獅子奮迅スレ(゚∀゚) まとめ

!!!━━━━刺史(゚∀゚)奮迅━━━━!!!

関連スレッド集めてみました(^-^;

Cafe日誌No.133
2002年03月11日月曜日
22時23分


他の客も酔いが回ってきた頃に、また飽きもせずに玉川雄一がやってきた。何をして生活してるんだろう?玉川雄一はいかにも追われている、そういう感じだった・・・。何を思ったか、一冊の本を取り出し、私に聞こえるよう、朗読し始めたのだ!

時代遅れ 玉川雄一   

「 ◆地味に。◆

私、思ったですよ。近頃蒼天航路でブレイクしつつある劉馥、温恢たち。
彼らは、もっと知られるべきではないか?
しかるべき評価を受けるべきではないか?
知ったか君としてはそのお役に立つべきではないか?

というワケで、彼らの支援組織を作ってみようかと思いまして。
対象は、魏書第15の6人を初めとして、第26の4人など、
(主に)刺史として名を残した味好漢ども。その他もエントリー可能。
そんな彼らをリスペクトする組織の名は…

「刺史奮迅」

…ってもすさんのサイトのパチモンやんけ!
でも、語呂いいしなあ。許可頂けないかネゴシエーションしてみよっと。

さしあたっての目標は、コー@ー三國志と蒼天航路に巻15の6人
(劉馥、司馬朗、梁習、張既、温恢、賈逵)を全員登場させること!
ってもどんな活動をすればいいのやら。
コー@ーに直訴状とか、ゴンタ先生に血判状送ってもなあ…
前者の場合、新武将登録は必須条件。
まあものすごい勢いでマターリ行くとします。」

何度も聞いた話だった・・・・。
こういう場合は適当に相槌をうっとく。

マスター ぐっこ 2002年03月11日月曜日 23時45分

「むー!
今まで全くと言っていいほど目を向けられなかった「地方官」への熱い支援活動! 当然私も加えていただけるのですな!義兄上!

活動名「刺史奮迅」!

ほんまパチリやん…(__;)
うーん、張既や賈逵はともかく、温恢、劉馥あたりをどう活かすか…。
たぶん次作には劉馥出るものと思われる。
ちなみにゲームでは、「劉邦」の顔を与えました(^-^; 大空に笑顔でキメっ!」

玉川雄一は、口早にこう言い足した。

時代遅れ 玉川雄一     2002年03月12日火曜日 00時21分

「かたじけなくも、もすさんの合力も得て正式に「刺史奮迅」発足!
もちろん、ぐっこさんもよしなにお力添えをば!

…さて、何しましょうか? (^_^;)
やっぱファンページ? バナー? …バナー!?
どんなバナーなんだろう。

以前挫折というか取り掛かろうとすらできなかった、
歴代州刺史表とかも魅力ありますが… 
やはり最初は大物の紹介からでしょうかね。」

ちょうど、店に酒を運びに来ていた酒屋のもすが口をはさんできた。

ポン引き もす     2002年03月12日火曜日 00時21分

「ふむ・・・著作権登録しとこうかなぁ、「ししふんじん」をば!(嘘爆)
というワケ(?)で、自分のBBSでもお返事しましたが、全くOKっす(^o^)

6人の中で簡単なのは、ヤパーリ縛ろう、、もとい司馬朗でせうか(^^;
あんまり変わらないか。。(笑)」

玉川雄一はまだ言う事があるらしい。

時代遅れ 玉川雄一     2002年03月12日火曜日 20時31分

「水面下でミッション進行中。
近日公開! …できたらいいなあ。」

私は前にもした話をもう一度繰り返した。

マスター ぐっこ 2002年03月13日水曜日 00時20分

「ややッ! 玉様水面下で活動中!? 
ハァハァ…じゃない(「は」で辞書登録)っ! はじめはこの面々から始め、最終的には歴代刺史職を網羅する年表を作成かも!?
うあ~! 凄い壮大なスケールにもなるですよ!
とりあえずは、この6人。
蒼天航路様々というべきか、あの作品がなければ存在すら知られることもなかったハズ…。くそう! 私の蒼天辞典がまともに機能していたら、「蒼天考」あたりに大大宣伝を打ててたのに…!
いまだ華キン書いた段階で進んでないです…早く続きを…。」

Cafe日誌No.100
2002年01月14日月曜日
13時05分


遅い昼飯でも喰いに来たのか、また飽きもせずに玉川雄一がやってきた。何をして生活してるんだろう?今度、モロッコで性転換するらしい。殺し屋は私にグアバジュースを注文してこう言った。

殺し屋 玉川雄一   

「刺史と牧。ここいらでちィとツッこんでみたり。

広漢和辞典を引いてみると、どちらも「州の長官、地方長官」とあるだけで、しかも同一の役が時代によって(ただし漢代のみ)名前を変えて用いられているという解説しかありませんでした。これではアテにならない…

松竹梅さんによれば、
>州刺史はあくまで州の監察官でしかなかったのに対し、州牧は軍権や行政権をもっていた
とのこと。

高島センセの記述っつぅのも「刺史<牧」ですよね。
「刺史は事実上州の行政長官になっていたが、名目上はあくまでも監察官」と。
魏(曹操の代から)には州刺史っていますけど州牧は見あたらないような気がします。結局、刺史が(行政)長官ということになっちゃったんでしょうか。あ、でも、孫権は219年に荊州牧になってますね。曹操の上表で。(呉主伝)

