魏延の北伐【第七章】 陽谿の会戦


               一
 
「魏が、大兵を催して攻めてくる」
 どうやらそれが確報らしいとわかったのは、同年の九月に入っての事であった。
 この四月、これまで形式上は魏王朝の藩国王という立場であった呉王の孫権が、あらたに呉王朝を宣言し、全土を震撼させたばかりである。この呉王朝の成立により、中国大陸には皇帝を名乗る三人の男が並び立つ、三王朝(三国)時代が到来したことになる。
(……ややこしいこの時期に、侵攻してくるとは)
 三帝国のうち最も弱小な蜀漢王朝の最高実力者である孔明は、魏の軍事計画の詳報をうけて、舌打ちをもらした。
 しかし、すぐにその眉をひらいた。
(いや、こういう時期だからこそ、かえって有り難い)
 いま蜀の宮中には、先日皇帝を名乗った孫権を「僭称者」と断罪し、彼を懲するべしという論議がやかましい。
 彼らの理論で云えば、蜀漢王朝こそ劉氏による漢(後漢)王朝の直系であり、曹氏の魏や孫氏の呉など「自称王朝」に過ぎない。魏や呉の官民はあくまで蜀漢王朝の臣下であるはずが、いま不逞にもは天子に逆らって叛逆している、というわけである。
「だから、孫権の登極を認めず、彼の増上慢を懲らしめてやらねば筋がとおらない」
 魏の七分の一、呉の三分の一程度の国力しか保有しない地方の武装勢力が、本気で云っているのである。
 孔明は、宮中で俄に沸き起こった、いささかファナティックな国粋主義運動に閉口していただけに、魏の来寇をむしろ扶けに思った。
(ただでさえ北伐で手一杯なのに、加えて呉まで敵に回してたまるか)
 という本音をかくし、血ばしった眼で東呉への出兵を迫ってくる廷臣どもを態よくあしらっていたところ、思いもかけず巨大な国難が降り懸かってきてくれたわけである。孔明は、その国難さえも最大限に利用した。
「よろしいか、諸卿。いま将に危急存亡の秋である。来年には北賊(魏)が百万と号する大兵を挙げ、不逞にもこの宮を目指して来寇するという。その重要な時期に」
 ――呉までも敵にまわして、国防を完遂できるのか。自国の正義をいじくりまわしているだけでは外交が成り立たぬ。ここは耐え難きを耐え、敢えて孫権の登極を認める事が、漢家の御ためではないか。
「そこまで考えた上で意見しておるのか、卿らは!」
 大挙しておしかけてきた国粋主義者どもは、孔明の意外な怒声に正面から一喝され、思わず立ちすくんだ。この場合、孔明の並外れた長身は、人々を威圧するに足る迫力をうむ。
「わかったら部署にもどり、来るべき魏の侵攻に少しでも備えおけ!」
 孔明は、議論するだけで役にも立たぬ連中を、執務室から叩き出した。とにかく蜀の国是を呉王朝容認の方向へもってゆく、それが第一声になるはずであった。
 
 孔明の思惑などとは関わりなく、大魏帝国は着々と出征の準備を整えている。
 その間にも年が改まり、建興八年(魏では太和四年)。
 魏の最高実力者曹真は、亡き曹休に代わって大将軍から大司馬にすすみ、加えて賛拝不名、入朝不趨、剣履上殿という諸王公に匹敵する破格の待遇を得ている。いわば、副皇帝にちかい。
 このとき曹真は、五十前後。孔明や文長とほぼ同年代である。 
「余は一戦で蜀を滅ぼすつもりである」
 と部下に漏らしたように、曹真は本気で蜀漢王朝を覆滅させるだけの準備をした。
 動員兵力は、戦闘員だけで十五万から二十万。
 そしてその二十万将兵が数年にわたって転戦するに足る装備、糧食も続々と雍州長安城、荊州上庸城の両拠点へ集結しつつある。
 その陣容は、凄まじい。幾度かの廟議で修正された結果とは云え、内容はほぼ曹真の希望に沿うようになっている。
 即ち――八月旦を期して征蜀軍は進発し、子午道(最短ルート)より征西車騎将軍張郃が、斜谷道(三番目のルート)からは大司馬曹真が、それぞれ長安駐留の陸軍を南下させる。同時に荊州方面からは大将軍司馬懿が、艦隊を率いて漢水を遡上する。
 この三路二十万から成る征蜀大軍団は、同日に三方向から漢中へ殺到するように行軍計画を組まれている。
「これほどの大陣容、たとえ鬼神と雖も阻むあたわず」
 曹真は、自信満々に云い放った。
 
