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■ 関羽>徐晃? ちくま和訳

1 名前::2002/11/02(土) 13:27

玉川雄一   

 ■ ちくま和訳ってどうよ? ■

 蜀書先主伝を読み返してビックリ。この部分、和訳が激しく小説調の文体だと思いません? そりゃ彼の人生自体が小説じみてはいましたが、そういう問題ではなく。

 もともと、ちくま和訳には太史慈の「トマホーク」などユカイな訳語が見られますが、先主伝は文章そのものが小説臭く意訳されているような気がします。私は原文読んでないので何とも言えませんが、和訳の担当者によって印象が変わるのではないでしょうか。
 味気ないとは言わずに、原文のニュアンスを失わない程度に和訳してくれた方がありがたいんですけどねえ…

 やっぱ、中華書局版くらいは持っておくべきですかのう。三国志なら安いし(^_^)

2 名前::2002/11/02(土) 13:28

クェン 2002年04月09日火曜日 00時06分

変事のルビが「クーデター」ってのもありました>ちくま和訳
けど、ちくまはかなりマシなほうだと思います。

徳間書店の正史三国志なんてかなりのもんです。
関羽伝での対徐晃戦の訳に「若い徐晃にはかなわず…」ってのがありました。思いっきり演義のイメージで書かれてますな。註で関羽は徐晃を兄と呼んでるんだから徐晃のが若いとは考え難いし、戦術面で関羽は負けたんだから若さは関係ないし…訳者による関羽が徐晃に負けたことに対する言い訳にしか思えん。

3 名前::2002/11/02(土) 13:28

ぐっこ     2002年04月09日火曜日 00時20分

そういえばあまり意識したことなかったですが(ハードカバー時代、みんな同じ訳者だと思ってた)、たまにテンション高い邦訳とかありますよね(;^_^A たいては語尾の一文字で印象がガラッと変わる類ですが…
万が一私が訳すとなったら、もっと凄い訳になるでしょう。

>徳間書店
まあ正史と言うより、正史から見た三国志、的なノリですよね〜。ひそかに註釈の人物評が私情入りまくりで好きです(;^_^A

4 名前::2002/11/02(土) 13:28

岡本 2002年04月09日火曜日 22時05分

本題からずれますが。
>註で関羽は徐晃を兄と呼んでるんだから徐晃のが若いとは考え>難いし、
正確なご返事をどなたかにいただきたいのですが、中国では±5才くらいの年代なら、相手のことを仮に自分より年下でも”兄”と呼ぶそうです。中国では年上を敬う傾向にありますが、正確な年齢差を厳密に気にしだすのは本当に血縁を結んだとか義兄弟になったとき(水滸伝)ぐらいだったと思います。
ですから、徐晃の方が、即年上とは言えません。戦歴を見た限りでは、大体30歳くらいで大舞台に顔を出し始めるとして、関羽の方が数才年上というところではないでしょうか。


>戦術面で関羽は負けたんだから若さは関係ないし…訳
>者による関羽が徐晃に負けたことに対する言い訳にしか思え
>ん。」
訳に対しては、訳者の価値観が入るのは避けられませんが。
私観では、戦術面で関羽が負けたとは単純にはいえないと思っています。
旗幟を鮮明にしないとアンフェアですので、申し上げますと
私は関羽ファンです。
もちろん、関羽を完璧人間だったと評する気はありません。できる人間ではあったでしょうが、高すぎる自尊心が災いして生じた“馬超論議”や“黄忠へのやっかみ”や孫権に対する“狗の子”発言等、好んで敵を作ったような態度は「どーにかならんかったもんかねぇ」とぼやく事しきりですし。