色々兼務してる人が多いので、どの役職がどこまで管轄しているのかよう分からんのですが… 刺史の地位にある人がどんな事やってたか、調べてみました。

魏の例をとれば、郭淮。この人は元々武官みたいですが…彼は鎮西長史と征羌護軍を兼務し、後に雍州刺史となっていますが、「郭淮は威光と恩特をもって羌族をなつけて帰順させ、家ごとに穀物を出させ、公平にその輸送の労務を割り当て」たとあるのは行政の範疇に入るような感もあります。
武官としてはその後建威将軍→揚武将軍→左将軍と進み、さらに「前将軍に転任したが、もとどおり州を宰領し」たとあります。244年には「夏侯玄が蜀を討伐すると、郭淮は諸軍を指揮して先鋒となっ」たそうです。(この後節を与えられる)
249(嘉平元)年、征西将軍・都督雍涼諸軍事に昇進しました。この時点で、雍州刺史は陳泰に引き継がれたようです(陳泰伝に、『嘉平の初め、郭淮にかわって雍州刺史となり』とあります)。こうなると郭淮は行政から離れたということでしょう。後に、持節・都督はそのままに車騎将軍・儀同三司となり、亡くなりました。
「将軍」は官職で「都督」というのは資格だから並んでていいんですね。これはしょっちゅう出てきますが。

ところが、賈逵や温恢などの伝を見ると、刺史として行政、軍事に携わっているように読みとれません?
温恢は揚州刺史となりましたが、曹操は「卿(温恢)を側近く置きたいと強く思うのだが、考えてみればこの州(揚州)の政治の重大さには比べられぬ(だから刺史に任命する)」と述べており、また合肥に駐屯している張遼・楽進には「揚州の刺史は軍事に通達している。一緒に相談して行動せよ」と言ったとあります。このニュアンスだと温恢と張遼らの間に上下関係があった訳ではないように感じられますが、温恢自身も軍事に関わったとみられます。
また、予州刺史の賈逵も「外は軍隊を整え、内は民政につとめ」とあり、刺史も一地方の長としての権を有していたのではないでしょうか。賈逵は後に将軍位も兼ねますが、これはそれ以前にある記述です。

つくづく、三国志に志(職官志)がないのが辛いですねえ。ちなみに、晋書の職官志を見たんですが、わかったようなわからないような… 少なくとも、刺史だけで牧はありません。
「州には刺史、別賀、治中従事、諸曹従事らの員を置く」とあるんですが、刺史がそもそも何をするかまでは書いてないんですわ。

ダラダラと書いてきましたが、松竹梅さんのご意見に対しては、「刺史も(時代によっては?)軍・政の権を持つんではないか」と。
刺史と牧。高島センセの説では権限が違うってゆうし、ちくまの三国志に載ってる職官表だと俸禄が違うぐらいしか分からないし…どないやねん!」

ナイスガイのこの言葉がのちのち、何人もの人々を苦しめることになろうとは、本人でさえも気づいていなかったのだろう。
玉川雄一はさらにこう言った。

ギャング 玉川雄一     2002年01月14日月曜日 14時18分

「よく考えたら、刺史で戦ってる人なんざいくらでもいますわね。
ただ、将軍位も同時に持ってる場合もありますが。臧覇とか、呂虔とか。
ただ、呂虔は威虜将軍・徐州刺史になったんですが「瑯邪の王祥に別賀となってもらい、民政はいっさい彼にまかせた」と。
逆にいえば、本来は刺史が民政も面倒見ていたってことでしょうか。」

玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。

ギャング 玉川雄一     2002年01月14日月曜日 17時44分

「>魏には州牧は見あたらないような
蜀には益州牧があったようですし、呉はでは諸葛恪が東興の勝利で荊・揚州牧になってますね。
まあ、このスレは全て私がちくまの正史読んで考えたことですので、何か他に根拠のある解説が欲しいところ。専門書とかないですかねえ?」

NOBが現れた。場の雰囲気が一瞬にして凍りつく・・・・。

ポン引き NOB      2002年01月14日月曜日 22時34分

「『三国会要』(清・楊晨)の職官の項に、ちょっと書いてありましたので、ダラダラと書いてみます。といっても、たいした情報は見つかりませんでしたが…。

———
(魏)州には刺史、あるいは牧を置く。魏の13州、刺史は治下の郡国の見廻りをし、囚人を取調べ、(官吏登用)試験を行い、毎年都に計吏を派遣して報告をする。辺境の諸州では刺史とともに都督を置く。[亠兌]・豫・青・并の諸州では都督を置かない。梁・益州は版図に入っていなかったが刺史だけは任命する。
(州の役人には)治中従事・別駕従事・功曹従事・簿曹従事・兵曹従事・郡国従事・文学従事・武猛従事・主簿・門亭長諸曹・書佐・計吏・大中正一人を置く。

#この後、蜀と呉についてもちょっとだけ書かれていますが省略。
———-

という感じでした。が、牧と刺史の具体的な違いについては、俸禄(600石と2000石)以外には書かれていませんでした…。
ついでに、刺史の職務については後漢書の百官志をそのまま牽いているようなので、魏晋の実情には合っていないかもしれません。っていうか、合っていない気がします(笑)
それから、上の文だと魏にも牧が置かれていたように読めますが、本当に牧がいたのかどうか、確認はとっていませんです。

専門書、残念ながら私は知りません。ありそうですが、どなたかご存じないでしょうかねぇ?

あと、未読の文献で申し訳ないのですが、
「漢末州牧考」石井仁(秋大史学28
1992年)
なるものがあるそうです。
石井先生の論文なので都督との関連について書かれているのではないかって気がしますが、刺史・牧そのものについても何か情報があるかも?
どなたか、読んだ方いらっしゃいませんかぁ~!?(結局他力本願かい//爆)」

NOBはちょっと間をおいて、また続けた。

ポン引き NOB      2002年01月14日月曜日 22時37分

「あ、タグは不許可なんですね(汗)
恥ずかしい…。

#一瞬にして場の雰囲気を凍りつかせてしまったのがそのせいなら、すみません(笑)」

私は満面の愛想笑いを浮かべてこう答えた。

マスター ぐっこ 2002年01月14日月曜日 22時56分

「うお、「刺史」と「州牧」ですか!?
コピー史料のなかでもイロイロと触れられてるんですが、妙に詳しくて妙に核心からズレてる(;^_^A
ええと、ちょっと書名が確定できないんですが(←おい)、ちょっと抜き出してみると…

前漢武帝代(BC106~)部刺史成立。州監察官・六百石(一年に一度都に戻り、上奏する義務を負う)

成帝代(BC8~)刺史→牧。二千石。

哀帝代(BC5~)牧→刺史。四年後、また刺史→牧。

王莽…なんか、古代の官職(伯?)