 蜀にも、詳報がつぎつぎ舞い込んでくる。
 もはや孔明も、来寇をありがたがるどころの騒ぎではなくなっていた。文字どおり、蜀漢王朝にとって危急存亡の事態であった。
(……まさか、ここまでの布陣とは)
 国防の最前線に長く居た文長でさえ蒼白になるほどの、魏の雄図である。これが弱敵ならば、大風呂敷を広げたるに似たこの遠征計画、途中で破綻するのは目に見えている。
(しかし、曹真、張郃、司馬懿は弱敵ではない)
 おそらく、彼らは完璧に連動して漢中に突入し、この南鄭めがけて殺到してくるだろう。
(そうなったとき、おれとおれの要塞は能く大敵を防げるか)
 文長は自問し、さすがに剛胆な彼でさえ全面的な自信をもって、
(――防げる)
 と断言する心境にはなれないでいた。
 連日、協議が続いている。
「漢中を出て、迎え撃つか。漢中の険を用いて彼らを阻むか。いっそ漢中を灼き棄て、剣閣に拠り蜀土をまもるか」
 おおまかに三通りの軍略がある。
 群議はむろん、漢中の要害を占めて魏を防ぐ、という中庸な案を支持した。
 文長は漢中要塞の責任者であるから、それへ首肯した。
 ところが孔明は、反対であった。
 ちなみに諸葛孔明は、先の戦捷によって右将軍から丞相へと返り咲いている。
「余の意思は、卿らの如きものとは違う。敵の攻めるに任せるは、大勇ではない。むしろ進んで敵を撃ち、その連携を崩し、各個に彼らを撃破する」
 と、孔明は意外なほどの積極戦略を主張した。
 
 在任中、かれが常に心配したのは国家全体の士気である。
 ただでさえ辺境に逼塞している蜀漢王朝は、それが国家として機能するため、どうしても時代の能動的主役であるというテンションの持続を必要とする。一度でも消極的防禦に徹すれば、国風は想像以上の加速度で退嬰論にかたむき、自然消滅にちかい形で自潰することになるであろう。
 孔明は、常にその風景を恐怖した。連年、立て続けに〝北伐〟なる軍事的冒険を繰り返すのも、ひとつに国民のボルテージを一定数値まで引き上げ続けるという目的があった。
 かれの真意は知らぬ諸将は、困惑した表情を互いの顔に見出すことになった。
 とりあえず一同を代表し、文長が質問した。
「はたして、漢中の険に拠らずして、魏の大兵力と互角に戦えるのでしょうか」
 孔明は即座に、
「これは使君(文長)ほどの英雄のお言葉とは思えぬ。わが漢の兵はひとりで能く魏兵の百人と当たるでしょう」
 と、もっとも日頃の彼とは似気無い空壮語を返した。文長は、孔明が故意に議論を躱そうとしているのを、何となく感じて黙りこんだ。
 軍議は、端から気勢を殺がれる形となった。
 だいたい、人間が評議などという行為を行ったところで、結局のところその趨勢を定めるのは、百万言の巧舌などではなく、ただ議場の空気の方向あるのみである。――議を制する者とは、その空気の熱量を調整し、その方位を操る者を云う。このとき孔明は、最初から反対にまわる意見を気で殺した。
「――心丈夫に。わが胸中に方策あり」
 孔明は、ただ一言で国軍の方針を決定してのけ、さらに議題を具体的な内容へと進める。当然、みな目の色をかえて議論に熱中しだした。
 
