43.連衡
INTERLUDE
建安16年9月。
許の宮中にて。
陳 宮:そういや最近、益州どの(張)にマリみてを貸されているそうですな。
呂 布:おう。アニみても終わったし、ちょうどいい頃合いと思ってな。
陳 宮:全巻をお貸しに?
呂 布:まさか。最初の何巻かだけだ。
陳 宮:……何巻まで貸したんです?
呂 布:無論レイニーブルーまで。
陳 宮:あんた鬼だ。
第四三話 連衡
建安16年11月。
洛陽守将馬超の、いわば暴走に始まった官渡城塞攻防戦は、最終的に両軍の主力を呼び寄せる大混戦となり、この一戦で曹操軍率いる十万の大軍は無惨に壊滅した。
この機を逃さず、南蛮王国本営は東進すべきであったが、肝心の呂布は汝南攻略のため都におらず、第二軍団の大金星も空回りする結果となった。
が、それでも呂布の帷幄は機に聡い。
河内の呂刀姫と長安の韓遂連合軍が、官渡城塞を「攻略し忘れる」という信じがたいミスを犯して撤退してしまった直後、汝南を陳宮に任せた呂布は、一軍を官渡へ向かわせている。
――官渡城塞は、今度はあっけなく破壊された。
更に呂布、向朗率いる工作隊を東へ突出させ、陳の拠点に石兵陣を構築した。これにより南蛮の防衛線は一挙に東方へ押し進められた形になり、初闖B以東の曹操の支配力は著しく減少した。 建安16年12月の中原情勢は、こういう形で開始される――。
主役交代【1】
…許の丞相府にあって、呂布は苛立たしげに貧乏揺すりをしている。
群臣は困惑気味に顔を見合わせるばかりだ。こう言うときに主の相手をしてくれる軍師・陳宮が、いまは汝南の太守として許を離れているのである。
除@越:――殿下、心ここに在らずといったご様子ですな。
呂 布:あー。なんつうかなあ、しばらくCOMに任せてたら、人事やら部隊配置やらをエラい布陣にしてやがってな。手動で直すのもかったるいしなー。
ちなみに、現在のPC(プレイヤーキャラクター)は、呂刀姫から呂布にチェンジしている。いわゆる「中華ツール」の誇る超法規的な機能だ。
呂 布:太守の人選以前の問題だけどさ、「X」の致命的な欠陥は、太守を任命した都市から、物資やら部隊やらを呼び寄せられない事だよな。
除@越:…はあ、まあ確かに。イザというとき、太守を一度解任しないと、後方都市の部隊を前線に回せないですし。
呂 布:いくらPC太守の保護策にしても、融通が利か無すぎる!ユーザービリティの欠片もない!
ずいぶんと機嫌が悪い。せっかく南陽(宛)で完成した歩・弓兵編成所が、太守張既に独占されてしまい、計画手順がずれてしまったのだ。張既を解任して宛を無人城にすればよいのだが、よりによってその張既が長期の任務に就いてしまい、いつ戻ってくるかわからないという。
呂 布:あーめんどくせーなー。元戎弩兵が作れないなら、井蘭は永昌で装備できるけど、遠いしなあ…
除@越:背に腹は変えられますまい。3部隊ほど永昌へ輸送し、然る後に装備を指揮する将をお選びくだされ。
呂 布:はぁー…
呂布、ため息をついて苦手な事務作業を続ける。傍らに陳宮がいないのも、いつもと勝手が違う原因であろう。ちなみに陳宮もどこぞへ外出しており、太守変更できない状態だ。
………
……
12月中旬、しばらく姿を見かけなかった内政担当官らが一斉に報告に戻り、人買い(補充担当)たちが百人単位の兵卒をチマチマと集めてくる。
呂 布:効率悪いな、この募兵システム。一発で一万くらい集まらんのか。
厳 顔:はあ…。しかしながら許の人口も残り3万を切っており、あまり集めすぎるとゴーストタウンになってしまいまするぞ。
呂 布:ふん、都市の空洞化ってやつか。…ていうか、人口が3万の都市に、15部隊13万の軍団って無理ないか?絶対。
劉 循:言われてみれば…
呂 布:だからあ、この「人口」って、徴兵可能人数って意味だよ、きっと。
徐 晃:なるほど。
などと脳内補完論を語る呂布のもとに、ようやく宛から引き上げてきた軍師・陳宮が到着した。嬉々としてハイタッチで出迎える南蛮王国の首脳陣。