光武帝代(AD42~)牧→刺史。六百石。(この頃、上奏義務が無くなり、計吏が代わって上京した)

↓刺史権限の肥大化。郡太守への職権濫用相次ぐ。監察機能空白に。

順帝代 宦官や外戚の子弟が地方長官職を独占。地方叛乱頻発。事実上の後漢支配体制の崩壊。

八使巡行開始。監察機能の穴埋め。だが非常時に勅の無い場合は、臨時に刺史が州の全権を掌握する風潮広がる。

霊帝代 牧設置の議がおこる。勅任官による地方軍閥化の始まり…。

…とのことでした。
ちなみに、霊帝の代も刺史は六百石でしたが、あの梟雄・劉焉の提言によって、刺史の秩を前職のままにしてはどうか、という代案が出されたとか。もともと二千石級の高級官僚が次々と刺史に選ばれたものだから、当然、刺史の秩禄は二千石で定着。
で、見計らったような牧伯復活の提言。これ。
劉焉は監軍使者の職から刺史→牧となったため、なし崩し的に州の軍権を掌握。朝廷から事実上の独立を果たす、と。」

私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。

マスター ぐっこ 2002年01月14日月曜日 23時06分

「とりあえず、後漢代の刺史・牧について分かるのはこの程度です~。
結論としては劉焉が悪いヤツだった、と(;^_^A

それはともかくとして、時間差でNOBさま、いっらしゃいませ~。
>「漢末州牧考」石井仁(秋大史学28
1992年)
やはり大学の論文とかでしょうか~。うーむ、こういうときに学生さんのほうが小回りが利く! 人柱募集!(¨;)

呉や蜀については、基本的には後漢の制度を地方にあわせてインポートしたんでしょうけど…(というより、1.2州しかないのに牧を置くのもの…)。魏については、典型的な外郭配置。中央軍と別個に方面軍を常設。
州という行政単位は、魏においてはほとんどその方面軍を養うための生産拠点として計算されてたとか…。必要なら武官が将軍職・都督号を帯びたまま刺史を兼任し、無理なら地政のエキスパートが派遣されたとか…あくまで想像ですけど、どうも方面軍>州という扱いな気がします。」

そのとき、壁に向かってブツブツ喋っている男がいた。

ヒモ 黒竜 2002年01月15日火曜日 12時42分

「せっかくの連休に風邪をひいて寝込んでいた黒竜です。

魏にも州牧は置かれていたようです。
曹休が揚州刺史をへて揚州牧。孫礼が荊州刺史から冀州牧になってました。
桓範もエン州刺史から冀州牧に転任するのを拒否しています。
傾向から見ると、刺史─(職権は同一・位階は上昇)→州牧という感じではないでしょうか。

あと桓範のところを読むかぎりは、鎮北将軍>冀州牧のようです。」

玉川雄一は話が長いので有名だ。

ギャング 玉川雄一     2002年01月15日火曜日 20時34分

「おっと、これはワタクシの調査不足でした。
黒龍さんありがとうございます。

魏書を漁って各州の歴代刺史がどんなメンツだったか調べてみよう…
と思ったのですが、予想以上に出てくる出てくる。
面白そうだけどめっちゃしんどそうでもあります(-_-;)」

NOBは話が長いので有名だ。

ポン引き NOB      2002年01月16日水曜日 00時22分

「黒龍さんはじめまして。方々でお名前はお見かけしていますが…(^-^)
ぐっこさん、玉川さん、こんばんはです。

なるほど、やっぱりちゃんと牧に就任している人がいたんですね(^-^)
さすがに、『三國会要』もそんなところでいい加減には書かなかったみたいで安心しました(爆)

>ぐっこさん
>
やはり大学の論文とかでしょうか~。うーむ、こういうときに学生さんのほうが小回りが利く! 人柱募集!(¨;)
自分の大学の図書館にあることが判明しているので、暇なら人柱になってもいいのですが…差し当たり卒論に追われているので、チャンスがあったらということでお願いします。

>
魏書を漁って各州の歴代刺史がどんなメンツだったか調べてみよう
これって『二十五史補編』に歴代刺史の一覧があったりしないのでしょうか?
かなり憶測でしゃべってます、すみません(爆)
残念ながら手元に『二十五史補編』三国志関連記事のコピーは持っていないもので…。」

黒竜は話が長いので有名だ。

ヒモ 黒竜 2002年01月16日水曜日 19時37分

「こちらこそはじめましてです、NOBさん。
わざわざ声をかけていただけるとは光栄です。

>各州の歴代刺史がどんなメンツだったか調べてみよう
私も蜀でそれをやろうと思ったことがあります。郡太守も含めて…
でも挫折しました。ほとんど年代が特定されてないうえに興古郡のように太守不明の地域はあるはで(T
T)」

私は相手を怒らせないように冷静に対処した。

マスター ぐっこ 2002年01月16日水曜日 23時03分

「うーむ…。諸賢のお話を伺うに、牧と刺史は並立されてた時代があることになるんですよね~。仮に何かで参内したおり、揚州刺史と徐州牧が隣同士になったりすると…。
基本的に、何はどうあれ刺史は監察官であり、牧は総督官ですから、牧>刺史になるのは仕方がないとして…。彼らが兼任してる将軍位が、これまた上下逆になることも出てくると…。
魏のあたりの将軍位や官位はややこしくて…。後漢だと正将軍は八人だけですもの…。
歴代刺史表! 私もチャレンジしようとして、挫折(;^_^A 中央官職表ならなんとかなるかもしれませんけど、やっぱり地方官となると伝が分散しすぎで…。もし完成したら、シェアウエアにしてもいいくらいの力作になるかと。……「二五史補編」!? 欲すィ…!