 前将軍・中都護・仮節・江州都督の肩書きをもつ李厳のもとに、出馬を促す勅令が届いたのは、五月もなかばであった。
 二万の軍を率いて漢中へ向かえ、というのである。江州都督、すなわち対呉国境軍総司令の職は、彼の長子李豊におそわせるべしともある。
 加えて彼を一躍、驃騎将軍(次席元帥)に任ずる旨まで記されていた。
 これまで北伐にも参加させず、辺境に棄て置いていた事を詫びるにしては、いささか気味が悪いほどの厚遇である。
(――丞相は、おれを恐れている)
 李厳は、一瞬で理解した。孔明が成都を留守にしている間、李厳もいろいろと触手を伸ばして宮廷工作を行っていたが、孔明もどうやらそれを探知し、不安になったらしい。
「それにしても、漢中へ来いとはな」
 李厳は声に出して呟いた。漢中へ行くという事は、とりもなおさず、孔明とほぼ同格の自分が彼の指揮下に隷属する事を意味する。
(ごねてやろうか)
 と、ふと思ったが、漢中軍団を擁する孔明とことを構えるのは面白くない。
「まあ、行くか」
  
 李厳の漢中入城によって、蜀の絶対国防線に結集した兵力は七万をわずかに越すほどになった。
 孔明は、そのうち四万を率いて漢水沿いに東進し、赤坂という処に本営を置いた。
 張郃軍の予定進路である子午道と、司馬懿艦隊が遡上してくる漢水とが交錯する地点であり、ここの争奪戦こそが、この戦さ全体の帰趨を占うであろうと目されていた。
(もしもここを魏に占拠さるる事あらば、たとえ漢中に籠もって防戦したところで,
長く保つはずがない)
 孔明は常々そう思い、すでに昨年の冬までに、この一帯を要塞化することに成功している。ああも軍議を積極的に掻き回したのも、そういう存念があったからである。
 一方、後方の南鄭城の指揮は驃騎将軍の李厳が執る。この蜀漢王朝ナンバー2の実力者は、悠々と着任し、顔色一つかえずに漢中要塞の全機能を掌握した。
 赤坂に孔明、南鄭に李厳――これ以上は物理的にも望めない必死の布陣で、蜀漢王朝は魏の大攻勢を待ち受けようとしている。
 
               二
 
 ところが、さすがの孔明も呆気にとられるような事になってしまった。
 予定どおり八月に長安と西城をそれぞれ進発した魏の大軍団が、九月になっても蜀領へ姿をあらわさず、それどころか何もせずに本国へ引き揚げてしまったのである。
 ――雨、であった。
 それも並の雨ではなく記録的な集中豪雨であった。
 まず、進軍路である桟道が真っ先に崩され、立ち往生をしているところを今度は二次、三次の土砂災害が襲いかかり、何もしないうちから魏の征蜀軍団は半身不随に陥った。
 これは、司馬懿の遡上艦隊も同じであった。俄に嵩を増した漢水は、牙を剥いて水上部隊に襲いかかり、これも進軍どころの話ではなくなった。
(このままでも戦さは出来るが、三路同時に南鄭へ征くのは不可能だ)
 作戦総司令官の大司馬曹真は、血が吹き出るほどに唇を噛みしめて無念と闘い、
 ――全路、撤収せよ
 と、ようやく声を絞り出した。
   
