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【1:435】★『宮城谷三国志』総合スレッド★
1 名前::2002/10/27(日) 01:03

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年05月17日 (木) 00時16分30秒 

宮城谷先生の「三國志」、まだ「序文」ですがさすがに「深い」ですね〜!
こりゃあ後漢書一年生の私としては読みがい有りすぎ! 初っ端が楊震でしたし〜。
ああ、はやく文庫版が出ないかな〜ッ! くわ〜!

426 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:23:05 ID:???0
続き。

諸葛瞻は諸葛亮の子で、幼少の頃より、父の偉大さを聞かされて育ってきた人物です。彼への期待は大きかったのですが、
器量については父には及びませんでした(黄皓の専横を止められなかった、等)。
とはいえ、国への忠義は父の名に恥じません。その決死の戦いぶりは、明らかに劣勢であるにもかかわらず、一度はケ艾の
軍勢を退かせたのです。
しかし、時の勢いの差は如何ともしがたく、ついに戦死。ケ艾の軍勢は、成都近郊にまで至ります。

当然ながら、蜀漢の宮廷は大混乱に陥ります。魏に降るべきか、南方に逃れるべきか。籠城する、という選択肢が挙がら
なかったのは確かに不思議ではありますが、首都近郊にまで敵軍が来た以上は、籠城しても勝ち目がない、と判断しても
おかしくはないところです。
 通常、自軍の軍勢が健在であれば、敵軍がここまで来るはずはない、と考えるでしょうからね。あと、呉に降っては…
 という声もありましたが、すぐさま却下されました。同盟関係にあるとはいえ、先帝の仇ともいえる呉は、信頼できる
 相手ではないのです。

意見はいろいろありますが、猶予はありません。ここで議論の流れを決定づけたのは、譙周でした。

続きます。

427 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/05/08(水) 00:25:06 ID:???0
続き。

譙周という人の評価は難しいところです。学者としては優秀です(三国志の著者・陳寿の師でもある)し、この時の意見も
正論です。しかし…国家への忠誠、という点では、どうも引っかかります。

とはいえ、彼の意見は、(この状況下では)十分過ぎるほど理に叶ったものでした。前線の状況が分からない以上、ケ艾と
戦っても勝てる見通しはありません。ここで戦えば、皇帝の身も危うくなります。
一方で、先の曹髦のことがあります(皇帝弑逆との批判をかわすため、司馬昭は、敵を作らないことに腐心せざるを得ない)
から、ここで降れば皇帝の身の安全は保証される、という冷静な計算もありました。
もちろん、ここで戦って民にさらなる苦難を与えることは避けたい…という為政者としての責任、というのもあります。

劉禅としても、苦しい決断ではありましたが…ことここに至ってはやむなし。ついに、降伏を受諾しました。子の一人・劉
ェは、先帝に申し訳ないと父を批判したのち、自害して果てましたが、これは国民への弁解である、と書かれているように、
いろいろ難しい事情がある、ということを考えさせられます。

昨日まで至尊の存在であった皇帝が、今日は罪人として敵将の前に身を晒す。ケ艾は、国が滅びるとはこういうことか、と
感慨にふけります。


追記。

物語においては、劉禅の降伏は批判的に書かれることが多いと思いますが、本作では、割と肯定的に描かれていました。
状況を考えれば、賢明な判断であったのは確かですしね。
今回で、「三国時代は終わった」わけですが、まだ「完」ではありません。最低でももう一回はあるわけですが…どこまで
描かれるのでしょうか。

428 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:47:00 ID:???0
三国志(2013年05月)


今回のタイトルは「滅亡」。今回が、真の意味での蜀漢の最期、なのでしょうか。しかし、それだけでもないような。

ケ艾は、この戦いに臨む際に夢をみました。爰邵という人に問うたところ、成果はあがるが…という解釈。吉か不吉か
難しいところですが…ともあれ、成果はあがりました。ここからどうするか、が新たな問題です。
降伏を受け入れ、旧蜀漢の君臣に寛容の姿勢をみせると、続いて占領地行政を取り掛かりました。このあたりはそつ
なくこなします(大功をあげただけに、いささか舞い上がった言動もありますが)。
そして、呉への侵攻をも企図します。先の夢占いのこともありますし、軍略家としての血が騒いだ、というのもある
でしょう。これは司馬昭が早計であると却下しますが、ケ艾は諦めません。

しかし、ケ艾は、一つ忘れていました。この戦いの総司令官は、文才に恵まれ、策謀にも長けた(そして気位の高い)
鍾会なのです。ここまでのケ艾の働きぶりは大いに称賛されるべきものですが、それは一方で、人から妬まれる危険
をも孕んでいました。
そして、年明け早々、ケ艾の運命は暗転します。叛意ありとして都に送還させられるというのです。それは、鍾会の
讒言によるものでした。

続きます。

429 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:48:18 ID:???0
続き。

さすがのケ艾も、これには為すすべもありません。三公にまで登りつめた直後のこの仕打ちなのです。しかし、本当の
「滅亡」は、これからでした。

さて、鍾会と激戦を繰り広げていた姜維は、成都付近に敵が現れたとの知らせを受け、急行しましたが…途中で皇帝が
降ったと知らされます。
何のために戦ってきたのか。こちらも呆然としますが、何か思いついたのか、「蜀漢はまだ滅んでおらぬ」と立ち直り、
成都にいるケ艾にではなく、鍾会に降ることにしました。腐れ縁の張翼も一緒です。

蜀漢の柱石たる姜維が自分に降った。この意味の大きさを、鍾会はよく理解していました。これによって一応の面目は
立ったからですが、それだけではない含みがありました。
鍾会は、降った姜維を厚遇し、彼の名によって武装解除された蜀漢の将兵を集めようとします。これは、一体…。

続きます。

430 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/06/10(月) 07:51:37 ID:???0
続き。

かつて傅嘏が危惧していたように、鍾会は、己の才智に驕っていました。姜維が降ったことで、自身が率いる大軍に
加えて蜀漢の精鋭も手に入れられる、となると…結構な兵力になるわけでして、要害の蜀の地に拠れば、あるいは…
と思ったようです。
ケ艾への讒言も、彼の暴走を危惧して、というようなことではなく、嫉妬と、邪魔者は…というものでした。
もっとも、司馬昭(及び王夫人)も、鍾会の野望の大きさには気付いていました。その上で蜀漢征討の総司令官に
任じたわけですから、やはりこちらの方が上手でしたが。

鍾会は、蜀漢の歴戦の将兵を使って野望の実現を目論み、姜維は、お膳立てが整ったところで鍾会達を消して蜀漢の
再興を目論む…。互いに互いを利用しているわけですが…

思わぬところで破綻が訪れました。鍾会が、旧蜀漢内の兵力の完全掌握のため、非協力的な将兵の殺害を図っている、
ということで、内紛が勃発したのです。
なにしろ、旧敵国内ですから、彼らは孤立しています。殺される、という恐怖は相当なものであったはずで、これに
よって、鍾会も、姜維も斃れます。

檻車に収容されて洛陽に送られているケ艾は、この時点ではまだ生きていますが…

431 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:24:28 ID:f69prmJ00
三国志(2013年06月) 最終回


今回のタイトルは「晋王」。約十二年にわたって続いた本作も、ついに完結の時を迎えました。呉の滅亡等、まだまだ
書いていただきたいことはあったのですが…最後は正直、「そうきますか」という思いでした。

鍾会・姜維が斃れたことで、蜀の混乱は、ひとまず収拾がつきました。監軍の衛瓘は、蜀の天地をみて、しばし感慨に
耽ります。
かつて公孫述は、この地で自立して天子と称しましたが、光武帝によって滅ぼされました。劉備もまた、この地に割拠
して皇帝を名乗りましたが、子の代で滅びました。そして鍾会も、あらぬ野心を抱きましたが、果たせず、斃れました。
この天地には、人の気宇を広げるものがあるようです。では、衛瓘は、どうなのでしょうか。

彼には、そのような野心はありません。ここでの彼は、あくまで監軍。司馬昭の名代に過ぎないのです。その程度の
冷静さは持っています。そんな中、驚くべき知らせが届きます。混乱の中を抜け出した兵達の一部が、ケ艾を奪還し、
こちらに向かってくるというのです。
ようやく事態の収拾がついたばかりのところに、(罪状未確定とはいえ)罪人のケ艾に来られては困る。衛瓘は、決して
ケ艾に同調しないであろう将の田続(蜀漢征討戦の途中、進軍を停止したとして処断されそうになった)に命じ、これを
迎撃させます。
…時に利あらず。さすがの名将・ケ艾も、衆寡敵せず、ついに落命しました。

衛瓘のとった措置を、杜預は批判しました。後に衛瓘は、杜預が予言したように無残な最期を遂げるわけですが、それは
ともかくとして、ケ艾の死によって、名実ともに三国時代が終わった、とされています。
(本心はともかくとして、実力的に、蜀漢に代わって第三勢力になる可能性を持ったケ艾が消えたことで、天下三分は
なくなった、ということ)

