2009.09.07

魏延の北伐【第八章】 李平

 
               一
 
 第三次北伐後の蜀漢王朝軍の首脳席次は、以下の通りに定まった。
 
   丞相(大将軍) 諸葛亮
   驃騎将軍    李厳   
   車騎将軍    劉琰
   衛将軍     (空席)
   征西大将軍   魏延
   前将軍     袁綝
   左将軍     呉懿
   右将軍     高翔
   後将軍     呉班
  
 ――このあとに綏軍将軍楊儀、揚武将軍鄧芝などという高級軍官僚が続く。
 涼州刺史の魏延文長は、征西大将軍などという漢制にはない将軍位をわざわざ創って貰い、その席に座ることとなった。
 加えて、使持節(官位の低い者を任意に処刑できる皇帝権代行の証)を与えられている。丞相府における役職は前軍師であり、涼州刺史はそのまま。さらに、加封があって、膝元の南鄭県をそのまま知行地として与えられる事になった。南鄭侯である。
 これほどの厚遇、破格などという次元を通り越している。
(丞相は、ひょっとして征西殿を位ぜめにしておいでではないのか)
 当然ながら、そういう噂が立った。
 確かに、ちょっとこの状況は危険である。文長は、孔明が期待したように、
「陽谿で撃ち破った郭淮、費瑶などは、取るに足らぬ小もの。これほどの加増は、過分に存じまする」
 として辞退するべきであった。
 だが文長は、相変わらずの武辺であったから、そういう噂は気にも止めず、わが武勲が大いに評価されたものとして機嫌よく生きている。
 
 第三次北伐の遠征軍が帰還して間もなく、年が明けて建興九年(二三一年)。
 蜀軍ナンバー2の驃騎将軍李厳は、改名して我が名を李平とした。
(どういう思い付きだろう)
 諸将が訝しむのを無視して、李平は悠々と日々の政務を取り仕切っている。
 この年明け早々、孔明は四度目の出兵案を成都宮へ提出した。
 帝は、即座に諒解を与えた。
「今回は、丞相は面白き企みがあると申しておってな」
 劉禅は愉しそうに左右へそれを語った。
「いったい、何をするつもりなのかの」
 成都の皇帝陛下にとっては、孔明、文長らが命を削って書き綴る北伐の報も、退屈紛れの娯楽でしかないようであった。
 ――ところで、孔明がこのたび「面白き」と書き送った企みとは、これが実に画期的な兵站維持方法のことであった。
 〝木牛〟という。
 牛を象った自走式の木製機械であるとか、道術で動くゴレムであるとか、実は屯田を指す言葉だとか、色々な説が今日でも語られているが、いちおう「桟道の幅にあわせて設計された手押し(曳き)の四輪車」というのが定説になってはいる。
 確かにこれならば、人足ひとりひとりが背に担ぐのとは比較にならないほどの効率で、膨大な物資を前線へ送ることができる。
 機械好きの孔明の発案とされるが、夫以上の発明家である黄夫人の製作という説もあり、これまた民間では数え切れない伝説が残されている。
 
 勅許のおりた春二月、孔明は四度目の北伐を敢行した。
 進路は、第一次、第三次で用いた関山道(長安から最も遠いルート)。先鋒は無当監王平と彼の「飛軍」が務め、中軍は丞相諸葛孔明、それに従う主な将帥は征西大将軍魏文長、右将軍高翔、後将軍呉班。全軍で七万余という大陣容である。
 これを向かえ撃つべき対蜀方面軍の総司令曹真は、先の大雨に祟られたのか、癒えぬ病を抱えて洛陽に臥しており、とても軍務に復帰できる状態ではなかった。
「やむをえぬ。大将軍を呼べ」
 若い魏の皇帝曹叡は、荊州戦線の総帥である司馬懿を引き抜き、これを蜀軍と当たらせるという突貫人事を発表した。
 近頃になって放埒な土木事業に凝り、そろそろ生来の英明さに翳が見え始めてきている曹叡だが、その果断さはいまだ衰えを見ない。
 