>NOBさま
うわわ、暇なときでいいです暇なときで!m(__)m 私も県立図書館見たんですが、さすがに論文までは置いてない…」

あたり障りがないように私はこう答えた。

マスター ぐっこ 2002年03月17日日曜日 16時07分

「刺史牧サルベージっ!」

Cafe日誌No.134
2002年03月13日水曜日
20時52分


店も繁雑な賑わいを見せる頃、また飽きもせずに玉川雄一がやってきた。何をして生活してるんだろう?自分の人生でさえも脇役を演じている、そういうタイプだ。玉川雄一はカウンターの上にあったタイムズを明読し始めた。

時代遅れ 玉川雄一   

「 ■刺史奮迅・活動の第一歩■

はい、皆様からのご意見を伺いたいと思いまして。
以前ここで書きましたが、温恢が揚州刺史になった時期についてです。
どうも私は、劉馥の死後すぐ、ではないような気がするのですが…
蒼天航路は、アレはアレでいい話に仕上がっているので良しとします。

私の解釈を再録しますと…

【温恢伝】
「中央に入って丞相主簿となり、外に出て揚州の刺史となった。(中略) 当時蒋済は[太祖に]目通りして丹陽の太守となっていた。そこで蒋済を[出身の]州に帰した」

ポイントは、「蒋済が丹楊太守になった時期」です。

【蒋済伝】
「建安13年(208)、孫権が軍勢を率いて合肥を包囲した。(中略) (孫権は)急遽包囲の陣営を焼き払って逃走し、城はお陰で無事にすんだ。翌年、使者として[言焦]に出向いた蒋済に太祖は質問した」「(中略)のちに蒋済が使者として[業β]に行ったとき、太祖は出迎え、会うと大笑いして言った。(中略)蒋済を丹楊の太守に任命した。大軍が南征して帰還のおり、温恢を揚州の刺史とし、蒋済を[州の]別賀に任命した」

蒋済が209年に[言焦]に出向いたというのは、この年の曹操の行動と重なります。
春3月~[言焦]~秋7月~合肥~12月に[言焦]に帰還
この春か冬のどちらかの時に曹操と会った事になります。
次の、[業β]での会話ですが…210、211年の間の可能性もあります。銅雀台の建設を命じたということは、あるいは[業β]にいたのでしょうか。
曹操は211年後半~212年春に末に関西で馬超と戦い、212年3月に再び[業β]に帰還、続いて合肥へと出陣しています。この時は濡須口まで進出し、翌年春までかかりました。

つまり、温恢の揚州刺史就任の契機となった南征は、209年のものではないと考えるのです。おそらく次の212年の際であり、そして南征からの帰還時ということを考えれば、温恢の揚州刺史就任は213年春にまでずれ込むことになります。

以上のようになりますが、皆様のご意見も伺いたいと思います。」

何を語っても冴えないゲイだ。
むかし旅の占い師がこんなことを言っていた・・・・。

ポン引き もす     2002年03月14日木曜日 04時15分

「ふむぅ、、4時間ほど虱潰しに調べていたら、、最初同意方向だったのが、、トンでもない(?)方向に・・・

 まず、胡質伝の記述を見てみると「張遼は護軍の武周と仲違いしており、刺史の温恢に胡質を貰い受けたい、と申し入れた」とあり、そこで、張遼伝に目を転じると、(合肥を包囲した孫権が張遼と李典に敗れた)215年8月までに温恢が刺史に昇っていた事が確認されます。
 そこで、209~215年の間に行われた『南征』を武帝紀から引くと、209年7月、212年10月~翌年春、そして214年7月。

 さて、武帝紀と呉主伝でおおまかな流れを調べていると、213年の呉主伝に「これよりさき、曹公は長江沿いの郡県が奪われるのを心配して強制的に移住させようとした」(つまり『移住計画』)とあります。
 これでは「これよりさき」と訳した意図が不明瞭ですので、中文をあたると、
『(建安)十八年(西暦213年)正月,曹公攻濡須,權與相拒月餘。曹公望權軍,歎其齊肅,乃退。初,曹公恐江濱郡縣為權所略』
となっており、ちくまでの「これよりさき」は、中文での『初』にあたります。

 そこで考えますと、『移住計画』が遂行されたのは、212年から進めていた濡須江攻めの前(=初)という事になり、とすれば、蒋済を丹陽太守に任じた時期はこれ以降となります。
 そこで「[業β]に行った時、(蒋済は)丹陽太守」→「大軍の期間の折・・・(蒋済は)州の別駕に」という順番を踏まえると、(曹操が最初に[業β]に還った)213年4月の段階で「蒋済が丹陽太守に任じられた」事が分かると思います。そこで、213年4月~215年8月に呉に対して兵を動員したのは、214年7月しか有り得なくなります。。

 この214年7月の軍の動員は、本来は「5月に孫権が[白完]城に侵攻した事」への対応だったようですが、『九州春秋』の「戦功が無かった」という記述から、既に孫権は退却した後であった事が想像されます。
 また、蛇足ですが、215年3月に曹操は張魯を征伐。鬼の居ぬ間を狙った孫権が張遼と李典に敗れたのが同年8月。孫権の抜け目無さは確かのようです(笑)

 以上から考えると、温恢の刺史任命は214年の7月~(帰途についた)11月となるのではないでしょうか?(^^)
この前の赤壁ネタで「温恢(揚州、寿春?)」とか書いていた自分は一体・・・(゚_゚;)」