続きます。

432 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:26:50 ID:f69prmJ00
続き。

比類なき大功を挙げながら非業の最期を遂げたケ艾ですが、一族のその後は、さらに過酷なものとなりました。ようやく
許されたとき、晋の世(=司馬昭の死後)となっていたのです。
ケ艾は無実でした(少なくとも、死に値するような罪を犯したわけではありません)。しかし、比類なき大功それ自体が、
やがて司馬昭を脅かしかねないものとなっていたことが、彼の運命を暗転させることとなりました。
そして、司馬昭の降した非情の決断は、たやすく訂正するわけにはいかなかった(訂正すれば、司馬昭の判断が誤りで
あったとされるため、できなかった)のです。
一方、鍾会については、兄の鍾毓(鍾会が叛く前に死去)が、以前から弟について危惧していたことを知っていたことも
あり、(鍾会の子(養子?)以外は)おおむね寛容な措置がとられました。

ともあれ、蜀漢の征討という一大事業が成りました。多分に天命を意識するようになった司馬昭は、ここに至って王位を
受けることとしました。
司馬氏に利用されつつも、それでも一応の歯止めとなっていた郭太后が崩じたことも、それを後押ししました。

そんな中、先の蜀漢皇帝・劉禅の一行が到着しました。彼は、姜維の計画に乗ることはなく、兵乱が生じるとすみやかに
脱出して難を逃れました。ただし、(父譲り?の)逃げ足の速さに殆どの臣下は付いていけず、郤正等、わずかな卑官が
つくだけでしたが。
それでも司馬昭は、劉禅の徳がまだ尽きていなかったのだ、として、軽んずることなく迎え入れました。

続きます。

433 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:28:42 ID:f69prmJ00
続き。

劉禅は安楽公に封ぜられました。宴の席で「ここは楽しい。蜀の地を思い出すことはない」と発言したことに司馬昭は
驚きますが、その真意に気付いたかどうか。
愚昧と蔑まされることに耐えられれば、小国の皇帝という重圧から解放されたという気楽さがあるのは確かですが、幼
少期から過ごしてきた、故郷と言ってもよい蜀の地を思い出さない、ということはあるのでしょうか。そうであれば、
劉禅とは相当の非情の人ということになりますが…。

劉禅が洛陽にあったその頃、蜀の地は、いまだ戦いの中にありました。といっても、蜀漢の旧臣が魏に抗戦していると
いうわけではありません(劉禅の停戦命令は厳守されていました。没後三十年経っても、なお、諸葛亮の厳正な政治の
影響は残っていたのです)。呉の、火事場泥棒的な侵攻と戦っていたのです。

もちろん呉にしても、最初から火事場泥棒を狙ったわけではありません。同盟国の危機ということで援軍を向かわせた
のですが、間に合わなかったのです。
蜀漢からは魏に降伏した旨の連絡はありましたから、そのまま撤退してもよかったのですが、蜀の地が魏のものになる
ということが何を意味するか、と思えば、蜀の地を抑えたいと思うのも、無理からぬところでしょう。
しかし、この暴挙は、蜀漢の旧臣達を激怒させました。

特に、羅憲の堅守は相当なもので、最終的にはゆうに十倍を超える敵と戦うこととなりましたが、魏の支援が得られた
ことで、何とか守りきることができました。

続きます。

434 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:31:03 ID:f69prmJ00
続き。

同盟国を失った呉は、大いに動揺したものと思われます。それから程なく皇帝・孫休が崩じると、幼少とはいえ太子が
いるにもかかわらず、孫皓をたてたのですから。
孫休は、先に孫綝を倒したことからも分かるように、無能ではありません。しかし、国内が落ち着いたと感じると学問
に耽る等、消極的な人物でした。一方で、孫皓は、積極的(に見える)人物だったのを期待されたのでしょうが、一つ
誤ると暴君と化す恐れがあります。事実、そうなってしまうのですが。

蜀漢が消え、呉も衰勢にある。そして、魏はもはや司馬氏の手中。司馬昭は、後漢末期から続いた乱世が、もうすぐ
収束することを確信していました。
しかし、一方で、それを為すのは自分ではなく、子の司馬炎であろう、とも感じていました。
かつて曹操は、自らを周の文王になぞらえました。それは、帝王というものの重さを自覚するが故の発言でした。司馬
昭も、それに倣うこととしたのです。

ここでの司馬昭の評価は、なかなか興味深いものがあります。いわく、自分から仕掛けることが少なかった、と。確か
に、兄の司馬師が健在であれば、彼が前面に出てくることはなかったでしょう。
司馬昭の立場でみれば、曹髦を死に追いやったことは痛恨事でしたが、そこに策謀の影を見るか、というと、確かに…
なのです。
(まあ、事後処理についてはやりようがあったとは思います。後々のことを思うと、賈充は処断すべきであった、と)

続きます。

435 名前:左平(仮名)@投稿 ★:2013/07/21(日) 00:33:21 ID:f69prmJ00
続き。

おのれが何を為したか。天、地、そして自分。この三者が知っていればよいのではないか。司馬昭はそうも思いますが…
やはり「子(なんじ)」は必要なのです。天地のような全くの第三者ではない、しかし自分でもない、他者が。

「その存在がなければ、歴史も、物語も、ありえない。」

司馬昭の死と、司馬炎によって晋王朝が成立したところで、本作は終わります。しかし、その直前に書かれたこのことが、
ひどく印象に残りました。

「四知」で始まった物語が「四知」で完結したのです。
(そして、「四知」を意識しなくなったとき、中華の没落は始まった…という、個人的な感想もあります)

名前: E-mail:

【2:593】南蛮王呂布の痛快活劇スレ
1 名前::2002/10/27(日) 01:24

マチカネ福来  投稿日:2000年11月13日(月)01時29分13秒

ぐっこさんはじめまして!!南蛮王呂布の物語読ませてもらいました!!
もうめっちゃ面白くて文章ではじめて笑いました!!
蒼天航路の人物辞典は今日ちょっと重かったみたいなんで今度見させてもらいます〜
最近読んでないんですが、蒼天航路ってどこらへんで休載したんですか??
まだ赤壁とかはやってないですよね?
これからも頑張ってください!!

584 名前:ぐっこ@管理人 ★:2008/04/02(水) 00:18:09 ID:/xywpoDD
書いたよ(゚∀゚)! SSだけど!

585 名前:無名武将:2008/04/04(金) 16:03:25 ID:tOFEWlDf
再開おめでとうございます!

と本気で拍手してしまった俺の立場は

586 名前:お、おれは:2009/02/11(水) 10:11:20 ID:Pbop+ZuB0
突然すみません
南蛮王呂布のindexみたいなのはありますか?
過去話が探しづらくて…

587 名前:ぐっこ@管理人 ★:2009/03/02(月) 15:18:48 ID:oAO6ALBy0
>>586
遅くなってすみません!(;・∀・) インデックス画面、ついこないだ
完成しましたー。

588 名前:ご報告:2009/03/22(日) 03:03:32 ID:J+xElRu10
楽しく拝見させていただきました。時間を忘れる程度には(笑)
突っ込み担当の陳宮が非常にいい味を出してます(笑)

ご報告なのですが、gallery欄の『■公孫楼伝』と
一番下のほうにある『ご感想などございましたら、CAFE専門スレの方まで』
の二箇所のリンクが切れているようです。
お時間のある時にでも修正をお願いいたします。

589 名前:ぐっこ@管理人 ★:2009/03/25(水) 12:23:55 ID:j5yxOK6R0
>>588
ありがとうございます(゚∀゚)ノ! ようこそ!
掲示板の方はつなぎ直しました!
公孫楼伝は、ちょいとデータ探して再うぷします(;・∀・)

590 名前:ご報告:2009/04/17(金) 17:07:33 ID:z5z4r3GC0
ご配慮ありがとうございます(礼)
ところで蒼天航路アニメはごらんになれましたか?


591 名前:ぐっこ@管理人 ★:2009/04/18(土) 23:59:12 ID:JYZpqhHX0
イエイエ〜。
蒼天航路は、東京でシコシコ録画してる友人のビデオ到着待ち!GW明けだなあ…
あと、主に宗教上の理由でにこつべで市販の音楽・映像とTVアニメは見ないことに
しておりまする(; ・`д・´)

592 名前:ただのファン@投稿 ★:2012/05/04(金) 15:46:54 ID:c3zqBQoD0
あと半年で干支が一周してしまう(正確にはもうしているけど)
当時少年だった僕ももう十分なおっさんになりつつあります。

いや〜久々に読み返しても(無論動画も含める)やっぱ面白すぎる。
そして呂布も刀姫も文姫も陳宮も馬雲緑も公孫楼も胡姫も白虎も高順も張虎も張遼もその他キャラクターも
全員素晴らしい。未完に終わってしまいそうなのがとてもとても。

とまあ十年来のファンが改めてここにちっさな感想を残しておく。

593 名前:順平@投稿 ★:2012/05/10(木) 23:25:02 ID:iPjsrpx+0
初めまして、南蛮王を読ませていただきました。
IVの内政と音楽の良さを語っていらっしゃったという、途轍もなく邪な理由でこの作品に感動しました。
もちろん内容も非常に楽しいものでしたので、是非完結までを見てみたいです。

それにしても、10年早く生まれていれば、このサイトに集う多くの方とお話できたと思うと残念です。
といっても私にはついていけるだけの知識はないですが。

名前: E-mail:

【3:291】★三国志キャラの先祖・子孫を捜せ★
1 名前::2002/10/27(日) 21:56

ぐっこ(何か委員会総帥)[近畿] 投稿日:2001年07月26日 (木) 00時35分01秒 

ということで、どなたかご存じの方、教えてくださいませ!
今のところ松竹梅様の情報で、幽州の「盧家」が!
何でも南北朝時代の北朝で、相当な名家と賞されたとか…。
立地条件から言って、これはあの盧植の子孫・あるいは一門かもしれません!盧植の子・盧毓だって魏王朝の高官でしたし。

そういえば、誰かの子孫が西域記の玄奘になったいたような…。陳羣でしたっけ?

