他の客も酔いが回ってきた頃に、わりとよく来る孫ぽこが入ってきた。最近、肉体に衰えを感じると嘆いているらしい。ポン引きは私にグアバジュースを注文してこう言った。 |
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ポン引き 孫ぽこ
「おひそです。劉ヨウ伝を書いているうちに不思議な事にぶちあたりまして、カキコさせてもらうことにしました。ぜひ玉川さん・ぐっこさん・松竹梅さんなど三国迷の大御所様たちのご意見を伺いたくm(_)mペコリ。
というのは、【劉ヨウの揚州刺史赴任当時の豫州太守は誰か?】です。
まず、華[音欠]は馬日テイにより豫州太守に任命されており、馬日テイが、諸国を放浪し、徐州に行ったときに華[音欠]を豫章太守として任命しており、ほぼ孫策が懐義校尉に任命された時期、つまり193年~194年の頃と思われます。
ところが、豫章太守には、【諸葛亮伝】【劉ヨウ伝】などで、劉表が指名した諸葛玄と漢の任命した朱晧の間で紛争が起こり、諸葛玄が豫章太守の座を追われ、劉表の元に落ち延びた事、さらに朱晧は、劉ヨウが孫策に敗れ、豫章に落ち延びるまで、太守として存在し、サク融によって討されています。
???時期的に華[音欠]の豫章太守赴任と朱晧の豫章太守任命が重なってませんか??
孫ぽこ的解釈では、華[音欠]の赴任した豫章は長江流域で、朱晧の赴任した豫章は南部・後の廬陵郡あたりではないかという気がするのですが・・・・ご意見求めます!!」
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孫ぽこは何が面白かったのか、自分の話で爆笑していた・・・・・。 |
あたり障りがないように私はこう答えた。 |
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マスター ぐっこ 2001年10月20日土曜日 01時38分
「お、大御所なんてとんでもないです!とくに呉については素人同然です…。
というわけで、勉強がてら調べてみることに。
う~~~~ん!!!
た、確かに重なってますよね…。
うーーーーん。とりあえず、華[音欠]の太守の時期ですが…。
読めば読むほど矛盾点が出てくる出てくる(;^_^A
ええと、先に言いますけど、はっきりと結論は出ませんでした!だから、解ったことだけ以下に書きますよ~!
■彼が太守に任命されたパターン。
「馬日テイ(朝廷)説」……華[音欠]伝
「劉ヨウ説」…………………同註・江表伝
■太史慈伝では、豫章太守華キンが、死んだ劉ヨウの息子を手元に引き取り、孫策を迎え入れるかどうか悩んでいる、という記述が。華キン伝にある、「劉ヨウの死後、彼の軍民たちが華キンを慕い、君主に仰ぎたがった。だが彼はそれを断った」というのが、ちょうどそのあたりかもしれません。
■太史慈は、これから間もなく孫策の命を受けてハ陽・豫章・廬陵を偵察。この記述から、いちおう華キンの勢力はこの三郡に及んでいたと思われますが、実情としては
「華キンはなるほど立派な名士だが、廬陵は勝手に独立し、ハ陽は民衆達が華キンの任命した役人を追い出している。そしてすぐ近くの海昏でさえ彼に従わない」
…とあります。
まあ、とりあえず華キンは豫章の郡治・南昌にいたことは間違いなさそうです(海昏の隣だから)。
で、この太史慈の報告を受けて、孫策は豫章接収を決意。最終的には虞翻を使者にして華キンを降伏させてます。
■諸葛亮伝を見てみますと、やっぱり諸葛玄は南昌に赴任。その後朱晧、サク融も南昌に太守として君臨。サク融を斃した劉ヨウも、おそらくは南昌に滞在。
その劉ヨウの息子を、同じ南昌城で華キンが引き取り、太守として孫策と対峙。」
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とにかく、ここは一旦相手を落ち着かせなければならない。 |
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マスター ぐっこ 2001年10月20日土曜日 01時51分
「……こう見てみると、諸葛玄やら何やらの騒ぎが収まった後、後援者・劉ヨウによって名実ともに豫章太守に任命された、とするのが道理かもしれません…。彼が単身ではるばる徐州から豫章まで直行したとは思えんないからです。
劉ヨウは孫策に追われて豫章付近まで敗走→すると豫章を巡り諸葛玄と朱晧が対立中→劉ヨウはサク融を派遣して朱晧を援護→だがサク融が朱晧を殺して自立→キレた劉ヨウはサク融を逐い豫章入り→そこに馬日テイが任命したという豫章太守華キンが随行→劉ヨウが州牧の権限で太守職に任命→劉ヨウ病死……。
中央では、華キンをいちど太守に任命したものの、すぐさま現地に近い朱晧を任命し直した…ということでしょうか?何しろ李カク・郭汜のやることですし、馬日テイらが宣撫のために任命権を持って地方巡業(;^_^Aしてた時代ですから…。
なんだか頼りない結論になってしまいました(;^_^A 引き続きどなたか詳しい方、ご教授お待ちしてますm(_ _)m」
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黒竜が変なことを言い出した。・・・・職業不明らしい言葉だ。 |