 司馬懿が洛陽へ呼ばれるより早く、蜀軍の第一波が、魏軍の防衛線を直撃した。
 第一次北伐では蜀軍の本営が置かれた祁山が、孔明の最初の一撃を受ける事になった。「――至急、来援を乞う」
 守将の賈嗣と魏平は早々に悲鳴をあげて、各方面へ救援を要請した。
 孔明はその使者を捕捉せず、敢えて陣を通過させた。
「なるべく多くの敵をこの祁山へひきつけるのだ」
 孔明の発言は、多くの者に意外の感を与えた。
 これまで彼は冷徹な用兵家という印象を持ち続けられてきた。ところが、今回はほとんど好戦的ともいえる猛将の姿勢をとっている。
 とにかく魏軍を決戦に引きずり込まねばならぬ――彼と彼の北伐軍団が最後まで背負う事になるこの重い十字架は、「第四次北伐」の作戦運用にものしかかっていた。
(兵力に遥か劣る我々だ。本来ならば極力戦闘を避けるべきだ)
 これこそ孔明の紛れもない本音であったが、背の十字架がそれを許さない。
(兵站線の維持のためにも、なるべく早く敵と決着をつけねばならぬ。となると、やはり敵主力を野外で捕捉し、これを撃滅する以外に策はない)
 つまり孔明が敵へ野戦を挑むのは、やむをえざる事情があったからである。ところが、
「おれに云わせれば、丞相の策はまだまだ遠い。どうせ野外で闘うならば、正面対峙などと実直な事をせず、正法に奇手を混ぜ、乾坤一擲の勝負を挑むべき」
 と、大声で放言する輩があり、軍中ではむしろそちらを指示する声がたかい。
(……人の苦労もしらずに)
 孔明としては、その放言者――魏延文長――に云いたい事は山ほどある。
 二、三度くらい負けてもよいなら、誰も苦労はしない。云われなくとも魏軍に対し戦略の粋を尽くして闘うだろう。ところが、北伐軍は決して野戦で敗れてはならない。一度の敗北が、即国家の衰亡につながるからであった。
 だからこそ、大いに勝ちは出来ないが決して敗れない戦さを続けているのである。
(その辺を解っておらぬ。やはり魏延は政治を知らぬ)
 一介の足軽頭の放言ならばまだよい。文長はすでに国家の重鎮であり、軍部の最高責任者なのだ。いまや彼の言動の悉くは、それが発せられた瞬間に政治となり、多くの軍吏がそれに振り回される事になる。ところが当の文長は全く気付く様子もなく、
「某はどこそこが悪い、某は心根が爽やかである、某は怯懦である」
 などと足軽時代のように大声で評する。
(――結局は、かれも部将止まりの器であったのだ)
 孔明は沈痛に思わざるをえない。しかし今の蜀漢王朝には、前線に出て大軍を手足の如く動かせる勇将が他に存在しない。
(今は、魏延に頼るしかないのだ)
 孔明はこれら貧相な持ち駒だけで、魏の大陣容に立ち向かわねばならないのだ。
 
 三月。洛陽でながく病身を養っていた大司馬の曹真が、無念のうちに世を去る事になった。諡して、元侯。彼の早すぎる死が、後々に魏王朝の致命傷になるとは、まだ誰も想像していない。
 そして、魏帝曹叡の勅任を蒙った大将軍の司馬仲達が、曹真の訃報とほぼ同時に長安へ入った。十八年後、曹真の縁者をみなごろしにして魏王朝の実権を握る事になるこの男は、無表情に大司馬逝去の報をうけとり、型どおりの哭礼を済ませてさっさと馬上の人となった。
 蜀軍による祁山の包囲は、まだ続いている。
 これは魏平と賈嗣による獅子奮迅の善戦――ではなく単に蜀軍が本気で攻撃していないだけであろう。
(諸葛亮め、魏軍を野戦に誘い出すつもりだな)
 司馬懿はあっさりと孔明の意図を察知した。
 とりあえず冀城の郭淮に対して祁山へ直行するべからずと指令を出し、加えて麾下の後将軍費瑶、征蜀護軍戴陵らに四千の兵を与え、祁山に程近い上?という地点へ向かわせた。
 そこまで手配してようやく、司馬懿は重い腰をあげた。
「長安を守護する軍兵のみ残し、余の軍は悉くわが下知に従うべし」
 と云い放ち、残りの対蜀軍団のほぼ全軍、約十万という大部隊をまるごとひきつれて祁山へ向かうと発表した。
(大げさ過ぎるのではないか)
 と、さすがに剛腹な魏の諸将も思ったらしく、一同を代表して魏王朝の実戦総責任者ともいうべき征西車騎将軍の張郃から、
「蜀の別動隊に備え、さらに雍、?の各地へも兵を手当するべきではないか」
 という案が提出された。
 が、司馬懿は各個撃破の的になる可能性を危惧し、それを退けた。
「だいたい戦争というものは、圧倒的物量を敵へぶつけておれば負けるはずがない。下手に兵力を小分けするから、敵に付け入る隙を与える」
 なんとも面白味のない用兵思想の持ち主であった。
 ――ところが、司馬懿が鉄壁の布陣をもって蜀軍と対峙すべく行動を開始した途端、狙いすましたように、次々と魏軍を足止めする速報が本営へ飛び込み始めた。
 そして、この行軍の遅れが、司馬懿の緻密な用兵を破綻させる事となる。
 