それとは逆に、薛(徐州)の田家の末裔が、三国時代に薛氏を名乗っていたという話もありますね〜。薛綜とかが、あの靖郭君や孟嘗君の子孫だったりする可能性も…

282 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:13
 ■皇甫方回
あー、ごめんなさい、私の勘違いだったみたいです。
晋書列伝第四十六の王[广異](オウヨク)伝の記事で、

「王[广異]が荊州刺史となった際に、前任者だった陶侃の故将や
徴士の皇甫方回などを大いに誅戮したので人望を失った(意訳)」

という個所のことだったと思います。子孫でなくて当人でしたね。
時期としては、王[广異]は荊州刺史となった際に前任者である陶侃の旧部下が
彼の就任を拒んで叛徒・杜曾と結託したため着任が遅れたようで、
着任が“杜曾の乱”の完全鎮圧後とするならば319年ということになり、
皇甫方回の殺害もその頃ということになるでしょうか。

 ■系図のミッシングリンク
私も自分のサイトで系図を作っているのでよく分かります。
とりあえず本籍の県レベルまで同じならば血族であることは堅いんですけど、
系図を作ろうとするとやはり“繋げて”みたくなるんですよね。
そして文献を読んでいて困るのが、「そこに記載されていない人物の存在の可能性」ですね。

“Aの子にB、(Aの)孫にC”とあった場合でも、BとCが親子とは限らないわけで、
実はAにはBの他にDという子があり、Cはその子だったという可能性もある。

従弟などの関係でも微妙なところで、
“AとBは兄弟、Aの子にC、Cの従弟にD”とあっても、
BとDが親子とは言い切れない。

ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。
そして羊氏は泰山の羊氏?
鮮卑段部においても、段匹テイの従弟とされる段末杯(末波)は、
匹テイの父・務勿塵の弟である渉復辰の子と断定できるのか?

この辺は史書をしらみつぶしにあたるしかないですね。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


283 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:24
ところで、皇甫姓って安定以外に本籍を持つ系統ってあるのでしょうかね。
本籍不詳の皇甫氏は他にもちらほらと登場しますが…

284 名前:★玉川雄一:2004/11/20(土) 03:55
>>282
失敬、晋書皇甫謐伝の末尾にも皇甫方回の記事はあったのですね。
そちらでも、彼が王[广異]に殺害されたとありました。

ただ、こちら(皇甫方回伝と呼びます)では、
陶侃に替わる王[广異]の着任を阻もうとした勢力は杜弢(トトウ)と結託したとありますが、
杜弢の乱は315年に鎮圧されており、その時点ではまだ陶侃が荊州刺史でした。
陶侃が王敦により廣州刺史へと左遷された時期は特定できないのですが、
315年の時点ではまだ荊州刺史であり、318年には既に廣州刺史となっています。
少なくとも杜弢が反乱している間は陶侃が荊州刺史だったことは確かであり、
皇甫方回伝の記述は矛盾してしまいます。

一方で元帝紀などの記述にもあるように317年に荊州で「杜曾」と第五猗が連合して反乱しており、
これは王[广異]伝にある彼の荊州刺史着任阻止の記述とも一致するので、
皇甫方回伝の「杜弢を迎えて[广異]に叛する」は「杜曾」の誤記ではないかと推測されます。
ちなみに同伝の上記の直前の個所でも、皇甫方回が陶侃を諫めた言葉の中に
「足下は新たに杜弢を破り」とあるのでやはり杜弢の乱が鎮圧された後だと考えられます。

色々と書きましたが、どちらにせよ皇甫方回の没年は310年代後半だろうということで。

285 名前:MM2:2004/11/23(火) 00:37
引き続き皇甫氏についての情報ありがとうございます。

>ところで>>281で挙げられた段氏は四世紀初頭の鮮卑段部のことでしょうか。
>そして羊氏は泰山の羊氏?

紛らわしい書き方してました。すみません。前漢後期の西域都護段会宗を祖先に持つ武威郡の段氏です。
『後漢書』見てると北・西方の異民族討伐に活躍した段氏というのが何人か出てきているんです。
しかしその殆どが本籍不明なので手がかり0な状態です。
その中でも一番気になるのが段[火頃]と段[火畏]の関係で、両者とも武威郡出身という事だけ分かっています。

羊氏は泰山の羊氏です。羊続・[示古]の家系は結構出ているのですが、こちらも陳留蔡氏と姻族であったという、党錮伝に本伝のある羊陟の家系が気になります。
こういった何代にも渡って同じ姓から嫁がせているといった変わった家系には目がいきますね。

286 名前:★玉川雄一:2004/11/23(火) 01:39
>段氏
これは早とちりをばいたしました。
武威の段氏といえば「涼州三明」のひとり、段[火頃]などを出した氏族でしたか。
この辺りはぐっこさんなどが詳しいかと。

泰山羊氏は、世説新語の註を見ていると羊秘の系統が延びてゆきそうなので、
こちらを調べてみたいと思います。
また陳留蔡氏も晋代に何人か登場しており、
史料によって系譜に微妙な食い違いがあったりして調査の必要がありそうです。

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【4:26】人形劇三国志
1 名前::2003/02/11(火) 01:06
こんばんは、はじめまして。
私が三国志を知るきっかけとなったNHK人形劇三国志。
心に残る名場面、名台詞について語ってみませんか?

私のイチオシは第21話「玄徳の結婚」での、曹操と郭嘉の別れの場面です。
長くなりますが、台本形式で書いてみました。
ネタばれが嫌な方は、ご注意ください。




    月明の下<曹操>天下の制圧を<郭嘉>に誓う

官渡の戦いで、7万の軍勢により70万の袁紹軍を破った曹操軍は
破竹の勢いで進撃を続け、袁尚に止めを刺すべく北伐へと出立する。
だが、その陰で曹操軍軍師・郭嘉の身体は静かに病に蝕まれていた。


第一幕<砂嵐吹く荒野>

行軍する曹操軍。
せわしげな蹄の音。夏候淵が駆け寄って来る。

夏候淵:丞相様大変です、郭嘉殿が
曹操:郭嘉が如何いたした!


第二幕<天幕の中>

目を瞑って寝台に横たわり、苦しげに息を付く郭嘉。
寝台に歩み寄る曹操。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


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【5:49】■NHK「その時歴史は動いた」…のかよ…?
1 名前::2002/10/27(日) 22:51

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年08月01日 (水) 22時24分15秒 

先程、久しぶりにNHKの「その時歴史が動いた」を見ました。
何と次回は三国志だそうで。邪馬台国の回以来ですね。

んが。
どうにも怪しい内容。劉備と諸葛亮がメインらしいですが、
一体何を取り上げるつもりなのでしょうか?
まさか赤壁じゃあないですよねえ。
一応あの番組のコンセプトは「歴史上の」あるターニングポイントを中心に構成していますが、彼らにとってのそれとは何だったのでしょう?
天下三分の計? 入蜀? 漢中攻略? あ、呉への出兵か!(皮肉)

このメンツで赤壁というのはナンセンスですし、
三国志で番組本来のコンセプトに沿うなら官渡でしょうが今回それは100%ないはず。
答えは1週間後に。

40 名前:清岡美津夫:2005/03/09(水) 22:27
「取材および再現映像は平成13年8月22日に放送したものです」ってVTRの字幕にでてましたね。
VTRの内容もみた限り、2001年8月22日分とほぼ一緒だったような気がします。
周瑜の名前がでず、「孫権軍の将軍」と一言でしたし、張飛が孫権軍の裏切りで亡くなったことになってましたし(汗)
来週には「曹操=悪」の図式がまたでてくるんでしょうか(苦笑)

41 名前:惟新:2005/03/09(水) 22:45
ホント、以前の放送と同じでしたね(^_^;)
もうつっこむ気にもなれませんでした。
来週は五丈原。諸葛鎮(村)も出てくるようですし、また焼き直しの予感…

42 名前:雪風花:2005/03/09(水) 23:04
やはり焼き直しでしたね。残念です。
前回の教訓というものが感じられず、惰性で番組制作を行っている典型に思えます。

見ていて思い出しましたが、永六輔氏もこの番組が原因でNHKと喧嘩別れしたそうです。
自分たちに都合の悪い部分はとことん隠蔽し、都合のいいことだけを都合のいいように解釈して、
それをあたかも事実として放送する姿勢に、「驕るな」と不満一杯そうだったのを思い出しました。
誤りと偏りに満ちた放送で受信料をふんだくるNHKは、本当の体質改善する気はなさそうですね・・・

43 名前:クロ:2005/03/09(水) 23:13
「前回の教訓」というほど不評だったんですか?
むしろ好評だったから似たような内容できたんじゃないでしょうか。