 魏軍は、退いた。
 せいぜい夏侯覇指揮下の威力偵察部隊が、蜀の興勢城の守備隊と小競り合いをしたくらいなもので、他の二十万という大軍団は、その剣を鞘から抜く暇もなく本国へ引っ返した。
 おまけに総司令官曹真は、無念のあまりか帰還途中に病を発し、世にもばかばかしいこの大遠征を最後の戦歴に加え、洛陽で身罷ったという。
「これは、天の扶けだ」
 孔明はしばらく呆然としたあと、感情を整理するために本気でそう考え始めた。
 全くその通りで、これは天が蜀漢王朝の孤烈を憐れんで百万の天兵を遣わしたに等しい結果となった。
 文長でさえ、今回ばかりは天に感謝した。
 すると天は、文長の珍しい信心を嘉してか、もっと晴れがましい奇跡を彼の前に運んで来てくれたのである。
 魏軍団の撤収が確認されてからわずか十日後、文長は南鄭へ戻ってきた孔明の元に呼び出された。
「涼州殿、卿にひと働きして貰いたい」
 前置きをはさみ、孔明が口にした内容はちょっと信じられないものだった。
 つぎの北伐軍団の総指揮を執れ、というのである。
「北伐の指揮を執れ、と」
 あほうのように孔明の台詞を繰り返し、文長はその語彙を口中で転がすように確認した。
「もっとも、この雨で長安への進撃路は殆ど崩れ落ちている。だから使君には、先に陳式が伐り取った武都、陰平を経由して、一挙に涼州の奥深くまで進んで頂きたい」
 孔明が企図した「第三次北伐」、すなわち西進戦略の最後の仕上げを、この蜀漢王朝最強の豪将は委ねられたのである。
「動員兵力は二万から三万。輜重が整い次第、すぐさま進発して欲しい」
 孔明はきびきびした口調で命令を下した。
 ……この瞬間、魏延文長は念願だった北伐軍総司令官の任に着いたのである。
 
 この「第三次北伐」の「後段」は、全く文長の独壇場であった。兵力は二万余、副将に討逆将軍の呉懿を用い、孔明や李厳の指示も届かぬ遥か西北の果てまで軍団を進めるのだ。
「この出征の目的は三つあるものと、おれは見た」
 文長は、幕僚たちに説明した。
「ひとつ、涼州奥深くまで侵攻して、わが漢家の御威光を四海のうちに知らしめること。ふたつ、塞外の羌民族や氐>民族の渠帥どもとわたりを付け、以後の北伐で彼らを大い用いる事が出来るよう工作すること。みっつ、孤立した雍州刺史郭淮と彼の軍団を誘い出し、これを殲滅すること。以上である」
 呉懿を始め、武将たちは神妙に頷いた。
「幸い、西涼に詳しい馬将軍が陣中にいる。道中の案内は彼に任せようと思う」
 馬将軍とは、後の平北将軍馬岱の事で、これからわずか四年後に文長を斬る男である。故驃騎将軍馬超の従弟で、彼の姪(馬超の娘)が皇弟のひとりに嫁している事から、いちおう外戚の一人として数えられている。
 曹操を散々に苦しめた野戦の怪物馬超には及ばぬものの、彼に似て並外れた武辺者であり、人柄は爽やかで嫌みがなく、要するに文長が最も好む型の好男子であった。
「進路はただひたすら西へ」
 文長は、その一言を全軍へたたき込んだ。
 
