ロボットによるスパムを排除するため、全板でキャップ必須にしました!

書き込みをされる方は、必ずメール欄に #chronica と入力してください。

お手数をお掛けしますが、ご理解ご協力の程、よろしくお願いいたしますm( _ _ )m


■掲示板に戻る■ 全部 1- 101- 最新50 read.htmlに切り替える
■ 小説 『牛氏』 第一部

1 名前:左平(仮名):2003/01/01(水) 00:31
以前から書き込んでましたネタ、まだまだ練られておりませんが、見切り発車致します。
ここ数日、毎日数行ずつ書く様にしておりますが、ネタの貯金をしつつ進むつもりですので、ペ−スは分かりません。
以前の様に、週一ペ−スとはいきそうにありませんので、悪しからず。

予定では、三部構成となっております(それぞれ何回くらいになるかは全く未定です)。

なお、感想などは、雑談スレッドか新規スレッドにてお願いします。
では…

2 名前:左平(仮名):2003/01/01(水) 00:33
一、

「父上、輔です。お呼びでしょうか」
「輔か。ちと話がある。入れ」
「では、失礼します」
そう言うと、青年は父の居室に入った。季節は、冬から春に変わろうとしており、柔らかな日差しが室内に差し込んでいる。
これより少し前の建寧二【西暦169】年に、中央では「党錮の禁」(第二次)という大事件が発生していたのであるが、この地には、その影響は及んでいない。
(一体何の話だろう?)
彼には、父が話そうとしている事が何であるか、さっぱり分からなかった。


ここは、涼州・隴西郡、狄道。旧都・長安から渭水を遡り、さらに西方にある邑である。中原の人々から見れば、辺境としか言い様のない所だが、彼ら牛氏一族は数代前からこの地に住み続けている。

彼らの遠祖は、殷(商)王朝最後の王にして暴君としての伝説で知られる紂王の兄で、春秋・戦国時代の宋国の祖である微子啓とも言われるが、事実は定かではない。
伝説が事実であるならば、彼らの出自は中原という事になるのであるが、では何故、この地にいるであろうか。それは、数代前の先祖である、牛邯に遡る。

牛邯、字は孺卿。漢が王莽によって簒奪され、天下が乱れた時、彼は、隴西に割拠した隗囂という群雄に仕え、有力な部将として活躍していた。だが、建武八【西暦32】年、光武帝の意を受けた知人・王遵の説得に応じ、光武帝に帰順した。
これがきっかけで、隗囂配下の大将十三人・属県十六、軍士十万余人が光武帝に投降し、形勢は一気に光武帝有利に転じたというのであるから、結果的には、彼の帰趨が両勢力の命運を左右したといえる。牛邯は、それほどの大物であった。
帰順後、班彪(『漢書』の著者・班固の父)の提言により設置された護羌校尉(羌族を統御管轄する官。治所は狄道に置かれた)という官に任ぜられ、対西方の重責を担った。彼が亡くなった途端、羌族が叛乱を起こしたという事からしても、その存在の大きさが伺える。護羌校尉という官職は、その後廃止されていた時期もあるし、牛氏一族が多く任ぜられたというわけでもない。
しかし、牛氏一族は、牛邯を誇りとし、あえて狄道に留まり続けた。

狄道に留まるという選択は、決して楽なものではなかった。漢王朝が羌族に対して移住政策をとった結果、狄道の周辺は漢人よりも羌族が多く、しかも、羌族はしばしば叛乱を起こしたからである。
中でも、安帝の御世に起こった叛乱は凄まじく、数万の漢軍がたびたび敗北を喫したのみならず、諸郡の治所を内地に撤退させたほどである。その時には、隴西郡の治所も狄道から襄武へ移され、牛氏もしばしの流浪を余儀なくされた。それだけに、牛氏一族の、羌族に対する敵対意識は強かったのである。
もっとも、羌族からすると、「叛乱するは我にあり」という気持ちであったろう。なにしろ、彼らは歴史にその名を表してからというもの、その殆どの時期において、中華によって抑圧されてきたのだから。
太古・殷王朝期においては、彼らはしばしば狩りや生贄の対象とされた。儀礼においては、「羌三十人を宜(ころ)す」とか「百羌を箙(ひら)き」という様に、人ではなく獣として扱われていたのである。
一部の者は抑圧に耐えかねて蜂起した。西方において実力を蓄えていた周に呼応して殷王朝を打倒した彼らは、その功によって各地に封ぜられた(斉国の祖である太公望もその一人であるという)。領地を与えられた者達は、広く婚姻関係を結び、徐々に中原の人々に同化していったのである。しかし、その他の少なからぬ者達は、さらに西方に移っていった。
もともと羌族は、羊を飼いならして各地を移動し、山岳を信仰の対象とする穏やかな民であったという。しかし、長きにわたる抑圧と、西方騎馬民族の影響を受けた事で、徐々に、戦闘的な騎馬民族の性質を持つ様になっていった。

3 名前:左平(仮名):2003/01/01(水) 00:34
この様な事情があった為、牛氏一族と周囲の人々との間には、常に緊張感が漂っていた。牛輔も、幼い時から否応なしにその事を意識させられていた。
周りの子供達と遊ぼうとしても、仲間に入れてもらえなかった。名門・牛氏の嫡男という事もあって、さすがに、いじめられるという事はなかったが、いつも冷めた目で見られている様な気がしてならなかった。その冷たい視線を避けようとすれば、一人、自室にこもるしかなかった。彼の心は、どこか満たされないままであった。
彼の心が満たされない理由は、この他にもう一つあった。物心がついた頃、彼には母親がいなかったのである。いや、いる事はいたのであるが、彼女は、実の母親ではなかった。
「私の母上はどちらにおられるのですか?」
「おまえの母上は、そこにおられるではないか」
父に向かって急にそういう事を話しかけ、父を困らせたりもしたらしい。


「父上。話とは、一体…」
「まぁ、そうせかすな。そこに座れ」
「はい」
父に促され、牛輔は席についた。
「実はな…。おまえに、縁談が来ているのだ」
「縁談、ですか…」


自分の人生の一大事だという割には、落ち着いたものであった。こう言うと、いかにも彼が冷静沈着であるかの様に思われるだろうが、そういうのとはちょっと違う。
古代中国においては、男子は、二十歳で加冠の儀を行い、成人したものとされる(二十歳の事を「弱冠」というのはこれに由来する)。成人したという事は、一人前の男であるから、当然妻帯してもよいものとされるわけである。古礼では、三十で娶るとされている様であるが、実際のところはもっと早かったであろう。
彼は、この時既に加冠の儀を終えていたから、こういう話があっても何の不思議もない。ましてや、嫡男である。もっと早くから話があっても良いくらいであった。

嫡男である自分は、うかつな事をしてはならない。牛輔は、家族内における自分の立場というものをよく理解している。それ故、この数年は、悶々とした日々を過ごしていた。
大族である牛氏の邸宅には、多くの召使たちが働いている。もちろん、その中には妙齢の女性もいる。主人が下女に手を出し、妾にしたり子を産ませたりという事は、古来からままある事である。しかし、彼には、それができなかった。してはならないと、自分を律していたのである。色っぽい下女に手を出したいという欲求に駆られながらも、今までずっとそれを抑えてきている。
(弟は、もう女というものを知っている様だ。なのに、私は…)
縁談については、本音では、大喜びである。これで、堂々と女を抱けるのだから。もちろん、父に向かってそんな態度をとる事はできないのであるが。


「それで…相手の方は、いかなるお方でしょうか」
「知りたいか」
「それはもう」
「相手は…先年の并州での戦いで大功を立てられた、董郎中(董卓。并州での戦いの後、羽林郎から郎中に任ぜられた)殿のご息女だ。名を、姜という。確か、十五、六といったところであったか」
「と、董郎中殿のご息女!?」
牛輔は、仰天した。想像だにしなかった相手である。

4 名前:左平(仮名):2003/01/04(土) 02:18
二、

牛輔が驚いたのも、無理はない。董卓なる人物と牛氏が縁戚になる事など、普通、考えもつかない事だったからである。その理由は、二つある。

一つは、牛氏が牛邯以来の名族であるのに対し、董氏には、そういう背景が全くない事である。董卓の父・董君雅(当時、名に二文字使う事は少ないので、君雅は字ではないかと思われる)は、最終官職でさえ潁川郡綸氏県の尉(県内の警察権を持つ)にすぎないという下級官吏であった。祖父以前の先祖については、全く分からない。漢王朝の、対西方の責任者ともいえる要職・護羌校尉(やや時代は下るが、三国時代においては涼州刺史と兼任であった)を出した牛氏とは、とうていつりあいがとれないのである。
もう一つは、董卓という人物が、当時の価値観とは大きくずれる人物であった事である。その振る舞いは、隴西の、心有る人々の顰蹙を買っていた。なにしろ、漢に対してしばしば叛乱を起こした羌族の族長たちと深い交友関係を持っていたのであるから。
しかし、董卓自身はその事を誇ってさえいた。今の彼があるのは、彼らのおかげなのであるから。彼らとの交友によって、董卓は出世のきっかけをつかんだのである。


董卓は、若い頃から血気盛んであり、郷里で無為に時を過ごす事を潔しとはしなかった。とはいえ、都に出て学問に励もうという気もなかった。史書に「有謀」とある様に、頭が悪いというわけではないのだが、人並み外れた膂力の持ち主である彼にとって、静かに学問に励むというのはどうも性に合わないのである。
その、若い血が騒ぐままに、各地を放浪した事があったのだが、その時に、羌族の族長たちと交友を結んだのである。
漢人として生まれ育ったとはいえ、董卓の気質は、礼教に凝り固まった漢のそれとは合わなかった。羌族との出会いは、そんな彼の心を和ませたのかも知れない。羌族の人々も、そんな彼の事を、好ましく思った様である。彼らは、たちまちに親しくなった。

旅を終えて郷里に戻った董卓は、一応は農耕に励んだものの、余り気乗りがしなかった。そんな頃、羌族の族長たちが、彼のもとを訪れた。董卓は、農作業に使う牛を殺し、その肉を振る舞った。この事が、彼らをいたく感動させた。なにしろ、当時の董卓は貧しく、その牛一頭しか飼っていなかったのである。いくら親しいとはいえ、かくも大事な財産を使ってもてなすというのは、並大抵の事ではない。
羌族は、元来は素朴な遊牧の民である。受けた恩義は必ず返す。彼らは、自らの牛馬を持ち寄り、千頭あまりを董卓に贈ったという。当時、牛馬の価値は非常に高かった(動力源でもあり、乗り物でもあり、食肉になり、皮革製品になり…。その用途は、現代のそれよりもはるかに広く、数頭でも一財産である)。それを千頭となれば、その価値はいかばかりであったろうか。人には、親切にするものである。

人間の社会というものには、少なからず矛盾というものが存在する。この時代も、例外ではない。何より礼教を重んずるとはいいながらも、そうではないところもまた多かったのである。
礼教という観点から見れば、董卓という人物は、お世辞にも立派な人物ではなかった。しかし彼は、父の代からは想像もつかないほど立身した。その背景にあったのは、彼自身の能力もさる事ながら、間違いなく、この時に羌族から贈られた牛馬によってもたらされた富の力によるものであったろう。

やがて、董卓は郡に出仕した。賊の取り締まりに活躍し、三公の掾(属官)に推挙されたともいう。
先代の桓帝の末年(桓帝が崩じたのは、永康元【西暦167】年なので、牛輔と董卓の娘の縁談が進みつつあったこの時より数年前)、董卓は羽林郎に任ぜられた。
羽林郎とは、隴西郡をはじめとする西北の六郡(隴西・漢陽・安定・北地・上郡・西河郡。なお、漢陽=天水)の良家の子弟を選んで任ぜられる郎官である。良家といっても、商人・工人・芸人などの職業を除く家という程度の事であるから、全員が名族の出というわけではないであろうが、れっきとした中央の官位であり、県長級の俸禄を得るという、なかなかの高位である。この当時、名族でない者がなるのは、相当珍しい事であった。

5 名前:左平(仮名):2003/01/04(土) 02:19
(ほう、あの男が羽林郎とはのぅ…)
董卓の立身は、郡内の人々を驚かせた。しかし、彼の活躍はなおも続くのである。

羽林郎に任ぜられてからほどなく、匈奴中郎将の張奐に従い、その軍の司馬として羌族との戦いに加わる事になった。董卓は、羌族の中に多くの知己を持っており、彼らの事を知り尽くしていた。その故の人事であろう。
羌族は、多くの部族に分かれている。彼も、全ての部族と親しくしたわけではない。戦う事については、別段後ろめたい思いをする事もなかった。
董卓の活躍もあって、この戦いは漢軍が勝利した。戦の後、張奐は、恩賞として絹九千匹(一匹=四丈=約9,2m)を彼に与えた。しかし、彼はそれを受け取らず、全て配下の者たちに分け与えたという。
【日本においても、似た様な例がある。平安時代の名将・源(八幡太郎)義家にまつわる話がそれである。彼は、東北で起こった大乱・後三年の役を鎮圧したものの、私的な戦であるとされた為、朝廷からの恩賞は出なかった。すると、彼は、自らの私財を割いて配下の者たちに恩賞を与えたという。義家といえば、雁の列の乱れから伏兵を察知したという逸話もあるから、漢籍の知識も相当あったと思われるが、董卓の、この話はどうであったろうか】
この一事により、ますます董卓の名は高まった。配下を思う心が篤く、また、私欲が薄い。この当時にあっては、彼は、まぎれもない名将であった。
この功績と名声により、彼は郎中に任ぜられた。それとともに、張奐の尽力により、一族と共に、弘農への移住を許されたのである。牛氏との縁談という話が持ち上がってきたのは、ちょうどそんな頃であった。


当時の縁談というものは、その時まで相手の顔も知らないままに進められる事が殆どであった。いや、名前さえも知らされなかったかも知れない。もちろん、当人の意志は全く反映されない事は言うまでもない。牛輔の場合も、そうであった。
相手が自分の意に沿わぬからといって、断る事などできるわけもない。ましてや、相手の父親は、あの董卓である。これからどうなる事やら。

「董郎中殿の方も、この話には乗り気でな」
父は、最後にさらりとそう付け加えた。その口ぶりからすると、父の方からこの縁談をもちかけたという事か。それを聞いた牛輔の心に緊張が走る。どうやら、この話からは逃れられそうにない。
あの董卓の娘。一体、どんな娘なのであろうか。それより何より、董卓が自分の岳父になるという事実をどう捉えればよいのか。
「そうですか」
そう答えるのがやっとであった。
「近く、納采の儀(結婚の六礼の一つ。男子側から結婚を申し込んだ後、礼物を女子の家に贈る)が行われる予定である。これから、何かと忙しくなるぞ」
「はい」
「話は、以上だ」
「はい。では、失礼します」
牛輔は席から立ち、退出した。
(董郎中殿の娘と…。どうしてまたそういう話に…)
彼の頭は、しばらく混乱したままだった。自分の居室に戻り、横になったものの、どうも落ち着かない。

6 名前:左平(仮名):2003/01/05(日) 23:52
三、

夜。天空には、月と星が輝いている。そして、地上には、一人それを見つめる男がいた。人並み外れた巨躯を持つその男の名は、董卓という。
一人夜空を見つめているからといって、別段、何か考えていたというわけではない。ただ、月が美しかったから、それを眺めつつ酒を呑んでいたのである。風は少し冷たいが、なに、大した事ではない。

「お父様。わたしの夫となられる方が決まったそうですね」
後ろから、声をかける者がいる。愛娘の、姜である。愛らしい顔つきといい、小柄な体つきといい、母親の瑠によく似ている。十五、六というと、まだまだ幼いと思われるだろうが、古代中国においては、女子は、十五歳で笄礼を行い、成人したものとされるから、もう結婚の事をいっても不思議はないのである。
【『韓非子』外儲説右下篇に、斉の桓公が「丈夫は二十にして室有り、婦人は十五にして嫁せよ(男子は二十歳で妻を娶れ。女子は、十五歳で嫁に行け)」と布告した、という話がある】
「あぁ、そうだよ」
振り返った董卓が、そう答える。戦場で敵と対峙する時の鬼気迫る姿からは想像もつかないほど、その顔は穏やかであった。平時だからという事もあるが、彼は、家庭愛が強いのである。特に、娘の姜には甘い。
「お相手は、どんな方ですの?」
少し甘えた口調で、父に尋ねる。そんな口ぶりも、母親に似ている。

「牛氏の嫡子で、名を輔、字を伯扶(この作品中での字:実際の字は不明)という。まぁ、隴西の牛氏といえば、なかなかの名門ではあるな」
「家の事ではございませんよ。わたしは、伯扶様の事を知りたいのです」
「あぁ、伯扶殿の事か。…まぁ、実のところを言うと、わしもよく知らぬのだ。真面目で、もの静かな青年という事だがな。まだ会った事はない。容貌は、なかなからしいな」
「もの静かな青年、ですか…」
姜は、少々戸惑いを覚えた。父とは全く性質の異なる人物らしい。どの様に接すれば良いのだろうか。その様子をみた董卓が、さりげなく尋ねる。
「不満か? 不満なら、無理せずとも良い。この話をなかった事にしても良いのだぞ」
もちろん、牛氏との縁談は、董卓にとっても望むところではある。一族と共に弘農に移住したとはいえ、郷里である隴西に影響力を残そうとすれば、その地の名族と結びつくのが最も良い方法なのであるから。しかし、姜の意に沿わぬのであれば、無理をする必要はない。彼は、本気でそう考えていた。
「いえ、不満というのではないのですが…。男の方の事はさっぱり分かりませんから、少し不安なんです」
「不安か。ふふっ、瑠が聞いたら何と言うかな?」
董卓は、少しからかう様に言った。
「お母様と一緒にしないで下さいよ。お母様の場合は、結婚前からお父様の事を知ってたし、好きだったそうじゃありませんか。お爺様に言われて牛馬を届けた際に、そのまま嫁いだって…。わたしは、伯扶様の事は何も分からないし、好きも嫌いもないし…」
「まぁな。わしも、あれには驚いたもんだぞ。羌族の女とは何と大胆なんだってな。どうだ、おまえも、納采の儀の前に伯扶殿の胸に飛び込んでみるか?」
「そんな! そんな事をして伯扶様に嫌われでもしたら、わたしは…」
姜は、声を詰まらせた。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「冗談だよ。わしと瑠は特別だ」
董卓は、そうなだめた。

「まぁ、二人ともどうしたのです? まだ起きてたのですか?」
そう聞いてきたのは、正妻の瑠である。子供達は既に十代に達しているとはいえ、彼女が董卓のもとに嫁いできたのは、まだ十代の時であったから、年は、ようやく三十を少し過ぎたといったところである。
立身した董卓には既に側室がいるが、二人の夫婦仲は至って良い。彼は、膂力もさる事ながら、精力(性的なものばかりではない)にも相当なものがあり、数人の妻女を満足させる事ができたのである。

7 名前:左平(仮名):2003/01/05(日) 23:56
「おぉ、瑠か。どうだ、そなたも飲むか?」
「そう言われれば飲みますけど…。いいのですか?お仕事の方はいかがなさったのです?」
「あぁ、だいたい片付いてるし、明日は休みだ。構わんよ」
「じゃぁ…」
そう言うと、彼女は夫の横に座り、その体にもたれかかった。
「ねぇ…」
彼女は、甘えた声を出し、目を潤ませながら夫を見つめる。董卓の方も、まんざらでもない様である。

「あ…。わ、わたしは、もう寝ますね。おやすみなさ−い」
二人の様子を察したのか、姜は、さっさと自分の居室に入っていった。その動きは、どこかぎこちない。

「あら、あの子ったら。もう男女の事を意識してるのね」
「そりゃそうだよ。あいつも、もうすぐ嫁ぐんだからな」
「早いものですねぇ…。わたしがあなたのもとに嫁いでから、もうそんなに経つんですね。わたしも、年をとるはずです」
「まぁ、あの頃より多少年はとったが…。こっちの方は、まだまだ盛んだな」
そう言いながら、董卓は瑠の胸に手をやった。数人の子を育ててきた乳房は、嫁いできた頃よりも豊かになり、触り心地も良い。
「あんっ。もぅ…あなたったら…」
瑠は、酒もあってか、少し顔を赤くしている。肌は上気し、声には、何ともいえぬつやがある。その姿が、董卓をいたく興奮させるのである。

二人は、互いの帯を緩めた。衣がするりと落ち、二人の裸体があらわになった。二人は、もつれる様にその場に横たわった。董卓の手が、口が、瑠の体をくまなく愛撫すると、瑠の体につやが増し、呼吸が荒くなっていく。やがて二人が交わると、瑠の喜悦の声があがる。それは長々と続いた。

(お父様とお母様は、一体何をやってるのかしら)
床にもぐり込んだ姜ではあったが、聞こえてくる母の嬌声に、興奮を禁じ得なかった。それ自体は小さい頃からしばしば聞いてきたものであるが、自分の結婚が決まったとなると、なおさら意識させられる。
このくらいの年頃になると、そういうものに対する意識が鋭くなるものなのである。
(男女の事って、そんなにいいものなの?)
目がさえて、ちっとも眠れない。する事もないまま、姜は、自分の敏感なところにそっと手をやった。しばらく手をおき、その指先を見ると、かすかに湿っている。いつもと、何かが違う。
(結婚したら、伯扶様がわたしの体を…こういうところも…あぁ…)
眠気と妄想とが交錯する中で、姜は眠りに落ちていった。

8 名前:左平(仮名):2003/01/13(月) 21:06
四、

同じ頃。月を眺めつつ、酒を呑む男がもう一人いた。牛輔の父である。
(輔も、もうそういう年なんだな。月日の経つのは早いもんだ。あれから、もう二十年以上も経つのか…)
そう感慨にふける彼の脳裏に、二十数年前の事が、鮮やかに思い起こされた。


その時−−彼は、一族とともに狩りに出ていた。夏の、暑い日であった。その日は、思ったほどの獲物は得られず、ひたすら野山を駆け回ったので、喉がからからに渇いていた。
(み、水は…)
そう思いつつ野を進むうち、草むらが見えた。まわりより草が育っているところを見ると、近くに泉か川があるらしい。彼は、そちらに足を向けた。
思ったとおり、そこには泉があった。水は十分に清く、これなら飲めそうである。彼は、馬に水をやり草を与えるとともに、自分もその水を飲んだ。渇いた喉にとって、その水は実にうまいものであった。

ひと心地ついてみると、他の者からはぐれている事に気付いた。まぁ、もう子供でもないし、日も高い。慌てるほどの事ではない。
「さて、と…」
顔をあげた彼の目に、人の姿が映った。若い女性である。彼女もこの泉の水を飲んでいたところであった。

「あ…」
互いに初対面である。もう子供ではないが、かといって、異性を熟知するほどにはすれていない。二人は、ほぼ同時に顔を赤らめ、心もち下を向いた。
しばらくそんな状態が続いた。ようやく顔を上げ、勇気を振り絞って声をかけた。
「はっ、はじめまして! …お、お名前は?」
(なっ、何を言ってるんだ、俺は。初めて会う人に対してそう言うか?)
彼の頭の中は、ぐちゃぐちゃになっていた。相手は気を悪くしないだろうか。そんな不安が頭をかすめる。
「わっ、わたしは…。り、琳と申します…」
そう言った彼女は、手で口元を押さえ、うつむいたままである。男を目の前にして、恥じらっているのであろうか。少なくとも、気分を損ねたという事はなさそうである。少しほっとした彼は、気をとりなおして話しかけた。
「琳さんですか。いいお名前ですね。私の名は朗、牛朗と申します」
「朗さん、ですか…あの…」
「いかがなさいました?」
「あなたも…いまこの泉の水を飲まれたのですね?」
「はい…」
「では…あなたと…同じ水を…この唇が…」
そう言ったまま、彼女はなおもうつむいたままである。顔は、ますます赤くなっている。
そんな彼女に目をやったまま、彼も、動けなかった。
(きれいな人だなぁ…こんな人と一緒にいられたら…)
傍から見ると、呆けている様に見えたかも知れない。まさしく、一目惚れであった。

「お−いっ、朗、どこだ−っ」
沈黙は、その呼び声で破られた。ぐずぐずしていると、後で怒られそうだ。
(いけねっ。そう言えば、日も傾いてらぁ)
慌てて、彼は立ち上がった。彼女の姿をもうしばらく見ていたかったが…そうもいかない。

9 名前:左平(仮名):2003/01/13(月) 21:09
「では、琳さん。私は帰らないといけないので」
「あの…。朗さん」
「何でしょうか?」
「また…お会いする事はできませんか?」
「えっ? いや…その…」
意外な言葉であった。彼女の方も、自分に気があるのだろうか?だとすれば、願ってもない。
「そうだ、来月には、またここに来ると思います。その時に、ここで」
「はいっ!」
喜色を全身に表す彼女の顔が、輝いて見えた。その笑顔が、彼の脳裏に鮮やかに焼き付けられた。

それからの一ヶ月は、毎日が異様に長く感じられた。早く狩りの日が来ないものか、そればかりが待ち遠しかった。
「どうした、朗。最近、えらく落ち着きがないが」
そう聞いてくる者もあった。
「いや、次の狩りが楽しみで楽しみでたまらないんです」
「おかしなやつだな。こないだの狩りの時は、ちっとも楽しそうじゃなかったくせに」
「まぁ、あの時はあの時という事で」
彼は、そうとぼけるのであった。

そして、次の狩りの日が来た。その日は、まずまずの収獲であった。が、彼の目指すものは、そういうものではなかったのは言うまでもあるまい。
(琳さんは来てくれるだろうか)
そう思いながら、記憶を辿りつつその泉に向かっていた。一月経っているので、草の生え具合も多少異なっている。が、この泉に間違いあるまい。
しばらく待っていたが、彼女の姿は見えない。
(やっぱり、そんな簡単に来てくれるわけがないか)
そう、諦めかけたその時である。

草をかき分け、人影が現われた。忘れもしない、琳である。その後ろには、羊たちがついて来ている。こないだは気付かなかったが、そういえば、あの時も羊がいた様な…。
(羊を連れている…。琳さんは、ひょっとして羌族の女?)
そんな疑問がわいてきたが、すぐに意識から消えた。何より、想い続けた人の姿が目の前にあるのだから。その姿は、やはり美しかった。彼は、自分の想いが強まっている事を感じた。
「お久しぶりです、琳さん。来てくださったのですね?」
「えぇ。…お会いできて、嬉しゅうございます」
そう言う彼女の瞳が、潤んでいる。そして、ゆっくりとこちらに近づいてきたかと思うと、いつの間にか、彼女の顔が目の前にあった。
「りっ、琳さん…」
体が、思う様に動かない。言葉を発しようとするが、然るべき言葉も出ないし、口も動かない。ただ…両腕を伸ばし、彼女の体をこちらに引き寄せる事を除いては。

二人の体が、密着した。牛朗が、琳を抱きしめたのである。
彼女の温もりが、息遣いが、匂いが、鼓動が伝わってくる。その全てが、彼の心を激しく躍らせる。いや、彼ばかりではない。彼女もまた、彼の全てに心を躍らせているのが分かる。
(このまま…こうしていたい…)
二人とも、同じ事を考えていた。

10 名前:左平(仮名):2003/01/19(日) 21:37
五、

「琳さん…」
「はい」
「私と…ずっとこうして頂けますか」
「それは…夫婦になろう、という事ですか?」
「…そうです…」
「わたしも…そうなりたいです。ですが…」
「ですが?」
「あなたは、隴西の牛氏の方ですよね?」
「えぇ…」
「わたしは、羌族の女です。それも、お分かりですか?」
「羊を連れていたから、何となくはそうかなと思いましたが…」
「あなた方隴西の牛氏と、わたし達羌族との事はご存知ですよね?」
「えぇ。承知しております。でも…この気持ちに嘘偽りはありません。あなたを知った以上、他の女と夫婦となる事は考えられません」
「わたしもです。どうしましょうか…」
「旬日(十日)、待っていただけませんか?」
「一体、どうなさるのですか?」
「何とか、一族の者と話をつけてみます。…旬日の後、またここで」
「はい」

二人にとっては、生涯で長い十日間となった。どちらの一族も、この結婚には大反対であったからである。その説得は、骨が折れるものとなった。
牛朗は、琳が羌族である事を隠しつつ話したのであるが、それでも困難であった。隴西の名門・牛氏としては、然るべき名家から妻を迎えるべきであるというのが当然とされていたからである。野で知り合った女など、どう見ても庶民の娘であろう。家格が合わぬと言われれば、それを論破するのは難しい。
琳の方は、なお困難であったろう。なにしろ、相手は漢人、それも牛氏の男である。羌族の敵と言っても過言ではない一族の男。どうしてそんな男と、と責め立てられたらしい。
しかし、障害が大きい故、想いはますます強くなっていく。そして、その日が来た。

結局、一族の説得はうまくいかなかった。琳の方はどうだったろうか。彼女を待ちながら、彼は、ある決心を固めていた。
琳が姿を見せた。いまひとつ、表情が冴えない。彼女の方も、説得は失敗したという事か。

「琳さん、いかがでしたか?」
「…」
言葉はなかった。
「そうですか…。こうなれば、非常の手段しかありますまい」
「非常の手段?」
「えぇ…。こうするのです!」
牛朗は、そう言うなり、いきなり琳を抱きしめた。そして、彼女が戸惑うのも構わず、強引に唇を押し当てた。初めは戸惑っていた琳であったが、すぐに受け入れた。
二人はしばらく抱き合っていた。