44 名前:クロ:2005/03/09(水) 23:14
あ、ちなみに初めましてです。

45 名前:★玉川雄一:2005/03/10(木) 00:12
私は先程帰宅したので見られませんでしたが。
まるきり再放送、という訳ではないにせよ「焼き直し」という程度には同じだったのですね。
それじゃあ意味ないじゃん…

というわけでクロさま、まさにこのスレッドの前半に
初回放送時のリアルタイムインプレッションが並んでおります。

この番組は基本的に世間一般の歴史そのものにさして興味ない層に
ターゲットを合わせているようなので、ある程度知識を持ってしまった人にとっては
「何を今更」とか「それは無理ありすぎ」とかなってしまうのです。
ここの住人にとっては初回の時点で既に「底が見えて」しまったため、
その焼き直し程度では落胆するのも無理はない、というか
はなから期待薄だった、というのが実際の所ではないでしょうか。

46 名前:雪風花:2005/03/10(木) 00:34
クロさま、こちらこそ初めまして。

「前回の教訓」
今回は前回放送そのままではなく、ゲストを呼び、新しくスタジオ収録を行っています。
であれば、新発見・新解釈・別視点による再考察など、作り直しされて然るべきです。
にも拘らず、練り直しされた部分も特に無く、前回の焼き直し。
これでは好評・不評以前に、再収録する意味が全くありません・・・

・・・と、長くなりそうだったのでとりあえず「教訓」と表現した訳です。
「前回の放送の反省を元に、練り直しや再考察」
と書いた方が近いかも知れませんが、文才が無いためピッタリの表現が見つかりません。
書き方が悪かったため、結果的にかえって長くなりました。すみません。

ま、そもそもこの番組自体が、毎回のように歴史考証いい加減過ぎなんで、
予告の時点でたいして期待はしてませんでしたが、ここまでの無意味をするとは・・・
もの作りに対する冒涜に感じてしまいます。

47 名前:クロ:2005/03/10(木) 00:54
>雪風花さま
>書き方が悪かったため、結果的にかえって長くなりました。すみません。

いえ、こちらこそ細かい部分を気にしてしまったようで、かえって申し訳なかったです。

>玉川雄一さま
>まさにこのスレッドの前半に初回放送時のリアルタイムインプレッションが

自分はあの程度の内容でもある程度満足してしまうほどの初心者なので
このスレッドの内容はたいへん参考になりました。

48 名前:★玉川雄一:2005/03/10(木) 02:18
私も何だか嫌みったらしい書き方してしまいましたね。申し訳ありません。
自分とて知っていることなど高の知れたものでして、
知らずにいたこと、思い違いなどまだまだいくらでもあるはずです。
要は偉そうに講釈たれる資格もなかったわけですね。

三国志の世界というのは広く深いものですから、
色々な機会を得て視点のパターンを増やしてゆけば、
判断・分析の幅が広がってさらに楽しむことができることでしょう。
クロさまにもより多くの出会いが訪れることをお祈りします。

49 名前:


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【6:50】【恐怖!】タイムパラドックス発生!【超時空領域】
1 名前::2002/10/27(日) 22:26

玉川雄一[関東] 投稿日:2001年07月23日 (月) 20時45分39秒 

リョウ統というのはアレです、字が公績でリョウ操の息子さん。OK?
で、ふと彼についての疑問が湧きました。

彼の年齢については、享年49歳ということがはっきりしているだけです。
ただ、父のリョウ操が江夏攻めで戦死したときに15歳だったと。
これはポイントでは?と呉主伝を見ると、孫権の江夏(黄祖)攻めは202年、207年、208年の3回です。
ただし、リョウ操戦死の回は「孫権が呉軍の総指揮にあたるようになって」とのことですので、一回目の202年と考えて良いでしょう。
すると、202年に(数え)15歳だとすると生年は188年。ちなみに三國志8では189年ですので、ほぼこれを踏襲しているのでしょう。

しかし。駱統伝にふと見かけた怪しげな記述。「(駱統は)リョウ統の死後、その配下の兵の指揮を任された」とあります。
駱統は珍しく生没年がはっきりしており、228年に36歳で死去しています。
さらに言えば、上の記述は駱統が陸遜に従って劉備を破った(夷陵の戦い)という記述より先に登場します。リョウ統の死は意外に早い?
リョウ統伝ほかを読み返してみると、彼について年代のはっきりしている記述は、215年の合肥戦が最後です。その後は地方に出て山越を討伐し、離任する直前に病死したとなっています。
ヘタすると、彼は建安年間中に死去したのでは?

41 名前:もす:2002/11/10(日) 18:51
結局のところ、現状のままだと、どっちも肯定しきれないんですよね(笑)
突撃しちゃ失礼だろうし、メールも・・・う〜ん。。。。。。

[スマソな校正]
「八歳」 → 「九歳」(数え年デス…)
「結婚したのは190年当時」 → 「結婚した190年当時」

42 名前:japan:2002/11/12(火) 23:45
とても明確に論点を纏めてくださり、ありがとうございます >もす様
それにしても、どちらが正解なのでしょう…
13歳で子どもを作ったり(?)、74歳で子どもを作ったりする連中がいるから
ますます話がややこしくなるんですよね。

>ぐっこ様

>japan様が教えを乞われたという方は、専門家の方なのでしょうか…?

どちらかというと専門家の卵にあたる方だと思います。
WEB上の知人なので、私もそれほど多くをお伺いしているのではないんですが…すみません。


――で、自力でつらつらと考えてみたのですが

・「13歳説」の根拠は、確か「爵位を相続できる年齢から逆算して」ということだったと思います。
これもソースは失念してしまいました。申し訳ありません(涙)

・『郭嘉伝』以外で郭奕君が登場する唯一の列伝である『王昶伝』を読む限り、
郭奕と王昶は友人同士(二人とも太子文学に就任している為?)であるらしい。

肝心の王昶の生年は不明なのですが、
(1)同郷の王リョウ(172年生)と並んで名前を知られていた。
   王リョウの方が年長なので、彼を兄と仰いでいた。
(2)没年は259年で、最終官位は司空
(3)嗣子・王渾の生年は223年(『晋書』王渾伝より)
という三点から考えて、180年前後と見るのが穏当だと思います。

そうすると、王昶の知人兼同僚だったという郭奕も、180〜190年位に生まれたと
考えるのが妥当なのでは…
190年(あるいはそれ以前)に再婚――という記述だけに目を向ければ、
160年前後に生まれたと考える方が納まりが良いのですが、それだと
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


43 名前:★ぐっこ:2002/11/13(水) 23:06
ぐわ…またしてもパラドクス(^_^;)
うーん…確かに、どれかがウソをついてます、というだけでは
説明できない矛盾が…

再婚…まさか幼い頃から許嫁としていた娘が早世したため、次の
結婚相手を決めた、とかいうオチじゃ…。誰かいましたよね、そういう
ケース。
私もお手上げだなあ…

44 名前:もす:2002/11/16(土) 21:25
 おゎ、そういえば、郭奕以外唯一の太子文学を調べるのを忘れていました。。
某所で指摘されていたのに、詳しく調べていませんでしたぁ。ありがとうございます〜

 すっごい唐突に思いついたんですが・・・
中国も親族を養子に入れることってありますよね・・・ 郭奕は郭嘉の弟だった!ってのはどうでしょう?
郭嘉が早逝したために跡を継いだ、つまり、系図的には『養子』である、と。。。。

やっぱりメチャですね。すいません・・・(;^_^A

 う〜ん、お手上げですねぇ。
ぐっこさん、japanさん、ホントにありがとうございました♪

45 名前:★ぐっこ:2002/11/21(木) 21:42
いえいえ、こちらこそーm(__)m ていうか、私は何もしてない(^_^;)
うーん、郭嘉と郭奕かー…。お手上げ…

46 名前:★玉川雄一:2004/01/12(月) 10:18
そうそう、昨年もすさんの所で目にした衝撃の新事実(事実じゃあないかも)が。
念のためこちらでも披露しておきましょうか。

もすさんのサイト『四史奮迅』に掲載されている「四史人物列伝」において、
“甘寧215年没説”が提唱されておりました。

なんでも、『建康実録』なる地方志には「甘寧が215年の12月に死去した」とあるそうで、
もすさんも直接は確認されたそうではないですが、なかなか興味深い記事だと思いません?
確かに凌統の時と同じく甘寧もまた、
建安年間末期以降の記述に明確な年代特定がしづらいんですよね。
この辺りは「四史人物列伝」でもすさんも分析してらっしゃいますが。

果たして『建康実録』が史料として信憑性があるものなのか、
もしかしたら他にも面白い記事がありはしないか、などと興味は膨らみます。

47 名前:もす:2004/01/13(火) 03:37
えーっと、それらしく言ってしまうと、
私のネタじゃなくって"松"の付く方から頂いたネタだったりします(笑)
その方に質問などが飛び火しないようコラムでは隠していますが、ここなら大丈夫っすよね。