当初、徐晃は新兵が多いという理由で交戦を避け(野戦指揮官としての資質の高さを示す)、荊州陥落の情報が菫昭の策で関羽陣営に伝わり、関羽陣営の士気が地に落ちてから交戦しています。将軍として徐晃が非常に有能なのは間違いありませんが、戦術というより機を見るのに敏だったというべきでしょう。この時点で樊城の曹仁にもこの情報は伝わっており、関羽軍は数が上で士気も上の敵に逆包囲されたような形でした。確かに12重の逆茂木を突破したのは脅威ですが、状況を考えるとこのような状態で軍が完全に崩壊せずに総勢3万のうちの数千だけでも確保して自ら徐晃に相対して被害を極力減らそうとした関羽の統率力にむしろ私は凄さを感じますが。于禁の数万は完全に崩壊しましたし。

将軍の定義自体が非常に問題をはらんでいますが、私の定義では大まかに分けて、2通りで、
1.戦闘と戦術に長けた千人単位の比較的少数部隊を率いた戦い
  で無類の強さと統率を示す指揮官。野戦型猛将の典型。必ず
  しも馬鹿ではない。
2.戦闘・戦術には必ずしも優れていないが、万人単位の大部隊
  の統率に優れた才を示す。文官型の指揮官。将の将か。必ず
  しも賢くはない。
  大部隊と少数部隊の統率は同一ではありませんので。
また、都督や君主は優れた1.タイプの部隊長を数多く持てるという利点がありますので、純粋に将軍としては評価しかねるものがあります。(確かに曹操は自身、優れた野戦指揮官ですが。)
国家の創業期には、1.のタイプが戦歴を重ねて2.の性格も併せ持つようになり、とんでもない将軍が出てくる可能性があります。
ですから、私は“後漢・三国で最高の将軍を上から5人挙げろ”といわれると
“1が関羽、2が張飛、3、4は張郃・徐晃、のどちらか、5.は張遼”と現時点では答えるでしょう。

以上、偏った感もある意見です。

5 名前::2002/11/02(土) 13:28

ぐっこ     2002年04月09日火曜日 23時41分

うーむ…関羽vs徐晃。
岡本様と意見を異にするのは残念なコトながら、私はどちらかと言えば関羽否擁護派であり、あまり関羽を高く評価してないタイプです(^_^;)
――といっても、これは比較の対象を曹操や孫堅・周瑜クラスに設定してるからです。もう関羽くらいになると、はっきり群雄の一人に数えていいのではないかと。

ですので、いわば曹操と甘寧はどっちが強かったか、という質問と同じような感覚で関羽vs徐晃戦を捉えてしまい、同じ土俵での比較ができなくなってるので…。
私にとっての樊城の戦いは、関羽が「徐晃ごとき」に敗れた戦、という表現で全て表せます(;^_^A
軍将としての力量は徐晃の方が二段は上だと思うのですが、どうしても「ごとき」がついてしまうのです。
細かい戦術面での比較は、おおむね岡本様と一致しています。
ただし、于禁軍に関して言えば、関羽が崩したと言うより洪水で綺麗に流されていったと敢えて擁護を。まあ地勢を計算しない戦バカの失敗ですけど…

…と、私も脱線しました(;^_^A

6 名前::2002/11/02(土) 13:29

クェン 2002年04月10日水曜日 01時11分

関羽と徐晃に関しては色々思うところがあります。
では岡本さんに対抗してあくまで徐晃サイドからのみ語らせてもらいます。ちなみに徐晃ファンです。関羽は普通に好きです。

年齢差について
>中国では±5才くらいの年代なら、相手のことを仮に自分より年下でも”兄”と呼ぶそうです。
話を振っておきながらなんですが、実は、私的にはどちらが年上なのかはあまり重要で無かったりします。私にとって重要なのは、徳間書店が言っている「年のせいで関羽が負けた」かどうかです。まあ、±5才程度ならば年のせいで負けたとはいえないので、徐晃が年下でもかまいません。
それと関羽が徐晃を尊称である「兄」と呼んでるのも個人的に見逃せません。これって、少なくとも吉川のように徐晃が一方的に関羽を尊敬している関係ではないことを示してると考えていいですよね?