陳宮は、しれっとした顔で呂布の傍らに立った。
連衡の計
丞相府から南蛮王府へ場所を移し、呂布はこの年最後の軍議を開催する。
呂 布:策を申せ。
獣皮を敷き詰めた玉座にある呂布は、開口一番、ドンと戟の石突きで床を打ち、一同を睥睨する。これは南中で酋長をしていた時代からの風習であり、傍らに控える陳宮か張障・ェ、恭しく一礼して王の方針を問い、しかる後に群臣へ諮問するというのが通例であった。
この日も例に漏れず、到着したばかりの陳宮が、呂布に方針を問うた。
呂 布:合従とやらが面倒だ。何とかしておけ。
陳 宮:御意──。
呂布の一言は、しばしば歴史の分岐点となる。たとえそれが忠吉さんの散歩の最中に思いついたものであれ、総軍65万の兵馬は、その一言を実現するためだけに機能するのだ。
さて、「何とかしておけ」と言われた群臣は、方法を論じなければならぬ。
幸い今回、呂布の方針は大戦略に合致している。──すなわち、合従軍たる袁・曹・孫連合を解体せしめ、三正面作戦を強いられる現状を打開する事こそ、現在の南蛮が採るべき急務なのであった。
陳 宮:ということで、連合を切り崩す方法を、ひとりずつ発表ー。
一 同:うーい。
劉 備:時計回りでよろしいか。私一番最後で。
除@越:あ、ずるい。
例によって呂布を前に車座になり、わいわいと群議をはじめる光景も、以前と変わらない。
劉備の右隣に座っていた除zが、眉間をしかめながら、連合の仲を裂く計略を述べはじめ、一同は深くうなずき、順々に補足を加えてゆく。
劉 循:現在、面倒なのは孫策。これは間違いない。柴桑に集結している軍団は、20万を数える。
楊 阜:戦力だけなら、袁紹と曹操はその倍はありましょうが。
除@越:条件が違う。袁紹も曹操も、交戦点は洛陽か許の近辺ゆえ、関の防御力を頼ることができるが、荊州・交州は全くの無防備だ。それに士一族の防戦力にも限界がある。
陳 宮:おまけに遠すぎるな。孫策が南海方面へ軍を出したとして、許から援軍を送っても間に合わぬ。
深刻な話である。荊州の治府がある襄陽には高順と諸葛亮が10万を、前線の江夏には関羽が9万の大軍を率いて駐留しているのだが、悲しいかな、COM太守はCOM太守。敵の寄せ手が領内拠点で足止めされているところを、野戦迎撃する、などというルーチンをとってくれるかどうか甚だ疑問なのであった。
結局のところ、国土防衛における迎撃戦は、PC君主の本拠地近辺でしか、まともに発生しない事になる。この場合、本国との距離が最大の敵ということになり、ある意味リアルな緊張感を伴っていた。
除@越:つまり、最も微弱で最も遠い東呉が、いちばんうるさい存在だ。連合を崩すとしたら、まず孫策を切り離して盟を結ぶしかありますまい。
陳 宮:然り。意味は違うが、遠交近攻が戦略の骨子だな。
意見がまとまったところで、一同、呂布を仰ぎ見る。
呂布、ところどころ話を聞いていたようで、いいんじゃないの、という感じでヒラヒラ手を動かす。
陳 宮:幸い、孫策と曹操はデフォで仲が悪いからな。同盟関係にあるのに「険悪」状態だ。「二虎」の計一、二回も中れば、同盟を離れるだろう。
韓 嵩:逆に孫策と我々の仲は悪くありませぬ。周瑜は大局を見る男だが、孫策は馬鹿だといいますし、こちらが辞を低うして盟を申し出れば、あっさりと承けるのではないかと思われます。
──これで方針は、ほぼ定まった。
一同を代表し、陳宮が王へ確認を促すと、呂布はふたたび戟の石突きで床を衝いた。王許を下した、ということである。
呂 布:孫策への使者だが、誰を遣わすんだ。
陳 宮:我が軍には、刑道栄、劉備、糜芳らがおります。万が一にも失敗することはありますまい。
呂 布:…前から訊きたかったんだがな、オマエらのその人選はどうやって決めてるんだ。
陳 宮:まあ要するに劉備にしろって言いたいんですけどね。
呂 布:そうだな、さっきズルしてたしな。おい、耳にょん!
劉 備:へへー!
