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■ 姓?氏?諱?字?

1 名前::2002/11/01(金) 22:28

マスター ぐっこ 2002年01月07日月曜日 00時13分

>おばら     2002年01月06日日曜日 01時19分
>「妄想レスですまんのですが、
>「珪」とは「ガラスの原料」であり、
>「瑾」とは「純粋で硬い玉」を意味し、
>「亮」とは「あきらか。さえる。まこと。高らかによく通る声。」を意味し、
>「均」は「ひとしくする。すべて。」と漢和辞典あるんで、
>諸葛珪は、自分の名と合わせて、さらに三人の子の名を合わせて理想的な人間像とした?!

>「透き通った玉のように、あくまでも純粋で硬骨を保ち、その明徳は高らかに響きわたり、すべての人に余徳が行きわたる。」な〜んてね。(^-^;;
>メッチャ妄想ですわ。


この話題に関しては私も大いに関心あります。
まず大前提としての当時の命名について、とか。兄弟・親族のあいだで共通の名前をつけたり、字を一字共有したり…。

たしか陳舜臣先生の「諸葛孔明」で、諸葛兄弟についてのことも書いてありましたが、実際のところ、当時ほかにも似たような例はあったんでしょうか〜?
おばらさまや左平(仮名)さまのレス見てたら、自ずと興味がわいてきました〜!

9 名前::2002/11/01(金) 22:32

玉川雄一     2002年01月11日金曜日 21時46分

うい、「きらめく群像」、全部読みました。
なかなか鋭い切り口とノリがいいのが楽しめたんですが、しばしば「???」なこともありましたね。
顧雍の「まあお父さん大臣だったの!」はツボでした。

で、その…こんな事を申し上げるのは恥ずかしいのですが、結局「刺史と牧の区別が〜」っていうのはどういうことなんでしょう。私も結局分かってないんです(-_-;) 劉焉のあたりに記述がありましたが…

それと、諱を避けるお話。東晋の謝安は字を安石といい、またその弟の謝石の字は石奴だったとか。こういう風に二重三重にカブっているというのはいかがなものかと。
それどころか、諱と字が全く同じ人とか出てきますよね。東晋ラスト二代の皇帝、司馬徳操、徳文兄弟、彼等の叔父の会稽王司馬道子。唐代の将軍郭子儀も同様に。
字は自分で付けるにしろ他人に付けて貰うにしろ、後付けで付けるんですよね。その時、敢えて諱と同じ字を付けたっちゅうのはどないなものなんでありましょう。

10 名前::2002/11/01(金) 22:33

玉川雄一     2002年01月11日金曜日 21時49分

>司馬徳操
イカン、これぢゃ酔狂先生でした。司馬徳宗でございます。

11 名前::2002/11/01(金) 22:33

NOB      2002年01月12日土曜日 00時21分

情報量0の書き込みですみません。

> >諸葛氏の血縁関係
> この話題、実は以前にあるサイトでも論議されていたのですが、
> その時の結論は「この説は高島氏の勇み足だろう」ということでした> ね。この説は根拠不足といえるでしょうね。

少なくともうちのサイトは「あるサイト」に含まれていそうですね(爆)
あの時は、反例として袁滂-袁渙の父子の例も挙げられていました。
…すみません、それだけなんです…。

12 名前::2002/11/01(金) 22:33

ぐっこ 2002年01月14日月曜日 01時26分

>玉川様
字と名前が同じ! 字の意味ないじゃん状態ですね〜! 諱をさけるための字なのに…。
結局、どんな本を読んでもぴんとこないんですが、「字を呼ぶ」のは、礼にかなってるんでしょうか? 無礼なんでしょうか? ほら、子供の前で父親の字を呼ぶのは非礼だ、というエピソードもありますし。ふつうは官職で呼ぶんでしょうけど…。
惇兄ィの「おい孟徳」はオッケーなのか(;^_^A。 孔明の「玄・徳・様?」はセーフなのか…。

 >NOBさま
おお、濃ゆい話題の掲示板があるものだと思ってたら、そちらでしたか(;^_^A そうか、陳袁家のほうもサンズイ繋がりがありましたか〜。
どうも探せば出てくるようで…。
漢字については、皇家や直系をさける程度のモノだったのでしょうか。

13 名前::2002/11/01(金) 22:34

松竹梅     2002年01月14日月曜日 03時06分

ずいぶん久しぶりです。
新年の挨拶もしてないんで、とりあえず明けましておめでとうございます(爆)

兄弟で中途半端に名前の偏を統一するケースもありました。
劉焉の息子四兄弟
(多分)長男が範、次男が誕、
(あと二人はほぼ確定で)三男が瑁、四男が璋
やっぱり名前の偏だけで兄弟関係を推測するのは難しい気がしますね。

>州刺史と州牧の違い
州刺史はあくまで州の監察官でしかなかったのに対し、州牧は軍権や行政権をもっていたと思います。官品はどちらも五品だったと思いますが、給料は600石と2000石です。

>字の礼儀
夏侯惇は曹操の古くからの友人的存在だから大丈夫そうですが、諸葛亮があんなこといったら…ま、薄れ行く意識の中で「劉・豫・州・様?」とかいってたらそれはそれで変ですが。

ところで、字って相場では何歳くらいになってからつけるものなんでしょうか。場合によっては、181年生まれの諸葛亮は、あるいは諸葛瑾との離別後に字を決めた可能性がありますし。

14 名前::2002/11/01(金) 22:34

左平(仮名) 2002年01月14日月曜日 14時13分

>ところで、字って相場では何歳くらいになってからつけるものなんでしょうか。
何の知識もありませんが、少しでも参考になるかと。
宮城谷昌光氏の『鳳凰の冠』(春秋時代・晋の賢者、叔向が主人公)の中に、「貴族の元服は二十歳であるが、王侯だけはきわめて早く、十二歳で戴冠する。」との記述があります。
また、『史記の風景』(『史記』に関連する様々なテ−マについてのエッセイ集)には、「(女性にとって)男の加冠の儀にあたるのは、十五歳の笄礼である」との記述があります。
と、いう事は…松竹梅さんがおっしゃる様に、士大夫の家系に生まれた諸葛亮の字が「孔明」になったのは、兄との離別後という事になります。
が、しかし、「字」には「家の外の人とのつきあいの中で用いる名」という意味あいがありますから、(家長である兄と離れ、単独で家の外の人とのつきあいを始めなければならなくなる)離別時に字をつけた、という可能性も高いのでは…。

