店も繁雑な賑わいを見せる頃、また飽きもせずに玉川雄一がやってきた。何をして生活してるんだろう?自分の人生でさえも脇役を演じている、そういうタイプだ。玉川雄一はカウンターの上にあったタイムズを明読し始めた。 |
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時代遅れ 玉川雄一
「 ■刺史奮迅・活動の第一歩■
はい、皆様からのご意見を伺いたいと思いまして。 以前ここで書きましたが、温恢が揚州刺史になった時期についてです。 どうも私は、劉馥の死後すぐ、ではないような気がするのですが… 蒼天航路は、アレはアレでいい話に仕上がっているので良しとします。
私の解釈を再録しますと…
【温恢伝】 「中央に入って丞相主簿となり、外に出て揚州の刺史となった。(中略) 当時蒋済は[太祖に]目通りして丹陽の太守となっていた。そこで蒋済を[出身の]州に帰した」
ポイントは、「蒋済が丹楊太守になった時期」です。
【蒋済伝】 「建安13年(208)、孫権が軍勢を率いて合肥を包囲した。(中略) (孫権は)急遽包囲の陣営を焼き払って逃走し、城はお陰で無事にすんだ。翌年、使者として[言焦]に出向いた蒋済に太祖は質問した」「(中略)のちに蒋済が使者として[業β]に行ったとき、太祖は出迎え、会うと大笑いして言った。(中略)蒋済を丹楊の太守に任命した。大軍が南征して帰還のおり、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を[州の]別賀に任命した」
蒋済が209年に[言焦]に出向いたというのは、この年の曹操の行動と重なります。 春3月~[言焦]~秋7月~合肥~12月に[言焦]に帰還 この春か冬のどちらかの時に曹操と会った事になります。 次の、[業β]での会話ですが…210、211年の間の可能性もあります。銅雀台の建設を命じたということは、あるいは[業β]にいたのでしょうか。 曹操は211年後半~212年春に末に関西で馬超と戦い、212年3月に再び[業β]に帰還、続いて合肥へと出陣しています。この時は濡須口まで進出し、翌年春までかかりました。
つまり、温恢の揚州刺史就任の契機となった南征は、209年のものではないと考えるのです。おそらく次の212年の際であり、そして南征からの帰還時ということを考えれば、温恢の揚州刺史就任は213年春にまでずれ込むことになります。
以上のようになりますが、皆様のご意見も伺いたいと思います。」 |
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何を語っても冴えないゲイだ。 |
むかし旅の占い師がこんなことを言っていた・・・・。 |
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ポン引き もす 2002年03月14日木曜日 04時15分
「ふむぅ、、4時間ほど虱潰しに調べていたら、、最初同意方向だったのが、、トンでもない(?)方向に・・・
まず、胡質伝の記述を見てみると「張遼は護軍の武周と仲違いしており、刺史の温恢に胡質を貰い受けたい、と申し入れた」とあり、そこで、張遼伝に目を転じると、(合肥を包囲した孫権が張遼と李典に敗れた)215年8月までに温恢が刺史に昇っていた事が確認されます。 そこで、209~215年の間に行われた『南征』を武帝紀から引くと、209年7月、212年10月~翌年春、そして214年7月。
さて、武帝紀と呉主伝でおおまかな流れを調べていると、213年の呉主伝に「これよりさき、曹公は長江沿いの郡県が奪われるのを心配して強制的に移住させようとした」(つまり『移住計画』)とあります。 これでは「これよりさき」と訳した意図が不明瞭ですので、中文をあたると、 『(建安)十八年(西暦213年)正月,曹公攻濡須,權與相拒月餘。曹公望權軍,歎其齊肅,乃退。初,曹公恐江濱郡縣為權所略』 となっており、ちくまでの「これよりさき」は、中文での『初』にあたります。
そこで考えますと、『移住計画』が遂行されたのは、212年から進めていた濡須江攻めの前(=初)という事になり、とすれば、蒋済を丹陽太守に任じた時期はこれ以降となります。 そこで「[業β]に行った時、(蒋済は)丹陽太守」→「大軍の期間の折・・・(蒋済は)州の別駕に」という順番を踏まえると、(曹操が最初に[業β]に還った)213年4月の段階で「蒋済が丹陽太守に任じられた」事が分かると思います。そこで、213年4月~215年8月に呉に対して兵を動員したのは、214年7月しか有り得なくなります。。
この214年7月の軍の動員は、本来は「5月に孫権が[白完]城に侵攻した事」への対応だったようですが、『九州春秋』の「戦功が無かった」という記述から、既に孫権は退却した後であった事が想像されます。 また、蛇足ですが、215年3月に曹操は張魯を征伐。鬼の居ぬ間を狙った孫権が張遼と李典に敗れたのが同年8月。孫権の抜け目無さは確かのようです(笑)
以上から考えると、温恢の刺史任命は214年の7月~(帰途についた)11月となるのではないでしょうか?(^^) この前の赤壁ネタで「温恢(揚州、寿春?)」とか書いていた自分は一体・・・(゚_゚;)」 |
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玉川雄一はさらにこう言った。 |