戦術について
関羽との直接対決以外の部分も含め、徐晃の一連の行動を戦術として評価しました。
>荊州陥落の情報が菫昭の策で関羽陣営に伝わり、関羽陣営の士気が地に落ちてから交戦しています
ここからが徐晃の腕の見せ所な気がします。まず囲頭の屯営を攻撃すると宣伝しておきながら四冢を攻め、それに気がついた関羽を打ち破った。これこそ戦術だと思うのですが。

>戦術というより機を見るのに敏だったというべきでしょう。
兵法で「初めは処女の如し、後には虎の如し」というのありませんでしたっけ?うろ覚えなので、細部は違うかもしれませんが、徐晃はまさにこれだったと思います。

>状況を考えるとこのような状態で軍が完全に崩壊せずに総勢3万のうちの数千だけでも確保して自ら徐晃に相対して被害を極力減らそうとした

徐晃伝によると関羽はこの時5千を率いたそうです。かつて益陽で関羽が3万を率いて魯粛1万と戦うことになった時、やはり精兵5千を率いて甘寧と対峙したことがありました。この「5千」は関羽のもっとも好む兵数なのかもしれません。そうすると、被害を減らそうとしたのではなく、これこそ本気モードであり、これで雌雄を決するつもりだったのではないでしょうか。だからこそ、奥の手である関羽御大直々の戦闘に負けたため、この直後からなすすべも無く包囲網を破られたのだと思います。

>関羽が「徐晃ごとき」に敗れた戦
ファンである私から見ても、徐晃は曹操の手下その1ですからねえ…
どうしても関羽のが英雄としての格は上に見えます。

7 名前::2002/11/02(土) 13:29

もす     2002年04月10日水曜日 21時01分

全く話を逸らしてしまいますが・・・

⇒ぐっこさん
>まあ地勢を計算しない戦バカの失敗ですけど…

初めて行く所で特殊な気候・風土を知るのは、ほぼ不可能ですって・・・(;^_^A
曹操が赤壁で失敗したのにしても、元寇での退却にしても、責めるのは非常に酷ッス。。
霍去病なんて、匈奴を撃つ時に『寒い』事すら知らず、率いる兵に防寒具を与えなかったワケですし(笑)

日本人にとって、アメリカにおける竜巻ですら"実感"が非常に難しいように、
彼らに同様の事を求めるのは・・・と思いますよ(^^ゞ

8 名前::2002/11/02(土) 13:30

玉川雄一     2002年04月10日水曜日 22時24分

おお、アタシが爆睡してる間に面白い話題に。

私の関羽の評価はあくまでも「将帥としては一流」なんで、そういう意味では徐晃と同レベルです。そのレベルではむしろ、徐晃の方が評価は上かも。

正史の記述だけで比べるのも酷でしょうが、少なくとも徐晃は軍の総帥としての実績が直接的に残されています。関羽はいまいちそれが掴みづらいのです。文中で下されている評価から推測できる程度で。いざ「戦闘」となったら、徐晃の方が場数を踏んでるんではないかしら?

ただ、関羽は単なる将軍以上の役を負っていましたので、そういうレベルまで含めると徐晃と単純に比べるわけにはいかないでしょうね。将軍というレベルなら徐晃が勝っても不思議はありませんが、実際には関羽は背負う物が大きかった分ハンデはあったでしょう。ただ、関羽はまさにその背負ったもの(荊州総督)のお陰で敗れたわけですが。
関羽と徐晃の戦術的な対決の部分では、素直に徐晃を褒めてあげます。

9 名前::2002/11/02(土) 13:30

岡本 2002年04月11日木曜日 20時18分

うむむむ...旗色が悪いですね。
魏・呉と比較して蜀勢は記述が少ない人が多いですから自然と対抗勢力の記述から推測するほか無いわけで...。
私は関羽ファンの呪縛から解き放たれていないようですから、以下の議論はかなり眼鏡に色がついていると、ご了解ください。