 迅キコト風ノ如ク。……侵略スルコト火ノ如ク。
 とは「孫氏」の軍争の段でもっとも有名な文句であろう。
 蜀の魏延文長は、このとき孫子の最も忠実な実践者であるといえた。彼の指揮する北伐軍は、出撃してからわずか一一日で武都、陰平の両郡を、疾風が吹き抜けるように通過し、その勢いを止めずに涼州へ入った。
 「第一次北伐」で用いた関山道(長安から最も遠回りなルート)を用いて西方へ出、なつかしの天水郡の祁山を横目に、さらに北西へ。雍州西端の隴西郡をぬけると、そこはもはや漢人の天地の最果て、涼州である。
 羌族や氐族などの西戎――チベット系西方騎馬民族の居住区と隣接し、果てなく国境紛争が繰り広げられてきた地帯だけに、その地名も、「破羌」だの「安夷」だの「臨羌」だのと、あきらかに血文字で記された解り易いものであった。
 文長麾下の北伐軍は西平郡の北端、臨羌にその本営を設ける事にした。漢中から片道で二千里(約八〇〇キロ)という、途方もない長征であった。
 ここからずっと北上すれば酒泉、さらに北上すれば敦煌にもいたる。
「ちかいうちに涼州刺史としてこの地に君臨し、なろう事ならば西域まで自身、馬を進めてみたいものだ」
 文長は、吹き荒ぶ毘崙下ろしに嘯いてみせた。
 この臨羌のあたりは、文字どおり漢人領域と羌族の勢力圏が入り組んでおり、混血、雑居も進んでいる。土地は乾燥し、一陣の風が吹き荒れるたび、轟っと砂塵が舞い上がる。
「ここらは地味が乏しい。農業より、遊牧が主な生産です」
 馬岱が、説明した。かれは、先年蜀軍が苦汁を飲まされた陳倉城のある扶風郡に本籍をおく。長じては叔父の馬騰に引き連れられ、その子馬超とともにこの涼州一帯に割拠し、長らく中原の王朝と抗争していた。
 当然、羌の血も濃く受け継ぎ、幾人かの有力者と親睦もある。今後の北伐戦略のためにも、ぜひともその人脈を活かす必要があった。
「わるいが、将軍には周旋の労をとって貰いたい」
 文長の要請に、馬岱は嬉しげに頷いてみせた。
 
 馬岱の紹介で、文長は羌や氐の渠帥たちとの馬上会談の機会を得た。
 彼らは口を揃えて、
「中国(中原)に報復ができるのか」
 と訊ねてきた。
 数百年むかし、彼らは益州や雍州などの、まだしも豊かな土地に居住していたのである。それが、中原文明の爆発的な発展により漢民族絶対の時代となり、彼ら非漢民族は次々と土地から駆逐されるだけでなく、蛮人と呼び慣わされるようになってしまった。
「我らが豊かな土地に住める事を約束して貰えるならば、蜀帝に協力してもよい」
 彼らの結論は、実に単純である。文長は、諾、と応えると、自らの小指の先を噛みきって血の証とした。彼ら西戎が約束を取り交わすとき、そのようにする事を馬岱から聞いていたからである。
「使君の血は信じてよい。この良き日をともに祝おう」
 渠帥たちは、少なからず文長の行為に感動したらしく、次々と指を噛みきり、鮮血を彼らの大地に滴らせた。
 ……結局のところ蜀漢王朝の北伐は成功せず、これから三三年後、皇帝劉禅は魏帝国の軍門に降ることになるのだが、彼らはこの日の約束を忘れなかった。
 三国がいちどは司馬氏の晋王朝に統一され、そしてまた分裂の兆しが現れたとき、塞外の異民族は大挙して中原へなだれ込み、漢人の文明を蹂躙した。
 いわゆる五胡十六国時代という非漢人主導の歴史を、かれらは百数十年もの間にわたって創り出すのである。
 