かくいう私が手に入れればいいんですが、最近はやる気が全く出なくて…(;^_^A
ちなみに、建康実録の件は某所でも「怪しいよね」って話が出てました。

48 名前:★ぐっこ:2004/01/14(水) 00:19
あらら、あの方からのお話でしたか…ご無沙汰ですが…
ちなみに215年は、劉備が蜀とった翌年。荊州問題がこじれて呂蒙・魯粛が
関羽とガチに戦いそうになった年ですやね。
そういうときに甘寧さんが亡くなっていた、という説があると。

うーん、『建康実録』…知らないというか、地方誌(;´Д`)!?
有名なのはけっこう知れ渡ってますけど、いっぱいこういうネタ
埋まってるんだろうなあ。
しかし真偽のほどはどーにも怪しいですか(^_^;) いっぺんこういう
本全部そろえてみたいもの…

そういや、陳宮の故郷が県まで書かれてたのって、何でしたっけ?
むかーしゲーパラで立ち読みしてて「ええなっ」て思ったことが。

49 名前:


50 名前:


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【7:12】関羽>徐晃? ちくま和訳
1 名前::2002/11/02(土) 13:27

玉川雄一   

 ■ ちくま和訳ってどうよ? ■

 蜀書先主伝を読み返してビックリ。この部分、和訳が激しく小説調の文体だと思いません? そりゃ彼の人生自体が小説じみてはいましたが、そういう問題ではなく。

 もともと、ちくま和訳には太史慈の「トマホーク」などユカイな訳語が見られますが、先主伝は文章そのものが小説臭く意訳されているような気がします。私は原文読んでないので何とも言えませんが、和訳の担当者によって印象が変わるのではないでしょうか。
 味気ないとは言わずに、原文のニュアンスを失わない程度に和訳してくれた方がありがたいんですけどねえ…

 やっぱ、中華書局版くらいは持っておくべきですかのう。三国志なら安いし(^_^)

3 名前::2002/11/02(土) 13:28

ぐっこ     2002年04月09日火曜日 00時20分

そういえばあまり意識したことなかったですが(ハードカバー時代、みんな同じ訳者だと思ってた)、たまにテンション高い邦訳とかありますよね(;^_^A たいては語尾の一文字で印象がガラッと変わる類ですが…
万が一私が訳すとなったら、もっと凄い訳になるでしょう。

>徳間書店
まあ正史と言うより、正史から見た三国志、的なノリですよね〜。ひそかに註釈の人物評が私情入りまくりで好きです(;^_^A

4 名前::2002/11/02(土) 13:28

岡本 2002年04月09日火曜日 22時05分

本題からずれますが。
>註で関羽は徐晃を兄と呼んでるんだから徐晃のが若いとは考え>難いし、
正確なご返事をどなたかにいただきたいのですが、中国では±5才くらいの年代なら、相手のことを仮に自分より年下でも”兄”と呼ぶそうです。中国では年上を敬う傾向にありますが、正確な年齢差を厳密に気にしだすのは本当に血縁を結んだとか義兄弟になったとき(水滸伝)ぐらいだったと思います。
ですから、徐晃の方が、即年上とは言えません。戦歴を見た限りでは、大体30歳くらいで大舞台に顔を出し始めるとして、関羽の方が数才年上というところではないでしょうか。


>戦術面で関羽は負けたんだから若さは関係ないし…訳
>者による関羽が徐晃に負けたことに対する言い訳にしか思え
>ん。」
訳に対しては、訳者の価値観が入るのは避けられませんが。
私観では、戦術面で関羽が負けたとは単純にはいえないと思っています。
旗幟を鮮明にしないとアンフェアですので、申し上げますと
私は関羽ファンです。
もちろん、関羽を完璧人間だったと評する気はありません。できる人間ではあったでしょうが、高すぎる自尊心が災いして生じた“馬超論議”や“黄忠へのやっかみ”や孫権に対する“狗の子”発言等、好んで敵を作ったような態度は「どーにかならんかったもんかねぇ」とぼやく事しきりですし。

当初、徐晃は新兵が多いという理由で交戦を避け(野戦指揮官としての資質の高さを示す)、荊州陥落の情報が菫昭の策で関羽陣営に伝わり、関羽陣営の士気が地に落ちてから交戦しています。将軍として徐晃が非常に有能なのは間違いありませんが、戦術というより機を見るのに敏だったというべきでしょう。この時点で樊城の曹仁にもこの情報は伝わっており、関羽軍は数が上で士気も上の敵に逆包囲されたような形でした。確かに12重の逆茂木を突破したのは脅威ですが、状況を考えるとこのような状態で軍が完全に崩壊せずに総勢3万のうちの数千だけでも確保して自ら徐晃に相対して被害を極力減らそうとした関羽の統率力にむしろ私は凄さを感じますが。于禁の数万は完全に崩壊しましたし。

将軍の定義自体が非常に問題をはらんでいますが、私の定義では大まかに分けて、2通りで、
1.戦闘と戦術に長けた千人単位の比較的少数部隊を率いた戦い
  で無類の強さと統率を示す指揮官。野戦型猛将の典型。必ず
  しも馬鹿ではない。
2.戦闘・戦術には必ずしも優れていないが、万人単位の大部隊
  の統率に優れた才を示す。文官型の指揮官。将の将か。必ず
  しも賢くはない。
  大部隊と少数部隊の統率は同一ではありませんので。
また、都督や君主は優れた1.タイプの部隊長を数多く持てるという利点がありますので、純粋に将軍としては評価しかねるものがあります。(確かに曹操は自身、優れた野戦指揮官ですが。)
国家の創業期には、1.のタイプが戦歴を重ねて2.の性格も併せ持つようになり、とんでもない将軍が出てくる可能性があります。
ですから、私は“後漢・三国で最高の将軍を上から5人挙げろ”といわれると
“1が関羽、2が張飛、3、4は張郃・徐晃、のどちらか、5.は張遼”と現時点では答えるでしょう。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


5 名前::2002/11/02(土) 13:28

ぐっこ     2002年04月09日火曜日 23時41分

うーむ…関羽vs徐晃。
岡本様と意見を異にするのは残念なコトながら、私はどちらかと言えば関羽否擁護派であり、あまり関羽を高く評価してないタイプです(^_^;)
――といっても、これは比較の対象を曹操や孫堅・周瑜クラスに設定してるからです。もう関羽くらいになると、はっきり群雄の一人に数えていいのではないかと。

ですので、いわば曹操と甘寧はどっちが強かったか、という質問と同じような感覚で関羽vs徐晃戦を捉えてしまい、同じ土俵での比較ができなくなってるので…。
私にとっての樊城の戦いは、関羽が「徐晃ごとき」に敗れた戦、という表現で全て表せます(;^_^A
軍将としての力量は徐晃の方が二段は上だと思うのですが、どうしても「ごとき」がついてしまうのです。
細かい戦術面での比較は、おおむね岡本様と一致しています。
ただし、于禁軍に関して言えば、関羽が崩したと言うより洪水で綺麗に流されていったと敢えて擁護を。まあ地勢を計算しない戦バカの失敗ですけど…

…と、私も脱線しました(;^_^A

6 名前::2002/11/02(土) 13:29

クェン 2002年04月10日水曜日 01時11分

関羽と徐晃に関しては色々思うところがあります。
では岡本さんに対抗してあくまで徐晃サイドからのみ語らせてもらいます。ちなみに徐晃ファンです。関羽は普通に好きです。

年齢差について
>中国では±5才くらいの年代なら、相手のことを仮に自分より年下でも”兄”と呼ぶそうです。
話を振っておきながらなんですが、実は、私的にはどちらが年上なのかはあまり重要で無かったりします。私にとって重要なのは、徳間書店が言っている「年のせいで関羽が負けた」かどうかです。まあ、±5才程度ならば年のせいで負けたとはいえないので、徐晃が年下でもかまいません。
それと関羽が徐晃を尊称である「兄」と呼んでるのも個人的に見逃せません。これって、少なくとも吉川のように徐晃が一方的に関羽を尊敬している関係ではないことを示してると考えていいですよね?