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時代遅れ 玉川雄一 2002年03月14日木曜日 18時06分
「おおう! またも調査不足が露呈してしまった(-_-;) 「強制移住」についても注目しなければならなかったのですね。援護射撃ありがとうございます。やはり聞いてみるものだ。
こうして調べてみると、どうも温恢の刺史就任は相当ズレ込みますねえ。劉馥死後からこの間、中継ぎの揚州刺史はいたのでしょうか? この激戦区、それなりの担当官を充てる必要があったと思うのですが…
そして曹操、東奔西走。やはり根っからの軍略家なのですね。」 |
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もすはちょっと間をおいて、また続けた。 |
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ポン引き もす 2002年03月15日金曜日 00時49分
「いやいや、オイラの方が明らかに頻繁にツッコまれてますんで・・・(笑) 正直、一人が知る事の出来る情報量、ってそう多くないですよね。これこそ、掲示板の良さっすね♪
また、前回のカキコで書かなかったのですが、上が正しいためには二つの条件が必要なんですが・・・ 1.2つの『移住計画』の記述が同じ事実を述べている、という仮定を満たす。 2.『初』の日本語訳が、オイラの訳で合っている事。 自分自身、少々疑念は隠せないのですが・・・玉川さん、
>中継ぎ オイラも、おそらく「居た」と思います(^^) 延べ6年はただでさえ長いですから、やはり「居た」でしょう♪
ところで、ふと疑問に思ったのですが、東呉戦線で刺史の名前が挙がる時、揚州、豫州、エン州などの刺史は多く挙がると思うんですが、、、徐州の刺史って全然名前を聞かない気がするんですが、如何でしょう?(^^ゞ 孫策時代に孫作配下の部将(孫権?)が陳登にあしらわれた時も、広陵太守でしたし・・・ 徐州って、そんなに価値が低かったのでしょうか? それとも名前が挙がらないだけでしょうか?(^^;」 |
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岡本が現れた。場の雰囲気が一瞬にして凍りつく・・・・。 |
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職業不明 岡本 2002年03月15日金曜日 19時26分
「どうも、初カキコさせていただきます。岡本です。 >徐州刺吏 官渡関連を調べようと魏志、蜀志を斜め読みしていましたら、菫昭伝で、”車冑を殺した劉備を徐州から放逐した後、菫昭が徐州刺吏となり、白馬の戦いで魏郡太守として参戦した”という記述があったように思います(手元に無いのであやふやですが)。 太守は実戦経験豊かな将軍、刺吏は文官であること(シビリアンコントロールの他に士太夫階級からなる地方豪族対策の意味が大きいでしょう)がほとんどですので、刺吏は有能な文官が交代で切り盛りしていたと思いますが。 徐州の価値自体は非常に重要だったと思いますよ。ただ、(呉ファンの人には悪いですが)呉には周瑜の死後、対外侵攻戦争で勝てる将軍がいなくなってしまったため(陸遜も防衛戦が主体)、揚州の合肥に陣取った尋常じゃなく強いヤツ=張遼を破って徐州まで侵攻することが実質不可能になっただけではないかと思います。」 |
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そのとき、ふいに若い男がグラス片手に割り込んできた。抜け目のない若い男だ・・・。 |
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ポン引き むじん 2002年03月16日土曜日 00時03分
「こういうときこそ中央研究院さま頼みですよっ♪ どれどれちっくと検索してみちゃろかね…。
出ました出ました。董昭伝に徐州刺史になったとの記載。でもすぐに辞めちゃってますね。他に何ヶ所か徐州刺史の文字がありますが、ほとんどが車冑がらみ。どうも車冑・董昭以降は記録がないようです。 で、裴注の部分に(誰だっけ。李勝にからんでたと思いますが)、徐州刺史になった人物のことが載ってました。ところがこの人、徐州の軍事都督と役所の奪い合いをしたとか。 どうやら徐州軍事都督が徐州刺史を兼務していたんじゃなかろーかと、それで後の世に刺史が復活したとき都督と対立したんじゃなかろーかと、思われるのでありまするっ。」 |
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あたり障りがないように私はこう答えた。 |
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マスター ぐっこ 2002年03月16日土曜日 00時12分
「うぉ、いきなり「刺史奮迅」、アツい議論が! うーむ、さしあたって温恢の就任時期、やはりもす様が仰るとおり、214年っぽいですね~。ちょうど劉備が蜀入りしてるころか…。 でも、なるほど中継ぎが…。曹操のことだから、抜かりなく適材を放り込んでるところでしょうが…意外な人物の列伝に、こっそり書いてあったりして…正史はこれが面白い!