15 名前::2002/11/01(金) 22:34

NOB      2002年01月14日月曜日 21時43分

> 漢字については、皇家や直系をさける程度のモノだったのでしょうか。
「部首が同じ」というくらいは気にしなかったのではないかと思いますが、「人と話すときには相手の父の名と同音の単語も言わないように気をつけていた」っていう話があったような…。
でも、玉川さんのおっしゃっている「諱と字が同じ例」なんかを見ますと、よく分からなくなりますね(笑)

ついでに横レス失礼します。
> ところで、字って相場では何歳くらいになってからつけるものなんでしょうか。
うろ覚えの怪しい記憶なのですが、「塾に通ったりとか、外との交流を持つようになったら」というのを聞いたことが…どこで誰に聞いたのか忘れてしまいましたが(爆)

曹沖は享年13歳ですが字を持っていたことを考えると、結構早く付けられることもあったのではないかと思います。

諸葛亮が諸葛瑾と別れたときにはもう10数歳だったと思われるので、タイミングとしては左平さん説の「兄と離別したとき」かなぁ、と個人的には思うのですが。
ん〜、でも隆中に居を構えたときにもまだ17歳だから、このときでも別におかしくないですよねぇ…。従父の保護下にいたときには、字を持たずにまだ小字を使っていた、のかもしれませんし(^-^;

便乗して質問なのですが、小字ってどんなふうにつけられたのでしょうか?何か決まりがあるとか…

16 名前::2002/11/01(金) 22:35

ぐっこ 2002年01月14日月曜日 23時24分

うーん、いちおう後漢代の教育制度見てたら、「幼童」と呼ばれる小学生が、13歳まで。
以降は個人的に師について学問し、一経を諳んじるまで教わる、と。後漢代の名門のおぼっちゃまは、この頃に字をつけたのかなあ、とも思います。ちなみにこのときの師というのは、父に次いで終生尊敬すべき存在であったらしいです。惇兄ィがキれたのもこの頃ですよね〜。

はれて中等教育を卒業すると、次は塾へゆくか、太学へゆくか、と。このときの塾が、いわゆる門生故吏とかの「師・門生」という関係を生む大事なものらしいです。袁家は代々家学の易経を教える塾を開いていたらしいですから、この時に教えた生徒たちが、後に官界に出て次の袁家を助け、さらに袁家の権勢がふくれあがってゆく、という仕組みだったようで…。当時は、何が何でも学問だったみたいですね〜。

話がそれた(¨;) 字…。以前、田中芳樹先生がぶち切れてましたね〜。先生の作品の中で字をもった少年が登場するんですが、読者の中に「字は二十すぎてから付けるんだろが!礼記くらい読めボケ」とお手紙を頂いたとか…。田中先生は対談で一言、「史料の棒読みはやめましょう」と。確かに、二十の前に字を持ってる連中はいくらでもいますもんね…。
松竹梅様、左平(仮名)様、NOBさまが仰るように、孔明に関しては、別離のとき、あるいは別離の後につけたっぽいです…。

小字……うっ(;^_^A 募集。

17 名前::2002/11/01(金) 22:36


黒竜 2002年01月15日火曜日 13時16分

また「姓氏考」からの引用ですが、
小字は一般的には動物(十二支など)や花などからとられたようです。
ただ正式な名前ではなく、あくまで気ままな呼び名なので厳密な形式はなかったともあります。
ちなみに玄宗李隆基も幼いころは阿瞞と呼ばれていたそうです。

この本によると、学校にあがると正式な「学名」をつけて以後、小字は用いなくなるようです。
三国時代に当てはめるとぐっこさんの仰るとおり、師について学問をはじめたときといったところでしょうか…

18 名前::2002/11/01(金) 22:36

ぐっこ 2002年01月15日火曜日 20時13分

黒竜様、情報感謝です〜!
小字、はニックネームみたいなモノですか〜。そういえば、「幼名」とは同じなんでしょうか…。
たしか幼名は、子供っぽく愛らしいモノか、正反対に魔除けとしてろくでもない名前を付けるか、どちらかと聞いたことはありますが…。

あ!さらに便乗質問! スレとはあんまし関係ないんですが(;^_^A 後漢代の「皇后」と「皇太后」の尊称って何でしょう? 殿下? 陛下?

19 名前::2002/11/01(金) 22:36

黒竜 2002年01月15日火曜日 20時44分

さっそく調べました(二日も寝てるとエネルギーがあまります)。

曹髦が殺された直後の群臣の上奏に「皇太后殿下」とありますから
皇太后に関しては殿下で間違いないようです。
おそらく皇后も同じと思われます。

20 名前::2002/11/01(金) 22:37

黒竜 2002年01月15日火曜日 13時16分

また「姓氏考」からの引用ですが、
小字は一般的には動物(十二支など)や花などからとられたようです。
ただ正式な名前ではなく、あくまで気ままな呼び名なので厳密な形式はなかったともあります。
ちなみに玄宗李隆基も幼いころは阿瞞と呼ばれていたそうです。

この本によると、学校にあがると正式な「学名」をつけて以後、小字は用いなくなるようです。
三国時代に当てはめるとぐっこさんの仰るとおり、師について学問をはじめたときといったところでしょうか…

21 名前::2002/11/01(金) 22:37
黒竜 2002年01月15日火曜日 23時14分

失礼しました、勢いがありすぎて調査不足でした。
皇太后が陛下と呼ばれている例も見つかりました。

ひとつは霍光による昌邑王廃立の際の皇太后への上奏。
今ひとつは、班昭による搗セ后への上疏。

一方は皇帝不在。もう一方は幼帝のための皇太后臨朝。
前者は魏のケースと被りますが尊称が異なる………
なにやら他にも有りそうな気配なのでもう少し探してみます。

22 名前::2002/11/01(金) 22:37

黒竜 2002年01月16日水曜日 19時39分

いろいろ調べましたが、やはり上記三つが代表的な例のようです。
他には見当たりませんでした…
気になるのは、なぜほぼ同じ状況、立場にあった上官太后と郭太后が
「陛下」「殿下」と呼びわけられたのか?