戦術について
関羽との直接対決以外の部分も含め、徐晃の一連の行動を戦術として評価しました。
>荊州陥落の情報が菫昭の策で関羽陣営に伝わり、関羽陣営の士気が地に落ちてから交戦しています
ここからが徐晃の腕の見せ所な気がします。まず囲頭の屯営を攻撃すると宣伝しておきながら四冢を攻め、それに気がついた関羽を打ち破った。これこそ戦術だと思うのですが。

>戦術というより機を見るのに敏だったというべきでしょう。
兵法で「初めは処女の如し、後には虎の如し」というのありませんでしたっけ?うろ覚えなので、細部は違うかもしれませんが、徐晃はまさにこれだったと思います。

>状況を考えるとこのような状態で軍が完全に崩壊せずに総勢3万のうちの数千だけでも確保して自ら徐晃に相対して被害を極力減らそうとした

徐晃伝によると関羽はこの時5千を率いたそうです。かつて益陽で関羽が3万を率いて魯粛1万と戦うことになった時、やはり精兵5千を率いて甘寧と対峙したことがありました。この「5千」は関羽のもっとも好む兵数なのかもしれません。そうすると、被害を減らそうとしたのではなく、これこそ本気モードであり、これで雌雄を決するつもりだったのではないでしょうか。だからこそ、奥の手である関羽御大直々の戦闘に負けたため、この直後からなすすべも無く包囲網を破られたのだと思います。

>関羽が「徐晃ごとき」に敗れた戦
ファンである私から見ても、徐晃は曹操の手下その1ですからねえ…
どうしても関羽のが英雄としての格は上に見えます。

7 名前::2002/11/02(土) 13:29

もす     2002年04月10日水曜日 21時01分

全く話を逸らしてしまいますが・・・

⇒ぐっこさん
>まあ地勢を計算しない戦バカの失敗ですけど…

初めて行く所で特殊な気候・風土を知るのは、ほぼ不可能ですって・・・(;^_^A
曹操が赤壁で失敗したのにしても、元寇での退却にしても、責めるのは非常に酷ッス。。
霍去病なんて、匈奴を撃つ時に『寒い』事すら知らず、率いる兵に防寒具を与えなかったワケですし(笑)

日本人にとって、アメリカにおける竜巻ですら"実感"が非常に難しいように、
彼らに同様の事を求めるのは・・・と思いますよ(^^ゞ

8 名前::2002/11/02(土) 13:30

玉川雄一     2002年04月10日水曜日 22時24分

おお、アタシが爆睡してる間に面白い話題に。

私の関羽の評価はあくまでも「将帥としては一流」なんで、そういう意味では徐晃と同レベルです。そのレベルではむしろ、徐晃の方が評価は上かも。

正史の記述だけで比べるのも酷でしょうが、少なくとも徐晃は軍の総帥としての実績が直接的に残されています。関羽はいまいちそれが掴みづらいのです。文中で下されている評価から推測できる程度で。いざ「戦闘」となったら、徐晃の方が場数を踏んでるんではないかしら?

ただ、関羽は単なる将軍以上の役を負っていましたので、そういうレベルまで含めると徐晃と単純に比べるわけにはいかないでしょうね。将軍というレベルなら徐晃が勝っても不思議はありませんが、実際には関羽は背負う物が大きかった分ハンデはあったでしょう。ただ、関羽はまさにその背負ったもの(荊州総督)のお陰で敗れたわけですが。
関羽と徐晃の戦術的な対決の部分では、素直に徐晃を褒めてあげます。

9 名前::2002/11/02(土) 13:30

岡本 2002年04月11日木曜日 20時18分

うむむむ...旗色が悪いですね。
魏・呉と比較して蜀勢は記述が少ない人が多いですから自然と対抗勢力の記述から推測するほか無いわけで...。
私は関羽ファンの呪縛から解き放たれていないようですから、以下の議論はかなり眼鏡に色がついていると、ご了解ください。

クェン様
>徐晃伝によると関羽はこの時5千を率いたそうです。かつて益>陽で関羽が3万を率いて魯粛1万と戦うことになった時、やは>り精兵5千を率いて甘寧と対峙したことがありました。この
>「5千」は関羽のもっとも好む兵数なのかもしれません。そう>すると、被害を減らそうとしたのではなく、これこそ本気モー>ドであり、これで雌雄を決するつもりだったのではないでしょ>うか。
1軍の指揮官が”将軍”であると仮定して、三国期の1軍は3000強ぐらいだったようですから(于禁の7軍は2〜3万、1軍=5000だと3万強)、5千が関羽の好んだ兵数であったというのには異論はありません。延津の文醜軍が数千でしたから、1指揮官の統率兵数が普遍的にこれくらいだった可能性もあります。

関羽瀬の故事
単刀赴会前後の呉・蜀の軍事行動に関してはまた意見があるのですが、いつ魏が攻めてくるか分からない以上積極交戦は避けようと考えていたと思います。大体、攻撃目標をおおっぴらに宣伝していたわけですから。呉の出方を見よう、あわよくば渡河しようぐらいではなかったでしょうか。

”雌雄を決する”ですが、私観では、この時点の関羽の考えていた戦略はこうだったように思います。
1.樊・襄陽を抜く。
2.樊入城後、攻囲陣を解いて野戦陣に切り替える。
3.徐晃の援軍はこの時点で退却するか、退却しないようであれば
 一戦交えて、撃退する。
4.関中方面の劉備本隊が長安を取る、もしくは涼州を取るまで積
 極交戦は控え、宛に圧力を掛けるのにとどめて勢力を固める。

参考になるのは白馬の戦いの顔良軍の行動です。このときは攻囲軍の方が篭城軍と救援軍の総兵力より多かったと思いますので、単純に比較は無理ですが。

本題に戻りますと、攻囲陣を敷いている以上積極的な野戦は避けようとするだろうということです。野戦では軍の勢いと総兵力が大きく効きます。それに、野戦に振り向けられる兵力も限られます。また、城内の軍と挟撃されるのを最警戒しますから。徐晃と悠長に会話をしていたことを考えると、関羽としては、徐晃を撃破するよりも樊城攻囲に全精力を向けている状態では樊城の落ちるまで交戦は避けるつもりだったと思います。上庸の孟達・劉封が来ていれば...。ですから、自身向かうことで抑止力を働かせようとしたと解しています。勢いで全部持っていかれる可能性がありますので(結局は樊が落ちず、徐晃、曹仁が適切すぎる行動を起こしたわけですけど)。あの状態で士気・兵力ともに上の軍に攻められたら、誰でも負けると思いますが。
そういう意味も含めて、”被害を最小にしようとした”行動と解した訳です。

軍の配置、兵糧の手配、捕虜の処理、各地の豪族との連絡と一人で多数の役目を背負っていた関羽と敵を破ることだけ考えていればよかった(しかも、後方から曹操の援軍がゾロゾロ来る)徐晃は立場がまるっきり違っていたと思いますが...。

脱線させた張本人ですが、別スレッドにしたほうがよいですかね。

10 名前::2002/11/02(土) 13:33

ぐっこ     2002年04月12日金曜日 00時05分

>もす様
うぐぅ…。私は根っからの于禁擁護派なので、個人的にはそう信じたいんですって(;^_^A ただ前から思ってたんですが、于禁って赤壁当時の所在が全くの不明なんですよね〜。徐州なり汝南なりでお留守番してたかもしれませんが、荊州まで進軍してたとしたら、漢水上流あたりの気候(半雨季と乾季)もキャッチしてないとおかしいですし…。
土地の支配者がしばしば樊水の決壊に悩まされてたコト(※ソース不明。「関羽伝(今泉恂之介)」あたりにサラッと)を考えると、于禁は遠征軍の総帥として、せめて布陣の位置くらい考えておくべきだった、と彼のために惜しむものであります。

>岡本様
そうですねえ…(^_^;) そういえば和訳スレでしたっけ…
しかしここまで完璧に論を展開されると手も足も出ない…降参ぎみ。

11 名前:


12 名前:


名前: E-mail:

【8:12】関羽の評価とは?
1 名前:岡本:2005/03/28(月) 02:10
玉川様の、
>関羽の絶対的な武威というものに対してどうも実感が湧かないわけでして。
>いつぞやの関羽vs徐晃スレでも話題に上りましたが、
>水準以上のなにがしかの資質があったことは確かなのでしょうが、
>ではこの北伐に際して魏で遷都論が勃発したほどの「関羽への恐れ」を生じせしめるだけの
>実績・風評・憶測あるいは虚像にせよそういったものが拠って立つ地盤が
>今ひとつ見えてこないのですがスレ違いなのでこの辺りにしておきます。
に関して、ありますが御諸兄の意見を伺いたく存じます。

関羽評価が難しいのは、
1.蜀書での直接的な記載があまりにも少ない
「白馬の戦い」で個人戦闘力が並外れていることは示されたものの、
軍団の統率者としての能力、戦略眼の有無に関しては直接的な情報が少なく
その戦歴が明確でない。しかも魏・呉書では「〜〜の戦闘で関羽を破った、退かせた」系の
否定的な情報が多い。

2.にもかかわらず、他国の反応を見ている限りでは
異常なまでに恐れられている当時有数の、軍団を率いる名将帥であり
軍政家であることが想像されること。
そして、曹操に遷都という非常事態宣言を考慮させた唯一の人物であること。

この2つが噛み合わない点にあるのであるのでしょう。
繰り返しますが、この違和が生じる最大の原因は関羽の具体的な事跡に関する
直接的な情報が決定的に少ない点にあります。

私としては、個々の事跡と背後状況を解析することで、
間接的にではありますが、関羽の器量を考察することは可能であると考えています。
(最初に、「万人敵」という評価ありきという分析になってしまう危険性があることは否定しません。)

個人的には、将帥としてみた場合、周瑜・陸遜といえど及ばないと見ています。

3 名前:★玉川雄一:2005/03/29(火) 19:59
これはこれは! 私の疑問を実に的確にまとめて下さってありがとうございます。
どうしても、徐晃や張コウなどのようにその生涯が軍歴で彩られた人物と比べてしまうと
関羽の評価は何を根拠とすれば良いのか考えてしまうわけで…

私としては、「襄樊以前」までに関羽が武名を築くだけに足る業績をどれだけ挙げていたか、
という点にも興味がありますね…
単に場数の問題だけではないのでしょうが、>>2で分析されたような個々の事例の掘り下げからも
得られる物があれば幸いです。

