に強大な兵力を預かった。武勇と、忠義の二点を絶対的に信用されていたのである。
 ふたり以外に、同じく劉備の親任を得た将領級の人材としては、同郷の侠客張飛、流浪の将軍馬超など、異常にアクの強い人物がたちがいた。血統という点において、劉備軍団は史上まれに見るほど雑多な人種の寄せ集めであった。
「彼ら豪傑どもは、既に世にない。しかし、昭烈皇帝が御自ら使い育てになられた最後の豪傑が、いま我が軍の一方の旗頭となりつつある」
 蜀漢王朝軍全体が、英雄豪傑どもの怒鳴り合う男くさい劉備軍団から、諸葛孔明を中心とする官僚組織に移行するなかで、長く国境要塞にいた魏延だけが変わる事なく存在し続け、しかも軽視できぬ実力を備えて中央と対峙している。
「……おまけに見よ、この漢中要塞の素晴らしさ」
 南鄭城を中心に、漢中盆地は幾つもの支城が連動する要塞群と化し、ほとんど難攻不落の観がある。三国どこを探しても、これほど完成された戦略要塞は存在するまい。
(あの農奴上がりの脳のどの辺りに、こんな才覚が眠っていたのやら)
 孔明は正直に感心した。
 感心は、そのまま恐怖につながる。覇気と才幹を備えた武将は、叛逆するものと決まっている。たとえば魏の創始者曹操のように。
(魏延は危険だ……)
 孔明は、彼も知らぬうちに眉間に深い皺を刻んでいる。
 だが口に出しては、
「近いうちに目に見える功を挙げ、丞相位に戻らねばならんな」
 と、呟いただけであった。
 
 その宣言通り、孔明は三度目の北伐作戦を、この年明け間もない初春から展開させた。
 いわゆる「第三次北伐」は、前後の二段にわかれて発動しており、当然この春に行われた北伐は「前段」にあたる。
(敵中枢の長安をいきなり衝くのは、どうも難しい)
 孔明は二度の失敗をうけ、その方針の転換を考えた。これまでのように、北上して中原のある東へ転ずるのではなく、今度からは逆方向の西へ長駆し、魏の影響化にある涼州や西域をまず手中におさめようというのである。
 つまり外郭の辺境地帯を踏み固め、諸異民族の協力を得、彼らと手を結んで、じわじわと中原を目指すという方針に転じた。
 そのためには、西上の足掛かりとなる拠点、今日の軍事用語で云う橋頭堡が必要となる。
「武都、陰平の両郡がそれである」
 孔明が指名した両郡は、ともに漢中の真西に位置し、きたるべき西域侵攻作戦の玄関口となる地点であった。
「陳式、卿が征け」
 この度は孔明も動かず、それどころか文長他の漢中軍団も動員されず、ただ大将の陳式とその麾下だけが出動した。
 陳式は、先帝が呉の陸遜に大敗北を喫したとき、益州水軍を率いて皇帝の一身を全うした功がある。一説には、先の馬謖の幕僚で?刑に処された陳戒と同一人物とされ、もしそうであるならば、この陳式は、ただしく「正史三国志」の著者陳寿の実父ということになる。
 それはともかく、陳式は孔明に指名されるほどの武勇を揮って、数十度にわたる小戦闘にことごとく勝利し、わずかの間で武都、陰平の両郡を制圧した。
「ちと、小うるさき敵」
 と、この方面の魏の責任者である雍州刺史の郭淮が、ようやく重い腰を上げたのが三月半ばである。さすがに郭淮と陳式とでは、戦歴も武勇も最初から比較にならない。
「陳式が危うい」
 として、孔明は自ら四万の後詰めを宰領し武都郡へ入った。
 これが、そのまま同郡を横断して下弁、建威を突破、郭淮の本拠地である天水郡を衝くほどの猛進撃であったため、
(――しまった。退路を断たれる)
 と、郭淮はさすがに狼狽して、陰平まで南下していた軍団を反転させた。
 いずれ牽制であったに違いない。孔明は、傍らをあわてて通過する郭淮軍などまるで無視し、悠々と武都の宣撫を行っている。
 やがて冀城の守りをかためた郭淮が、さて一戦に及ぶべしと振り返った頃には、孔明も陳式も、あざやかに身をひるがえして撤収を終えている。
「……手玉にとられた」
 郭淮は嗟嘆して天を仰いだが、このとき傷つけられた矜持は癒しようがない。
 
 郭淮の屈辱は、そのまま大魏帝国の屈辱でもあった。
「かかる乱子を放置しておく法やある」
 魏の朝廷は急沸し、とうとう大魏皇帝のわかい曹叡をして、
 ――征蜀すべし
 の勅諚を大将軍曹真へ宣下せしめる事となる。しかも――動員兵力は雍涼併せて少なくとも二十万――という追加の勅令つきであった。
 三たびにわたる蜀の一方的な侵略が、とうとう虎の尾を踏みつける結果となったのである。

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