玉川雄一はさらにこう言った。

時代遅れ 玉川雄一     2002年03月14日木曜日 18時06分

「おおう! またも調査不足が露呈してしまった(-_-;) 「強制移住」についても注目しなければならなかったのですね。援護射撃ありがとうございます。やはり聞いてみるものだ。

こうして調べてみると、どうも温恢の刺史就任は相当ズレ込みますねえ。劉馥死後からこの間、中継ぎの揚州刺史はいたのでしょうか? この激戦区、それなりの担当官を充てる必要があったと思うのですが…

そして曹操、東奔西走。やはり根っからの軍略家なのですね。」

もすはちょっと間をおいて、また続けた。

ポン引き もす     2002年03月15日金曜日 00時49分

「いやいや、オイラの方が明らかに頻繁にツッコまれてますんで・・・(笑) 正直、一人が知る事の出来る情報量、ってそう多くないですよね。これこそ、掲示板の良さっすね♪

また、前回のカキコで書かなかったのですが、上が正しいためには二つの条件が必要なんですが・・・
1.2つの『移住計画』の記述が同じ事実を述べている、という仮定を満たす。
2.『初』の日本語訳が、オイラの訳で合っている事。
自分自身、少々疑念は隠せないのですが・・・玉川さん、

>中継ぎ
オイラも、おそらく「居た」と思います(^^)
延べ6年はただでさえ長いですから、やはり「居た」でしょう♪

ところで、ふと疑問に思ったのですが、東呉戦線で刺史の名前が挙がる時、揚州、豫州、エン州などの刺史は多く挙がると思うんですが、、、徐州の刺史って全然名前を聞かない気がするんですが、如何でしょう?(^^ゞ
孫策時代に孫作配下の部将(孫権?)が陳登にあしらわれた時も、広陵太守でしたし・・・
徐州って、そんなに価値が低かったのでしょうか? それとも名前が挙がらないだけでしょうか?(^^;」

岡本が現れた。場の雰囲気が一瞬にして凍りつく・・・・。

職業不明 岡本   2002年03月15日金曜日
19時26分

「どうも、初カキコさせていただきます。岡本です。
>徐州刺吏
官渡関連を調べようと魏志、蜀志を斜め読みしていましたら、菫昭伝で、”車冑を殺した劉備を徐州から放逐した後、菫昭が徐州刺吏となり、白馬の戦いで魏郡太守として参戦した”という記述があったように思います(手元に無いのであやふやですが)。
太守は実戦経験豊かな将軍、刺吏は文官であること(シビリアンコントロールの他に士太夫階級からなる地方豪族対策の意味が大きいでしょう)がほとんどですので、刺吏は有能な文官が交代で切り盛りしていたと思いますが。
徐州の価値自体は非常に重要だったと思いますよ。ただ、(呉ファンの人には悪いですが)呉には周瑜の死後、対外侵攻戦争で勝てる将軍がいなくなってしまったため(陸遜も防衛戦が主体)、揚州の合肥に陣取った尋常じゃなく強いヤツ=張遼を破って徐州まで侵攻することが実質不可能になっただけではないかと思います。」

そのとき、ふいに若い男がグラス片手に割り込んできた。抜け目のない若い男だ・・・。

ポン引き むじん     2002年03月16日土曜日
00時03分

「こういうときこそ中央研究院さま頼みですよっ♪
どれどれちっくと検索してみちゃろかね…。

出ました出ました。董昭伝に徐州刺史になったとの記載。でもすぐに辞めちゃってますね。他に何ヶ所か徐州刺史の文字がありますが、ほとんどが車冑がらみ。どうも車冑・董昭以降は記録がないようです。
で、裴注の部分に(誰だっけ。李勝にからんでたと思いますが)、徐州刺史になった人物のことが載ってました。ところがこの人、徐州の軍事都督と役所の奪い合いをしたとか。
どうやら徐州軍事都督が徐州刺史を兼務していたんじゃなかろーかと、それで後の世に刺史が復活したとき都督と対立したんじゃなかろーかと、思われるのでありまするっ。」

あたり障りがないように私はこう答えた。

マスター ぐっこ 2002年03月16日土曜日 00時12分

「うぉ、いきなり「刺史奮迅」、アツい議論が!
うーむ、さしあたって温恢の就任時期、やはりもす様が仰るとおり、214年っぽいですね~。ちょうど劉備が蜀入りしてるころか…。
でも、なるほど中継ぎが…。曹操のことだから、抜かりなく適材を放り込んでるところでしょうが…意外な人物の列伝に、こっそり書いてあったりして…正史はこれが面白い!

徐州刺史…そういえば(;^_^A まあ岡本様の仰るように、揚州の防衛戦が突破されない以上、徐州が戦場になることはないでしょうし…。曹操が虐殺して回った結果、人口とか文化とかどうなってたんでしょうね~。」

玉川雄一はまだ言う事があるらしい。

時代遅れ 玉川雄一     2002年03月16日土曜日 00時45分

「盛り上がってまいりました! 皆様ご協力ありがとうございます。

さて、むじんさんのご指摘があった「徐州刺史」とは、鄭岐のことですね。
曹爽伝の桓範の所で登場します。桓範が使時節都督青、徐(州)諸軍事となったとき、「徐州刺史の鄭岐と家を争い、節をひきよせ、鄭岐を斬ろうとしたが、鄭岐の上奏によって、非は桓範の方にあるということで免職され帰郷した」とある部分ですね。