4 名前:★玉川雄一:2005/03/29(火) 21:26
では少し異なる切り口から…

時代は下って東晋初期のことになりますが、劉遐(正長、?-326)という武将がおりました。
晋書の彼の伝には冒頭にこうあります。

「性果毅、便弓馬、開豁勇壮。値天下大乱、遐為塢主、毎撃賊、率壮士陥堅摧鋒、冀方比之張飛、関羽」

性格は果毅にして弓馬をよくし、開豁勇壮。天下大乱の時にあたって塢主となり、
賊を討つごとに壮士を率いて堅陣を陥とし鋭鋒をくだき、(地元の)冀州では彼を張飛、関羽に比した−

意訳するとこんなところでしょうか。
彼は個人的武勇に優れまた人望があり、衆を率いて多くの戦勝を重ねたそうですが、
地元(彼の本籍は冀州廣平郡易陽県)では彼を張飛や関羽になぞらえた、と記録に残されています。

ここで興味深いのが、ローカルな名声ではあるにせよ武勇に優れた人物に対比される歴史上の人物として
張飛と関羽の名が挙がっているということです。この逸話が事実であるとするのならば、
関羽の生きた時代から一世紀を経た4世紀初頭において武勇自慢のサンプルとして
敢えて彼らが選ばれることに何らかの意味があるとも考えられます。
もっとも晋書が成立したのは唐初であり、そこに至るまでに何か別の要素が働いた可能性も否定できませんが…
また敢えて細かく見てみれば、「張飛、関羽」という順番にも格付けが意識されているのかもしれません。

そして注意すべきは、劉遐と張飛や関羽を結びつける要素として考えられるのが
あくまでも「卓越した武勇」なのであって、一般的に張・関らに対するイメージとして抱かれる
もう一つの柱である「主君への忠義」といったファクターは考慮されていません。
この時点で劉遐は塢主であり、自身がトップの地位にあったわけですから。

当時において張・関が世間でどのような認識を持たれていたのか、
そもそも知名度がどれ程あったのかは即断できませんが、
少なくともローカルレベルで「武勇絶倫」のいち代表者としてノミネートされるだけの一例をここに見ることができたわけです。
「忠義うんぬん」については、単に劉遐の場合に該当していないだけなのか
張・関についてそういうイメージが固まっていなかったのかまでは解りません。
後者についてはさすがにこの事例からは検証のしようがないにしても、
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


5 名前:岡本:2005/03/29(火) 22:33
>玉川様
かなりの方を引かせてしまうような内容かも知れないと恐れておりましたので、
書き込み支援ありがとうございます。

>私としては、「襄樊以前」までに関羽が武名を築くだけに足る業績をどれだけ挙げていたか、
>という点にも興味がありますね…

そこが一番の問題の本質かつ厄介な内容であるのが悩みの種なのですよね...。
荊州董督になった以降では比較的2で私がやったような分析はしやすいのです。
ですが、それ以前に単に個人的武勇に優れた一部将でなく、軍団統率者や軍政官も
水準以上にこなせる器量人と内外勢力から評価されていないとそもそも荊州董督として
貫目に欠けますんで。

個人的武勇に関しては、私としては
「当時の個人としては最強クラスに強かった。以上、終わり」
でこれ以上の興味はありません。
戦術に長けた部隊長、万単位の士卒を見事に統御する軍司令官、
中原の情勢を読み、またそれに合わせた軍団準備を行える軍政官
としての能力がどのように培われ、評価されていったかの方により興味があります。

取り敢えずのスタートは
1)反董卓同盟軍の最中もしくは直後に劉備に従って公孫瓉の傘下に入る。
2)劉備が別部司馬(遊撃部隊長)から公績で平原の相となると、張飛と共にその別部司馬となる
あたりからでしょうか。

この辺りの、曹操が袁紹の下働きとして、劉備が公孫瓉の下働きとして働いていた頃あたりの競り合いで
そこそこ戦上手としての劉備の評価、引いてはその両翼たる関羽・張飛の個人武勇に留まらない部隊長としての
評価が気づかれていったはずです。...考察しようにも情報少ないんですけどね...。

黄巾ではどのような活躍をしたか不明です。劉備の規模から考えてこの時点では個人武勇の域を
あまり超えないでしょう。華雄や虎牢関は講釈師の与太ですので無視です。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


6 名前:ふにゅう:2005/04/01(金) 13:43
当時の関羽の評価が上がったのは、劉備が徐州を有して
袁術あたりと戦うようになってから、というような気がします。
それ以前は指揮官として兵を率いることがなかったのではないでしょうか。

7 名前:岡本:2005/04/01(金) 20:20
ふにゅう様
お初にお目にかかります。

>当時の関羽の評価が上がったのは、劉備が徐州を有して
>袁術あたりと戦うようになってから
おっしゃるように、例の張飛が徐州を呂布に奪われた際(建安元年=196年)に袁術と
劉備が交戦したときに名は挙がってはいませんでしたが部隊長として
活躍したものと思います。
ですが、私は関羽の部隊指揮官としての経歴が始まったのはもっと以前からと
考えています。上にあげましたように公孫瓉時代に既に別部司馬についております。司馬ですと1000人
単位の兵を任されますのでそれほど軽い位ではありません。于禁は軍司馬、楽進も仮司馬から将としての
経歴が始まっていますし、李カク・郝シは董卓死亡直後は牛輔の司馬です。
PCゲーム等やっていると簡単に兵力が揃えられてしまって万単位のぶつかり合い出ないと野戦でないような
感覚を持ってしまいがちですが、1000〜2000の部隊同士でのぶつかり合いの比重
はかなり高いです。
また、徐州へ行く前に青州で管亥に包囲された孔融を救援するために劉備が3000
の兵を遣わせた事件があります(初平二年=191年)。演義では徐州救援にくっつけて(194年ごろになる)
3兄弟が全員出撃していますが、公孫瓉の旗下として袁紹とにらみ合っていた当時、平原を任されていた
劉備が直々に出撃したことは考えづらいです。実際、3000の兵を「遣わせた」とあります。
太史慈に全て貸したというのは論外ですので、関羽か張飛が部隊長として向かったことが
考えられます。従って、関羽・張飛の二人が指揮官として兵を率いるようになったのは初平2〜3年あたり(191-192)から
始まっている可能性が高いと思います。

経験と公績をつみ、対外的に優秀な部隊指揮官として名が知られだしたのが徐州
時代辺りではないかと考えます。それもとてつもなく優秀な指揮官として。
曹魏の五覇はどの人物もこの辺りで既にエース級の実力を見せ始めています。その
彼らよりも、関羽は気持ち上に曹操には評価されていました。
関羽が下った直後(建安5年=200年)に
関羽=偏将軍
張遼=中郎将あるいは裨将軍
于禁=裨将軍
楽進=討寇校尉
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


8 名前:無名武将:2011/03/28(月) 23:49:55 ID:???0
関羽は無双なの

9 名前:


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名前: E-mail:

【9:4】おはつです!!いきなりですが、関家情報です!
1 名前:公孫続:2006/04/07(金) 15:32
お初でございます!公孫続と申します。
以後お見知りおきを・・・。
いろいろな、本で三国志を知っている私ですが、意外なキャラにびっくりしました。
その名も「関索」さんです、あまり印象もなくパッとせず、じつの関羽の息子であるにもかかわらず
活躍したのが南蛮だけって・・・と思っていたのですが、今回TUTAYAで三国志11の武将ファイルを立ち読みしてみると、
関羽の息子の中でも一番武力が高い!!関平が82で関索が88!?
一体関索に何があったといいたい。
ほかにも、三国志11には有名な武将さんには嫁も武将として参戦しており、
諸葛亮には黄月英、司馬イにも確か嫁がいたような・・・となんだかんだ見ていたら、
あの関索にも嫁が参戦しかもその相手が孟穫の娘(名前はカマンとか言ったような・・・。)
とホウ三女(ホウ家の三女だからホウ三女だって、なんつぅベタなネェミング)
という2人もいましたしかも他の武将の嫁に比べてはるかに武力高し・・・。(2人とも80は超えていた!)
これで蜀も人材不足じゃなくなりますよきっと!!
まぁなんだかんだで、ビックになりましたよ関索!次の無双に関索とカマンが出てくることを祈って
ここまでにさせていただきます。
あと、こんな公孫続をよろしくお願いします!