          二
 
 かつて蜀の孔明が、西南夷の渠帥孟獲をみて「南にも俊傑あり」と評したように、遥か東北の果て幽州の塞外にも、一人の英雄がいた。
 鮮卑族の大人(王)で、魏から附義王の称号を与えられている軻比能という男である。
 もともと弱小部族の一戦士に過ぎなかった彼だが、並外れた智勇と威厳に恵まれ、また為人が公明正大であったため、とうとう一方の旗頭に押し立てられ、ついには歩度根や扶羅漢などという大人を放伐して鮮卑の覇者となった。
 孔明は先の「第三次北伐」の際、文長へ勅状を託して西方異民族たちとの交友を求めたが、この北方の鮮卑王軻比能にも、その知らせが届いていたらしい。軻比能は自ら数万里という途方もない遠路を駆けつけ、会盟に応じた。
「面白き話だ。中原のやつばらに一泡吹かせようぞ」
 彼と彼の軍兵は、偶然ながら「第四次北伐」と呼応するような形で万里の長城を越え、そのまま?州を縦断して雍州になだれ込み、北地郡の要害をたちまち蹂躙した。
 長安の、わずか八十里北である。
 
「鮮卑の叛乱だと!?」
 司馬懿は、彼にしては珍しく怒色を露にした。まだ長安を出て二日であった。
 まさか放置しておくわけにはいかず、司馬懿軍十万はここで少なからぬ日数を費やす事になった。司馬懿自身、いちど長安へ戻り防戦を指導する必要が生じたからである。
 対して、孔明の反応は尋常ではなかった。
 北伐軍を圧し潰すべき大軍団が、長安付近で足踏みしているあいだにも、孔明は秘かに本軍を包囲陣から切り離し、静かに、だが素早く祁山を出立した。
(間もなく、司馬懿が先行させた先鋒隊が上?へ到着するころだ)
 孔明は計算をたて、自身、彼らを迎え撃つつもりであった。留守の間、祁山の包囲は王平とかれの飛軍が引き受けることになった。
 ――一方、何も知らずにのこのこやってきた後将軍費瑶と征蜀護軍戴陵の四千の先鋒隊は、目的地である上?に到着し、この地の穀倉地帯を警護するよう命じられている雍州刺史郭淮と合流した。これで、兵力は二万余となった。
 あとは大将軍の到着を待つばかり、と久しぶりに三将は一同に会したことを喜び、陣中に酒を引き出して瓶をひらいた。そして酔談に華を咲かせたはじめた途端、彼らは数にして三倍というおそるべき数の蜀軍に四方から攻撃され、わずか二日で敗走してしまった。
 敗将の郭淮、それに費瑶と戴陵は、混戦のさなか馬を捨て、重い鎧も脱ぎ捨て、どうにか自分たちの命だけは戦場の外へ持ち出す事に成功した。
(どうも最近、逃げに馴れている)
 と、妙に連敗つづきの彼らは互いに肩を擁し合い、七日後にようやく司馬懿の本隊と合流する事ができた。
 司馬懿は、三人から直に報告をうけて、あらためて孔明の意図を確認した。
(やはり野戦の機を狙っている)
 司馬懿は沈思し、やがてなにか妙案を思い付いたようであったが、口には出さず、ただ行軍速度を早めるように命じた。
 