 多民族会談に良好な感触を得られたとはいえ、文長の手による「第三次北伐」はまだ目的の全てを果たしていない。
「郭淮は、まだ動かぬか」
 北伐軍の機能の全ては、いまその探査に集中していた。
 魏の雍州刺史郭淮は、清廉で優秀な民政官であるだけでなく、草創の将星なき魏王朝を支える次代の名将で、たとえば蜀漢の魏延文長にあたる。いま郭淮は対蜀軍団の首魁として十万ちかい軍兵を掌握しており、蜀漢首脳にとっては憎んでも憎みきれぬ男であった。
 今回の北伐の最終目的は、その名将郭淮の軍団を地上から消し去る事である。
「先月の大雨によって、魏の雍西および涼州は中央との連絡を寸断されている。郭淮軍を討つ機会があるとすれば、彼らが孤立している今しかない」
 文長は出発の前にも諸将に説明し、その用意を整えている。
 何も考えずに行軍していたように見えて、文長は一定距離ごとに斥候をのこし、もし郭淮軍に動きがあればすぐさま本営へ情報が伝わるようにしている。
「もし郭淮が小智ある勇者ならば、必ずわが軍の突出を奇貨と見、急進して我々を後背より直撃するだろう。もし彼が大智ある名将ならば、我々の退路を断ち、帰還途上を待ちかまえて包囲殲滅を図るに違いない」
 文長は幕将たちに存念をのべた。席上、ふと彼は魏の降将の一人に訊ねた。
「貴様は郭淮と親しく会い、その人物をよく存じておろう。彼はどう動くと思うか」
 そう問われたのは、まだ三十にもならぬかという若武者であった。一見して処女のように線ほそい外貌だが、双眸だけは猛禽の如く研ぎ澄まされている。
 孔明が、地理案内として幕僚に寄越した青年将校で、姓名を姜維。第一次北伐の際、蜀に投降した天水郡の下僚の一人だが、北伐軍の撤収のとき運悪く逃げそびれ、家族と離れ離れになってしまった気の毒な青年である。
 ところが意外なことに、これがいささか桁の外れた戦さ上手で、すぐさま孔明の気に入り、馬謖の代わりとして寵愛を受けることになった。いま、わずか二八歳。
「雍州は必ずや我が軍の後背へ出、邀撃の備えをするに違いありません」
 姜維の返答は簡潔だが、自信と覇気の、双方にみちている。
 文長は軽くうなずいた。
 
               三
 
 ――冀城および南安城より魏軍進発の模様。
 待ちに待った報らせが、帰還途上の文長の元へ届いたのは、十月もおわりの頃であった。
「郭淮が、うごいたか」
 たった今目覚めたばかりで、扈従に髪を結わせていところであったが、すぐさまこれを追っ払い、幕僚をあつめた。
「ようやくである。諸将、かねて申した通りにせよ」
 今朝一番の飛報を披露するや、副将呉懿をはじめ、錚々たる北伐軍団の将星たちは一斉に響動めいた。
「郭淮は、我々の南下にあわせて四万の兵を動員し、隴西まで陣を進めてきている。主力決戦は、隴西の首陽あたりになるだろう」
 まえからの予測通りであった。ただ、ひとつだけ不確定の要素もある。
「少なくとも一月前、長安から一軍が進発しているらしい」
 どうやら例の征蜀軍の一支隊が、先の大雨で帰還の路を閉ざされ、この近辺をうろついているというだが、そちら方面の詳報はまだ届いていないのである。
 