「ねぇ。さっきおっしゃった『非常の手段』っていうのは、一体…?」
「説得して認めてもらえないのなら、強引に認めさせようって事ですよ。私達がいま何をしたかは、分かるよね?」
「えぇ。朗さんったら、強引なんですもの」
そうは言いながらも、嬉しそうである。こうなる事は、彼女も望んでいたのだから。

11 名前:左平(仮名):2003/01/19(日) 21:38
「私達の関係がただならぬものとなれば、双方とも、追認するしかないはずです。あなたは既に男を知ってしまったし、私も、他家の女に手を出してしまった。あなたを私以外の男に嫁がせる事は難しいし、私も、あなた以外の女を妻に迎える事は難しい。そんな事をすれば、双方の家名は落ちてしまうでしょうから…」
「えぇ。そうなりますね」
「もちろん、危険な賭けなんだけど…他に考えつかなかった…」
「ねぇ、朗さん」
「どうしました?」
「行きましょ」
「どちらへ?」
「わたしの集落へ」
「いいですけど…どうなさるのです?」
「二人の仲をみんなに見てもらわないと」
それが何を意味するか。二人ののろけっぷりを見てもらうという様な、ほのぼのしたものではないという事は言うまでもない。
「そうですね」
下手すると、命がけである。だが、彼女とならば悔いる事はない。

二人は、同じ馬に乗って駆けた。
「あれがわたしの生まれ育った集落です」
「琳さん、いきますよ。…覚悟はよろしいですか? もぅ二度とここには戻れないかも知れないんですよ」
「構いません。あなたといられるのでしたら」
「琳さん…」
二人を乗せたまま、馬は集落に突入した。

「あっ、あれは…」
「琳さん! その男は一体…」
二人の姿を目にした人々は、口々にそう叫んだ。男女が同じ馬に乗るなど、漢人のみならず、羌族でも普通有り得ない事である。おまけに、男の方は誰も知らない。何故、琳とその男が同じ馬に?
「琳! おまえ…」
驚き戸惑う人々の中に、ひときわ堂々とした男が立っている。この集落の長であろうか。
「お父さま! わたしはこの方に嫁ぎます!」
(えっ!? 琳さんはここの族長の?)
牛朗は、少し驚いた。族長の娘となれば、彼女にかかった圧力は相当なものであったろう。それだけに、彼女の覚悟のほどがうかがえる。
(琳さん…)
ますます、いとしさが募る。
「何を言っておるか! その男が何者であるか分かっておろう!」
「えぇ! でも…わたしたちは、もうそういう仲になったんです!」
「何と!」
それで、皆黙り込んだ。もう、二人を止める事はできない。
それを見届けると、二人は集落の外に駆けていった。その一部始終をじっと見つめる子供がいた事には、皆気付かなかった様である。

「朗さん、驚かれました?」
「まぁね。…まさか、琳さんが族長の娘さんだったなんてね」
「お気を悪くなさいましたか?」
「いえ。かえって、あなたへの想いが深まりましたよ。私の為にここまでしてくれるのかって」
「嬉しいっ」
琳がぐっと抱きついてくる。彼女の体温が、衣を通じて伝わるのを感じる。
「さぁっ。次は、私の番ですね」

二人は、そのままの勢いで、牛氏の邸宅になだれ込んだ。

12 名前:左平(仮名):2003/01/26(日) 00:43
六、

「あっ…!」
門を守る家人は、驚きを隠せなかった様で、しばらく動かなかった。二人は、馬から降りるとそのまま牛朗の居室に入り、もつれ合う様に倒れ込んだ。

牛朗は、男女の事については初めてである。おおよその事は知っているつもりであるが…。慌しく衣を脱ぐと、互いの体を愛撫し合う。
どうすれば、相手が悦んでくれるだろうか。試行錯誤しながらも興奮は募る。二人の呼吸は早くなり、体からは汗がにじみ出る。
(えっと…この先は…)
琳は、男を受け入れる態勢になりつつある様だ。自分のものも、もう張っている。さて、この先は…

現在では、義務教育の段階で性教育が為されるし、様々な媒体があるので、結婚する男女は、経験の有無にかかわらずその方法を(一応は)了知している。しかし、この当時には、そういうものは殆どない(前漢後期に春宮画【日本でいう春画。男女の性愛の様子を描いた画】の原型ができたらしいが、この当時、一般の豪族の家庭にあったかどうかは不明である)。

「朗さん」
「えっ?」
「これを…ここに…」
琳は、顔を赤らめつつ、朗のものに軽く触れると、自分のところを指し示す。
(そっか…。琳さんは、羌族の女だったな。羊の繁殖の様子を見てるから…)
牛朗は、変に納得した。
「じゃぁ…いくよ…」
「えぇ…うっ」
ついに、二人の体が繋がった。彼女も初めてなのか。琳の顔が、苦悶にゆがむ。
「琳さん、痛いの?」
「うん…ちょっと。でも、朗さんとなら…」
その表情と言葉がいとおしい。二人は肢体を絡め、初めてとは思えぬほどに激しく求め合った。

「はぁ…はぁ…」
事が終わり、けだるさと心地良さがないまぜになる中、二人はゆるゆると立ち上がった。ふと見ると、琳の腰に巻かれていた布に、血痕がついていた。
「これは…」
「これが…証です。わたしにとって、あなたが初めての男の人だという…」
「…」
二人の間にしばしの沈黙が流れる。これで、完全に退路は断たれたのである。

「朗! その女は一体…」
牛朗の父が居室に入って来た。その顔は上気し、今まで見た事もないほどに怒り狂っているのが分かる。普段の牛朗であれば、即座に叩頭して謝罪するところであるが、ここで引く事はできない。ここで引いてしまったら、琳を捨ててしまう事になる。
「父上! 私は…この女(ひと)を抱きました! この女との仲を認めて下さいっ!」
彼女を抱きしめつつ、そう叫んだ。初めて父に逆らったのである。
「何っ!」
「いかがなさいますか。…これを御覧下さい!」
そう言うと、琳の腰を指し示した。そこについている血痕こそ、二人の関係が既にただならぬものになった事を示す、何よりの証拠である。

13 名前:左平(仮名):2003/01/26(日) 00:47
「こっ、これは!」
「私達の仲が認められないとなれば、牛氏の男が他家の女を弄んだという不名誉な事になるのですよ!」
「そなた…本気で言っているのか!?」
「はい」
「勘当しても良いのだぞ!」
「構いません。そうなればなったで、司馬相如【前漢の文人。賦にすぐれた。富豪の娘であった卓文君と恋仲となり、彼女の父親に反対されると、駆け落ち同然の形で結婚した。彼女の邸宅の前で夫婦して屋台を経営した為、ついにその仲を認められたという逸話を持つ】に倣うまでです」
「む…」
そこまで言われると、父も黙り込んだ。この結婚に反対し続けた場合、どちらにしても一族の名折れになりかねないという事が分かったからである。

「ならば…仕方あるまい」
「では! 認めていただけるのですね!」
「だが、一つ条件がある」
「条件、ですか?」
「その娘、おそらく羌族の娘であろう。我が家と羌族との関係は承知しておろう?」
「そっ、それは…」
「その女をそなたの妻と認めるのは良しとしよう。だが、今後一切、羌族の事を考えるな!良いな!」
「そうすれば、わたし達の仲を認めていただけるのですね?」

それまで黙っていた琳が口を開いた。その言葉には、全く迷いがみられなかった。牛朗の方がためらって言い出せない事を、彼女はあっさりと言ってのけたのである。
「りっ、琳さん!」
「いいんです…これで」
「琳さん…」


こうして、二人は晴れて結婚する事ができた。

が、幸せは長くは続かなかった。琳は、長男の輔を産んですぐに亡くなってしまったのである。産後の肥立ちが悪かったのが原因であるが、実家と引き離された形になってしまった事が、彼女の心身を痛めていたのかも知れない。彼女に対しては十分な愛情を注いだつもりではあるが、守り切れなかった事が悔やまれてならない。

生活に追われる心配はないとはいえ、男手一つで乳飲子を育てるのは容易ではない。結局、彼は漢人の女性と再婚した。後妻との仲はまずまずで、子供にも恵まれたのだが、心の空白は残り続けた。

(琳…)
目を閉じると、今でも彼女の姿が浮かぶ。その姿は、色あせるどころか、年を追うごとにむしろ鮮明にさえなっていく様である。
(あいつへの想いが強過ぎたのかな…)
輔の成長を見るにつけ、そう苦笑せざるを得ない。彼は、嫡男である輔に対し、常に厳しく接してきた。それは、最愛の人との間の子であるが故に、必ず傑出した人物に成長して欲しいという気負いの故であったのだが…輔には、そう見えなかった様である。

成長した輔は、どこか神経質に見え、頼りなさげである。このままでは、先が思いやられる。
(新婦に会う前に、輔とじっくり腰を据えて話しておくか…)
そう決めた牛朗は、杯の酒をくっと飲み干した。月は、もう西に傾きつつあった。

14 名前:左平(仮名):2003/02/02(日) 22:44
七、

それからしばらくの時が流れ、季節は夏になろうとしていた。
牛輔の心の中にはなおも戸惑いがあったが、既に決まった話である。
(まぁ、董郎中殿は董郎中殿。娘さんは娘さんだ。性格・容貌ともそっくりという事はなかろう…)
そう、前向きに考えるしかない。

当時の正式な結婚は、六礼と呼ばれる儀礼を踏まえて行う必要があった。もちろん、誰もがそういう手続を踏まえたというわけではないだろうが、これは、豪族同士の正式な縁談である。当然、そういった手続が為された事であろう。
それぞれの儀礼の名と内容は、以下の様になっている。
納采(男子側から結婚を申し込んだ後、礼物を女子の家に贈る)、問名(男の方から使者を送って相手の女の生母の姓名を尋ねる礼)、納吉(婿側で、嫁に迎える女子の良否を占い、吉兆を得れば女子の家に報告する)、納徴(納吉の後、婚約成立の証拠として、女子の家に礼物を贈る)、請期(結婚式の日取りを取り決める事。男の方で占って吉日を選び、その日を女の方に申し込むが、儀礼上、女側に決めてもらうという形式をとる)、親迎(婿が自ら嫁の実家に行って迎えの挨拶をする儀式)。
この時、既に請期までは済んでおり、あとは親迎を行うのみであった。婿となる牛輔は、この時初めて岳父・董卓と妻となる女性・董姜に会う事になる。
その、親迎の日の朝である。牛輔は父の居室に呼ばれた。

「父上、輔です。お呼びでしょうか」
「うむ。まぁ、入れ」
「はい。失礼します」
牛輔と父は、向かい合って座った。こうして二人で話すのは、縁談を聞いた時以来である。何かあったのだろうか。見当もつかない。

「輔よ。今宵、いよいよ親迎だな」
「はい」
「これで、名実ともに牛・董両家は縁続きになる。董郎中殿は、名将である。董家は、今後ますます栄えるであろう。そなたは、その娘婿となるわけだ」
「はい。そうですね」
特に、とりとめのない話なのか。しかし、父ともあろうお人が、そういう話をされるとも思えないが…。
「そなたは、今後、我が家の一員であるのに加え、董家の一員ともみられる事になる。それは、つまり、両家に対し責任を持つという事だ。両家の名に恥じぬ様に振る舞ってもらいたい」
「はい。分かっております」
「それで、というわけではないが…。それに先立ち、そなたに話しておきたい事がある」
「何でしょうか?」
父は、何を言おうとしているのであろうか。彼には、まださっぱり分からない。

「そなた、自分の名をどう思っている?」
「は?」
いきなり、何を言い出すのだろうか。この名は、父がつけたものであるはず。良いも悪いも、もう二十年以上も付き合ってきた名である。今まで意識する事もなかったが…。
「私の名は輔ですね。いえ、別にどうという事もありませんが…。いかがなさったのですか?」
「いやな。なぜわしがそなたに輔という名をつけたか、という事だよ」
「はぁ…」
「この話は、ちと長くなるぞ」

15 名前:左平(仮名):2003/02/02(日) 22:46
そう言うと、父は座り直した。なるほど、長い話になりそうである。
「そなたの名である『輔』という字にどういう意味があるかは分かるか?」
「はい。そもそもの意味は、車輪を補強する為のそえぎ、ですね。で、それ故『たすける』という意味になる、と学んでおります」
「そうだ。では聞こう。そなたは、この家の嫡男である。そのそなたに、何故『輔』という名をつけたと思う?」
「えっ?」
そう言えば、そうだ。嫡男である自分が、一体何を「たすける」というのだろうか?
「私の上に、兄がいた、という事ですか?」
それくらいしか思いつかない。いや、普通はそうであろう。それとも…。今になって、そなたは嫡男にふさわしくないと思っておった、とでも言うのであろうか? だとすれば、どうして今まで嫡男として扱われたのか? 
「いや、そうではないのだ。…そなた、覚えておるか? 昔、『母上はどこにおられるのですか』とわしに聞いた事があったろう」
「はぁ…そう言えばそんな事があった様ですね」
「そなたも分かっておろう。そなたを産んだ母上と、今の母上とは違うという事が」
「はい。はっきりと聞いたというわけではありませんが…。しかし、それとこれと、一体何の関係があるのですか?」
「それが、あるのだよ。まぁ、聞きなさい」
そう言う父の声は、いつもと違って聞こえた。こんなに優しげな声を聞くのは、いつ以来であろうか。

「あれは、もう二十年以上も前になるか…」
父の話は、牛輔にとっては初耳であった。この邸宅内には、当時を知る者も何人かいるが、その様な話は聞いた覚えがない。家内における父の威厳は非常に強く、この様に微妙な話題について口を滑らせる者はいなかったのである。
(私の母上は、羌族の族長の娘だった…? しかも、父上と相思相愛だった…? 羌族と牛氏は、激しく対立しているというのに、そんな事が…!)
あの謹厳な父が、かつてその様な激しい恋をしたとは、どうにも信じ難い。だが、本人の口から語られている以上、事実であろう。

「あの時、わしには琳が全てであった。あいつがいてくれれば、何もいらなんだ。…だがあいつは、そなたを産んですぐに死んでしまった。どんな名前にしようか?って聞く間もなく、あっけなくな。遺されたわしは、全てを失ったと感じた。生きる意味もないとさえ感じた。しかし…後を追うわけにはいかなかった」
「私がいたからですか?」
「そうだ。死んだあいつが、想い出以外にわしに遺してくれた唯一の存在。それが、そなただ」
「では、私の名は…」
「そう、何よりも、わしを『輔(たす)』けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ」
「そうでしたか…」

牛輔の脳裏に、父との日々が思い出された。
父は、いつも厳しかった。何か悪戯をしようものなら、容赦なく叱られたものだ。それは、名族の嫡男であるからとばかり思っていたが、それ以外の意味もこもっていたのか…。
彼も、ただ部屋にこもっていたわけではなく、それなりに学問もしてきている。それによって培われた理性は、父の思いをしっかりと理解した。

「これからは、わしばかりでなく、董郎中殿もそなたの義父(ちち)となるのだ。ふたりの父を、しっかりと『輔』けてくれよ」
「はいっ!」
(父上が厳しかったのは、私の事を大事に思っていたが故なのか…)
親迎を前にして、少し、気が軽くなった気がした。自分は、誰かに必要とされる存在である。それは、妻となる姜にとっても同じであろう。それで良いではないか。その思いが、彼の心を明るくしてくれた。

16 名前:左平(仮名):2003/02/09(日) 21:45
八、

夕刻となった。太陽は地平線に没しつつあり、強烈な陽光も和らいでいる。少し風が吹いてきた。ここ隴西は内陸部であり、湿度は低い。頬に当たる、乾いた風が心地良い。
いよいよ、親迎である。今日、ついに、妻となる女(ひと)と会う事になるのだ。彼女はいま、牛氏の邸宅にほど近い、董氏の別邸で待っている。もちろん、父の董卓も一緒だ。
牛輔の心は、否応なしに高まっていた。

古礼によると、婚儀というものは、祝うべきものではなかったという。
妻を娶るというのは、子がそれだけ成長したという事を示す。それは同時に、親はそれだけ年老いたという事をも意味する。太古の人々は、その負の側面を意識していたのである。未知なるものへの恐れという意識がそれだけ強かったという事であろうか。
また、陰陽においては、男は陽、女は陰とされている(医学的には男性器の事を「陰茎」という。しかし、女性器と対比するとなると「陽物」と言ったりするのがその一例であろう)。妻を娶るという事は、陰を家に納れるという事になる、と考えられたのである。
それ故、婚儀は夜に行われた。陽光のもと、にぎにぎしく執り行うものではなかったのである。
とはいえ、この頃になると、人の有り様も変わっている。いつしか、婚儀は、その正の側面を意識するものに変質していたのである。まぁ、この時代は、儒に基づく礼教がやかましく言われていたから、儀礼の様式自体は、ある程度古礼にのっとっていたであろうが。

牛輔自らが手綱をとる馬車が、ゆっくりと動き始めた。馬車の扱いには慣れていないのであるが、不思議とすんなりと動いた。

太古に用いられた戦車は、ながえ(車につく、かじ棒。横木・くびきなどを介して、車と馬をつなぐ。一本ながえをチュウ【車舟】、二本ながえを轅という)が一本であったが、この頃には、二本のものが普通であった。この形の方が、効率が良く、また、馬の制御もやり易いのだという。もっとも、一本ながえの戦車には二〜四頭の馬をつないでいたのに対し、二本ながえの馬車には一頭の馬しかつながないのであるから、全体の力は下回りそうである。速度も、さほどではあるまい。
戦場を駆け回るのならともかく、妻を迎える分には、これくらいの方が良さそうである。

あたりが暗くなり、天空に星がまたたき始めた。先導する従者が松明に火をつけると、暗がりの中に馬車がぼんやりと浮かび上がった。
(これが正式な儀礼なのは分かっている。とはいえ…)
高まる心とは裏腹に、あたりの空気はしんと静まりかえっている。このまま、闇の中を走り続けるのだろうか。そんな気持ちにさえなってくる。
ふと気付くと、大量の松明がともっているのが見える。間違いない。董氏の別邸である。
(いくら、三日三晩火をともし続けるのが儀礼とはいえ、ちと多過ぎはしないか)
闇の中、董氏の別邸の周囲のみは、まるで昼間の様な明るさである。こういうところにも、董卓という人の性格が表れているという事か。

門が見えた。門前に、巨躯の男が立っている。岳父となる董卓、その人である。
その姿を認めた牛輔は、頃合いを見計らい、車上から拱揖(きょうゆう:両手を胸の前で重ねて会釈する)の礼をとった。董卓も、同じ礼を返した。まだこの時点では、互いに言葉を交わす事はない。ただ、目を合わせ、無言の中に何かを伝えようとするのみである。
(さすがは、歴戦の勇将。ものすごい威厳だ。向こうは、私の事をどう思っただろうか?頼りないやつと思っただろうか?)
彼の娘婿となれば、戦いに加わる事も多かろう。それ相当の力量が必要となるはずである。今の自分がそれにふさわしいかと言えば、自信はない。
(もっと武芸に励むべきだったか…。おっと。今は、親迎の儀礼を滞りなく済ませる事の方が先だったな)

17 名前:左平(仮名):2003/02/09(日) 21:47
これから、妻を迎えようとするところである。落ち込んではいられない。
門が開いた。馬車がゆっくりと中に入っていく。別邸とはいえ、なかなか広い。中庭で、彼は手綱を董氏の家人に預け、車から降りた。

堂(中庭の側が吹き抜けになっている広間)に上がり、祖廟での一連の儀礼が終わると、新妻を車に乗せる
事になる。
姜が、姿を現した。彼女もまた、当時の儀礼に従い、新婦が身につける纓(えい:頭にかける紐飾り)を除いては、わりと地味な衣装をまとっている(古礼によると、この時の衣装は、黒いものを用いるという。これでは喪服と同じではないか、と思うかも知れないが、古代の喪服は白いものを用いたというから、問題はない)。顔は、ここからではまだよく分からない。照れて、顔を合わせるのもままならないのである。それは、向こうも同じらしい。顔を伏せ気味にしてこちらに近付いてくる。
(意外と小柄だな。それに、私に会って照れてる様だ…)
そんな、何気ないしぐさにも、彼の心はときめく。

姜がそばまで来た。牛輔は綏(車の乗降の際につかまるひも)を投げ、彼女を車に導く。綏を通じて感じる彼女は、不思議に軽く感じられた。あの董卓の血を引くとは思えないほどに。
車輪を三回転させると、彼は車から降りた。先に自邸に戻って、新妻を門前で迎えるのである。

すっかり夜も更けた。自邸の門前で、彼は妻の到着を待っていた。時の流れが遅く感じられる。が、それは苦痛ではない。
やがて、松明が見え、姜の乗った馬車が姿を見せた。彼は、揖譲(ゆうじょう:手を組み合わせて挨拶し、へりくだる)し、彼女をいざなった。

目の前に杯が置かれ、酒が注がれる。二人は、それぞれの杯を手にとり、酒を口に含んだ。酒で口をすすいで体を清めるとともに、同じものを口にする事で、礼を明らかにするのである。
これで、親迎の儀礼はなかば終了した。翌朝、妻は早起きして夫の両親に挨拶をする事になる。
(明日の事があるから、あまり変な事はできないが…)
姜の横顔をちらちら眺めながら、牛輔は心を昂ぶらせていた。

18 名前:左平(仮名):2003/02/16(日) 00:28
九、

一通りの儀礼を終えた二人は、ゆっくりと、居室に入った。室内には寝具が整えられており、燭台には火がともっている(当時の照明に用いられたのは、木片か獣脂。木片は松明の形で、獣脂は、灯心をさして蜀台の上で燃やした)。寝具は、もちろん一つしか用意されていない。
別に、寝所に入る際にはゆっくり歩かなければならないというわけではない。しかし、急ぐ事はできなかった。晴れて夫婦になったとはいえ、なにしろ、初対面である。そんな相手と、いきなり男女の交わりを持つのであるから、心は逸るものの、体がいう事を聞かない。二人とも、全身が緊張していた。

ようやく、寝具のところに腰を落ち着けると、二人は向き合った。さっき、車に乗り込む際に顔を合わせたはずなのであるが、あの時は緊張の中にいた為、顔をよく見ていなかった。いま、ようやく互いの顔を見つめあった。
(あぁ、この女(ひと)が…私の妻なのか…)
(わたしの夫は…この人なのね…)
二人は、しばらく無言のまま見つめあっていた。見とれていた、と言っても良い。とはいえ、一言も話さぬままに体だけ重ねるというのも味気ない。第一、こんなに緊張した状態で、うまくできるだろうか。
(何か話して、緊張をほぐさないと…)
傍目には、歯がゆく見えたであろう。もう、衣装を脱ぐだけで良いというのに、何を固まってるんだ、と。

しばらくして、ようやく牛輔の方から口を開いた。
「き、姜さん…」
「はい?」
「何から話しましょうか?」
「何から、とおっしゃられても…」
「う−ん…。ねぇ、姜さんは、どうして『姜』って名前なんですか?」
「えっ?」
「いや、今朝、父に聞かれたのですよ。『そなた、自分の名をどう思っている?』って」
「はい。それで、どうお答えしたのですか?」
「いえ、答える事はできませんでした。そんな事は考えてもいませんでしたから。そうしたら、父が、私の名の意味を話してくれたのです」
「あなたの名は、確か『輔』でしたよね。その意味ですか」
「そうです。父は、こう言いました。『わしを「輔(たす)」けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ』と」
「でも…。あなたはご長男ではないのですか?字も『伯扶』ですし。跡目を継ぐお方が、どうして『輔』なのですか?」
「そうなんですが…これには理由があったそうで…」
そして、父から聞いた事を話した。それまで聞く事はなかったとはいえ、他言を禁じられたわけではない。妻には話しておいても良かろう。
話を聞き終わった姜は、目を見張った。驚きを隠せない様である。そりゃそうであろう。牛氏と羌族との関係は、隴西に住む者であれば周知の事なのだから。
「では、あなたも…羌族の血を引いておられるのですね」
「えっ?じゃ、姜さんも…?」
「えぇ。わたしの母・瑠は、羌族の族長の娘です。何でも、かつて父が集落を訪ねた時に一目惚れして、牛馬を届けた際にそのまま嫁いだって…」
「そうでしたか」
「不思議なものですね」
「えっ?」
「そうでしょ。だって、わたしもあなたも漢人の家に生まれましたが、羌族の血を引いてるんですから。これも、何かの縁ですね」
「そ、そうですね…」

19 名前:左平(仮名):2003/02/16(日) 00:31
体の緊張が、(一箇所を除いて)少しずつほぐれてきた。
言葉を交わす事で、彼女の人となりが、何となくではあるが見えてくる。その表情といい、声といい、変な翳りは感じられない。彼女は、心身ともに健やかに育った事は間違いなかろう。それ故、少なくとも、夫である自分を故なく軽んじる事はなさそうである。
妻、そして母としてはどうであるかはまだ分からないが、一人の女として彼女を見れば、特に文句をつける様なところはない。あとは、自分が彼女にふさわしい男になれるかどうか、である。

「じゃ、そろそろ…」
「えぇ…」
二人は、帯を緩め、ゆっくりと上衣を脱いだ。夏の夜である。昼間よりはだいぶ涼しいとはいえ、緊張と興奮の為か、二人の体にはうっすらと汗がにじんでいる。鼓動もさらに早くなった。
肌着を脱がせる為、彼女の肩に手をかけようとした牛輔は、その体からかすかな匂いがするのに気付いた。

この当時、どの様に体を洗っていたか。古代ロ−マの例もある(有名なカラカラ浴場は、3世紀初めに完成している。これ以外にも、多くの浴場があった)様に、主には蒸し風呂であったと考えられるが、「斎戒沐浴」という言葉もあるから、湯水で体を洗い清める事もあった様である。
ただし、毎日洗ったというわけではなかったろう(だいたい、「斎戒沐浴」という行為自体、天を祀るなど特殊な儀礼の際に行うものというニュアンスが漂っている)。漢代の官吏に「休沐」(体を洗う為の休暇。この当時は、五日に一回)というものがあった事自体、それを示している。
ほぼ毎日入浴して体を洗っている我々に比べると、人間の体臭は、また、そういうものに対する感覚は強かったはずである。

(あぁ…この匂いは…)
彼は、女の匂いには縁が薄かった。実母は、生まれてすぐに亡くなったし、義母との関係も、(彼がそう思っているだけかも知れないが)いささか距離がある。それだけに、その匂いは強烈であった。
初めて嗅ぐその匂いは、なぜかは分からないが、彼の心をさらに興奮させる。

手からは、彼女の肌の感触が伝わってくる。その感触は、絹布の如き、いや、何とも比べられないほど、なめらかで、心地良いものであった。
思わず、我を失いそうになる。が、欲情に溺れっ放しではいられない。相手は、妻なのである。今宵限りの相手ではない。彼は、一瞬目をつむり、自らを戒めた。
(待て待て、少し冷静にならないと。慌てず、ゆっくりと、優しく…)

裸になった二人は、顔を近付け、唇を重ねた。互いの鼓動と息遣いが伝わってくる。そのまま、ゆっくりと横になった。
牛輔が愛撫するたびに、姜の体は反応を示す。しばらくそうしているうちに、汗が吹き出し、初々しい嬌声があがり始めた。
(あぁ…いまわたし、伯扶様に愛されてる…やだ、こんなに乱れちゃって…恥ずかしいっ…)
恥ずかしさと悦びの余り、姜が体を激しくくねらせると、牛輔もそれに合わせて体を動かした。二人とも、今までかしこまっていたのが嘘みたいである。
ついに、二人が交わった。いくら心身の準備ができているとはいえ、初めて男を受け入れた瞬間はさすがに苦痛を伴うらしく、姜の顔が一瞬苦悶にゆがむ。
「い、痛いの?」
「ちょっと…。でも、嬉しいです。これで、本当に夫婦なんですから…」
目を潤ませ、痛いのをこらえているその表情が、さらに男の欲情をそそる。女が痛がっている様子に興奮するのではない(それではただの嗜虐である)。彼女が、その苦痛よりも、自分に抱かれるのを喜んでくれている事、言い換えると、自分をそれだけ深く愛してくれている事に興奮するのである。
「姜さん…」
「姜、と呼んでください」
「あぁ、姜」
二人は、理性を半ばかなぐり捨てて、激しく交わりあった。

20 名前:左平(仮名):2003/02/23(日) 22:21
十、

事が終わり、重なっていた二人の体が離れた。呼吸は荒く、体と寝具は、汗やら何やらで、ぐっしょりと湿っている。
「こんなに…」
「ん?」
「こんなに…いいものだなんて…。お父様とお母様がしょっちょうしてるのも分かるわ…」
「そうだな…」
(董郎中殿は、今も奥方と? まぁ、無理もないか…。俺も、こんなにいいものとは思わなかったしな…)
「ねぇ…。もう一回、いいでしょ?」
姜が、甘えた声を出しながら、そう聞いてくる。それは、牛輔からしても望むところではあるが、明日の事もある。何回も交わって、寝坊させるわけにもいかない。
「俺もそうしたいけど…。明日は、早いだろ?だから、もう寝よう」
「だめぇ?」
ちょっと不機嫌な顔になった。その表情もかわいらしく、欲情をそそるものだから、いよいよこちらとしてもなだめるのが辛い。
(俺だって、したいのはやまやまだよ。もう一回どころじゃないくらいに)
内心はそう思いつつも、懸命になだめた。
「まぁ、こらえてくれよ。明日、儀礼が全部済んだらもっとかわいがってやるからさ」
「ほんと?」
「あぁ」
「約束ねっ」
姜は、裸のまま牛輔に抱きついてきた。牛輔も、彼女の体に腕を回し、二人はそのまま眠りについた。

