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■ 小説 『牛氏』 第一部

1 名前:左平(仮名):2003/01/01(水) 00:31
以前から書き込んでましたネタ、まだまだ練られておりませんが、見切り発車致します。
ここ数日、毎日数行ずつ書く様にしておりますが、ネタの貯金をしつつ進むつもりですので、ペ−スは分かりません。
以前の様に、週一ペ−スとはいきそうにありませんので、悪しからず。

予定では、三部構成となっております(それぞれ何回くらいになるかは全く未定です)。

なお、感想などは、雑談スレッドか新規スレッドにてお願いします。
では…

85 名前:左平(仮名):2003/09/28(日) 22:13
さして大きな林ではなかったが、思ったとおり、泉があった。泉には、清澄な水がたたえられている。
(そういえば、こういう所で父上と母上が会われたんだったな…)
前述のとおり、牛輔には母の記憶はない。しかし、緑と静寂に包まれたこの場所に、どこか懐かしいものを感じずにはいられなかった。
「盈よ。私は、ここで産まれたのかも知れぬな」
何の気なしにではあるが、そんな言葉が出てきた。別段深い意味はないのだが、盈には甚だ意外な言葉である。
「えっ?殿は牛氏のご嫡子ではないのですか?なにゆえ、この林で産まれたなどと…」
「なに、言葉のあやというものよ。実はな。昔、この様な場所で父上と母上が会われ、そして結ばれたそうなんだよ。ひょっとしたら、ここかも知れぬなぁ…と思ってな」
「その様な事があったのですか」
「あぁ。そして、母上は羌族の族長の娘であったという」
「…」
盈は黙ってしまった。別に禁句というわけではないのだが、この話は、周囲の者にとってはまだまだ衝撃的なものの様だ。
「ちょっと横になるか。日没までにはまだ間があるしな」
さして疲れていたわけではないが、牛輔は、そう言って話をやり過ごした。
「でしたら、このあたりがよろしいでしょうね」
盈も、あまり深く立ち入りたくはない様子である。意識的に、主と目を合わせない様にしていた。

二人は、草の上にごろりと横になった。空を見上げると、雲が流れてゆくのが見える。空を飛ぶ鳥の姿も、はっきりと分かる。穏やかな、夏の一日であった。
しばらくそうしていると、不思議と眠たくなってくるものである。いつしか、うとうとと夢うつつの中に入っていく。

そんな中、不意に何かの気配を感じた。獣のそれとはちと違うし…いったい、何だろうか。

86 名前:左平(仮名):2003/10/05(日) 23:01
四十三、

「殿。何か物音がしませんでしたか?」
盈が半身を起こし、小声でそう聞いてきた。大型の獣だとすれば、横になったままでは危険である。
「あぁ、聞こえた。だが、そう大きい音ではなかったな。我々の身が危ないというわけでもなさそうだ」
眠気のせいもあったが、牛輔は割と冷静にそう判断した。
「えぇ。ですが、妙に気になるのです」
「うむ。そなたが気になるというのであれば、私も気になるな。焦る事はなかろうが、ちょっと様子を探るか」
二人はゆっくりと立ち上がった。
周囲には草が生い茂っているので、余り急に動くと目立ってしまう。二人は慎重に、草をかき分けつつ進んだ。
「盈。何か見えたか?こちらには何もいないぞ」
「いえ、何も…。いや、ちょっと待ってください」
「なにっ?どうした!」
「お静かに!聞こえてはまずいですよ!」
盈は小声でそう制した。こういう場面では、主といえども言うべき事は言わねばならない。
「あっ、あぁ…。で、何か見えたのか?」
「はい。あちらを…」
盈が指さしたその方向にいたのは…

「!」「!」
声は出さなかったが、二人とも、驚きを禁じ得なかった。あれは、賈ク【言+羽】ではないか!
こんな所で、一体何をしているのであろうか。
「あいつ、ここに来ていたのか…」
「どうも、ここには何度も来ている様ですねぇ…」
「そなたにはそう見えるか」
「はい」
「なぜそう思う?」
「いや、何となくとしか」
「そうか。まぁ良い。何をしようとしているのか探るのが先だ」
「そうですね」
二人は賈ク【言+羽】の様子を凝視した。ここから伺う限りでは、誰かと待ち合わせているというのではなさそうだ。しかし、何かを探している様にも見える。二人は首をひねった。その意図が全く見えないのである。
「あいつの意図するところが、どうも分からんな…」
「殿。孝廉という方々は、ああいうものなのですか?」
「私に聞かれてもなぁ。なってもいないものの事は分からんよ。どうしてそう思うんだ?」
「あの、腰にぶら下げた袋は一体…」
ふと気づくと、空に数羽の鳥が飛んでいるのが見えた。賈ク【言+羽】は、しばしその鳥を見つめていた。
二人も、つられて鳥の方を見つめた。

「シュッ!」
不意に、何かを切り裂く様な音がした。と思うと、次の瞬間、一羽の鳥が地面に落ちていくのが見えた。
「ん?何が起こったんだ?」
「いえ、私にもさっぱり」
一瞬の出来事に、二人ともわけが分からぬまま呆然としていた。しかし、次の瞬間、先ほどと同じ音がしたかと思うと、また一羽、鳥が落ちていった。
「一体何が…」
一羽なら、急な発作とか一陣の突風とでも説明できるだろうが、二羽続いてとなると、偶然とは考えにくい。しかし、一体何が起こったのであろうか?まるで見当がつかない。

87 名前:左平(仮名):2003/10/05(日) 23:04
二人は、賈ク【言+羽】と鳥の、どちらを見れば良いのかと一瞬迷った。しかし、迷う必要はなかった。
「殿!あれを!」
「あ!あれは!」
二人とも、思わず声をあげていた。後で考えると、よく気づかれなかったものである。
賈ク【言+羽】は、片手を腰の袋に入れ、中から二、三個の石ころを取り出していたのである。
しばらくその感触を確かめ、じっくりと鳥の行方を見定めたかと思うと、腕を巧みに折り曲げ、手首に捻りをかけて、その石ころを鳥に向かって投げた。
手から離れた石ころは目にも留まらぬ速さで飛び、鳥の体に命中した。鳥は、さっきの二羽と同様、まっさかさまに地面に落ちていった。
表情が変わらないところを見ると、あれはまぐれではない。いや、確実に撃ち落とせるという自信さえ感じられる。

「盈よ。見たか、今のを」
「はい。しかと」
「文和がしょっちゅう遠駆けに出ていたのはこの為であったか…」
牛輔にはおおよその見当がついた。肉がつかず、腕力では他の者達にかなわぬと思い知ったがゆえ、自分に褒められた俊敏さを生かそうと鍛錬を積んでいたというわけか。そして、いつの間にかこれほどの腕前に…。
「たいしたやつだな」
そう、関心せずにはいられなかった。
「まったくです」
盈も、同感とばかりにうなづいた。
「おっ、夕焼けか…。あっ!しまった!」
「殿!大声を出してはならないと…」
「すまんすまん。姜と約束してたんだ。今日は日没までには必ず戻るって。…急がんと間に合わんぞ」
「ですが、文和殿の様子を探るにはまだ不十分かと」
「それはそうなのだが…。すまん、盈よ。そなた、ここに残って様子を探ってはくれんか?」
「えっ?それは、まぁ、構いませんが…」
「では、頼むぞ」
そう言うやいなや、牛輔は馬の方に走り出していた。
(妻を怖がっていると思われるかな…)
ちょっと情けなくはある。が、姜の怒った顔を見たくないという思いは、その情けなさにまさっていた。

「頼むぞ。全速で走り切ってくれ」
戦場においても、これほど馬をせき立てる事はない。そう思うほどに駆け続け、ようやく自邸の門にたどり着いた時、日はまさに地平線の下に消える寸前であった。
「ま、間に合った…」
なかば倒れこむ様にして、牛輔は邸内に着いた。
「お帰りなさいませ」
「あぁ。結局、盈と一緒に遠駆けしただけだから、何もなかったが…」
「いいんですよ。その様な事は」
そう言って出迎える姜は、笑みを浮かべていた。自分との約束をきちんと守ってくれた事が、何より嬉しかった様である。その笑顔を見た事で、ほっと人心地ついた。
「さ、今晩は…」
甘えた声を出したかと思うと、姜は牛輔にもたれかかってきた。いつの間にか、帯も緩んでおり、艶っぽい素肌が垣間見える。
「分かってるよ。たっぷりと…」
牛輔も微笑を浮かべた。もう慣れてはいるが、惚れた女の媚態である。悪い気はしない。

88 名前:左平(仮名):2003/10/12(日) 23:33
四十四、

翌日、賈ク【言+羽】と盈が戻ってきた。幸い、二人であの様子を見ていた事は気づかれなかった様だ。
「盈よ。どうであった?」
「はい。あれからずっと見ていたのですが、他には妙なところはございませんでした」
「そうか…。ともあれ、一安心だな」
「そうですね。…しかし殿、ああいうところで大声を出さないでくださいよ。文和殿に気づかれない様にするのにえらく苦労したんですから」
「はは…。すまんかったな」
(配下に注意されるあたり、威厳という点では私もまだまだだな)
牛輔は、そう思い、苦笑した。


−数年が過ぎた。
皇帝の愚昧、宦官の跳梁跋扈、そして、それらを批判し正すべき士大夫層の無力化…。様々な理由により、中央政府はろくに機能していない状態にあった。
それを嘲笑うかの様に、北方においては、檀石槐率いる鮮卑族による寇掠が繰り返されていた。
幸い、鮮卑の脅威に晒され続ける幽州、并州に比べると、ここ涼州は比較的平穏ではある。
(しかし、それはとりあえずの幸運に過ぎぬ。ひとたび檀石槐の如き傑物が現れたなら、今はおとなしくしている羌族やテイ【氏+_】族もまた…)
羌族による、かつての大乱を知る人々はまだ多い。それだけに、いつ来るか分からない脅威に対する危機感は強かった。その危機感の故、董氏や牛氏がその勢力を蓄える事をよしとする雰囲気がある。まだ父の後を継いだわけでもないというのに、牛輔の家産と家人が増えつつあるのが、その証と言えよう。
穏やかな秋の陽気の中、一人中庭に立った牛輔は、静かに彼方の空を見上げた。


「羌族なくして、今のわしはなかった…」
秋の澄み渡った空を仰ぎ見ながら、牛輔はふっと、義父・董卓がある時しみじみとそう話していたのを、思い起こしていた。

「そうではないか。わしの父は、数十年にわたって漢朝に忠勤を励み、数々の功を為したというに、県の尉にしかなれなかった。我が兄もまた、豊かな才を持ちながらも、その地位は上がらず…幼子を残して夭逝してしまった…」
「…」
「わしは、ただ膂力に優れていただけでまとまった学問をする事はなかった。普通ならば、到底立身など適うまい。しかるに今、かつて夢想だにしなかった高位にある…。不思議だとは思わんか?」
「しかし…。義父上は、漢朝の為に大いに働かれたのですから、高位に就くのも当然では…」
「そうか?ならば、なにゆえ我が父、そして兄は高位に就けなかったのか?二人には功がなかったのか?」
「それは…」
「理由は一つしかない。父や兄には、富がなかったからだ」
「富?では、義父上はいかにして富を得られたというのですか?」
「それよ。あれは、もう二十年以上も前の事になるかな…。羌族の集落で世話になった礼に、耕牛を殺して少しばかりの酒肉を振る舞った事があったのだ。すると、その答礼に大量の牛馬を頂いてな。それを人に貸したり売り払ったりして、相当の財を得たのだ」
「その様な事があったのですか」
「そうだ。あの財によって、わしは立身の足がかりを得たのだ」
「なるほど…」
「そればかりではなく、かわいい女もついてきた、と」
「それって、ひょっとして義母上…」
「そうだ」
「なんともまぁ…」
その様な結ばれ方があるのか。何とも微笑ましい話で、思わず顔がほころんでしまう。だが、現実における、自分達と羌族の関係は…。

89 名前:左平(仮名):2003/10/12(日) 23:35
「ですが、義父上も私も、漢朝の人間であり、羌族とはしばしば戦っております」
「そう。その、羌族の血によって、わしの地位はますます上がりつつある…」
董卓の眉間に深い皺が寄った。彼には、明らかに羌族に対する同情がある。にもかかわらず、漢朝に仕えている以上、否応なしにこういう現実に向き合わねばならない。豪壮と言われる董卓の内面にある、この苦悩のほどは、余人にはなかなか理解できまい。
(かく言う私にも、一体どの程度分かっているのであろうか…)
義父に対する敬意があるが故に、何と言えば良いのか迷うところである。
「だが、他に手段がないのだ」
「手段?何のですか?」
「勝ならば、その才知と徳量によって、漢人と羌族の融和を為す事ができるであろう。しかし、その力量があったところで、高位に就かぬ事には、それも適わぬ。いかにきれい事を言ったところで、家柄が伴わない事には、なかなか立身はできぬのだ…。勝を立身させる為には、まずわしが相当の地位に就かねばならぬ。…わしは一介の武人に過ぎぬ。わしにできる事は、たた戦って功をあげる事のみだ。そして、その相手となるのが、羌族…」
「…」
何と皮肉で哀しい事であろうか。想いとは裏腹に、まだまだ羌族の血を流さねばならないのである。
「幸い、わしの想いを勝はよく分かってくれておる様だ。先が、楽しみだよ」
そう言うと、董卓は微笑を浮かべた。


その様な事を思い出したのは、先ほど、勝の妻が懐妊したという知らせを受けたからであった。
一緒に字を考えてから、もう数年が経つ。既に加冠も済ませた彼は、妻を娶り、そろそろ仕官しようかというところである。それに加えて子も授かるとなれば、紛れもなく吉報であろう。
(このまま、何事もうまくいってほしいものだ)
そう、思わずにはいられなかった。

90 名前:左平(仮名):2003/10/19(日) 23:47
四十五、

「あなた」
ふと気づくと、後ろに姜が立っていた。いつも明るい彼女であるが、今日はまた一段と機嫌がいい様である。
「ああ、姜か。どうした?何かいい事でもあったか?」
「分かりますか?」
「そりゃそうだよ。私はそなたの夫だぞ。いつもより表情が明るいのだからな、すぐ分かるよ」
「まぁ」
そう微笑む彼女を見ていると、心の底から安らかになる。その笑顔が、どれほど自分を助けてくれているか。今まで考え事をしていただけに、そう、強く感じる。
「実はですね…また授かったのですよ」
「授かった?何を?」
見当はついているが、わざととぼけてみせると、姜はすねた様に軽く体をよじらせてみせた。その仕草がまた愛らしい。
「分かってらっしゃるくせに。赤子が授かったのですよ」
「おお、そうだったか」
軽く微笑みながら、そう返事をする。先の初産の時とは異なり、二人とも落ち着いたものである。
「はい。産まれるのはもう半年余り先だそうです」
「ともかく、元気で良い子が産まれて欲しいものだな」
既に牛輔夫婦には蓋という男子がいるので、今度の子が男であろうと女であろうとどちらでも良い。現に、蓋の次の子は女であったが、牛輔も、董卓も、相当な喜び様であった。今回も、同じである。
「ええ。ただ、何となくなのですが…今度の子は、きっと男の子です。そうに違いありません」
女の勘というものであろうか。こういうのは、案外当たるものである。
「そうか。そなたがそう思うのであれば、この子は男だな。となると、蓋に劣らぬ名を考えてやらんと」
事実、それからしばらくの間、牛輔は盛んに書を読み漁った。なにしろ、蓋の名の由来は「天蓋」である。いい加減な名をつけるわけにはいかない。


見上げる空が、ひときわ青い。
「今年もまた、羌族が暴れるのであろうか…」
涼州の人々は、憂いを持ってそう語り合っていた。先に『幽州、并州に比べると、ここ涼州は比較的平穏』と書いたが、それはあくまでも相対的に平穏という程度のものである。確かに大規模な叛乱こそないものの、全く何もなかったというわけではない。収穫物を狙った小規模の寇略は時々あったのである。ただ、自分の評価が下がるのを恐れた官僚達はこの事を中央に報告したがらなかった為、よほどのものでない限り史書には記載されず、あたかもなかったかの如くなっているが。
『天高く馬肥ゆる秋』という言葉がある。我々日本人にとっては、酷暑が過ぎてしのぎやすい季節であると共に収穫を祝うという安らかな季節である秋だが、この地の人々にとっては、羌族をはじめとする騎馬遊牧民の寇略が待っているという、呪わしい言葉であった。

「盈よ。羌族に新たな動きは?」
牛輔は偵察から戻ってきた盈にそう問いかけた。名門・牛氏の一人として、いま彼が背負っている責任は重い。この地の安寧の為にも、一度たりとも敗北は許されないのであるから、無理もない。
彼は決して非凡な将帥ではない。自身、その事はよく認識している。それゆえ、決して奇想に走る事はなく、堅実な戦を心がけている。十分に偵察を行い、常に敵を上回る様に兵を配備する。敵が寡兵であろうと侮らず、全力をもって戦う。今までに、もう何度戦ってきたことであろうか。今のところ、それはうまくいっている。
「まだはっきりとはしませんが…近いうちに動くでしょう。ここ数年、羌族は強壮な戦士を多く失っております故、力は弱っているのではあるのでしょうが…」
盈の口調は、どうもはっきりしなかった。何か予感するところがあったのかも知れない。しかし、この時の牛輔は、その予感に気づく事はなかった。そして、その事が思いがけない事態を招く事になった。

91 名前:左平(仮名):2003/10/19(日) 23:49
「殿!羌族が動き始めましたぞ!」
季節が秋から冬に向かいつつあったある日、盈がそう言いながら駆け込んできた。それは間違いなく急報であり、事態が切迫している事を感じさせる。
「そうか、来たか。で、兵力はいかほどだ?」
「完全にはつかめておりませんが…およそ千ほど」
「千か…」
牛氏・董氏の両軍団の兵員を総動員すれば、数の上では十分に上回る。三千も用意すれば十分であろう。もう何度となく戦いを重ねているので、このあたりの計算は慣れたものである。
「よし!出撃するぞ!直ちに支度にかかれ! 盈、さらに敵の様子を探っておけ!」
「はっ!」
家人達に指示が飛び、支度が整えられ、そして、出撃となる。それは、もう見慣れた光景でさえあった。数日後の凱旋を、誰も疑いもしない。確かにきちんと偵察はしているし、兵力も相手を上回っているのであるから、そう考えるのも無理はないのであるが…。


「来たか、牛氏よ」
牛輔の出撃の知らせを受けた羌族の将は、そう言うと不敵な笑みを浮かべた。
知らせによると、敵兵力は約三千との事である。確かに数では劣っているし、兵の質も近頃ではどうかというところであるが、どうにもならないという程の差ではない。
何より心強いのは、敵の出方が全くいつも通りだという事である。となれば、こちらの兵力はともかく、戦法などは考慮しておるまい。
(見ておれよ。いつもいつもやられっ放しではおるものか)
彼は、これまで何度も董卓や牛輔と戦い、そのたびに手痛い敗北を喫してきた。多くの仲間を失いもした。しかし、苦難は確かに人を成長させるし、力で劣る様になれば、おのずと知恵を使おうという気にもなる。
今まで相手が使ってきた知恵−陣形とか伏兵といった戦術−をこちらも使おうというのである。
出撃時の様子から推察するに、相手はまだこちらの考えに気づいていないのであろう。それならば、勝機は十分にある。
「大将!敵が見えてきましたぜ!」
「そうか。分かった、すぐそちらに行く」
そう言うと、その将は口元の笑みを消した。
(死んでいった仲間達の復讐が、これから始まる)
そう言い聞かせていた。

92 名前:左平(仮名):2003/10/26(日) 23:32
四十六、

羌族の兵の動きは、ほどなく牛輔達の知るところとなった。
「殿!あれを!」
「む、あれは…。間違いなく、羌族の兵だな」
「いかがなさいますか?」
「慌てる事はない。数ではこちらがまさっているのだから、じっくりと攻めていくとしよう」
「はっ!では、その様に!」
すぐさま伝令が走る。そうして、牛輔の指示に従い、兵達が隊列を整え陣を組み始めた。これも、いつも通りの手順である。ここまでは何も問題はない。兵達も、自信を持ってはいるが、過信しているというわけでもなさそうだ。
(ここまで、何も問題はない。しかし、どうも何かが気になってならぬ…)
盈の心中には、言い様のない不安感がもやもやとくすぶり続けている。しかし、それが何なのかが分からないので、言い出しかねていた。