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職業不明 黒竜 2001年10月22日月曜日 22時33分
「この三人って任命元がそれぞれ違うんじゃないでしょうか。
華[音欠]→朝廷(馬日テイ)
朱晧→朝廷(長安)
諸葛玄→劉表(袁術?)という感じで…
馬日テイが徐州に赴いたというのが陶謙を徐州牧・栗陽侯に封じるため
と仮定すると193年。
ほぼ同時期、朱晧の親父の朱儁が長安政権に帰参して太尉録尚書事に任命されてます。
懐柔のために息子を取り立てるのは充分ありうると思います。
あるいは華キンのそれは周術の死による臨時の任命で正式なものではなかったのではないでしょうか。
後漢書にも馬日テイの足どりがはっきり書かれてないので(馬融伝にも名前しか…泣)想像の域を出ませんが…」
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玉川雄一という金貸しが話に入ってきた。こういうところは抜け目がない。 |
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金貸し 玉川雄一 2001年10月22日月曜日 22時39分
「私はソースが三国志しかありませんのでお力添えできないのが恐縮ですが…
朱晧って朱儁の子供だったんですか! 初めて知りました。
後漢書辺りに載っているのでしょうか…」
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孫ぽこはこうも言った。 |
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ポン引き 孫ぽこ 2001年10月23日火曜日 00時43分
「w( ̄o ̄)w オオー!大御所の皆様ありがとうございます。
なるほどねー。やはり中央の混乱により朝廷の指名した朱晧と馬日テイの指名した華[音欠]が重なったとみてよいのかもしれませんね。
となると華[音欠]が豫章にいたと言っても実権はほとんどなかったという太史慈の報告を考えても、華[音欠]が実際に赴任したのは指名よりかなり後、実は朱晧がサク融に殺されてから・・とみていいかもですね。
そうなると劉[月缶系]は丹楊を孫策に追われてからかなり長い間豫章で勢力を保っていたのでしょうか?
うーん^^;このあたりよくわかりませんね^^;」
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私は前にもした話をもう一度繰り返した。 |
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マスター ぐっこ 2001年10月24日水曜日 01時17分
「黒竜様、アドバイスありがとうございます~!
私も玉川様と同じく、朱儁と朱晧の関係を知りませんでした…。
というわけで朱儁伝を見てみると、おお、最後の方に「子の晧、亦た才行有り。官豫章太守に至る」と一行だけ記述が! ううむ! 全く気づきませんでした! 「資料は持ってるだけじゃダメ」の良いお手本です(;^_^A
劉ヨウは、仮にも揚州の牧ですから、それなりの勢力を保ったまま闘争した様子。華キンも「私は劉牧殿に豫章太守を任され…」と述懐してますから、いちおう勢力が及ぶ範囲内では君主だったようですね~。
豫章、それも郡治の南昌県に関しては、最後まで領有してたのでしょう。」
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カウンターの隅で飲んでいたMOSが天井を見ながらつぶやいた。 |
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ヒモ MOS 2001年10月26日金曜日 15時11分
「ちょっと興味深い人物を発見。。
朱儁は会稽郡上虞県が本籍の人物(孫堅伝参照)ですが、孫亮の時代に朱育という人物がいたそうです(虞翻伝参照)。そして、彼も会稽郡の出身です。ただし、朱育は上虞県の隣の山陰県なのですが(^^ゞ
この場合って、同族である可能性ってあるんでしょうかねぇ?? 呉郡の朱子とは別であるのは分かるのですが。。。
ちなみに、朱育は朱儁の事を『朱公』と呼んでいたようです。」
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明らかに他の客の迷惑になりそうだったので、私はこう言った。 |
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マスター ぐっこ 2001年10月26日金曜日 21時53分
「なんと!? 朱育!? というわけで調査。…なるほどお、会稽山陰の出身で、学者肌の人物だった様子。人を巧みに評する事で有名だが、その人物評の中には「朱公(朱儁)は神の如き武勇を持ち…」という具合に朱儁をきわめて高く評価している、と…。
確かに、地理的に言っても、朱儁と関係ある人物かも。朱儁伝見るかぎり、彼も相当の苦労をして這い上がってますし、「同郷同族の英雄」という目で見られていたんでしょうね~。」 |
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