翌日−。
眠い目をこすりつつ、姜は目を覚ました。夏の朝は早い。空は、既に白みがかっている。
親迎の翌朝は、新婦は早起きしなければならないのであるが、このくらいの時間なら、まぁ問題なかろう。とはいえ、ぐずぐずしてはおられない。身づくろいをしないと、今の格好では、恥ずかしくて部屋から出られない。
(さぁてと。もうひと頑張りしないと)
舅・姑との儀礼がまだ残っている。昨晩の様子からすれば、夫とはうまくやっていけそうであるが、舅・姑との関係がまずければ、台無しである。姜は、自分を励ましつつ、元気良くはね起きた。隣には、夫の牛輔が眠っている。いや、眠ったふりをしている様だ。
「じゃ、あなた。また後でね。昨日の約束、忘れないでよ」
そう言うと、心なしか、夫がうなづいた様に見えた。

まずは、身を清めなければならない。姜は、桶を用意し、水を張ると、その中に体を沈めた。体を沈めたといっても、さして大きくない桶であるから、下半身が水に浸るくらいである。
手で体に水をかけながら、彼女は、自分の変化を感じていた。
もちろん、たった一日で目に見える変化があるわけではない。しかし確かに、夫に抱かれ、自分は娘から女になった。その意識をもって見ると、自分の体でさえ、何か全く別なものになったかの様に思える。
(この胸…。この胸を、伯扶様やわたし達の子供が触る事になるのね…。こんな風に…)
そっと胸に手をやった姜は、これからの事を思い、思わず恍惚となった。
(いっ、いけないっ!わたしったら、こんな時に何考えてるの!)
これから大事な儀礼があるというのに。そう思うと、思わず顔が赤くなった。

沐浴し、体を洗い清めた姜は、堂で舅・姑と向かいあう事になる。
既に六礼は終わったといえるのであるが、この時の儀礼もまた、なかなかに骨の折れるものである。大まかに流れをいうと、まず、礼物のやりとりやまつりごとがあり、それによって新婦の賢明さが確認された後、饗応を受け、退室となって終了するのである。これらがうまくいかなければ、今後、何かと不都合が生じるであろう。最悪の場合は、即離婚ともなりかねない。

21 名前:左平(仮名):2003/02/23(日) 22:24
「婦」という字は、「女」と「帚」から成り、「ほうきを持った女」という意味あいを持つ。そもそもは、神を祀る宗廟を清めるという重要な役割を担っていた様である。この頃には、そういう意味は失われていたものの、婦人が、家庭内においては重要な存在であった事は間違いない。単に、夫の快楽の相手というだけではないというのは、今も昔も同じである。

夫との関係は良いものとなろう。それだけに失敗は許されない。そう、緊張して臨んだ儀礼ではあったが、すんでみれば、そう大したものではなかった。
(良かった。お義父様もお義母様もお優しい方で)
十分に練習はしてきたものの、完璧にできたというわけではない。しかし、真摯に取り組んでいるさまを見て、二人とも大目に見てくれた様である。
自分の顔を見た時、舅がちょっと驚いた様であったが、特に何も言われなかった。あれは、何だったのだろうか?ちょっと気になったが、すぐに頭から消えた。
(さぁ、あとは…うふふ)
この後は、お楽しみの、昨晩の続きである。あの人と、飽きるくらいに…。そう思うと、思わず顔がほころんだ。
「あなたぁ。さ…」
「あぁ。おいで」

「ハネム−ン」(=蜜月)という言葉がある。何でも、英国では、新婦が滋養に富んだ蜂蜜酒(ハニ−ワイン)を作り、それを一月にわたって新夫に飲ませるのだとか。滋養に富んだ酒を飲ませてする事と言えば…
やはり、であろう。
そういう風習の有無は分からないが、この新婚夫婦もまた、そういう状態であったろう事は、想像に難くない。

それからしばらく経った、ある日の事である。

22 名前:左平(仮名):2003/03/02(日) 18:25
十一、

牛氏の邸宅に、数人の男達が訪れた。多くの戦場を踏んできたのであろうか。その顔つき・体つきは、精悍そのものであった。その中でも、ひときわ体格の大きい男が、門番に話しかけてきた。

「ご主人はおられるかな?」
「えっ? 失礼ですが、どちら様でしょうか。今日は、お客様が来られるとは聞いておりませんが…」
「おっと、これは失礼した。あらかじめ連絡しておくべきであったな。すまぬが、おられるのであったら、董卓、字仲潁が参ったと伝えて下さらぬか」
「はい…。しばしお待ちいただけますか?」

「なに、董郎中殿がお見えだと?」
董卓の急な来訪を聞き、牛朗は驚いた。一体何の用件であろうか。
(まぁ、姜殿の様子を見に来られたのであろうが…)
何も聞いてないから、はっきりしたところは分からない。ともあれ、来られたのであれば、無碍に追い返すわけにもいくまい。
「はい。いかがいたしましょうか」
「どうするも何も、董家と我が家とは、今や縁戚であるぞ。すぐにお通ししろ」
「はい」
「それと、酒肴も忘れるなよ」
「はい」


その時、牛輔は自室におり、一人書を読んでいた。読み始めてからだいぶ経つのであるが、まだ終わりそうにない。
(う−む…難しいな…。でも、理解しないと…)
数文字読んでは首をひねり、しばらくしてうなる。その繰り返しであった。なかなか頭に入らない。

この時代を生きた名族の嫡男であれば、基礎的な教養として五経(詩経、書経、易経、春秋、礼記。もともとは六経であったが、楽経は早くに亡失した)を読むのは当然の事であった。当然、彼もそのくらいの教養は積んでいる。その彼をして「難しい」と言わしめたもの。それは、兵書であった。
この当時、いくつかの兵書があった。有名なものに、「孫子」(この頃には「孫武兵法」「孫ピン【月賓】兵法」があった。現在、我々が「孫子」と呼んでいるのは、「孫武兵法」の方である)「呉子」「司馬法」「六韜」「三略」「尉繚子」「李衛公問対」がある。

董卓の娘婿となる以上、戦いに出る事も多かろう。それは、かねてより覚悟していたが、親迎の儀礼の時、彼に会った事で、その確信は深まった。
(戦いに出たとしても、恐らく武勇では役に立てまい。だとすれば、何で役に立てるか。あまり自信はないが…智をもってお役に立つよりほかないな)
そう考えると、五経のみの知識では心もとない。戦場にあって役に立つ知識といえば、何と言っても兵書であろう。そう思って読み始めたのである。
必要に迫られての読書であるだけに、熱が入る。だが、実戦の経験はないだけに、どうしても不安が残るのも、また事実であった。

ところで、姜はどうしているのであろうか。彼女はというと、姑につき従い、婦人のすべき仕事(彼女たちは豪族の妻であるので、自身が炊事・洗濯などの家事をするわけではない。しかし、家人の仕事ぶりを監督したり、家の祭祀を行うという重要な役割がある)について学んでいるところである。
態度・もの覚えは、まずまずの様である。何より、嫌味がなく、素直であるのが良い。この分なら、良い婦人になれるであろう。

父母共に健在で、牛輔自身は無官であるのだから、今のところは何もする事はなさそうなものだが、そうもいかない。新婚夫婦だからといって、四六時中いちゃついているわけではないのである。

23 名前:左平(仮名):2003/03/02(日) 18:27
ふと気付くと、外が騒がしい。きりのいいところだし、ちと休むか。そう思った牛輔が部屋の外に出ると、家人達が忙しく立ち働いている。食事時でもないのに配膳の支度をしているのである。
「随分忙しそうにしてるが、何かあったのか?」
「あ、若様。実は、董郎中様がお見えなのです。で、酒肴の支度をする様に、との事なので」
「えっ!? 義父上が? で、いかがなさっておられる?」
「いや、今は殿とお話されております。どうも、大事なお話をされている様で…」
「そうか」
「また、何かあったらお呼びしますので」
「あぁ。分かったよ」
牛輔は、部屋に戻った。また読書を続けようとしたが、どうも落ち着かない。
(義父上は、何しに来られたのだろうか? 大事な話とは、一体何だろうか?)


牛朗と董卓は、向かい合って座っていた。体格は、董卓の方が大きいが、風格という点では、さしたる差はない様である。いや、この場に限っては、牛朗の方が堂々としているくらいである。
「ところで、いかなるご用件でしょうか?」
「えぇ。実はですな…」
董卓は口ごもった。豪放な彼らしくない態度である。
「はい。何でしょうか?」
「伯扶殿…」
「輔ですか?輔に、何か?」
「その…伯扶殿と姜を…我が別邸に移したいのです」
「はぁっ!? 一体、何をおっしゃっているのですか?」
牛朗は驚きを禁じ得なかった。いかに娘婿であるとはいえ、息子のいる人間が他家の者を手元に引き取りたいとは、一体どういうつもりなのであろうか。
「いや、驚かれるのはごもっともです。こちらの身勝手なお願いですからな」
「いや…その…」
牛朗には、わけが分からない。何と返事すれば良いのか。言葉が出てこない。
「我が家は、先年の戦の功により、弘農に移住する事になりました。それはご存知ですね」
「えぇ。存じております」
「ですが…。今の我が家は、武門です。都を向き、朝廷に仕える一方で、今後も、西で戦う事がありましょう。その時、西の事を委細もらさず把握する為には、この地に我が耳目となる人間が必要なのです」
「輔に、その耳目となってもらいたいという事ですかな?」
「そうです」
「ふむ…」
牛朗は、考え込んだ。董卓が、輔を高く評価しているのは喜ばしい。だが…。輔が、それを承知するであろうか。氏を変えるわけではないものの、この家を出て董卓の別邸に移るという事は、董氏の人間になれと言う様なものである。牛氏の嫡男としての資格を失うのではないか。そんな疑念をも与えかねない。
「こればかりは、私の一存では決めかねます。輔と姜殿に話した上、後日、返事させていただくというわけには参りませんか」
「分かりました。もともと、こちらからのお願いですからな」

「まぁ、堅い話はこのあたりにして。ところで、今日は、いかがなさいますか」
「えぇ。久しぶりに、姜の顔を見ていこうかなと」
「そうですか。お泊りになられますか?」
「よろしいのですか?」
「えぇ。では、さっそく支度させましょう」

24 名前:左平(仮名):2003/03/09(日) 21:48
十二、

その後、牛朗と董卓は、しばし談笑した。董卓にとっては、やはり隴西の方が気楽である様だ。ときおり、弘農の人間に対する愚痴もこぼれる。
「ははは…。まぁ、そうおっしゃられるな。もう一杯、いかがですかな?」
「えぇ。では、頂きます」
「しかし…。それならば、何故に弘農に移られたのですかな?」
「それはまぁ…。やはり、中央で高位を望もうとすれば、都の近くにいる方が何かと好都合ですからな」
「でしょうな」
「我が家は、代々の名族ではありませんからな。そちらと釣り合おうとすれば、多少の無理はやむを得ないのです」
「そういうものですか…」

「あら。父上ではありませんか」
そばを通りかかった姜が、声をかける。
「おっ、姜か。ほぅ…。しばらく見ぬ間に、また随分と女らしくなりよったな。伯扶殿に、たっぷりとかわいがってもらっておる様だな」
「もぅ、父上ったら。お義父様やお義母様もおられる所で、そんな事を言わないで下さい」
「ははは。これはすまんかったな。だが、当たっておろう」
「もぅ…」

姜がその場を離れると、また二人の話が続いた。
「ところで、一つお聞きしたい事があるのですが…」
「何でしょうか?」
「貴殿のご令室についてですが…」
「あぁ、瑠ですか。あれが、どうかしましたかな?」
「確か、羌族の族長の娘、と伺いましたが、間違いございませんね?」
「えぇ。…いかがなさいましたか?まさか、今になってこの婚儀を無かった事に、などとおっしゃるのではありますまいな」
「いやいや。その様な無礼な事はしませんよ。そうではなくて、ご令室のご家族について、お聞きしたいのです。これは、個人的な事です」
「はぁ…。まぁ、わしの知っている範囲でしたら何なりと」
「では…。まず、ご令室には、姉君がおられますかな?」
「いた、と聞いております。何でも、早くに亡くなったとか」
「その姉君は、漢人の男に恋し、子を成した。違いますかな?」
「えっ? 確かにそうですが、なぜその様な事をご存知なのですか?」
「その姉君の名は、琳、ですね?」
「たっ、確かに…」

董卓は、一瞬ぞっとした。別に内緒にしている事ではないが、かと言って、おおっぴらに話しているわけでもない。なぜそんな事まで知っているのであろうか。見当がつかない。

「驚かれましたか」
「あっ、当たり前です!我が家を探られたのですか?」
「そうではありません。こちらも驚きましたよ。姜殿の顔を見た時には」
「えっ?姜の顔を?」
「そうです。やはりそうでしたか…」
「おっしゃる事がよく分からぬのですが、どういう事です?」
「いやね。姜殿の顔を見た時、一瞬、琳と見紛うたのですよ。なるほど、伯母と姪でしたら、似てるわけですね…」
「伯母と姪?と、いう事は…」
「そうです。今は亡き我が妻・琳と貴殿のご令室・瑠殿とは、実の姉妹であろうかと」

25 名前:左平(仮名):2003/03/09(日) 21:50
「確かに、その通りの様ですな…。ここまで話が一致するとなれば、そうとしか考えられません。…と、なると…。伯扶殿と姜とは、従兄妹同士という事ですか」
「恐らく」
「こりゃまた…」
「まぁ、大した事ではありますまい。輔と姜殿は、姓が異なりますからな」
「それはそうですが…。名族・牛氏としてはそれでよろしいのですか?」
「えぇ。構いません」
「まぁ、それならそれでよろしいのですが…」

中国(及び朝鮮半島)には「同姓不婚」という原則がある。同じ姓(朝鮮の場合は、本貫【一族の始祖の出身地】も考慮する必要がある)の男女は結婚してはならないという事である。
一般的には、近親婚の禁止という意味でとらえられており、事実、だいたいの場合はそうなのであるが、時に、この様な事例も発生する。
現在の感覚でいうと、この場合も近親婚といえるのであるが、二人の姓が異なる為、問題にはならないのである。

翌日、董卓は帰っていった。彼が帰るのを見届けた牛朗は、さっそく牛輔・姜夫妻を自室に呼んだ。


父の表情は、いつもにも増して固い。義父との話は、思っていた以上に重要なものであった様だ。牛輔にはそう感じられた。だが、その内容までは、うかがい知る事はできない。
「父上。話とは、一体…」
「まぁ、そうせかせるでない。話は、二つある」
「二つ?」
「そうだ。その前に、姜に聞こう。そなたには、伯母上がおられたな。違うか?」
「はい。母上がまだ小さい頃に亡くなられたと聞いておりますが…」
「うむ。そして、その伯母上の名は、琳、ではないか?」
「はい…。ですが、なぜその事を?」
「実はな。琳は、輔の母なのだよ」
「えっ!? と、いう事は…」
「そうだ。そなた達は、血を分けた従兄妹同士という事になる」

全く予想もつかない話に、二人は茫然とした。では、自分達は近親婚をしたというのか…。

26 名前:左平(仮名):2003/03/16(日) 21:37
十三、

「おいおい。そう驚くなよ」
「おっ、驚かないわけがないでしょ! 従兄妹同士が交わったなどとは…。それでは、私達は禽獣以下という事ですか!」
「わっ、わたし、もぅ…」
二人とも、泣き顔になっている。こんな事が明るみになれば、人から何と言われるだろうか。その事を考えると、前途には絶望しかない。
「だから、驚くなと言っとるだろうが!よく考えろ。輔よ。そなたの姓は何だ?」
「牛です」
「では、姜の姓は?」
「董、ですが…」
「ほれ。二人は、姓が異なるであろうが」
「あっ…。そういえば…」
「孝恵皇帝(劉盈。劉邦の子で、前漢の二代皇帝)は、実の姪である張氏(恵帝の姉・魯元公主の娘)を皇后に迎えられたというし、孝武皇帝(劉徹。前漢の武帝)は、従兄妹である陳氏(陳氏の母・館陶公主は、武帝の父・景帝の姉)を皇后になさったではないか。その事で、何か非難されたか?」
「そっ、そういえばそうですね…」
「帝室においてもそうなのだ。ましてや、臣下たる我らの間でそういう事があっても不思議ではあるまい。姜が取り乱したのはまぁしょうがなかろう。しかしな。輔よ、そなたも一緒に慌ててはいかんな」
「はい…。気をつけます」
(いかんいかん。俺ももう結婚してるのだし、もっとしっかりしないと。…それにしても、父上はどうしてこうも落ち着いておられるのだ?)
ちょっと引っかかるものはあったが、その話はそれっきりであった。まぁ、もう過ぎた事だ。

「で、もう一つの話だが…。こちらの方が本題なのだが…」
「はい」
いきなりあれほどの衝撃的な話を聞かされたのだ。もう、大抵の事には驚かない。
「董郎中殿がな、そなた達を別邸に迎えたいとおっしゃったのだ」
「はぁっ!?」
驚かないつもりであったが、やはり驚かざるを得なかった。董郎中殿は、なぜその様な事をおっしゃったのか? 確かに、先の話ほどの衝撃ではないものの、冷静に考えると、その意味はより重いものがある。
「何でもな。『我が家は、武門である。都を向き、朝廷に仕える一方で、今後も、西で戦う事があろう。その時、西の事を委細もらさず把握する為には、この地に我が耳目となる人間が必要なのだ』という事であった」
「私に、その耳目になれという事ですか?」
「そういう事だ」
「はぁ…」
「この件については、わしからは返事をしておらん。そなたと姜の気持ち次第だ」
「…分かりました。明日には、返事をいたします」
そう言うと、牛輔は席を立とうとした。その顔は、固いままであった。

27 名前:左平(仮名):2003/03/16(日) 21:39
董氏の別邸に移るという事は、何を意味するか。それくらいは、別段深く考えずとも分かる。姓は牛のままであるにしても、事実上、董氏の人間になるという事だ。
父は返事をしなかったと言う。結論を出すのを自分達に任せたという事だが、本心ではどうお考えなのだろうか。私の事をどう思っておられるのか。そのあたりの事を考えると、気持ちがもやもやする。こんな事なら、父から答えてもらい、「こういう事になった」と結果だけ告げらける方が気楽である。
(それなら、義父上がおっしゃる様に董氏の別邸に移った方が良いか…)
移ったなら移ったで、その前途は、決して楽なものではあるまい。しかし、このままもやもやとした日々を過ごすよりはましであろう。
冷静を装ってはいるが、心のどこかで投げやりになっているのが分かる。だが、ひとたび気持ちがそうなってしまった以上、自分ではどうにもならない。
(やはり、輔の心中に疑念が生じているか…。このままでは、いかなる結論を出すにせよ、輔にとってはよろしくないな。なれば…)
父の目は、牛輔の動揺を正しく捉えていた。その上で、とるべき方策を考え、一つの答えを導き出した。

「輔よ」
「はい」
「わしはな、そなたがいかなる結論を出すにせよ、これを機に、隠居する事にしたよ」
「えっ!?なぜですか?」
突然の事に、牛輔は驚いた。父はまだ若く、これといって病に罹っているわけでもない。隠居する理由が見当たらないのである。
「そなたも結婚した。その様子だと、じきに子にも恵まれよう。…わしも、もう古い世代になっておるという事だよ。これは、良い機会だ」
「しっ、しかし…。それでは、私がここを出た場合、いかがなさるのですか?この家は弟が継ぐにせよ、まだ若過ぎますし…」
「おいおい。この家を継ぐのは、嫡男であるそなただぞ」
「えっ?」
「分からぬか。これからは、そなたが牛氏の当主という事だ。よって、そなたのいるところが牛氏の本宅という事になる」
「…」

牛輔は、無言のまま父の居室を後にした。

(父上は、どうして今隠居するなどとおっしゃったのか…)
それが何を意味するのか。よくよく考える必要がありそうだ。

自室に戻った後も、牛輔は黙りこんだままであった。

明日、回答を出すとは言ったが、彼の中では、既に一応の結論は出ていた。董氏の別邸に移る。その事については、迷いはない。その覚悟はできているつもりである。
だが。父の真意を捉えられない事には、どうもすっきりとしない。それが何であるかを考えている間に、いつしか外は暗くなっていた。

28 名前:左平(仮名):2003/03/23(日) 21:59
十四、

「あなた。もう遅いですよ。そろそろお休みにならないと」
既に寝支度を整えた姜が、床の中から心配そうに言う。いつもならば、寝支度が整ったとなると、飛びつく様に床に入り、自分を抱きしめるというのに。父が言い出した事で、夫が悩み苦しんでいるのであろうか。だとすれば、やりきれない。
「やはり、迷われているのですね」
「ん?」
「董氏の別邸に移るという事は、あなたが董氏の一員になる。少なくとも、世間はそうみなす。そういう事なんですよね」
「まぁ、そうであろうな」
「牛氏は、董氏よりも家格が上。その嫡男が、董氏の下風に立つのはいかがなものか。迷われるのも、無理はありません。…父は、いったんこうと決めたら後先考えずに行動するところがあります。難しいと分かれば無理はしませんから、そう気を使われる事はありませんよ」
「いや、その事については、迷ってはおらんよ。私は、董氏の別邸に移ろうと思う」
「えっ?なぜですか?」
「私が董氏の婿であるというのは事実だ。父上も反対していない以上、婿が義父に従うのは当然であろう。それに、そなたにとっても、ここよりも我が家の方が過ごしやすいはず。…我が母は、父上と結婚する為に家族から引き離されたという。母が若くして亡くなったのは、そのせいかも知れぬと父上はおっしゃっていた」
「でも…。わたしは、伯母上…いえ、お義母様と違って家族と引き離されたわけではありませんよ。本当に幸せです。それに体の方も、ほら、こんなに元気ですし」
確かに、姜の顔色は良く、病の気などみじんも感じさせない。
「まぁな。しかし…」

(んっ?)

そう言いかけた牛輔の頭に、ふっとある事が浮かんだ。
(そういえば、私と姜が従兄妹ではないかという時に、なぜ父上はかくも冷静だったのだろうか?)

姓が異なるから世間にとやかく言われるものではないというが、血のつながりがあるかも知れないというのは事実である。にもかかわらず、父は、この事については一切問題視しなかった。問題ないというどころではない。むしろ、望ましいとさえ思っていたのではないか。そんな気がする。
では、なぜ望ましいと思ったのであろうか。

(私も、姜も、ともに母は羌族の娘だ。二人の母が姉妹だったというのは、さすがに意外であったろうが。…つまり、二人は羌族の血を引く者。二人の間に生まれるであろう子もまた、羌族の血を引く者となる…)
(であれば、何にせよ、羌族とのつながりを否定する事はできない。我が牛氏は、代々羌族と対立してきたが、そうもいかなくなっているというわけだ。なにしろ、私自身、羌族の人間でもあるわけだから…)
(そんな私が牛氏の跡目を継ぐ事になれば…。牛氏のあり方が、今までと大きく変わるという事になる。また、そうならざるを得ないだろう。弟が継いだのでは、そうはならないが)
(父上は、そうなる事を見越して、あの様な事をおっしゃったのであろうか。そなたが牛氏のあり方を変えよ、という事なのか。私が董氏の別邸に移るのに反対しないというのも、そうせよという婉曲な意思表示なのか…?)
(だとすれば、私は父と義父から、えらく期待されている事になるな…。そんなに期待されても、応えられるかどうか分からないってのに…)
(まぁ、移る事自体はもう決めたから、返事はできる。その時にでも、父上に聞けばいいか)

自分の中で、一応の結論が出た。そうなると、急に気が軽くなった。

29 名前:左平(仮名):2003/03/23(日) 22:02
「姜。何か分かった様な気がするよ」
「何か、って何ですか?」
「まぁ、それはまたゆっくり話すよ。…明日からは、引越しの支度で何かと忙しくなるぞ」
「では、董氏の別邸に移られるのですね」
「あぁ。この部屋でそなたを抱くのも、もうあと少しだ」
そう言うが早いが、姜に抱きついた。
「もぅ、あなたったら。今度は、わたしの部屋でいっぱい抱いてくださるんでしょ」
「まぁな」
あとは、いつもの二人であった。

翌日−。

「で、輔よ。決まったか?」
「はい」
「ふむ。どうするつもりかな?」
「董氏の別邸に移る事にいたしました」
「そうか。ならば、その様にするがよい」
「はい」
父は、それ以上は何も言わなかった。顔を見ても、不満の色は感じられない。反対はしていない様だ。となれば、自分が推定した通りという事か。

「父上。一つお聞きしたい事がございます」
「何かな?」
「なにゆえ、私と姜が従兄妹かも知れぬという時に、父上はかくも冷静だったのですか?」
「なぜかって?そうさなぁ…」
「わしにも、よく分からぬのだ。ただ、不思議と驚かなかった。それだけだ」
「そうなのですか?私は、何か思われるところがあっての事と考えたのですが…」
「それは考え過ぎというものであろう。ともかく、二人の姓は異なるのだからな。ただな…」
「ただ?何でしょうか?」
「姜の母が羌族の女であるというのは事前に知っておった。そしてその事は、わし個人としては、むしろ望ましいとさえ思った。牛氏の当主としては、変な考えなのかも知れぬが…」
「…」

何となくではあるが、父の思いが分かってきた様な気がした。
父は、かつて羌族の娘を愛し、周囲の反対を押し切ってまで結婚した人だ。その結果として、今こうして自分がいる。
牛氏と羌族との関係がこのままでは、何かと問題になろう。どうして、敵の血を引く者が一族の中にいるのか、と。その事で、どこかから糾弾されるやも知れぬ。そうならない様、両者の関係を良好なものに変えたかったのだ。そしてそれは、かつて愛した人を弔う事でもある。
だが、牛氏の当主である以上、先祖の方針を変える事は難しい。そこで、董氏の婿でもある嫡男の自分に、その意思を託したのであろう…。

「父上。父上の思いが分かった様な気がします」
「そうか」
「父上は、牛氏と羌族との関係を良好なものにしたいとお考えなのではありませんか?そして、それができるのは、ともに羌族の血を引いた我が夫婦である、と」
「うぅむ…。そうかも知れぬな」
「私如き非才の者には重いやも知れませぬが…。父上の思いに応えられる様、精一杯努めます」
「そうか。その気持ちを忘れるなよ」
「はい!」

30 名前:左平(仮名):2003/03/30(日) 21:37
十五、

その日から、引越しの作業が始まった。牛氏にとっては、かつて羌族の叛乱の際に避難した時以来の、大規模な引越しであった。
なにしろ、姜を迎える際に持ち込まれた家財道具に加え、牛輔の身の回りの品、さらに、夫婦と共に移る家人達の持ち物もあるのだ。仕分けをし、車に積み込むだけでも一仕事である。

「これはこっち!それはあっちだ!それは…って、こりゃ持ってくもんじゃねぇだろうが!」
「あ−っ!それ、あたしの−!返してよ−!」
「これは…。こんなところにあったのか…」
「おい、ぐずぐずするな!さっさと運べ!後がつかえてるんだ!」
「へっ、へい!」
「まったく!今時の若いやつらは…」
作業を仕切る年長の家人が愚痴をこぼす。長らく牛輔の世話にあたってきた彼であるが、今回の引越しには同行しない。これが、牛輔の為にする最後の仕事である。

「まぁまぁ、そう怒るなよ。あいつらも、よその屋敷に移るってんで舞い上がってるんだろうからさ」
「若様、そうはおっしゃいますがね。あんなざまじゃ、牛氏の家人として恥ずかしいじゃありませんか。それにしても…。どうして若いのばかり選ばれたんですか?私ら年寄りはお嫌いですか?」

今回、牛輔夫妻に数人の家人が従う事になったが、その殆どは、牛輔と同年代の若者であった。牛氏と董氏とではしきたり等が違うだろうから、適応しやすい若者の方が良いと考えての判断である。また、若い主に年長の家人だと、守り役をつけられている様で、格好悪いという事もある。

「いや、そういうわけじゃないんだ。向こうには、董氏の家人がいるだろ?私は、いずれ牛氏を継ぐにしても、董氏の婿だ。婿がぞろぞろと家人を連れて来て、あまりでかい顔をするわけにはいかんだろ?」
「まぁ、そうなんですが…」
「そなた達の事を、嫌ったりするものか。…今まで、私の為によく働いてくれたな。感謝しておるよ。父上を、母上を、弟達を、よろしく頼むぞ」
「はい…」
「おいおい、泣くなよ。何も永久の別れというわけでもあるまいに。これから移る董氏の別邸というのは、この近くだ。来たくなったら、いつ来ても良いのだぞ」
「よろしいのですか?」
「あぁ」

全ての作業が終わったのは、数日後の事であった。
董氏の別邸には、親迎の儀礼の際に一度来ているものの、じっくりと内部を見たわけではない。あらためて見ると、想像以上に大きいのが分かる。
(別邸でこれだからな…)
特に豪奢なつくりというわけではないが、実用本位に作られたこの邸宅は、なかなか快適である。中でも、姜の居室は、女の寝起きする所らしく、こまやかな気配りが行き届いている。
(こういうところにも、義父上の人となりが表れているという事か…)


こうして、新たな生活が始まった。
牛輔は、まだ牛氏の跡目を継いではいない。さすがに、子が生まれていない段階で跡を継ぐのは時期尚早という事で、父には現段階での隠居を思い留まってもらったのである。