ですから、この場合は刺史と都督は別、と。晋代には兼任した人けっこう見ますけど、魏の頃はどうなんでしょう。

ところで、この後桓範はエン州刺史になりました。李勝の荊州⇔并州?は有名ですね。彼は刺史に任命されたものの、赴任しない内にあぼーんされてしまったようです。

さて、続きを調べないと。」

私は満面の愛想笑いを浮かべてこう答えた。

マスター ぐっこ 2002年03月17日日曜日 16時15分

「不肖ぐっこ、刺史奮迅の一員として、とりあえず旧刺史関連スレageときました~。
いつ見ても刺史というのは妙な役割ですよね…。軍権があるのかないのか、そもそも文官なのか武官なのか。
あ、いきなり話逸らしてアレですけど――蜀や呉にも制度上刺史が置かれてたと思いますが、益州しか領土のない蜀にとっての「益州刺史」や、逆に「涼州刺史」とかの役職。単純に名誉職と言ってしまえばそうですが、普段何してたんでしょうね(^-^;」

玉川雄一は話が長いので有名だ。

時代遅れ 玉川雄一     2002年03月17日日曜日 21時23分

「あー、魏書第16の杜恕伝にて、彼が刺史について長広舌をふるっております。

なんでも、「刺史は軍事に携わるのをやめて民政に専念させろや」という趣旨らしいです。いわく、
「州や郡の長官たちは皆ともに人民をいたわる方策をないがしろに、し軍隊指揮の事をならい、農業養蚕の民も戦争のわざをきそっておりまして、根本(農業)に従事しているとは申せません」

また、それより以前に以下のような主張をしたようです。
「州や郡が兵を扱うと、戦功に専心して民政につとめないから、別に指揮官を置いて、[長官には]政治の任務を十分に果たさせるべきだ」
ですがこれは容れられなかったようです。

ちなみに、荊・揚・青・徐・幽・并・雍・涼の諸州は兵を持っているそうです。残りのエン・予・司・冀州だってゼロてんでもないのでしょうけどね。

ところで杜恕自身も幽州刺史に任ぜられました。しかも、建威将軍使持節護烏丸校尉も兼任ったらもう軍事もやれ! ってなものですわね。どうするのかと思ったら、程喜に弾劾されて免官になってしまいました。
杜恕については、もすさんのサイトで紹介されていたかと。

山川の中国史2によれば以下の通り。
「地方行政は州・郡・県三級の行政区画が基本であった。州には長官である刺史、その副官である別賀従事、文書を扱う治中従事・主簿、人事担当の功曹、管下の軍権を観察する部従事などがあった。」
「なお刺史は多くの場合将軍号をおび(将軍号のないものを単車刺史とよんだ)、その将軍号によって軍隊をひきい、かつ将軍に付属する府の属官が軍事を担当し、いっぽう、民政は刺史の属官である別賀従事以下の州官が担当するという区別があった。」
「ただし、刺史の持つ将軍号はしだいに名目的なものとなり、かわって軍事を担当する「都督」の役割が増加した」だそうです。

杜恕の主張は、このような形式に対して実状を訴えたものだったのでしょうかね。」

とにかく、ここは一旦相手を落ち着かせなければならない。

マスター ぐっこ 2002年03月18日月曜日 23時41分

「うわ~! 玉様、詳報ありがとうございます~!
なるほど~、刺史が軍を率いたのは、刺史の軍権ではなく、付随された将軍号に拠るものだったんですね~!
で、どうしても政治が疎かになるから、代わりに都督職ができると…。
むう! これまでの疑問が氷解したですよ!」

Cafe日誌No.139
2002年03月19日火曜日
13時39分


遅い昼飯でも喰いに来たのか、また飽きもせずに玉川雄一がやってきた。何をして生活してるんだろう?見ているこちらが辟易するくらいの派手な衣装だ。私に顔を近づけると口臭を放ちながら喋り出した。

時代遅れ 玉川雄一   

「 ■ もうとにかく刺史の皆さん出てきなさい ■

別スレにてもすさんの提唱された「徐州刺史おらへんの?」
いました。しかも!

臧覇。
呂虔。

臧覇はおそらく202年~204年の間に任命されたようです。

【臧覇伝】
「夏侯淵とともに黄巾の残党徐和らを討伐し、功績があって徐州の刺史に昇進した」

【夏侯淵伝】
「済南郡と楽安郡の黄巾賊徐和・司馬倶らが城を攻撃し、県の高官を殺害した。夏侯淵は泰山・斉、平原各郡の軍兵を率いてこれを攻撃し、さんざんにうち破って徐和を斬り殺し、諸県を平定し、その食糧を没収して兵士に給付した」

そして年代の絞り込みは…

【楽進伝】
「黎陽における袁譚、袁尚攻撃に参加し、その大将厳敬を斬り、行遊撃将軍となった(202年)。別軍として黄巾の賊を攻撃し、それをうち破り楽安郡を平定した。ギョウの包囲(204)に参加し~」とあるので、討伐はこの期間に行われたことに。その後、臧覇は徐州刺史になりました。

おそらく曹操の代は臧覇が務めたようにも思えますが…

続いて【呂虔伝】
「文帝は王位につくと、(呂虔に)裨将軍の位を加え、益寿亭侯にとりたて、徐州の刺史に昇進させ、威虜将軍の称号を加えた」
なんか二回将軍位を与えられておるのですが、一続きの処置じゃないのかもしれませぬ。
呂虔がいつまでこの地位を務めたか定かではありませんが、王祥を招いて別賀とし、民政は彼に一切委ねたそうです。「世間ではそのよく賢者にまかせたことに感心した」とか。

青・徐方面で軍功著しい彼らを刺史に据えたということは、やはり徐州も重要視されていたのではないでしょうか。」

うん?どっかで聞いたような台詞だ・・・・・。
私は一つの古い話を客に聞かせてやった。

マスター ぐっこ 2002年03月20日水曜日 01時15分

「おお、前スレに引き続いて貴重な情報!
なんだ、臧覇も呂建も徐州刺史経験者ですか!
どちらもそれなりに勇名のある人物! 徐州というと、三国安定期だと後方都市に近いカンジがしますが、やはりまだ要衝として重要視されてたという事でしょうか~。」