というわけで、そこから推測されること
推測@ケース・バイ・ケース
北魏の話になりますが、胡太后の伝に彼女が自分を「朕」と称し臣下には「陛下」と呼ばせていたとの記述があるようなので、やはりどの尊称を選ぶかはその人(呼ぶ人)しだいかも。

推測A漢魏革命における皇太后(皇后)の権力低下
後漢が皇后=外戚勢力の禍によって衰退したことから魏が皇太后の権力を制限したんじゃないかという勝手な憶測。

推測B皇太后が居た場所
劉賀廃立に先がけて上官太后が未央宮に入っており、郭太后の方は事変後も自分の宮殿から動いたという記事がないので
未央宮に入る=皇帝代理=陛下 皇太后府=殿下

・・・どれもイマイチ真実味が薄い…。
後漢に限定すれば搗セ后のように陛下で問題ないのかな???
というわけでエネルギーは有りましたが肝心の知識が足りませんでした。面目ない…

23 名前::2002/11/01(金) 22:37

ぐっこ 2002年01月16日水曜日 23時09分

ぅお! 黒竜様、早速の調査ありがとうございます!
なるほど! 上疏文がありましたか…! 
結果は…割れますか…(;^_^A 皇太后はコレ! 皇后はコレ! という厳密な規定は存在してなかったんですね〜。
黒竜様の三つの推理、どれも正しそう…(;^_^A 皇太后の在宮によって呼称が代わるという説が、マニアックで心地よいです!
日本では皇后陛下、皇太后殿下、でしたっけ…。

24 名前::2002/11/01(金) 22:38

中根東竜 2002年01月17日木曜日 08時32分

どうも、お久しぶりです。

>ぐっこさん

>制度史とか風俗史、日本ではあまり専門書がないから、論文とか詩歌から読み取ってゆくしかないのが残念です…。中国だとそういうのはいっぱい…無いか(;^_^A 文革挟んでますし…。

いやあ、そんなことはないんですよね、
専門書はあるんですよ。まあ、
参考のために書目をあげると・・・
制度史では、
『通典』・『通志』・『文献通考』(いわゆる三通)あたりは
有名で、これを知らない専門家はモグリでしょう・・
また、風俗史では、
『荊楚歳時記』・『斉民要術』あたりかな。
書かれたのは三国時代とは少しずれて南北朝時代ですが、どんな暮らしをしていたかが良く分かります。『斉民要術』の方は歴史読本で
随分前に紹介されていたのでご存じかも知れません。
ちなみに『斉民要術』(農業書)の著者・賈思キョウは
魏将・賈逵の子孫に当たります。どうも賈逵の家ではこういう
農業技術を家学にしていたようですね。
・・というわけで、本はないわけではないのですよ。

>惇兄ィの「おい孟徳」はオッケーなのか(;^_^A。 孔明の「玄・徳・様?」はセーフなのか…。

まんがの蒼天航路の話ですか?
・・実際の三国時代でそんなことをいったら大変ですね。
二人とも斬殺されるでしょう(^^;)
主君を字で呼ぶのは無礼ですからね。今で言うと会社の上役に
ため口をきくようなものです。同輩と見なしているっつーことになる。

>NOBさん

>少なくともうちのサイトは「あるサイト」に含まれていそうですね(爆)

そーです、そーです。逸聞三国志の名を無断で出しては
いかんかなぁ、と思ったもんで・・
ちと回りくどくなりましたね。すいません。

>玉川さん

>字は自分で付けるにしろ他人に付けて貰うにしろ、後付けで付けるんですよね。その時、敢えて諱と同じ字を付けたっちゅうのはどないなものなんでありましょう。

これはですね、唐あたりでは字がいい加減になってきまして、
名と字がごっちゃになる現象が多くあるためです。
(「字をもっておこなわる」という)
郭子儀のケースなんかは、本人にしてみれば、

「俺は武人っすから、字なんか
関係ないっす!普段名前で呼んでるんすからそれでいいっしょ?」
とかいう感じではないかと。
こういうのは、原理原則にこだわりすぎると、多様な現実に
足下をすくわれます。おそらく騎馬民族との混血が進んで
文化が変容したことにより、規則がゆるんだのでしょう。

>左平(仮名)さん

宮城谷氏の定義で問題ないです。昨日、確認のためにその小説を
買いましたが、流石に良く書かれていました。
もうこの本を読めば僕が長広舌をふるわずとも
問題はありません。実は、最近の歴史小説は字にかんしては
嘘を書いているものばかりですが、(陳舜臣氏からして
誤っているので、田中芳樹氏をはじめとし殆どの作家が陳氏の孫引きをしている現状ではどうしようもない)
宮城谷さんはまともですね。安心しました。

25 名前::2002/11/01(金) 22:38

玉川雄一     2002年01月17日木曜日 17時48分

とりあえず、私にレスして下さった分だけですけど。

>名と字がごっちゃ
なるほど、唐代にはそのような風潮があったのですね。
すると、他にも例が見られるのでしょうか。郭子儀はあくまでも一例?