呂 布:聞いての通りだ。貴様はこれから孫策のもとへ赴き、南蛮との同盟を締結させろ。念のために露払いはつけてやる。
劉 備:ありがとうございます。
平伏する劉備。こうして見ているとまるで道化師だが、この男はれっきとした漢王朝の高官であり、あらゆる能力が高く、弁も立つ。使者には最適であろう。
加えて、彼に先立ち、糜竺、障ナ芝という外交巧者へ贈物を持たせ、孫策のもとへ送り出すあたり、呂布もようやく外交の妙というものが解り初めてきたらしい。
…………
………
……
手形を見せてみようか
内政や兵員補充・訓練の指示を下し、劉備らを送り出した翌日、呂布は赤兎にまたがり、ぶらりと城外へ出かけた。
内政の結果待ちは、君主にとって非常に暇な時間である。せいぜい酒宴やプロ市民の苦情解決くらいしか、やることがなくなるのだ。
厳冬といってよい12月の寒気が、潁川の野を吹き抜けていく。とはいえ北原の塞外が長い呂布とっては、春のそよ風にも等しいほど穏やかな気候である。
呂布はのんびり北へむけて騎行を続け、官渡の石陣を避けて東へ騎首を向け、いつのまにか緊張地帯を抜けて曹操の勢力圏へと入り込んでいた。それを知りながら、呂布は悠然と駒を進め、とうとう曹操の本拠地である陳留まであと数里という地点に到達してしまった。
このあたりは、さすがに曹操の威令が行き届いていると見え、旅人や行商人が穏やかな顔をして盛んに行き交っている。
そんな中を、ばけもののような怪馬にまたがった巨漢が、冗談のように巨大な戟を携えて悠々と闊歩しているのだから、呆れるほどに目立つ。
…周囲が立ち騒ぐ中、あわてたように、一騎の影が呂布へ接近し、街道からとにかく呂布の姿を遠ざけた。
張 既:──ご主君、冒険も大概にしてくだされ。
呂 布:あっ!オマエ、先週から探してたんだぞ! ──こんなところで何やってやがるんだ。
張 既:それは私の台詞です。どうもあなたは、他人から見た自分の姿というものを解っていない。
呂 布:失敬なやつだな。俺様は、酒場の親爺に言われて、陳留の特産品を調べにきてるのだ。
張 既:何やってるんですか、あなたは!
張既、呆れたように叫ぶ。いまや天下の二分の一を支配する王が、酒場の市場調査のため、敵国の本拠地まで単騎潜入していると言う事象が、まだまだ彼の正気の埒外であった。
呂 布:他にやることが無いのだ。…それよりオマエこそ何をしている。旧主が恋しくなったのか?
張 既:違います!私は朱霊将軍の引き抜きに参ったのです。
呂 布:朱霊?
呂布にも聞き覚えのある名だ。曹操軍の中核とは言えないまでも、まず中堅どころの将として、第一線に重きをなしている。決して下っ端部将ではない。
呂 布:そんな奴が曹操を裏切るかね。
張 既:我が軍の流言が功を奏し、だいぶ疑心暗鬼に駆られているようです。
呂 布:ふうん…
それなりに陣容の充実してきた呂布にとっては、朱霊の一人や二人、ことさら国家の大事と騒ぐほどではないのだが、曹操にとってみれば、彼を失うことは手痛い損失には違いない。
二人は何となく駒を並べ、そのまま陳留城の城門をくぐる。
──と、やはり、手配が廻ってたのか、門番が一人、矛をしごきながら立ち塞がってきた。
門 番:怪しい奴め! 司空の手形はあるか!
呂 布:おい、ばれたじゃないか。
張 既:ばれないと思ってたのですか?
呂 布:ちっ!俺様もビッグネームだからな。──いかにも、俺様が指名手配中のハート泥棒、呂布奉先よ!
張 既:うわあ、痛っ
呂布が堂々たる武人の名乗りを上げている間に、張既はこわごわと距離をあける。呂布と聞いた門番、可哀想なくらい蒼白になるが、感心にも逃げずに立ち向かってくる。
その健気を哀れんだのか、呂布は大戟の一撃で、門番を馬上から吹っ飛ばして気絶させた。
呂 布:立ち向かってこないで、仲間呼べばいいのにな。
張 既:そりゃ殿下はワンクリックで勝負つくからよろしいでしょうが、文官でプレイしてるときは、門番一人でも十分強敵ですからな。
呂 布:ちっ、弱虫どもめ。…というかさあ、「X」も太閤立志伝2みたいに「同行システム」採用すればよかったんだよ。それなら護衛付けられるし、訓練の時に後継者も育てられるし。
張 既:ああ、それはありますな。せっかく「舌戦」という概念があるのに、武官プレイではまず使う機会がない。二人連れなら、使う機会もぐんと伸びますな。
呂 布:うむ。鍛冶屋の息子の場合とかな。よほど斬り捨てて首だけ連れて帰ろうと思ったことか。
張 既:危ないなあ…
雑談しながら、ふたりは陳留の市場で分かれた。
呂布、適当にぶらつきながら市場を冷やかし、特産品であるという麦の調査だけして、さっさとその場を立ち去った。かさばるので、許の連中のお土産に向いてないと思ったのだ。
青蓋をさして
年が明けて、建安17年(212年)、1月。
この年、最初の訃報が諸侯の間を駆け巡った。
巨星、墜つ――
北方の覇王、大将軍・冀州牧の袁紹が、にわかに病を得て薨じたのである。享年、58歳。
遺命により、後継者は長子・袁譚に定まった。
呂 布:…袁紹って死んでなかったけ?