31 名前:左平(仮名):2003/03/30(日) 21:39
とはいえ、ここでは間違いなく、彼は一家の主である。若い家人達の指揮をとり、家内を治めるのは、なかなか大変な仕事である。
(父上には、しばし思い留まって頂いて正解だったな)
ちと情けないが、これで跡目を継いでいた日には、体がもたなかったかも知れない。
(とにかく、早く慣れないと…)
いずれ、自分が跡目を継ぐのである。のんびりしてはいられない。それに、いずれ出仕するとなれば、学問や礼儀、それに武芸も身に付けておかなければならない。

自分も大変ではあるが、姜は、もっと大変であろう。婦人としての修練もそこそこに、主婦になったのであるから。自分はまだ無官であるから、男としての仕事はまだ僅かであるが、彼女は女として一通りの仕事をせねばならないのである。

「無理するなよ。俺は、そなたがいてくれるだけでいいんだから」
夜、彼女を抱きしめながら、そういたわってやるのがせいぜいである。
「そう言っていただけると嬉しいです…」
そう言う声が、どこか弱々しく感じられる。気のせいか?忙しくて疲れているのか?ならいいのだが、やはり心配である。
「そろそろ冷えてくるからな。俺が暖めてやるよ」
「はい…」

数日後の事である。
自室で書を読んでいると、何だか外が騒がしい。ふと見ると、家人達が慌しく走り回っている。
「若様!…いえ、お館様!たっ、大変です!」
「どうした!騒々しいな、何事だ!」
「そっ、それが…。奥方様が、気分が悪いとおっしゃって…」
「なっ、何っ!姜が!」
「いかがいたしましょうか」
「と、とにかく、一刻も早く診てもらえ!」
「はい!」
(やはり具合が悪いのか…)

「ふむふむ、ほぅほぅ…。なるほどな…」
「で、いかがですか」
「なに、心配ご無用。ご懐妊ですよ」
「か、懐妊!それは、間違いないでしょうね!」
「えぇ。間違いないです。ご気分が悪かったのは、つわりのせいですな。ま、奥方様は初産になられるのですから、お体には十分ご注意なさる様にして下さい」
姜が懐妊…。という事は、もう何ヶ月かで、自分は父親になるという事か。いずれこういう日が来るのは分かっていたが、まだ、いま一つ実感はわかない。

「姜、具合はどうだ?」
「あっ、あなた。すみません…心配させてしまって…」
「いいんだよ。ゆっくり養生するといい。そなたの体は、今やそなただけのものではないんだから。無理はするなよ」
「はい」
「しかし…。ここから赤子が出てくるというのが、何とも不思議なもんだなぁ…」
「そうですね…。わたしも、よく分からないです」
「不安か?」
「確かに不安ですが…。でも、嬉しいです。確かに、今、あなたとの子供がここにいるんですから」
「そうだな…」

32 名前:左平(仮名):2003/04/06(日) 21:16
十六、

その知らせは、ほどなく董卓のもとにも届けられた。まぎれもない吉報である。
「なに?姜が懐妊したとな?」
「はい。あと六、七ヶ月ほどでお産まれになるとの事です」
「そうか。来年には孫の顔を見られるか。伯扶め、真面目そうな顔をして、なかなかやりよるな」
そう言う董卓の顔は、ほころんでいた。無理もない。自分自身がまだ十分若いうちに、早々と孫の顔が見られるというのだから。当時に限らず、子孫が増えるのを喜ばぬ者はいない。

だが、一方で、気になる事もあった。娘婿である牛輔の力量については、まだ未確認のままなのである。果たして彼は、将として、また、自分の補佐役として、ふさわしい人物であろうか。
いずれ彼は牛氏の跡目を継ぐであろう。そうなってから万一の事があっては大変である。今のうちに、その力量を見極めておかないと、えらい事になりかねない。
(と、なると…。そろそろ、伯扶にも戦を経験してもらわぬとな。それも、今年のうちに)
董卓の顔から喜色が消え、鋭い表情となった。それは、紛れもなく、将としての顔であった。

董卓が牛輔邸を訪れたのは、それから間もなくの事であった。
「なに?義父上がお見えになったとな?」
「はい。ただ今、堂にてお待ちになっておられます」
「そうか…」
「分かった。すぐに堂に行く。酒肴を支度しておいてくれ。頃合いを見てお出しする様にな」
「はい。直ちに支度します」
(姜の懐妊を祝いに来られたのであろうが…。どうも、今回はそれだけではなさそうな気がする)
よく分からないままではあったが、ともかく、服装を整え、義父の待つ堂に向かった。

堂では、董卓と姜が談笑していた。

「おぉ、伯扶殿か。姜が懐妊したと聞いてな、こうして祝いに参ったよ」
「はい…。それはかたじけないです」
牛輔は、うやうやしく拱揖の礼をとった。董卓からすると、娘婿のそういう態度には多少改まったものを感じないでもないが、まだ何度も会っているわけではないだけに、まぁ、こんなものであろう。
将として牛輔という人物を見ると、多少線の細さを感じないではないが、人としては悪い感じはしない。これなら、鍛えれば何とかなりそうである。
「まぁ、そう堅くならずともよい。…ところで、そなた、わしに何か聞きたい事があるのではないか?」
「は?」
「顔を見れば分かるよ。わしがここに来たのは、単に姜を祝いに来ただけではないと考えておろう?」
「はぁ…」
図星である。言い返し様もない。
「思った事がすぐ顔に出る様ではまだまだだが、まぁ、今はよかろう。そなたの思っている通りだよ」
「えっ!?」
「驚くでない。そなたにも分かっておろう」
「まぁ…。まだおぼろげではありますが…」
「なら、話が早い」
そう言うが、董卓は座り直した。父もそうだが、こういう姿勢をとった時は、だいたい真剣な話である。
さっきまで談笑していた姜も、その言わんとする事を察したのか、顔つきが変わった。さすがは董卓の娘である。その顔には、凛としたものが感じられる。

33 名前:左平(仮名):2003/04/06(日) 21:18
「季節は秋。そろそろ、羌族など遊牧の民が暴れだす頃だ。それは、そなたも知っておろう」
「はい」
羌族については、彼自身もよく分かっているつもりである。収穫の時期を狙って蜂起するという事は十分に考えられる。
「今の羌族には、鮮卑の檀石槐の様な大物はおらぬ。それゆえ、この地では、孝安皇帝や孝順皇帝の御世に起こった様な大乱は、そうそうあるまい。だが、彼らの叛乱は止まぬ」
「…」
その様に言われると、牛輔としては、黙り込むしかなかった。果てなく続く戦いという事か。そんな中で、自分は一体どう振る舞えば良いのだろうか。
もとの護羌校尉・段ケイ【ヒ+火+頁】は、褥で眠る事がないと言われている。辺境に身を置き、異民族との戦いに明け暮れる者の有り様とは、そういうものなのかも知れない。だが…。自分には、そうなる自信はない。義父は、自分にどこまで求めるのであろうか。
その様子に気付いたのか、董卓の口調は穏やかなものに変わった。
「そんなに深刻な顔をするでない。今は、我らがごちゃごちゃ考えててもしょうがない事だ。…近く、羌族の討伐を行う。それに、そなたも従軍してもらおう」
「はい」
否応も無い。既に予想していた事である。姜も、そういう覚悟はしていたのであろう。特に驚く様子は見られない。


邸内が、また慌しくなった。引越し、奥方の懐妊に続き、今度は主人の出征である。加えて、来年には長子の誕生もひかえている。
「やれやれ、忙しい事だな」
家人達は、そう微苦笑した。若者が多く、経験も乏しいだけに、手際は良くない。ただでさえ忙しいというのに、よくもまぁ次々といろんな事が起こるものだ。ただ、そうはぼやきつつも、彼らの表情は明るい。いずれも凶事ではないからだ。これで主人の名が上がれば、より高位に就く事もあるだろう。それは、一家の繁栄につながるのである。

牛氏としては、戦いに赴くのは、久しぶりの事である。年配の家人の中には、自分が従軍するかの様に興奮する者もいる。
「腕が鳴りますなぁ。わしがもう少し若ければ、若…いや、殿の為に手柄を挙げてみせますものを」
そんな周囲の喧騒の中、牛輔もまた、気持ちを昂ぶらせていた。

34 名前:左平(仮名):2003/04/13(日) 20:09
十七、

出立の日が来た。
真新しい戎衣(軍服)に身を包んだ牛輔の姿は、多少のぎこちなさを残してはいたものの、それなりに凛々しいものであった。
「あなた、行ってらっしゃい」
「あぁ。行って来るよ」
ちょっとどこかに外出するかの様な、何の変哲もないやりとりである。聞いただけでは、これから戦場に赴くとは思えない。
(何としても、生きて帰るぞ。子供の顔を見るまでは死ねない。これが永久の別れになってたまるか)
いよいよ、戦いである。「今回の戦の相手は、羌族である。さして大規模なものではない」義父からはそう聞いてはいるものの、何が起こるか分からないのが戦場である。油断はならない。

「うむ。思っていたよりは似合うな」
董卓は、娘婿の姿をそう評した。今回は、さして難しい戦ではない。そんな思いが、こういう軽口になって出てくる。
(とにかく、伯扶に実戦を経験させておかんとな。あれには、いずれ、勝【董卓の嫡子。実際の名は不明】も補佐してもらう事になるのだからな)
今は、牛輔(及び牛氏の保有する兵力)を戦力としては見ていない。だが、羌族との戦はこれからも続く。次の世代を担う者を育てねばならぬのである。

もっとも、董卓がそこまで考えている事などは、牛輔には分かろうはずもない。
「義父上。『思っていたよりは』とはどういう事ですか」
つい、そんな不満が漏れる。
「いや、すまんすまん。細身のそなたの事だから、『衣に勝(た)えざるが如く』見えるのではないかと思ってしまってな。許せよ」
「私とて、少しは鍛えております。お気遣いは無用ですぞ」
「そうか。どうやら、揃った様だな。では、出発するぞ!」
「お−っ!!」
兵達から、喚声があがる。士気は、十分だ。

二人は、馬首を揃えて進んだ。戦場に着くまでは、強いて語る事もない。皆、無駄口をたたく事もなく、無言のまま行軍する。
戎衣を身にまとい、愛馬・赤兎馬にまたがった董卓には、何ともいえない威厳が漂っている。
(果たして、私は義父上の様になれるだろうか)
年齢・経験はともかく、体格・武勇、どれ一つとっても自分は義父には遠く及ばない。その冷厳な現実を、あらためて見せ付けられるのは辛い。
(いや、今は、眼前の戦いに集中する事だ)
さまざまな思いが頭をよぎるが、牛輔もまた、無言のまま進む。

戦場が近付きつつある。董卓は、数騎を偵察に放つ事にした。

偵察に向かう者達が董卓の前に呼ばれた。彼らを見ると、実にさまざまである。
精悍な面構えをした、いかにも強そうな者もいれば、ひょろりとして、自分よりも弱そうな者もいる。騎馬の者もいれば、徒歩の者もいる。経験を積んだ老兵もいれば、若い新兵もいる。
「義父…、いえ、郎中殿」
牛輔は、「義父上」と言いかけて、慌てて言い直した。これから、戦である。私情を挟むのは禁物だ。
「これは一体…?」
「どうした?敵の様子を探るのは、戦いにおいては必須であろう?」
「いえ、偵察する事については全く異存はございませんが…。なぜこの様な者達を集められたのですか?」

35 名前:左平(仮名):2003/04/13(日) 20:12
「こいつらは、目が良い。それに、一人で戦うほど無謀ではないし、逃げ出すほどの腰抜けではない。それではいかんか?」
「いえ、そうではなくて…。彼らは、体格といい、経験といい、てんでばらばらではございませんか。それでは、報告にぶれが生じるのではありませんか?」
「ふむ。そなたの言う事にも、一理ある。だが、わしにはわしの理がある」
「そうですね。よろしかったら、教えて下さいませんか?」
「そうだな。後学の為にも、話しておこうか」

「そなた、『孫子』は読んだ事があるか?」
「はい。まだ、十分に理解したとまでは言えませんが…」
「まずは、読んでおれば良い。読んでおるのならば、『彼を知り己を知らば百戦して殆うからず』という言葉は知っておろう?」
「はい。存じております。ですが、その言葉がいかがしたのですか?」
「人とは、不思議なものよ」
董卓は、静かにそう言った。そう言う彼の姿は、普段の豪放な姿とはまた違うものがある。
(義父上に、この様な一面があるのか…)
武勇の人・董卓にこの様な思慮深さがあるとは、正直、意外であった。だが、郎中ともなれば、それ相当の修練を積んでいるもの。別段、不思議な事ではない。

「他人の事については、凡人でもそれなりに批評できるというもの。近頃、汝南の方にそういう輩がいるらしいな。確か、許子将(許劭。子将は字)とかいったか。まだ、ほんの若造だというのにな。…だが、こと自分の事になると、なかなかそうもいかぬ」
「確かに」
「たとえば、こいつをどう見る?」
そう言って董卓が指差したのは、精悍な面構えをした青年である。
「私には、逞しい男だと思われますが…」
「そなたにはそう見えるか。だが、わしには、まだまだひよっ子に見える」
「それはそうでしょう。郎中殿より逞しい男は、そうはおりませぬから」
お世辞ではない。事実、董卓の体格・膂力は、誰から見ても並外れたものであった。
「そこなのだ。同じものを見ても、見る者によってこうも違ってくる。…事実というものは、確かに一つしかない。しかし、一人が見たものは、あくまでも『その者が見た事実』に過ぎぬのだ。…何を言いたいか、分かるか?」
「はい。まだおぼろげにですが、郎中殿のおっしゃる事が分かってきました。様々な視点から物事を見る事で、『本当の』事実に近付こうというわけですね」
「そうだ。わしがこいつらを偵察に遣るのは、そういう意図からだ」
「そして、彼らの知らせを、将たる郎中殿が分析し、判断なさると」
「そういう事だ。もちろん、わしが的確な判断を下せるという前提があってこそなのだがな」
「そうですね」
「恐らく、ここ涼州までは来ぬであろうが…鮮卑にも注意せねばな。我らの兵力では、檀石槐には勝てぬ。まぁ、わしにとって怖いのはそれくらいだ。だが、気をつけぬとな。そなたに万一の事があったりすれば、姜に怒られてしまう」
「それは…」
こんなところで妻の名を出されるとは。何とも気恥ずかしい。

「では、行けっ!」
「はっ!」
董卓の号令のもと、数名が偵察に放たれた。

36 名前:左平(仮名):2003/04/20(日) 20:27
十八、

部隊は、戦いの地に近付きつつあった。既に、吹く風は冷たくなりつつある。冬が近いのである。
果てしなく広がる平原にあるのは、ただ、僅かな灌木と枯草ばかり。いかにも、荒涼とした風景である。
(なにゆえ、羌族の叛乱は止まぬのか)
よくは分からないが、この風景に、その答えがある様に思われる。

董卓のもとに、鮮卑についての知らせが届いた。今のところ、これといった動きはないらしいので、直ちに涼州が脅威にさらされるという事はない。あとは、やがて眼前に見えるであろう、羌族のみである。
やがて、偵察に出ていた者達が帰ってきた。

「千は越えているかと思われます。なにぶん遠くからでしたのでよくは分かりませんが…。砂埃の立ちようからして、そう考えられます」
「いや、せいぜい五、六百といったところです。私は、確かにこの目で敵兵を見ました。間違いございません」
「多くは騎兵でした。かなりの精鋭かと思われます」
「将らしき者は見当たりませんでした。個々の敵は精鋭でも、まとまりは悪いはずです」
「この先には、なだらかな丘がある程度です」
予想通り、彼らの報告は、実に多種多様なものであった。一部、相反するものもある。

「ふむ。そうなると…」
董卓は、顔を上げ、天を仰いだ。天を見つめながら、彼は、報告を分析し、然るべき判断を下すのである。
しばらくその状態が続き、しばし目を閉じた後、かっと目を見開き、大声で叫んだ。
「皆の者! 戦いはすぐそこだぞ!」
兵達に、一斉に緊張が走る。董卓の脇にいた牛輔も、思わず体がびくっとした。
「敵はこの先数里! 数は数百!」
「隊列を整えよ! 小高い丘を目印に進め! 長兵、最前列へ! 弩兵はその後ろにつけ! 騎兵は後列につくのだ!」
ひとたび動き始めたかと思うと、次々と指示が下される。兵達の動きが、慌しくなった。だが、その動きに目立った乱れは見られない。皆、将の指示に従い的確に動いているのである。
その動作の見事さに、牛輔はしばしみとれていた。将たる者は、かくありたいものである。

やがて、小高い丘が見えた。ここを少し過ぎ、丘を背にする形で布陣を進めていく。陣形が整う頃、徐々にではあるが、敵の姿が見え始めた。
ほぼ、報告のとおりである。その数、数百といったところであろうか。こちらは千数百というところであるから、数の上では優勢である。その一方で、個々の武勇という点では羌族の方が上回るであろうから、あとは、戦い方次第である。
幸い、こちらの方が位置的には高みを占めている。突撃するにせよ、陣を構築するにせよ、見上げて戦うよりも見下ろして戦う方が何かとやり易いし、力学的にも有利である(例えばボ−ルを投げ下ろすのと投げ上げるのと、どちらがより速いだろうか?)
平原に、双方が対峙する形となった。双方の距離が百歩(一歩=約1,4m)余りまで詰まったその時、喚声とともに、羌族の騎兵が一斉に突撃を開始した。

37 名前:左平(仮名):2003/04/20(日) 20:30
乾燥したこの地では、少し動いただけでも砂埃が上がる。彼らの突撃を見ていると、なるほど、数百の敵が千以上に見えたのもうなづける。馬術ひとつとっても、遊牧の民である彼らの方が上である。
「長兵! 構え−っ! 弩兵! 矢をつがえよ!」
董卓の号令のもと、各々の兵士が動く。ほどなく、両者が激突した。

前列に並んだ長兵が、突進する敵に向かって一斉に戈を振り下ろした。単純な攻撃ではあるが、首筋に刃が突き刺されば直ちに致命傷となるし、これだけの重量物が頭に直撃したなら、死にはしなくても気絶する。これによって少なからぬ敵が打ち倒された。だが、多くはそれをかいくぐり、兵を蹴散らしていく。
騎兵と歩兵とでは、明らかに歩兵の方が分が悪い。騎兵の方が速いし、何より、練度が違うからである。
当時、鐙はまだ発明されていない。その為、馬を使う騎兵は、必ずそれ相当の訓練を積んでいる。それに対し、歩兵は、一般から集められた戦の素人である。こちらの歩兵が一度戈を振り下ろす間に、敵の騎兵は突撃をかけ何回も戟を振り回せるのである。
「郎中殿!このままでは!」
実戦は初めての牛輔にも、緊迫しているのが分かる。
「分かっておる! 撃て−っ!!」
直ちに、弩から次々に矢が放たれた。それは、単に敵を倒すだけではない。雨あられの様に矢を射掛ける事で敵と長兵との距離を開け、長兵による再度の攻撃を容易にするのである。敵の突進によって一度は乱れた長兵が、これにより、やや落ち着きを取り戻した。
一方で、長兵が最前列に立つ事で、弩兵が矢をつがえる為の時間を稼ぐ。長兵に多少の犠牲を強いるとはいえ、実に理に叶った配置といえる。

(さすがは義父上。これならば、勝利は確実だ…)
少し余裕を覚えた牛輔は、ふとある事に気付いた。風が、こちらから敵方に向かって吹いているのである。
(これは! あたりは平原だし、火をかければ…)
楽勝であろう。それに、こちらの犠牲者も少なくてすむはずである。

「郎中殿! 火を用いましょう! 今なら風向きもよろしいかと!」
「火か…。ならぬ!」
「えっ!? なぜでございますか?」
さっきの話しぶりからして、董卓は十分に兵法を心得ている。今こそ、火計を仕掛けるのに絶好の機会のはずである。
(なぜ、義父上は火計をなさらないのか?)
牛輔は、困惑した。

38 名前:左平(仮名):2003/04/27(日) 20:49
十九、

「郎中殿! いま火を用いればわが方はもっと楽に勝てますぞ! なにゆえ…」
「黙れ! その事は口にするでない!」
「しかし! このまま普通に戦い続けていては、勝利しても犠牲者が多く出ます!」
「分かっておる! だがな、火を用いるわけにはいかんのだ!」
「なっ、なぜ…」
「くどいぞ、伯扶! それについては、後でゆっくり話す!」

董卓は、頑ななまでに火を用いようとはしない。なぜか?今の状況では、火をかけるべきではないというのだろうか?
(いや、そんなはずはない。この時期、急に風向きが変わる事はないし、第一、弩の攻撃によって双方の兵は離れている。まかり間違っても、こちらが火に巻かれる事はないはずだ)
戦術的に見れば、火を用いない理由が見あたらない。となれば、董卓が火計を仕掛けないのには、それとは別の理由があるというのか。
牛輔がそう考えているうち、徐々に勝敗の行方が見えてきた。

長兵と弩兵による複合攻撃に、羌族の騎兵は翻弄された。いかに精鋭であるとはいえ、長時間にわたって駆け回った為、人馬ともに疲れの色は隠せない。その様子を董卓は見逃さなかった。
「今だ! 者ども、行け−っ!」
号令のもと、周りにいた騎兵が一斉に丘を駆け降っていった。個々の武勇という点においては、漢人の兵は羌族のそれに劣るが、組織的に動くという点では優っている。
羌族の騎兵に疲れが見える今なら、彼らと十分に戦えるであろう。先の報告を聞く限りでは、敵に援軍はいないらしい。眼前の敵を撃破すれば、まずはこちらの勝ちだ。
(これで、この戦は終わる…)
牛輔は、心底ほっとした。と、思ったその矢先。

「伯扶、何をしておる!」
董卓の声に、思わずはっとした。見ると、自分以外は皆丘を駆け下り、敵の追撃に入っているではないか。しかも、将の董卓が、いつの間にかその先頭に立っている!
「もっ、申し訳ありません!」
牛輔も、直ちに馬を駆り、追撃に入った。戟を握る手に、力が入る。
(いかん。ぼんやりしてた)
一人出遅れてしまった。後でお目玉を喰らいそうである。懸命に追いつき、彼なりに戦った。結局、一人も討ち取る事はできなかったが。

凄まじい掃討戦となった。董卓の武勇は、既に羌族の間にあまねく知れ渡っており、我こそはという羌族の勇者達が、何人かうちかかって来た。あれほどの激戦を戦ってきたというのに、彼らはまだそれほどの力を残しているというのか。牛輔には、正直信じられなかった。遊牧の民の力を見せつけられる思いがした。
「郎中殿! 危のうございますぞ!」
「なに、心配は無用ぞ!」
董卓は、馬上から巧みに矢を放ち、戟を振りかざしつつ、向かってくる敵を蹴散らしていった。彼の通るところ、次々と敵兵が斃れていく。鐙のないこの時代において、漢人で、これほど騎射に長けた者は、そうはおるまい。
(義父上、凄いな…)
ただただ感心するばかりであった。噂通りの、いや、それ以上の武勇である。

日が暮れる前に、戦は終わった。
数百の敵を討ち取るとともに、敵の所持していた牛馬を押収した。こちらにも少なからぬ犠牲は出たが、死傷者一つ比べてみても、こちらの勝利である事は間違いない。

39 名前:左平(仮名):2003/04/27(日) 20:51
「深追いは無用! 今宵は、この辺りに宿営するぞ!」
その言葉を待っていたかの様に、兵達は得物を手から離し、食事の支度を始めた。表情にはまだ十分に精気があるものの、長時間の激闘を経て、肉体の疲労は相当のものがあろう。確かに、ここらで休ませた方が良さそうである。
数人の兵が、敵の逆襲に備えて偵察に向かうと共に、交替で見張りに立つ。ここは、まだ戦場である。気を緩めきってはならない。

しばらくして、食事の支度が整った。日はもう暮れつつある。
「皆の者、今日はご苦労であった。恩賞については、おって沙汰を致す。身はまだ戦場にある故、存分にとはいかぬが、少しばかり酒を携えておる。飲むが良い」
杯を手にした董卓がそう言うと、わっと喚声があがった。その多くが庶民である兵達にとって、酒などそうそう飲めるものではない。ましてや、生きるか死ぬかの戦いを終えたばかり。喜ぶのも無理は無い。
「郎中殿!」
「ん? 伯扶よ、どうかしたか?」
「ここは戦場ですぞ。いくら戦いに勝利したとはいえ、凱旋もせずに酒を振る舞うというのはいかがなものかと…」
たとえ祝杯であっても、戦場で飲酒とは何たる事か!これが初陣である牛輔にとってみれば、気が気ではない。義父は、歴史を知らないのであろうか。

春秋時代のなかば、晋と楚が、中華の覇権をかけてエン【焉β】陵の地で戦った時の事である。一日の激戦の後、楚の司馬・子反(公子側)は、疲れをおして軍を督励し、懸命に態勢を立て直したが、ひと段落ついたところで、つい酒を口にしてしまったのである。彼は酒好きであった為、一度飲み始めると止まらず、ついに酔っ払ってしまった。たまたまその時、王(共王)からの諮問があったのだが、酔っ払っていた為に答えられないと知った王は激怒し、戦場を離脱してしまったのである。
結局、王が戦場を離れた為、軍は撤退し、楚の覇権は失われた。司馬・子反はその失態を苦にし、遂に自殺して果てた。
また王も、一時の怒りの為に臣下を死に追いやった事を恥じ、自らの諡を悪い意味のものにせよと遺言したという(彼自身は、楚の歴代の王の中でもなかなかの名君だった)。

「あぁ、敵の逆襲が気になるという事か?」
牛輔の苛立ちとは対照的に、董卓の返事は暢気なものであった。その落差が、ますます彼を苛立たせる。いつもなら、目上の者に対して声を荒げる事はないのだが、今回ばかりはそうもいかない。
「当たり前です!」
「心配するな。偵察の者を遣っておるし、きちんと見張りも立てておる。第一、酔っ払うほどの量の酒は携えておらぬわ」
「そうはおっしゃいますが…」
「ふふっ。わしが何も知らぬとでも思ったか。戦場で酒を過ごして失敗した者がいた事くらい、知っておるよ」
「えっ?」
「わしとて、『左伝(春秋左氏伝)』くらいは読んでおるという事よ。そなた、楚の司馬・子反の故事を言いたいのであろう?」
「あっ、はぁ…」

40 名前:左平(仮名):2003/05/04(日) 02:15
二十、

考えてみれば、そうであろう。この時代の人士で、『孫子』を読んでいて『左伝』を読んでいないという様な者はまずおるまい。
そう言われると、自分の知識の浅薄さが、急に恥ずかしくなった。
義父は、経験と学問を積む事で、その人物・思考に確かな厚みを持っている。それに比べ、自分は…。牛輔は、黙りこくったまま、うなだれるしかなかった。

「そんなに気にするな。そなたの諌言が、我らの気の緩みを引き締めてくれたのは確かなのだからな。周りをよく見よ」
確かに、酒が入っているにも関わらず、騒ぐ兵はいない。しかし、その言葉を額面通りに受け取る事はできなかった。
(確かに、私の言葉が少しは役に立ったのかも知れない。だが…)
董卓といい、兵達といい、幾度も戦場を駆け巡り、死線をかいくぐって来た者達である。そんな彼らに、新参の自分如きが口をはさんでも、恥を晒しただけではなかったか。恥ずかしいやら情けないやら。

「おい、どうだ。そなたも一杯」
「はっ、はぁ…。では、頂きます」
杯を渡された牛輔は、一気にその中の酒を飲み干した。ここが戦場である事は承知しているが、あれこれ考えていると、何だか酔っ払ってしまいたくなった。
「おいおい、そんなに急いで飲まずとも良かろうに」
「えぇ。ですが…何だか、飲みたくなってきました」
「そうか。では、もう一杯いくか」
「では」
酔っ払おうかと思ったものの、そんなには飲めなかった。すぐに眠たくなったからである。そのまま横になると、たちまちのうちに眠りに落ちた。


しばらくして目が覚めた。あたりはまだ暗く、兵達も、見張りに立つ者を除いては、皆熟睡している。
やはり、この時期に野外で眠るのは、ちと寒い。眠っている者を見ると、適当な枯草やら中身を出した嚢やらを夜具の代わりにしている。中には、戦死した仲間の上着を頂戴している輩もいる。
(はぁ…。味気ないな。いつもなら、姜を抱いてるところなんだが)
そんな事がすぐに思い浮かぶあたり、やはり新婚である。

朝までには、まだ時間があろう。もう少し眠っておきたいところであるが、このままでは寒い。何か夜具の代わりになるものはないか。牛輔は、半ば寝ぼけつつ、あたりを物色した。
「案外、ないもんだな。かといって、火をおこすわけにもいかないし」
そうつぶやきつつ、陣中をうろうろしていた。

ふと見ると、こんな時間に一人立っている者がいる。暗いので、はっきりとは見えないが、巨躯の男であるらしい。
(あれ? あれは…誰だっけ?)
いつもなら、そんな人影に近付くはずもないのであるが、眠気で頭が鈍っていたせいか、ふらふらとそちらに向かっていった。
「そんな所で何してるんだ?」
そう、何の気なしに声をかけた。

41 名前:左平(仮名):2003/05/04(日) 02:19
「ん? なんだ、伯扶か」
そっ、その声は! 
「ち、義父上ではありませんか! こんな夜更けに何をしておられるのですか!」
「あぁ、ちょっとな」
そういう董卓の顔は、いつもとは少し違って見えた。そこはかとなく厳粛さが感じられるのである。これから凱旋する将には見えない。