ですけど、司馬道子、司馬徳宗・徳文兄弟の例は東晋末期ですよね。
その頃から、唐代のような風潮があったのでしょうか。
それに、もし仮に「混血による分化の変容」が原因だとするとして、皇帝・皇族がそういったものを受け入れたりするのかな、と素人考えでは思ったのですが…
何か別の理由があったりはしませんかね。
東晋末と唐代の例に繋がりはあるのか、その間の南北朝時代ではどうだったのか、などと興味は尽きません。

26 名前::2002/11/01(金) 22:38

ぐっこ 2002年01月17日木曜日 20時22分

わ〜! 中根東竜さま、お久しぶりです〜!
そして早速の情報ありがとうございまする!

 >三通
知りませんでした! モグリ決定ですか!?

 >字
斬殺ものですか!? まあ孔明のアレは漫画だからイイとして、興味のあるのは親族どうしの呼び名です。弟→兄は「兄上」でいいとして、兄・従兄が弟分を呼ぶとき、どう呼んだんでしょう…? あと、母→息子、とか、姉→弟、とか。
陳舜三国志とか呼んでましたら、かなり混乱しました…。

 >多様な現実
ある時期ではかなりルーズだったんですね…(;^_^A。しかし玉川さまが仰るように、ボトムアップで式典が変わるというのも…。霊帝のように、やたら胡好きの君主が「俺らもやろうぜ」とか音頭とったとか…足下すくわれますか?

 >宮城谷作品
さしあたって三國志の進行が遅すぎです!(;^_^A もう文庫本に関しては買い漏らし無いはず…。ニセ三國志といえば、羅貫中はちゃんとしてるんでしょうか…。馬超の「字は孟起。年の頃は十七」というのは、史学的にオッケーなんでしょうか?

27 名前::2002/11/01(金) 22:39

黒竜 2002年01月17日木曜日 21時20分

>その間の南北朝時代ではどうだったのか
南北朝時代の王思政、崔彦穆、辛慶之、慕容紹宗
あと唐代の張嘉貞などが名と字が同じみたいです。

>興味のあるのは親族どうしの呼び名です
私も気になるのが一つ、光武帝紀に故郷に行幸した劉秀が一族のおばちゃん連中から「文叔が皇帝になるとは云々」といわれて笑ったという話がありますが、これって
おばちゃん≧皇帝という関係なんでしょうか?
それとも劉秀が持前の性格の良さで受け流してるんでしょうか?

ちなみに母→子なら王凌伝の注の単固の話のなかに死刑の決まった息子を母が字で呼んで話しかけてます。話の流れから考えると普段は名前、
改まったとき(敬意を示すとき)は字で呼びかけるんじゃないでしょうか。

28 名前::2002/11/01(金) 22:39

黒竜 2002年01月17日木曜日 21時20分

>その間の南北朝時代ではどうだったのか
南北朝時代の王思政、崔彦穆、辛慶之、慕容紹宗
あと唐代の張嘉貞などが名と字が同じみたいです。

>興味のあるのは親族どうしの呼び名です
私も気になるのが一つ、光武帝紀に故郷に行幸した劉秀が一族のおばちゃん連中から「文叔が皇帝になるとは云々」といわれて笑ったという話がありますが、これって
おばちゃん≧皇帝という関係なんでしょうか?
それとも劉秀が持前の性格の良さで受け流してるんでしょうか?

ちなみに母→子なら王凌伝の注の単固の話のなかに死刑の決まった息子を母が字で呼んで話しかけてます。話の流れから考えると普段は名前、
改まったとき(敬意を示すとき)は字で呼びかけるんじゃないでしょうか。

29 名前::2002/11/01(金) 22:39

中根東竜 2002年01月18日金曜日 23時16分

みなさん、ご指摘&ご意見、ありがとうございます。
色々前のレスでは不十分な点がありましたね(^^;)

>玉川さん

>ですけど、司馬道子、司馬徳宗・徳文兄弟の例は東晋末期ですよね。
その頃から、唐代のような風潮があったのでしょうか。

うーん、見落としてました<(_ _)>
実は、僕の前のレスには『中国歴史文化事典』(新潮社)という
種本があったのですが、そこの記述ではこういう風潮が流行したのは「中世」とありました。中世というと魏晋南北朝〜唐あたりを一般的に指しますので、唐に始まったことではないようです。訂正します。

>それに、もし仮に「混血による分化の変容」が原因だとするとして、皇帝・皇族がそういったものを受け入れたりするのかな、と素人考えでは思ったのですが…
何か別の理由があったりはしませんかね。

・・確かに、混血云々は理由としては弱いですね。
ただ、東晋〜南北朝期には文化はかなり変容していたことは事実です。『顏子家訓』には漢字ですら当て字が多数つくられていた
ことを嘆いている記述があります。混血以外の理由を考えてみます。

>ぐっこさん

>知りませんでした! モグリ決定ですか!?

三通を知っているのも使っているのも専門家ですんで、
一般の方は知らずとも大丈夫ですよ(^^;)
なお、三通のうち『通典』(この本が『三国志』関係の記述が一番
多そう)は中央研究院で見れますよ〜。師生版というところの
古籍の中にあります。

>興味のあるのは親族どうしの呼び名です。弟→兄は「兄上」でいいとして、兄・従兄が弟分を呼ぶとき、どう呼んだんでしょう…? あと、母→息子、とか、姉→弟、とか。

基本的に字は敬称という性格を持っているので、目下の者を
呼ぶときには名前で呼ぶのだと思うのですが・・。
母→息子であれば名前でしょう。姉から弟は
いまいちわかりません・・そういう史料を見たことがないんで・・

>馬超の「字は孟起。年の頃は十七」というのは、史学的にオッケーなんでしょうか?」

僕も史料批判を専門的に学んだことがないので憶測ですが、
『三国志演義』はこういう風俗に関しては概していい加減な
ようです。あんまり証拠としてはふさわしいモノとは思えません。

>黒竜さん

>ちなみに母→子なら王凌伝の注の単固の話のなかに死刑の決まった息子を母が字で呼んで話しかけてます。話の流れから考えると普段は名前、
改まったとき(敬意を示すとき)は字で呼びかけるんじゃないでしょうか。」

うーん、そうかも知れませんね。しかし子供を字で呼ぶ例が
あるとは・・勉強不足を痛感しますね。

30 名前::2002/11/01(金) 22:45

ぐっこ

>中根東竜さま
どうも〜! またまた情報ありがとうございます!『通典』ですね!? …見つからない…(T-T) かれこれ三十分ほど中央研究院のなかをウロついてるんですが、場所がわからない…師生版…?
そうだ、ググルで通典・師生版を調べたら…おお、日本語の解説サイトがあるじゃないか、ラッキ〜♪

……中根東竜様のサイトでした(;^_^A

あらためて紹介のリンク先から人文資料庫師生版→選自(古籍一八種)→通典。
うーむ!! 深い! なんか隣には捜神記とか顔氏家訓集解とかあるし…(;^_^A 読みたいのが一杯だ〜! そもそも通典だけでも、礼やら兵やら食貨やらが!
勉強します!

