ご先祖、子孫を探れ(趙雲と東儀家)
ご先祖・子孫を探れ
三国志と言えば、なんだかそれ自体が強烈な世界観を持ち、ついついほかの中国史と切り離して考えてしまいがちです。
が! 作中に登場する有象無象を含めた人々の中には、意外な人物を祖とするビックリさんが数多くいらっしゃいます。
その中の僅かな例を見るだけでも、「三国志」が閉鎖された物語などではなく、連続する歴史の中のひとコマだということ改めて認識させてくれます。
…というわけで、以前三国迷の掲示板において大型スレッドを形成することになった「ご先祖・子孫を捜せ」ネタを、ざっと整理してみました。
意外!趙雲子龍の真実!?
さて、まずは蜀漢王朝の誇る戦師、趙雲を検討してみましょう。
趙雲、字は子龍。冀州は常山郡の、真定県出身です。
蜀志趙雲伝を見る限り、趙雲の先祖に関する記述は無さげですが、わずかに「郡に推挙され」「義勇兵を率いて」という箇所があります。
――このことから、まず文字が読めて吏能があり、孝道にすぐれ、そして若者の間で人望があった、というくらいの像が推察できます。
彼の実家は、たとえば劉備と同じような旧家であったかもしれません。
というのも、このあたりはかつて趙と呼ばれる侯国の領地だったのです。国君の血筋は時代が移ると国号を氏にすることが多く、趙の国の趙氏といえば、マンマ趙君の末裔である可能性が高いのです(左平(仮名)様の投稿より)。
むろん冀州の趙氏のなかには趙君の血族が多く、逆にゆかりのない者でも子孫を詐称していたことでしょう。 ですからまあ、劉備の「中山靖王」というのと同じレベルの話ですが…。
趙君の一族といえば、宮城谷先生の『孟夏の太陽』に詳しいですが、かなりバリエーション豊かと言えます。
有名どころでは、中国人として初めて胡服騎射を導入した武霊王・趙雍。七代ほど遡って、刺客・豫譲に狙われ続けた趙無恤(襄子)。さらに七代遡ると、家祖の趙衰に至ります。
ちなみに趙衰は、晋の文公・重耳とともに中国全土を転々と流浪した人物で、晋の世襲宰相家である趙氏の基になった傑人です。
さらにさらに、遡りましょう。
趙、というのは「氏」であり、彼らの「姓」は本来「」なのです。
といえば、商(殷)王朝最後の王・紂に仕えた怪力宰相・
来(あるいは
革?)がいます!彼の場合、「悪来」という通り名の方が有名ですね。
彼の父・廉は信じられないほどの早さで全国を巡邏したことから、「飛廉」ともいわれます。もともと秦の国主でありながら、奴隷に凋落し、紂王に拾われて巡察使になり、最後は宰相格にまで昇り、殷滅亡後も太公望と戦い続けた不思議な人物です(死後、趙公明という財神のモデルにもなっています)。
で、趙家は、この飛廉の三男・季勝を祖とするそうです(悪来は次男)。「趙」、とは「飛ぶ」という意味で、言うまでもなく飛廉の飛をいただいているようです。――もっとも、周の五代目穆王のころ、武功をあげた造父が趙城を与えられたため趙氏を名乗った、という説のほうが本当っぽいです。(左平様の投稿より)
さらに!さらにさらにさらに遡りましょう!
そもそもこの姓は、遙か神話の時代(!?)、黄帝の長男玄囂の直系(玄囂の甥である帝
の末裔とも)大費にまでたどり着きます!
かれは帝禹の治水に協力した功績で、姓を与えられたらしいのです!