「明日も早いではありませんか。もう休みましょう」
「分かっておる。だがな、もう少しこうしておりたいのだ」
何か思うところがあるのか、自分が何か言うくらいでは、動きそうにはない。まぁ、明日は凱旋だ。もう一日くらいは、体ももってくれるであろう。そう思うと、がぜん興味が湧いてきた。
「義父上がおられるのでしたら、私もお付き合い致しましょう。…それにしても、何をしておられたのですか?教えてはいただけないでしょうか」
「そうだな。そなたにも、話しておいた方が良さそうだな。…実はな、こいつらに誄(るい:しのびごと。死を悼む言葉・文章)を読んでやろうと思ってな」
「誄、ですか…」

彼の口からそういう言葉が出るとは、正直、意外ではあった。だが、兵の死に思いをはせ、それを無駄にしないのが良将というものである。
(義父上は、紛れも無く良将であらせられる)
それが分かったというだけでも、この戦いに従軍した意味があった。この方の娘婿になって良かった。心底そう思えた。
「もちろん、そんな大層なものはできん。わしは哀公(孔子が亡くなった当時の魯公)ではないし、こいつらも孔子ではないからな。まとめて、簡単なものを読む程度だが」
「確かに、我が方の勝利とはいえ、少なからぬ戦死者を出しましたからな」
「そうだ。だが、それだけではない」
「えっ?」

牛輔が一瞬きょとんとするのを尻目に、董卓はある塊に近付き、黙祷した。兵の屍である。
だが、何か様子が違う。頭のあたりに付いている飾りなどを見ると、漢人のものではない。まさか!
「義父上、その屍は敵のものではありませんか!」
これには驚いた。義父は、間違って黙祷しているのではないか。だが、その返事は意外なものであった。

「そうだ。分かっておる」
「えっ? では、義父上は敵に対しても誄を読まれるのですか…。しかし、なぜ…」
「なぜかって? そなた、母が羌族の娘であったという割には、羌族の事を知らぬ様だな。…まぁ、仕方あるまい。牛氏と羌族とは、長く敵対しておるゆえ、接触する事自体少ないからな」
「ですが…」
「いい機会だ。そなたに話してやろう。わしが我が義父(琳・瑠姉妹の父)から聞いた事や、羌族の連中から直に聞いた話をな」

42 名前:左平(仮名):2003/05/05(月) 21:21
二十一、

話?一体、どの様な話があるというのだろうか。羌族は文字を持たぬはず。口伝で何かしらの説話があるにせよ、これといった話があるとは考えにくいが…。
「そなた、羌族とはいかなるものだと思う?」
えっ?いかなるものか? 牛輔には、その問いの意味が分からなかった。
「いかなるものと急におっしゃられても…。我ら漢人にとっては、しばしば叛乱を起こす厄介な存在としか思えませんが…」
「そう思うか」
「それ以外、どうとらえればよろしいのでしょうか? 私には分かりかねます」
「分からぬか。ならば聞こう。『羌』という字はどの様な字だ?」
字の事を聞いてどうしようというのだろうか? ますますわけが分からない。

「えぇっと…。確か、『羊』と『人』が組み合わさった感じの字ですね」
「そうだ。では、我が娘にして、そなたの妻の名は何という?」
「『姜』です。しかし、それがどうかしたのですか?」
「何か気付かぬか?」
「えっ?」
「まだ気付かぬか。『羌』と『姜』という字は似ておるであろう」
「そういえば、確かに」
「いや、もともと同じ起源を持つ字かも知れぬな。…『姜』姓といえば、有名な人物がいるであろう」
「太公望、ですね」

太公望呂尚−。多少なりとも経書・史書を読んでいる者であれば、その名は必ず知っているであろう有名人である。周の文王に見出された彼は、殷周革命の立役者の一人として活躍した(あとの二人は、周公旦と召公セキ【大の左右の脇に百】)。兵法にも秀でていたとされ、漢の高祖・劉邦の謀臣として活躍した張良が黄石公なる人物から授かったという兵書の著者に擬せられている。

「そうだ。そして、彼を始祖とする国が斉(西周・春秋期。戦国期の斉は田氏の国)だ。それは、そなたも知っておろう」
「はい。春秋五覇の一人・桓公を生んだ斉ですね」
「そればかりではないぞ」
董卓の話はなおも続く。
「その太公望が仕えた周の始祖の名は后稷というが、その母の名は姜ゲン【女+原】といって、姜姓の女なのだ。また、武王の正婦にして成王の母である邑姜もまた、姜姓の女だ」
「となると…。周をはじめとする姫姓の国と斉には、姜姓の血が流れていると…」
「その姜姓と羌族が、字と同様、もとは同じ起源を持つとしたらどうだ?」
「えっ!」

信じ難い事である。義父は、あの太公望と羌族が同族だというのであろうか。牛輔には、字以外、両者のつながりなどこれっぽっちも見出だせないのであるが。

「驚くのも無理はないな。わしも、聞いた当初は信じられなかったからな」
「では、義父上は、今はこの様な話を信じておられるというのですか!」
「そうだ」
「そんな! その様な戯言を信じられて…」
「なぜ戯言と言える?」
そう言う董卓の顔には、凄みがあった。その顔は、戦いの時とはまた違う様だ。何がどう違うのかはよく分からないのだが。

43 名前:左平(仮名):2003/05/05(月) 21:24
「そなたがこの話を信じぬのは、漢人の文字を重く見て羌族の口伝を軽んじるからであろう。まぁ、それならばそれで良い。しかしな、それならばなぜ『羌』と『姜』の字の類似をも軽んじる?」
「それは…」
そう言われると、何とも言い様がない。
「まぁ、どこまで事実かは分からぬがな。だが…」
董卓の表情が、また変わった。その顔には、紛れもない哀しみの色が浮かんでいた。

「羌族は、古くから我ら中華の民と関わってきた族だ。何しろ、太古の帝王・舜の御世から、既にその名が記されているくらいだからな。もとは中原にもいたらしいが、故地を追われ、西に逃れたという…」
羌族が、もとは中原にいた?牛輔にとっては、初耳である。しかし、「舜」の名が出てきたという事は、経書のどこかにその様な事が書かれているはず。義父が羌族から聞いたというこれらの話は、まんざら嘘でもないという事なのか。
「しかし、今の羌族には、その様な面影はありませんが」
「いや、ない事はない」
「そうですか?」
「彼らは、昔のままに羊を飼って暮らす『穏やかな』民である」
「えっ?あんなに強悍な者達のどこが穏やかだというのですか!」
「嘘ではない。そなたの母上も、我が妻も、羊を飼い、静かに暮らしていたのだ。これは、わしやそなたの父上も見ておる。間違いない」
「では、なぜあの様な精強な騎兵達が…」
「そこなのだ。なぜ、羌族が戦うのか。そこにこそ、わしが誄を読む理由がある」

夜風が頬を撫でる中、董卓の話は続く。話していくうちに、その声が、また一段と哀調を帯びてきた。この人の中に、これほどの感情の動きがあるのか。人間というものの奥深さの一端が垣間見える瞬間である。

「考えてみると、羌族として生きるとは哀しいものである」
「哀しい?なぜですか?」
「そうではないか。あいつらが今生きているのは、いずれにしても異郷。故地を追われ、一族とは引き離され、生まれ落ちたその時から漢人には蔑まれ、苛酷な賦役を課せられ…」
「…そうして、生きる事に何の喜びも見出せぬまま死んでいく…」
「…」
中華に叛く蛮夷の一生とはそういうものではないか。そう言いかけた。しかし、言葉が出なかった。いや、出せなかった。

董卓の妻は羌族の女。当然、その子である姜は羌族の血を引いている。自分もまた、羌族の女を母に持つのであるから、羌族の血を引いている。
(数ヵ月後には生まれるであろう我が子は、間違いなく羌族の血を引く子…)
その事を思うと、羌族を単なる蛮夷と言い切る事はできないのである。

しかし、まだ分からない事がある。
羌族の血を引くわけでもない義父が、なにゆえこうも羌族に思いを馳せるのであろうか。
また、それほど羌族の事を思いながら、なぜあれほど激しく戦いうるのか。

雲が流れ、月が顔を見せた。月光が大地に降り注ぐ中、董卓の目に微かな光が生じ、それが流れ落ちていくのが見える。
(義父上が…涙を流されている?)
世間から勇将と呼ばれる義父が、いかに娘婿の前であるとはいえ、涙を見せるとは…。牛輔は、戸惑いを隠せなかった。

44 名前:左平(仮名):2003/05/11(日) 22:51
二十二、

「義父上…」
「ん?どうかしたか?」
「もしや…泣いておられるのですか?」
「さぁ、どうであろうな…。少なくとも、わしは哭するという事はせぬ」
「…?」
(誄は読むが哭する事はしない…?一体、どういう事なんだろうか?ますます義父上の考えが分からなくなってきた…)
牛輔には、もはや聞き様がなかった。何をどう聞けば良いのかがさっぱり分からないのである。

「そなたには分からぬであろうな。なにゆえに、人一倍羌族に同情するこのわしが羌族と戦うのかが」
「確かに」
「人には理解されぬやも知れぬが…わしの中には、ある思いがある」
「どの様な思いがあるというのですか?」
「羌族は、様々な場面において、漢人に蔑まれておる。だが、わずかではあるが、漢人と対等に扱われる時がある。そういう事だ」
「漢人と対等に扱われる時? そんな時があるのですか?」
「分からぬか。ほれ、つい数刻前の…」
「…あっ!」

確かに、そうだ。戦いの場においては、漢人も羌族も関係ない。ともに死力を尽くして戦うのみである。

「ただ戦いの場においてのみ、羌族は漢人と対等になる。勝者には栄光、敗者には死…。そういう場を持たせてやる為に、わしはあいつらと戦っておるつもりだ」
「では、あの時火を用いなかったのも、その為だと…」
「そうだ」
「ですが、火計というのは、兵書にも載っているれっきとした戦法ですぞ。特に卑劣というものではございません。あえてその手段を封じるというのはどうも分かりません」
「そう、戦法を論ずるのであればその通りだ。だがな、わしにはできぬ」
「なぜですか?」
「わしは、『この手で』あいつらを死なせてやりたいのだ。悲惨な奴僕としてではなく、誇りある戦士としてな」
「…」
「火を用いれば、確かにもっと楽に勝つ事ができよう。しかしそれでは、あいつらを、あたかも草木の如く焼き払ってしまう事になる。それは、奴僕として死ぬよりも、もっと悲惨ではないか?」
「戦いで死なせてやるのが情け…。羌族には、それしか望みがないのですか…」
「今のところはな。誄は読むが哭しないというのも、同じ理由だ。哭すれば、あいつらとは敵同士にならなくなってしまう。今は『敵』としてしか接する事はできぬ」
「…」

牛輔の心の中に、ある危惧の念が生じた。
(義父上は、漢朝に対し良からぬ思いを抱いておられるのであろうか…)
そうであるなら、いつの日か、漢朝に対し叛旗を翻すかも知れない。そうなった時、自分はどうすればいいのだろうか。反逆者となるのはまっぴらだが、義父の人となりを知った以上、見殺しにするなどという事はできない。第一、自分はこの人の娘婿なのである。関わらずに済むわけがない。

45 名前:左平(仮名):2003/05/11(日) 22:53
確かに、今の漢朝は乱れている。数々の怪異現象、相次ぐ天災、中央の政変、地方での叛乱…。この国の事を愁う心有る者ならば、何らかの行動に出たくもなるであろう。
(今上陛下【霊帝】は、まだお若い。成長なさり、光武皇帝の如き英明さを発揮していただければ…)
かすかではあるが、今はそれに希望をつなぐしかあるまい。


そんな事を考えているうちに、あたりが少しずつ明るくなってきた。夜明けである。やがて、東から日が昇るのが見え始めた。
「…!」
牛輔は、ある事に気付いた。

義父の甲冑は、返り血にまみれているのである。あれほどの激戦の後なのだから当たり前なのではあるが、あらためて見ると、その凄まじさが分かる。
「義父上…」
「どうした?」
「その甲冑…返り血にまみれておりますぞ」
「そうだな…」
「…」

普段なら、早く脱いで洗ったらどうかと言うところであるが、そういう気にはならなかった。この血こそ、羌族が戦士として戦い、死んだ証。血に汚されたなどと言う事はできないのである。
「さぁ、帰るぞ。皆が待っておる」
「あっ…はい!」

凱旋である。戦場に赴く時とは違い、兵達の表情も、心なしか柔らかい。勇敢に戦い、そして勝利した者達が持つ、誇りと自信に溢れた姿がそこにはあった。
牛輔も、そんな中にいた。とはいえ、彼の思いは、それだけには留まらなかった。
今後自分が担うであろう重責、漢朝と羌族との関係、義父の真意…。今回の戦いは勝利したものの、いつまでも喜んでばかりもいられないのである。
(何にしても、難しいな)

考え事をしているうち、牛輔は、いつしか屋敷の門前に立っていた。ほんの数日しか経っていないというのに、妙に懐かしく思える。
(ともかく、戻ってきた)
そう思ったとたん、全身から力が抜けた。
「いま戻ったよ」
自分でも分かるくらい、朗らかな声が出た。やはり我が家はいい。
「あなた− お帰りなさ−い」
出迎える姜の声もまた、朗らかなものであった。その声に、安堵する。
「姜。留守中、何事もなかったかい?」
「えぇ。ご心配なく」
「そうか。そりゃ良かった」
心なしか、姜の腹がより膨れている。赤子は順調に育っている様だ。
「元気な赤子を産んでくれよ」
そう言うなり、牛輔は姜に抱きついた。姜の体は暖かく、柔らかい。その心地良さときたら、荒涼とした戦場とは大違いだ。
「もぅ、あなたったら。こんなところで抱きつかないで下さいよ」
「すまんすまん。さぁ、中に入ろう」

46 名前:左平(仮名):2003/05/18(日) 21:19
二十三、

年が明けて、正月。
「あぁ、正月だ。新たな年が始まったんだな」
牛輔は、昇る朝日を眺めながら、そんな事を呟いた。もう二十回以上も経験したはずの正月が、妙に新鮮なものに感じられたのである。
(そぅか…。去年の今頃と今とでは、何もかも違うんだったな。正月も、違ってて当たり前か)
あらためて、結婚の持つ意味の大きさを思う。
「あなた− 早くいらして下さいよ」
姜が呼んでいる。彼女がいるだけで、世の中が明るく見えるのであるから、不思議なものだ。
「あぁ、すぐ行くよ」

現代の我々は、正月とは掛け値なしにめでたいものとして捉えている節があるが、古代の人々にとってはそうとばかりはいかなかった。
数え年という概念もそうであろうし、なにしろ、いろいろ煩雑な儀礼がある。ご馳走を食べつつ、ただただのんびりと過ごすというわけにはいかない。
ここ牛家も例外ではなかった。なにしろ、主人夫婦がまだまだ若いのに加え、家人達も皆不慣れである。年末年始はひどく慌しいものとなった。


そんな騒ぎがひと段落する頃には、姜の腹はますます大きくなっていた。来るべき授乳を控え、胸の膨らみも大きくなっているのであるが、腹の膨らみ具合が余りに大きいので、それが目につかない。
確実に母親になる日が近付いているというのに、胸の膨らみが意識されない為、かえって幼く感じられるというのも、どこか不思議なものである。

「それにしても、こうも大きくなるものかなぁ」
牛輔は、姜の腹を撫でながらそう呟いた。男にとって、妊娠・出産というのは、どうにもよく分からないものである。
「そうですねぇ。何をするにも大変です」
「だろうな。腹で足元が見えないからな。そういえば、もう少しで生まれるんだったよな」
「えぇ。あと数日の様です」
「義父上へは連絡したかい?」
「はい。先ほど」
「姓は異なるとはいえ、初孫だからな。さぞや喜ばれるであろう」
「えぇ」

姜の顔には、愛する夫の子を産む事に対する喜びがある。それは、牛輔にとっても喜ばしい事であるが、彼にはまだ不安があった。
なにしろ、牛輔の母は、彼を産んですぐに亡くなってしまったのである。今もそうであるが、衛生状態・栄養状態が(現代と比べて)劣悪だった当時においては、出産とは大きな危険を伴うものであった。
(どうか、母子ともに健やかである様に)
そう、祈らずにはいられなかった。

47 名前:左平(仮名):2003/05/18(日) 21:22
数日後。董卓とその家族が訪れ、一族が揃った頃、姜は産室に入った。庶民の場合は、産婦が一人で身の回りの処理をする事もあった様だが、地方豪族たる牛氏の妻ともなれば、そういう事はなかったであろう。とはいえ、産みの苦しみ自体は、どうする事もできない。
(無事に産まれてくれよ)
もう、気が気ではない。夫である牛輔は、席が温まる暇もなく、立ったり座ったりを繰り返せば、父の董卓も、落ち着いている様に見せてはいるものの、時々せわしなく体を揺らしている。
こういう時には、男達は何の役にも立たない。その能力とはかかわりなく。
「伯扶殿、その様にそわそわなさっていても何にもなりませんよ」
さすがに何度も出産を経験している義母の瑠は落ち着いている。
「分かっております。分かってはいるのですが…。なにしろ、姜は初産ですし」
「あの子はわたしの娘ですよ。この程度の事で根をあげたりはしません」
「はぁ…」

そんな状態が数刻も続いた。
先の戦いの時もそうだったが、こういう時の時間の進み方は、どこか不思議なものである。
早いと感じる瞬間があれば、遅いと感じる瞬間もある。そして、過ぎ去っても「過ぎてみれば短かったな」とは思えない。
悶々とした時間がこのままずっと続くかの様な、そんな感覚に襲われたその時、産室の方で声があがった。


「産まれた!」
最初に気づいたのは、瑠だった。牛輔はといえば、緊張が続いた事に疲れたのか、心ここにあらずといったふうである。董卓に至っては、席に座ったままうとうとしている。
「あなた、伯扶殿、何をぼんやりなさっているのですか! 産まれましたよ!」
「えっ? あっ、はぁ…」
「んっ? そっ、そうか…」
なかば叩き起こされる様な感じである。勇将・董卓も、愛妻の前では形無しといったところか。
そそくさと産室に向かう瑠に対し、男二人の動きは、ゆっくりとしたものであった。落ち着いているのではない。精神的な疲労のせいで、やけに体が重いのである。
「おい、伯扶」
「何でしょうか」
「もう少し、しゃきっとしたらどうだ。初めて我が子に会うのにそんなくたびれた姿をさらしてどうする」
「義父上こそ。初孫ですぞ」
「まぁな」

そんなやりとりをしている間に、二人は産室の前に立っていた。

48 名前:左平(仮名):2003/05/25(日) 21:25
二十四、

「伯扶よ。どっちが先に入る?」
「えっ?そっ、それは…」
二人とも、早く赤子の顔を見たいのではあるが、どこかためらいがある。

本来の出産儀礼においては、夫といえどもそうそう産室に入れるものではないのである。先の婚礼の時とは異なり、そのあたりの事にはあまりこだわりはないものの、出産という女の領域には、どこか入り難いものがある。

(伯扶よ、そなたが先に入ったらどうだ)
(義父上こそ、お先に入られたらどうですか)
産室の前に突っ立ったまま、そんな状態がしばらく続いた。大の男が二人して戸の前にいる様は、何とも珍妙なものである。
「このままここに立っててもしょうがない。一緒に入るか」
「そうしますか」

初めからそうすれば良さそうなものであるが、こういう場面では、存外気がつかないものである。
「じゃ、いくぞ」
「えぇ」
「では−」
二人は一斉に足を踏み出した。その時。

「お待ちください!!」
「!?」
二人は、足を踏み出しかけたところを急に止められたので、思わず転びそうになった。声の主は、先に産室に入った瑠である。
「いま、産湯を使っているところです。もうしばらくお待ちください」
「でも、もう産まれたのであろう? なにゆえ、我らが入ってはならぬ?」
「あなた、お忘れですか? 姜が産まれた時の事を?」
「あっ!…」
そう言われて何か思い出したのであろうか。董卓は急に向きを変え、室に戻っていった。
あわてて、牛輔もあとを追う。

「義父上、以前に何かあったのですか?」
義父が、一言言われただけでこうもあっさり引き下がるのは珍しい。何かよほどの事があったのだろうか。あまり話したい事ではないだろうが、聞かずにはおれない。
「いやな。あれは、姜が産まれた時の事なのだが…」
董卓にとっては、あまり格好のいい話ではないのであろう。どこか気恥ずかしげに話し始めた。


「姜が産まれた頃は、我が家はまだ富貴ではなかった。当然、この様な産室などはなくてな。瑠は、筵などで仕切りを設けて、そこで出産したのだ。当時は兄夫婦と同居しておったから、何かと手助けはしてもらえたがな」
「はい」
「わしにとっては、初めての子だ。そりゃもう、嬉しくってな。産声があがるや、筵を払いのけて赤子と対面したのだ。だが…」
「だが?一体どうなさったのですか?」

49 名前:左平(仮名):2003/05/25(日) 21:28
「…そなた、赤子がどこから産まれるか知っておるか?」
「えっ?」
「知らぬか」
「はぁ…」
「ここだよ」
そう言って董卓が指し示したのは、自分の股間であった。
「ここ?」
「そうだ。まぁ、男と女とでは付いてるものは違うがな。…赤子が産まれるのだ。そなたも、姜のここを見た事があろう?」
「まぁ…」
「凄いとは思わぬか? そなたの陽物でさえ入るかどうかという陰門から、赤子が出てくるのだぞ」
「…」

「その時、わしは見てしまったのだよ。子を産んだばかりの、瑠の陰部をな。…あれは、男が見るものではない。幾度となく戦場を駆け、血にまみれ、死線をかいくぐってきたわしも、あれには血の気が引いた」
出産とはそんなに凄まじいものか。そんな事を、あの姜が…あの華奢な体にそんな力が…。にわかには信じ難い事であった。だが、事実である。
「瑠が産褥から起き上がっても、わしは、しばらくあいつを抱けなかった。あれが頭から離れなくてな…。子育てやら何やらであいつが忙しかった時に、思う様に慰めてやる事ができなかったのが、今もって悔やまれるのだ」
「そんな事があったのですか…」
「ま、今はそんな事はなくなったがな。実は、昨日も抱いてやったところだ」
それでこそ義父上。思わず笑みがこぼれる。董卓も、つられて笑う。
「わしでさえそういう有様だったからな。ましてや、繊細なそなたではどうなるか。そなたがいかに姜をいとおしく思っていても、そんな光景を目の当たりにしたが最後、二度と抱けなくなるやも知れぬ。瑠はそれを恐れたのであろう」
「そうでしたか…」

妻の出産の場面に耐えられないであろうとみられたとは、いささか情けなくはある。しかし、義父でさえそうであるのだから、さして気にする事ではあるまい。

「どれ、もうよいかな」
話している間に、いくらか時間も経った様だ。そろそろ、産湯も片付けも済んだであろう。
「おぅ−い、瑠。産湯は済んだか−」
「はぁ−い。もぅ入ってもよろしいですよ−」
「では、行くか」
「はい」

いよいよ、我が子との対面である。瑠の声からして、母子ともに無事である事は間違いなかろう。
(いったい、どんな子であろうか)
早く後継ぎが欲しいから、男子である方がいい。とはいえ、二人ともまだ若いのである。女子であっても、いっこうにさしつかえない。

50 名前:左平(仮名):2003/06/01(日) 22:55
二十五、

二人は、産室に向かった。
先ほど、あれほどためらわれたのは何だったのだろうかというほど、今度はすんなりと入れた。
産室は、どこか異質な雰囲気を漂わせている。室そのものには、何も特別な装飾などは施されてはいないのだが、どうもそういう気がしてならない。
(どうしてだろうか?)
ふとそんな事を考えた。もっとも、考えても、男には分かりそうもない。

室内に入った瞬間、血の臭いがした。見ると、何かは分からないが、血に塗れた物体(へその緒とか胎盤とか)がある。あれも、出産に伴って生じたものであろうか。
(それはそうと、姜は? 赤子は?)
一瞬、その物体に気をとられはしたが、今は、そんなものに構っている場合ではない。

目を下に向けると、そこに、子を産んだばかりの姜がいた。相当体力を消耗したのか、顔は、産室に入る前に比べやつれており、また、全身に汗が浮かんでいる。呼吸も荒く、決して安産ではなかった事が伺える。
ただ、その顔は、安らかである。ひと仕事を終えたという充実感がそうさせるのであろう。
「姜…」
「あ…あなた…。子供は…無事に…」
「あぁ、分かってる…。大変だったな。ゆっくり休めよ」
よくやってくれた。そんな姜が、いとおしくてならない。

「まぁ。二人とも、じっと見つめあっちゃって。仲がいいこと」
「そうだな」
「伯扶殿。夫婦仲がいいのも結構ですけど、赤子を忘れちゃいませんか」
「あっ…そうでした」
「ほら。こちらがあなた達の和子ですよ。男の子よ」
瑠は、そう言って、産着にくるまった赤子を手渡した。

「こ…これが我が子ですか…」
牛輔が赤子を見るのは、これが初めてというわけではない。弟達が産まれた時、その様子を見たはずなのである。しかし、もう十数年も前の事であるから、そういう記憶は、もうおぼろげでしかない。
「赤いでしょ? どうして赤子って言うか、分かった?」
瑠は、明るくそう言う。牛輔の緊張をほぐそうとしているのであろう。
「はぁ…」
そうは言われても、緊張はほぐれそうにない。

泣き声をあげる赤子は、彼からみても、小さく、たよりなさげなものである。
(だが、この子は、まぎれもなく我が夫婦の子、そして、義父上の孫)
男であるそうだが、一体、どの様に育つのであろうか。将か、相か。それとも他の何者かか。
「伯扶殿。ぼんやりしている場合ではありませんよ」
瑠の声に、思わずはっとした。
「えっ?」
「この子の名は、いかがなさるのですか?」
「そ、それは…」
一応、考えてはいたのだが、そう言われると、一瞬慌てた。

51 名前:左平(仮名):2003/06/01(日) 22:57
「慌てる事はありませんが、きちんと考えておいてくださいね」
「え、えぇ…」
「それと、あれを片付けてくださいね」
「え? あれってのは?」
「ほら、あれですよ」
そう言って瑠が指差したのは、さっき見た、血に塗れた物体であった。
「えっ? 私がですか?」
「そうですよ。それも夫たる者の務めです」

この間、董卓はほとんど何も言わなかった。産室の中では、女の方が強いという事であろうか。その事が、ちょっと可笑しかった。
「はい、分かりました」
そう答える牛輔の声は、至極明るいものであった。
「義母上。ところで、これは何ですか?」

片付けが終わると、皆、産室から出た。
姜も別室に移った。産後の肥立ちが悪ければ、直ちに命にかかわってしまう為、しばらくは養生しなければならない。
名門の家ともなると、通常、乳母が必要になる。とはいえ、同じ頃に子を産んだ女など、すぐに見つかるものではない。それまでの間は、姜自らが乳を与える事になる。
姜が乳房を出し、子に吸わせる。子は、ひたすらに吸い、乳を飲んでいる。のどかな景色である。


しばらく後、命名の儀礼が行われた。
名は、「諱(いみな)」とも呼ばれる様に、外に向かってはあまり用いられるものではない。主に家族の内で用いられる。
とはいえ、名と字の間には、通常、何らかの関連性があるから、変な名をつけるわけにはいかない。
正式な命名は、家廟に告げる時なのであるが、実際のところはどうであろうか。

「伯扶よ。子の名は決まったかな?」
「えぇ。…それにしましても、名をつけるというのも大変なものですね。字義だの何だのと、いろいろ考えないといけないのですから」
「そうか? わしなどは、余り悩まなかったがな」
「それは…何と言いますか…」
「で、何と名付けるつもりだ?」
「はい。『蓋』と名付けようかと」
「『蓋』?どういう意味があるのだ?」
「はい。『天蓋』からとりました。地を覆う、天の如く大きくなってもらいたいという思いを込めて」
「天蓋、か…。こりゃまた、大きい名であるな」
「お気に障りましたか? 義弟の名との釣り合いが気になるのですが…」
「いやいや、大いに気に入ったよ。そうか、天蓋か…」

董卓は、満足げにうなづいた。

52 名前:左平(仮名):2003/06/08(日) 22:22
二十六、

当時の中国人は、宇宙の構造を「天は円(まる)く地は方形」であると捉えていた。半球状の天が、方形の地に覆い被さる形とみていたのである。この様な考え方を「蓋天説」という。実際、地から天を眺めると、巨大なド−ムの中にいる様な感じがしないではない(そう思えるのは、現代の我々が地球は丸いという事を知っているがゆえの事かも知れないが、実のところはどうであろうか。円屋根の建物もあったらしいので、一概には言えない)。
後には、より精緻な「渾天説」が登場するが、一般的には、なお「蓋天説」が信じられていた。
牛輔が長子につけた「蓋」という名には、その様な大きな意味が込められていたのである。
ただ、董卓が満足げにうなづいたのは、それとはいささか異なるところにあった。彼が反応したのは、「天蓋」の「天」というところに対してである。


「天」−。それは、単に天空のみを示すのではない。
そもそもは、人の頭頂部を示す(『脳天』などがそう)この言葉は、やがて、原義とは全く異なる意味を持つに至った。

「天」に、原義と異なる意味を与えたのは、周王朝であったと考えられている。
国家にしろ、会社にしろ、いかなる組織も、その存立の基となるのは、その組織が存在する理由、即ち「正当性(レジティマシ−)」の存在である。
当時、周が打倒しようとしていた商(殷)王朝には、「帝」という、強力な正当性の根拠があった。商王の権威は、無形の神である「帝」によって正当づけられていた為、他の勢力が打倒しようとしても、できなかったのである(形のないものは破壊できない。その為、たとえ商王を殺したとしても、商王朝の正当性を破壊し否定する事ができず、真の意味で滅ぼす事ができない。そう考えられた)。
そこで周は、「帝」に対抗できる概念として、「天」を持ち出した。