31 名前::2002/11/01(金) 22:47

ぐっこ 2002年01月19日土曜日 21時36分

案外、家族同士での呼び方って、資料が揃ってないものなんですねえ〜。

いまさらながら確認しますが、名前を呼んでよいのは君、父母・兄、族父あたり。
ということは孫策が孫権のことを「権よ」と呼び捨てにするのは正解? 袁譚が袁尚を「顕甫!」と字でののしるのは、かなり他人行儀?
分かってるようで、案外分かりづらい世界であります…。
孫策と周瑜が字を呼び合うというのも、礼に適ってるのか無礼なのか親愛の証なのか…。わからぬ! 引き続き情報きぼん!

あと、何かの本でとばし読みしたんですけど、晋代の詩のなかに、
「最近は女が市場でベラベラしゃべって鬱陶しい。やたら顔を見せるな。女は女らしくすっこんでろ」
みたいな詩があったとおぼろげながら記憶してますが、後漢末くらいには、すでに女性が家から出て路地を練り歩き、ふつうに買い物とかしてたのでしょうか…?

32 名前::2002/11/01(金) 22:47

黒竜 2002年01月20日日曜日 00時27分

一応、三国志中の名と字に関する記述を自分の気づいた範囲で並べると
@常林伝「子に向かって父の字を呼んだ人にどうして礼拝する必要がありましょう」

A高堂隆伝「下臣を前にして主君を名前で呼べば、道義では討ち果たすことに…」

B王脩伝[太祖は彼(脂習)を字で呼んでいった]

Cトウ艾伝[十二歳のとき…陳寔に対する碑文を読んだが…そこで自分の名を範、字を士則と名乗った]

Cって十二歳で字を名乗ったともとれますよね。憶えておいてあとでつけたのかもしれませんけど…

33 名前::2002/11/01(金) 22:48

ぐっこ 2002年01月20日日曜日 23時14分

黒竜さま、調査ありがとうございます!
なるほど…確かにそういう記述があったような…。
不思議なのはこの@で、いったい子供の前で親をなんと呼べばいいんでしょう…? 「お父君はどこかな」くらいでよかったんでしょうか〜。
「字を呼ぶ」のは礼にかなってると思ってたんですが、この例を見て混乱した次第で…。
字の年齢についても諸説ふんぷんですよねえ…。曹沖については、死後につけたっぽいですけど。「士」でない人間はあとから自称する、とも聞きますけど、そもそも「士」とそうでない人の区切りって…。

「さらに追加質問でスマソですが、今上皇帝のお父さんとかお祖父さんって、どう呼ばれるんでしたっけ!?「先帝」ではなくて…。
「皇太后」みたいな感じで、なんか特別の読み方があったような…。

34 名前::2002/11/01(金) 22:48

玉川雄一     2002年01月24日木曜日 21時16分

黒龍さんに追加です。

司馬朗伝の冒頭に、彼が九歳の時に父の字(建公)を言った人に対して「他人の親を馬鹿にする者は自分の親を尊敬しない人です」と言い放ち、詫びを入れさせたそうですね。

…じゃあどうやって呼べばいいっちゅうねん!

35 名前::2002/11/01(金) 22:48

左平(仮名) 2002年01月24日木曜日 21時21分

今上帝の父が存命なら、日本の場合と同じで「上皇」で良いのでは…って、何の根拠もないですが。清の乾隆帝が、確か存命中に譲位していますから、彼がなんと呼ばれていたかが分かれば…。
あと、亡くなっている場合、「考」の字が付くはずです。確か。
「皇考」→死んだ父をまつるときの敬称(礼記・曲礼)
    →曽祖、曽祖父(礼記・王制)
「皇祖」→天子の祖父(尚書・五子之歌)
    →天子の始祖
以上、漢字字典から。

36 名前::2002/11/01(金) 22:48

japan  2002年01月24日木曜日 23時37分

・父親の呼称

>いったい子供の前で親をなんと呼べばいいんでしょう…?
>「お父君はどこかな」くらいでよかったんでしょうか〜。

『世説新語』方正編では、陳寔の友人が七歳の陳紀(陳寔の子)に向かって「尊君在りや不や(お父上はいらっしゃるかな)」と呼びかけているので、ぐっこ様の御推察の通りではないかと思います。


・当時の風俗

>後漢末くらいには、すでに女性が家から出て路地を練り歩き、
>ふつうに買い物とかしてたのでしょうか…?

高島先生の「きらめく群像」によると、酒宴の席などで妻が夫以外の男性の目に触れるのは、今で言えば飲み会に奥さんが全裸で登場する位の暴挙だったとか。
少なくとも孫妹君や甄氏の如き高貴な女性は、人前に姿を現すことなどなかったのでしょう。
(「無双2」のエンディングには小一時間問い詰めたい…)

庶民の家庭の主婦はそんなこと言ってられないと思うのですが…史書を著すような方々は、下々の生活なんて気にも留めないだろうから、真相は藪の中です。

37 名前::2002/11/01(金) 22:48

むじん     2002年01月25日金曜日 00時08分

どもです〜。

>今上皇帝のお父さんとかお祖父さんって、どう呼ばれるんでしたっけ!?