 首陽県の主峰のひとつに、烏鼠(同穴)という山がある。ちかくに、烏と鶏を混ぜたような鳥が棲み、また地に穴をあけて生活する鼠のような小動物が繁殖しているという。その烏鼠山をのぞむ地点に、陽谿という場所があった。広い平野部を、渭水の源流が細々と流れている。
 「第三次北伐」の終幕を飾るべき大会戦は、この陽谿で繰り広げられる。
 文長の指揮する北伐軍団二万余と、郭淮の指揮する対蜀方面軍団主力四万は、二日にわたる前哨戦を経て、やや魏軍優勢のまま文字どおり正面衝突をした。
「蜀の迷い児を、一人たりと生かして還すべからず」 
 先攻したのは魏軍であった。郭淮は、その勇姿を陣頭にさらして猛烈に闘った。
「郭淮の果敢さよ」
 総司令の文長は、孔明に倣って後方で全軍を督しているが、開戦からの敵の勇戦を遠望し、さすがに堪らなくなった。
「前に出る」
 短く云いすてると、あとは副将の呉懿に任せ、自らは漆黒の悍馬を鞭うち最前線へ躍り出た。蜀兵たちは、見慣れた総大将の後姿をみて響動めき、歓声をあげた。
「者ども、死ねや。一歩でも前へ出て死ね」
 文長の怒号は戦場全体に響く。各所で破れかけていた蜀の陣が、この凄まじい叱咤に背中から蹴飛ばさる形となり、彼らは慌てて魏軍を圧しまくった。
「魏延が出た」
 魏軍の方でも、この鬼門に等しい敵将の名が伝播するだけで、動揺し、腰を浮かす者が出始めた。主将の郭淮がいくら、腰をば落とし顎をひけ、と怒鳴っても、なかなか収まりそうになかった。
 ――尤も、一部で動揺がおこっても、魏軍は蜀軍の倍の人数である。
 郭淮は懸命に戦線を建て直しつつ、副将の征蜀護軍戴陵という男に命令した。 
「繞回せよ。我が軍の半ばを敵の後ろへ回し、掌を撃つように前後から挟み撃てば、蜀賊どもは虫螻の如く叩き潰されようぞ」
 この指令は、的確だがわずかに遅かった。文長は、これあるを予測して高所高所を占め、弩兵をあらかじめ配している。郭淮軍から敵の半数ちかくがごっそりと移動を開始したとき、号令一下、空が隠れるほどの箭が放たれ、戴陵隊の腹部へ次々と吸い込まれた。
 戴陵隊は、あわてて郭淮本軍へ逃げ戻った。
 
 文長が、右に左に飛び跳ねつつ連戦し、とうとう敵の戦線の切れ目を発見したのが、激闘二刻余のことである。
 これは退こうとする集団と進もうとする集団の境目のことで、戦陣の中で最も脆弱な部分であった。余程の歴戦の勇者でなくては、まず見切る事は不可能であろう。
「馬将軍、かの丘陵こそが戦さの趨勢を制する。攻め奪り候え」
 短く、鋭い命令が、文長から放たれ騎将馬岱へ届く。陽は、沖天にある。
「――駆けよ」
 令箭を受けるや馬岱は戦斧を引ッ提げ、後続を待たずに先駆けをした。従兄に似て彼は驃悍であり、文長の短い命令の意味を最もよく把握していた。
 馬岱隊がきりもみ状に魏軍中枢へ突入し、これを存分に突き崩したため、中軍は大混乱に陥る。郭淮にすれば、麾下の軍団が思いもよらぬ部分から陣崩れを起こしはじめたので、
(裏切りでもあったのか)
 と狼狽した。
 野戦指揮において、郭淮と文長とでは格が違った。精兵揃いである郭淮軍が、半数にもみたぬ北伐軍に攻めまくられて後退を重ね、潰走に歯止めが利かなくなっている。
 ……このまま戦況が移行していれば、蜀軍の完勝であったろうが、まだ「第三次北伐」には残りの一幕があった。
 