玉川雄一は、口早にこう言い足した。

国外亡命 玉川雄一     2002年03月23日土曜日 10時33分

「魏書サーチ完了。いずれまとめます。
しかし、調べてみると刺史奮迅な方々はいっぱいいらっしゃいますねえ。
王凌も噂に違わぬ御仁だったし、孫礼も相当のプロフェッショナルと見た!
やっぱ魏は強いわ。」

どこから聞きつけたのか、もすというポン引きが現れた。

ポン引き もす     2002年03月23日土曜日 22時10分

「あまり手を出せなくてすいませぇん・・・
せめてもの罪滅ぼしとして・・・馬超伝附の『典略』での事なんですが、ぢつは郭援討伐の後、徐州刺史になってました。。(^^ゞ
我輩の人物列伝では、理解し難かったので書きませんでしたが・・・ 

まぁ、曹操が彼を徐州刺史に任ずる理由は「馬氏の勢力削減、地盤を無くす」という事だと思いますが、どうなんでしょうね? 刺史なのに任地に行かなくても良いものか。。それとも代行がいたのか。う~むむむ・・・」

話が長くなりそうだったので、私はひとまずこう言った。

マスター ぐっこ 2002年03月24日日曜日 00時16分

「>玉様
領土の広い魏は、刺史奮迅な方々によって支えられてきたようなモノなんでしょうか…。ここにきてゴンタ先生がやたら地方長官特集をするのも、故無きことではないと。蜀や呉なら宰相級の人材が、地方をドサ周りしてるんですよねえ…。
魏編楽しみにしてまーす!

>もす様
あ、ホントだ…馬超、徐州刺史・諫議大夫!? 似合わない役職だなあ…。董卓の時と同じく、やはり地盤切り離しっぽいですね…。郭援が斬られたのは袁譚・袁尚兄弟が仲違いする前みたいだから、202年・黎陽のあたり。この時期、徐州は空席だったわけか…。
こうやって見てると、馬家はだいぶ魏の中枢に取り込まれてたんですね~。素直に曹操に従っていたら、少なくとも臧覇くらいにはなってただろうに…。」

玉川雄一は話が長いので有名だ。

国外亡命 玉川雄一     2002年03月24日日曜日 00時17分

「うわ、ホントだ! ありがとうございました。やはり蜀書と呉書もサーチせねばのう。
ですが、魏書については、200年以前はチェックしてなかったりします。(中途半端やな)

馬超の徐州刺史ですけど、曹操が丞相になってからで、かつ馬超が地元で叛乱する前でしょうから…
208~211年の間のことなのでしょうか。またいくらなんでも、馬騰達が処刑された時には剥奪されたでしょうねえ。
馬超が現地に赴いた様子もなさそうですし。

…って、あれ? なんだかここ、記述がおかしくないですかね。
馬騰が召し出されたのが208年。本伝と照らし合わせれば、この時馬超は涼州に残りました。続いて、
「これより前、曹公は丞相になると」馬超を招聘するが官に就かず

「それより後に」馬超は司隷校尉の督軍従事となって、郭援を討伐し、斬る

詔勅により徐州刺史に、のちに諫議大夫に

馬騰が入朝 …で、先程の部分に繋がると。

郭援討伐は、鍾ヨウ、張既伝によれば202年ごろのようですね。
(黎陽に退いた袁尚が郭援を送り込んだとあるので)
じゃあその前に曹操が丞相になったというのはおかしいですよね。何かの間違い?

また、郭援討伐後に徐州刺史になったのが正しいとすると、ちょうど臧覇とカブるような。
臧覇はしっかりと現地で働いたようですから、馬超の方は名誉職とか空手形とかだったりしたんでしょうか。

もしかして編者(魚豢か和訳者)のミス? やはり、原文にあたらないと分からんかのう。」

玉川雄一はちょっと間をおいて、また続けた。

国外亡命 玉川雄一     2002年03月24日日曜日 00時21分

「うわ、ぐっこさんが入ってる。

やっぱ、郭援討伐は202年ごろでしょう?
すると、やっぱ臧覇と任命時期がカブると思うですよ。
典略の文章も意味不明だし… 責任者出てこい!

あ、とりあえず臧覇さんと馬超さんおながいします。」

もすはまだ言う事があるらしい。

ポン引き もす     2002年03月24日日曜日 04時49分

「あ、ホントだ、メチャメチャじゃないですか。(^-^;  そりゃ理解出来なかったワケだ(笑)
さて、注目の中文ですが・・・

『初
, 曹 公 為 丞 相 , 辟 騰 長 子 超 , 不 就 。超 後 為 司 隸 校 尉 督 軍 從 事 , 討 郭 援 , 為 飛 矢 所 中 , 乃 以?
? 其 足 而 戰 , 破 斬 援 首 。 詔 拜 徐 州 刺 史 , 後 拜 諫 議 大夫 。 及 騰 之 入 , 因 詔 拜 為 偏 將 軍 , 使 領 騰
營 。

ちくまの方が参考になさった方がこれと同じのを訳したのであれば、少なくとも、訳し間違いでは無いようですねぇ。(^^;
順序がオカシイのは確かだと思うんですが・・・ それとも、司空=丞相とみなしたんでしょうか?
仮にそうだとしても、臧覇との兼ね合いはサパーリですが。。(;^_^A」

もすはちょっと間をおいて、また続けた。

ポン引き もす     2002年03月24日日曜日 05時23分

「あ、于禁伝と武帝紀での曹操の駐屯地(北海郡淳于県)を見る限り、臧覇が徐州刺史になったのは205年頃以降ですから、馬超→臧覇と徐州刺史が渡されたのなら、普通に説明できますですよ。
・・・なんか、我輩の昌[豕季]伝、書き直しが必要カモ。。ぐふぅっ・・・」