同様の感覚を持っていた男が、もう一人いた。賈ク【言+羽】である。
牛輔のもと、輜重の管理及び各種報告の整理作成という後方業務に携わっていたのであるが、その精勤ぶりが認められ、今回は戦場に同行する事が許されたのである。
「この経験は、必ずそなたの為になる。そなたの活躍如何では、義父上に推挙してしかるべき位階に就ける様に計らってみるつもりだ」
戦に赴く前に牛輔からそう言われていたので、本来であれば、心浮き立つところである。彼とて、立身はするに越した事はないと思っているのであるから。しかし、戦場に近づくに連れ、例え様のない不安感が襲い掛かってきた。
(何だ、この感覚は?俺は戦を怖がっているとでもいうのか?…いや、自分で言うのも何だが、今更血を見るのが恐ろしいなどという事もあるまい。そういうのとは少し違う様だ。…しかし、一体何だ?何かひっかかるな…)
彼もまた、それが何であるか分からないままであった。


後で考えると、ここで牛輔が賈ク【言+羽】を連れて来ていたというのは、実に重要な事であった。


「突撃−っ!!」
その掛け声とともに、双方の兵が、一斉に衝突した。その衝撃によって砂塵が舞い上がり、あたりはやや薄暗くなった。
激戦である。ここでは、双方何の工夫もない。ただ力の限り戦い、相手を打ち倒すのみである。
やはり数でまさるせいか、しばらくすると、勢いの差というものが見えてきた。羌族の兵達が、じわじわと後退し始めたのである。
「敵は既に逃げ腰だぞ!追え!追え!」
誰からともなくそういう声があがる。この状況では、そう思うのも当然であろう。
「追う前に、馬蹄の後をしかと確認せよ!」
兵達の逸る気持ちを戒める様に、牛輔は大声でそう叫んだ。この敵の後退は、果たして壊走なのか佯北(ようほく:負けたふりをして逃げる事)なのか。将としては、それを見定めずして追撃を命ずる事はできないからである。
馬蹄の足並みが乱れているのは、統制なく逃げているのであるから壊走である。こういう場合は追撃しても良い。いや、むしろすべきであろう。しかし、足並みがそろっていれば、意図的に逃げているのであるから佯北である。恐らく罠や伏兵が待っているであろうから、そういう場合は追撃はすべきでない。それは、兵法の基本である。
「うぅん…。敵の足並みは乱れております。佯北という事はありますまい」
地面をしばし見つめた何人かが、口をそろえてそう言うのを聞いて、初めて追撃命令が下された。闘志の塊ともいうべき兵団は、一斉に追撃体制に入り、猛然と敵を追い始めた。一方、馬術に長けた羌族の兵達も、懸命に逃げていた。

(ん?何かおかしくはないか?)
牛輔がその事に気付いたのは、追撃命令を出して、しばらく経ってからである。
(敵は算を乱して壊走しているはずだが…個々の兵を見ていると、どうもそういう感じではない。どういう事だ?)
敵兵は、時々思い出した様に反転したかと思うと、二、三回攻撃を仕掛け、そしてまた背中を向けて走り出す。単に逃げるだけであれば、一部を殿軍に残してひたすら走りそうなものであるが、そうはしない。
(何を考えているのだ…?)
答えが出ない中、ひたすら敵を追い続けていたが、もう日が暮れそうな頃になって、ふっとある事に気付いた。そしてそれは、この戦いの帰趨に関する、重大な問題であった。

93 名前::2003/10/26(日) 23:35
(我らは、知らぬ間に窪地に入っているではないか!)
そして、ふと見上げると、羌族の騎兵の姿が映った。それも、一騎、二騎ではない。
(我らは包囲されたのか!)
こうなると、形勢は完全に逆転してしまう。

周囲は、崖とは言わないまでも駆け上るにはやや苦しい坂になっている。ここで包囲されたりしたら、いかに数にまさるとはいえ、勝てるという保証はない。急いで脱出せねばならないが、ここを抜けるには、前進か後退しかない。しかし、もうあたりは薄暗くなっている。このままではまずいが、かといって、前後の状況が分からないのでは手の打ち様がない。
(我らがいるのは囲地【いち:狭隘な道のみで外界とつながっている様な地形】か死地【しち:囲地に加え、大敵がいる様な状況】か…。どうする?どうすればいい?)
初めて立つ苦境に、牛輔は、しばし言葉を失った。

(このままでは…我が方は敗れる。そうなれば、私も含めて多数の死傷者が出る…)
これまで何度も戦ってきたが、自身の事はともかくとして、『敗戦』という言葉が頭をよぎったのはこれが初めてである。しかも、厄介な事に、ひとたびそういう思いが頭をよぎると、どんどん悲観的になっていく。自分でも、それではいけないと分かっているのに、どうしてもそういう方向にしか思考ができなくなってしまうのである。
(多くの兵を失ってしまえば…長年にわたって培ってきた董氏の威勢は損なわれる…義父上の望みも叶わなくなってしまう…)
(私は…牛氏の、また董氏の名誉を損ねてしまうのか…)
父の、義父の、そして姜の顔が、脳裏に浮かんでは消える。自分の僅かな判断の誤りによって、いとしい者達を悲しませてしまうのか。そう思うとやり切れなくなる。
それだけは何としても避けたい。たとえ自分が死んだとしても。しかし、その為の方策はさっぱり思いつかない。
(あれだけ兵書を読んできたというのに、肝心な時に出てこないなんて…)
自分自身の無能が、呪わしく感じられた。そうしているうちに、日は落ち、あたりは次第に暗くなっていった。あたかも、彼の心の中の様に。

「殿」
すっかり日も暮れ、皆その場に座り込んだ中、二人の男が牛輔に近づいてきた。盈と賈ク【言+羽】である。
「おお、盈に文和か。どうした?」
そう言う牛輔の声は、まだ二十代の青年とは思えぬほど張りがなかった。この時、精神的にすっかり参ってしまっていたのである。
「はい。この状況をみて、文和殿が一つ申し上げたい事があるとの事です」
「言いたい事?いったい何だ?」
牛輔には、賈ク【言+羽】が何を考えているかもさっぱり分からなかった。
「一言で申し上げます。いま、我が方は不利に陥っていますね?」
「むっ…。残念ながら、その通りだ。どうやら周囲を羌族に包囲されているらしい。まだ兵達はこの事に気付いていない様ではあるが…」
「明朝になれば、兵達も気付く事でしょう。盈殿の報告には間違いないですから、兵力自体は現在も我が方が上回っているはずです。にしても、この様子では、兵達は恐慌をきたし士気が続かないでしょう。士気が続かなければ…」
「明日には、我が方は敗れる…」
「となれば、一刻も早く手を打たねばなりません。兵書にも『囲地ならば即ち謀り、死地ならば即ち戦う』とあるではございませんか」
「私にも、それは分かっておるのだ。しかし、あたりの様子が分からぬ事にはな。この状況の打開策が思いつかない」
「それなのですが…私に、一つ策がございます」
「策?いかなる策だ?」
「はい。それは…」
賈ク【言+羽】は牛輔の耳元に口を寄せ、何事かをささやいた。

94 名前:左平(仮名):2003/11/02(日) 21:44
四十七、

「話は分かった。しかし、それだけの兵があれば良いのか?」
「はい。私が率いる部隊は、あくまでも陽動部隊です。ですから、この程度の人数で十分です」
「しかし、それならそれで、どうしてその様な者達を使うのだ?必要ならば、もっと精鋭を引き連れても良いのだぞ?」
「お言葉は嬉しいですが、この策を成功させるのには、この者達こそが最適なのです。少なくとも、私はそう判断しました」
「そういうものか」
よくは分からないが、でまかせというわけでもなさそうだ。それに、このまま手をこまねいていても、状況は好転するはずもない。ここは一つ、賈ク【言+羽】の言う策に賭けてみるしかあるまい。
「分かった。その策を実行してくれ」
「私がお話ししたのは策の概要だけですが…詳しくお聞きにならなくてよろしいのですか?」
「良い。そなたの策だ、きっとうまくいく事であろう。それに、うまくいって生還すれば、詳細などいくらでも聞けるしな」
「確かに。失敗して私が死ぬ様でしたら、所詮その程度の策という事ですしね。それでしたら聞くには値しませんし」
「そうだな」
「では、私からの合図が出ましたら、頭上に注意しつつ一斉に前後に突進して窪地から脱出してください。窪地を出ましたら二手に別れ、左右から敵を挟撃する形をとります。よろしいですか、兵達が上の様子に気付かぬうちに、素早く動くのです」
「分かった」
牛輔は、この作戦の実行を了承した。そして、全軍にその旨の指示が知らされた。

明日の朝、日が昇ろうかという頃には、全てが決まる。
少し眠っておこう。そう思うものの、やはり目がさえて眠れない。地面の上に横になると、微かに星が瞬いているのが見えた。今日は雲が多いので、微かな星明りを除くと、あたりは漆黒の闇の中にある。

双方の兵がすっかり深い眠りにいる中、賈ク【言+羽】の率いる部隊が密やかに動き始めた。
牛輔が不思議に思ったのも無理はない。何騎かの精鋭はいるものの、この部隊の大半は、ろくに武器も持った事のない者達なのである。彼らのほとんどは輜重に携わる人夫であり、賈ク【言+羽】はその一人一人の人相から性格までに至るまで掌握しているというのがせめてもの取り柄といったところではあるのだが。
「おら達、一体何しに集められたんだ?」
「さぁ、分かんね」
「隊長は、あの孝廉様だな。あの方、兵を率いた事があったっけ?」
「いや、ねぇはずだぞ。おらが知ってる限りでは」
「んじゃ、これって脱走か?」
「いや、殿様直々のご命令だってよ」
「どうしようってのかな。分かんねぇな」
「ああ。それに、こりゃ何だ?戦うんだから戟とか戈を持つのは分かるけど」
よく見ると、各々の得物の刃先には、皆袋がかけられている。
「暗闇の中で光ったらまずいって事じゃねぇか?」
多少知恵の回る者がそんな事を言う。
「んじゃ、何でこんなに膨らんでるんだ?」
「さ、さぁ…。そこまでは分かんねぇな」
彼らには、まだ詳細な指示は与えられていない。この様な役目は、隠密行動が鉄則だから。
「皆、揃ったか」
この小部隊の長である賈ク【言+羽】が姿を現した。痩身である為か、初めての指揮である為か、兵達からすると、その甲冑姿はやや心もとなく見える。しかし、その顔には確かに自信のほどがうかがえるのも、また事実である。
「孝廉様。おら達は何をすりゃいいんですか?」
皆、先を争う様にそう問うてきた。
「それを、これから説明するのだ。よいか、私がどの様な指示をしようとも、必ず従うのだぞ。よいな」
「そのくらい分かっておりやすよ。軍律に背いたら斬られても文句は言えないって事でしょ?」
「そうだ。では説明しよう」

95 名前:左平(仮名):2003/11/02(日) 21:46
賈ク【言+羽】の話が進むに連れ、兵達の顔に恐怖の色が浮かんだ。
説明によると、この策の実行にあたっては、夜陰に乗じて敵のすぐ脇をすり抜け、囲みの外に出る必要があるというのである。いくらなんでも、そんな事ができるのであろうか…。
(これだけの軍勢がいるってのに、どうしてまたそんな危険な賭けを…)
皆、不審に思った。正攻法でかかっていけば勝てるはずであるのに、こんな事をする必要があるのかと。
「怖いか。まぁ、無理もないだろうな。私も怖いからな」
「じ、じゃどうして…」
「では、逆に問おう。『今』、そなた達は怖いと思ったが、それはなぜだ?」
「そ、それは…おら達より相手の方が強いし…」
「そなたも仲間達も、昼間は勇敢に戦っていたではないか。なぜ今は怖いと言う?」
「…だって、今は囲まれてるんですよ…」
「だろうな」
「すいません。でも、怖いもんは怖いですよ」
「責めておるわけではない。人とはそういうものだからな」
兵にしろ、政にしろ、『法』というものの対象は、基本的には平凡な者達である。稀にしか現れない非凡な者に頼っていては、常に成功するという目標が達成できないからである。
彼らをいかに動かすか、それが重要なのだ。ここが、自分の才知の見せ所となる。賈ク【言+羽】の心は、静かに高揚していた。
「ただ、もう少し考えてみよ。自分がその有様だ。他の者は、敵に囲まれていると知っても落ち着いていられると思うか?」
「そ、それは…」
「確かに、我らの方が数にはまさっていよう。しかし、浮き足立った状態で敵と戦ったところで、いたずらに犠牲が増えるばかりだ。ならば、たとえ危なっかしくとも、我らでこの策をやってみる価値はあるとは思わぬか?」
「でも、おら達にそんな事ができるんですか?」
「私は、そなた達ならできると思っている。ともかく、だまされたと思って私の指示に従ってみよ」
「分かりやしたよ。やってみましょう」
「よし。では今から出発だ」

あたりは、完全に闇の中にある。かすかに瞬いていた星達も、今は雲に隠されている。風はないので、しばらくはこの状態であろう。
(よし。ちょうどいい具合に曇ってくれたな)
賈ク【言+羽】は、早くもこの策の成功を確信した。

完全な暗闇の中を、松明も掲げずに兵達は進んだ。何も見えないので、当然手探りでゆっくりと進むしかないのであるが、そう長い距離ではない。
(囲まれているとはいっても、敵の兵力はさほどではない。せいぜい五、六列程度であろう。となれば、この状態で行軍するのは二、三里といったところか)
二、三里であれば、明け方までにはまだ十分な時間がある。詳しい説明は、そこからである。
すぐそこに敵兵がいる。そう思うと、かすかな物音にさえ緊張が走る。皆、寿命が縮む思いであった。

96 名前:左平(仮名):2003/11/09(日) 23:58
四十八、

どのくらい経ったであろうか。敵兵の気配が消えた。
(どうやら、囲みの外に出たか)
そう思った賈ク【言+羽】は、隣の兵に、松明に火をつける様指示した。もちろん、敵に見えない様に工夫を凝らしたものを使う。
そうして、さらに進んだ。この策は、単に囲みの外に出るだけではなく、一定の距離をおく必要があるのである。
(よし、ここらあたりでよいか)
「皆の者。ここらで休息するぞ」
その言葉を聞くや否や、兵達は大きく息を吐き、その場に座り込んだ。皆、輜重の重い荷を背負っているので体は鍛えられているが、これほどの疲れを感じる行軍はなかったであろう。
「よくやってくれた。ここまで来られたというだけで、この策は六、七割がた成功だ」
このねぎらいの言葉は、本心からのものである。
「ですが、まだ策は終わっちゃいないんでしょ?」
「そうだ。これから、続きの説明をする。皆疲れているだろうがら、楽な姿勢で聞いてくれ」
「分かりやした。どうすりゃいいんですか?」
このあたりは、さすがに見込んだだけの事はある。皆、実に素直に話を聞く姿勢である。

「まず、持っている戈や戟にかぶせている袋をはずせ。紐で口を縛っているであろう。それをほどくのだ」
「はい。…あれ?袋の中に何か入ってますね」
「それを取り出すのだ。何か分かるか?」
「古い布きれだとか木の枝、それに幟の房…。こんなもの、一体どうするんですか?」
「それはこれから話す。次に、持っている戈や戟を逆にしろ」
「こうですか?」
「そうだ。そして、袋の口を縛っていた紐で、その布きれや木の枝、幟の房をゆわえつけるのだ」
「これって、何か箒みたいですねぇ」
「そうだ。箒の形にするのだ」
「こんな事をしてどうするんですか?」
「簡単な事だ。夜が明けるや否や、私の号令とともに、そなた達はこの箒で地を掃き清めるのだ。全力でな」
はぁ?兵達は、皆驚き呆れた。そんな事をして、一体何になるというのであろうか。しかし、命令は絶対である。
「皆、少し休め。夜明け前には作戦開始だ。…そうそう、水は飲んでも良いが、全部は飲むなよ。明日の朝、必要になるからな」
そう言うと、彼はすぐに横になった。兵達も、それをみて横になった。

そして、夜明けが近づいてきた。

(頃はよし)
賈ク【言+羽】は皆を起こすと、さっそく指示を出した。
「よいか、皆の者!」
「おぉ!」
「徒歩の者は箒を構えよ!」
その指示のとおり、兵達は皆箒を構えた。いくら訳の分からない命令でも、命令である。
「騎馬の者は、目を除いて顔を隠せ!」
こちらは精鋭である。精悍な面構えをした男達は、黙々と顔を布で覆った。鋭い眼光だけがのぞくその顔は、味方にはますます頼もしく映る。
「支度は整ったな。…者ども!かかれ−っ!!」

傍目には、滑稽な風景であったろう。数十人の男達が、必死の形相で地を掃きつつ走るのであるから。その掃き様は凄まじく、たちまちのうちに砂埃が空高く舞い上がった。

97 名前:左平(仮名):2003/11/09(日) 23:58
(あの砂埃は…。間違いない。文和からの合図だ)
不安の中目を覚ました牛輔は、それを見ていささか落ち着きを取り戻した。策はうまくいっている様だ。これなら勝てる。
「者ども!頭上に盾をかざしつつ、全速で進め−っ!!」
その号令とともに、一斉に全軍が動き始めた。

「なっ、何だ?連中、急に動き出しやがったぞ」
眼下の様子に気付いた羌族の兵達が、急いで将に報告する。
「何っ?愚かな。袋の鼠だという事に気付かぬか。者ども、窪地の出口を封鎖し…」
羌族の将がそう言いかけたところで、他の兵の叫び声にかき消された。
「あっ!あれは!!」
「何事だ! …!!」

後ろを振り返ると、もうもうと砂埃が舞い上がっている。そして、その中から数騎の兵が現れてきた。その姿は、まぎれもなく漢人のものである。となれば、あれは敵か!
(敵の援軍か!)
そんなはずはない。あれが董氏・牛氏の手の者としても、その本拠はここから数日のところにあるはず。仮に昨晩この囲みを抜け出た者がいたとしても、こんなに早く援軍が来るはずはない。しかし、ではあの兵は何か。
そう考えるうちに、砂埃の方角から鬨の声があがる。その声も凄まじく、相当な大軍勢である事をうかがわせる。
実際には数十人にすぎないのであるが、賈ク【言+羽】がえりすぐった、特に声の大きい者達である。常人の数倍は声を張り上げたであろう。声だけをとってみれば、なるほど大軍勢と思うのも無理はなかった。
(…)
羌族の将は、しばし思考停止の状態に陥った。兵達も混乱し、眼下の様子には全く目が向かなくなった。
そんな中を、賈ク【言+羽】率いる騎兵達は何度も何度も駆け抜けた。少数なのをごまかす為、繰り返して攻撃をかけていたのである。
そうこうしている間に、牛輔の軍は前後から窪地を脱した。一方は牛輔と李カク【イ+鶴−鳥】が、もう一方は郭レと張済が、それぞれ率いている。
「稚然は左に回って仲多とともに敵を挟撃せよ!私は右に回って済とともに敵を挟撃する!」
「心得ました!」
李カク【イ+鶴−鳥】はうなづくと、猛然と馬を走らせた。それをみて、牛輔もまた駆けた。

一刻もせぬ間に、決着がついた。もともと兵力は牛輔の方がまさっていた上に、あの奇襲の為に士気の差が歴然としていたのであるから、当然といえば当然なのではあるが。
(しかし危なかった)
一時的にではあるが窮地に陥っていた事を知るのは、牛輔、賈ク【言+羽】、盈を除けばほとんどいない。傍目には、またしても完勝と映るであろう。しかし、戦場というものがいかに恐ろしいか、牛輔は思い知った。
(文和を連れてきていて良かった。あれがいなければ、今頃どうなっていたか)
それを思うと、背筋に震えが走る。
実際、賈ク【言+羽】の存在が、後に彼らの命運を分かつ事になるのである。だが、この時それを意識したのは、牛輔一人であった。