クェン様
>徐晃伝によると関羽はこの時5千を率いたそうです。かつて益>陽で関羽が3万を率いて魯粛1万と戦うことになった時、やは>り精兵5千を率いて甘寧と対峙したことがありました。この
>「5千」は関羽のもっとも好む兵数なのかもしれません。そう>すると、被害を減らそうとしたのではなく、これこそ本気モー>ドであり、これで雌雄を決するつもりだったのではないでしょ>うか。
1軍の指揮官が”将軍”であると仮定して、三国期の1軍は3000強ぐらいだったようですから(于禁の7軍は2〜3万、1軍=5000だと3万強)、5千が関羽の好んだ兵数であったというのには異論はありません。延津の文醜軍が数千でしたから、1指揮官の統率兵数が普遍的にこれくらいだった可能性もあります。

関羽瀬の故事
単刀赴会前後の呉・蜀の軍事行動に関してはまた意見があるのですが、いつ魏が攻めてくるか分からない以上積極交戦は避けようと考えていたと思います。大体、攻撃目標をおおっぴらに宣伝していたわけですから。呉の出方を見よう、あわよくば渡河しようぐらいではなかったでしょうか。

”雌雄を決する”ですが、私観では、この時点の関羽の考えていた戦略はこうだったように思います。
1.樊・襄陽を抜く。
2.樊入城後、攻囲陣を解いて野戦陣に切り替える。
3.徐晃の援軍はこの時点で退却するか、退却しないようであれば
 一戦交えて、撃退する。
4.関中方面の劉備本隊が長安を取る、もしくは涼州を取るまで積
 極交戦は控え、宛に圧力を掛けるのにとどめて勢力を固める。

参考になるのは白馬の戦いの顔良軍の行動です。このときは攻囲軍の方が篭城軍と救援軍の総兵力より多かったと思いますので、単純に比較は無理ですが。

本題に戻りますと、攻囲陣を敷いている以上積極的な野戦は避けようとするだろうということです。野戦では軍の勢いと総兵力が大きく効きます。それに、野戦に振り向けられる兵力も限られます。また、城内の軍と挟撃されるのを最警戒しますから。徐晃と悠長に会話をしていたことを考えると、関羽としては、徐晃を撃破するよりも樊城攻囲に全精力を向けている状態では樊城の落ちるまで交戦は避けるつもりだったと思います。上庸の孟達・劉封が来ていれば...。ですから、自身向かうことで抑止力を働かせようとしたと解しています。勢いで全部持っていかれる可能性がありますので(結局は樊が落ちず、徐晃、曹仁が適切すぎる行動を起こしたわけですけど)。あの状態で士気・兵力ともに上の軍に攻められたら、誰でも負けると思いますが。
そういう意味も含めて、”被害を最小にしようとした”行動と解した訳です。

軍の配置、兵糧の手配、捕虜の処理、各地の豪族との連絡と一人で多数の役目を背負っていた関羽と敵を破ることだけ考えていればよかった(しかも、後方から曹操の援軍がゾロゾロ来る)徐晃は立場がまるっきり違っていたと思いますが...。

脱線させた張本人ですが、別スレッドにしたほうがよいですかね。

10 名前::2002/11/02(土) 13:33

ぐっこ     2002年04月12日金曜日 00時05分

>もす様
うぐぅ…。私は根っからの于禁擁護派なので、個人的にはそう信じたいんですって(;^_^A ただ前から思ってたんですが、于禁って赤壁当時の所在が全くの不明なんですよね〜。徐州なり汝南なりでお留守番してたかもしれませんが、荊州まで進軍してたとしたら、漢水上流あたりの気候(半雨季と乾季)もキャッチしてないとおかしいですし…。
土地の支配者がしばしば樊水の決壊に悩まされてたコト(※ソース不明。「関羽伝(今泉恂之介)」あたりにサラッと)を考えると、于禁は遠征軍の総帥として、せめて布陣の位置くらい考えておくべきだった、と彼のために惜しむものであります。

>岡本様
そうですねえ…(^_^;) そういえば和訳スレでしたっけ…
しかしここまで完璧に論を展開されると手も足も出ない…降参ぎみ。

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