パパは「太皇帝」ですね。グランパはなんてったっけ?

>高島先生の「きらめく群像」によると、酒宴の席などで妻が夫以外の男性の目に触れるのは、今で言えば飲み会に奥さんが全裸で登場する位の暴挙だったとか。

全裸はいいすぎでしょ〜、さすがに。でも結婚した女性が家族以外の男性の前に出ないのは、今のアフガンでも見られますね。
呂布は劉備と同盟したとき、妻を劉備に挨拶させていますね。呂布の気持ちとしては劉備と義兄弟の契りを結んだつもりだったらしいですが、劉備のほうは呂布のこの言動を見て、彼の人格に疑問を持ったようです。ま、劉備の関心を買おうと必死になってる呂布は「かわいい」とか思っちゃうんですけど♪

38 名前::2002/11/01(金) 22:50

黒竜 2002年01月25日金曜日 20時39分

>今上皇帝のお父さんとかお祖父さんって、どう呼ばれるんでしたっけ!?「先帝」ではなくて…。

左平さんの仰るとおり亡父は皇考、亡祖父は皇祖(皇祖考?)。でいいみたいです。
ただ参考は後漢書が主なので何とも言えませんが正式に帝位に即いた人は、あまりそのようには呼ばないような気も…
あと先代がなくなって諡号や廟号をつけるまでの間は大行皇帝と呼ぶようです。

一方、皇帝が生きている父を呼ぶ場合は「太上皇」が主でしょうか…
司馬倫も恵帝を「太上皇」に祭り上げてるんで微妙ですが…

ちなみに傍系から迎えられた皇帝が父(未即位)に諡号を贈る場合は「○○皇」で「○○皇帝」とはしないようです。
後漢はこの「○○皇」が非常に多いですが、魏では明帝紀太和三年の詔勅にあるように厳しく禁じられたみたいです。
曹髦も曹奐も律儀にこれを守ってますね。

…曹奐が即位したときって曹宇まだ生きてたんですね。今気づきました(^^)A

39 名前::2002/11/01(金) 22:51
ぐっこ 2002年01月25日金曜日 23時40分

わわ、たくさん情報ありがとうございます!
 >字
本当に、考えれば考えるほど深みに…。結局、これを使うのはいいわけ?どうして父親を字で呼んじゃダメなの?…とか。
そういえば異説のなかに、「劉備を字で呼んだためあやうく関羽・張飛に斬られるところだった馬超」というシチュエーションがありましたね…。事の是非はともかく、自他の君主を字で呼ぶのは固く禁じられていたようで…。じゃあ明公とかいう呼び方しかできなかったのだろうか…。

 >皇帝のパパ
左平(仮名)様、むじん様、黒竜様、情報サンクスです! 亡父のばあいは皇孝、生きてる場合は太上皇…。あ、むじんさまの「太皇帝」、思い出しました! 曹嵩の諡号ですね! グランパ曹騰は、たしか高皇帝でしたっけ。こういう呼び方もあるのか…。
傍系の父…ああ、皇帝の子が必ず皇帝になる訳じゃないんですよね…。
王朝が滅びる直前なんか、まともな世襲なんてほとんど無いですね〜。なるほど、「皇」だけですか。

日本の皇室範典を探したんですが、皇后→皇太后→太皇太后くらいしか分からない…。
あ、日本では「天皇・太皇太后・皇太后・皇后ノ敬稱ハ陛下トス」らしいです。今発見(;^_^A

 >女性
これも考えると妙なんですよねえ…。基本的に当時の女性は家に閉じこもっているもの、と思ってましたが、少なくとも市井の女性は街に出て歩き回ってたはずでしよねえ…。簡雍のエピソードではカップルで歩いてたみたいだし。どうも当時の町の様子が想像しづらいです…。
呂布が劉備に妻を見せたのは、政治的アピールと言うより「見てみて〜マイワイフ♪」的アホウな発想があったような気も(;^_^A 個人的な要望ですが。

40 名前::2002/11/01(金) 22:52

黒竜 2002年01月26日土曜日 23時02分

女性の扱いといえば、前漢の司馬相如が生活に困って
妻の卓文君に酒屋のママをやらせたところ文君の父親、
卓王孫が恥入って家に引き篭り、親戚が取りなして財産を与えさせた。
って話がありましたね。

他には夏侯覇の従妹が薪拾いに出かけて張飛に誘拐されたりしてますが…簡雍の話といい、未婚ならふらふらしててもいいのかな?

41 名前::2002/11/01(金) 22:53

むじん     2002年01月26日土曜日 23時40分

あわわわわ、太皇帝は曹嵩の諡号でしたか。
皇后→皇太后→太皇太后みたいな流れかと思ってましたよ。
大行皇帝とごちゃまぜになってたらしい…(^^;

ホウイクの母は外出するとき帳付きの車に乗ってますよね。
簡雍が見た男女も車上の人だったのかも。
てっきり歩いているんだと思いこんでましたが。

そういえば女優は例外なんですかね。
あ、鄭玄の家の小間使いも鄭玄の目には触れてますよね。
わっかんないなあ〜。

42 名前::2002/11/01(金) 22:53

ぐっこ 2002年01月27日日曜日 11時05分

>黒竜さま
司馬相如の奥さん! そうでしたね〜、たしか奥さんが接客やって、ご主人は皿洗いとかやってたんですよね…。現在の駆け落ちドラマに通じるものがあります…(T.T)
確かに、奥さんの酒屋勤めは親族中の恥として鳴り響いたみたいですから、士大夫レベルでこういう面前での接客というのはあり得ないものだったようですね…。逆に庶民レベルでは、こういうママさんのいる酒場ってのはけっこうあったかも。
夏侯淵の娘(姪?)…。良家の娘がじぶんで薪拾いに行って、しかも事もあろうに張飛に誘拐されるというのもアレな話ですが、このエピソードからも、外で働く女性像がなんとなく伺えます…。
未婚の女性ならオッケーというのも、いかにもあり得ます!