 建興九年(二三一年)四月、西進する司馬懿軍十万は、?のやや東で蜀軍五万余と遭遇した。
 このとき蜀の丞相諸葛孔明は数えで五一歳。
 対する魏の大将軍司馬仲達は五三歳。
 ふたつの巨星が戦場で相見えるのは、この上?での遭遇戦が最初であった。
(……双方とも、どれほどの用兵を繰り出すのか)
 と、魏蜀の将兵は固唾を呑んで上?の戦野を見守った。
 ところがこの歴史的な二将の邂逅は、甚だおもしろくない展開となった。
 司馬懿は、全軍を停止させると、その場で塹壕を掘って閉じ込もってしまったのである。
 
(やられた。――)
 孔明は、両腿を掌底で力一杯に打った。
(おそるべし、司馬懿)
 敵を目の前に見、その敵に三倍する兵力を擁し、しかも勅任を蒙った身でありながら、全軍を穴篭もりさせるという。この不気味さが、司馬懿という男の将器であろう。
 孔明は、すぐに文長、楊儀の両名をよびよせた。
「この陣をひきはらって祁山へ戻る。すぐさま用意せよ」
 唐突な命令に、さすがに文長は驚いた。
「敵が目前にいる。丞相は、彼らを動かぬ人形とお思いか」
「動かぬ人形だ」
 孔明は即座に断言した。
「司馬懿は、間違いなく我々の意図を看破している。つまり敵からは野戦を仕掛けてこない。それを逆用して、こちらは無傷で祁山の盪寇(王平)と合流できる」
「司馬懿が我々の撤退を見逃すと」
「そうだ」
 孔明はそれだけ伝えると、今度は楊儀を顧みた。
「?の麦はどれほど刈れたか」
「六万四千斛です。七万の兵が喰ったとして、まず半月分はございましょう。これだけ刈り散らせば、もはや魏に殆ど残りますまい」
 文長は鼻を鳴らした。ふたりのしみったれた会話を嗤ったのである。
 孔明と楊儀は、素早く視線を交わしたようであった。それがまた、文長の気に入らない。
(嫌な奴らだ)
 とふと思ったが、形は恭しく頭をさげて本営を出た。
 
 蜀軍は、あざやかに撤収した。
 司馬懿が山間に設けた塞から顔を出して確認したところ、確かに蜀軍の先鋒が野営していた場所が、その痕跡すらとどめぬ平野に戻っていた。
 諸将は一斉に哄笑した。
「蜀賊め、わが大軍に恐れをなして逃げたのだ。大将軍、急進して奴らを撃ちましょうぞ」
 という声が沸き起こった。だが司馬懿はそれを無視し、せわしなく斥候を放ち、蜀軍の撤退速度を計算しつつ、ゆっくりと後を追いはじめた。
(大将軍は慎重すぎる)
 鹵城に到達する頃には、さすがに軍中うんざりするような空気が流れ、またしても老将の張郃が馬を寄せ、
「これ以上は追う必要は無いのではありませんかな」
 と進言したが、司馬懿は頭をふり、まあもう少しついてゆきましょう、と至極中途半端に応え、さらに軍を進めた。
 そして蜀軍の祁山包囲陣の直前まで到達するや、またまた塹壕を掘って全軍で篭もってしまった。
 
「なんという嫌な敵なのだ」
 報告をうけ、文長は思わず怒鳴った。戦場に疾駆して三十年。これまで曹操や周瑜などという歴史的な名将の陣立てを間近で見聞してきた彼だが、いまでかつて、これほど奇妙な兵の用い方をする将など見たことがない。
 後世、老獪な狸親父という印象しか残さない司馬懿だが、元々かれは孔明と直接対峙するこの「第四次北伐」までは、むしろ速戦速攻を得意とする猛将として知られていた。その一撃離脱は壮年期の太祖曹操をも彷彿とさせる程あざやかなもので、例えば先の叛将孟達などは悲鳴を上げる暇もなく血祭にあげられている。
 それほどの勇者が、いまはひたすら穴に篭もって、どのような挑発にも乗らない。
 文長には到底、理解できそうになかった。
 