「北東に夥しき旌旗」
 という報は、魏と蜀の、双方へほぼ同時に届けられた。
 何と書かれているか、という同時の問に、これも同時の答が返された。
「魏後将軍費瑶、であります」
 これには、さすがに沈毅な郭淮も蘇生の貌をしたし、蜀の文長は愕然として思わず左右を顧みた。費瑶は、魏の中央軍を指揮する四大将のひとりで、まず凡将ではない。
 この、一月もまえに長安を進発していた費瑶が、二万という北伐軍全軍に匹敵する大部隊を引き連れ、半日遅れで戦場へ到着したのである。
(郭淮め。開戦をやたらと遅らせていたのは、この軍が在ったからか)
 文長は歯軋りすると、全面攻勢の合図を待ち構えている味方へ、
 ――戦線を縮小しつつ後退
 という指令を下した。今は郭淮軍よりも、新手の費瑶軍へ手当せねばならないのである。
 そうなると、勢いづくのは郭淮であった。まだ数の上では、彼らは蜀軍より遥かに多い。「後将軍と呼応し、蜀賊を撃滅する」
 郭淮は叫び、前線へ躍り出た。彼の目前には、逃げ去るように戦場を移動する蜀軍のうしろ姿があった。
 このとき、郭淮が突撃の下知をしていれば、第三次北伐軍は三倍という魏軍に圧し潰されて消滅し、魏延文長という勇将もこの世から消えて無くなっていたにちがいない。
 だが、間もなく郭淮もまた、文長と全く同じ立場に立たされる。
「南方より敵!……旗印は漢丞相諸葛亮とあり、数は約四万」
 孔明が、自身で指揮する軍団であった。
 郭淮はさすがに呆然として振り返り、このとき初めて蜀の壮大な戦略を察知した。
(すべては、この私と私の軍団を封殺する罠であったのか)
 郭淮は、暑いはずの鎧の内側が、急速に冷えるのを感じた。これを恐怖だと云われても、かれは否定しようとは思わないに違いない。
「全軍、反転せよ」 
 郭淮は、孔明と対峙する事を決断した。文長の北伐軍を攻めていては、自らが後背よりえぐり刺されてしまう。
 つまりこの瞬間、費瑶(二万)――文長(二万)、郭淮(三万)――孔明(四万)、という二つの戦線が出来上がってしまったことになる。
  
 結局のところ、この陽谿(首陽)の会戦は、蜀軍のほとんど一方的な勝利で終わった。
 急進してきて疲労の残る費瑶軍に対し、文長は常に先手を取る用兵を心がけ、費瑶は反撃の糸口さえ掴む間もなくその戦列に破綻を見、とうとう老齢の費瑶自身が槍をふるって本営を離脱する程までに破れた。
 もう一方の戦線では、郭淮の執拗な突撃を闘牛士の要領で受け流していた孔明が、無造作に騎兵を繰り出し、郭淮軍の各所を次々と痛撃しているところへ、費瑶を撃破した文長軍が旋回してきたため、郭淮はこれ以上の抗戦を断念した。
「退けよ、退けよ」
 大将の郭淮は、自ら殿となって最後まで戦場に踏みとどまり、百人単位で離脱する魏軍を援護した。蜀軍がこれに喰いつこうとして、かえって撃退されてゆく。
「ああ、郭淮は名将かな」
 滅多に人を誉めぬ文長が、この光景を遠望して慨嘆した。
 ――陽谿の会戦に参加した戦力は、蜀軍六万、魏軍七万余。
 魏にも蜀にも、主だった将帥の損失はないが、魏はその軍兵の二割近くを失い、涼州および雍州における支配力を激減させることになった。蜀軍の損害は、三千に満たない。
 総じて、「第三次北伐」は大成功に終わったといえる。
 
「しかし、長安への路は遠い」
 漢中へ戻り、執務室へ閉じ込もった孔明は、いつもながら深刻に呟いた。
 今回のような、ただ辺境を掠め取る伐り奪り稼ぎはまだ容易だが、成功したところで〝北伐〟の最終目的である「中原克復」には、何ほどの寄与もない。第三次北伐は、ある意味、無駄な努力であるかもしれないのだ。
 軍人――たとえば文長などは、そういう難しい事を考えず、ただ戦場で大捷したことのみ喜び、ひどく上機嫌であった。孔明の肩を叩き、楊儀の肩も叩き、呉懿、馬岱以下の部将たちにも極上の笑顔をふるまいつつ帰還していた。
(やはり魏延は、その程度の男なのだ)
 孔明としては、いささか深刻な苦笑を浮かべざるを得ない。実戦の総責任者たる男がこうでは、後々の事が思いやられるのである。 

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