徐州刺史…そういえば(;^_^A まあ岡本様の仰るように、揚州の防衛戦が突破されない以上、徐州が戦場になることはないでしょうし…。曹操が虐殺して回った結果、人口とか文化とかどうなってたんでしょうね~。」 |
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玉川雄一はまだ言う事があるらしい。 |
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時代遅れ 玉川雄一 2002年03月16日土曜日 00時45分
「盛り上がってまいりました! 皆様ご協力ありがとうございます。
さて、むじんさんのご指摘があった「徐州刺史」とは、鄭岐のことですね。 曹爽伝の桓範の所で登場します。桓範が使時節都督青、徐(州)諸軍事となったとき、「徐州刺史の鄭岐と家を争い、節をひきよせ、鄭岐を斬ろうとしたが、鄭岐の上奏によって、非は桓範の方にあるということで免職され帰郷した」とある部分ですね。
ですから、この場合は刺史と都督は別、と。晋代には兼任した人けっこう見ますけど、魏の頃はどうなんでしょう。
ところで、この後桓範はエン州刺史になりました。李勝の荊州⇔并州?は有名ですね。彼は刺史に任命されたものの、赴任しない内にあぼーんされてしまったようです。
さて、続きを調べないと。」 |
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私は満面の愛想笑いを浮かべてこう答えた。 |
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マスター ぐっこ 2002年03月17日日曜日 16時15分
「不肖ぐっこ、刺史奮迅の一員として、とりあえず旧刺史関連スレageときました~。 いつ見ても刺史というのは妙な役割ですよね…。軍権があるのかないのか、そもそも文官なのか武官なのか。 あ、いきなり話逸らしてアレですけど――蜀や呉にも制度上刺史が置かれてたと思いますが、益州しか領土のない蜀にとっての「益州刺史」や、逆に「涼州刺史」とかの役職。単純に名誉職と言ってしまえばそうですが、普段何してたんでしょうね(^-^;」 |
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玉川雄一は話が長いので有名だ。 |
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時代遅れ 玉川雄一 2002年03月17日日曜日 21時23分
「あー、魏書第16の杜恕伝にて、彼が刺史について長広舌をふるっております。
なんでも、「刺史は軍事に携わるのをやめて民政に専念させろや」という趣旨らしいです。いわく、 「州や郡の長官たちは皆ともに人民をいたわる方策をないがしろに、し軍隊指揮の事をならい、農業養蚕の民も戦争のわざをきそっておりまして、根本(農業)に従事しているとは申せません」
また、それより以前に以下のような主張をしたようです。 「州や郡が兵を扱うと、戦功に専心して民政につとめないから、別に指揮官を置いて、[長官には]政治の任務を十分に果たさせるべきだ」 ですがこれは容れられなかったようです。
ちなみに、荊・揚・青・徐・幽・并・雍・涼の諸州は兵を持っているそうです。残りのエン・予・司・冀州だってゼロてんでもないのでしょうけどね。
ところで杜恕自身も幽州刺史に任ぜられました。しかも、建威将軍使持節護烏丸校尉も兼任ったらもう軍事もやれ! ってなものですわね。どうするのかと思ったら、程喜に弾劾されて免官になってしまいました。 杜恕については、もすさんのサイトで紹介されていたかと。
山川の中国史2によれば以下の通り。 「地方行政は州・郡・県三級の行政区画が基本であった。州には長官である刺史、その副官である別賀従事、文書を扱う治中従事・主簿、人事担当の功曹、管下の軍権を観察する部従事などがあった。」 「なお刺史は多くの場合将軍号をおび(将軍号のないものを単車刺史とよんだ)、その将軍号によって軍隊をひきい、かつ将軍に付属する府の属官が軍事を担当し、いっぽう、民政は刺史の属官である別賀従事以下の州官が担当するという区別があった。」 「ただし、刺史の持つ将軍号はしだいに名目的なものとなり、かわって軍事を担当する「都督」の役割が増加した」だそうです。
杜恕の主張は、このような形式に対して実状を訴えたものだったのでしょうかね。」 |
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とにかく、ここは一旦相手を落ち着かせなければならない。 |
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マスター ぐっこ 2002年03月18日月曜日 23時41分
「うわ~! 玉様、詳報ありがとうございます~! なるほど~、刺史が軍を率いたのは、刺史の軍権ではなく、付随された将軍号に拠るものだったんですね~! で、どうしても政治が疎かになるから、代わりに都督職ができると…。 むう! これまでの疑問が氷解したですよ!」 |
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