いや、正確にはもう一人いた。この戦いを、少し離れて見ていた男がいたのである。
「ふむ。あいつ、もう少しはやると思っていたんだがな」
「まぁ、兵書を読んだわけでもないでしょうからね。ああいう奇策には気付かなかったのでしょう」
「それもそうだな。となると、あの陽動部隊を率いた者が誰か気になるところだな」
「そうですね」
「伯扶自身ではなかろう。今までの戦いぶりを見る限りでは、そういう奇策を思いつく程の奸智はなさそうだしな」
「では誰が?」
「恐らく…文和だな。さぁ、帰るぞ」
そう言ってその場を去ったその男の姿は、どこか盈に似ていた。

98 名前:左平(仮名):2003/11/16(日) 22:20
四十九、

「文和よ、よくぞやってくれた。そなたがいなければ、この勝利はなかったぞ」
戦の後、牛輔が最初にしたのは、賈ク【言+羽】を厚く賞する事であった。あの陽動部隊の活躍にはめざましいものがあったから、彼が賞

される事については、全く異論は出なかった。

「ただ、殿。文和の率いた部隊の活躍ぶりは事実ですが、私の部隊の方が討ち取った敵の数は多いですぞ。なのに賞にこれほどの差がある

のはどういうわけです?」
この戦いにおいて相当活躍したと自負する李カク【イ+鶴−鳥】には、その点が少し不満である様だ。
(そうくるか。まぁ、確かにあげた首級の数でみれば稚然の言う事にも一理あるわけだがな)
二人の功はともに大きい。だが、将としてみれば、この戦いでの功は明らかに賈ク【言+羽】の方が上である。その場にいた者で、かつ、

部隊を率いるほどの者であれば、おのずと分かっても良さそうなものであるが。牛輔にはそう思えた。
(こうしたのには十分な理由があるという事を、私から言わずとも分かってもらいたいところだが、まだそこまではいかんか。まぁ、今後

の事がある。きちんと話をしておかんとな)
牛輔が賈ク【言+羽】を高く評価している事は今までにも何度か触れてきたが、別に賈ク【言+羽】のみを贔屓しているというわけではな

い。賈ク【言+羽】・李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済。彼らは皆、義父・董卓より託された、大事な配下なのである。これから、軍団

を支える人材として成長してもらわなければならない。こんなところで不満を持たれてはならないのだ。説明しておく必要があろう。

「そうだな。確かにそなたの功は大きい。しかし、だ。今回の文和の功は、単に敵を討ち取ったというだけではないのだ」
「では、他に何かあると?」
「そうだ。今だからはっきりと言えるが、あの時我らは窪地に追い込まれ、包囲されていたのだ」
「そうでしたか。そういえば、確かに周囲が坂になっておりましたね」
「そなたほどの豪の者であれば、そのくらい何という事もないであろう。攻め寄せてくる敵を、片っ端からなぎ倒せば済む事だしな。しか

し、我が方の大部分は、本来戦とは縁のない平民達だ。その様な者達にとって、敵に包囲されているという事実は、耐え難いほどの恐怖と

なるであろう」
「それは分かります。私とて、囲まれていたら冷静な判断はできないでしょうから」
「あのまま朝を迎え、包囲されている事が皆に知れたら…どうなっていたか」
「皆までおっしゃらずとも分かります。士気が低下して統制がとれなくなり、我が方の敗北という事態もあり得た、という事でしょう」
「そう、そこなのだ。今回の文和の功は、その最悪の事態を回避させたという点にこそある」
「文和が率いた陽動部隊が敵の目をこちらからそらすと共に、我が方の不利をも覆い隠してくれた、と。それゆえ、文和の功を大とした。

こういうわけですか」
「そうだ。分かってくれたか」
「分かりましたよ。…ふふっ、今回はあいつに手柄を譲っちまいましたね。今度は負けませんよ」
「その意気だ。そうあってもらわんとな」
そう言って、二人は笑みを浮かべた。

凱旋である。今までに何度もしてきた事ではあるが、牛輔にとって、今回のそれはひとしおであった。この様な感慨を抱くのは、初陣の時

以来であろうか。
(そういえば、あの時は蓋がもうすぐ産まれるって頃だったよな。で、今度は次男の誕生間近、か。不思議なものだ)
まだ産まれるのが男子かどうかは分からないのだが、そんな事を思うと、なぜか顔がほころんだ。
いつもの様に、門前には姜が待っている。見慣れたはずのその光景が、また新鮮に映る。
「お帰りなさいませ」
その声は、いつも明るく朗らかであり、これを聞く事で、我が家に帰ったという実感がわいてくる。
「あぁ、ただいま。留守中、何事もなかったかい?」
「はい」
「そうか、それはよかった。…ほぅ、また腹が大きくなっているな。赤子はよく育ってる様だ」
「はい。もうすぐですよ」
「そうだな」

99 名前:左平(仮名):2003/11/16(日) 22:22
それからほどなく、義弟・勝のもとから一通の知らせが届いた。
「で、知らせには何と書かれてるんだい?」
「はい。無事に産まれ、母子共に至って健やかであるとの事です。女の子だそうで」
「それはよかった。で、名前は?」
「白、としたそうです」
「白?」
「何でも、この子が産まれる時雪が降っていて、その様子が大層美しかったのでそれにちなんだとか。父上も良い名だとお喜びだそうで」
「そうか…」

この時牛輔は、『白』という名にどこか引っかかるものを感じた。
(白…色としては白、五行では秋、西、金とかいった意味があるな…。この字自体には、私が知る限り、これといって悪い意味は見当たら

ない。しかし…雪にちなんで名付けたというのはどうなのであろうか…)
雪は、冬に降るもの。春になれば融けて消えてしまうという、儚いものである。その様なものにちなんで子の名をつけるという事には、何

か問題はないのだろうか。そう思えてならなかった。
(勝…いや、伯捷は、そういう事に思いが至らなかったのであろうか。しかし、今更私が何か言うのも何だしな…)
これは、ひょっとすると虫の知らせというものであろうか。そんな思いが頭をよぎる。
(いや、私ごときが人の命運を予測するなど…できるはずもないな。気のせいであろう)
そう思った牛輔は、ほどなくこの事を忘れた。しかし、それはあながち気のせいでもなかったのかも知れない。

100 名前:左平(仮名):2003/11/24(月) 22:52
五十、

そんな中、年が改まった。

室から外を見ると、地には、雪が積もっている。空は、さっきまでの曇り空が嘘の様に晴れ渡り、日の光が燦々と降り注いでいる。日の光が雪に反射され、きらきらと光る様は、何ともいえず美しいものである。
(伯捷が子の名に『白』とつけたのも、分からないではないな…。この、光の織り成す景色の美しさたるや、何物にも代え難い、崇高なものさえ感じさせるのだからな)
雪景色を見ながら、牛輔は、ぼんやりとそんな事を考えていた。

今、彼は、これから産まれて来る我が子につける名を考えているところである。だいぶ以前から考えていたのだが、戦やその後の処理などがあった為、なかなか考えをまとめられずにいた。
長男の名が『天蓋』からとって『蓋』なので、次の子には何か地にちなんだ名を、と考えているのだが、これがなかなか難しいのである。
(単に地を示すというだけでは、兄の名と釣り合わないしな…。ん?『つりあう』か。う−ん…)
(「つりあう」…「均衡」…ん?「きん」?これで何か良い字はないものかな…)
(そうだ、「白」には【五行思想における】金という意味合いもあるんだったな…。義父上からすればともに孫だ。あの娘との釣り合いも考えないと…)
(おっ、そうだ!)
脈絡なく考えているうちに、ようやく、それらしい字が思い浮かんできた。
金扁の字は幾つもあるが、『天蓋』に比べられる様な意味合いを持つ字句は、そう多くない。しかし、一つだけあったのである。

(『鈞』だ!!)
『鈞(きん)』。この字には、「ひとしい」という意味がある。それに加え、重量の単位とかろくろという意味合いも含んでおり、ろくろから転じて、造物主とか天の意をも示すという。
そして何より、この字のついた語句に『天蓋』に比べられる様な意味合いを含むものがある。

『鈞臺【きんだい】』−。それは、古の夏王朝の王・啓が、父の禹より王位を禅譲された益との争いに勝って王として即位した時に、諸后(諸侯)をもてなしたという地の名である。
諸后が鈞臺にいる啓のもとに集まったというその事実によって、夏王朝は成立したとみなす事ができるのだが、それは、中華の歴史に大きな一歩を記す出来事であった。
「左伝(春秋左氏伝)」にも、「夏啓有鈞臺之享。 商湯有景亳之命。周武有孟津之誓」という一文があり、これが、王朝成立にかかわる重大な出来事として考えられていた事がうかがえる。
それゆえ、夏王朝の時代にあっては、そこは一種の聖地であり、また、地の中心であると考えられもしたそうである。
(兄の名が天蓋を表し、弟の名が地の中心を表す…。なかなかうまい具合になるな。うん、これでいこう)
こうして、その子の名は決まった。


子供の名前が決まったのを待っていたかの様に、姜が陣痛を訴え始めた。いよいよ、出産の時である。
産婦である姜に続き、手伝いの者達数名が産室に入っていった。
もう三人目であるから、初産の時の様に慌てる事はない。しかし、そうはいっても、なかなか慣れるものでもないのもまた事実。
牛輔にとって、出産が無事終わるまでの数刻は、またしても長い長いものとなった。そうこうしているうちに、いつしか日も落ちてゆく。

「父上ぇ〜。母上はぁ〜?」
子供達が母親の様子を案じてか、しきりに牛輔に寄りかかってくるのである。
「母上はな。いま、そなた達の弟を産もうとなさっているところなのだよ」
もう夜も遅い。そろそろ寝かしつけないといけないのだが、そう言ってむずがる子供達をなだめるのが精一杯である。いかにいっても、子供達は母親に懐く傾向が強く、父親にはさほど懐くものではない。それゆえ、こういう時の扱いには苦労する。

101 名前:左平(仮名):2003/11/24(月) 22:53
はい。それは知ってます。でもぉ…。どうして、わたし達が母上のところに行ってはいけないのですかぁ?」
「それはな…」
(出産というものがどれほど壮絶なものか、口で話しても分かるのだろうか…。とはいえ、直に見せるのも何だしな…)
なかなか、うまい具合に説明できるものではない。
「ねぇ〜、どうしてぇ〜?」
「と、とにかく、だ。いま、母上は大変なところなのだ。そして、こればかりは、私も、そなた達も、何もしてやれないのだよ」
「そばにいるのもだめなのですかぁ?」
「そうだ。分かったら、おとなしく寝てなさい」
「でもぉ〜」
「そなた達が母上の事を思っているのはよく分かった。それを聞けば、母上もさぞ喜ばれる事であろう。明日の朝には産まれているはずだから、その時、母上をしっかりとねぎらってやるのだ。夜更かししたりすれば、母上も喜ばれないぞ。よいな。さっさと寝なさい」
「はぁ〜い」
やや不承不承ながら、そう言うと、ようやくそれぞれの寝所に入っていった。
「はぁ…。子守りってのも、なかなか大変なもんだ」
慣れない事がひと段落ついたせいか、どっと疲れを感じた。

子供達を寝かしつけたとはいえ、牛輔自身は眠れない。姜の身を最も気遣っているのは、他でもない、夫である彼自身なのだから。母子ともに無事に産まれるまでは、気が気ではない。
一睡もしていないのだから、心身ともにひどく疲れている。しかし、姜の疲れはそんなものではないはずだ。
(男だろうが女だろうが構わないから、とにかく無事に産まれてくれよ)
そう祈るのが精一杯であった。そんな時間が過ぎる中。

「殿!産まれましたぞ!!」
家人達の声が聞こえた。
「そうか!で、姜は!」
家人達の声には、不吉なものは感じられなかったが、念のため、そう聞き返した。
「ご心配なく!奥方様もお子様も、ともに至って健やかですぞ!!」
「そうか!よくやったぞ!!」
その言葉を聞いて、ようやく人心地ついた。ほっと胸をなでおろすと共に、安堵したせいか、ふっと体から力が抜ける。

102 名前:左平(仮名):2003/11/30(日) 22:51
五十一、

「おっと、一刻も早く姜をねぎらってやらんと」
そう思い返した牛輔は、ゆっくりと立ち上がった。自分としては、一家の主らしくすっくと立ち上がりたいところなのであるが、なにせ、眠い。思う様には体が動かないのである。
足元に多少のふらつきを見せつつ、産室に向かう。

近づくにつれ、出産に伴う独特のにおいがする。血やら胎盤やら羊水といった様々なものから生じるそのにおいは、決して良いにおいというわけではないが、妻への想いの故か、母子ともに健やかであるという安堵感のためか、不思議と意識する事もない。
「姜。入るよ」
そう一声かけ、一呼吸おいてから、産室に入った。初めてではないのだが、男が産室に入るのには、多少の覚悟がいる。
そこには、お産を終えたばかりの姜が横たわっていた。難産であったらしく、顔はやつれ、髪もひどく乱れている。呼吸も荒い。その姿を見るにつけ、牛輔は何とも言い難い気持ちになった。そんな気持ちが顔にも表れ、笑顔とも泣き顔ともつかない、不思議な表情になる。
「よくやったぞ。本当に」
そう優しく声をかけ、彼女に寄り添うと、首筋に手を回し、頬をすり合わせた。そんな夫のねぎらいを受け、疲労の極にある姜の顔に、笑みが見えた。まだ意識は朦朧としているものの、その笑顔は心からのものである。
「あぁ、あなた…。ごらんください。ほら、男の子ですよ」
そう言われて振り返ると、産湯につかり、むつきにくるまれた赤子がいるのが見える。赤子は、あの時の蓋に比べるとやや小さい様に思えるが、泣き声は大きく、盛んに手足を動かすその姿は元気いっぱいである。むつきをめくり、股間を見ると、男である事を示す『もの』もついている。なるほど、確かに男の子だ。
「そうか。そなたの言ったとおりになったのだな」
「はい…。名前は…いかがいたしますか…」
「明日、この子の名前を話す。楽しみにしておいてくれ。ゆっくり休もう」
「はい」


翌朝−
牛輔は、嫡男の蓋と向かい合って座っていた。普段は仲の良い親子であるが、この場については、やや改まった雰囲気が漂う。
「蓋よ」
「はい」
「来てもらったのはほかでもない。昨日産まれた、そなたの弟の名を告げるためだ」
「はい」
「この子の名は−『鈞』。牛鈞だ。よいな」
「鈞、ですか…。わたしの名の『蓋』と何らかの関連があるのですね」
「そうだ。そなたの名は天蓋、すなわち天にちなんでおり、この子の名は鈞臺、すなわち夏の御世の人々が考えた地の中心である鈞臺にちなんでいる。どうだ?」
「素晴らしい名です。わたし達兄弟がその様な名をいただいて良いのかと思うくらいに」
「うむ。この何に込めた私の想いを、無駄にせぬ様に努めるのだぞ」
「はい。わかりました」
「それとな。実は、そなた達の字も考えたのだ。実際に字を用いるのは、まだだいぶ先の事だか…」
「字ですか?それは、一体どの様な字なのですか?」
「聞きたいか?」
「それはもう」

103 名前:左平(仮名):2003/11/30(日) 22:53
「では、話しておこう。まず、そなたの字は『伯陽』だ」
「『伯陽』、ですか?それには、一体どの様な意味があるのでしょうか」
「『伯』という字はそなたも承知しておろう。これには、三つの意味を込めている」
「三つの意味、ですか」
「そうだ。まず、『おさ(長)』という意味。そなたはこの家の大事な跡取りだからな。字にもそれを示しているのだ」
「はい。父上の字もそうなんですよね」
「そうだ、よく分かっているな。そして、もう一つは、『伯夷』だ」
「伯夷というと、弟の叔斉とともに、周の粟を食む事を拒み、ついに餓死したというあの義人ですか」
(父上は、わたしに対し、その様な人物をも意識せよと。そうおっしゃるのか…)
まだ幼い蓋ではあるが、『伯夷』のもつ意味の重さは承知しているつもりである。思わず、背筋が伸びる思いがした。

余談であるが、かの水戸黄門こと徳川光圀は、若い頃は素行が悪かったという。しかし、十八歳の時に『史記』の『伯夷列伝第一』を読んで感動して更生し、名君としてその名を残している。傍目には愚者とも見える伯夷・叔斉の兄弟ではあるが、節義に殉じたその姿勢が、人々の心を打つのであろう。

「あれっ?父上、それでは二つの意味ではないのですか?」
「いや、三つだ。『伯夷』に二つの意味があるからな」
「二つの意味?」
「そうだ。一つは、そなたの申した義人・伯夷。もう一つは、そなたもその血をひく羌族の神・伯夷の事を指すのだ」
「伯夷には、その様な意味もあるのですか」
「そうだ。伯夷は帝舜に仕え、典刑をつくったという」
「これはまた…。父上がそこまで考えておられるとは。そうしてみると、わたしはたいへんな字を持つわけですね」
「確かに、容易な事ではないな。しかし、孟子もおっしゃっているではないか。『王の王たらざるは、是れ枝を折ぐるの類なり(王が王者になっていないのは、目上の人に腰を曲げておじぎをする事のたぐいである。つまり、物理的にできないのではなく、単にする気がないのに過ぎない)』と。大抵の事については、要は、自らの有り様次第なのだ。よいな」
「はい、分かりました。伯夷の如くなれる様、努めてまいります」
「そうだな。是非そうなってもらいたい」
「ところで、『陽』は?」
「『陽』は、天の中心たる太陽にちなんでのものだ。名と字にはそれぞれ関連した字を用いる事となっているからな」
「なるほど」

「さて、鈞の字だが。こちらは『仲泰』だ」
「『仲泰』、これにはどの様な意味が?」
「『仲』は、『なか(二番目、または真ん中)』という意味だ。次男だからな」
「では、『泰』はさしずめ『泰山』の事を指すのですか?」
「よいところに気付いたな。その通りだ。そなたは賢いな」
「父上にそう言われると、何か照れますね」
「五岳(中華を代表する五つの山。東の泰山、西の華山、南の衡山、北の恒山、中央の嵩山)の一つである泰山は、古くから羌族の信仰の対象であったというから、羌族の血をひく鈞の字にふさわしい。それに、まことの帝王のみに許される封禅の儀式が行われるという事を考えると、泰山もまた、地の中心であると考えられるからな。名と字に関連がある、とまぁこういうわけだ」
「なるほど…」
「この字、気に入ったかな?」
「気に入るも何も…。名と同様、素晴らしいとしか言い様がございません」
「では、そなた達が志学(十五歳)になったら、この字を使う事としよう。よいな」
「はい!」


−この後この兄弟は、乱世の中、文字通り激動の生涯を歩む事となる。幾多の苦難の中、彼らの最後のよりどころとなったのは、この、父から賜った名と字、そしてその由来であった−

104 名前:左平(仮名):2004/01/01(木) 00:15
五十二、

牛輔にとってみれば、この頃は、おおむね幸せな時期であった。
羌族との戦いがしばしばあったので平穏とは言い難いものの、これまでのところ大きな犠牲もなく済んでいるし、何より、姜をはじめとする家族にも恵まれている。
父も弟達も至って健やかであるし、義父・董卓も順調に位階を進めており、刺史や郡太守といった地位も考えられるところまできていた。
これならば、次代を担うであろう勝は、より高い位に就けるはずである。そう、牛輔の願い通り、全てがうまくいっていたのである。
その『事件』が起きるまでは。


…さて、この当時の時代状況を知るよすがとなるのは、何といっても史書の記録であろう。陵墓などの遺跡から発掘される文物も重要なのだが、時代の全体像を考える上では、史書の記述を無視するわけにはいかない。
牛輔や董卓が生きたこの当時は後漢の霊帝の時代にあたるので、その当時の事を調べる為に『後漢書 孝霊帝紀第八』をひもとくと、作者の様な漢文の素人でも、すぐに目に付く事がある。