「天」に与えられた新たな意味。それは、多分に唯一神としての性格を持つものであった。ただ、いわゆる一神教と異なるのは、全ての人の為のものではなく、また、人々の運命に対して直接の影響を与えるというわけではないというところである。
それは、帝王一人の為のものであった。
天は、徳のある人に天命を授け、天下に君臨させる。帝王のことを「天子」ともいうのは、その為である。天命は、周にあって商にはない。周は、そう喧伝する事によって、正当性において商を圧倒し、ついに滅ぼすに至ったのである。

ただ、「天」の思想は、いわば諸刃の剣であった。というのも、帝王に徳がなくなった、少なくともそうみなされた場合、とって替わる事が(その成立の経緯上)可能となるからである(「革命」という言葉は、正確には「易姓革命」。「姓を易【か】え天命を革【あらた】める」という意味)。
それゆえ、天を祀る事は、帝王のみがなしうる事とされた。他の人間が「天」についてふれる事は、本来、あってはならない事なのである。

普通の人であれば、「天」についてふれる事は恐れ多いと考え、あえて意識の外に置くところであろう。だが、董卓はそうではない。
この時点では、まだ漢朝に対して叛旗を翻そうという気はないが、尊崇しようという気も薄い。それゆえ、天という概念に対しても、何ら臆する事はなかったのである。


赤子が産まれて三月の後、家廟にこの事を告げる儀礼が行われた。赤子が正式に家族の一員となるのはこの時であるとされる。「蓋」という名も、正式にはここからのものである。

53 名前:左平(仮名):2003/06/08(日) 22:24
子が産まれた事で、牛輔夫婦の生活にも、相当の変化が生じた。
赤子には何もできないし、言う事を聞かせる事もできない。躾をしようにも、ある程度育たない事にはどうにもならない。どうしても子が中心の生活となる。
また、若者が多いこの邸内では、子育てに慣れた者は少ない。実家から、経験豊かな家人達を呼び寄せたりしながら、何とかやりくりしている状態であった。

それゆえ、夫婦の間にも、多少の波風が生じた。
二人とも互いに強く相手を意識しているのではあるが、ともに初めての子育てであるので、どうしても子に目が向きがちであった。その為、しばらく疎遠になっていたのである。

ある日、蓋が寝静まった後の事である。
「ねぇ、あなた…」
姜が、甘えた声を出してきた。母親になって以来、こういう声を聞くのは久しぶりである。
「ん?どうした?」
牛輔は、横になったままそう答えた。何が言いたいかくらいは、よく分かっている。
「もぅ…。分かってらっしゃるでしょ」
「あぁ…。ただ、どうにも眠たくってな…」
「それは分かります。わたしも眠いんですもの。でも…」
「でも…何だい?」
「わたしも、もう産褥から出ました。確かに今は蓋の母ですけど、女でなくなったわけではないのですよ」
「分かってるよ」
「分かってらっしゃるのでしたら…」
「そうか。じゃ…」

そう言うと、牛輔は姜の床にもぐり込み、彼女を抱いた。
子を産んだその体は、以前よりもやや丸みを帯びていた。子育てに忙しかった為、少し疲れの色は見えるものの、抱いた時の心地良さは変わらない。いや、むしろ良くなっているくらいである。
彼自身、多少の疲れはあったが、ひとたび抱くと、猛烈に求めずにはいられなくなった。
二人は、数ヶ月ぶりに、激しく交わった。

「はぁ…。やっぱりいいもんだな」
「でしょ?」
「しかし…。どうしたんだ?そなたから求めてくるなんて」
「だって…。あなたったら、今度来た乳母の事をじっと見てらっしゃるんですもの。わたし、つい嫉妬しちゃって…」
「あれは、蓋がきちんと乳を飲んでるかどうか見てたんだよ」
「そうなのですか?」
「あぁ。私が彼女に劣情を催したとでも思ったのかい?」
「若い女が夫の前で乳房をあらわにしてるんですよ。いくら授乳の為とはいえ。そんなところを見せられると、つい…」
「そうか。そう見られるとは、私もまだまだ人間ができてないって事か」
「いえ、そういうつもりでは…」
「そなたを責めているわけではないよ。…すまなかったな。子育てにかまけていて、そなたに構ってやれなくて」
「あなた…」
「そんな顔をするなよ。何だか、また催してきちゃったよ」
「えぇ。喜んで」

波風といっても、若い二人のそれは、この様なたぐいのものであった。

54 名前:左平(仮名):2003/06/15(日) 21:01
二十七、

忙しくはあったが、子育ての日々は、概ねこの様に平穏なものであった。
蓋は、普通の赤子よりも大柄で、乳もよく飲む。十分に栄養をつけた彼は、すくすくと育っていた。
そんなある日、牛輔邸に一人の来客があった。

「連絡したかと思いますが…。義兄上にお会いしたく、参りました」
「あぁ、若様。これはどうも。殿でしたら、ご在宅でいらっしゃいますので、どうぞこちらへ」
「では、上がらせてもらいましょう」
来客というのは、董卓の嫡子・勝であった。牛輔からみると義弟にあたる彼は、ほどなく志学(十五歳)になろうかという年頃である。

ちょうどその頃、牛輔は姜と一緒に、蓋をあやしているところであった。
「なに? 勝殿が参られたとな?」
「はい。堂にてお待ちしておられます」
「そうか。分かった、すぐに行く。蓋の様子を見に来られたのかな。姜よ」
「はい」
「しばらく勝殿と話をする。頃合いを見て、蓋と一緒に参れ」
「はい」

これが初対面というわけではないが、じっくりと話をするのはほとんど初めてと言ってよい。
(はて、どんな顔だったかな)
少し首をひねりつつ、牛輔は堂に向かう。
堂に入ると、数人の従者とともに、一人の少年 −いや、風貌は既に青年と言ってもよい。それくらい落ち着いて見える− が立っていた。
(これが勝殿か)
牛輔が見る義弟・勝は、義父・董卓ほどではないとはいえ、堂々たる体躯の持ち主であった。

「義兄上、お久しゅうございます」
勝は、うやうやしく拱揖の礼をとった。その仕種は実に自然なものである。これなら、礼に厳しい人にまみえたとしても、失礼であると咎められる事はあるまい。その立ち居振舞いから、彼がいかにきちんと身を修めているかが伺える。
また声は、高くもなく低くもなく、抑揚は滑らかであり、耳に不快感を与えない。心身ともに健やかに育っているという事であろう。
容貌は、義父とは異なり、穏やかな笑顔が印象的である。体格は父親に、顔は母親に似ている。
人からみると、妬ましいくらいによくできた義弟と言えるであろう。もっとも、彼をみると、そういう妬みの類の感情も生じさせない様である。
「おぉ、勝殿か。久しいな。まぁ、ゆっくり座って話そうではないか」
年下という事もあるが、勝には、人を威圧させる様なところはみられない。それゆえ、牛輔も割と気楽に話しかける事ができた。
「はい。では…」
義兄が座るのに呼応する形で、勝は席についた。その間の取り方一つとっても、礼にかなっている。

「今日来るとは伺っていたが、いかがいたしたのかな?」
「いや、大した用件ではないのですが…」
「気にするでない。我らは兄弟ではないか。何なりと申せ」
「はい…。年が明けると、私も志学になります」
「うむ。それで?」
「そろそろ、字をつけようかと思うのですが、どの様な字を用いれば良いか、義兄上に相談に乗って頂こうかと思いまして」

55 名前:左平(仮名):2003/06/15(日) 21:03
「そういう事か。それなら、喜んで相談に乗るよ。しかし、そなたを見ると、私が偉そうに教える事もなさそうだがな」
「まぁ、いくらか書を読んではおりますが…。私一人で決めるのも不安なもので」
「そういうものか。…分かった、ちょっと待てよ。その類の書を持ってくるから、二人でじっくりと考えようではないか」
そう言うと、牛輔は席を立った。

「う−む…。こんなものかな」
自室に戻った牛輔は、書を収めた箱を開け、中身を確認しつつ、数冊選び取った。この当時、字義の解説書としては「爾雅」などがあった(当時、「説文解字」は既に世に出ていたが、どの程度普及していたかは不明)が、それだけを見たわけではなかったであろう。複数の経書も参照したのではなかろうか。

「さて、勝殿。ゆっくりと考えましょう」
牛輔の自室から運ばれた、木簡やら巻物の束が、二人の間に置かれた。汗牛充棟とまではいかないものの、なかなかの蔵書量である。
「えぇ…。しかし義兄上、多いですね。こんなに多くの書を読まれるのですか?」
「いや、それほど読んでいるというわけではないが…。何かの時、役に立つという事もあるだろ?」
「こんな時に、な」
「はは…。そうですね」
「さて、読むか。とはいっても、あてもなく探すと時間ばかりかかってしまうな」
「そうですね。いかがいたしましょうか?」
「まぁ、今回は、勝殿の字を考えるわけだからな。名の『勝』に似た意味の字に絞ろう」
「『勝』というのは、『かつ』という意味がありますね。『かつ』という意味を持つ字となると…」

二人の間にしばしの静寂が訪れた。といっても、深刻なものではない。互いに、書に目をやっているので、話しようがないのである。そうして、ようやく幾つかに絞れてきた。
「『克』か『捷』、それに『戡』といったところですね」
「そうだな」
「このうちのどれかという事になるのでしょうが…。さて、どれにしたものやら」
「もう少し、意味を詳しくみてみようか?」
「そうですね」

「う−ん…。『戡』は勇ましい感じではあるが…」
「いくら『かつ』とはいえ、ちょっと血なまぐさい様な…(『戡』には『ころす』などの意味がある)」
「では『克』は…」
「確かに『かつ』ですが、どこか苦しんでる感じが…(『克』には『たえる』などの意味がある)」
「と、なると…」
「『捷』ですね…」
「『捷』か…。他に『はやい』とかの意味もあるな。ただ、ちょっと軽い感じがしないか?」
「そうですか?でも、悪い意味はないでしょ?」
「そう。悪い意味はない。じゃ、この字にするか」
「はい」

「もぅ、勝ったら。字一つ決めるのにいつまでかかってるのよ」
長いこと待たされた姜は、少し不機嫌そうであった。
「あっ、姉上。こりゃどうも…」
「まぁまぁ、姜よ。そう言うなよ。字といえば一生ものなんだから。じっくり考えさせてやれよ」
「もぅ、あなたまで。待たされてうんざりしてたのはわたしだけじゃないんですからね」
待ちくたびれたのであろうか。蓋は、すうすうと寝息を立てている。気がつくと、外は既に薄暗くなっていた。
「今日はうちに泊まりなさい。蓋と遊んでもらうまでは帰しませんからね」
「えぇ。そうさせてもらいますよ」

56 名前:左平(仮名):2003/06/22(日) 21:34
二十八、

結局、勝は、牛輔邸に一晩泊まる事になった。翌日。
「じゃ、気をつけてな。義父上によろしく伝えておいてくれよ」
「はい、承りました」
義兄達に見送られて、勝は帰っていった。

「父上、ただいま戻りました」
「おぉ、お帰り。勝よ。向こうの様子はどうだったかな?」
「ええ。義兄上も姉上も、お元気でしたよ。蓋殿も」
「そうか。そりゃ何よりだ」
「ほんと、仲の良い夫婦で…」
「なに顔を赤くしてるんだ。ははぁ…。隣で『あの』声でも聞かされたか」
董卓がそう言うと、勝は、ますます顔を赤くした。なりは大きくても、そのあたりはまだ少年である。その様子をみた董卓は、急に威儀を正してみせた。

「勝よ」
「はい、父上」
「年が改まれば、そなたも字を持ち、大人として扱われる事になる」
「はい」
「そなたは、大人になるという事がどういう事だと思っておる?」
「それは…」
そう言われると、どう答えれば良いのであろうか。勝は言葉に詰まった。
「なに、そう難しく考えずともよい。要するに、自分の今ある立場をわきまえ、それにふさわしく振る舞えばよいのだ」
「あっ、なるほど…」
父の一言により、難問はたちまち氷解した。そんな勝は、実に理解力のある少年である。
「もちろん、年が経てばおかれる立場も変わるから、それに合わせて自分も変わる必要があるのだがな」
「『君子は豹変す』ですね。父上のお言葉、しかと留めておきます」

「うむ。…まぁ、厳しい事もあるが、そればかりでもない。…そなたも、そろそろ女というものに興味が出てきた頃であろう。違うか?」
今度は、急にからかう様な口調に変わった。董卓の、このあたりの切り替えは実に素早い。
「…」
勝の顔が、また赤くなった。
「そろそろ、縁談を考えておる、姜の時もそうだったが、そなたの意に沿わぬ相手であれば、無理をする事はないからな」
「はい!」

父と子の、穏やかな日常の一こまであった。


そうして、しばしの時が流れた。そんな、ある日のこと。

「おう、伯扶。元気にしておるか」
牛輔邸に、何の前触れもなく、董卓が姿を見せた。
「ち、義父上!いかがなさったのですか!」
董卓の急な来訪に、牛輔達は驚きを隠せなかった。いつもなら事前に連絡してくるのに、今日は一体、どうしたのであろうか。

57 名前:左平(仮名):2003/06/22(日) 21:36
「どうした?驚いておるのか?」
「驚きますよ!来られるのでしたら連絡くらいしてください!何の支度もできないではありませんか!」
「ほほう。わしが来た事自体は大した驚きではなさそうだな」
「義父上ではありませんか。来られる事には驚きませんよ」
「それを聞いて、ちと安心したよ」
「は?」
「堂へ行こう。実は、そなたに重要な話があるのだ」
「重要な、ですか…」
(はて、何の事だろうか。羌族の叛乱ではないのは確かだが…。まさか鮮卑?しかし、いくら何でも、并州を無視してここ涼州を攻めるとは考えにくいが…)
自分なりに持っている情報を整理するが、思い当たるふしはない。

「まぁ座れ」
「はい」
「わしの言う、重要な話とは何だと思う?」
「う−ん…。羌族も鮮卑も、今のところ目立った動きはありませんから、戦いという事ではなさそうですが…。私にはさっぱり見当がつきません。一体、いかがなさったのですか?」
「ははは…。『重要な話』というのは悪い話ばかりではないのだぞ」
「えっ?」
「そなたも、その様子では気苦労が多いだろうな。だが、その心構えは悪くない」
「おっしゃる事の意味が分かりませんが…」
「実はな、わしはこのほど、并州は広武県の令となったのだ」

董卓、牛輔の出身地が涼州である事は前述したが、并州はその東隣である。その中心地は晋陽といい、春秋時代からその名が知られているが、そのさらに北に、雁門(広武)という邑がある。董卓は、そこの県令になったのである。
広武という県の規模はよく分からないが、中程度の県の令でも六百石の官(大きい県の令だと千石の官)というから、前職の郎中(比三百石の官)よりも俸禄は高い。俸禄が高いという事一つとっても、董卓の地位が上がった事が伺える。

「令という事は…昇任ではございませんか! 義父上、おめでとうございます!」
「うむ。ただ、一つ問題がある」
「何でしょうか?」
「県令になるという事は、その地に赴任せねばならぬという事でもある。広武県は并州の中でも北方に位置するだけに、ここにちょくちょく立ち寄るというわけにはいかぬ」
「そうですね。と、なりますと…」
「そう、我が軍団をどうするかという問題が生じるのだ」
「いったん解散して、義父上の復帰を待つというわけには…」
「そうはいかん。兵というものは、いったんなまってしまうと、なかなか元には戻らんものだからな」
「確かに」
「そこで、だ。しばらくの間、そなたに我が軍団を託そうと思うのだ」
「なんと!」
牛輔は、驚きを禁じ得なかった。

58 名前:左平(仮名):2003/06/29(日) 13:40
二十九、

この軍団は、長年にわたって董卓自らが育ててきたもの。それを、一時的に、娘婿にとはいえ、他人に渡すとは…。自分が信頼されている事は嬉しいが、若干の戸惑いもある。義父の真意はどこにあるのだろうか。
「私でよろしいのですか?第一、勝、いや、伯捷殿がおられるではありませんか」
「確かに。いずれは、勝に継がせるつもりではあるがな。ただ…」
「ただ?」
「勝には、わしとは異なる道を歩んでもらおうと思っておる。ゆえに、いま軍団を預ける事はできぬ」
「異なる道、ですか…。それはいったいどういう事ですか?」
何か考えがあっての事の様だ。ならば、その考えを聞いておこう。

「うむ。わしは軍事には自信があるが、政治の事についてはいま一つよく分からん。出自の事もあるから、よくて地方の太守あたりになれればといったところであろう」
「はぁ…」
「だが、わしが言うのも何だが、勝はよくできた子だ。あれには、もっと上を目指してもらいたい。そうなると、軍事のみに携わるのではなく、政治というものを知っておく必要が出てこよう」
「という事は…。伯捷殿を広武に同行させ、政治の何たるかを学ばせようという事ですか」
「そうだ」
「おっしゃる事は分かりました。ですが、それでしたら、なぜ叔穎(董旻。董卓の弟)殿ではなく、この私なのですか?」
「不満か?」
「いえ、私は構いません。ですが、姓の異なる私が、義父上の弟である叔穎殿をさしおいて軍団を預かるというのは、いささか問題があるのではないかと思うのですが」
「ふむ。そなたはそう思うか」
「はい」
「なかなかよく考えておるな。だが、気遣いは不要だ。旻には旻の務めというものがある」
「叔穎殿には叔穎殿の務め、ですか。それでしたら、私があれこれ言う事もありませんな」
「まぁな。そなたが励んでおる事は姜から聞いておる。そなたであれば、大過なくこの務めを果たしてくれるであろう、とな」
「分かりました。それでしたら、喜んでお引き受けいたしましょう」
「うむ。我が軍団を、頼むぞ」
「はい」

「そうそう、今日は、そなたの配下となる者達を連れて来ておるのだ」
「私の配下、ですか」
「そうだ。いくら何でも、そなたが全てをみるわけにはいかんからな。今から紹介しよう。おい、入れ」
「では、失礼します」
そう言うと、三人の男達が入ってきて、それぞれ席についた。董卓に従って戦場を駆けてきたせいか、皆、堂々たる体躯の持ち主である。だが、年の頃は自分とさほど変わらないであろうと思われる。

「ん?一人足りんな。どうした?」
「あぁ、新入りのあいつですか。まだ来てない様なんですよ」
「何だ、まだか。まぁ、都から帰ったら来いとしか言わんかったからな。まぁ良い。そいつは後だ」
「そうですね。では、私から自己紹介を」
「そうだな。始めるか」
そう言うと、その男は牛輔の方を向いた。

59 名前:左平(仮名):2003/06/29(日) 13:43
「初めてお目にかかります。私は、姓名を李カク【イ+鶴−鳥】、字は稚然と申します。北地郡の出です。どうぞよろしく」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」
字があるという事は、それなりの家の出であろう。その字が稚然という事は、兄弟が多いのだろうか(長幼の序列を示すのに伯仲叔季という字がよく用いられるが、稚というのはそのまた後に用いられる事がある。したがって、彼には四人以上の兄がいた可能性がある。実際、史書にも兄がいた事は記されている)。
挨拶の仕方もきちんとしているし、変に肩肘張ったところはない。頭の方も、まずまずといったところか。なかなか、頼りになりそうである。

続いて、二人目の男が口を開いた。
「わ、私は、郭レと申します。張掖郡の出です」
こちらは、やや緊張している様だ。ただ、悪い感じはしない。ちょっと前の自分をみる様で、微笑ましいくらいである。
「あれ?字はないのかい?」
「それが…。まだ加冠してないもので、字は…」
「そうか…」
「どうだ、伯扶。そなたが字をつけてやったらどうだ」
「えっ?私がですか?」
「そうだ。勝の字もそなたが考えたのだし、これからこいつらの長になるのだからな。ちょうどよかろう」
「急に言われましても…。あの時は、あれこれと書物を引っぱりだしてようやくでしたから…」
「なに、仮のもので良いのだ。今、この場で思いつくものを挙げてみよ」
「う−ん…。しかし、私は彼の事を何も知らないわけですし…」
「ちなみに、こいつは次男だ」
「次男となれば『仲』とつくでしょうが、もう一文字が…」
(名が「し」だからなぁ…「し」の字は、えぇっと…)

この時、牛輔はちょっとした勘違いをしていた。郭レの名は『レ』が正しいのであるが、何がどうしたのか『侈』と聞き間違えたのである。
(『侈』ってのは、『おおい』って意味だから…そうだ!)
「仲多、なんてどうでしょうか」
それを聞いた途端、董卓と李カク【イ+鶴−鳥】は大笑いし始めた。
「『ちゅうた』!? ははは、そりゃいいや。まるで鼠だな、おい」
「ほんとに。いかにも、ちょろちょろしてるこいつらしい字ですね」

「えっ?」
二人の笑い声を聞いて、牛輔は勘違いに気付いた。
「まっ、間違えました!もう一度、考え直します!」
「いやいや、それで決まりだ。レよ、そなたの字は『仲多』だ。いいな」
董卓は、笑いながらそう言った。しばしこの地を離れるとはいえ、この軍団の主の言葉は絶対である。
「はっ、はぁ…」
郭レも、照れ笑いを浮かべながら了解した。

60 名前:左平(仮名):2003/07/06(日) 21:15
三十、

「さて、最後はそなただな」
笑い終わった董卓は、もう一人の男に声をかけた。
「えぇ」
男は、愛想なしに一言そう答えた。先の二人に比べると、いささかもの堅い感じがする。我が強そうだ。悪い男ではなさそうだが、いささか扱いにくそうにも見える。

「私は、張済と申します。武威郡祖q県の出です(彼自身の出身地は不明。ただし、史書には『(張済の族子の)張繍は武威郡祖q県の人』とあるから、同じではないかと考えられる)」
「そなたも、字はないのかい?」
「ええ、ありません」
「年は?」
「二十を少し過ぎました」
「そうか。では、ちょっと待ってくれないか。そなたの為に字を考える事にしよう」
「いえ、その必要はありません」
「えっ?」
虚をつかれた牛輔は、一瞬きょとんとした。

(さっきのがまずかったかな)
確かに、あんな字をつけられてはたまったものではあるまい。とはいえ、張済は既に二十歳を過ぎているという。未成年であった郭レはともかく、成人している張済に字がないというのは、ちょっとまずいのではなかろうか。
「義父上、彼はこう申しておりますが」
「ああ。こいつには字をつける必要はないよ」
「なぜですか?」
「なぜって言われてもなぁ…。こいつは、以前から字をつけようとはしないんだよ。本人が『いらない』と言ってるのを無理につける事はあるまい」
「まぁ、そうなのですが…」

さっきまでとは違い、いささか堅い雰囲気になった感がある。
その、気まずい雰囲気を察したのか、張済は、自ら重い口を開いた。

「不愉快な思いをさせてしまった様ですね。その事については深くお詫びします。ですが、それでも、私は字をつけるつもりはございません。この事はご理解頂きたく存じます」
「いや、詫びる事はないよ。こういうものは、無理強いするものではないし。…ただ、どうして字をつけようとはしないんだい?教えてくれないかな」
「そうですね。お話しいたしましょう」

そう言うと、一呼吸おいてから、彼は自らの事を語り始めた。
それは恐らく、董卓や李カク【イ+鶴−鳥】・郭レにとっても初耳なのであろう。皆、張済の方を向き、その言葉にじっと耳を傾けている。
これから直属の上司となる牛輔が、彼の言葉を一語一句聞き逃すまいとしたのは言うまでもない。

61 名前:左平(仮名):2003/07/06(日) 21:17
「私の生まれ育った武威郡という所は、都からみれは、いよいよもって辺境の地です。それゆえ、周りには羌族が多くおります。いや、羌族の中に漢人が点在しているという具合です」
「ふむ。そうであろうな」
「私も、幼い頃から羌族とよく遊んだものです。我が一族の中には、羌族と姻戚である者も多くおります。彼らには、我が一族が漢人であるという意識が薄いのです」
「そうか。…そういえば、羌族には字という考え方がないな」
「そうです。それゆえ、私が字をつけるのはまずいのです」
「そこが分からないのだが。どうして字をつけるのがまずいんだい?」
「こう言うと自慢になりますが、私は、あの辺りでは少しは知られているのですよ。腕っ節が強いという事で。その私が字を持ったとなれば、我が一族が漢人であるという事を知られてしまいます」
「知られると、一族の身に危難が及ぶ。そういう事か」
「まぁ、直ちにそうなる事はないでしょうが…。何かと気まずい思いをするでしょうね」
「そうか」
「それに、私の出自からすると、とても字を名乗る様なものではありませんからね」
「それなら気にする事はない。これから手柄を立てて立身すれば良い事だ」
「そうですね。立身し、一族を迎えられる様になれば、字をつけても良いでしょう。しかし、それまでは、このままでいたいのです」
「そうか…。それならば、私が無理強いする事はない。そなたの思う様にすると良い。まぁ、字をつけようと思ったら、いつでも相談してくれ。共に考えよう」
「はい。ありがとうございます」
「ただ、何と呼べばいいかな?」
「お気遣いは不要です。ただ名の『済』と呼んでいただければ結構です」
「そうか。分かった」

「どうやら、話は済んだ様だな」
董卓が、おもむろに口を開いた。やはり威厳がある。
「では、稚然、仲多、済!」
「はっ!」
「これより以後、牛伯扶がそなた達の長となる!彼の命を我が命として従え!」
「はっ!」

こうして、牛輔は義父・董卓の軍団を預かる事になった。話が終わった、その直後。
「殿!近くに賊が現われましたぞ!」
家人がそう叫んでいるのが聞こえた。

62 名前:左平(仮名):2003/07/13(日) 19:31
三十一、

(ほほぅ…。さっそく、いい機会が訪れたな)
董卓にとっては、願ってもない状況であった。自分の眼前で、牛輔の、将としての力量をみられる機会が転がり込んできたのである。
いつもなら、「賊が現われた!」となれば真っ先に腰を上げる彼が、今日は動かない。動きたくはあるのだが、ここはこらえた。ここで自分から動いては、牛輔の力量をみる事はできない。
(さて、伯扶はどう反応するかな?)
ほんの少しだけ意地悪い目で、彼は牛輔の方を向いた。

「なにっ!賊だと!」
董卓が動かないのをみた牛輔は、さっと立ち上がった。董卓が動かない以上、ここは、自分から動かなくてはなるまい。それが、軍団を預かった者としての務めである。
不安ではある。しかし、戦うのは全くもって初めてというわけではない。やるしかないのである。
「者ども!」
「はっ!」
「直ちに賊の討伐にかかる!支度にかかれ!」
「はっ!」
李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、新たな長となったばかりの牛輔の命に、すぐさま応じてみせた。彼らからすると、自分などは経験の乏しい、頼りない長であるに違いない。しかし、董卓に仕込まれた彼らにとっては、長の命令は絶対である。
(いま、彼らが私の命令に従うのは、義父上の威厳があってこそ。その事を忘れてはなるまい。…おっと。賊はいかなる相手か。それを探らない事には、戦いようがないな。偵察を出さねば)
そういう事を考えられる牛輔は、自身が思うよりは、将帥としての力量があったと言えよう。

「誰かおるか!」
牛輔は家人を呼んだ。『孫子』には『彼れを知り己れを知らば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知らば、一勝一負す』とある。敵の状況を把握しない事には、いかなる名将であっても勝利は覚束ない。ましてや、自分はほとんど実戦経験がない。敵の事は、知りすぎるほど知っておく必要がある。
「はっ、ここに! 殿、いかがなさいましたか!」
現われたのは、最近雇ったばかりの、盈という青年であった。大柄で力も強いが、その見た目に似ず、実に敏捷で頭も目もいい。その出自を語らないところが少しひっかかるが、偵察という、重要な役目にはうってつけの人材である。
「うむ。盈か。賊が現われたそうだな」
「はい。その様に聞いております」
「他の者数人とともに、賊の状況を急ぎ探ってまいれ」
「はっ!」
そう言うや否や、盈は偵察へと向かっていった。

出撃の支度が始まった。盈達が戻ってくるまでは相手の状況が分からないだけに、できる限りの準備を整える必要がある。邸内は、急に慌しい雰囲気に包まれた。
「おい、今度の相手はどういうやつらだ?」
「よくは分からんが、賊だってよ」
「ほう。ま、賊なら叩き潰すまでよ」
そんな雰囲気の中、蓋はいつもと変わらず元気に動き回っている。乳離れして間もないのであるが、飯もよく食べる。
「こんな中でも動じないとは。こりゃ先が楽しみですな」
家人達は、しばし手を止め、そう言い合ったりもした。

63 名前:左平(仮名):2003/07/13(日) 19:33
しばらくして、盈が戻ってきた。まだ、こちらの支度もできていないというのに、もう偵察を終えたのであろうか。
「ずいぶん早いな」
「そうですか?きちんと賊は探ってまいりましたよ」
「そうか。ならばよい。して、賊の状況は?」
「はい。数は二、三百といったところです。やつら、どうやらテイ【氏+_】族ですね」
「テイ【氏+_】族?」
「はい」

テイ【氏+_】族とは、羌族と同様、このあたりに居住していた異民族である。羌族に比べると農耕化が早かったという事もあってか、漢朝との大規模な戦いなどは殆どなかったという(後には中原に王朝をうち立てる事もあったが、この物語にはあまり関係ない)。
匈奴や羌族に対しては、統御管轄する為の官(護羌校尉などがそう)が設けられていたが、テイ【氏+_】族を対象とする官職は見当たらない事からも、それは伺える。

(なにゆえテイ【氏+_】族が?…いや、そんな事を言ってる場合ではないな)
「他に分かった事は?」
「はい。どうも、都からこちらに向かっていた数十人の漢人が捕らえられた模様です」
「なに!彼らの安否は?」
「そこまでは分かりかねます。しかし、恐らくは…」
「…そうか」
彼らがいかなる理由で賊となったかは分からない。しかし、無辜の人々を殺戮したというのであれば、容赦する事はない。
「殿!支度が整いましたぞ!」
李カク【イ+鶴−鳥】達が牛輔を呼んだ。出撃の時である。
「そうか。よし!者ども!」
「おう!」
「相手はテイ【氏+_】族の賊、約三百!容赦はいらぬ。徹底的に叩き潰せ!」
「おう!!」

戦は二度目であるが、牛輔自身が将として戦うのは、これが初めてである。兵力差からみても、決して難しい戦いではないが、失敗は許されない。ただ、牛輔には前ほどの緊張感はなかった。
(余裕ができたからであろうか。いや、それだけではなさそうだ…)
行軍中、牛輔はそんな事を考えていた。
(…そうか、相手が違うからか。羌族とは違い、テイ【氏+_】族には何の思いもないからな。あるのはただ、漢人を殺戮した者を討伐するという意識のみ…)
義父の様に、敵に思いを持ちつつもなお苛烈に戦うという事は難しそうだ。自分は自分なりの道を歩むしかないという事か。

(さて、伯扶はどう戦うかな)
牛輔の後をゆっくりと進みながら、董卓はそう考えていた。

64 名前:左平(仮名):2003/07/20(日) 20:55
三十二、

(ここは…一体…。俺は、どうしたのだろうか…)
男は、微かな意識の中、その記憶を辿っていた。自分の身に何が起こったのか、まだ把握できていなかったのである。
(頭が…痛い…。腕が…動かない…。足も…。目も…見えない…こ、これは…)
(俺は…死んだのか…。いや、頭が痛むという事は、生きているという事ではないのか…)
(落ち着け、落ち着くのだ…。何があったかまず整理しよう…)
(俺は…。病を理由に官位を捨て、郷里に帰ろうとしていたんだったな…。帰ったら、董氏のもとを訪ねる予定だった…)
(昨晩までは、何事も無かった…。で…)
(ケン【シ+幵】のあたりで、怪しい集団にでくわして…)
(薄汚い、妙なやつらだった…。 !!)