私は内心うんざりしていたが、にこやかな顔でこう答えた。

マスター ぐっこ 2002年03月24日日曜日 22時32分

「うーん、また陳寿たんがポカやったんでしょうか(^-^; ハイショーシ君、しっかりチェックしないと!
この「曹操が丞相になって後」に馬超を云々…という記述さえなければ、一応順番としては整合されるわけですよねえ…。
「丞相」でなくて「宰相」なら三公と解釈もできましょうけど、丞相はれっきとした官職名だから…。
これまた時間軸ズレか!? はたまた陳寿たんか!?(^-^;

で、馬超の徐州入りですが…どうなんでしょうねえ…。まだこの頃は軍団総帥として馬騰が健在でしたし、徐州に赴任していてもおかしくはないんですよね~。臧覇の前任・馬超…うーむ、ちょっと想像外の世界かも…。
ホウ徳伝だと、馬超の入朝のとき都亭侯・中郎将に任じられたとあるだけだし…。この後の記述がすべて「馬騰に従って」となっているのがポイントになるかなあ…。つまり馬超ではなく馬騰の指揮下に入っていたということ。討伐活動はすべて関中だし…
さらなる情報きぼん!」

Cafe日誌No.146
2002年03月31日日曜日
15時17分


遅い昼飯でも喰いに来たのか、わりとよく来るもすが入ってきた。この美男子の美貌に店内中のロリータが息をのむ。ここだけの話と前置きをしてから、長い話を始めた。

ポン引き もす   

「『刺史奮迅』活動の助けになると思うのですが、三国志家頁さんにこんなモノがあるの忘れてました。。(;^_^A

http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/sisi.html

こちらによると、徐州刺史は203年馬超、204年以降臧覇、となっていますが、、どうなんでしょうね?(^-^」

何人もの人がこの言葉に騙されて来た。
もすはさらにこう言った。

ポン引き もす     2002年03月31日日曜日 18時36分

「どうでもイイが、オレ様、ロリ騙してきたのかよ!(藁)」

猥談好きの玉川雄一が嬉しそうに参加してきた。

国外亡命 玉川雄一     2002年03月31日日曜日 21時26分

「あらら… 何か、俺のやろうとしてたことが…(笑)
はぁ… どうしましょ(^_^;)
それじゃ、晋書まで調べるとすっか…」

私は相手に誤解を与えないように噛み砕くように説明してやった。

マスター ぐっこ     2002年04月01日月曜日
00時38分

「>もす様
そんな…! まさかもす様が炉利だっただなんて…!と言ってみる(^_^;)
ところで! リンク先拝見!
ぐわっ、まさに刺史一覧表!うーむ…賢者は同じ道を歩むと言いますが、まさに軌を一にしておりましたな…。
あ、しかし!まだ呉蜀の名誉称号の刺史職が省かれている…って、そっちの方調べるほうが大変かも…(^_^;)

>玉様
うお、義兄上は晋書方面へ…!?
うーむ、晋書で刺史と言うことはまた有名人子孫連の目白押し!新たな発見にハァハァできるかも!期待です~!
あ、何か委員会でも刺史奮迅スレ、今度まとめますね~!」

もすはちょっと間をおいて、また続けた。

ヒモ もす     2002年04月01日月曜日 10時27分

「⇒ぐっこさん
炉利っぽいのは好きですけどねぇ、どっちかっていうと年上好みかなぁ?(笑)

⇒玉川さん
ただ、紹介してみたものの、ぐっこさんも仰っているように、抜けはあるような気がするんですよ。
人によって解釈も違ってくるでしょうし♪(^-^

私もあるデータを纏め途中(っていうか始めたばっか・・・)なので、積極的に参加できるかどうかは分かりませんが、
手伝える事がありましたら、遠慮無く仰ってくださいね!(=^_^=)
あ、勿論、ムリだけはなさらないように♪♪」

玉川雄一はまだ言う事があるらしい。

旅人 玉川雄一     2002年04月01日月曜日 11時18分

「あちらの表では、温恢の任期がちょっと疑問。←どうしてもそこに目が行くヤシ

もすさんの調査結果のように、就任は214年辺りまで下りそうですし、219年の時点でも揚州刺史の任にありました。おそらく、曹丕即位までは在任したかと思われ。

うむ、やはり自分の目で確かめねばのう。因果な趣味を持ったものだ(^_^;)」

私はこういう場合は穏やかに話すことにしている。

マスター ぐっこ     2002年04月01日月曜日
22時03分

「>もす様
む!? 年上派!? しかし炉系もオッケー…? どっちだろうか! また四方山討論スレの議題が出来たではないか!(^-^;

>玉様
おお、温恢を試験薬にするという手が! なるほど、解釈の仕様によって、変わってくるところも出てくるわけで…。これは義兄上流の刺史奮迅一覧の出現に期待!? …あ、でももす様と同じく、ムリはなさらないように~。」

その時、今まで一言も喋らなかったクェンが口を開いた。

職業不明 クェン 2002年04月01日月曜日 23時51分

「はあ…久しぶりに来たらおもいっきりビックリした…。
心臓に悪いっすよ、ぐっこさん。

それにしても時代は刺史!渋すぎ!!
そういえば孫堅パパは予州刺史の座を巡って周[日禺]と喧嘩したらしいけど、そんなに予州刺史って魅力的なんでしょうか。三国志家頁さんの表を見るなんかここが特に争い激しそう…。

こう言えば分かってもらえるだろうか。

マスター ぐっこ     2002年04月03日水曜日
00時05分

「うわはは~。ほんのジョークでございました(;^_^A
それはそうと、刺史! うーん…堅パパが豫州刺史を争ったのは、あくまでも袁紹VS袁術の代理戦争だったかもしれないですね~。孫堅の豫州刺史任命は袁術の独断だったみたいですし…。
この場合の豫州争奪戦は、汝南一帯を巡ってのものだったんでしょうか。」

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