やたらに『大赦』が目立つのである。

西暦でいうと、霊帝の在位期間は168年〜189年なので、足かけ二十二年となる。その中で、何と十九回の大赦(うち二回は霊帝が崩じた後なので、霊帝在位中の大赦は十七回)が実施されている。一年ちょっとで一回という頻度である。
『大赦』とは、国家的にめでたい事(帝王の即位、立太子、成婚、瑞祥など)があった際に罪人の刑を減免する事であるので、本来であれば、一人の帝王の在世中にそう何回も出すものではない。第一、霊帝の時代には、さしてめでたい事があったわけでもない(怪異現象ならいくつか記されているが)。
では、何ゆえ、かくも多くの大赦が乱発されたのであろうか。
簡単な事である。当時の政治が、全くもっていい加減なものであったが為に他ならない。

先にもちらりと触れたが、建寧二(169)年にいわゆる『(第二次)党錮の禁』が発生し、宦官勢力に反発した多くの名士達が、処刑されたり投獄されたりしている(『後漢書』には彼らの記録をまとめた『党錮列伝』がある事からも、その凄まじさがうかがえよう)。その死者だけでも百人を超えるといわれ、さらに、その一族や関係者も、禁錮や辺境への移住を強いられているのであるから、その影響は甚大なものがあった。
人々に与えた精神的な衝撃という点もさる事ながら、現実の政治の運営にも大いに影響するところがあったのである。
先帝(桓帝)の御世に、跋扈将軍・梁冀の勢力が滅ぼされるという事があったのだが、その時、その関係者という事で多くの現役閣僚も巻き添えを食った為、朝廷は空になったといわれる。この時も、それに似た事態が発生したものと考えられる。
そう、実際の政治に携わる者がごっそりといなくなってしまったのである。
政治に空白が許されない以上、欠員となった席には誰かが入り、形ばかりでも空席が埋められる。そこに入ったのは、当然、宦官勢力に近い人々であった。
本来ならばその地位にふさわしくない者までも取り立てられたのであるから、当初から彼らの評判は芳しくなかったものと思われる。もちろん、中には、それなりの志というものを持っていた者もいたかも知れないが、基本的には、宦官達の意に沿う事を第一としているのであるから、政治の何たるかという事は顧みられなかった。
この様な状態においては、当然の様に賄賂が横行するなど、政治秩序に著しい乱れが生じる。人間というものの本性を考えると、利益を求めるという姿勢は分からないではないが、政治に関わる者が、賄賂という形で利益を求めるのはどうであろうか。権力というものについての理解があれば、その様な態度はそうそうとれないはずである。『韓非子(外儲説右下篇)』にある、魯の宰相・公儀休の話(彼は魚好きであったが、人から魚を贈られても決して受け取らなかった。魚を受け取って借りを作ると、その借りの為に、後々問題が生じるからというのがその理由)はその一例と言えよう。
凶作、叛乱、外寇…。政治がきちんとしていたとしても、これらの禍は完全に防げるとは限らない。しかし、いい加減に対処していると、その被害はますます大きくなり、しかも、さらなる禍の芽を残す。
その解決には相当な努力が必要なのであるが、この様な有様で、そんな事が出来ようはずもない。結果、その場しのぎの対策に留まる。乱発された大赦は、その様な、当時の状況を知らせる良い例なのである。

そして、そんな中で、まともに政治が行われていれば考えにくいであろうその『事件』が起こった。長い歴史の中では、ごくありふれた事件である。しかし、牛輔達にとっては、それは一族の命運にも関わる、大変な出来事であった。

105 名前:左平(仮名):2004/01/01(木) 00:15
ことの起こりは、劉カイ【小+里】という人物の素行がよろしくなかった事にあると言えるかも知れない。少々長くなるが、その経緯を記しておく。

劉カイ【小+里】は、先帝(桓帝。諱は志)の弟である。兄の志が、質帝の崩御をうけて帝位に就く(本初元【西暦147】年)と、その翌年、蠡吾侯から一躍渤海王に昇格した。
今上帝の弟という事を考えると、この昇格自体は別段不思議な事ではない。しかし、傍系の皇族として、一県程度の食邑しか持たない貧しい侯であった(しかも、兄がいるのだからその嫡子ですらない)のがいきなり郡規模の食邑を持つ富貴な王になったのである。自由に使える財貨も増えるし、配下の人数も後宮の規模も、格段に大きくなる。彼自身にとっては、望外の喜びであったろう。
しかし、そこに落とし穴があった。
桓帝が即位したのが十五歳の時というから、その弟である彼は、当時、まだ十歳そこそこといったところであったろう。人格を練る事もなく、そんな年でいきなり富貴を得たらどうなるかは、我々の身近にもまま見られるところである。
皇弟というのは、大変な地位である。皇帝である兄に万が一の事があれば、直ちに次の帝位に就くかも知れないのであるし、何より、皇族の模範として、最も忠実な藩屏である事が求められる。何事にも慎重に振る舞い、小心翼翼としておらねばならないのである。しかし、彼にはそうする事はできなかった。

「不逞の輩を集め、酒や音楽にうつつを抜かしている」。延熹八(165)年、彼にかけられた嫌疑は、ごくごく簡単に言うとこういったものであった。単に酒や音楽にうつつを抜かしているというだけなら、王朝にとってさしたる実害はない(皇帝とその直系の子孫以外の皇族については、あまりに優秀であってもまた問題になり得るのである)。しかし、皇弟の邸宅に不逞の輩が出入りしているとなれば、話は別である。彼は罰せられる事になり、オウ【疒+嬰】陶王に降格された。この措置により、収入が大幅に減少したのは、言うまでもない。
場合によっては賜死を余儀なくされたかも知れないのであるし、第一、もともとは一諸侯でしかなかったのである。降格されたとはいっても、なお以前の侯より上の王位にある。元に戻ったくらいに捉える事ができていれば、それで話は済んでいたかも知れない。しかし、一度味わった富貴は、容易に手放せないものらしい。彼は、復位するべく、宮廷内部に働きかけた。
その相手となったのが、時の中常侍・王甫である。彼は、前述の(第二次)党錮の禁にも大きく関わっており、当時、宮中でも一、二を争うほどの実力者であった。その王甫を動かす事ができれば、復位も容易であろう。劉カイ【小+里】は、そう考えた。
「(渤海王に)復位した暁には、謝礼として銭五千万を出そう」
彼は、王甫にそう約束した。ちょっとした仲介で銭五千万の報酬。いかにあちこちから利得を得られる地位にあるとはいえ、これはなかなかに魅力的な話である。王甫がこれを受諾したのは、言うまでもない。

その甲斐あってか、降格の二年後、永康元(167)年に、劉カイ【小+里】は渤海王に復する事ができた。
となれば、当然、劉カイ【小+里】から王甫に銭五千万が渡されるところなのであるが…そうはならなかった。そして、それが事の発端となった。

106 名前:左平(仮名):2004/01/12(月) 22:33
五十三、

劉カイ【小+里】は、王甫に銭五千万を渡す必要がないと考えたのである。自分から約束しておきながら、どういう事かと疑問に思うところであるが、彼の中ではそれなりの理由があった。


実は、劉カイ【小+里】が渤海王に復位するのとほぼ同時に、桓帝は崩じたのである(ともに十二月の出来事であった。享年三十六)。先の質帝の様な不審の残る死(梁冀によって毒殺されたとされる)ではなかったから、彼には、自分の命が尽きようとしている事を悟り、遺詔を残すだけの時間があった。この遺詔は、紛れもなく桓帝自身の意思によるものである。
先にかけられた嫌疑については、史弼という剛直な人物が奏上した事であり、かつ裏付けもとれている事であるから、降格は誤りであってその訂正をしたという訳ではない。
この復位は、素行のよろしくない弟の行く末を案じた兄の、最後の思いやりといったところであると考えてよかろう。あるいは、実子が叶わぬなら、せめて自分に近い血縁の者を皇統を狙える位置に残しておきたいという意思表示でもあったかも知れない。
その思いはさておき、もともと、帝王の言葉とは重いものである。「綸言汗の如し」や「王に戯言無し」など、その重さを説く格言は幾つもあるという事からも、その事はうかがえる。ましてや、帝王がまさに崩じようとしている時の言葉である。もう二度と訂正はきかないのであるから、その意味は限りなく重い。
劉カイ【小+里】は、その重みを、自分に都合のいい様に解釈した。
(わしが復位するのは、陛下のご遺志であったのだ。帝王の遺詔は、何人たりとも介入できない聖域。王甫にどれほどの力があろうとも、陛下のご遺志はそれとはかかわりのない事である)
自分は良い兄を持った。そう思いはしたであろうが、彼は、重要な事実を見落としていた。それも、二つも。その事が、一連の事件につながっていくとは、気付くはずもなかった。

一つは、当然受け取れると思っていた報酬を反故にされた、王甫の怒りである。
銭五千万というのが、当時にあってはどの程度の価値であったかについては、現代との比較は難しいところである(良銭・悪銭の差、度重なる改鋳、通貨価値の激変などの理由により、定点がはっきりしない)が、二、三の事例を挙げてみよう。
@梁冀が滅んだ後、没収された財貨の額は、銭三十億余りに達し、それによって、天下の租税を半減させる事ができたという。…銭三十億が国家予算の半額ととれるので、その六十分の一である銭五千万は、国家予算の百二十分の一に相当する。現在の日本にあてはめると…(当時は国債というものはないので税収のみで考えると)…約三千七百億円相当となる。
A『史記』貨殖列伝には「封者食租税、歳率戸二百。千戸之君則二十萬(諸侯の、一戸あたりの税収は【銭】二百。食邑千戸の諸侯であれば、税収は【銭】二十万)」との記載がある。この当時(『史記』が書かれた頃)の一銭は、現在の日本円にして約百八十円くらいとの事なので、それで換算すると…約九十億円となる。もっとも、前漢末から後漢にかけての混乱を経て、貨幣の流通量は(例えば、皇帝から臣下へ賞賜された銭の数量が、後漢は前漢の約三分の一であるという様に)激減しているから、この頃にあってはその数倍の価値があったとみてよい。となれば、三、四百億円くらいになろうか。
B当時の渤海国の人口が約百十万人。当時の漢朝の全人口が約五千万人といったところなので、その約2%にあたる。そこからの税収(全てではない)が渤海王の収入となるわけだが、朝廷−地方王の取り分の比率が現在の日本の国−地方間の取り分の比率くらいと考えると…@と同様に現在の日本にあてはめた場合…約三千二百億円相当となる。
以上、実に粗雑な検証ではあるが、いずれにしても、一般の人間からすると大変な金額である事には相違ない。これほどの大金が絡むとなれば、ただで済むはずもないのは、今も昔も変わりない。
それに、王甫は宦官である。宦官は、性欲を充足させる事ができない分、権勢欲や金銭欲は常人以上に強いといわれる−事実そういう事例は多い−のであるが、その欲望を大いに損ねたのであるから、なおさらである。

107 名前: 左平(仮名):2004/01/12(月) 22:33
もう一つは、彼を復位させたのが「遺詔」だったという事である。最大の庇護者であった兄、桓帝はもはやこの世におらず、そのあとを継いだ今上帝(霊帝)は、桓帝・劉カイ【小+里】兄弟との血縁は薄い(桓帝の祖父と霊帝の曽祖父が同一人物【章帝の子・河間王の開】。二人は【共通の祖先から見ると】おじとおいという関係になるが、ともに帝位に就く前は地方の諸侯に過ぎなかったので、関係は疎遠であったと思われる)。
桓帝の御世においては皇弟であった彼も、霊帝即位後は、単なる一皇族に過ぎないのである。
いや、それだけではない。「先帝の弟」ともなれば、桓帝が男子なく崩じた(実際そうであった)後、そのあとを継ぐという可能性もあったわけだし、それを主張するだけの正当性も充分にある。その様な存在は、新たに皇帝となって間もない霊帝にとっては決して快いものではなく、むしろ疎ましくさえあったろう。劉カイ【小+里】という個人に対しては別段どうという感情はないにしても、彼が、自らが帝位に就く事の正当性を主張したりすれば、国論は分裂し、大変な事になるかも知れないのであるから。

そういった点に思いを馳せておれば、いったん約束しておきながら、王甫に銭五千万を渡さないという事が、どれほど危険であるかというのは分かり得たはずである。王甫が、実際に復位の為に動いたかどうかは関係ない。劉カイ【小+里】が渤海王に復位できたのは事実なのであるから、約束した銭は、渡すだけは渡しておいた方が無難というものであった。


そんな中、劉カイ【小+里】を擁立しようとする動きがあった。当時中常侍の地位にあった鄭颯や中黄門の董騰といった面々が、その為に動いていたのである。
その動きには「先帝の血筋により近い人物をたてるべきである」という一応の正当性はあったが、実のところはそんな奇麗事ではない。彼らは王甫と対立しており、自分達で皇帝を擁立する事で、優位に立とうとしていたのである。その、擁立する候補として挙がったのが、他ならぬ劉カイ【小+里】であった。
数回にわたって(使者が)行き交ったというから、彼自身も乗り気だったのかも知れない。
しかし、である。既に新皇帝(霊帝)が即位している今、その様な動きをし、それが発覚すればどうなるかは、言うまでもなかろう。

熹平元(172)年、ついにその事実が発覚した。王甫は素早く動き、政敵となった鄭颯を獄に下すと、尚書令の廉忠にその事を奏上させた。史書には「誣」の字があり、その点がややすっきりしないものがあるが、何分彼には、以前にも嫌疑をかけられたという前歴がある。
疑われてもおかしくはなかったし、探せば怪しい所の一つもあった。
廷尉が劉カイ【小+里】の前に現れた時、彼は、ようやく自らの軽率さを悔いたかも知れないが、既に手遅れであった。
同年十月、劉カイ【小+里】は自殺して果てた。ただ、謀反の疑いによるものであっただけに、事は彼一人の死では済まなかった。十一人の后妾、七十人の子女、妓女二十四人が投獄され、獄中で命を落とした。さらに、監督不行き届きの故をもって、王国の傅、相もまた誅殺された。
とはいえ、いささか軽率なところはあったにせよ、非道な事はしていなかったらしく、その死を庶民は憐れんだという。

かくして、王甫は銭五千万の怨みを晴らした。しかし、劉カイ【小+里】を死に追いやったところで、反故にされた銭が手に入ったわけではない。それどころか、さらに厄介な事態を招く事になったのである。牛輔達にも関わってくるその一連の『事件』は、まだ始まったばかりであった。

108 名前:左平(仮名) :2004/01/25(日) 23:22
五十四、

厄介な事態になった、というのは、こういう事である。

劉カイ【小+里】の事件が起こる前の年−建寧四(171)年−の七月に、皇帝の元服をうけて皇后が立てられていた。
彼女は、当時執金吾の位にあった宋鄷という人物の娘である。宋氏は、前漢の時代まで遡れるという名家であり、曽祖父の世代では、章帝に寵愛された貴人を出している。(彼女がとある事件により自殺を余儀なくされた為に)その皇子・慶は太子の位を廃されたものの、その子の祜が安帝として即位し、安帝・順帝・沖帝と続いている。
沖帝が幼くして崩じ、質帝・桓帝・今上帝(霊帝)と傍系の皇族が立て続けに擁立された為、当時においては宋氏と今上帝との血のつながりはないが、帝室との関係は浅からずある一族でもある。
先の宋氏が自殺を余儀なくされたとはいえ、その孫が皇帝となっているのであるから、皇后が立てられた時点では宋氏に何の問題もなかった事は言うまでもない。王甫(及び宦官勢力)から見ても、それは同じであった(でなければ宋氏の娘が皇后に立てられるはずもない)。
しかし、劉カイ【小+里】の事件があった為、少なくとも王甫にとってはそうもいかなくなったのである。
なにしろ、獄中で死んだ劉カイ【小+里】の后は、新皇后の姑母(父の妹。日本でいう叔母)なのである。一族を半ば殺された形となる宋皇后が、その悲劇の張本人であるのが王甫と知ったらどうなるか。贅言は不要であろう。

劉カイ【小+里】を滅ぼし、溜飲を下げた後になって、王甫はその事に気付いた。
(まずい事になったな…)
一時の怒りに任せた結果、予期せぬ禍根を作ってしまったのであるから、良かろうはずはない。
なにしろ、相手は皇后陛下である。皇后というのは、単に皇帝の正婦というに留まらない。中常侍の彼にとっては、直接の上司にあたる存在でもあるのだ。これは、自らの地位を保つ上でも大問題である。
(さて、どうしたものか)
しばし悩んだであろう事は、想像にかたくない。この時点では、彼には二つの選択肢があったと言える。
一つは、それこそ皇后の手足として忠実に働き、(姑母の死にかかわりがあると知られても)そうそう容易には排除できない様な重宝される存在になる事。もう一つは、策謀を弄して皇后を失脚させ、自分にとっての危険な芽を摘み取る事である。
もし前者をとる事ができていれば、宮中は、もう少し平穏な日々であったのだろうが…。王甫の、のみならず霊帝の人となりを考えると、それは所詮無理な相談というものなのかも知れない。

というのは、宋皇后の立場は、存外危ういものだったからである。
皇后が立てられた建寧四(171)年時点で、皇帝は数え十五歳。その正婦である宋氏は、おおよそ同年代であったろう。この世代の少年からみると、同年代の少女というのはまだ(性的魅力という点において)物足りなく思う事がままあるもの。ましてや、皇帝ともなると、後宮には全国から選りすぐった美女が溢れかえっているのである。
これで皇后に目を向けようとなると、皇后が絶世の美女(この時点では美少女か)であるとか皇帝に相当の自制心がある事が必要であるが…崩じた後、『霊』という諡号(最悪とまではいかないが、かなり悪い部類の諡号)をつけられる様な人物にそれを望む事は、ほぼ不可能というものであった。
それに、皇帝は、十二歳で即位するまでは貧しい辺境の一諸侯に過ぎなかった。史書に「扶風平陵人」とある事から、少なくとも当時の首都圏の出身であると確認でき、なおかつ名家の出である皇后とは、いま一つそりが合わなかったとしても不思議ではない。
その為、彼女は寵無くして正位(皇后の位)に居るという状態にあった。寵愛されない皇后が、やがて寵姫にとって代わられるという事はままあるから、現時点で、その地位が磐石のものであるとは到底言えないのである。

109 名前:左平(仮名):2004/01/25(日) 23:25
(ただ…皇帝陛下は、皇后にはさして思い入れがなさそうではある…となれば…)
王甫がとる手段は、一つしかなかった。皇后を失脚させる事である。それは、少なからず皇后とその一族の滅亡にもつながる事なので、またも悲劇を引き起こす可能性があるのだが、王甫にはどうでもいい事である。
(いささか気の毒ではあるが…わしが生き延びる為だ。消えていただくしかないな。ただ…寵愛されていないとはいえ、特に過失があるというわけでもないし…どうしたものかな…)
相手はいやしくも皇后陛下である。それを廃位するのは、過去にも幾つか例があるとはいえ、決して容易なことではない。
幸い、今、皇帝には何氏という寵愛を受けている貴人がいる。既に皇子の辯(後の少帝)を産んでいる事からして、宋氏を廃して何氏を皇后に立てる事については、皇帝は黙認するであろうと思われる。
もちろん、宋氏も今後男子を産む可能性がないとは言い切れないし、何氏は、皇后になるには身分的にも性格的にもいささか問題のある女性ではあるのだが、それは何とかなるだろう。問題は、いかにして宋氏を廃するかである。

「現状を考えると…最初から策を弄するのも何だな。まずは、正面からあたってみるか。これを諮るとなれば、さしずめ、太中大夫(光和元【西暦178】年当時は、段ケイ【ヒ+火+頁】がその任にあったと思われる)あたりかな」
そうつぶやくや否や、王甫は立ち上がった。
「車を出せ」
「どちらへ行かれるのですか?」
「段太中大夫のところだ。ちと相談したい事があってな」
「分かりました。すぐに支度いたします」

両者には、政治的に強い結びつきがあった。王甫が宦官であるのに対し、段ケイ【ヒ+火+頁】はれっきとした士大夫であるから、当時の政治情勢を知る人には、いささか意外に思うところではあろう。
だが、これは両者にとって益のある関係であった。段ケイ【ヒ+火+頁】は自らの富貴を維持する為、王甫をはじめとする宦官勢力に接近する必要があったし、王甫は敵対勢力を叩き潰すのに段ケイ【ヒ+火+頁】の勇武を必要としていたからである。
こう書くと、段ケイ【ヒ+火+頁】が権勢に擦り寄る悪党である様に思われるかも知れないが、事はそんな単純な話ではない。