思い出した!思い出したぞ!

(やつら、賊だったんだ!俺達を見ると急に襲い掛かってきて…。俺は…。そうか、頭をぶん殴られて気を失ったのか…)
(と、なると…。この状況は、まずいな…。目隠しされてるから周りが見えないし、第一、手足の自由が利かん。これでは、下手に動くわけにもいかん)
(それに、他のやつらはどうしたのだろうか。どうも気配が感じられんが…。あの状況からして、俺一人捕らえられたという事はないよな…)
(ま、まさか…)
最悪の事態が頭をかすめる。
(財物を奪い、皆殺しか!)
全身に戦慄が走った。血の流れが逆流する様な気がした。しかし、ただ恐怖に怯えるだけでは思考は止まってしまう。つらい事だが、さらに考えを進める。
(しかしだ。それなら、どうして俺はまだ生きているのだ?)
(俺に、まだ利用価値があるとでもいうのだろうか?どうも分からん…。ともかく、しばらく様子をみるしかなさそうだな…)

ひとたび目覚めると、男の頭脳はめまぐるしく動き始めた。ただ一つの目的の為に。
『生き延びる為には、何をすべきか』。
こういった状況においては、誰もが考える事である。しかし、この男ほど、その能力に長けた者はいない。実際、後にはこれ以上の危地をいくたびもくぐり抜けていったのである。もっとも、彼自身、自らのその能力にはまだ気付いていないのであったが。

急に足音が聞こえてきた。どうやらこちらに向かってくる様だ。
(やつら、俺の様子を見に来たのか)
ケン【シ+幵】のあたりで襲われたという事は、ここは、その近くにあるであろう賊の隠れ家に違いない。はっきり言って、漢朝の救援は、期待薄である。
いかに一介の郎官に過ぎなかったとはいえ、彼自身、朝廷の内実はよく知っているつもりである。たかだかもとの孝廉一人が賊に襲われたところで、ここは辺境。皇帝も、高官達の誰も、関心を持つ事はあるまい。
(くそっ!こんな所で俺は…)
賊の手にかかって落命するのか。そう叫びたくなった。しかし、ここで叫んだところで何にもならない。そう思う彼の頭のどこかに、まだ希望が残っている。

65 名前:左平(仮名):2003/07/20(日) 20:58
「おい、こいつ、目を覚ましたらしいぜ」
男の声が聞こえた。どうやら、賊の一味らしい。やや独特の訛りが感じられる。
(そうか、テイ【氏+_】族か)
漢人ではないらしい。この事に、何か意味を見出せないだろうか。もっとも、そんな事を考える間もなかった。
「起きたんなら、こっちに来な」
賊は、男の体をつかみ、軽々と持ち上げると、そのまま仲間のところに向かった。
(はぁ…情けないもんだな)
噂に聞く董氏の様な体躯であったなら。この時ばかりは、自分の痩身が恨めしく思えた。

数十歩ほどで、いきなり地面に投げ出され、目隠しが外された。あたりには、屈強な男達が揃っている。賊の面々である。もはやこれまでなのか。
(もう、腹を据えるしかあるまい。今の俺は俎上の肉【まな板の上の鯉というくらいの意味】だ)
そう思うと、妙に落ち着いてきた。
「おい、おまえ」
賊の頭目とおぼしき人物が口を開いた。
「随分といい身なりをしてるじゃねぇか。え?」
何か聞き出したいのだろうか。
「おっしゃる事がよく分かりませんが…」
「そういうなりだ。さぞかし、家は裕福なんじゃねぇのか?え?」
(ははぁ、そういう事か…。そういえば、俺が一番上物の衣冠をまとっていたな。こいつら、俺を人質にして身代金をせしめようって算段か)
相手の腹が読めてきた。少し落ち着きを取り戻してあたりをうかがったが、仲間の姿は見当たらない。皆、殺されたのか。その事については何も言わないが、連中の様子からすれば、十分考えられる。
(よし、どうせ殺されるんなら、いっちょはったりをかましてみるか)
この様な場面でそんな事を考えるというあたり、彼はただ者ではなかったというべきであろう。

「えぇ、家は裕福ですよ。なにしろ、我が外祖父は段公(前出の段ケイ【ヒ+火+頁】の事。字は紀明。この頃、大尉の要職に就いていた)ですからね」
もちろん、全くのでたらめである。が、その言葉は、凄まじい威力があった。
「な、なに?もう一度、言え」
頭目の顔色が、明らかに変わった。まわりの連中も。『段ケイ【ヒ+火+頁】』という名に対する西方諸民族の怯え様は、これほどのものであったか。思わず、彼の口元がほころんだ。
(この好機を逃してはならぬ!)
「そうだ。わしは段公、すなわち段紀明の外孫だ。おまえたち、わしを殺したなら、必ず他の者とは分けて埋葬しろよ。段公が我が屍を確認できる様にな。我が一族が、そなた達に充分な礼を施すであろう。…おっと。段公がわしの死に気付かぬとでも思うなよ。わしは、毎日書簡を公のもとに送っておる。わしがどこで足取りを断ったかくらい、すぐにお見通しなのだ。隠したところで、無駄だ」
もはや、立場は逆転していた。さっきまで威張り散らしていた賊どもが平身低頭するとは、痛快である。
「めっ、滅相もございません!私共があなた様に危害を加えるなど!どうか、この事は段公にはご内密にしてはいただけませんか」
「そうまで申すのであれば、よかろう、今回に限り許してやろう」
「はっ、ははっ!」

こうして彼は、無事に賊の魔手から脱する事ができたのである。賊は、ご丁寧に盟約まで結んだ。
(ふふっ。こんな盟約など何の意味もないというのに。…ともかく、一刻も早くこの場を離れないと)
そう思い、西に向かって歩く彼の目の前に、突如、騎馬の軍団が現われた。

66 名前:左平(仮名):2003/07/27(日) 21:48
三十三、

(んっ?まさか、また賊か?いや違う。あの旗印は…「牛」?一体どこの軍だ?…あっ、後ろに「董」の旗印も…。そうか、これが董氏の軍団か…)
ともかく、味方には違いない。そう思うと、安心感と、疲労と、空腹とがあいまって、急に目眩がした。
「おい、どうした!しっかりせい!」
男の姿に気付いた兵達が駆け寄り、肩を貸した。
「かたじけない…」
「気にするな。ところでそなた、こんな所で何をしていたんだ?」
「実は…。賊に襲われたのです」
「なにっ!して、賊はいずこに?」
「ここから数里といったところです。私は、辛うじて賊から解放され、ここまで歩いてまいりました」
「そうか…。殿!この者、賊の隠れ家を存じておりますぞ!」
「なに!よし、しばし待て!」
(ん…殿?という事は、董氏が…)
董氏は巨躯の人と聞いていた。だが、彼の前に現われたのは、それとは異なる、中肉中背の青年であった。
「大変でしたな。ゆっくりお休みくだされ。私の名は、牛輔。字を伯扶と申します」
「はっ、はぁ…。私の名は、賈ク【言+羽】。字は文和と申します。…ところで、こちらの方々は董氏、董仲穎殿の軍団ではないのですか?『董』の旗印が見えた様な気がしたのですが」
「あぁ、董氏ですか。私は、董氏の娘婿なのです。義父から、しばしこの軍団を預かる事になりました」
「そうでしたか」
それなら、董氏の旗印があるのも当然か。一安心だ。

「文和!文和ではないか!」
賈ク【言+羽】の姿に気付いた張済がそう叫んだ。
「おお!張殿!お懐かしゅうございますなぁ!」
「なんだ、済よ。二人は知己であったのか」
「えぇ、彼は私と同郷ですからね。…そうそう、今度の新入りってのは、この者ですよ」
「えっ!そうだったのか?賊に捕まってたのなら、遅くなるわけだな」
「私が新入り、ですか?という事は…」
「なんだ、文和。聞いてなかったのか?この伯扶殿が、我らの長なのだぞ」
「そうなのですか?私は、帰郷したら董氏のもとを訪ねる様にとしか聞いていなかったのですが…。いつの間にその様な話に?」
「はははっ…」
「あっ!張殿!まさか!」
どうやら、張済が賈ク【言+羽】に無断で話を進めていたらしい。ただ、賈ク【言+羽】も特に嫌がってはいない様なので、たいした問題ではなさそうである。

同郷の知己の対面であるが、今は再開の喜びに浸っている場合ではない。いささか興を殺ぐ様ではあるが、聞かねばならぬ事がある。
牛輔は、二人の会話の切れ目をみて、口を開いた。
「まぁ、後でゆっくり話そうではないか。それより、そなた、賊の隠れ家を知っておるのだな」
「はい。そこからずっと西に向かって歩きましたから、おおよそは。ここより東に数里のところです」
「そなた以外の者は?」
「分かりません。賊は、私以外の者の安否については何も言いませんでしたし、解放されたのは私一人でしたから」
「そうか。それで、隠れ家の様子は?」
「今の時点では、守る事は考えておりますまい。見た限りでは、特に防備を固めているふうではありませんでした」
「賊の人数は?」
「私が見たのは三十人程度でした。まぁ、あれは主だった連中でしょうから、その数倍はいるかと…」
「そうか」

67 名前:左平(仮名):2003/07/27(日) 21:51
(ふむ。盈の報告はだいたい合っているな。こちらは千程度だから…勝つ事自体は、さほど難しくはない)
「女子供の姿は?」
「見てはおりません。とはいえ、賊がテイ【氏+_】族となると、家族の者もおるやも知れず、いないと断言する事もできません」

(ふむ…。そうなると、いささか考えねばならぬな)
賊に対しては、いささかも容赦するつもりはない。だが、いるかも知れない人質や女子供に危害が及ぶのは避けたいところである。敵の虚を衝き、速攻で片をつけねばならないのである。
(となると…。夜襲しかないか)
「者ども!馬に枚【ばい:声をあげない様にする為に口にくわえる木片】を銜【ふく】ませよ!」
それを聞いた将兵からは、戸惑いの声が挙がった。数でまさるこちらが、なにゆえ夜襲などせねばならぬのか。そういう不満感が見え隠れする。
「賊は、人質をとっておるやも知れぬのだぞ!そなた達は人質の安否が気にならぬのか!それに、敵は何の抵抗もできない者を襲うという卑劣な輩!堂々と戦う必要などない!」
今の牛輔では、義父・董卓の様にその威厳で将兵を押し切る事はできない。となれば、その意図を説明し、納得してもらうしかないのである。
「分かりました!」
李カク【イ+鶴−鳥】達がそう叫んだ事で、一応将兵の不満は納まった。
ただ、そうは言っても、心底ではまだ不満があろう。ここは、完璧な勝利を得る必要がある。
牛輔は、盈達に命じさらに偵察を進めさせ、賊の隠れ家の詳細を探った。

その夜。
かすかな星明りのもと、牛輔は、董卓と向き合っていた。敵に気付かれてはならないので、火は使えない。目の前にいるのに、どこか、幻に向かって語りかけている様な感じがする。
「明日の夜明け前に、奇襲をかけようと思います」
「そうか」
「これでよろしいでしょうか?」
「そなたが良いと思って決断を下したのであろう?わしがとやかく言う事はない」
「はい。ですが…」
「そうか。まだ自信がないのか。で、わしのお墨付きが欲しいと」
「…」
確かに、その通りではある。しかし、はい、そうなんですとはさすがに言いづらい。
「辛いか?だがな、長というものはそういうものだ。…まぁ、いずれ慣れる」
「そういうものでしょうか…」
「そういうものだ」

少し眠ろうとしたが、どうにも寝付けなかった。東の空が白む前に夜襲である。寝過ごすわけにはいかないと思ううち、いつしか、その時が来た。

68 名前:左平(仮名):2003/08/03(日) 21:53
三十四、

牛輔が目を開けた時、空一面に星が瞬いていた。まだ、真夜中である。だが、夜明け前に夜襲をかけるとなれば、決して早すぎるという事はない。
(よし、出撃だ!)
もう賊の隠れ家は近い。昨日から馬に枚を銜ませているくらいであるから、大声を出すわけにはいかない。細かく伝令を発し、小声で命令を発するさまは、傍目には滑稽に見えるが、やってる当人にとっては真剣そのものである。
「どうやら、指示は行き渡った様だな」
頃合いをみて旗幟を掲げると、それに応えて兵達が得物をすっと上げた。大声は出せないから、これが合図となる。いよいよ、攻撃開始の時が来た。

漆黒の中を、千余りの兵が黙々と進んだ。これほど気を遣う行軍も、そうはあるまい。もっとも、その行軍自体はすぐに終わった。賊の隠れ家のそばに着いたからである。
「あれが、賊の隠れ家か」
二、三百人はいるというが、はなから襲撃される事など考えてはいないのであろうか。一応の囲いくらいはあるが、これといった備えはしていない様だ。打ち破るのはたやすかろう。とはいえ、ぐるりと包囲するには、兵が足りない。兵法には「十(倍)なれば即ち之れを囲い、五(倍)なれば即ち之れを攻め〜」とあるから、四、五倍程度では包囲殲滅という手段はとれそうにない。
(さて、どうしたものか)
考える猶予は余りない。夜が明けてしまっては、せっかく夜襲を試みた意味がないからである。

(そうだ。先の戦いでは使えなかった火計、使ってみるか)
前回は義父に止められたが、今度の相手は、羌族ではなく、テイ【氏+_】族の単なる賊に過ぎない。彼らが相手なら、義父も、火計を咎めたりはすまい。また、風についても問題はない。やってみる価値は十分にあると言えよう。
「弩兵は東に回り込み、用意が整ったら、一斉に攻撃を開始せよ。そなた達の攻撃が、他の者達への合図になる。心してかかれ」
弩兵達は、無言でうなづいた。
「やつらに、たんまりと火矢を食らわしてやれ」
「火の手が挙がったら、騎兵は喚声を発しつつ、一気に駆けて敵を蹴散らせ」
「長兵は逃走を図る敵を突き倒し、短兵は人質や女子供がいないか探しつつ敵を斬れ」
軸となる戦術が決まれば、後の流れは決まる。指示を受けた兵達は、一斉に配置についた。
全ての配置が終わったのは、予定通り、夜が白む前の事であった。

「者ども、撃て−っ!」
合図とともに、一斉に火矢が放たれた。乾燥したこの地では、いったん可燃物に火がつくと、実に簡単に燃え広がるのである。火は、瞬く間にあたりを覆っていった。
にもかかわらず、賊の反応は鈍かった。自分達が襲われるとは思いもよらなかったし、東の方から明るくなった為、気付くのが遅れたという事もあった。ともあれ、この遅れが、致命傷となった。
「なっ、何だ?」
「かっ、火事だ!」
「なっ、なんでだ!?」
「うわっ!」
「どうした? ぐえっ!」
火の手が挙がると同時に突入してきた騎兵達により、賊はあっけなく倒されていった。ようやく落ち着きを取り戻し、反撃を試みようとするも、今度は続々と来る長兵に圧倒され、動きがとれない。
戦いとはいえないくらいの、一方的な展開である。
夜が明ける頃には、賊はほぼ壊滅していた。一方、こちらの犠牲は殆どない。文句無しの完勝である。
(ほう。伯扶め、なかなかやるではないか)
いかに兵力差があるとはいえ、この戦果は見事なものである。これには、董卓も十分に満足した。

69 名前:左平(仮名):2003/08/03(日) 21:58
「中の様子はどうなっておる」
「ただいま探っております」
攻撃がまだ続いている中、早くも戦後処理が始まった。むしろ、この方が重要だという雰囲気さえある。
「生存している人質がおれば、丁重に保護せよ。賊の妻子については、よほどの抵抗をする者を除き、なるべく生け捕りにするのだ。くれぐれも、余計な殺傷をするでないぞ。よいな」
「承知いたしました」
賊の妻子を殺さずにおくというのは、何も人道的な見地に立っての事ではない。内燃機関のないこの当時、人間の労働力は実に貴重なものであった。多くの人間を保持しているという事が、そのまま富の源泉となるのである。そう考えると、この指示は、至極当然の事であった。
また、その指示を受ける兵も、利害は一致している。辺境に暮らす男に嫁ぐ女は少ない。それゆえ、彼らは常に女に飢えている。彼らにとっては、ここは格好の嫁探しの場ともなるのである。

蛇足ながら−。この頃、隴西に馬平【字は子碩】という人物がいた。彼は官位を失った後、羌族の娘を娶ったという。家が貧しかったとの事なので、この兵達と似た様な事情があったのかも知れない。となれば、類似した環境にあったこの兵士の態度も当然のものであろう。
なお、彼と羌族の娘との間に産まれたのが、後に群雄の一人となる馬騰【字は寿成】。その子が、馬超【字は孟起】である。この馬氏は、後々董氏やその軍団と関わりを持つ事になる。

日が昇り、火の手が収まるのを待ち、本格的な捜索が行われた。だが、漢人の生存者も、テイ【氏+_】族の女子供も見当たらない。
「ちっ。やつら、ここには女子供は連れて来てなかったのか」
そんな声もあがる。
「まぁ、そんなに遠くではあるまい。こいつらが戻らないのを知れば、いずれ出てくるよ。その時に口説き落とせばよかろう」
「そりゃそうだが…」
「ここでものにしたところで、下手すりゃ一生『夫の仇』にされるかも知れんぞ。前向きに考えろや」
「はは。そうだな。…あっ!」
「どうした。あっ!」
二人が見つけたのは、明らかに漢人と思われる屍であった。それも、一人や二人ではない。賈ク【言+羽】と一緒に捕らえられた者達であろうか。

「殿!大変です!」
「どうした!」
「かっ…、漢人の屍です!それも、かなりの人数です」
「なにっ!…そうだ、文和を呼べ!身元を調べねばならぬ!」

70 名前:左平(仮名):2003/08/10(日) 21:09
三十五、

「お呼びでしょうか?」
食事をとり、一晩ゆっくり休んだ為、賈ク【言+羽】の血色は昨日に比べ格段に良い。だが、表情は固い。
「おお、文和か」
一呼吸おき、牛輔は言葉を続けた。
「実はな、漢人と思われる屍が見つかったのだ」
「えっ!と、いう事は…」
「そうだ。そなたと共に捕らえられた者達やも知れぬ。が、我らは彼らの顔も姓名も知らぬ。身元を確認できるのは、そなたしかおらぬのだ」
「そうなのですか…」
考えてはいたが、そうあって欲しくなかった事が、現実の事として眼前に現われたのである。二人とも、気は重かった。

「殿、こちらです」
「うむ」
牛輔と賈ク【言+羽】が着くと、既に屍は一箇所に集められ、安置されていた。体には目立った虐待の跡はなかったが、殆どの者の顔には、恐怖の色が残っていた。捕らえられた後、殺されたのは間違いない。
「文和、どうだ?」
「間違いございません。皆、私と共にケン【シ+幵】まで旅をした者達です」
「そうか。おい、これで全員か?」
「はい。この中にあった屍は、これが全てです」
「文和。他に、助かった者はおらぬのか?」
「…おりません。襲われた時に死ぬなり逃げるなりした者を除けば、ここにいる者が全てです」
「では、助かったのはそなた一人、か…」
暑いわけではないのに、賈ク【言+羽】の額から、汗が滲む。その後に続く言葉が何であるか、おおよその察しがつくからである。
(なぜ、そなた一人が助かったのか?)
(賊に命乞いでもしたか?)
(まさか、そなた、賊に通じていたのではなかろうな?)
むざむざ賊に捕まった上、その様な疑念にさいなまれるのか。そう思うと、やりきれない。こんな思いをするくらいなら、いっそここで死んだ方が良かったのであろうか。

「この者達の身元は分からぬか?」
「はっ?」
牛輔の言葉は、予想外のものであった。
「屍を丁重に葬ってやろう。それに、家族にこの事を伝えねばならぬしな」
「はぁ…。全員は分かりかねますが、何人かは…」
「よし。後の事はそなたに任せよう。人手が必要であろうから、何人か残しておく。頼むぞ」
「はっ…はい!」
「よし、者ども!引き上げるぞ!」
「おぅ!」
こうして、史書には記載されない一つの戦いが終わった。

「なぁ、伯扶よ」
帰途につこうとしたその時、董卓が不意に問うてきた。
「何でしょうか、義父上」
「なぜ、文和に問わなかったのだ?」
「は?何をですか?」

71 名前:左平(仮名):2003/08/10(日) 21:12
いったい、他に何を聞けというのであろうか。時々義父は、思いがけない問いを発する。
「分からんか。他の者達が全て殺されたというのに、どうして文和一人が助かったのか。そなた、不思議だとは思わんのか?」
「はぁ…」
確かに、そうだ。そう言われると、急に気になってくる。
「…その事には、全く思いが及んでおりませんでした」
ここで嘘をついたところで何にもならない。素直に認め、教えを乞うた方が自分の為である。

「そうか。気がつかなんだか」
「はい…。義父上に指摘されるまで、全く。我ながら、情けない事です」
「そう気にするな」
こうも素直に反省されると、怒る気にはならない。
「いかに万巻の書を読んだところで、最初から全ての物事を理解できるものではない。大切なのは、その成否を問わず、経験からいかに学ぶかという事だ。聖人ですら、初めから何もかも上手くいくものではないのだからな」
「はぁ…。そのお言葉、しかと心に留めます」
「実はな。そなたがその事に気付かなかったという一点を除けば、今回は言う事なしだったよ」
「まことですか!」
「あぁ。こんな事で嘘を言ってどうなる。兵の統制はとれていたし、賊を壊滅させ、なおかつこちらの犠牲は殆どなかった。完勝ではないか。将として十分過ぎるほどの働きだぞ」
「えぇ。ですが…」
「もっと早く攻撃を開始していれば、あの者達は死なずに済んだのではないか。そう考えておるのか?」
「はい」
「ふむ。そういう事も考えておったか。それでこそ我が娘婿よ」
「果たして、私の判断はこれで良かったのでしょうか?」
「良かったに決まっておろう!」
董卓は急に大声を出した。怒声というわけではなかったが、あたりは一瞬びくっとなった。

「将たる者が、自らの下した判断を顧みるのは良い。だがな、ひとたび決断したなら、わずかでも揺らいではならぬのだ。ましてや、今回のそなたの判断は実に見事なものであった。そんな時にまで思い悩んでどうするのだ!それでは身が保たんぞ!」
「…」
「そなたの判断は全く正しかったのだ。もっと自信を持て。…実はな。そなたと文和があの場を離れた後、わしも殺された者達の屍を確認したのだ」
「それで、何か分かったのですか?」
「屍をみたところ、死斑が浮き出ておった」
「死斑?」
「そうだ。死斑があったという事は、殺されてからしばらく経っておるという事だ。それに、屍は硬かったであろう?」
「確かに、関節等は動かせなかったですね」
「なぜかはよく分からんが、生き物は死ぬと硬くなる。その程度から、いつ死んだかという事がある程度分かるのだ。わしの見立てでは…少なくとも、昨日の朝までには殺されていたな」
「昨日の朝…」
「となれば、そなたが攻撃を急いだところで間に合わなかったというわけだ。文和にしても、気がついたのは昨日になってからだというしな。あれも、他の者達を救う事は不可能であったというわけだ」
「では…」
「そうだ。そなたにも文和にも、何もやましいところはない。将としては、何事にも疑いを持ってかかる必要はあるが、変に気を惑わせる様な問いを発する必要もない。ゆえに、そなたが文和に問わなかったというのは、正しかったのだ。よいな」
「はい!」
牛輔は、また一つ、何かを得た様な気がした。

72 名前:左平(仮名):2003/08/18(月) 00:01
三十六、

帰還後、董卓の転任と戦勝祝い、それに賈ク【言+羽】の歓迎を兼ねた宴が催された。

めでたい事が二つも三つも重なったのである。皆、上機嫌であった。ただ一人、歓迎される立場である賈ク【言+羽】を除いては。
(伯扶殿には何も言われなかった。しかし…)
人一倍鋭敏な感覚を持つ彼には、周囲の目というものがひどく気になり、素直に歓待を喜ぶという事はできなかったのである。
この涼州の地では、男は、知識よりも腕力が問われる。若くして孝廉に推挙されたという点は他の面々に比べまさっているものの、ろくに抵抗もできぬまま賊に捕われ、ほうぼうの体で解放されたなど、情けない事この上ない。この事は、生涯の負い目となるであろう。
(これから、俺はどうすれば良いのであろうか…)
漢朝に失望したとはいえ、確たる見通しがあって官を辞したというわけではない。しかし、中央とは縁を切った以上は、否応無く、この地で生きるしかないのである。
とはいえ、体も細く、非力である自分にいったい何ができるのであろうか。
(かつて閻氏【閻忠】は、俺の事を留侯【張良。漢高祖の謀臣】・献侯【陳平。同じく、漢高祖の謀臣】の如き奇才があるなどと言ってくれたが…どうなんだか)
今まで自分を支えてくれたこの言葉さえ、空しく感じられる。

「どうした、文和。酒が進んでおらんが。…そなた、ひょっとして下戸か?」
賈ク【言+羽】の様子に気付いた董卓が、そう尋ねた。
「えっ?文和が下戸? とんでもない。こいつ、飲もうと思えば相当飲めますぜ。…おい、なに遠慮してんだよ。今日の主役はおまえだぜ。しっかり飲めよ」
「あっ、ああ…」
「ささっ。ぐい−っと飲み干せよ」
張済にそう勧められ、賈ク【言+羽】は杯の酒をくっと飲み干した。いつもなら旨いと感じられるのであるが、一杯くらいでは、どうもそういう気にならない。
「おぉ。飲めるではないか。なら、もう一杯いけ」
「はぁ…では…」
勧められるまま、さらに何杯も何杯も酒をあおった。酔っ払って、せめて一時だけでも憂さを晴らしたかったのである。だが、酔いは感じたものの、いつもの様な心地良さは感じられない。
そんな彼の思いにはお構いなしに宴は盛り上がり、そして終わった。殆どの者が酔いつぶれ、ぐうぐういびきをかいて寝てしまった為、自動的にお開きになったのである。
賈ク【言+羽】も酔っ払い、横になった。だが、どうにも眠りが浅い。しばらく、夢うつつの中にいた。

(ん…。朝か…)
ふと薄目を開けると、もう日が昇り始めていた。まだ特に急ぐ用事もないとはいえ、ここは自宅ではない。そろそろ起きた方が良さそうである。
(起きるか…)
そう思い、起きようとして頭を上げると、軽い痛みが走った。まだ酔いが残っている様だ。
(参ったなぁ。ちと飲みすぎた)
心の中でそうぼやきつつ、ふらふらと起き上がった。
あたりを見ると、董卓も、李カク【イ+鶴−鳥】も郭レも、張済も、まだ寝入ったままだ。
(やれやれ。俺が一番早起きか)
董氏はともかく、自宅でもないのに、まったく呑気なもんだ。そう思いはするが、一方で、今の自分はどうかと省みると、偉そうに言う事もできない。
(ま、まだ早いし…もう少し横になるか)
そう思い、腰を下ろしたところで、ふっと気がついた。
(あれっ? 伯扶殿は?)
確かに、自分が横になるまでは董氏の横にいたのであるが、姿が見当たらない。それに、あたりも、昨晩に比べ幾分片付いている様な。