 >むじんさま
ネットで太皇帝を調べたら、私のサイトが引っかかりました(;^_^A
この太→高というのはいかにもありそうなケース。ほかにも探せばこのパターンで呼ばれてる人いるかも。
マンガFFSでは、皇帝(アマテラス)の先代は「皇太帝」という称号でした。そのまんまやん…。
女性問題…なかなか決定的なものが見つからないですねえ…引き続き情報待ち。

43 名前::2002/11/01(金) 22:54

おばら     2002年01月27日日曜日 23時16分

>後漢末くらいには、すでに女性が家から出て路地を練り歩き、ふつうに買い物とかしてたのでしょうか

うーん、参考になるかどうかちょっとワカラナイですが、
班昭の『女戒』婦行第五には、
「禮義居n、耳無塗聴、目無邪視、出無冶容、入無廢飾、無聚會羣輩、無看視門戸、此則謂専心正色矣。若夫動静輕脱、視聴陝輸、入則亂髪壊形、出則窈窕態、説所不當道、觀所不當視、此謂不能専心正色矣。」とあります。

テキト―に現代風に超意訳すると、(^-^;;
「清潔にして礼を守り、道ばたでは噂話に耳を傾けず、媚びるような流し目は使わず、外出するときはケバい化粧で顔をつくらず、家に居るときでも化粧無しではいけないし、井戸端会議に集まるオバチャン連中の集会に集まったりせず、門の外を通る男に視線をやらない、これが夫ただ一人を大切にするということである。
しかし、浮ついてきょろきょろしたり地獄耳だったり、家にいるときは髪はボサボサなのに外出するときだけは色っぽい化粧をしたり、女性として言ってはいけないことを言ったり、見てはいけないモノをみようとすれば、夫一人を大切にすることのできない女である。」

とでも訳せましょうか…。

女性の外出って結構あった感じしません?

44 名前::2002/11/01(金) 22:54

ぐっこ 2002年01月29日火曜日 00時41分

ああ、当時の夫人公論(;^_^A ! 班昭さんの文がありましたか!
なるほど、これは…一般も士大夫も含めての訓戒のようですが、なんだ、結構みんなフツーに外に出てるじゃん!!
やっぱり主婦たちは井戸端会議をやったりしてたんですね…(;^_^A
こうやってしつこく戒めるところを見ると、よそのご亭主に色目使う団地妻も多数…。
なんだか、急に目が開けてきた感じです!

45 名前:玉川雄一:2004/05/10(月) 23:48
ちょうどよいスレがあったのでもの凄いサルベージ。

調べものしててふと気になったんで見てみたのですが。
賈詡の諱である“詡”の意味に「やわらぐ」というのがあるようで、
あざなの「文“和”」と対にしてるということでしょうか。

でも詡の第一の意味は「誇る、大言を吐く、ほらを吹く」だそうで(^_^;)
ついで「おおきい、あまねし、やわらぐ、敏捷で勇ましい、
はっきりとした物言い、なまめかしい、美しい」などなど。

そういや、羌族に拉致られた時にハッタリかましたりしてましたよねえ(゚∀゚)
蒼天航路でのキャラも大言吐きっぽかったり。
やはり名は体を表すのかしら?

46 名前: 左平(仮名) :2004/05/11(火) 00:06
あっ…それ、羌族ではなく、氐族です。でも、一体何の調べものですか?

「忠」という名でも皇甫嵩に自立を勧めた閻忠という人もいますし、現在でいうと、
あんたのどこが「静香」やねん、という、広島県選出の御仁もいますし…などと茶々を
入れてみたりして。
ともかく、こうしてみると、言葉にはきちんと意味があるんですね。まぁ、賈詡の大言吐き
については、閻忠のべた褒めも一因なのかも知れませんが。

47 名前:★ぐっこ:2004/05/12(水) 23:55
というより、「やわらぐ」と「ホラを吹く」の意味が両立している
“詡”のほうが凄いような(^_^;) でもホントに、どっちも当たってる
んでしょうねえ…。やはり「和」は第二義で、彼自身は第一義と。

48 名前:★玉川雄一:2004/05/15(土) 18:48
あ、テイ族でしたね。うろ覚えで書いてました。

ちなみに調べ物は全然関係のない話ですが、
晋書陳騫伝にあった“謇諤之風”ってのがどういう意味かしら、と思いまして。
『ごんべん』の字を見たついでだったわけです。
で、“謇諤之風”ってのはへつらわずに直言するという意味のようでして。
もっとも残念ながら陳騫は『素より謇諤之風無く』となるのですが(-_-;)

それにしても漢和辞典って読んでいて飽きないですよね。見るたびに思わぬ発見が!

49 名前:★玉川雄一:2004/08/27(金) 11:06
先日、講談社学術文庫の『秦漢帝国』(西嶋定夫著)を読んでいたら
漢初に旧斉の田氏が長安に移住させられた際、
長安に到着した順に「第一」「第二」・・・と姓を改めたとありました。
後漢の名臣(らしい)「第五倫」はそのうちの「第五」氏の末裔だそうで。

「第五」姓の存在は知ってましたけど、こんな由来だったんですか。
今更になってしったわけですが個人的に82へぇぐらい。

で、確認のためにぐぐってみたら、以前に松竹梅さんの起居注で
第五姓の由来についても紹介されてたんでしたね。
この記事自体は読んだ事があるけど忘れてたのか。
ところで、この後掲示板の方だかで第五文休の諱が判明したような
記憶があったんですけど思い違いかな?