段ケイ【ヒ+火+頁】は、董卓と同じく涼州の出身であるが、同時代に、彼を含めた三人の名士(皇甫規・字威明、張奐・字景明、段ケイ【ヒ+火+頁】・字紀明)がいた。彼らはその字に「明」という字が含まれていたので「涼州三明」と呼ばれていたのだが、段ケイ【ヒ+火+頁】は、三人の中で最も恵まれない立場にいた。というのは、他の二人は父が相当の官位にあったのでその恩恵を多分に受けられたのに対し、彼の父は史書に名が記されておらず(官位に就かずして亡くなったか就いていたにしても微官に留まったと考えられる)、その恩恵を受けられなかった為である。
段ケイ【ヒ+火+頁】は、対羌族戦において三人の中で最も苛烈な戦いを行ったのだが、それは、彼の性格によるというだけでなく、より目立つ功績を挙げる事で、二人との差を詰めたいという意識の現われであったかも知れない。
また、その結果得た富貴にしても、先祖代々の蓄積というわけではない。それを守る為にいささか無理をせざるを得なかったという事情もあったものと考えられる。

ともあれ、王甫にとっては、段ケイ【ヒ+火+頁】は頼れる人物であった。皇后廃位という大事を為そうとするにあたっては、一言相談しておくにこした事はない。
「これはこれは、王中常侍殿。いかがなされたのかな?」
本人は至って気軽に話しているのであろうが、さすがは歴戦の勇将。既に相当の年であるにも関わらず、慣れない人にはかなりの威圧が感じられる。それは、王甫にとっても同じである。政治的には近しいとはいえ、決して気安く話せる相手というわけではないし、何より武人である。長々とした挨拶などせず、手短かに話すのが良い。
「話がある」
「ほほぅ。どの様な話ですかな?」
「実はな…」
王甫の声が、いささか小さくなった。
(何か重大な話なのか)
さすがの段ケイ【ヒ+火+頁】の心にも、緊張が走った。これが、自らの運命にも大きく関わろうとは、気付くはずもなく。

110 名前:左平(仮名):2004/02/09(月) 00:13
五十五、

「皇后の事なのだが…」
段ケイ【ヒ+火+頁】にとっては、いささか予想外の話である。宮中のきな臭い話とはあまり関わりたくないというのが本音ではあるが、他ならぬ王甫の話である。聞くだけは聞かねばなるまい。

「皇后陛下が…いかがなさったのですかな?」
「実はな…位を降りていただこうかと思ってな」
「これは異な事を。何ゆえですかな?」
(陛下は、今の皇后に何かご不満があるのだろうか?聞いた事はないが…)
段ケイ【ヒ+火+頁】には、どうも王甫の意図が掴めない。皇后の廃位となれば、天下の一大事である。皇帝の意思であるのなら異論はないが、何ゆえ今なのか。さっぱり分からないのである。
「皇后は寵無くして正位に居られる。皇后に立てられてもう何年にもなるが、未だ若年とはいえ、この様子では、恐らく男子は望めまい。『母は子を以って貴たり』ともいうし、この際、既に男子を産んでおられる何氏あたりにその座を譲られてはいかがかと思うのだがな」
「ほほぅ…。で、この事について陛下のご意思はいかがなのですかな?陛下がお望みなのでしたら、この段ケイ【ヒ+火+頁】、できる限りの事は致しましょう」
(そう来るか…。まぁ、予想してはおったが…)
段ケイ【ヒ+火+頁】は、どこまでも漢朝に忠実な武人であり、皇帝の意思こそが絶対という固い信念を持っている。彼を動かすには、やはり皇帝を持ち出すしかない様だ。ただ、今回については、事の性質上それはなるべく避けておきたいところ。彼の力を借りるわけにはいかない様である。
(止むを得んな。萌、吉【ともに王甫の養子】に相談してみるか)
王甫は、そう考え直した。このあたりの決断の速さこそ、彼が今まで勝ち残ってきた所以である。幸い、段ケイ【ヒ+火+頁】は口が固いから、一言口止めしておけば、この話が外に漏れる恐れはない。
「まぁまぁ、そう焦らずとも良い。わしとて、陛下のご意思をきちんと確認したわけではないのだからな。この事は忘れられよ。…今日の話はこれだけだ。では、あまり長居するのも何なので、これにて失礼する」
そう言うと、王甫は席を立った。こう書くと、段ケイ【ヒ+火+頁】の返答に不快感を感じた様に思われるかも知れないが、そういう訳ではない。王甫は、段ケイ【ヒ+火+頁】の人となりにはむしろ好感さえ持っている。用件が済んだら長居はせずにさっさと帰るのが、彼への礼儀なのである。

「戻ったぞ」
「お帰りなさいませ」
「さっそくだが、簡と筆を用意しろ。萌と吉に書状をしたためる」
「はい。分かりました。至急」
この頃、王萌は長楽少府、王吉は沛国の相という要職にあった。いかに養子とはいえ、勝手に親元に帰るわけにはいかない。書状には、相談したい事があるので、何か理由を探して急ぎ帰る様したためられていた。

「父上から書状?」
「はい。こちらです」
「ふむ、何用であろうか…」
「なるほどな…分かった。しばし待て。すぐに返事をしたためる」

111 名前: 左平(仮名) :2004/02/09(月) 00:15
しばらく後−王甫邸に、王萌・王吉、二人の姿があった。ともに、王甫が呼んだ理由までは分かっていない。
「二人ともよく来てくれた。実はな、話というのは…」
「何と!」
これには二人とも驚くしかない。とはいえ、この謀の成否は自分達の生存に関わってくる。慎重に考えねばならない。
「中華の歴史は長い。その中では、こういった事もままあったはず。そうだな?」
「はい」
「今話した様に、宋氏が皇后のままでは、我らの身が危うい。位を廃さねばならぬが…どの様にすれば良いかな?」
「そうですね…」
先に口を開いたのは、王吉の方であった。王吉については、史書に伝があり(酷吏列伝)、幼い頃から読書を好んだと記されているから、そういった先例もすぐに思い浮かんだのであろう。
「漢朝に限ってみても、皇后が廃されたというのは何回かあります。その例に倣うのがよろしいでしょう」
「ふむ。で、どの様な経緯でそうなったのかな?申してみよ」
「皆、皇帝おん自らの意思で廃位されているわけですが…さすがに、寵愛しなくなったから、とはしておりません。実際にはそれが理由であったとしても。故あって外戚どもを打倒し、その係累という事で廃するとか、巫蠱【ふこ。巫女にまじないをさせ、人に呪いをかける】・祝詛【しゅうそ。巫祝を用い、人に呪いをかける】を行った故に廃するとか、そういう理由をつけておりますね」
「なるほどな…」
「今、宋氏が外戚になっておりますが…彼らにはさほどの勢力はございませんから、陛下もわざわざ打倒しようとはお考えにならないでしょう。ここは、巫蠱を行ったという事にするのがよろしいかと」
「そうだな。寵愛されない皇后が焦燥の余り巫蠱の術に頼った…有り得ん事も無いしな」
「ただ…皇后は後宮におわしますから…その証拠を、となると…」
「それは、わしが考える。なに、そのあたりの事は、心得ておるわ」

ひとたび結論が出ると、王甫の動きは早かった。

この謀を為すには、少なからぬ協力者が必要である。王甫にとって幸いなのは、後宮には、皇帝の寵愛を受け、自身の、そして一族の立身を図ろうという女達が溢れかえっているという事である。
彼女達にとっては、その頂点に君臨する皇后が失脚した方が望ましい。競争相手は少ない方がいいし、何より、最高位の皇后の座に座れる可能性も出てくるのだから。
「分かりました。で、何をすればよろしいのですか?」
「なに、大した事ではございません。陛下の夜伽をする際に、それとなく皇后陛下の事を謗って頂ければよろしいのです」
「何だ。そんな事、いつもやってるわよ」
涼しい顔をしてそう返事する者までいる。
(これなら、存外容易に事が進むな…しかし、女は恐ろしいものだな)
若くして宦官となり、長年後宮にいる王甫ではあったが、あらためてそう思った。

「陛下に申し上げます」
王甫が太中大夫の程阿(太中大夫の定員は不定につき、彼と段ケイ【ヒ+火+頁】は同時にこの官職にあった可能性がある)と共に、皇后が左道【さどう。邪道】祝詛をしていると上奏したのは、それからしばらくしてからの事であった。
前漢武帝の治世の末期、巫蠱の疑いにより、公主【こうしゅ。天子の娘】・駙馬【ふば。天子の娘婿】とその子供達、さらには皇太子とその子供達までもが命を落とすという悲劇があった。それ自体は全くの冤罪だったのだが、ひとたびその疑いをかけられただけで、皇帝の血縁者であってもその罪は死に値したというのであるから、赤の他人である皇后となれば、その末路は言うまでもなかろう。
光和元(178)年十月、宋皇后は廃位され、一族はことごとく誅殺された。廃された皇后自身は暴室に送られ、ほどなく憂いの為に亡くなったという。隠密裏に殺害されたと考えても良いだろう。
かつて自分の正婦であった宋氏の死に対し、皇帝が何か語ったという記録は残っていない。

こうして、王甫は自らの憂いとなる宋氏を滅ぼした。皇后を廃位させる程の実力を持っているのであるから、もはや王甫に敵なしかというところであったが…そうはいかなかった。

112 名前:左平(仮名) :2004/02/22(日) 21:29
五十六、

今回の皇后廃位は、皇帝は自分の意思によると思っているであろうが、王甫の差し金によるという事は公然の事実であった。それは、王甫の実力を知らしめる事になる一方で、敵を増やす事にもつながった。なにしろ、彼だけではなく、養子の王萌・王吉もまた、要職にあって権勢を振るう一方で、あちこちに敵をつくっていたのであるから。
史書によると、二十歳そこそこで沛国の相となった王吉は、性残忍であり、在任期間五年でおよそ一万余りの人を殺したという。沛は漢高祖・劉邦の故郷にして大国であったから、人口も多くそれだけ犯罪も多かったろうが、この数は異常である。当然、多くの無辜の民が殺戮されたであろうから、それだけ人々の恨みを買っていたはずである。

(党錮といい、皇后廃位といい、萌・吉の振る舞い様といい…どうもわしが矢面に立つ格好になっておるな。備えをしておかんと)
そう考えた王甫は、皇帝に働きかけ、段ケイ【ヒ+火+頁】を太尉にした。段ケイ【ヒ+火+頁】は、前述の様に数年前にも太尉になっていた時期があるのだが、在任期間十ヶ月(熹平二【173】年三月に就任し同年十二月に罷免)で退任しているから、久々の復職であった。
太尉といえば三公の一つにして、軍事を司る官職。歴戦の勇将たる段ケイ【ヒ+火+頁】が三公の高位にいるというだけで、反王甫勢力には相当な威圧をもたらすはずであるし、何より、太尉に無断で軍を動かす事は至難の業。王甫自身は後宮におり、皇帝の近くに侍っているから、そうそう手が出せない。まずは一安心である。
もちろん、段ケイ【ヒ+火+頁】には、そんな王甫の思惑など知った事ではない。自らの任を全うするだけである。
(わしももはや従心【七十歳】を過ぎた。これが最後のご奉公となろうな)
知らせを受けた段ケイ【ヒ+火+頁】は、しみじみとそう思った。今宵の酒は、普段以上に胃に沁みる様な気がする。
(不思議なものだ。「三明」と呼ばれていた中で、最も恵まれなかったわしが最も立身するのだからな…)
「(涼州)三明」と並び称された三名のうち、皇甫規は、これより先、熹平三(174)年に七十一歳で亡くなっていた。また、張奐は未だ存命とはいえ、既に失脚して家に篭もっている。当時七十六歳。政治的にはもはや過去の人となっていた。
(力量をみる限りでは、あの二人よりわしが特にまさっているというわけでもなかろう。となると、運か。分からんものだな…)


段ケイ【ヒ+火+頁】の思いはともかく、この知らせは、董卓達には祝うべきものであった事は言うまでも無い。
彼は、涼州の英雄にして、尊敬すべき先達であるし、何より、董卓にとっては、かつて推挙してもらった恩人でもあった。それに、同郷の人が高位にあるとなれば、自らの立身を図る上でも何かと都合が良い。いい事ずくめなのである。

「義父上、お聞きになりましたか。このたび、段公が太尉になられたとか」
そういう事情を理解しているだけに、牛輔の声も自然に明るくなる。
「あぁ、聞いておるよ。我らにとっては、めでたい事だからな」
「まことにそうですな」
「そうそう、伯扶よ。鈞の様子はどうかな?」
「それでしたら、もう至って健やかでございますよ。もう自分で立ち上がる事もできます」
「ほほう。白ももう自分で立てる様になっておるからな。いや何より。先が楽しみだな」
「はい。必ずや、義父上の様な勇敢な武人に育ててみせますよ」
「そうだな。勝や、いずれ産まれるであろうその子達のよき補佐役になってもらわんとな」
「そうですね」
時に、光和二(179)年三月。うららかな、春の日のひとこまであった。しかし、都・洛陽において、秘密裏にある謀議が為されていたのに気付く者は、まだなかった。謀議に加わっている数名を除いては。

113 名前:左平(仮名):2004/02/22(日) 21:31
「党錮以来、宦官どもの横暴には目に余るものがある。これ以上黙ってみておるわけにはいかん」
とある邸宅の一室で、数人の男達が集まっていた。党錮の禁以来、表立って宦官批判の言論を述べるのは極めて困難になっているが、通常の人付き合いまで完全に排除できるものではない。彼らは、何かに事寄せては会合を持ち、宦官勢力打倒の計画を練っていたのである。
「まことに。最近では、その養子達までもが悪逆な振る舞いを為し、民を苦しめておるというではないか」
「そうだ。孝順皇帝以来、連中は養子をとる事でその爵位・食邑を継承しておる。曹常侍(曹操の養祖父・曹騰の事)は孝順皇帝の擁立並びに多くの人材を推挙したという功の故、まだ良いとしても、王甫・曹節の如き功無き輩までもがその恩典に浴しておるという有様だ。このままでは、漢朝は連中によってぼろぼろにされてしまうぞ」
「うむ。あの連中ならば、簒奪さえもやりかねん。あやつらは、奸智のみは王莽並みだからな」
「君側の奸か。ならば、除くしかない」
「さよう。陛下がその事にお気づきにならぬ以上、我らの手で何とかするしかあるまい」
「その通りだ。しかし…問題は、いかにして連中を討つかという事だ」
「そうだな。なにしろ、あの段紀明が太尉に任ぜられておるから、軍を動かすのは至難の業」
「何より、宦官どもは後宮におり、下手に刃を向けると、逆臣呼ばわりされる」
「いかがいたしたものか…」
威勢は良いものの、いざ実行の手段となると、とんと案が出ないという有様であった。
「そこで、わしの出番というわけだな」
沈んだ雰囲気の中、そう発言したのは、当時司隷校尉【首都圏の警察権を持つ官職】の任にあった陽球であった。

陽球、字は方正。幽州・漁陽郡の名門の家に生まれた彼は、「好申韓之学【申不害・韓非−ともに法家の思想家として知られる−の学問を好んだ】」という。修身・立身の為、儒教思想の経典を学ぶのが常道とされていた当時としては、やや珍しい経歴を持つ人物と言えよう。
士大夫の一人として宦官勢力と戦ったにもかかわらず、その伝が「酷吏列伝」に記されているというのは、若い頃人を殺めたという事・後述するその嗜虐性もさる事ながら、その経歴も影響しているのかも知れない。

「なるほど、司隷校尉殿であれば、罪状を暴き立てて逮捕する事もできますな」
「となれば…あとは、王甫とその一党の罪状が分かれば良いのだが…」
「確かにそれは必要だ。しかし、それだけでは足りぬ」
「足りぬとは?」
「いかに確かな罪状を暴き立てても、王甫が陛下のそばにいては、すぐに握り潰されてしまうであろう。それでは、何にもならぬ」
「確かに」
「王甫が不在の折を狙うしかない」
「不在の折…そうか!あやつの休沐日に奏上すれば…で、その後は…」
「そういう事だ。なに、あやつらの事だ。叩けば埃などいくらでも出てくるわ。わしから直接奏上すると何だから、京兆尹【長安地域の長官】の楊文先(楊彪。『四知』という言葉で知られる楊震の曾孫)殿からの報告という事にしてもらえば良い。最近聞いた話だが、連中、あのあたりで何かやらかしたらしいからな」
「それがよろしいな」
「では、王甫めの休沐日を期して、動くぞ。良いな」
「分かり申した」

114 名前:左平(仮名):2004/03/07(日) 23:16
五十七、

四月。朔に日食があった。 日食は、往々にして不吉な前兆とされるが、もうこの頃になると、少々の怪異などは珍しくもないという感さえある。何しろ、先月も京兆で地震があったばかりなのだから。
ただ、それを、いささか違う思いで見上げる者達がいた。陽球達である。
「あれを見よ。一度は日が消えてしまうが、また再び現れてくる様を。これは吉兆ぞ。我らの働きによって、宦官という闇を除き、漢朝に光を呼び戻すのだ」
先に話し合われた謀を実行する時が、近づきつつあった。

「どうだ?」
「まだ動きはない。…んっ?あの車…。間違いない、王甫のものだ」
「そうか。どちらに向かった?」
「邸宅の方だ」
「そうか…。間違いない。休沐だな」
「と、なれば…」
「あぁ。明日こそが…」
「おっと。それはこれからの話だ。急ぎ、方正殿にお知らせしろ」
「分かってるよ。じゃ、また後でな」

車中の王甫は、そんな事など気付くはずもない。久方ぶりの休沐をどう過ごすか、それで頭が一杯になっていたのである。
「あぁ、全く…。それにしても、四月になったばかりだと言うに、暑くなったものよのぉ。行水でもするかな」
手で顔を扇ぎながら、そんな事を呟いていた。

「そうか、王甫めは休沐に入ったか」
「はい。車が確かに邸宅に向かって行きました。間違いなく、休沐に入ったものと思われます」
機は熟した。今こそ決起の時である。恐れる事はない。大義はこちらにある。
「行くぞ、支度をせよ。上奏するとともに、直ちに王甫どもの捕縛にかかる。遮る者があれば、殺しても構わぬ。良いな」
「はっ!」
(王甫よ。これで貴様も終わりだ。せいぜい今のうちに休沐を楽しむのだな)
そう思うと、思わず陽球の口元が緩んだ。

王甫邸−
「ご主人はご在宅かな?」
「はて、どちら様でしょうか?本日、面会なさる方がおられるとはうかがっておりませんが」
「予定などあるはずもなかろう。…司隷校尉の陽方正である!おとなしく致せ!」
「はっ?一体何事…」
「どけいっ!」
取次ぎの男を荒々しく突き倒すや否や、陽球とその配下はずかずかと王甫邸内に入り込んだ。それは、王甫達の逮捕と同時に、京兆で発覚した、銭七千万にものぼる不正摘発の為の家宅捜索であった。
「なっ、何をなさいますか!それは殿のお気に入りの…」
「やかましいっ!口を挟むな!いい加減にせんと斬るぞ!」
「ひっ!」

115 名前:左平(仮名) :2004/03/07(日) 23:17
「何事だっ!」
あたりの騒々しさを聞いた王甫が姿を現した。いかに宦官とはいえ、さすがに宮中随一の実力者。態度は堂々としたものである。
「あっ、殿!そっ、それが…」
「何がどうしたと言うのだ。落ち着いて説明せい」
「これはこれは、王中常侍殿ではありませんか」
王甫の姿を見つけた陽球は、あえて丁寧な態度をとった。相手の警戒心を緩くする為である。
「何だ、陽球。この騒ぎは」
「それがですね。京兆尹殿から、とある事件の摘発があったのですよ」
「事件?そんなもの、わしは知らんぞ」
「そんなはずはないでしょう。これは、あなたの門生がやった事なのですから。なにしろ七千万という大金が絡んでおりますからねぇ…」
「何が言いたい?」
「者ども!こやつがこの件の首魁である!引っ捕らえろ!」
「なっ!?」
王甫が口を挟む間もなく、彼は屈強な男達によって取り押さえられた。腕力では劣るとはいえ、相当に抵抗したから、髪も衣服もぼろぼろになってしまった。
「ええいっ、放さんかっ!わしをどうするつもりだ!」
「どうもこうもないわっ!官の財物を横領した容疑で取り調べるまでの事!引っ立ていっ!」
王甫はなおも陽球を罵りつつ、引き立てられていった。