陳 宮:だからあ、あれは殿の夢なんでしょうが。夢オチ。
呂 布:そうだっけか。
呂布にとっても旧知の人物ではあるが、あまりよい想い出があるわけではなく、感慨もない。感慨があるといえば、むしろ奔走の五友として袁紹らと天下に名を馳せた、張の方こそ、然かるべきであろう。
その張であるが、北西へ向けて哭を行い、敵対者の死を悼んだという。その事について呂布は特に咎め立てしなかった。呂布が行った嫌がらせといえば、せいぜいマリみて続刊「パラソルをさして」以降の郵送をさらに一月延ばしただけである。
いずれにせよ、天下にとって袁紹の死はあまりに巨きい。
袁紹にしても、袁術にしても、その声望は彼らの背負う名門・袁氏全体に向けてのものであったが、二人とも、その家名を乱世の中で最大限に活かす術を本能的に知っていた。そういう意味では、ふたりとも立派な風雲児であり、袁氏以上の名門であるはずの楊氏や陳氏を遙か下風に跪かせ、存分に歴史の主役を演じきった。
呂 布:存在感だけはやたらとあったな、そういえば。
陳 宮:弟の方もね。
呂 布:振り回されたもんなあ…
いわゆる「三国志」の前半戦は、まさしく袁紹と袁術の背負った虚名が覇を争う、壮大なる兄弟喧嘩の物語であった。
皮肉なもので、袁紹の属将の如きであった曹操が、袁術を叩いている間になんとなく袁紹から独立を果たし、また袁術の部将であった孫堅の息子・孫策は、袁術のコントロールを逃れて、当時フロンティアであった呉・越を拓いて独立王国を築き上げ、結局その二人の方が生き残ったのである。
で、後漢最後の覇者・袁紹の跡を継いだ袁譚は、如何なる人物か。
天下の耳目は、むろんその点に集中する。
──が、袁譚は父に比べても、凡庸な男であった。性質は温厚で、部将としてはそれなりの勇略があり、輔弼に恵まれている限り一県・一郡を任せても不安ない吏能を兼備しているが、精々がそこまでの男だった。
呂布や曹操の幕下におれば、あるいは累世していずれ刺史にもなれたかもしれないが、彼らに取って代わって覇王となる事は、決して無いであろう。
いわば一般人が、急に英雄のひしめき合う舞台に引き上げられたところに、彼の悲運があったといえる。
河北、獲るべし──
南蛮の世論は、一挙に北へ向こうとしていた。…巨人亡き今、孺子が守る黄河以北を席巻し、曹操を挟撃せん、と。
ちょうどその折り、孫策のもとへ遣いしていた劉備から、首尾よく孫策を説得し、不可侵条約を締結してきたという報せを受けて、南蛮王宮は一挙に沸いた。
南蛮王臣下としての劉備の活躍のうち、その最も大なるは、孫策を口説き落としたことである、と後の世に称えられたほどの功績であった。
そうした王宮の動きに押されたのか、この月、COM武将である呂刀姫の第二軍団が動いた。
河内を出撃した彼女の軍団は、7万の軍で壺関を攻め立て、これを陥落させた。上党には、并州刺史の高幹が軍を展開させていたはずだが、彼は結局動かなかった。
この場合、壺関奪取の意義は大きい。ここは并州から北へ抜ける回廊の入り口にあたり、河北制圧のルート分岐点にもあたる要害なのである。
呂布は刀姫を支援するため、江夏の関羽軍、襄陽の高順軍の一部を并州回廊へ向かわせるべく、手配を開始した。
そして、二月――
益州からの飛報は、まず陳宮の元へ届けられた。
帛を一読した陳宮は、天をにらみつけると、公孫楼、劉循を伴い、緊張した面持ちで呂布に伺候した。
呂布はその日、許の宮中で、新たに幕下に加わった張苞を謁見していた。張苞青年の、父親譲りの骨柄を見て、これは刀姫に付けるか手元で育てるべきか、迷っていたところであった。
呂 布:――おお、陳宮に楼ちゃん、劉循、いいところに。この張苞なんだが、あんまり刀姫の周りにイケメンばっか揃えるのも、父親の在り方としてどうかと案じていてな。