 ところが当の司馬懿もまた、その新し過ぎる用兵によって窮地にあった。
 敵ばかりか味方が、彼を理解できないのである。つい最近に赴任してきた彼は、先の曹真ほどの絶対的な支持を得ていなかった。
 魏平や賈栩という部将は、新任の司馬懿を臆病ときめつけた。
 ある軍議の席などでは、司馬懿が気色を面に出さぬのを見くびり、
「公が蜀を畏れること虎の如し。天下の嗤いをば、如何にせむ」
 とまで暴言を吐いた。
 さすがに、これには司馬懿といえど蒼白になり、心中、
(勝手にせよ)
 と吐きすてた。これが五月の旦の出来事である。
 なおも諸将の突き上げは続き、司馬懿は彼らを抑え続ける事により諸将の心が離反する事を畏れた。もはや、一戦は避けられそうもない。
(要するに負けねばよい。おれに野戦の後れがあろうものか)
 消極策を捨てた瞬間、司馬懿の心は幾分か楽になった。もともと、かれは野戦指揮官として一流の域にあり、しかも兵数は敵を圧倒するに足る。
 司馬懿は張郃、郭淮、費瑶、戴陵ら幕将を呼び、
 きたる五月の辛巳(十日)をもって蜀軍への攻勢をあきらかにする――と伝えた。
 
 いよいよ、孔明と仲達がそれぞれの能力の限りを尽くし、正面から激突する事になった。
 ――この五月十日におこなわれた決戦の模様は、なかなか克明に記録されている。
 先攻したのは司馬懿であった。
 孔明の本陣を迂回させる形で、王平が包囲する南方の祁山へ、いきなり最強の手駒である張郃軍をさしむけた。兵力は三万余。
 孔明は早速、決断を迫られた。――王平を救うべきか否か?
 意外にも、かれは祁山の王平を援けなかった。
(飛軍の精強と無当監の武勇があれば)
 という孔明の決断は、このとき吉と出た。王平は敵将張郃と聞き、むしろ勇躍して防戦に努め、内に祁山を攻め、外に張郃を防ぐという見事な采配を揮ってのけた。
 張郃が、やたら奇声をあげて跳ねまわる蛮兵を攻めあぐねている間にも、司馬懿は七万という北伐軍団全軍に匹敵する大兵力を前進させ、戦線を圧迫しはじめた。
「迎撃せよ」
 孔明が羽扇を揮い、地を這うように迫り来る魏軍へ攻撃を加えたのは、開戦後、四刻あまりのことである。
 
               三
 
 このとき孔明の本軍を直衛するのは、文長と呉班の指揮する精兵五万余であった。うち、二万は負け知らずの漢中軍団で、これは文長が軍団長時代から十年がかりで鍛え上げてきた猛者ぞろいである。
(司馬懿、なにもの) 
 文長は野戦攻城で成り上がった生粋の職業武人である。司馬懿や孔明のような、士大夫あがりの儒将とちがい、血飛沫く戦場を疾駆し、肉薄する敵兵の胸板に槍を突きとおす瞬間を、生涯で最も尊貴なときであると心の底から思っていた。
 彼は詩を詠まず、詩を解すほどの典雅な教養を持たないが、心根はやさしい。槍を一度ふるうたび、敵と己の人生の航路が一瞬で交錯する刹那をくぐるたび、叫びだしたいような感傷をおぼえる。
(この気持ちを、貴様らに理解できるか)
 孔明、楊儀の徒の顔を思い浮かべるたびに、文長はこう怒鳴りたくなる。
 政治の延長線上に戦争をおくインテリとちがい、文長は戦闘という殺人行為の堆積を戦争と呼んだ。そこには透き通るほどきれいな生命が無数に息づき、一瞬ごとにそれらの幾つかが散ってゆく。それが文長が生涯過ごしてきた戦場の姿であった。
「鼓手は鼓を勇壮に鳴らせや。兵ども、おれの背をみて戦い、死ね」
 文長は物騒がしく叫びながら、わずかな旗本とともに敵の戦列へ突っ込み、一方へ没したかと思うと、すぐさまそこを蹂躙し尽くして他方へ現れた。
「敵将魏延の武勇の凄まじさよ」
 魏の将兵は、彼いっぴきの勇猛に圧倒される形で足踏みし、後続の部隊に背を圧されて混乱をはじめた。司馬懿麾下の部将たちが退勢を覆すべく必死で怒鳴っている。
 文長と呉班はその隙を見逃さず、次々と騎兵を繰り出して戦線を痛撃する……。
 