2 名前:★玉川雄一:2006/04/07(金) 21:50
まあもちつけ(=゚ω゚)ノ

関索はもちろん初代からのレギュラーですけれど、扱いが微妙な場合が多いですね。
初代は武力で関興・関平に圧倒的な差を付けていましたが、
それ以降は基本的に『関興の95%縮小版』といったあたりに落ち着いてきています。
時折「武力だけ」は若干上回ったりしていますが、
それ以外(統率、知力など)では軒並み関興より下回っているのが通例です。
結局の所、関索の存在自体が後世の創作による後付けですから、
トータルでも強くし過ぎるわけにも行かなかったかと思われます。(それでも充分強いけど)
そもそも関興ですら正史では名前しか出てこないのに演義効果でおいしい目を見ているぐらいですからね…

もっとも、関索のルーツは民間伝承から成立した説話の『花関索伝』にあることから、
あえてゲーム化するとデフォルメを利かせた武力特化タイプになるのは適度なアクセントとも言えるでしょう。
なんでも、先に成立していた『花関索伝』から彼の存在が後に『三国志演義』に取り込まれたようで、
演義では南蛮征伐のエピソードのみにしか登場しないのもその辺りに理由がありそうです。
水滸伝の登場人物である楊雄のあだ名が『病関索』だったり、
また宋・元代の史書にも関索のあだ名を名乗った人物が散見されるそうで、
ややアウトロー風味な人気があったのではないでしょうか。
一方で花鬘は京劇の登場人物だそうですが、こちらは孟獲との絡みが興味深いですね。


こうして見てみると、エンターテイメント性の高い関索(と奥さんズ)は無双シリーズで
はっちゃける方がより活き活きと活躍できるでしょうね。
エンパ4でも関索は登場しちゃってるけれど、花鬘と鮑三娘はエディットで作れるな…

3 名前:むじん:2006/04/08(土) 16:34
光栄の初代三国志で武力91、三国志IIで武力93くらいだったと思います。
関平・関興より強めな設定。
花関索伝はここで抄訳(というか、あらすじかな)が読めますよ。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/9290/ target=_blank>http://www.geocities.co.jp/Hollywood/9290/

4 名前:


名前: E-mail:

【10:53】【か、カウ…】牛金【ゴールド…?】
1 名前::2002/11/02(土) 12:45

黒竜    2002年02月18日月曜日 23時00分

最近、中央研究院のサイトで二十五史をザラッと読んでいたのですが、
そこでなんと、あの牛金の隠し子を発見!!
「司馬叡、字は景文。晋将牛金の子なり」とあるじゃございませんか奥さん!

こりゃ大発見か!と思ったら、その隠し子の正体は東晋の元帝。
どうやら西晋→東晋のながれを否定するためのデマのようで…(T T)
それにしても牛金にこんな逸話(デマでも)があるとは今の今まで知りませんでした。
晋の歴史も奥が深いです…

44 名前::2002/11/02(土) 16:36

ぐっこ 2002年09月02日月曜日 22時42分

朱横海!? …うーむ、確かに出所を見ると朱蓋っぽく感じる…。
でも朱霊も「横海将軍」なんですよ…

45 名前:左平(仮名):2002/11/25(月) 21:43
以前に微子啓の名が出てますので、こちらに。
微子啓と思われる人物の墓が出土したというニュ−スが松竹梅さんの「りゅうぜんず」に書かれてましたが、御覧になりましたか?

46 名前:★ぐっこ:2002/11/27(水) 00:10
微子ネタ…>>32ですねー。
微子の子孫といわれる牛邯…こちらは、どちらかというと狄道の牛氏、つまり
牛輔たんルートの方が近かったわけで…
つまり牛輔のご先祖様かもしれない大人物のお墓が発見されたわけだ! 皆喜べ!

…えー、これもヤフーニュースにでかでか載ってたの見て初めてしりました。
もう殷なんて神話以外の何者でもないような時代なのに…そんな時代の遺跡が、
よりによって商丘で発見されるとは…
中国史は奥が深いですねえ…

47 名前:左平(仮名):2002/12/04(水) 23:27
先に書き込みました、牛金を主人公とした物語ですが、あれからもう少し設定を練ってみました(殆どは空想の産物)。その一部は、以下のとおりです。
前に書いた二作品以上に長くなりそう…。果たして、書けるのでしょうか…。

『牛氏』(仮題) 設定

(系図)

┳牛邯
┗(略)━牛輔━┳牛蓋(→朱蓋)
        ┃
        ┗牛鈞(→牛金)━○(嫡男ではない)━牛鋳

後漢成立期に活躍した牛邯の直系とすると、牛金からみて牛邯は祖父・曽祖父くらいの世代となる。今回は、傍系とみなして話を進める。

(名)

輔→輔(たす)ける。補(欠けた所を補う)の意がある。
蓋→器物に蓋をする形。
 →天蓋(天空)
鈞→一定量を鋳込んだ銅塊。
 →鈞台(夏の啓王が諸侯をもてなした地。天下の中心)
鋳→(金を)溶かす:晋は金徳の王朝。それを呪詛するというニュアンスを含む。
※牛金の孫は、この他にも数名いるという設定。鋳はそのうちの一人。嫡流とは言い切れない。

(各人物)

牛輔(字:伯扶と設定)
  →159生(『三国志Z』での設定) 192没
  →もう何歳か年上(150頃出生、亡くなった時点で40過ぎ)と設定。上記の生年はゲ−ム上、親子として登場させた為か。董卓の娘婿なので、董卓の年齢は参考にならない。
  →中肉中背。やや痩身ぎみ。
  →舅だから、という以上に董卓を畏敬している(当初は距離を置こうとする)。生真面目で、気が弱い。神経質。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


48 名前:★玉川雄一:2002/12/05(木) 22:53
Muy bien! 素晴らしい! まさに大河ドラマの予感!

これまでにない視点から見た斬新な三国志小説の種が播かれましたね。
牛氏累代の割と地味目な、けれども確かに激動の時代を駆け抜けた秘話が…
是非、チャレンジしてみてください。

49 名前:★玉川雄一:2002/12/05(木) 23:16
ところで、板違いを承知で左平(仮名)さんにお願い事など。
私も、韓綜を主人公にした小説など書いてみたいとかねがね思っております。
もっとも私はリアル版では無理そうなので、『学園三国志』版でいってみようかと考えているのですが。

そこで、韓綜の字および、彼女の妹(史実でいうところの弟)たちの諱、字についてアドバイスなど頂きたく思います。

 【史実的設定】
・韓綜に二人の弟を設定
・次弟は呉に残り、末弟は韓綜と共に魏に亡命

 【学三的変換】
・韓当から1〜2歳離れた三つ子の妹が、韓綜及び新設定の二人
・三姉妹のうち韓綜と末妹は生徒会(魏)に奔り、次妹は長湖部(呉)に残る
・韓綜は姉の韓当の引退後、チームの主将位引き継ぎを巡って孫権と対立し、やむなく生徒会に亡命する
・次妹は別行動を取っていたため長湖部に残り、汚名を雪ぐべく日を送る
・末妹は韓綜と行動を共にし、生徒会勢力の中で『寝返り者』として何かと肩身の狭い韓綜を支える
・敵味方に別れた姉妹は両勢力の度重なる激突においてしばしば顔を合わせるが、もう後へは戻れないことを知る
・そしてクライマックス“東興の戦い”へ…

アバウトなもので参考にはならないかもしれませんが、何かアイデアなどございましたらご教授よろしくお願いします。

50 名前:左平(仮名):2002/12/06(金) 00:45
とりあえず、漢字字典を引いてみました。例によって、「新字源」と「字統」からです。

綜【そう】:@すべる。糸を一本に集める。すべあつめる。まとめる。すべおさめる。Aおさ。へ(機織の道具。経【たていと】を通し整えるもの。Bまじえる。
      「説文解字」には、「機【はた】の縷【る】なり」とあり、経【たていと】に緯【よこいと】を加えるもの。縦横相交わるものであるから、錯綜という。

「綜」には「すべる、まとめる」という意味がありますから、字は、それにちなんだものが妥当でしょうね。
ひとまず、同じ糸偏の字をピックアップします。
紀(キ:おさめる等)、糾(キュウ:あざなう等)、統(トウ:すじ、すべる、おさめる等)…
糸偏の字自体はけっこうあるのですが、これは、という字は案外少ないです。

もう一文字は、「伯仲叔季」か「子」かというところでしょうから…

韓綜の字は「伯統」「伯紀」とか「子統」「子紀」といったところでしょうか。ベタなもので申し訳ありませんが。

あと、二人の弟ですが…長兄の名に「すべる」という意味があるので、「ささえる」とか「たすける」という意味合いの名が良いかと。たとえば、韓介(字:子推)ってな感じで。「介」には「たすける」という意味もありますが、「くぎる」という意味もあるそうなので、兄弟と隔てられたという意味を含めるという事も。
また、韓綜の読みは「かんそう」なので、「かんしゅう」「かんすう」「かんちゅう」「かんつう」などの様に、類似する発音から名を考えるというのも良いのではないでしょうか。

もっとも、彼らの父・韓当(字:義公)は武人であり、いわゆる知識人ではありませんから、そういう細かい事は無視して、という事も考えられます。そのあたりの設定はいかようにも考えられるでしょうね。

51 名前:★玉川雄一:2002/12/07(土) 00:42
これは、早速のお返事ありがとうございました。
私も、漢和辞典引いて調べてみることにしましょう。

しかし、しっかりと意味深な字を挙げて頂いて大変参考になります。
もうこのまま行ってしまえそうです(^_^;)

で、
>そういう細かい事は無視して
敢えてこういう線もアリ、と。
また、複数兄弟のうち「法則」から外れた命名がなされている例もあるようですし、
そういった深すぎるこだわりも楽しそうです。

ともあれ、これで小説の構想が一気に膨らみました。ありがとうございます<(_ _)>

52 名前:★ぐっこ:2002/12/07(土) 14:04
わー! その牛氏作品もロングランですね〜!
よろしければこちらでスレ立てて、連載してしまってください!(^_^)
大河小説のタネって、けっこう三国志中に散らばっている様子…

義兄上にも期待…(;´Д`)ハァハァ…

53 名前:


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どのような形の削除依頼であれ公開させてもらいます

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