「さて、次は…王萌・王吉、それに…」
そう言いかけたところで、陽球は口をつぐんだ。
「それに…誰を捕えるのですか?」
「ちと気が重いが…太尉の段紀明だ」
「段太尉を、ですか?しかし、太尉はこの件には関与しておりませんが…」
「そんな事は承知しておる。だがな、段紀明は王甫との関係が深い。数年前には、宦官どもの意を受けて学生達を弾圧したではないか。放っておいては、我らが危うくなるのだ」
「しかし…」
「しかしも何もない!とっとと行かんか!」
「はっ!」
(なるほど、確かに対羌戦の勇将ではある…むざむざ消し去るには惜しい存在ではある…だが、こうするより他ないのだ。俺は間違ってはおらんぞ!)
びっくりした部下が駆けていくのをみながら、陽球は、自分にそう言い聞かせていた。

116 名前:左平(仮名) :2004/03/21(日) 22:44
五十八、

段ケイ【ヒ+火+頁】邸に陽球とその配下達が姿を見せたのは、それから間もなくの事であった。

「何事かな?この様な大人数で」
表の騒ぎを聞いた段ケイ【ヒ+火+頁】が姿を現した。まだ、何が起こったのかは分かっていない様子である。
「太尉殿でいらっしゃいますね?」
「そうだ」
さすがは、長きにわたって辺境の地で活躍した勇将である。前線に出なくなってから数年が経つとはいえ、王甫とは、まるで貫禄が違う。この威厳を前にした司隷校尉配下の者達の−いや、陽球自身もだが−額に、冷や汗が滲んだ。喉がからからになるのを感じつつ、陽球はようやく声を絞り出した。
「ご同行願います」
「なに故に?」
一瞬の沈黙が周囲を支配する。確かに、今回彼を逮捕する様な容疑はないのである。
「…太尉殿。貴殿は、王中常侍と親しゅうございますね」
「確かに、王中常侍とは親しく付き合っておるが。それがどうかしたのか?」
「このたび、京兆において大きな事件がありましてね。それに、王中常侍、いや、王甫が関与しておったのですよ」
「ほう。しかし、それがわしと何か関係があるのかな?わしは、その様な事には一切関わってはおらんが」
「そういう問題ではございません!貴殿は、王甫の一党を倒す際の障害なのですからな!ここにおられてはこちらが困るのですよ!」
「わしのどこが障害になるというのだ?捜査を妨害するとでも言うのか?」
「その存在自体が!…むっ、ここでぐだぐだ言ってても仕方がないっ!者ども!引っ立ていっ!」
「そう大声を出すでない。何の事か分からんが、わしがおると捜索するのに不都合だというのなら、同行しよう。それで良いのだな?」
「…では、ご同行願おう」
「うむ」
「殿!」
連行される段ケイ【ヒ+火+頁】をみて、邸内の家人達が叫んだ。これからどうなるのか、その顔には不安の色が浮かぶ。もし主人に万一の事があれば…。それは、自分達にとっても死活問題なのである。
「そう心配するでない。そなた達はここで待っておれ」
周囲の者達の声が皆上ずっている中、ひとり彼の声だけは冷静さを保っていた。
(こやつがわしをどうするつもりかは分からんが、この様な事で取り乱す段紀明ではないぞ)
武人たる者、何があっても冷静さを失ってはならない。その矜持が、彼を支えていた。

その時、段ケイ【ヒ+火+頁】の姿が遠ざかるのをみた家人の数人が、あちこちに走り始めていたのに気付く者は無かった。
(急ぎお知らせしないと…このままでは殿が…!)
主・段ケイ【ヒ+火+頁】の危難を救うには、かつて主が推挙した者達の助力を乞うしかない。誰が命ずるでもなく、彼らはそう考え、行動を起こしたのである。たとえ主がそれを望まぬとしても、主に仕える者として、手を拱いている事はできなかった。
西へ、東へ、北へ、南へ。彼らは、一心不乱に走り続けた。

117 名前: 左平(仮名) :2004/03/21(日) 22:47
「こちらへ」
「うむ。…ほぅ、これはまた随分な扱いだな」
彼がいざなわれたのは、牢獄であった。特別な設備などは何も無く、一般の囚人が入るそれと変わらない。これは、現職の−この時点では罷免する旨の詔勅はまだ出ていない−太尉に対する扱いとは思えない。
(こやつ、王中常侍ばかりでなく、わしをも罪人とするつもりか)
牢獄自体は、かつて戦った辺境の地の過酷な気候を思えば何という事はないが、この扱いには承服し兼ねるものがある。さすがの彼も少しばかり不機嫌な表情になった。
「いかがなされた?」
「なに、蓐【しとね】に入る事がなかった昔の事を思い出したまでの事よ」
「ほぅ…」
(いつまでそう言ってられるかな)
ここまで来ればこちらのものだ。いかに太尉とはいえ、ここでは司隷校尉である自分に絶対の優位がある。長く戦場で鍛えられたとはいえ相手はもう七十過ぎの老人。過酷な尋問の果てに、この男が矜持を失い無様に取り乱す様を見たいものだ。陽球はそんな事まで考えた。そう考えるだけで、心が踊るのである。
「太尉…いや、段紀明殿。しばらくここにおられよ。わしは、王甫の尋問にあたらねばならぬのでな」
そう言い残すと、陽球はさっさと別室に向かっていった。その足取りは、妙に軽やかであった。


「早く吐かんかっ!」「この奸賊めがっ!」
罵声とともに、王甫父子に対し容赦なく杖や鞭が振り下ろされる。まだ尋問が始まってからさほど時間も経っていないというのに、父子の体は既に痣だらけになっていた。肉が破れ、あちこちから血が滲んでいる。
いや、痣や血ばかりではない。時々する鈍い音からみて、何箇所か骨も折られている様である。
「わ、分かった…。話すから…止めてくれ…」
「我ら父子は既に罪に服しておるではないか。せめて父上だけでも大目に見てはもらえぬか」
たまりかねた王甫達はそう哀願した。しかし、それにも構わず、さらに杖が振り下ろされる。
「早く話せ!『全て』話し終わったら止めてやっても良いぞ!」
その様を見つめる陽球の目には、どこか異常な光さえ感じられた。そこにあるのは、敵意などといった生易しいものではない。
(ま、まさかこやつ…)
その目に気付いた王萌の背に、寒気が走った。
(こやつ、京兆での疑獄の解明なぞはどうでも良くて、ただ俺達を殺したいだけなのではないか…)
「方正!そなた、我ら父子に何か怨みでもあるのか!」
「怨み?何の事かな?これは尋問であって私的な怨みをどうのこうのと言うものではないが」
「とぼけるでない!我らが関与したという疑獄の件を解明したいのであれば、話そうとしているのになに故間髪も入れずに杖を振り下ろし続けるのだ!これでは体がもたん!」
「ほう、気付いたか。長く要職にありながら、鈍いやつらだな。まぁ、王甫の養子というだけで官位にありついたのだから当然か」
「気付いただと!?まさか!」
「ふん。なんじらの罪は、たとえ死んだところで免れるものではないわ。この期に及んで、まだ大目に見ろだと?ふざけるのもたいがいにしろ!」
「何だと!なんじは、以前は我ら父子に奴僕の如く仕えていたではないか!奴僕が主に背くとは何事だ!この様な事をすれば、いつか己の身にかえって来るものだぞ!分かっているのか!」
王萌は力の限りを振り絞ってそう叫んだ。しかし、それはかえって陽球の気に障った。というか、彼の中の何かが切れた。

118 名前:左平(仮名) :2004/04/25(日) 21:12
五十九、

陽球の顔から嘲笑の色が消えた。その顔は一見穏やかそうに見えるが、それこそ、酷吏・陽球の本性がむき出しになる瞬間であった。
(あ−あ、やっちまったよ…)
捕えられた時点で、この父子の運命は既に決まっていた。しかし、わざわざ余計に苦しむ事もなかろうに。属吏達は、半ば呆れていた。
「うるさいやつだ。口を塞いでしまえ」
「はっ。しかし、口を塞いでは疑獄の件の自白が得られませんが…」
「構わん、やれ。舌を噛み切ったりしてさっさと楽になられてはつまらんからな」
「では…」
「待て。こやつらの穢れた口をふさぐのに、清浄な布など使ってはもったいない。そこらの泥で十分だ」
「はっ?あっ、はぁ…」
「んじゃ!これでも喰らいなっ!」
「んぐっ!」
王萌の口に、足元の泥がねじ込まれた。吐き出そうとしても、屈強な男達の手で手足を押さえ込まれ、口も完全に塞がれているのでどうにもならない。口中に広がる悪味と息苦しさとで、ばたばたともがいた。王甫と王吉は、ただ呆然とするばかりだった。すっかり気力が萎えていたのである。
その様をみた陽球の口元がかすかに動いた。それは、彼の心からの笑みであった。
「あとの二人にもだ」
「はっ!」
「じっくりと痛めつけてやれ。なに、時間はいくらでもある。既に勅許も得ておるのだからな。おっと、顔だけは傷つけるなよ。せっかく市に晒しても、こやつらだと分からなくては台無しだからな」
「…」
(なに故、この様な事に…。我らが党人を弾圧したのでさえ、もっとましだったというのに…)
王甫父子の顔に、恐怖と絶望の色が浮かんだ。勅許が出た以上、皇帝にすがる事もできない。もはやこれまでである。
「思い知るが良い。これが、なんじらに対する民の怒りだという事をな」

それから、どれくらいの時間が経ったろうか。ただの一瞬も止む事なく、王甫父子に向かって杖や鞭が振り下ろされ続けた。もちろん、手加減などあろうはずもない。陽球の本心は、疑獄の解明などではなく、王甫父子の抹殺に他ならないのだから。
単に殺すだけであれば、頭部を強打するだけでも良い。しかし、それでは足りぬ。
(ただ殺しただけでは飽き足りぬ。なぶり殺しにせねば気が済まぬわ。そうでないと、党錮で死んでいった者達の霊も浮かばれぬからな)
陽球は、そう思う事で、自身の内にある嗜虐性に基づくこの行為を正当化しようとした。
まずは、手足の指先から打たせた。しばらく打つと皮が破れ、肉がむき出しになり、骨が砕けた。骨が完全に砕けたのを確認すると、続いて腕と脛を打たせた。さらに、腿と二の腕。そうして、徐々に体幹部に近づいていく。
泥で口を塞がれながらもなお漏れる呻き声は、辺りに血と汗と糞便の臭いが増していくのと反比例する様に、段々と小さくなっていった。
「そうだ、もっと打て。東海には、何でもくらげとかいう骨のない生き物がいるらしいが、その様になるまで打ち続けるのだ」
属吏達を督励する陽球の姿には、明らかに狂気が宿っていた。そこには、普通の人なら一時もその場にいられないであろう、異様な雰囲気が漂っていた。

119 名前:左平(仮名) :2004/04/25(日) 21:14
腹部に至ろうかというところで、ついに王甫の首がぐったりと倒れた。属吏がいったん打つのをやめ、心拍と呼吸の有無を確認する。
「心臓は止まっております。息もありません。死にました」
「そうか、存外早かったな。まだ手足の形がこれだけ残っておるというのに」
「まぁ、年寄りですからね。むしろ、ここまでよくもったものです」
「そうだな。あとの二人もさっさと片付けろ!」
「はっ!」
それからほどなく、王萌・王吉の二人も死んだ。死んだのを確認した後もなお打ち続けて筋骨をずたずたにした為、三人の遺骸は、顔を除くと手足の所在も不明瞭なただの肉塊と成り果てていた。
「ふふ。汚らしいくらげが三つ出来上がったか。次は、段紀明の番だな」
陽球は、微かに震えていた。それは、一つの宿願を果たしたという、至上の歓喜によるものであった。この様な歓喜の様は、家族にも見せた事がない。


その頃、段ケイ【ヒ+火+頁】は一人獄中に座っていた。その姿勢には全く乱れはないが、心中には、いささかの淀みがあった。
(あやつ、王中常侍をどうしているのであろうか…)
王甫と陽球。両者が政治的に対立しているのは知っている。今回、陽球は王甫の隙を突いて逮捕に踏み切った。このまま、彼を葬り去るであろう事は想像に難くないところである。となれば、自分もその巻き添えを食らうという事か。相手の態度如何によっては、こちらも覚悟を決めねばならぬところである。死ぬ事には何の恐怖もない。しかし、自らの尊厳を傷つけられるのはまっぴらである。
そう思っていると、足音がしてきた。

「紀明殿。獄中におられる御気分はいかがかな?」
「なに。何という事はない。あまりに静かなので、思わず眠気を催したくらいだ」
「ほう。それはまた落ち着いておられますな。…そうそう、先ほど、宮中から知らせがありましたよ。先の日食の責を問い、太尉を罷免の上、廷尉に任ずる、とね」
「さようか」
(すると、陛下はこの件をまだ存じておられないのか。今のところは、わしは必ずしも罪人ではないという事か…)
少しほっとした。しかし、陽球のこと。これで済むわけもない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、次の言葉を待った。
「しかし、廷尉の位もいつまででしょうな。…王甫は尋問中に死にましたよ。これで、あやつの有罪は確定です。となれば…王甫との関係が深かった者どもがどうなるかは…もうお分かりでしょう」
(そうくるか。この際、わしも葬り去ろう、と。そういう事か)
こうなれば、彼に残された選択肢は一つしかなかった。辛うじて自らの名誉が残されているうちに…。
(ただ、こやつの事。何としてでもわしの名誉を奪い取り、その上で殺そうとするであろう。少しでもそれを回避するには…)
段ケイ【ヒ+火+頁】は、懐中のある物に、そっと手をやった。

120 名前:左平(仮名) :2004/05/03(月) 23:31
六十、

「紀明殿。いかがなされた?」
「これから尋問であろう。さぞ長くなるだろうから、一つ家の者に連絡しておかんと、と思ってな」
「そうですか」
(何をたくらんでおる?自らの助命でも嘆願するつもりか?無駄な事を。まぁ、かつての勇将が無様に命乞いをする様というのも、それはそれで見物ではあるがな)
「まぁ、よろしいでしょう。ただし、書面はあらためさせてもらいますよ。ここは『牢獄』ですからね」
憎き王甫の打倒を成し遂げた充足感の故か、陽球の機嫌は良く、存外すんなりとその申し出は認められた。
「承知しておる。簡と筆を用意してはもらえぬか」
「分かりました。おい、用意しろ」
「はっ!」
(墨をするとなれば、当然水が必要になる。水さえあれば…)

直ちに簡と筆、それに水を入れた筒が用意された。段ケイ【ヒ+火+頁】は、無言のまま硯に水を入れ、墨をすり始めた。
すり終わると、筆に墨を含ませ、簡に思いのたけを書き付けていく。これが、遺言となるであろう。自らの事をあけすけに語るのは性に合わないが、もう、自らの意思を示す機会はないのである。
いくつかの著作を残している皇甫規・張奐に対し、生粋の武人である彼にはこれといった著作はない。もちろん、この当時の高官の一人としての十分な教養はあるのだが、慣れないだけに言葉を選びながら書いていくのにはいささか時間がかかった。もっともそれは、この時の彼にとって好都合であったのだが。
並みの人間であれば、気が動転してわけが分からなくなってもおかしくないが、彼の心は、不思議なほど透き通っていた。
(わしは、朝廷に対して何らやましい事を為した覚えはない。そのわしがこの様な事になろうとはな…)
(かの蒙恬ではないが、わしに何の罪があったのだろうか?…ふふ、その答えも似ておるかな。わしは、多くの戦いの中で、数え切れんほどの羌族を殺してきた。いかにやむを得ぬ事とはいえ、な。それを思えば、か…)
心が澄んでいくとともに、筆も進む。ふと気がつくと、そろそろ書き終わろうかというところであった。
(よし、それでは…)
段ケイ【ヒ+火+頁】は、陽球達に気付かれぬ様、懐中からそっと紙包みを取り出した。それは、附子(ぶし)であった。

附子というのは、トリカブトの塊根(子根)を乾燥させてつくられた劇薬である。うまく使えば強心・鎮痛・利尿などに優れた薬効をもたらすが、一方で、ごく少量でも人を死に至らしめるという、いささか扱いにくい代物である。
(蛇足ながら、この附子を毒として盛られた人のもがき苦しむ様の凄まじさから醜女を示す『ブス』という言葉が生まれたという)
段ケイ【ヒ+火+頁】が附子を持っていたのは、もちろん、毒として使う為である。
長く辺境で戦ってきた彼がもっとも恐れたのは、敵の虜となり生き恥を晒す事であった。李陵を見るがよい。その祖父・『飛将軍』李広に劣らぬ将器であっても、そうなったが最後、武人としての名声は失墜してしまうのである。それだけは何としても避けたい。
もし、力戦及ばず敗れる様な事があれば、虜になる前に潔く自裁しよう。そう決めていたのである。
幸いにして、戦場において用いる事はなかったが、武人の心構えとして、今まで肌身離さず持ち歩いていた。
(辺境でなく、この都で使う事になろうとはな…)
そう思うと、何とも不思議な感じがする。思わず、微笑した。もう、二度と微笑む事はなかろう。そう思うと、少しばかり感傷的な気分にもなったが、武人らしくないと思い返し、すぐに冷静さを取り戻した。
「まだですかな」
「もうじき…書き終わる」
そう答えるのとほぼ同時に、彼は附子を口に含んだ。続いて筒を手にとると、附子と水とを一気に飲み下した。口からこぼしても良い様、かなりの量を携えているから、まかり間違っても死に損なう事はない筈だ。

121 名前:左平(仮名) :2004/05/03(月) 23:34
トリカブトの毒は、調合の仕方によって様々な姿を示すといわれている。この時段ケイ【ヒ+火+頁】が求めたのは、言うまでもなく即効性であった。致死量の数倍の附子を飲み下したので、即座にその効果が現れ始める。
「ぐぐぐぐぐ…」
「ん?何だ…?」
陽球達が、牢獄から漏れる呻き声に気付いて振り返ると、段ケイ【ヒ+火+頁】は立ち上がり、凄まじい形相でこちらを睨みつけていた。
「なっ、何だ?」
(まさか、気が狂ったか?…いや、あの足元の粉末は…!!)
「紀明殿!附子を飲まれたのか!」
「そうだ…そなた、王中常侍もろとも、わしを殺すつもりであったろう…違うか?」
「だ、だからといって自ら附子を飲むとは…何を考えておられる…」
「そなたからすれば、わしは憎い敵であろう…それ故、わしを殺そうとするのは分かる…だが…そなたの思い通りにはさせんぞ…」
「…」
「わしは潔白だ…それ故、自らの最期は自ら決めさせてもらった…それぐらい良かろう…」
「見ておくが良い…この段紀明の最期を、な…。その目にしかと刻み込むが良い…」
(何を言っておる!この様な形で死なせてたまるものか!わしの気が済まぬわ!)
「おい!直ちに飲み下した附子を吐かせろ!」
「もう遅い…附子というのは、すみやかに効くからな…」
附子が効いてくると、(神経を冒す為に)普通は飲み込めないほどの唾液が出るとともに、立っている事もできなくなるという。しかし、段ケイ【ヒ+火+頁】は、壁にもたれかかりながらも辛うじて立ち続け、陽球達をじっと睨み続けた。
その気迫に押され、属官達は−陽球自身もだが−しばしの間、冷や汗を出すばかりで動く事ができなかった。
やがて−段ケイ【ヒ+火+頁】の瞳から、光が消えた。
「死んだか」
「恐らく…」
彼らの腰が引けていたのも無理もない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、目を見開き、立ったまま死んでいたのである。

「立往生」という言葉はご存知であろう。この言葉自体は、源義経の配下・武蔵坊弁慶の最期の様から生まれたもので、いささか伝説めいてはいるが、生理現象としては有り得ない話ではない。
激しい筋肉疲労、精神的衝撃などを受けて死に至った場合、死の直後にほぼ全身の筋肉が硬直する事があるという。この時の段ケイ【ヒ+火+頁】の死に様も、まさにそれであった。