 予備戦力の高翔隊が動きだしたのは、戦闘の終了も近い黄昏時であった。攻め拗れると夜戦になると踏み、司馬懿が本営をわずかに前線へ移した瞬間に、高翔は動いた。
 数はわずかに五千余であったが、この軽騎集団の投入が戦闘の行方を決定づけた。
 北伐軍の勇猛さに辟易していた司馬懿軍の将兵は、新戦力の出現に驚いて勝手に後退をはじめ、これが手のつけられない大潰走のきっかけとなった。
「今こそ」
 と、孔明は総攻撃の鼓を打ち鳴らし、壊乱を始めた司馬懿軍の背を滅多斬りに斬りつけ、この追撃戦だけでも、これまでの丸一日分の戦闘を上回る戦果を得た。
 司馬懿本軍の後退をうけ、祁山の王平を逆包囲していた張郃は、今一歩というところで兵を退かねばならなくなった。このまま祁山に留まれば、孔明軍に後背を衝かれてしまう。
 
 北伐軍は、勝った。
 記録によると、この日の戦闘で蜀軍は三〇〇〇の兜首と、五〇〇〇領の黒金の鎧を得、戦場に遺棄された三一〇〇張の弩を分捕ったという。
 逃げ戻った司馬懿軍は今度こそ本気で塹壕にもぐり込み、蜀軍の退散を神霊へ祈る事になった。数の上ではまだ遥かに魏軍が優勢なのだが、司馬懿は金輪際、野戦をするつもりはなかった。
 ……やがて塹壕戦を再開してから十日が過ぎるころ、祁山の神霊がその霊験を顕したのか、蜀軍は突如として撤収を開始する。
 さすがに今度ばかりは、背後を衝きましょうという声はなく、皆、呆然としていた。
(また罠だろうか)
 と諸将は顔を見合わせたが、今回は意外な人物から、追撃するべしと声があがった。
 他ならぬ大将軍司馬仲達である。これにはみな驚き、こんどは張郃のほうが、
「諸葛亮の事だ、必ず罠をしかけている。兵法にも、帰帥ハ逐ワズ――とありますが」
 と念をおしてみた。司馬懿は難しい顔で首をふり、
「追うべきである」
 と命じた。
 
 この混乱の中の一連の流れから、やはり数日後におこる珍事件は、司馬懿の巧妙なトリックではないかという説がいまだ強い。
 ……天水郡西県の一街道に、巨星が墜ちたのだ。
 司馬懿の強引で不可解な命令に首をかしげつつ、蜀軍の後を急追した征西車騎将軍、?侯の張郃儁郃は、五千の鉄騎を率いて木門という隘路を通過した瞬間、蜀軍の伏兵による一斉射撃を真上から浴びた。
 張郃は瞬時に、己の死命を察した。素早く円陣を組む旗本たちを、張郃は散らせた。
「落ちよ、一人でも多く落ち延びよ」
 飛箭を切り払いながら、張郃は声を限りに叫ぶ。瞬間、この老将軍の右大腿に、ふたつの貫通創が穿たれた。鋭い鏃は、動脈の集束部を瞬時に突き破った。
 鮮血を吹き上げ、張郃は落馬した。矢はなお天を覆おうばかりの激しさで降り注ぐ。
「張将軍!」
 旗本たちは、全身に矢を立てながらも、敬愛する主将の身体をかばおうとし、相前後して彼の身辺へ斃れた。
(……儂に構うな、逃げよ)
 張郃の声はついに声にならず、彼が再び立ち上がる事はなかった。
  