ちなみにこの大費という人物、氏のほかにのちの費氏の祖になっていたりもします。費氏は、夏王朝のころから伯(地方の王)に任じられるほどの門閥になっていたとか。商王朝の名臣・費昌などもこの血筋です。
氏のほうも雄藩として秦一帯を支配していたようですが、例の飛廉の代に、異民族によって滅ぼされています。
……想像を絶するぶっ飛び方ではありますが、以上、趙雲のご先祖を限界まで追ってみました(;^_^A
ところで「趙雲」とは、「飛翔する雲」を意味していたわけですね~。字の「子龍」もダテではなかったわけです。
さて、ここでちょっと寄り道です。例の悪来ですが、実は子孫がいます。
この子孫(悪来の六世・非子)が周王朝によって秦の地を与えられ、中華最強の強国をつくりあげ、ついには始皇帝という怪物を産み出す事になるのです!(まあ、実は宰相呂不韋の胤ともいわれますが)
周王朝に致命傷を与えたのが始皇帝の先代、荘襄王であった事を考えますと、飛廉の怨念のすさまじさがうかがえます。
さておき、この飛廉━悪来…非子…政(始皇帝)とつづく秦の末裔ですが、その一部は中国を脱出し、日本にまでやってきているといわれます!
古代日本に大量に流れてきたという移民団――いわゆる渡来人――の大姓のひとつ「秦(はた)氏」が、実は始皇帝や秦王室の血を引いているというのです。
この秦氏は日本の朝廷に貴賓として遇され、医学や耕地法、建築技術などを伝導したらしいのですが、その一派は今日でも雅楽の宗家として残っています。
1300年間、宮内雅楽を世襲してきた東儀家が、ズバリそうなのです!
この東儀家の現当主・東儀秀樹氏は、アルバム「トーギズム」などを次々と発表し、雅楽界にあたらしい風を巻き起こしておられます。
さらに、秦氏の末裔は他にも分岐。なんでも能俊(よしとし)という人物がいて鎌倉期に地頭として土佐国長岡郡曾我部に赴任。その直系の子孫に土佐の英雄・長曾我部元親がいる、ということです。
さらに秦氏!
なんと、これまた左平(仮名)様の情報によりますと、平安京に遷都した桓武天皇の母親が、秦子の出であったというのです!桓武以後、天皇家は今上まで75代、いちども逸脱がありません。
つまり、現在の皇室ファミリーはみんな秦氏の血脈!
なんだか凄いことになってきました(;^_^A
凄いついでに、オマケ。
秦という名字は、後に羽田に変化したといいます。
そう、細川サンの後を継いだ羽田孜元総理もまた、ただしく黄帝の子孫であった――ということです…。
ついでのついでですが、私なりに秦氏を調べたところ、けっこうたくさんの人が「秦氏=ユダヤ人」説を唱えてらっしゃいました。日本史に記されている数多くの政変も、今日の政治経済の混迷も、すべては秦氏=ユダヤ人の陰謀らしいです。ふ~ん。
当サイト一周年を記念いたしまして、真・楚漢軍談のおばら様が超国家・超世紀家系図(;^_^Aを送って下さいました~!!
凄い大作……!是非とも参考にして下さい!
さて、最後にまたしてもおばら様より貴重な情報が!(お世話になり過ぎ(;^_^A)
実は常山真定県出身の人物に、趙陀という歴史的な英雄がいるというのです!彼が活躍したのは三国志を遡ること約350年ほどの昔、項羽と劉邦の時代です。
趙陀は、秦の役人として超々ド辺境である南越方面(香港とかマカオのある場所)の県令に赴任。ところがイロイロありまして、項羽と劉邦が争っている間に、気が付けば広大な南海の大酋長になっていたという、数奇な運命をたどっています(詳しくはおばら様の真・楚漢軍談にて)。趙陀は漢王朝の外藩国として南越王を許され、一時は南越王朝の皇帝になったことも。
王国自体は、内紛と漢王朝の介入により100年ほどで滅亡しましたが、趙氏は存続を許されています。
――むろん趙雲がこの南越の武帝・趙陀の直系であるハズはありませんが、とにかく真定の趙氏として、同じ廟を祀る同族であった可能性はかなり高いと思います。
結論!
趙雲のご先祖様は、趙の王家の人間かもしれない!
だとすれば、開祖は殷王朝の飛廉かもしれない!
だとすれば、黄帝の血脈かもしれない!
だとすれば、秦の始皇帝と同じ血が流れているかもしれない!
だとすれば、長曾我部家と同じ血が流れているかもしれない!
だとすると、東儀秀樹氏は趙雲とおなじ血が流れている!
ついでに、天皇ファミリーも羽田元首相も同じ血が流れている!
ということになります(;^_^A
(2001.8記)