73 名前:左平(仮名):2003/08/18(月) 00:03
「おっ、文和。目が覚めたか」
後ろから、牛輔の声が聞こえた。ふと気付くと、あたりを家人達が忙しく動き回っている。どうやら宴の後片付けをしている様だ。
「こら。物音を立てるな。皆が目覚めてしまうであろう」
「へいっ!」
「大声も出すな」
「あっ、はい…」
「伯扶殿、お早いですね」
「まぁ、ここは我が屋敷だしな。主が客を気遣うのは当然の事だ。気にせずともよい。そなた、まだ寝ていてもいいのだぞ」
「いえ。せっかくですから…私も何か手伝いましょう」
「そうか。では、そちらの指示を頼もうか」
「はい」
他の者を起こしてはならないので、賈ク【言+羽】は小声で返事をした。

彼の指示は、なかなかのものであった。何年もつきあいがあるのかというくらい、家人の体格・性格などを的確に把握し、指図をする。
この事は、戦にも通じるであろう。
(ほう…。この男、他の三人とはちと毛色が違う様だな)
牛輔は、そんな賈ク【言+羽】に興味を覚えた。彼ほど痩せてはいないとはいえ、自分も、姜を娶り董卓の娘婿となるまでは、この様に非力な青年に過ぎなかったのだ。
そう思うと、どこか親近感さえ感じられる。

それは、賈ク【言+羽】も同じだった。自分に似て、非力そうに見えるこの人物が、どうして董氏の信頼を得ているのであろうか。単に娘婿だからというだけではない、何かがある。そう思えてならないのである。
(いい機会だ。このお方の人となりをじっくりと拝見しよう)
牛家の家人に指示を出しながら、そんな事を考えていた。

74 名前:左平(仮名):2003/08/24(日) 21:52
三十七、

もともとさして大規模な宴ではなかったから、しばらくするとあらかた片付いた。

その頃には、もう日もだいぶ高くなっていたから、眠りこけていた董卓、李カク【イ+鶴−鳥】、郭レ、張済も目を覚ましており、あたりの様子に気付いた。
「んっ? 何だ、ずいぶん片付いておるな」
「そうですね」
「俺達が眠っちまった時には、だいぶ散らかってたはずですけど」
「いつの間に?」
四人は、一様に首をかしげた。

「義父上、お目覚めですか」
「おぅ、伯扶。いつの間に片付けたのだ?」
「えっ?いけなかったですか?」
「いや、いかんという事はない。ただ、目が覚めたら片付いておるから不思議に思っただけだ」
「いつの間にって。義父上や皆の者が眠っている間にですよ」
「それは分かる。しかし、気付かなんだぞ。いったいどう片付けたのだ?」
「どうっておっしゃられても…。あぁ、そうそう、実は文和に手伝ってもらったんですよ」
「なに? 文和に?」
「はい。いや、あの者、なかなかやりますな。わが家人を実によくみて使っておりましたよ」
「ほぅ、そうなのか」
「えぇ。いかがなさいましたか?」
「うむ。ちょっとな」

「あれっ?皆様お目覚めですか?」
「おお、文和か。ちょっとこっちに来い」
「はい…」
一体、何であろうか。昨日合流したばかりで、叱責されたり称揚されたりする様な覚えもないが。
「そなた、急ぎの用はないか?」
「は? …昨日帰ったばかりですよ。そんな用事はありませんが…」
「なら話は早い。そなた、しばらくここに留まれ」
「?」
「分からんか。しばらくここに住み込めと言うておるのだ」
「はっ、はぁ…。私は構いませんが…。ただ、伯扶殿は…」
「義父上がそうおっしゃるのだ、私の方は構わんよ」
「…そうですか。分かりました」
軍団の長の命令である。否応のあろうはずもない。

翌日、董卓は任地に向かっていった。それと同時に、李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、それぞれの役目を与えられ、各部所に配置された。
ただ、賈ク【言+羽】のみはまだ無任所のままであった。
(義父上は、文和の配置については何もおっしゃらなかった…。これはどういう事なのであろうか…)
(私が見る限りでは、文和は使える。ただ、あの者の事は何も知らんからなぁ…。どうやってその才智のほどを量ればよいものか…)
自室で書を読みつつも、その事で頭が一杯になっていた。
(とにかく、じっくりと話をせねばな)
そう思っていた、その時である。

75 名前:左平(仮名):2003/08/24(日) 21:59
「殿。お話があるのですが」
気がつくと、賈ク【言+羽】が牛輔の前に座っていた。
「あれっ? そなた、いつの間に?」
「いつの間にって…。何度も咳払いを致しましたよ。それに、目も合ったではありませんか」
「そうだったか?」
さっぱり気付かなかった。考え事にすっかり気を取られていた様だ。
「それはすまんかったな。で、話とは何だ?」
「はい。実は、一つお願いがあるのです。いささか身勝手な願いではあるのですが…」
「構わん。話してくれ。ただし、辞めたいとかいうのは困るぞ」
「辞めるなど…。そんな事、つゆほども考えておりませんよ。実はですね…」
別にやましい話というわけでもないのに、なぜか彼の声は小さくなった。

「なにっ? 私と立ち合いたい?」
「はい」
「それは構わんが…なにゆえ私なのだ?立ち合うなら、他にいるではないか?家人では不満か?」
「いえ、家人の方々に不満がとかいうのではありません。ただ、どうしても殿と立ち合わせていただきたいのです」
「どうしても、か」
「はい」
「ふむ…」
牛輔は、自分の技量のほどはよく承知している。武術の腕前については、自分より上の者は掃いて捨てるほどいるからだ。となれば、家人では物足りないからというわけではない。
(いったい、何のつもりだ?)
少しいぶかしく思うが、賈ク【言+羽】のたっての望みである。彼の事を知る、よい機会ではないか。
「分かった。立ち合おう」
「ありがとうございます」
「で、いつ立ち合う?」
「殿のご都合がよろしければ、今すぐにでも」
「そうか。では、庭に出よう。誰かおるか!」
「はっ!殿、いかがなさいましたか」
「おお、盈か。適当な長さの棒を二本持ってきてくれ。文和と武術の立ち合いをする」
「はい」
「文和。棒を使うぞ。よいな」
「はい」

「殿。こんなものでよろしいでしょうか」
「おぉ、そうだな。それでよかろう」

76 名前:左平(仮名):2003/08/31(日) 20:14
三十八、

二人は、二丈(当時の一丈は約2,3m)ほど離れて向かい合った。
盈が持ってきた棒は、二本とも、おおよそ十尺(当時の一尺は約23p)ほどである。戟・戈など、当時の武器の大きさを考えると、もう少しくらい長くても良いのではあるが、これは実戦ではなく、あくまで立ち合いである。まあこんなものであろう。
実は、二人とも武術には疎い。その構え一つとっても、いっぱしの武人から見れば実に心もとない。傍目には、武術の立ち合いというより、何かの踊りみたいである。
だが、当の二人にとっては、真剣勝負であった。特に、自分から申し出た賈ク【言+羽】にとっては。この立ち合いは、彼には二つの意味があったのである。

一つは、自らの長である、牛輔という人物を知る事である。
(一見したところ、伯扶殿はさして腕が立つ様には見えない。この涼州という地にあっては、それは男としては致命的な欠陥であるはず。しかし、董氏には篤く信頼されている様だ。単に娘婿だからか?いや、それ以外の何かがある。そう思えてならぬ…)
それは、恐らく幾多の言葉を費やしても容易に分かる事ではあるまい。となれば、実際に体ごとぶつかって確かめるしかない。『彼れを知り己を知らば百戦して殆うからず』という。その『知る』という事は、何も敵に対してだけのものではない。
もう一つは、自らの中にあるもやもやを少しでも晴らす事である。
ろくに抵抗もできぬまま賊に捕らえられたというのは、いかにも情けなく、自分の力の無さをつくづく思い知らされる事であった。張済ならば、そういう時、賊を斬り血路を開く事ができたはず。それが、涼州の男というものであろう。
だが、眼前にいる牛輔はどうであろうか。部下の身でありながらこんな事を考えるのは甚だ失礼ではあろうが、『この方になら勝てるのではないか』。そう思える。ならば、この立ち合いで勝ち、少しでも憂さを晴らしておきたい。そうでもしないと、この先ずっと卑屈に生きるしか無い様に思えてならない。
そんな事を考えるほど、彼は、精神的に滅入っていたのである。

もちろん、そんな賈ク【言+羽】の胸中は、牛輔には知りようもない。ただ、受けて立つのみである。
「では!」
「おう、いつでもよいぞ!」
二人の声とともに、立ち合いが開始された。

「やぁ−っ!!」
賈ク【言+羽】は、足を踏み出すと同時に、棒を思いっきり持ち上げ、いわゆる上段の構えをとった。戈を振り下ろす要領である。頭に食らえば、相当の衝撃があるから、一撃で決着がつく。
「それ−っ!!」
全身の力を込めて振り下ろす。これが当たれば、自分の勝ちだ。
「おっとぉ!」
牛輔は、それをさっとかわした。彼の方は、まだ棒を振る態勢にさえ入っていなかった。よけるしかない。
(文和め、なかなか素早いな)
賈ク【言+羽】の攻撃をよけながらも、牛輔は感心していた。長身の割には、彼の動きは敏捷である。それは、他の面々と比べても決して劣ってはおらず、むしろ優っているくらいであろう。単なる文弱の徒というわけでもなさそうだ。さすがに、涼州の男である。
だが、その彼の攻撃を、自分はかわす事ができた。日頃の修練が、少しは効いたのであろうか。
「おりゃ−っ!!」
(おっと、感心してる場合じゃないな。こいつ、もう次の態勢に入っている)
棒を握る手に、思わず力が入る。自分だって、負けたくはない。
(さて、どう攻めたものか。棒を振る速さは、あいつの方が上だし…。ん!)
しばらく攻撃をかわしているうちに、ある事に気付いた。

77 名前:左平(仮名):2003/08/31(日) 20:15
(よし!勝てるぞ!)
しばらく様子を見ているうちに、武術における、賈ク【言+羽】の弱点が見えてきた。それは、彼が非力である事だ。
(棒を構え、振り下ろす態勢に入るまでは実に素早い。だが、非力ゆえ振り下ろすのは遅い。…なるほど、だから私でもよけられたのか)
よく見ると、袖口からちらりと見える彼の腕は細い。力を入れている為に浮き出ている血管等がなければ、女のそれと見紛うほどである。
(あの腕が義父上ほどであれば…。ただの棒でも、私の頭は砕かれていたかな)
まだ攻められっぱなしなのに、そんな事を考える余裕さえ出てきた。
(となれば、だ。あいつが棒を振り上げた時こそ勝機!)
そう思った牛輔は、棒を短く持ち直した。

「やぁ−っ!!」
再び、賈ク【言+羽】が振り下ろす構えに入った。
「今だ!!」
そう叫ぶとともに、牛輔は賈ク【言+羽】の懐に入り、その腕をしたたかに打った。
「ぐっ!!」
短いうめき声とともに、賈ク【言+羽】の手から棒が離れ、地面に落ちた。乾いた音がした。

「殿!お見事ですぞ!」
一部始終を見届けていた盈が声をかける。ともかく、長としての威厳は保たれたというところか。軽くうなづく牛輔の額には、汗が滲んでいた。
一方、賈ク【言+羽】は、うずくまったまま押し黙っていた。

78 名前:左平(仮名):2003/09/07(日) 23:32
三十九、

「…」
賈ク【言+羽】の顔は、心なしか蒼ざめていた。
「文和、どうした。腕を打たれたくらいでそんなに痛いか」
「いえ…痛いのは痛いですが、それは大した事ではございません…」
「ならば、そなたの顔が蒼ざめているのはなぜだ」
「…今は立ち合いでしたから腕が痛む程度で済みました…。しかし、これが戦であったなら…私ごときは、真っ先にやられていたでありましょう…。それを思うと…」
「真っ先にというのは言い過ぎであろう。そなたでそれなら私はどうなる?」
決して冗談ではない。少しでもうっかりしておれば、倒されていたのはこちらであったのだから。
「殿は私よりお強いではございませんか…。それに、将たるお方が真っ先に倒されるなどあり得ません…」
「そなた、何が言いたいのだ?」
「…これでは、お仕えしていても何の役にも立てますまい…。私ごとき…」
そんな、自嘲的な言葉まで出てくる有様である。
(このままではまずいな。こいつ、豊かな才智があるというのに、すっかりくさってしまっている。どうしたものだろうか…)
『この男は使える』。義父にそう言った以上、この有様ではこちらも困るのである。何とかしなければ。

(そうだ。文和には、賊に捕らえられたという負い目があるんだったな)
考えるうち、ふと、その事に気がついた。
(そうか。それで、立ち合いたいなどと言い出したのか。自分は決して弱くはないぞという事を示したいが為に…)
自分になら勝てると思ったのか。そう考えると少し不快ではあるが、まぁ、これは事実であるからおいておこう。それより、何と言えば良いのか。
(弱いはずの私が勝った以上、「そなたは弱くないぞ」とは言いにくいしな…)
いずれにせよ、何とかして励ますしかない。とはいえ、なまじ頭が切れるだけに、下手な励ましは禁物である。客観的な事実を挙げつつ、その才智を褒め上げてやろう。

「文和よ」
牛輔は、できるだけ重々しい声で語りかけた。よく義父が使うやり方である。
「はい」
その声調の変化に気付いたのか、賈ク【言+羽】の姿勢も少し改まった。少しはこちらの話に聞く耳を持った様だ。
「そなた、自分には何のとりえもないと思っておるのか?」
「私に何かあると?」
「そなた、私と立ち合っていて気付いた事はないのか?結果は結果として、そなたの全てが私に劣っていたというわけではないのだぞ」
「はぁ…」
「そなたの動作は実に機敏であった。…それは、勇将たる我が義父上にも劣らぬほどである」
「まことですか!」
信じられぬという様子であった。まぁ、無理もなかろう。だが、事実である。
「あぁ。私は間近で義父上の戦い振りを見たのだ。嘘ではないぞ。…ただし、そなたの腕は女と見紛うほどに細く、非力である。それで重い棒を振り回そうとしても、力負けするのがおちだ」
「確かに…。勝ちにこだわるあまり、いささか逸っておりましたな…」
「私がそなたに勝てたのは、この立ち合いが長く重い棒を使ったものだからだ。それ以外のものであればどうだったか。…そなたの頭であれば、勝つ方法くらいいくらでも考えつくであろう」
「そうでしょうか?」
「まぁ、今日明日にも戦があるというわけではない。ゆっくりと考えるとよかろう」
「はい。そうします」
しばし時間が経ったからであろうか。ようやく落ち着きを取り戻した様である。

79 名前:左平(仮名):2003/09/07(日) 23:32
数日後、賈ク【言+羽】の配属が決まった。
輜重(武器や食糧)の管理及び各種報告の整理作成というのが、彼に与えられた任務である。孝廉ともなれば、小難しい文書の扱いにはうってつけであろう。
「やはり、私はお役に立たんとおっしゃるのですか?」
その事を告げたとたん、賈ク【言+羽】はさっそく不満をもらした。先日の事をまだ引きずっている様だ。
「誰がそんな事を申した?私は、そなたが役に立たんなどとは言ってもないし、思ってもおらんぞ」
役立たずとみなした?牛輔にとっては心外である。自分は、賈ク【言+羽】の事を相当高く評価しているというのに、何が不満なのであろうか。
「誰も申してはおりませんが、そうではないのですか。役に立つ者であれば、どうして後方なぞに配置しましょうか?」
(そういう事か。非力ゆえに前線に出られない事が、かくも不満なのか)
何とかなだめるしかない。

「どうして後方配置が役に立たんなどと申す?そなた、いやしくも孝廉であろう。相国(蕭何。前出の張良と並ぶ漢建国の功臣)の事くらい知っておるであろう?」
「それは、まぁ…」
「相国の功績とはいかなるものであるか。申してみよ」
「相国は…高祖が項羽と戦っていた際、本拠の関中にあり…丞相として全ての政務をこなすと共に、漢の法制を定め…前線への補給を途絶えさせる事無く続け、兵達を飢えさせる事はなく…」
「そうだ。そして、高祖は相国の功を第一とした。輜重とは、かくも重要なものだ。それを任せるというのに、役に立たんなどという事はなかろう」
「はぁ…」
確かに、その通りである。
「それに、時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良いのだぞ」
「好きな様に、ですか?」
「あぁ。わが家人と立ち合いをするのもよいし、遠駆けをしてもよい」
「そっ、その様な…」
相国の故事を持ち出したり、空き時間を好きに使って良いなどとは、新入りの自分には過ぎた厚遇ではないか。そう思った。しかし、かくも自分の事を気遣ってくれるとは。何よりも、その事が嬉しかった。
「私は、そなたの才は相当なものと見ておる。しっかりと務めてくれよ」
「はい!」

こうして、軍団に一人の智嚢(知恵袋)が誕生した。とはいえ、それが明らかになるのは、後の事である。

80 名前:左平(仮名):2003/09/14(日) 22:19
四十、

それから数ヶ月が経った。
さすがに孝廉に推挙されたというだけの事はある。数人の属官を与えられ、輜重の管理及び各種報告の整理作成に励む賈ク【言+羽】の仕事ぶりは、並外れたものがあった。

「ふむふむ…」
しばし木簡に目を通したかと思うと、おもむろに筆をとり、何事かを書き込んでいく。内容を確認した旨の署名と、属官への指示である。
(この当時、印章というものは既に存在していた。ならば、押印一つで決裁となってもよさそうであるが、そうもいかない。印章はあっても、使用方法は現在とは異なるからである。当時、印章は文書の機密性を守る『封泥』を行う為に用いられていた。現在の様に、押印によって目を通した事・決裁した事を示すという性質を持つのは、紙が普及してからの事である)。
「よし!この件はここに記した様にせよ!次!」
「はい!こちらを!」
すぐさま属官が新たな木簡を差し出す。
「うむ。…むっ?ここに間違いが一箇所あるぞ。『二』ではなく『三』であろう。それに、文面にも問題があるぞ。やり直し!」
「は、はいっ!」
確かに書き間違いである。これには、反論のしようもない。
「ぐずぐずするな!明るいうちに全て終わらせるぞ!次!」
「はい!こ、こちらを!」
実にてきぱきとしたものである。遠目にも、山の様に積もった木簡の束が次々と片付いていくのが分かる。身分も時代も全く異なるが、その姿は、かつての始皇帝にも似たものがある(もちろん、属官達がその様な故事を知っているとは思えないが)。
その仕事振りは、何かに憑かれた様でもあった。

属官達も、うかうかとはしておれない。新たな上司である賈ク【言+羽】は、単に文面を見ているだけではなく、そこに書かれた数字の一つ一つに至るまで厳しく確認しているのである。
孝廉に推挙される基準は、その字面のとおり、「孝行」でありかつ「清廉」である事と言える。その基礎となるのは、言うまでもなく儒の教えである。しかし、彼はそれ以外の学問にも深く通じている様で、文言の誤りや細かい数字の矛盾点も的確に指摘する。そこに、ごまかしや馴れ合いの入る余地は一切ない。
「またえらい方が任に就かれたもんだ…」
皆、一様に驚き呆れた。この様な上官は初めてである。

董卓は、この様な事には概して鷹揚に構えていた。露骨な不正があれば厳しい処罰があったが、ささいな誤りについては、特に咎めるという事もなかったのである。今まではそれでよかったし、特に問題があったというわけでもない。
だが、塵も積もれば山となる、という。それらの累積の結果は、こうしてみると、存外ばかにならないものがあった。
(随分と無駄があったもんだな…)
賈ク【言+羽】の報告を聞きつつ、牛輔もまた、驚きを隠せなかった。と同時に、彼の様な優秀な人材を得られた事を大いに喜んだ。
とはいえ、彼もまた、賈ク【言+羽】の事をよく理解しているというわけではなかった。


地位こそあれど、どこか陰鬱としたものを感じずにはいられなかった都に比べ、ここは、雰囲気が良いし、与えられた仕事も悪くない。この環境には、おおむね満足している。
しかし、「あの事」は、今もまだ心に引っかかっている。それを解消するにはどうしたら良いのか。
(とにかく、この非力なのを何とかせねばな)
あの立ち合いから数ヶ月の間、賈ク【言+羽】はよく食べ、また、武術の修練に励んだ。少しでも肉をつけ、力をつけようと思ったのである。しかし、思う様には肉はつかない。
彼が痩身なのは、修練が足りないからではなく、そういう体質だったからなのである。
(これでは、どうやっても強くなれないではないか。俺は、ずっと弱いままなのか)
その事を改めて思い知った彼は、またしばし落ち込んだ。仕事振りは並外れていても、このあたりは、まだまだ二十代の若者である。

81 名前:左平(仮名):2003/09/14(日) 22:20
(あいつ、また落ち込んでるのか?)
牛輔も、その様子には薄々気付いてはいたが、声をかけるのはためらわれた。その原因は、だいたい見当がつくからである。
(もう少し、様子を見ないとな)
ただ、しばらくすると、どうやら落ち着きを取り戻した様に見えた。
落ち着きを取り戻したのであれば、それで良い。それ以上は気にとめる事もなかったのであるが…

「殿。ちょっと気になる事があるのですが」
そう言ってきたのは、今や牛輔の腹心とも言うべき存在になった盈である。
以前の、テイ【氏+_】族との戦いの時もそうであるが、彼は何をどうやっているのか、実に多くの情報を持って来る。しかも、その情報は実に有益なのである。いまだに自身の事を語らないのが少し引っかかるとはいえ、その態度は至ってまじめなものであり、咎めるべき誤りもない。
今回は、一体なんであろうか。気になるところである。
「おお、盈か。そなたが気になる事、とな?一体どういう事だ?」
「はい。実は、文和殿の事なのですが…」
「文和がどうかしたのか?」
「それがですね…」
盈の声が小さくなった。どうも、重要な話の様だ。

82 名前:左平(仮名):2003/09/21(日) 22:51
四十一、

「ん?文和がしょっちゅう遠駆けに出ているというのか?」
「はい。時には、帰りが翌朝になる事もあります」
「そうか」
「そうか、で済む事なのですか、これが。配下の一人が勝手に外出しているのですよ!」
普段は温厚な盈が、少し昂奮している様だ。確かに、監督不行き届きとみられてもおかしくはない事なのであるから、主を思えばこういう態度になるのも無理はない。
「良いのだ。私が『時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良い』と言ったのだからな。それに、文和は仕事をおろそかにしておるわけではなかろう?」
「それはそうなのですが…」
盈にしては、どうも、歯切れが悪い。
「何だ?まだ何かあるのか?」
「それならそれで、なぜ朝帰りなどなさるのかが引っかかるのですが…」
「そうか?外に惚れた女の一人でもいるのではないか?あいつも、私とは同年代だ。時に、女を抱きたくてならぬ事があるのだろう。そう気にするものでも…」
そう言いかけると、盈は、急に語気を強めた。
「衣服に異様な乱れがあってもですか!」

これには、少々驚いた。どうしたんだ、一体。
「異様な乱れ?一日中着続ければ衣服はおのずと乱れるではないか。それに、いったん脱いだりしてもやはり乱れるもの。何が異様だというのだ?」
「あれは、単に一日着続けたとか一度脱いだという程度の乱れではございません。そういう時の文和殿の衣服は、どう考えても、屋外で一晩を過ごしたとしか考え様のないほどに汚れておるのです」
「ふむ…」
なるほど、確かに異様ではある。女に逢うというのであれば、屋外に一晩中いるとは考えにくい。
(しかし、なにゆえに?)
そのあたりが、どうも分からない。ただ、放置しておけば、自分にとっても、周りにとっても、よろしからぬ影響を与えてしまいそうではある。
(ともかく、調べてみねばな…)
「分かった。今度文和が遠駆けに出た時には知らせてくれ。後をつけてみよう。…よいか、この事は、くれぐれも内密にな。よいな」
「はっ!」


数日後−。
「盈よ。文和の様子はどうだ?」
「はい。この何日かは、あまり出られませんし、出られても日没までには帰ってきておられます。朝帰りをなさるのは、だいたい旬日(十日間)に一回程度ですから…今日、明日にもそうなさるのではないかと思われます」
「そうか。では盈よ。馬を用意しておいてくれ。私も遠駆けするとしよう」
「はっ」
そう言い渡すと、牛輔は外出の支度を始めた。ここのところ、賈ク【言+羽】と共にずっと文書の処理に追われていたから、久しぶりの外出である。

83 名前:左平(仮名):2003/09/21(日) 22:54
「姜。ちょっと出かけてくるよ」
「はい。どちらへお出かけですか?」
「どことも言えんのだ。私にもよく分からんのだから」
さらりとそう言ったのが、かえって彼女の癇に障った様である。
「分からないって、あなたご自身の事ですよ。…まさか!わたしに言えない様な所じゃないでしょうね!」
蓋を産んでからというもの、姜もそれなりに母親らしい落ち着きを持ちつつある。とはいえ、こういうところは、まだまだ嫁いできた当時のままだ。普段はそれが愛嬌なのであるが、この時ばかりはちょっとやりにくい。
「違うって。ぶらりと出てくるだけだからどこに行くか分からないって事だよ。日没までには帰るし、そなたが勘繰る様な所へは行かぬ。誓ってもよい」
「本当ですね?」
「ああ」
「約束ですよっ」
「ああ。分かったからそんなにうらめしい顔をしないでくれよ」
(まさか、文和の様子を探ってくるなんて言えんしなぁ…)
いくら妻とはいえ、話せない事もある。
幸い、姜はそのあたりのわきまえは持っている様なので、その点は一安心なのではあるが…。変にやきもちを焼かれるとちょっと後が怖いので、事後処理はきちんとしておかねばならない。
(文和の様子はどうあれ、今日は日没までには帰らんとな…。あと、今夜はたっぷりと相手してやらんと…)
そんな事を考えると、妙に気恥ずかしくなる。何を考えてるんだ、一体。これは遊びではないというのに。

「殿。文和殿が出られましたぞ」
盈が密かに報告してくる。盈の真剣な様子を見ると、ふっと気が引き締まった。
「うむ。で、どちらに向かった?」
「西の方に」
「西の方か…。ここより西となると…。どこぞの邑に寄るというわけでもなさそうだな…」
「そうなのです。邑に寄るというのでしたら、誰かに会うとも考えられるのですが…」
「ふむ。確かに気になるな。これは、私一人では難しいやも知れぬな。盈よ。そなた、ついて来てはくれぬか?」
「えっ?私がですか?」
「そうだ。そなたとなら、文和を見失ったり道に迷ったり事もあるまい。それに、武術の腕もありそうだしな」
「まぁ…できるだけの事はいたしますが…」
「なら、話は早い。そなたも馬を用意しろ」
「はい」
盈も、外出の支度を始めた。彼の支度はすぐに終わり、二人はそれぞれの馬に乗った。

84 名前:左平(仮名):2003/09/28(日) 22:12
四十二、

門が開いた。ほぼ同時に、全速で二騎が駆け抜けていった。牛輔と盈である。
「殿!どちらへ!」
あまりの急ぎ様をみた門番が、思わずそう呼びかける。何か重大な事があったのだろうか。そう思うのも無理はない。
「どことは言えんが、日没までには帰る!私が帰るのを待っておれよ!」
「はっ、はいっ!」

砂塵を立てつつ、二騎は平原を駆ける。
「文和は西に向かったのであったな!」
「はいっ!まだ出られたばかりですから、十分に追いつけるはずです!」
「うむ!向こうに気づかれてはならぬのであるが、何か手はないか!」
「ございません!」
ともに馬上にあるせいか、二人ともやけに声が大きくなる。それにしても、「(手が)ございません!」とこうもあっさりと言い切る事もなかろうに。
「…おい、それはまずいだろうが」
思わず興奮から醒めた牛輔は、そう言うと馬を停めた。慌てて盈も馬を停める。
「まぁ、そうなのですが…このだだっ広い平原を行くのですよ。隠れ様もありませんよ」
「うぅむ…そこなんだよな…」
先ほどまでの全力疾走から一変、二人はしばしその場にたたずんでいた。

「…まぁ、何だ」
しばらくの沈黙の後、牛輔はおもむろに口を開いた。
「何も今日でなくてはならんというものでもないのだしな…。盈よ」
「はい」
「文和が何をしているのかは探らねばならぬが、焦る事はなかろう?」
「そうですね。私も、何ら確証をつかんでおりませんし…」
「それに、余りぴりぴりしてると、文和に見つかった際に、かえって怪しまれてしまう」
「確かに」
「…そうだ。今日は、私が自身の気晴らしの為に遠駆けをしているという事にしよう。それで文和に会ったら会ったでよし。会わないなら会わない時だ。盈よ。そなたも、今日一日は務めを忘れて楽しむがよい」
「はい。では、お言葉に甘えて」
「よし、決まりだ。思いっきり駆けようではないか」
「はい!」
「よ−し、いくぞ−」
二騎は、再び猛烈に駆け始めた。馬術自体は盈の方が上回っているが、競争しているわけではないので、ほぼ併走の状態である。

(こんな風に、何も考えずにただ駆ける事って、そんなにないな…)
ふっとそんな事を思った。牛氏の嫡男として、また董氏の軍団の幹部として、常に責任ある立場にいる彼にとっては、珍しいひとときであるには違いない。
心身とも、すこぶる爽快であった。体にあたる風が、滑らかで心地よい。
しばらく駆けていると、林が見えてきた。このあたりに林があるという事は、地下水が湧き出ているのであろう。となれば、泉の一つもあるのではないか。少し喉の渇きを覚えたところである。ちょうど良い。
「盈よ。あの林で一休みしようではないか」
「そうですね。そうしましょう」

328KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50 read.htmlに切り替える

名前: E-mail(省略可)

img0ch(CGI)/3.1