 張郃の戦死が確認されたのは、蜀の伏兵部隊が引きあげてから半日以上後の事であった。
 遺体を最初に発見したのは魏軍の後続部隊である。木門に伏兵していた当の蜀軍連弩部隊は、まさか自分たちが射殺した大将が他ならぬ張郃であったなどとは、想像もしなかったであろう。
 第一次北伐のときに馬謖を破り、以後、諸葛孔明の最大の宿敵であった名将張郃は、あまりにもあっけなく、誰の物ともわからぬ矢によって戦死を遂げた。
 「第四次北伐」の最大の戦果は、この張郃射殺であったかもしれない。
 
 ……ところで、なぜ緒戦から勝ち続けていた蜀軍が急に撤収してしまったのか。
 理由は漢中から届けられた一通の書簡である。使者は、留府の次官をつとめる参軍の弧忠(馬忠?)と督軍の成藩であった。
「長雨により補給路に損傷あり。これ以上の兵站維持は不可能と判断する」
 驃騎将軍李平の簡潔な文書が、孔明に決断を促した。
(是非もなし……!)
 孔明は唇を噛み、その手紙を凝と睨んだ。
「遠路、ご苦労だった」
 孔明は両特使を労うと、ただちに「第四次北伐」作戦の中止を決定した。
 孔明は主だった将帥に、緊急撤退の必要を説明する。
「勝ち続けて、またしても退くのか」
 と、足刷りして無念を叫ぶ者がほとんどであった。文長もその一人で、
「輜重方の責任者を馘って全軍へ侘びをいれるべきだ」
 とまで怒鳴り、それを聞いた軍官僚たちと、またもや抜剣騒ぎにまでなりかけた。
 動揺は兵にも伝わり、
「勝っているじゃありませんか」
 と、連名して撤退に反対する兵卒たちまでいた。
 それほどまでに高騰している士気を敢えてねじ伏せ、孔明は撤収せねばならない。
「必ず此処へ戻ってくる」
 と、孔明は全将兵に誓いをたてて、自ら範を示して踵をかえし、最初の一歩目を踏む。
 その翻る視界の端に、最後の瞬間に映った光景が、孔明が見る生涯最後の祁山であった。
 
 蜀軍は、撤退した。
 そのとき、帰途で万が一にも魏軍の追撃にあわぬよう伏兵が残された。彼らは孔明考案であるという連弩(多射式の弩)を持たされている。まさか彼らが、魏王朝軍のナンバー2である張郃を射殺して帰ってくるとは、孔明もこのとき予想していなかった。
 王平と飛軍を前衛に、文長と漢中軍団を殿軍にして、北伐軍は延々と関山道を逆進し、蜀領に到着したのは秋もちかい七月の初旬である。
 ――ところが漢中は、孔明も想像できないような事態に陥っていた。
 国軍最高責任者である李平によって、孔明の撤退は不審扱いされているようなのである。
「そんな莫迦な話があるかッ!」
 孔明は、激怒して佩剣を抜き、凄まじい刃風を起こして虚空を斬った。
 内へ篭もりに篭もったストレスがついに爆発したのだろう。彼がこれほど怒色を面に出したのは、このときが始めてであるかもしれない。
 あわてて駆けつけた王平や楊儀ら参軍は、孔明を必死に宥めた。
「廟堂はどういう状況になっている」
 楊儀は、成都から呼び戻した手の者に子細を訊ねた。
 ……それによると、李平は「連勝中の北伐軍が戻ってくるのは訝しい」と、左右に伝えているという。さらに朝廷へは「孔明の帰還は、魏軍を引き付けて撃ち破るための罠でございます」と上奏しているという。
 楊儀はあきれて呟いた。
「補給の失敗の件がひとこともないではないか」
「驃騎将軍は、自らの殖産事業と兵站維持の失敗を、全て丞相の咎に転じようとお考えのようでございます」
 そこまで聞いて孔明は、ようやく精神的な余裕を取り戻した。
「小物だ、李平は」
 李平の目的は、むろん孔明の権威失墜にあるのだろう。孔明が掌握している実権を少しずつ朝廷に返上させ、それらを自分が貰いうける。その手筈を整えるには、まず国内における孔明の絶対的な信用を、ほんのわずかでも揺るがす必要があった。
(余を躍らせるつもりであろうが、そうはゆかぬ)
 とにかく漢中へ戻り、さらに成都宮の皇帝の御前で、改めて李平と対決せねばならない。

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