ちなみにもう一人第五さん情報。
西晋の最末期、第五猗(ダイゴイ)ってのがいた。
荊州での杜曾の反乱討伐のために朝廷から派遣されたんだけど、
説得されて反乱軍に寝返っちゃった。反乱は結局鎮圧されてしまうんだけど、
第五猗ら数人のもと官軍の将については周訪が助命してあげようとしたのに
荊州方面軍総帥の王敦によって皆殺しにされちゃった。
王敦はこういうの容赦ないから相手が悪かったといえばそれまでだが、
そもそもは第五猗が反乱軍に寝返ったんだから自業自得ではある。

50 名前:おばら:2004/08/28(土) 23:18
第五・第八氏
http://kanso.cside.com/daigo01.htm target=_blank>http://kanso.cside.com/daigo01.htm
http://kanso.cside.com/daigo02.htm target=_blank>http://kanso.cside.com/daigo02.htm
http://kanso.cside.com/daigo03.htm target=_blank>http://kanso.cside.com/daigo03.htm
http://kanso.cside.com/daigo04.htm target=_blank>http://kanso.cside.com/daigo04.htm
とりあえず噛み砕いてみました。
誤訳あるっぽいですけど、よかったらどうぞ〜
晋書にも第五さんいるんですね。今、魏晋南北朝読み直し中だったりします。

ってぐっこさん掲示板むちゃくちゃ久しぶりの書き込みだし・・・

51 名前:★ぐっこ:2004/08/29(日) 16:37
ヽ(・ω・)人(´∀`)人( ゚Д゚)人
おばらさまひさしぶりー!ヨコソー!
第五氏ですかー!  こちらでもなんか話題になった記憶は…
つうことで検索すると、宮城谷三国志スレで、第五氏の話題が。
文休さんの諱は、こっちの方では出てこないっす。りゅうぜんず掲示板
でしたっけか?

ほう、晋のほうにも第五氏が…て、あまりイイ死に様ではないですな…

52 名前:左平(仮名) :2004/09/12(日) 01:49
>第五氏
たまたま「馮道 乱世の宰相」を読み返していますと、第五Kという
人物がいました!
旧・新唐書のチェックはしてませんから何ですけど、なかなか面白い
人物の様です。

安史の乱において、顔真卿(書家としても有名)とともに戦った賀蘭
進明という人がいるのですが、彼・第五Kはその部下でした。
その時たまたま顔真卿が戦費確保の為に行っていた塩の官売をみた事
から、財源確保の為、塩の専売に携わったそうです。

で、この塩の専売による収益が、唐後期には総歳入の半ばを占めたの
だとか。
唐後期を語る上ではなかなか重要人物みたいです。

53 名前:★玉川雄一:2004/09/14(火) 21:16
はーい、私も見ました第五琦。
講談社学術文庫の『随唐帝国』の、やはり塩の専売に関するくだりで。
通史レベルでも出てきちゃうぐらいだからそのスジじゃ有名なのか。

54 名前:★ぐっこ:2004/09/15(水) 00:18
>第五K
ほゥ…唐代の方で…。
やっぱり昔っから塩鉄関連の専売やった政治家は妙に名が
残るよーですな…

相当に名家であった第五氏ですが、ヒジョーに気になるのが、
このテの氏って現代中国に存続してるのか、と。
田さんや薛さんとはちょっとノリも違いますしねえ…

55 名前:清岡美津夫:2004/09/17(金) 22:22
家系といえば、真偽はともかく、新唐書の表を真っ先に連想してしまうんですが
第五氏も載っているようですね。
なんか、よくわからないまま、ここにコピペするんですが、的はずれだったり有益じゃなかったしたらごめんなさい。

新唐書
卷七十五上 表第十五上 宰相世系五上
呂氏源流 第五氏
のところです。

第五氏出自[女為]姓。齊諸田、漢初多徙奉園陵者、故以次第為氏。唐有第五華、弟K。
K、相肅宗。
峰、台州刺史。
平、京兆兵曹參軍。申 。
牟、兼御史中丞。
第五氏宰相一人。K。

56 名前:左平(仮名):2004/09/19(日) 00:48
これはまた面白い情報ですね。

漢文はさっぱりですが…これって、第五Kは粛宗期に宰相に
なっていたって事ですよね?
こうしてみると…教科書掲載にあと一歩って感じですね。
(両税法の楊炎ってそれ以外には何も分からないんですけど、
世界史の教科書には載ってるんですよね)

57 名前:★玉川雄一:2004/10/03(日) 12:05
さっき本棚見てたらふと平凡社の
『漢書・後漢書・三国志列伝選』が目に入りました。
そういやこの本、ちくま正史と同じ時に買ったのに
全然読んでなかったなと思い目次を見ると…

第五倫伝が載ってました_| ̄|●
そこの冒頭に第五姓の由来も載ってたよ…

それともう一点。先日田中芳樹翻訳の『随唐演義』読んだんですが、
安史の乱のくだりで賀蘭進明が登場しました。
でも彼は自分可愛さのあまりに、スイ陽で孤軍奮闘を続ける張巡に
援軍を出そうとしないという「悪者」として描かれていました。
まあ「演義」ですから多少割り引いて考えないといけないのかもしれませんが。

その張巡てのがまたいかにも田中芳樹好みの名将味好漢だったらしく、
『中国名将列伝』でも取り上げてますね。
彼によれば中国じゃ有名な人物だそうですが、
史書だとどうかかれてるのか興味が湧きます。

…いずれ『旧唐書』『新唐書』にまで手を出すことになるのかなあ(^_^;)

58 名前:左平(仮名):2004/10/03(日) 22:00
>張巡
聞いた事がある様な…と思ってみましたら、文天祥の「正気歌」にその名が
ありました(故・伴野朗氏の『中国反骨列伝』から)。
「張睢陽の歯と為り(督戦の際に歯噛みした結果、落城して捕えられた時には
歯がボロボロになっていたのだとか)〜」というくだりがあります。
他にも厳顔、嵆紹の名も出てます。関羽が神として祀られるのもこの頃だった
様に聞きますから、当時、三国志が結構語られていたと言えるでしょうね。

59 名前:姉さん:2011/10/26(水) 12:55:09 ID:PmtJjtiT0
そこは・・・だめです〜・・・しゅれりあ・・・さまのそう・・・いうところが・・・すき●´Д`●〇 hemn.me/DMM/?show=10A944

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