陳 宮:――殿下。益州より報せでございます。
呂 布:あ?また益州か? 駄目駄目、奴には当分、成都でレイニー止めの新記録を更新しつづけて貰う。
陳 宮:残念ながら、3ヶ月で記録は止まりました。
呂 布:何?本屋で買ったってのか? …おかしいなあ、益州の書籍流通は封鎖してたつもりなんだがなあ。
陳 宮:…張殿は、先月末、身罷られたとのことです。
呂 布:――。
建安17年、二月。
先月、天下は袁紹を葬送したばかりのはずであったが、この月、また一人の名士を送ることとなった。
――張孟卓という人物は、その生涯を手短に説明しづらい人物である。
州東平の産で、袁紹とほぼ同じ世代と思われる。曹操が実兄以上に慕い、わが児、わが一族と莫大な家財をまるごと託そうとさえ考えたほどの恵恤の人で、それがために若い頃、天下八人の御厨として渾名されている。
いわゆる月旦のなかで、最年少のひとりであろう張は常に最上位に在り続け、その八厨の名誉を不動のものとしていた。生粋の清流派名士というべきだ。
張は、その当時から袁紹を次代の舵取りとして選んでいたらしい。南陽の名士・可丈ャらとともに、青年たちを集めて一種の袁紹党をつくりあげ、次代を牽引する青年たちを組織していた。
ところが黄巾の乱があり、董卓の禍が世を覆う頃から、張は少しずつ袁紹の器量才幹の限界を見、急激に曹操の方へ傾倒してゆく。
これは、と思う人間に対し、必要以上に入れ込むのが張の奇癖であろう。さらに彼は、呂布という豪傑の益荒男ぶりに惹かれ、その事から生涯を踏み誤るに至った。
――彼が陳宮・張超らに唆され、呂布とともに曹操の留守を乗っ取った事件の結末は、よく知られる通りである。
南蛮王呂布の配下としての張を、古の蕭何と比する声は、彼の生前から高かったが、いささか先読みし過ぎと言うべきである。確かに彼は常に後方にあって、内国の統治や兵站維持に選任し
てきたが、中央で天下の宰相としての手腕を振るう機会を目前に逝ってしまった。
彼の政治力83と魅力87は、南蛮王国にとって貴重であったが、稀有というわけでもなく、執政能力だけならば蜀からの臣にも彼を上回る逸材は何人か居た。
それでも呂布が張を重用し続けたのは、彼が呂布の義兄であった事は措いて、むしろ彼の教化が及ぼす後方の平穏を尊んだためであった。
ゲーム上での享年、57歳。のちに厳侯と諡され、三公の位が追贈された。
………
……
胡 姫:――寂しくなりますね。
呂 布:ふん。
并州方面軍の展開を中止し、許にて盛大な葬儀を行った後のことである。
喪服姿の呂布は、胡姫と忠吉さんを連れて、ひっそりと墓陵へと訪れた。
呂布にとってははじめての、友と呼べる男の死であった。
呂布は哭という風習がどうにもわからず、泣いたとしても人前ではなかった。
妻と愛犬が見守る中、呂布は墓陵の中程に穴を掘り、九泉の下、張が退屈しないよう、「インライブラリー」までを含めた既刊分を安置した。
棺に入れないのは、新刊が出るたびに墓陵を掘り起こし、死者の魂を驚かせるのを避けるためであった。
さらに天子に上奏して青い蓋を戴き、勅許を得て墓陵に捧げた。
青蓋の使用は皇帝にしか許されぬもので、呂布でさえ生涯、用いることが無かったため、世の人々は、張一代の誉れであると噂し合ったという。
………
……
建安17年3月、刀姫と関羽の率いる軍勢は、壺関を抜け、無慮上党を攻め立て、翌4月、これを陥とした。
同時期、陳の軍事拠点を奪還するために出撃した下障・フ夏侯惇軍は、見事石陣に惑わされたところを、呂布麾下の高順軍に襲撃され、潰走した。この戦いで夏侯惇は、駿将曹純を失った。
そして呂布は、張亡きあとの第三軍をふたたび第一軍におさめ、益州を守備していた十四万の軍兵を、益州兵と名付けて洛陽・許の前線に配属させた。
――南蛮王呂布による最後の大親征が始まろうとしていた。