「な、何をぼんやりしておるか!とっとと屍をあらためぬかっ!」
「はっ!」
「た、確かに、死んでおります…」
死体は見慣れているはずの属官達が、まだ怯えていた。それほどまでに、その形相は凄まじかったのである。
「そうか…ならばさっさとその旨上奏せねばならぬな」
「どう書けばよろしいのでしょうか」
「獄中にて詰問していたところ、罪を認め鴆毒をあおって死んだ。そう書いておけ」
「えっ?しかしそれでは…」
「いいからそう書け!」
「はっ、はい!」
(まったく…わしとて、士大夫に対する礼儀くらいわきまえておるというに…)
思わぬ抵抗を受けた陽球は、その後しばらく不機嫌であった。

122 名前: 左平(仮名) :2004/05/24(月) 00:01
六十一、

一方、その頃−

(殿!しばしお待ち下され!必ず、必ず…)
家人達は、かつて主の段ケイ【ヒ+火+頁】が推挙した者達のところに、次々と走り込んでいった。言うまでもなく、主を救うべく支援を求める為である。
「お助けください!我が主の段公が、司隷殿の属官に連れて行かれました!どうか!どうかご助力を!」
もうあたりは暗くなりつつあったが、そんな事には構っていられない。彼らは、必死に門前で訴え続けた。

しかし、反応は芳しくなかった。運良く話を聞いてもらえても、殆どの者は、ただ絶句するばかりで動こうとはしなかった。いや、それくらいならまだよい。中には、すげなく家人をつまみ出す者さえあった。
無理もない。対羌戦の英雄が、一転して罪人にされたというのである。下手に庇い立てでもしたら、かえって自分の身が危うくなる。誰もが、我が身がかわいいという事であろうか。
「出て行けっ!わしを巻き添えにするつもりかっ!」
「何と恩知らずなっ!それでもあなたは士大夫ですか!」
「何とでも言え!なんじら如き下人が何をいっても誰も聞かぬわ!」
(これが儒の教えを修めた者の態度か…!)
彼らの忘恩の態度が腹立たしかった。しかし、主を救うには、誰かの助力を仰ぐしかない。
(そうだ…董氏ならば、あるいは…)
こんなところでぐずぐずしていてもしょうがない。ここは、噂に聞く董氏(董卓)の義侠心に頼るほかない。

当時、董卓は西域戊己校尉の任にあった。文字通り、西域に睨みをきかせる要職であるから、政治的影響力という点においても十分な立場であると言えよう。ただ、董卓自身は任地に赴いているから、都から直接そこへ向かうわけにはいかない。事は一刻を争うのである。
幸い、その弟の董旻が都に居を構えている。家人は、その邸宅に向かう事にした。
(叔穎【董旻】殿の事はよく知らんが…あの董氏の弟君だから、まさか段公を見捨てる様な事はあるまい)
果たして、その期待は、裏切られなかった。

「何!段公が!」
それは、董旻にとっても大きな衝撃であり、しばしその場で体を硬直させた。しかし、その衝撃に対して思考停止の状態に陥ったりはしなかった。それだけでも、他の者達の態度とは大きく違っていた。
「して、その時の状況は?そなたが知っている限りの事を聞かせてくれ」
(さすがは董氏だ)
家人は、少し安堵した。これなら、何らかの手を打ってくれるに違いない。
「はい。司隷殿(陽球)は、主と王中常侍との関係のゆえを以って、主を連れて行きました。どういう事なのかは、私にはよく分かりませんが…。ですが、司隷殿と王中常侍とはどうも対立していた様ですので、主が危ういというのは確かです。我らは主を救うべくあちこちにご助力を求めておりますが、未だに芳しい返事を頂いておりません。司隷殿の人となりは苛酷と伺っておりますれば、ご高齢の主の体が心配でなりません」
「そうか。分かった、しばらく休んでおれ。直ちに兄上に使いを出すとともに、わしからも宮廷に問い合わせてみよう」
彼自身は、兄の董卓ほどの卓越した能力は持っていないものの、都において、兄の耳目となるべく確かな働きを見せている。この時も、彼なりに出来うる限りの措置をとろうとした。

123 名前:左平(仮名) :2004/05/24(月) 00:03
「誰かおらぬか!直ちに参内するぞ!」
「はっ!」
大急ぎで車が用意され、董旻は、とるものもとりあえず乗り込んだ。翌日になるのを待ってなどおれない。日没前に宮中に入らなければならないのである。
(この様な状況において、何を為せばよいか…)
宮中に向かう車中にあって、董旻はしばし目を閉じ、考え込んだ。この様な重大事において、兄の意思を待たずに判断を下すのは、ほとんど初めてなのである。
彼自身、段公が捕えられたという知らせに動転している。このまま参内したのではうまくものが言えないであろう。何としても、それまでに心を落ち着かせなければならないのである。
(兄上ならば…どうなさるであろうか…)
兄・董卓の顔が頭に浮かんだ。その立場に立って考えてみると、どうであろうか。
(そなた、何をぐずぐず考えておる。そなたはわしの弟であろう。わしの性分が分からぬのか?考えるまでもないではないか)
そう言っている様な気がした。そうだ、答えは一つしかない。
兄ならば、自分のあらん限りの力を振り絞って段公を救解しようとするであろう。たとえ、その為に身の破滅を招くとしても悔いる事はないはずだ。
(段公なくして、今の我らはなかった。その大恩を思えば…。そうですね、兄上)
心の中でそういう結論が出ると、幾分肚が据わってきた。あとは、全力を尽くして救解に努めるまでである。

宮中に着いた。普段であれば、どこかしら気圧されるところであるが、今日は違う。そんな状況ではない。
「至急、お取り次ぎ願いたい」
そう言う声ひとつとってみても、その違いが分かる。ややせわしない感じはするものの、普段の、おどおどとした感じは微塵もない。
「叔穎殿、いかがなされた。またえらく急いでおられる様だが」
「話は後だ。とにかく、急いでくだされ!」
「はっ?はぁ…まぁ、分かりました…。しばし、お待ちを…」
(段公、しばしのご辛抱を。涼州の者は皆、あなたの味方ですぞ)
この時、既に段ケイ【ヒ+火+頁】が壮絶な最期を遂げていた事を、董旻は知る由もなかった。


一方、董旻が兄に向けて送った使者もまた、精一杯に急いでいた。
董氏に仕える者であれば、いや、涼州に生まれ育った者であれば、たとえ敵対する者であろうとも、段公に対し篤い敬意を持っている。その人の危機を、黙って見過ごす事はできない。使者には、強い使命感があった。
「急げ、急げ!なにをもたもたしておるか!急ぐのだ!」
御するは家中随一の乗り手、馬もまた家中随一の駿馬である。しかし、それでもなお遅く感じられてならなかった。この様な状況におかれてなお斉の景公を哂う者は、まずおるまい。
(ああ、あの鳥の様に翼があれば…いやいや、そんな事を考えている場合ではない!)
気ばかりが先走るのを辛うじてこらえながら、使者はまっすぐに董卓のもとに向かっていった。

124 名前:左平(仮名) :2004/06/13(日) 23:53
六十二、

使者が董卓の在所に着いたのは、出立してからだいぶ経ってからの事であった。いかに急いでも、ここまではやはり遠い。もっとも、公式の第一報が届いたのはそれよりもさらに後だったのだが。
「大事であるっ!至急、殿にお取次ぎ願いたいっ!」
使者の、そして馬の息遣いは荒かった。顔は蒼ざめ、今にも倒れかねないほどである。ただ事ではないのは、事情を知らない者にも一目で分かった。
「しばし待っておれ。すぐに殿に取り次ぐ」
「頼む」
この時、董卓は執務中であったが、使者は直ちに目通りを許された。

「!」
豪気な董卓も、この知らせには一瞬絶句した。無理もない。都にいる董旻は、事件の背景を知っているだけにいくらか心の準備があったのに対し、董卓には全くなかったのだから。
「…直ちに叔穎殿が宮中に赴き、救解に努めておられますが…状況は予断を許しません。なにしろ、司隷殿と王中常侍の対立にまともに巻き込まれた形ですから…。宮廷内の暗闘というものは、我らにははかりかねる代物ですし…」
「そうか」
(旻の動きは、我が想いの通りである。しかし、今のあいつ一人では厳しいな…)
董卓はそう思った。弟の力量を評価していないのではない。ただ、今の董旻はこれといった顕職に就いているわけではない。宮中に対する影響力が殆どないだけに、どんなに懸命に救解に努めても、その効果はあまりないとみなければなるまい。
「わしからも、中央に嘆願の書状を奉る。直ちに書状をしたためるから、そなた、しばし待っておれ」
「はっ!」

出仕以来、一貫して自らを武人と規定してきた董卓にとっては、書状、それも非定型のものは甚だ書き慣れない代物であった。他の用件であれば側近の誰かに全て任せるところであるのだが、こればかりはそうもいかないだろう。
ただ、いい加減な文面では逆効果でさえある。用心するに越した事はない。
「誰か典故に通じた者はおらんか!」
董卓の一声で、直ちに学のあるとおぼしき属官達が呼び集められた。
「いかがなされましたか?」
皆、訝しげな表情をしていた。普段の董卓は至って鷹揚で、細かい仕事は任せきりにしているから、大勢の属官達が呼ばれる事など滅多にないというのに、一体どうしたのであろうか?そういう気持ちがありありとうかがえる。
「今から中央に書状を奉る。内容は、罪状も定かならぬままに捕えられた段公を救解する為の嘆願である。公がいかに漢朝に尽くしてこられたか、そして、その方を失う事がどれほどの損失であるか、条理を尽くして書かねばならぬ」
「はぁ…」
急な事とはいえ、何とも頼りない返答である。皆、ひとかどの教養を持った者達ではあるが、皇帝や高官達の心を動かすほどの文章力があるかとなると、この様子をみる限り、いささか心許なく思える。
「文和がおればあいつ一人で足るのだがな…」
董卓らしくないが、思わずそんなぼやきさえ漏れる。前述のとおり、現在、賈ク【言+羽】は牛輔のもとにいて、その配下である。呼び寄せようかとも思うが、事が事だけに、そういう時間の余裕もない。
「公の功績はわしが今から述べるから、そなた達はそれをもとに書け!わしがそれをまとめる!」
「…?」
「聞こえんのか!さっさと簡と筆、それに墨を用意せんか!」
「はっ、はい!」
董卓の一喝を受け、属官達はばたばたと動いた。

125 名前:左平(仮名) :2004/06/13(日) 23:55
「では話すぞ。よいな、一語一句、書き漏らしてはならぬぞ」
「…はい」
皆、神妙な面持ちである。董卓が「〜してはならぬ」と言った場合、それを守れなかったら後が怖いし、何より、あの董卓自身の神妙さをみると、とてもだらけてなどはおれない。
時は初夏。少し暑いくらいであるが、みな、汗も出ないくらいに緊張していた。

「段公は…鄭の共叔・段(春秋初期の覇者・鄭の荘公の同母弟)を遠祖とし、西域都護・(会)宗の従曾孫であらせられます…」
董卓は、まず段ケイ【ヒ+火+頁】の祖先(とされる人物)の名を挙げた。共叔・段自身は、兄の荘公に叛逆して敗れたというから、歴史上においては、さして傑出した存在というわけではない。しかし、鄭国の初代にあたる桓公・友(荘公、共叔・段の祖父)は周王の子であり、周王室と同じ姫姓という事になるから、それだけでも、どこぞの馬の骨とは違うという証になろう。
この時代にあっては、そういう出自がものをいうのである。強調するに越したことはない。
「段公は…若くして弓馬の道に通じられ、長じては古学を好まれました…」
続いて、その人となりと経歴を語った。実は、若い頃の段ケイ【ヒ+火+頁】は遊侠(任侠の徒)であり、放埓に振る舞っていたが、年を経て学問に目覚め、孝廉に挙げられたという。
その人生はなかなか波乱に富んでおり、最初からおとなしく六経を暗誦していた者とは気構えが違う。
若い頃遊侠であったという履歴は董卓にも重なるものであり、彼は、その経歴を誇りに感じてさえいた。
「段公は…辺境を荒らす鮮卑、羌族をしばしば討ち、伏波将軍(馬援。「矍鑠」という言葉はこの人の故事からきた)もかくやという戦果を挙げられました。…敵は容赦なく殲滅する一方で、兵をいつくしみ、辺境にある間、蓐に入る事もなさらず、ただひたすら漢朝の為に戦ってこられました。…京師(洛陽)に帰還なされた後は、高位を歴任し……」
そう語る中、董卓は胸が詰まる様な思いがした。

段ケイ【ヒ+火+頁】の歩んできた道は、まさに、武人としてのあるべき姿そのもの。自らが理想とするものであった。その人が、今、ゆえなくして投獄されている。
何としても、その人の危難を救いたい。その思いには、一点の偽りもなかった。
董卓の弁舌は、お世辞にも巧みなものではないが、その訥々たる言葉の数々は、その場にいた人々の胸を打つに値するものであった。もし彼が洛陽にあって救解に努める事が出来たならあるいは、とも思われたほどである。

126 名前:左平(仮名) :2004/07/12(月) 00:14
六十三、

董卓の話はかなり長いものとなったが、属官達は、その言葉を漏らさず書き留めた。続いては、その編集である。

「ここの言い方はこれでよいのか?上奏文として問題はないか?」
彼にしては、珍しく文面にこだわりを見せる。普段なら「まぁ、こんなものでよかろう」の一言で終わるところなのに。
(この様な殿のお姿は初めてだ。段公とは、それほどのお方か)
初めはわけも分からずにいた属官達も、徐々に真剣になっていった。
現在では『三人寄れば文殊の知恵』という言葉があるが、仏教がさほど普及しておらず、そういう言い方はなかった当時にあっても、多くの人々が知恵を持ち寄る事の大切さには変わりない。頼りになる賈ク【言+羽】は今ここにはいないが、皆の力を合わせれば何とかなりそうだ。董卓は、そう思い直した。
「修辞上は、他にも言い方があるでしょう。しかし、今回はあまり飾らない方がよろしいかと」
「いや、ここは別の字句を充てた方がよろしいでしょう。飾り過ぎない方がよいというのは同意ですが、やはり荘重さは必要です」
普段は手応えのない連中が、別人の様に雄弁になる。人とは、状況によっていかようにも変わり得るものだ。
「ふむ。他に意見は?」
「殿、ここは意見を求めておられる場合ではございません。殿のお言葉そのままに奏上されるのがよろしいかと…」
「しかし!あまりに生々しい言葉を奉るのはまずいですぞ!これを読まれるのは陛下お一人ではございません。他の高官の心をも動かすには…」
「そもそも殿は羽林郎として出仕なさったお方ですぞ。そのお方が普通の文官達と同じ様に奏上されてもおかしくはないか?」
「うぅむ…それはそうなのだが…」
「他には?皆の意見は?」
「僭越ながら…殿のお言葉は、充分に我々の胸を打つものでした。確かに、修辞上は若干改善すべき点もございましょうが…今は、時間がございません。細かいところは、叔穎殿に任せられてはいかがかと存じます」
「そうだな…。では、直ちにわしの言葉を書状としてまとめるのだ!急げよ!」
「はっ!」

「これを叔穎殿に。大切な上奏文だからな。くれぐれも用心しろよ」
待機していた使者に、上奏文を綴った絹布が託された。実際にはごく軽いものなのだが、やけに重く感じられる。
「承知しておる。ことは一刻を争うのだからな」
「そうだ。…頼むぞ。これには、殿ばかりでなく我らの想いも込められているのだからな」
「それも承知しておる。では、行ってくるぞ」
そう言うと、使者は馬上の人となり、脱兎の如く駆け出していった。

127 名前:左平(仮名) :2004/07/12(月) 00:16
少し気分が落ち着いたせいか、行きに比べると馬の脚が速く感じられた。ふと気がつくと、董旻邸が見える。もう少しだ。
しかし、出立した時と、何か雰囲気が違う。邸の周辺にどこか淀んだ気が纏わりついている様だ。いったい、どういう事だろうか。
(まさか…)
嫌な予感がするが、そう感じるとますます物事が悪い方向に進む様な気がする。彼は、つとめて明るく振る舞おうとした。
「殿の上奏文を持って、ただいま戻りました!門を開けてくだされ!」
くたくたに疲れきってはいたが、あらん限りの力を振り絞って声を発した。
「おぉ…よく戻られたな…」
出迎える者の声がかすれていた。さすがに頬がこけるとまではいかないが、明らかにやつれているのが分かる。邸内にいた者が、ろくに休息もとらずに長々と駆けてきた使者よりも憔悴しているとは…。
「ほれ、殿の上奏文だ!これを早く叔穎殿に渡してくれ!」
「その事だが…」
「どうした!これで段公は助かるかも知れんのだぞ!嬉しくないのか!」
「だ、段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…亡くなられていたのだ…詳しい事は分からんが、自ら毒をあおられたという…」
「!…」

その言葉を聞いた瞬間、使者の膝はがっくりと折れ、その場にへたり込んだ。体中から力が抜けていく様な気がした。自分達の行動は、全て徒労に帰したのか。その絶望感は、何とも形容し難いものであった。
「そうか…道理で、辺りに変な気が纏わりついている様に感じたわけだ…」
「邸内の者は、皆一様に嘆いていて何も手につかぬ有様だ。段公のご家族は、既に都からの退去を命じられ、辺境に流されるとの事だ。殿もこのままでは済みそうにない。よくても官位を召し上げられるだろう…」
「段公のご家族のみならず、殿にまで累が及ぶというのか?」
「そうだ…」
「そんな!殿にいったい何の過ちがあったというのだ!」
「過ちなど、あろうはずもなかろう」
「ではどうして?」
「知れたこと。司隷殿にとって、段公に恩義を受け、しかも兵権を持っている殿が健在でいられると何かと都合が悪いからな…」
「何ということだ!これ幸いと羌族や鮮卑が蠢き出したらいったいどうするつもりなのだ!今の漢朝に、段公や殿にまさる将器はおられないというのに!」

この嘆きは、決して大袈裟なものではない。この数年後に起こった大乱に際して(董卓と同じ涼州の人である)皇甫嵩という名将が出たから、今の我々は、この当時の漢朝に将器がいなかったわけではない事を理解している。しかし、この時点において少なからぬ実戦経験を有しているのは、董卓など、主に辺境にいたごく僅かな将しかいないのである。その彼を失脚させる事の重大さは、健全な危機意識を持つ者には、火を見るよりも明らかな事であった。

「それよりも、自身の地位を保つ事が大事なのであろうよ。あの連中にはな」
そんな憤った感情が、彼らの言葉の端々に現れる。普段ならこんな吐き捨てる様な物言いはしないのだが、そうでもしないと気が治まらない。
「…」
(我ら平民でも分かる事が、高位高官にある方々には分からぬのか…!)
彼らの絶望は、時が経つにつれ、ますます深まっていった。
「とにかく、これからどうするかはまた殿のご指示を仰ぐしかない。中に入ってしばし休もう」
「あぁ…。だが、眠れるかな…」
「いやでも眠っておけ。そなたには、また走ってもらわんといかんからな」
「そうだな…」
二人は、とぼとぼと邸内に入っていった。

128 名前:左平(仮名) :2004/09/05(日) 23:28
六十四、

翌朝−。

「どうだ、眠れたか」
そう聞く者自身、まだ夢うつつの中にいる感がある。あれ以来、邸内の者は皆よく眠れていないのである。
「いや、眠ろうと眼を閉じてはいたのだが…眠りが浅かったな。どうも頭がふらふらする様な感じがする」
「そうか…。じゃ、出立は明日にするか。寝ぼけたままで馬を走らせるのもまずいしな…」
「そうしたいところだが…そうもいくまい。悪い知らせだが…いや、悪い知らせだからこそ、早く伝えねばならないし…」
「そうか…そうだな…。今後の事もあるしな…」
「ところで、王中常侍達の亡骸は晒されていると聞いたが…」
「ああ。なんでも、夏城門のところに磔にされているそうだ」
「それじゃ棄市(斬首後、屍を市に晒す)と変わらんではないか。段公の亡骸は、まさかそんなところにはないだろうな」
「それはなかろう。段公は士大夫だしな。しかし…あの司隷殿だからな。心配なところではあるなぁ…」
「念の為だ。見届けておこう。その後、出立する」
「そうするか」

『賊臣王甫』
磔にされた屍の横に札が掲げられ、大きくそう書かれていた。民衆達がその屍に群がり、叩いたり蹴ったり肉を切り刻んだりする様は、いかに相手が大罪を犯した咎で誅殺された者とはいえ、何とも凄惨なものである。
ここで王甫達に同情的な言葉を吐けば、自分達も直ちにあの様にされるのではなかろうか。そう思わせるほど、王甫達は忌み嫌われていたのである。
しかし、董卓の家人である彼らにとっては、あの段公と付き合いがあったという事があるだけに、そこまで非難する事はできない。
「こ、この屍は…」
「どうだい、驚いたか?」
「そりゃまぁ…。第一、顔以外もう人間の姿じゃないし…。晒されてからまだ何日も経ってないのに、もうこんなになったってんですか?凄いな…」
「まぁな。って言うか…晒された時点でもう顔しか分からない様になってたがね」
「そんなになってたってんですか?」
(司隷殿の事だからただ殺すだけでは済まないとは思ってたが…そこまでするのか)
王甫達への同情はないが、そこまでに至る経過を考えると、思わず背筋に寒気が走った。董卓配下の一人としては、戦場では一歩も引かないという自信があるが、これはまた別ものである。
「ああ。司隷様も、また派手になさったもんよ。おかげで、こっちの楽しみが減っちまったがね」
「…。と、ところで晒されてるのはどういった連中なんです?王甫の他には?」
「ええっとな…。確か、王甫とその養子どもだ。他には…どうだったかな?まぁ、いい意味で名の知られてるやつはいなかったはずだよ」
「そうですか…」
(良かった。段公の亡骸は、どうやらご無事の様だ)
それだけが、彼らにとってのかすかな救いであった。

129 名前:左平(仮名) :2004/09/05(日) 23:30
「では…行ってくるな」
「ああ。あと、これを殿に」
「何だ、これは?」
「先ほど、段公の家人から受け取ったんだ。なんでも、公が毒をあおられる前に書かれたものの一部との事だ」
「そうか…これが、段公の絶筆という事か…」
考えれば考えるほど、気が重いつとめである。だが、行かねばならない。
「…」
乗っている人の心理が分かるのであろうか。馬もまた、驚くほど静かに走った。もっとも、息が切れるほどに走った場合に比べても、思ったほど速さは変わらなかったのだが。


「殿に…お取次ぎを…頼む…」
「ど、どうしたのだ?まるで消え入りそうな声ではないか。具合でも悪いのか?」
「これを…殿にお見せいただければ分かる…」

「なに?使いの者が戻ってきたとな?」
「はい。ただ…やけに憔悴しておる様です。あれはどうも、疲れのせいというわけではなさそうです」
「ふむ…。気になるな」
「こちらを…」
「うむ…な!何と!」
「殿!いかがなさいましたか!」
「これは…段公の遺言ではないか!どういう事だ、これは!」
「はい。段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…ですから、私めがここに着き殿にご報告するよりも前に…亡くなられていたのだそうです…。何でも、自ら毒をあおられたそうで…」
「では我らの努力は烏有に帰したという事ですか…。それでそこには何と書かれているのですか」
「う、うむ…。自裁に至る経緯、ご自身の潔白の主張、身辺の整理のご依頼、それに…」
「それに?」
「かつて推挙なさったこのわしに対し…武人としての訓戒を…遺しておられる…」
董卓の脳裏に、前線で颯爽と指揮を振るう段ケイ【ヒ+火+頁】の姿が浮かび、そして消えた。その姿が消え去った瞬間、自分の中からも何かが消えていく様な、そんな気がした。

130 名前:左平(仮名) :2004/10/11(月) 01:16
六十五、

その数日後。都から公式の使者がやって来た。
それは、王甫達の失脚、それに巻き込まれる形での段ケイ【ヒ+火+頁】の自死、そして…董卓自身が、段ケイ【ヒ+火+頁】に連座し、西域戊己校尉から罷免される旨を告げるものであった。もちろんと言うべきか、次の官位についての言及はなかった。
自身の罷免自体には、さしたる驚きはなかった。そもそも、公式の使者が着く以前にこの情報を入手していたのだから、一応の覚悟はできている。だが、分かってはいても、董卓の心身への衝撃は大きいものがあった。
あの日以来、どうも体の調子が思わしくない。今までこれといった病になった事のない彼にとっては、あらゆる意味で、どこか重苦しい日々が続いていたのである。

「皆の者。本日をもって、わしはこの地位を去る事になった。後任の方がどなたであるか、その方の方針がいかなるものであるかは、おって沙汰があるからそれを待つ様に。それまで、滞りなく各々の職分を全うするのだ。よいな」
離任する董卓の声には全く張りがなく、その失意のほどがありありとうかがえた。
無理もない。これは、連座による失脚なのである。自身の過ちによるものであればいずれ挽回する機会もあろうが、そういう性質のものではないだけに、彼自身の力では如何ともしがたく、それだけに精神的にこたえるのである。
段ケイ【ヒ+火+頁】を自死に追いやった陽球が高位にある限り、官界への復帰の目処はまずなかろう。いや、陽球が致仕(官職を辞する≒引退)したとしても、その影響力が残っている限りは…。
蓄えは十分にあるし、所有している土地や家畜からの収益があるので、とりあえずの生活には困らないとはいえ、官界に身を置く者としては、これほど惨めな事はない。下手をすると、生涯、その手腕を振るう機会を奪われてしまうのであるから、無理もないところではある。

「はっ!我ら、謹んで自らの職務を全ういたします!」
そう答える属官達の声にも、董卓と同様、冴えがなかった。それもそのはず。彼らにとっても、これは決して望ましい事態ではないのである。いかに連座によるものとはいえ、上司が何らかの咎を受ける形で罷免されたとなると、彼らの将来にも良からぬ影響をもたらすに違いないのだから。
その思惑に多少の違いがあるにせよ、彼らの前途は決して明るいものではない。別れの席は、普段の彼らにはそぐわない、至って湿っぽいものとなった。


かくして、董卓は十数年ぶりに無官の身となった。

このあたりの人士で、彼ほど「謹慎」という言葉が似合わない者はいないであろう。それは、自他共に認めるところである。ましてや、この件について言えば董卓自身には全く非はないのであるから、何らかの形で一暴れしそうなところである。
しかし、自邸から一歩も出ない日々が続いた。いったい、どういう事だろうか。
「分からんな」
周囲の人々は、皆、一様に首を捻った。それもそのはず、本人でさえ、その理由は分からなかったのである。

131 名前: 左平(仮名) :2004/10/11(月) 01:16
「ねぇ、あなた。いったいいかがなさったのですか?ここのところ随分ごぶさたですし、室からもあまりお出にならないし…」
謹慎?し始めてから数日が経ったある日、瑠がそう切り出してきた。もう二十年以上も連れ添ってきた妻でさえ、今回の彼の沈黙に対する戸惑いは隠せないのである。
「瑠か。いや、それがな…。どういうわけか、何もする気が起こらんのだよ」
そう答える董卓の声は、相変わらず張りが乏しい。気のせいか、顔色もすぐれない様に見える。
「何もする気がしない?どういう事ですか?」
「それはわしにもよく分からんのだ。普段なら、こんないい天気だ、狩りにでも出るか、それでもって、鹿の一頭も仕留めてやるか、と張り切るところなのだがなぁ…」
「それは…。あなた、ひょっとして、どこかお悪いのではないですか?ここのところ、気疲れなさっていた様ですし…」
「そうだな…。段公の事があったからなぁ…」
「段公の事は…。お気持ちは分かりますが、いつまでもあなたが気落ちなさっていても…」
「うむ…」
「一度、診ていただいた方がよろしいのではないですか?」
「そうだな。鍼でも打ってもらって楽になるか」
「そうですよ。そうなさってください」

「ふむふむ…」
診察は、思ったよりも長いものとなった。もちろん、診察が済みもしないのに鍼を打つという事はない。
「いかがですか」
「これは…ちょっと難しいですな」
「む、難しいとは?治らないとでも?」
「いや、そういうのとは違います。…ご存知のとおり、私が扱っておりますのは鍼です。お体に何かしらの病巣があるというのでしたら、それが膏肓(こうもう:心臓の下、横隔膜の上。鍼灸では手の打ち様がない所)にでもない限りは、何とか致しましょう。しかし、今の殿様の患いには形を持った病巣はございません。ですので、私にはどうにも出来ないのです」
「病巣は無い、とな…。では、どうして気分がすぐれぬのだ?」
「それは、ご自身がよくご存知でしょう。ほら、『病は気から』という事ですよ。近頃、気落ちする様な出来事はありませんでしたか。ありましたよね。そのせいです」
「気、か…。確かに、覚えはある…」
「ですから、何か気晴らしをなさるのがよろしいかと。今のところ、私からはそれくらいしか申し上げられません」
「分かった」
(気晴らし、か。では、やはり狩りにでも出るか…)
いま一つ気乗りがしないが、今の彼にとっての気晴らしは、それくらいしかない。

「皆の者。明朝、晴天であったら狩りに出るぞ。支度をしておけ」
「はっ、承知致しました」
(これで殿がよくなってくだされば良いのだが…)
家人達にとっても、主君の体調は気がかりなのである。

132 名前:左平(仮名) :2004/11/23(火) 22:33
六十六、

翌朝−。

家人達の願いが叶ったのであろうか、見事な晴天となった。夜明けとともに邸内に陽光がさし込んでくるその様は、一種の神々しささえ感じさせた。
「よい日和だ。これならば…」
家人達も、がぜん張り切っていた。正直言って、彼らにとっては主の官位などはどうでもよい事。ただ、主が気落ちしていると、邸内の全てが暗くなってしまう様な気がするだけに、何としてでも今日の狩りをよいものにしたいところである。

「うむ。よく晴れたなぁ…」
起き上がり、天を見上げてそう言ったところで、董卓はふと軽いめまいを覚えた。
(う、うむ…。どうした事かな。これはいかん。だが…皆が今日の狩りを楽しみにしておるからなぁ…)
相変わらず、どうも気分がすぐれないのだが、今になって自分が行かないと言うわけにもいかない。いくら豪放な彼でも、配下の者達に余計な心配をさせるほど無頓着ではないのである。

「よし。支度は整ったな。では行ってくるぞ!」
「はい!お気をつけて!」
そう言うや否や、董卓と配下達は猛然と門を出て馬を走らせた。戎衣こそ身にまとってはいないものの、その様は、狩りではなく出陣かと見紛うほどに勇壮なものであった。
「おぉ、董氏が狩りに出られたのか。また賑やかな事で」
近隣の人々は、口々にそう言いあった。言葉尻だけ捉えると厭味に聞こえるかも知れないが、彼らには、董卓に対する悪感情は無い。
「やはり、こうでないとな」
ふと誰かがもらしたこの言葉が、彼らの思いを代弁していた。やはり、普段どおりでいてもらうのが一番落ち着くのである。

しばらく駆けたところで、一行の足が止まった。
「ここらあたり、いかがでしょうか」
配下の一人がそう言い出した。彼は、この日の為に何回も足を運んで実地を検分している。その自信からか、その表情はすこぶる明るい。
「うむ…。草木も程よくあり、水もあるな。これなら、獲物も多そうだ」
さすがに血が騒ぐのか、董卓の顔にも幾許かの明るさがみられた。誰もが、この日の狩りの成功を信じて疑わなかった。

「殿!ごらん下され!」
「おっ!これはまた大物だな!よし、皆の者!行くぞ!」
「おぅ!」
「それそれぇ−っ!」
主が邸内に篭もっていた為にしばし無聊をかこっていたとはいえ、さすがに歴戦のつわもの達である。ひとたび獲物を見つけるや、巧みな動きで徐々に徐々に獲物を追い詰めていく。
いつしか、包囲の輪が数丈程度に縮まっていた。頃合は良し。そろそろ、仕留めるか。皆がそう思ったその時、董卓の合図が下った。
(さすがは殿。このあたりの勘はまだまだご健在だ)
家人達の心に、安堵感が広がった。それなら、存分に働くとしよう。
「よっしゃぁ−!行くぞ−っ!!」
「おぉ!!」
そう叫んだかと思うと、皆、一斉に獲物めがけて突進していった。猛烈な砂埃が舞い、血と汗の臭いが辺りに立ち込める。

133 名前:左平(仮名):2004/11/23(火) 22:34
「皆の者、首尾はどうだ?」
一段落ついたところで、董卓は、そう聞いてまわった。長時間駆け回り獲物と格闘した為、さすがに皆の呼吸は荒いものの、総じて機嫌の良さそうな顔をしている。今日の狩りは、成功裏に終わったと言えそうだ。
「殿、ご覧下され。この通りです」
家人の一人が、満面の笑みを浮かべて獲物を差し出した。
「うむ。それは何より…」
そこまで言いかけたところで、董卓の脳裏に、ある記憶が浮かんできた。

(そういえば、いつか、この様な事があったなぁ…)

それは、董卓が段ケイ【ヒ+火+頁】の推挙によって、三公の掾(属官)に任官した頃の事である。
任官の祝いも兼ねて、段ケイ【ヒ+火+頁】とともに狩りに出た事があった。その日も、今日と同様晴天に恵まれ、獲物も多かった。

ともに涼州の出身で、勇将。なおかつ、若き日には遊侠を自任していたという様に、その経歴に共通点が多いという事もあってか、二人はどこか気が合った。
段公は、自分の事を高く評価していた。董卓はそう信じていた。それは、決して妄想ではない。そうでなければ、段公ともあろうお方が、あの様な言葉を口にするはずもないからだ。

「公よ、いかがですか」
「ほほぅ、なかなかやるな。わしの目に狂いは無かった。嬉しいぞ」
「過分なまでのご褒詞を賜りまして、董仲穎、これほど嬉しい事はございません」
「なになに、ちっとも過分ではないぞ。…わしはむやみに人を褒めたりはせん。本心からそなたの力量を買っておるからこそ、こう言っておるのだ」
あの日、段公に褒められた事が心底嬉しかった。あの日の自分は、今のこの男の様に、満面の笑みを浮かべていたのであろうか。
「若い頃のわしと比べてもいささかも劣らん。いや、武芸についてはまさっておるかな」
「ご謙遜を。公はまだまだ壮健にあらせられるかと存じますが」
「わしももう年だからな、さすがに無理はきかん。もう前線に立つ事はなかろう」
「そうなのですか…。しかし、公でしたら、きっと三公の位にまで昇られるかと存じます」
「ふむ、そうかな。まぁ、それはそれだ。仲穎よ」
「はい」
「頼むぞ」
「は?何を…」
「これからの辺境の守りを、だ。わしがいなくなったとなると、また賊どもが暴れるやも知れんからな。その時、漢を守るのはそなただ」
「は、はい!」
「その事を忘れるでないぞ。良いな」
「董仲穎、そのお言葉を決して忘れませぬ」
「うむ」
その時の段公の顔には、何とも言えないほどの笑みが浮かんでいた。

あの日、皆上機嫌だった。あの日…。もう決して戻ってはこないあの日…。

134 名前:左平(仮名):2005/07/19(火) 23:42
六十七、

「殿?いかがなさいましたか?」
「ん?」
「この者の仕留めた獲物はいかがでしょうか?」
「おぉ、なかなかやるではないか。褒めてつかわすぞ。わしも負けてはおられぬな」
「いやいや、殿の仕留められた獲物も大物ばかりではございませんか」
「なになに。このくらい、いつでも仕留めてみせるぞ」

(…おっと、いかんいかん。このわしとしたことが)
この様な楽しむべき場でしんみりとしてしまうとは何事か。わしらしくもない。董卓は、自らにそう言い聞かせた。
しかし、ひとたび段公に想いが向くと、なかなかそこから抜け出せなくなるのもまた事実。
いかに段公の自死が衝撃的な出来事であったとはいえ、こんなにも尾を引く事は今までにはなかっただけに、戸惑いを禁じ得ない。
半ば無理やりに笑みを浮かべ、何とかその場はしのいだ。せっかく家人達が一生懸命に自分を気遣ってくれているのに、それを無駄にはできないのである。しかし、気分はいっこうに良くならない。いや、かえって前より悪くなってしまったかも知れない。
(一体どうしたものか…)
何とか、自力でこの状態から脱しなければならない。しかし…


−この時董卓は、今でいう鬱病にかかっていた様である。それも、気力が著しく減退し、肉体にも具体的な変化が現れるほどの重症であった。
現在では、鬱病の治療法は第一に休養をとる事とされており(投薬等の具体的な治療は休養の後に行う。現在では有効な薬剤もあるというから、適切な診察を受ければ回復は可能)、また、下手な励ましや気晴らしは逆効果になりかねないとして避けるというから、この時周囲がとった行動は、その想いとは裏腹に、最悪のものだったと言えるのである。−


もちろん、その様な事など、誰も知る由もなかった。
この狩りで、いくらかでも気が晴れて心身とも壮健さを取り戻してくださる…。そう信じてやまなかったのである。

「よし、では、そろそろ帰るぞ」
「はっ!」
董卓の合図をうけ、皆、意気揚々と帰途についた。ただ一人、董卓を除いては。
何も慌てる必要はないが、多くの獲物を得たことを早く知らしめたかったのか、その足は、驚くほど速かった。

135 名前:左平(仮名):2005/07/19(火) 23:44
「ただいま戻りましたぞ!」
「おぉ、意外と早かったですな。で、成果はいかほどで?」
「まぁ、これを御覧くだされ!」
「ほぅ、これはまた見事なもんだ」
「でしょ?ささ、はやく宴の支度を。今宵はぱぁ−っといきましょうよ、ね、殿」
「んっ?!ん、そうだな…」
「分かりました!では、早速。酒も用意しませんとな。久々に、賑やかにいきましょうか」
主も了承済みとなれば、話が早い。狩りに随行していた者達までもが、一斉に邸内に駆け込み、支度にとりかかる。
(おいおい、こりゃまたえらい早業だな…)
主の董卓が半ば呆れつつ見守る中、誰が指示するでもなく、てきぱきと宴の支度が整えられていった。
老若男女を問わず、皆、目が回るほどの忙しさである。しかし、楽しげであった。なにしろ、久々の宴なのだ。

まず、家人達が総出で獲物を解体する。小さい獲物であれば子供でも何とかなるが、大物だとなかなかそうもいかない。どうしても大人数人が仮になる。
「よ−し、じゃ、さばくぞ。え−と、このあたりかな…」
家人の一人が、恐る恐る刃先を獲物の皮にあてがう。
「おい、何やってんだよ。そんなところからやったら骨に当たって刃こぼれしちまうぞ。おれに代われ」
「え〜。おまえ、そう言っていいとこ持ってこうってんじゃねぇのか?」
「何言ってんだ。肉を切るのはおれでも、仕分けられるのは殿だそ。ね、殿」
「まぁな」
「なっ。殿もああおっしゃってるんだし。おれに任せとけって」
「しょうがねぇな。代わってやるよ。ちゃんと切れよ。変に切ったら、あとが面倒だからな」
「よ〜し、それじゃ。…おっと、炭を用意しとけよ。生肉ばっかりじゃ何だからな」
「分かってるって。そのへんは抜かりなく整えてるよ。羹もこしらえときたいしな」
「おっと。そう言ってて塩忘れてたってのはなしだぞ。こないだみたいな目にあっちゃかなわんからな」
「へへ、やけによく覚えてやがるな。いつの話だよ」
「当たり前だ。塩気なしの羹なんざ、まずいことこの上ねぇからな」
「ありゃたまたまだ。殿も召し上がるってのにそんなへまはしねぇよ」
「言いやがったな。今日は抜かるなよ」
「分かってるって」
「あと、臭みをとるのも忘れんなよ。血の臭みが残ったままじゃまずいからな」

主の気風を受けてか、皆、闊達に動き回っている。生きていることを、精一杯享受している様である。
(段公…)
またしても、段ケイ【ヒ+火+頁】に想いが及んだ。なかなか、おさまってくれそうにない。

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